鈴鹿御前

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歌川国芳画『東海道五十三対 土山』 左より鈴鹿山の鬼神、鈴鹿御前、坂上田村麻呂

鈴鹿御前(すずかごぜん)は、伊勢国近江国の境にある鈴鹿山に住んでいたと伝わる伝承上の女性。その正体は女盗賊女神天女第六天魔王の娘と伝承により様々である。文献によっては、立烏帽子(たてえぼし)、鈴鹿権現鈴鹿姫などとも記されている。室町時代以降の伝承はそのほとんどが坂上田村麻呂伝説に関連し、坂上田村麻呂と結婚して子宝にも恵まれる。

歴史[編集]

伊勢国と近江国の境にある鈴鹿峠では、盗賊が横行し、鬼の棲家とされた。往来する旅人や物資を目当てにした盗賊が跳梁跋扈したことが説話等に記されている。特に伊勢国は水銀の名産地であり、『今昔物語集[注 1]では水銀商人80余人が盗賊に襲われているが、恩を施していた蜂が飛んできて盗賊を刺したおかげで難を逃れたなども記される。他に藤原千方の四鬼説話なども伝わっている。一方で鈴鹿の地には斎王群行の途中に設けられた頓宮[注 2]もあり、豊かな水に恵まれていたことから斎宮を行う鈴鹿禊の聖地であり、後に巫覡の徒が祓えをおこなう神聖な地でもあった[1][2]

治承3年(1197年)頃に成立した『宝物集』には奈良坂の金つぶてと共に「スゝカ山ノ タチエホウシ」と鈴鹿山の立烏帽子の名前が見られる。鎌倉時代初期、承久の乱1221年)前後に成立したと見られる『保元物語』「白河殿へ義朝夜討ちに寄せらるる事」では、伊賀の武士・山田是行の祖父行秀が立烏帽子を捕縛したとされる[3][4]建長6年(1254年)に成立した『古今著聞集』巻十二では、「昔こそ鈴香山(鈴鹿山)の女盗人とて言ひ伝へたるに」との記述が見られるが、この女盗賊が立烏帽子を示すものか定かでない。『弘長元年(1261年)公卿勅使記』では、鈴鹿山のうち凶徒の立つところとして西山口を挙げ、「昔立烏帽子在所ノ辺也。件ノ立烏帽子崇神社者、鈴鹿姫坐。路頭之北辺也」と注す[5]。ここでは盗賊の名が立烏帽子であり、鈴鹿姫はその崇敬した社の女神として現れる。そして立烏帽子を女性とする描写も、鎌倉時代の文献にははっきりとした形では残っていない[4][6]

南北朝時代以後、鈴鹿山の麓にある坂下では伊勢参宮の盛行を受けて宿場が整備され、往来の増加する中で、旅人を守護する存在として鈴鹿姫=立烏帽子が認識されるようになっていく[注 3]。この盗賊立烏帽子と鈴鹿姫が同一視され、坂上田村麻呂の英雄譚に組み込まれるのは室町時代に入ってからと考えられる[7]14世紀に成立する『太平記』巻三十二においては鬼切の伝来について坂上田村麻呂が鈴鹿御前と剣合わせをしたという記述に見られる[8]応永25年(1418年)の足利義持の伊勢参宮に随行した花山院長親の著になる『耕雲紀行』では、当時の鈴鹿山の様子が記されている。「その昔勇力を誇った鈴鹿姫が国を煩わし、田村丸によって討伐されたが、そのさい身に着けていた立烏帽子を山に投げ上げた。これが石となって残り、今では麓に社を建て巫女が祀るという」と見える[9][注 4][4]

文明18年(1486年)に記された『壬生家文書』の「坂上田村麻呂伝勘文」の田村すずゞかの物語の勘文から、この頃にはお伽草子『鈴鹿の草子』が成立していたことがわかる。また、『鈴鹿の草子』の別伝ともされるお伽草子『立烏帽子』によれば「立烏帽子は近江国鈴鹿山の池中の三島(蓬莱・方丈・瀛州)に御殿を造って住む女盗賊で、悪鬼悪黒王の妻であったが、討伐に来た田村の五郎利成と矢文を交わして計略により悪黒王を討たせ、田村とめでたく結ばれた」という梗概である[10][11]

鈴鹿姫信仰[編集]

鈴鹿御前は鈴鹿姫や鈴鹿権現、鈴鹿大明神(鈴鹿明神)などとして信仰されている。

奈良絵本『すずか』には、鈴鹿の立烏帽子は鈴鹿の権現と言われ、東海道守護神となって往来の旅人の身に代わって守り、この道を行く人はその身の災難を免れるという一文がある。付近では祭祀用の小皿も多く出土していることから、鈴鹿峠を往来する旅人によって旅の安全を祈願して手向けられた峠神祭祀の遺跡と推定され、道祖神の性格を持っていたことが窺える。また、京都祇園祭山鉾のひとつ「鈴鹿山」は、鈴鹿権現(瀬織津姫尊)を祀り、金の烏帽子大長刀を持つ女人の姿であらわしている[12][13][14]

鈴鹿峠の鏡石(鏡岩)は磐座として、丹波の境に位置する愛宕山勝軍地蔵菩薩同様に、田村将軍を祀ることで将軍塚(将軍地蔵)とみなし、同様に鈴鹿権現と一対になった塞の神信仰が古くから存在していた。この信仰が後に坂上田村麻呂伝説としてお伽草子『鈴鹿の草子』『立烏帽子』や奥浄瑠璃『田村三代記』で田村丸と鈴鹿御前を夫婦とし、共に大嶽丸など鬼神退治の物語が誕生したと考えられる[13]

鈴鹿姫への信仰は江戸時代まで続き、延享3年(1746年)の明細帳(徳川林政史研究所蔵)では坂下宿の氏神を鈴鹿大明神とし[15]、幕府代官や伊勢亀山藩主の寄進を受けている[16]。当時さまざまな説が流布していたらしく、万治2年(1659年)ごろの成立とされる『東海道名所記』では、鈴鹿御前が「天せう太神(天照大神)の御母」と言いならわされていたことを記している[17]。『伊勢参宮名所図会』の「鈴鹿山」には、鈴鹿峠の鏡岩を挟んで伊勢側に鈴鹿神社[注 5]が、近江側に田村明神[注 6]が描かれ、「鈴鹿神社には片山神社、縣主の神社といった別名があった」と解説文に書かれている[6]

伝説の概要[編集]

現在一般に流布する鈴鹿御前の伝説は、その多くを室町時代後期に成立した『鈴鹿の草子』『田村の草子』や、江戸時代に東北地方で盛んであった奥浄瑠璃『田村三代記』の諸本に負っている。写本刊本はそれぞれに本文に異同が見られ、鈴鹿御前の位置づけも異なる。諸本は大別すると2種類あり、鈴鹿御前と田村丸が戦いを経て結婚し共に鬼退治をしたとする「鈴鹿系」(古写本系)と、それを田村丸の元に天下った鈴鹿御前と結婚し共に鬼退治をしたとする「田村系」(流布本系)に分かれたとされる。ただこの分類法には異論・慎重論もある。

鈴鹿系(古写本系)[編集]

室町時代後期の古写本[18]では、鈴鹿御前は都への年貢・御物を奪い取る盗賊として登場し、田村の将軍俊宗[注 7]が討伐を命じられる。ところが2人は夫婦仲になってしまい、娘まで儲ける。紆余曲折を経るが、俊宗の武勇と鈴鹿御前の神通力 によって悪事の高丸や大嶽丸といった鬼神は退治され、鈴鹿は天命により25歳で死ぬものの、俊宗が冥土へ乗り込んで奪い返し、2人は幸せに暮らす、というのが大筋である。鈴鹿山中にある金銀で飾られた御殿に住む、16~18歳の美貌の天人とされる。十二単に袴を踏みしだく優美な女房姿だが、田村の将軍俊宗が剣を投げるや少しもあわてず、立烏帽子を目深に被り鎧を着けた姿に変化し、厳物造りの太刀をぬいて投げ合わせる武勇の持ち主である。俊宗を相手に剣合わせして一歩も引かず、御所を守る十万余騎の官兵に誰何もさせずに通り抜ける神通力、さらには大とうれん・しょうとうれん・けんみょうれんの三振りの宝剣を操り、「あくじのたか丸」や「大たけ」の討伐でも俊宗を導くなど、田村将軍をしのぐ存在感を示す[注 8]。また、情と勅命との板挟みとなった俊宗の裏切りに、その立場を思いやりあえて犠牲になることを決意したり、娘の小りんに対して細やかな愛情を見せるなど、情愛の深い献身的な女性として描写されている。

田村系(流布本系)[編集]

いっぽう流布本『田村の草子』の祖本となる寛永ごろの古活字本[19]では、鈴鹿山で往来を妨げたのは鬼神大たけ丸となっており、鈴鹿御前は山麓に住む天女とされる。立烏帽子の盗賊・武装のイメージは薄れ、烏帽子は着けず、玉の簪をさし水干に緋袴という出で立ちである。鈴鹿御前は俊宗と契りを交わし、言い寄る大たけ丸から大とうれん・小とうれんの剣 を騙し取ってその討伐に力を貸す。

奥浄瑠璃版[編集]

御伽草子『鈴鹿の草子』、室町時代物語『田村の草子』、古浄瑠璃『坂上田村丸誕生記』などと同じ系統に属する奥浄瑠璃『田村三代記』にも登場する[20]。ただし『鈴鹿の草子』に見られる登場人物の微妙な心理や葛藤の描写は省かれ、鬼神退治の活劇を主とする内容となっている[21]

鈴鹿御前の名は最初は「立烏帽子」と呼ばれる天竺より鈴鹿山に降臨した第六天魔王の娘とするが[22]、田村将軍との婚姻後は「鈴鹿御前」と呼ばれる[23]。日本を魔国とするための同盟者を求めて奥州大嶽丸に求婚するが返事はなく、やがて田村将軍と夫婦となる[1]。その後、共に高丸や大嶽丸を退治する話は概ね共通している[24]。運命により25歳で田村将軍と娘に三明の剣を託して亡くなるも、田村将軍が閻魔大王へ訴えて生き返った[25]。103歳で大往生を遂げた鈴鹿御前の遺体は白蛇が迎えに来て紫雲と共に運ばれて鈴鹿山にて清瀧権現として現れた[26]

物語の影響[編集]

鈴鹿御前=立烏帽子にまつわる物語は、その舞台となった土地に浸透し、鈴鹿山周辺の鏡岩・旧田村社・片山神社・土山の田村神社などの伝承に足跡を残し[27]、また東北地方においても『田村三代記』の影響を受けて各地の社寺縁起や本地譚に取り入れられた[28]

人物[編集]

屋形[編集]

鈴鹿御前は、百間構えの屋形に住んでいという。

奥浄瑠璃『田村三代記』では、表の庭に清水を流し、五色の山池の渚には黄赤白の花が咲き乱れ、池の上には金剛瑠璃の橋が架かり、擬宝珠高欄に銀の歩みの板を渡している。奥には十二の門が立ち、金銀の砂が敷かれた庭を歩けばりんりんからりんと音が響く。屋形は七宝の柱巻、桁、梁に至るまで金銀が鏤められ、雲間縁や高麗縁の畳が敷かれている。床違棚には金銀の香炉、欄射や浮舟の名香の煙が立ち上ぼり、格天井に横打ち返され、その光景は極楽世界のようである[29][30]

奥の部屋は、東には春霞たなびく花盛り、鶯は軒端の梅に羽を休め、妙の一字を囀ずる春の季節が描かれている。南には卯の花や牡丹・芍薬が咲き、池の小鳥や橋の下にはうつぼ舟や釣の船が朱や錦の糸にて繋がれている夏の季節が、西には誰れ松虫や鈴虫が声優しくも音信れて淋しさ勝る秋の暮が描かれている。北には積もれる雪に白兎の物欲しげにすくみたる冬の季節が描かれ、部屋は四季の光景に飾られている[29][30]

遥か向こうには十二単衣の装束に紅の袴を着た鈴鹿御前が、瑠璃の卓に寄り掛かって学問をしている。纐纈の袋に琴を入れて右手に置き、三振りの剣を左手に飾って置いている[29][30]

三明の剣[編集]

鈴鹿御前は、三明の剣(さんみょうのけん)と呼ばれる三振りの剣を所有している[1]

御伽草子『鈴鹿の草子』では、大通連は三尺一寸の厳物造りの太刀である。鬼神を討ち果たしたのち天命を悟った鈴鹿御前は、大とうれん・小とうれんを俊宗に贈り、けんみょうれんを娘小りんに遺したとある[注 9]

室町時代物語『田村の草子』には「大通連・小通連、二つの劍を抜き出して、そもそも此劍と申は、天竺真方國にて、阿修羅王、日本の佛法盛ん也、急ぎまだうに引入よとの御使ひに、某眷族共をくして參る時、此三つの劍を給はる事、後代までの面目」と記述があり、阿修羅から大嶽丸に「大通連(大とうれん)」「小通連(小とうれん)」「顕明連(けんみょうれん)」の三振りが贈られたのち、鈴鹿御前の手に渡ったという。

奥浄瑠璃『田村三代記』では、大通連と小通連は文殊師理菩薩に打たせた通力自在の名剣とされる[31]。田村将軍が素早の剣を投げると立烏帽子は大通連を投げ返し、2振りが中空で渡り合い、素早丸が鳥となると大通連は鷹となって追い、素早丸が火焔となって吹きかかると大通連は水となって消した[32]。顕明連は、近江の水海の尾より取りし剣で、別名を双無き剣とも水海剣ともいう[31]。朝日に向かって虚空を三度振れば三千大千世界を目の前に見て通すことが出来るという[33]

また『田村三代記』の末尾には屋代本『平家物語』や『源平盛衰記』の「剱の巻」に相当する部分が挿入される[31]。古態を残す渡辺本『田村三代記』の「つるぎ譚」によると、鈴鹿御前の形見として田村に託された大通連・小通連が田村に暇乞いをして天に登り、3つの黒金となったものを箱根の小鍛冶に打たせたものがあざ丸しし丸友切丸の3つの剣であり、そはやの剱は毘沙門堂に納め置いた。古年刀[注 10]である友切丸は八幡殿に申し下ろして源氏の宝となる[31][34]

地方伝説[編集]

岩手県[編集]

遠野三山[編集]

岩手県遠野では、坂上田村麻呂が東征の時に奥州に国津神の後胤という「玉山立烏帽子姫」という女神がおり、姫のその美貌から酋長大岳丸に言い寄られるも応じることはなかった。田村麻呂は勅使を奉じて東北の地に下だり、立烏帽子姫の案内により蝦夷を討伐し、頭領である大岳丸を岩手山で討ち取った。立烏帽子姫は田村麻呂と夫婦の契りを結び田村義道松林姫の一男一女を産んだ。義道は奥州安倍氏の祖であり、松林姫はお石、お六、お初の三女を産んだ。お石は守護神である速佐須良姫御霊代を奉じ石上山に登った。お六は速秋津比売の御霊代を奉じ六角牛に登った。お初は瀬織津比咩を奉じ早池峯に登ったという[35]

秋田県[編集]

天明5年(1785年)湯沢に滞在した菅江真澄が土地の老人から聞いた話では、松岡の切畑山(現秋田県湯沢市内)にあくる王という鬼がおり、その妻「立烏帽子」は鬼の術で夜ごと鈴鹿山から通っていたが、夫婦ともに田村利仁に斬られたという[36]

三重県・和歌山県[編集]

紀伊半島南部に位置する熊野では『紀州熊野大泊観音堂略縁起』に「鬼神魔王が蜂起して日本で人々を殺害し困らせたため、平城天皇が坂上田村麻呂に鎮定を命じた。田村麻呂は伊勢鈴鹿から出陣して凶徒を退治するものの、討ち漏らしたものたちが熊野へ逃げて深山幽谷に身を隠した。八鬼山、九鬼、三木などで敵を討つものの鬼王はしぶとく逃れて、行方がわからなくなった。田村麻呂は高山に登って「立烏帽子」を心に念じ一心に祈ると、雲の中で天女が南の海辺の岩屋(鬼ヶ城)に悪鬼(金平鹿)が隠れていると告げて消えた」と田村麻呂の手助けをしている[37]

京都府[編集]

京都祇園祭山鉾のひとつ「鈴鹿山」は、鈴鹿御前が「悪摩」、或いは鈴鹿山の鬼「立ゑぼし」を退治した伝承に基づくという[38]

鈴鹿御前が登場する作品[編集]

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漫画[編集]

コンピュータゲーム[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 『今昔物語集』第二十九ノ三十六
  2. ^ 片山神社 (亀山市)境内に比定されている。
  3. ^ 奈良絵本『すずか』に「すゝかのたてゑほしは、すゝかのこんけん(権現)といはゝれて、とうかいたう(東海道)のしゆこ(守護)神となり、ゆきゝのたひ(旅)人の身にかはりてまもり給ふ」との記述がある。小林幸夫「大蛇の裔・田村将軍」(『在地伝承の世界【東日本】』三弥井書店、1999年)
  4. ^ 鈴鹿峠付近に、三重県指定の天然記念物「鈴鹿山の鏡岩(鏡肌)」がある。また、応永31年(1424年)の『室町殿伊勢参宮記』にも、「鈴鹿姫と申す小社の前に、人々祓などし侍るなれば、しばし立よりて、心の中の法楽ばかりに、彼たてえぼしの名石の根元もふしぎにおぼえ侍て、すずかひめおもき罪をばあらためてかたみの石も神となるめり」とある。
  5. ^ 片山神社 (亀山市)に合祀された。
  6. ^ 田村神社 (甲賀市)とは異なる神社。片山神社 (亀山市)に合祀された。
  7. ^ 田村の将軍の名は、物語によって俊宗・利仁・利成などとされ一定しない。
  8. ^ 『鈴鹿の草子』の末尾は、「しゆしやうさいと(衆生済度)の、御はうべん(方便)、なりければ、すゝかをしん(信)せん人は、かならす、しよくわん(所願)、しやうしゆ(成就)、したまふへし もしすゝか、御い(居)り候わすは、日本は、おにのせかいとなるへし、この事、よく/\、御きゝ候て、すゝかへ、御まいり、有へく候、あなかしこ/\」と締めくくられる。これは『鈴鹿の草子』のうち、鈴鹿御前の登場する後半部分が、元は鈴鹿社の縁起談であった事を示している。『耕雲紀行』に記された巫女の存在を併せると、室町期の鈴鹿の巫女による唱導が窺える。
  9. ^ 『田村三代記』では、大通連・小通連を内裏へ納め、剣明剣を娘正林に遺したとする。『田村の草子』では、この三剣は天竺「まかた国」の阿修羅王が鬼神大たけ丸に与えたものとする。いずれも大とうれんを文殊の剣とする所は同様である。
  10. ^ 古年刀とは源家重代の太刀を指す

出典[編集]

  1. ^ a b c 阿部 2004, p. 28.
  2. ^ 阿部 2004, pp. 88-89.
  3. ^ 坂詰力治大村達郎関明子池原陽斉編『半井本 保元物語 本文・校異・訓釈編』(笠間書院、2010年)
  4. ^ a b c 阿部 2004, pp. 90-91.
  5. ^ 『公卿勅使記』(『神道大系 神宮編3』)
  6. ^ a b 桐村 2012, pp. 117-121.
  7. ^ IT版『亀山市史』通史編第4章
  8. ^ 『太平記』巻第三十二「直冬上洛事付鬼丸事鬼切事」
  9. ^ 『耕雲紀行』(『神宮参拝記大成 大神宮叢書』臨川書店、1971年)
  10. ^ 徳田和夫『お伽草子事典』(東京堂出版、2002年)「立烏帽子」の項。『立烏帽子』は能『田村』から発展したものか、『鈴鹿の草子』の別伝として独立したものか定かではない
  11. ^ 阿部 2004, pp. 71-72.
  12. ^ 宝暦7年(1757年)刊「祇園会細記」(真弓常忠編『祇園信仰事典』戎光祥出版、2002年)
  13. ^ a b 阿部 2004, pp. 91-92.
  14. ^ 鈴鹿山”. 祇園祭山鉾連合会. 2018年5月10日閲覧。
  15. ^ 下中邦彦『三重県の地名 日本歴史地名大系24』(平凡社、1983年)「坂下村」の項。
  16. ^ 「九九五集」篠山資友社領寄進状写・松平清匡神領寄進状写(『三重県史』資料編近世1)
  17. ^ 浅井了意『東海道名所記』(富士昭雄校訂代表『東海道名所記/東海道分間絵図』国書刊行会〈叢書江戸文庫〉、2002年)
  18. ^ 「鈴鹿の草子」(『室町時代物語大成 第7』)、「田村の草子(仮題)」(『室町時代物語大成 補遺2』)
  19. ^ 「田村の草子」(『室町時代物語大成 第9』)
  20. ^ 阿部 2004, p. 9.
  21. ^ 『田村三代記』(『仙台叢書 第12巻』)
  22. ^ 阿部 2004, p. 293.
  23. ^ 阿部 2004, p. 297.
  24. ^ 阿部 2004, pp. 30-33.
  25. ^ 阿部 2004, pp. 34-35.
  26. ^ 阿部 2004, p. 36.
  27. ^ 大川吉崇『鈴鹿山系の伝承と歴史』(新人物往来社、1979年)
  28. ^ 阿部幹男『東北の田村語り』(三弥井書店、2004年)
  29. ^ a b c 阿部 2004.
  30. ^ a b c 阿部 2004, pp. 293-295.
  31. ^ a b c d 阿部 2004, pp. 180-181.
  32. ^ 阿部 2004, p. 27.
  33. ^ 阿部 2004, p. 304.
  34. ^ 阿部 2004, pp. 318-319.
  35. ^ 佐々木喜善『佐々木喜善全集 III』(遠野市立博物館、1992年)222項。
  36. ^ 「小野のふるさと」(『菅江真澄全集 1』未来社、1976年)
  37. ^ 桐村 2012, pp. 12-16.
  38. ^ 宝暦7年(1757年)刊「祇園会細記」(真弓常忠編『祇園信仰事典』戎光祥出版、2002年)

参考文献[編集]

関連項目[編集]

  • 鈴鹿流 - 薙刀術の流派。片山神社の鳥居横に「鈴鹿流薙刀術発祥之地」と彫られた石碑が建つ[1]

外部リンク[編集]

  • ^ 児玉幸多監修『東海道五十三次を歩く〈5〉四日市~鈴鹿峠琵琶湖~三条大橋 』(講談社、1999年)