鈴鹿関
| 鈴鹿関 | |
|---|---|
鈴鹿関跡 西辺築地塀北端部 第1次調査地(奥のシート箇所)付近。 | |
| 種類 | 古代関所 |
| 所在地 | 伊勢国鈴鹿郡 |
| 座標 | 北緯34度51分27秒 東経136度22分54秒 / 北緯34.8575度 東経136.3817度座標: 北緯34度51分27秒 東経136度22分54秒 / 北緯34.8575度 東経136.3817度 |
鈴鹿関(すずかのせき)は、伊勢国鈴鹿郡にあった古代東海道の関所。跡地は三重県亀山市関町付近に比定される。一部は国の史跡に指定され、出土品は亀山市指定有形文化財に指定されている。
東山道美濃国の不破関(岐阜県)・北陸道越前国の愛発関(福井県)とともに三関と総称される。
概要
[編集]三重県北部、鈴鹿山脈最南部の山麓、鈴鹿川北岸の台地上に設置された関所である。古東海道(近世大和街道)が加太越から伊勢平野へ出る手前、新東海道(鈴鹿越)や東海道志摩支路(近世伊勢別街道)が分岐する要衝に位置し、関跡の主要域は関宿の町並みと重複する。所在地は諸説あったが、2005年度(平成17年度)以降に発掘調査が実施され、遺構の発見によって所在地が判明している。
設置の時期・経緯は明らかでないが、文献史料上では天武天皇元年(672年)の壬申の乱以降に確認される。律令では三関の1つとして規定され、日常的には交通管理施設として、非常時には封鎖(固関)して軍事防衛拠点として機能した。延暦8年(789年)に三関は停廃されるが、その後も重要な事件の際には固関されるなど、古代において重要な役割を担い、江戸時代には東海道五十三次の1つの関宿が重複する位置に設置された。近年には西辺築地塀が確認されるなど遺構が明らかとなりつつあり、古代の交通・軍事の実態を考察するうえで重要視される施設になる。
遺跡域の一部は2021年(令和3年)に国の史跡に指定され[1]、出土品は2019年(平成31年)に亀山市指定有形文化財に指定されている。
歴史
[編集]設置
[編集]鈴鹿関の設置時期・経緯は不詳。大化2年(646年)の改新の詔に見える関塞・斥候・防人設置の命によって設置されたとする説[2]、天智天皇の時に近江大津宮を東国から防御するために設置されたとする説、後述する壬申の乱以降に大海人皇子(天武天皇)によって整備されたとする説などがある[3][4]。また、畿内から峠を越えて東国へ出る場所であり、国府よりも畿内側(西側)に位置するという立地から、東国から畿内への外敵侵入を防ぐというよりも、畿内の異変で反乱者が東国へ脱出して勢力を蓄えるのを防ぐための、西方面に防備意識を持った施設であったとされる[5][6]。
文献上の初見は『日本書紀』天武天皇元年(672年)条[原 1]である。同条によれば、壬申の乱の際に大海人皇子(のちの天武天皇)の軍は大山を越えて伊勢の鈴鹿に至り、「鈴鹿山道」を塞がせたとし、「鈴鹿関司」という官職名も記される[4][7]。官職名は見えるが関通過の際の動向は記されないことから、当時には未確立で、律令規定の鈴鹿関の前身的存在と位置づけられる[7]。なお大海人皇子は、同様に「不破道」についても塞がせている[7]。
鈴鹿関跡における発掘調査では、壬申の乱以前に遡る飛鳥時代の遺物は出土していない[7]。不破関の調査において土塁の中に納めた甕の中から和同開珎が出土したことから、和同開珎発行の和銅元年(708年)以後の設置の可能性が指摘される[7]。
なお、「鈴鹿」の地名の由来は明らかでないが、『伊勢参宮名所図会』では大海人皇子が鈴鹿川を渡る際に「駅路の鈴」をつけた鹿に乗ったという伝説を記載する[7]。
古代
[編集]律令では、東山道美濃国の不破関(岐阜県)・北陸道越前国の愛発関(福井県)とともに「三関」と総称される。大宝元年(701年)施行の『大宝令』ではすでに三関の規定が記されており、天平宝字元年(757年)施行の『養老令』軍防令では三関の詳細が規定されている[5]。
『続日本紀』では、和銅2年(709年)[原 2]に藤原房前が東海道・東山道の関を検察した際に伊勢守が賞揚されており[2]、同年[原 3]に三関国守のことも見える[8]。また、いずれも伊勢国からの報告として、宝亀11年(780年)条[原 4]に鈴鹿関の「西内城」の大鼓が1度鳴り、天応元年(781年)3月条[原 5]に鈴鹿関の「西中城」の門の大鼓が自然に3度鳴り、同年5月条[原 6]に鈴鹿関の「城門および守屋四間」が14日から15日の間に自然に鳴り響いたと、光仁天皇の不予に際する怪異を記載する[4][9]。
そのほか史書では、養老5年(721年)の元明太上天皇崩御を初見として、長屋王の変・藤原仲麻呂の乱・薬子の変・昌泰の変(菅原道真左遷)・平将門の乱・保元の乱など重要な事件の発生や天皇の崩御の際に、他の関とともに関の閉鎖(固関)がおこなわれている[4][7]。
延暦8年(789年)[原 7]、三関は停廃された[4]。しかし、その後も重要な事件の際には固関が命じられており(三関のうち愛発関は大同年間(806-810年)に近江国逢坂関に変更)、次第に儀式化して江戸時代まで継承されていく。
延暦13年(794年)に平安京に遷都されると、新道開拓が計画される。仁和2年(886年)5月[原 8]に鈴鹿峠を越える阿須波道の利害が検分され、同年6月[原 9]に伊勢斎内親王(斎王)の繁子内親王が近江国の新道(阿須波道)を通って伊勢神宮へと向かうことが伊勢国に告げられており、この頃に官道としての東海道の本筋は伊賀越(加太越)から鈴鹿越へと変更された。
中世
[編集]元久元年(1204年)[原 10]には、三日平氏の乱の際に平氏残党の伊勢平氏が鈴鹿関所を固めている[4]。
貞応2年(1223年)には、『海道記』の筆者が鈴鹿の関屋に泊まっている[4]。また『新拾遺和歌集』には荒木田氏忠の歌に「鈴鹿山関屋」と見える[4]。
中世後期には、鈴鹿峠から関地蔵にかけて関氏による新関が多数設置された[4]。大永4年(1524年)に連歌師の宗長は関々でとがめられることなく坂下に着いたと見えるほか、『三国地志』・『九九五集』には私関設置の様子が記される[4]。これらの私関は、永禄12年(1569年)頃に織田信長の関所廃止令によって廃止された[4]。
近世
[編集]江戸時代には、東海道五十三次の47番目の宿場である関宿が設置されたが、その位置は鈴鹿関跡と重複するとみられる。また、かつての鈴鹿関の所在地が追求されるようになり、『勢陽五鈴遺響』などの書誌に推定地の記述が見える[9]。
近代以降
[編集]- 1992年(平成4年)、八賀晋が鈴鹿関跡の推定復元案を研究報告[9]。
- 1999年度(平成11年度)、観音沖遺跡の発掘調査。瓦だまり列を確認、当時は寺院跡と推定(三重県埋蔵文化財センター、2000年に報告)。
- 2005年度(平成17年度)、詳細分布調査の開始。観音山裾で瓦の堆積を発見(亀山市教育委員会)[9]。
- 2006-2015年度(平成18-27年度)、発掘調査(亀山市教育委員会、2017年に報告)。
- 2006年度、観音山南西裾部における調査:第1次調査。西辺築地塀跡を確認(2007年に概要報告)。
- 2008年度、城山南西部の旧観音沖遺跡隣接地における調査:第2次調査。瓦だまり列を確認、寺院でなく西辺築地塀跡と推定(2009年に概要報告)。
- 2018-2019年度(平成30-令和元年度)、発掘調査(亀山市、2020年に報告)。
- 2019年、1次調査地の南部における調査:第9次調査。西辺築地塀の遺構を確認。
- 2019年(平成31年)4月1日、出土品が亀山市指定有形文化財に指定。
- 2021年(令和3年)3月26日、西辺築地塀跡の一部が国の史跡に指定[1]。
- 2023-2024年度(令和5-6年度)、城山の測量調査。城山に土塁状遺構を確認(亀山市)[10]。
構造
[編集]
(鈴鹿越)
(加太越)
(新所城跡)
推定地
推定地
遺跡
北端
(国史跡)
文献史料
[編集]『養老令』職員令大国条・『令集解』養老職員令大国条補注釈説等によれば、三関には大関・小関(剗)が設置され、いずれも城壁で囲われて外側に隍(堀)が巡らされた[9]。
『続日本紀』の記事に基づけば、「西内城(西中城)」の表現に見えるように内城(中城)・外城の区別があり、内城(中城)は東西に分かれたとみられる[9]。また、西内城(西中城)の城門には漏刻が存在して、時刻を太鼓で知らせた様子が知られる[9]。
八賀晋は、台地の微地形が地蔵院の所在する西側(西地区)とお虎川を挟んだ東側(東地区)に分かれることから、それぞれに西内城・東内城を想定する[9]。『亀山市史』では、これら東西の内城が大関・小関に相当するとして、西地区において古東海道を扼する役割を大関(西内城、南北700メートル・東西500メートル)、東地区において東海道志摩支路(近世伊勢別街道)を扼する役割を小関(東内城、200-300メートル四方)と仮定する[9]。
遺構
[編集]鈴鹿関跡の推定範囲の大部分は関宿の町並みと重複し、未調査のため全体像は明らかでない。観音山裾・城山で築地塀の遺構が確認されており、関の西限を画する外城にあたる西辺築地塀と推定される。
西辺築地塀は、観音山から鈴鹿川におよび、総延長650メートル以上と推測される[7]。北端部にあたる観音山の南西裾(第1次調査)やその南部(第9次調査)では、版築による築地塀の基部が多量の瓦とともに確認され、基底幅最大1.8メートル・高さ推定3.9メートル(『延喜式』木工寮築垣条規定で本径6尺・高さ1丈3尺)の瓦葺きの築地塀であること、谷地形を利用して西側の防備を意識した施設であること、重圏文軒丸瓦の出土から奈良時代の中頃の構築であることが判明しており、一帯は国の史跡に指定されている[6][7]。南の城山南西裾(旧観音沖遺跡調査・第2次調査)では、2条の瓦だまり列が確認されており、築地塀の痕跡とされる[6]。城山の山中においても、測量調査によって土塁状高まりが確認され、西辺築地塀の一部と推測されており、城山を取り込んで関が設置された様子を示唆する[10]。なお、壬申の乱に遡る飛鳥時代の遺構は確認されていない。
関連遺跡として、遺跡域の南東の鈴鹿川を挟んだ台地上の古厩遺跡では、「古厩」の地名から駅家(鈴鹿駅家)の存在が推測される。古瓦の出土から、かつては鈴鹿関跡と推定する説もあったが、付近で切山瓦窯跡が確認されたことから現在は否定的であり、切山瓦窯は鈴鹿関への瓦供給窯とみられる[9]。遺跡地の一部は「鈴鹿駅跡(御厩)」として鈴鹿市指定史跡に指定されている。なお、平安時代後期の『江家次第』によれば、当時には鈴鹿駅は鈴鹿川の北岸に移されている[11]。
また、鈴鹿関付近では天平12年(740年)に聖武天皇が関東行幸の際に赤坂頓宮(鈴鹿頓宮)を営んでおり、遺構は未だ確認されていないが、鈴鹿関跡第1次調査で出土した重圏文軒丸瓦は同時期になるとして注目される。
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重圏文軒丸瓦
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丸瓦・平瓦
文化財
[編集]国の史跡
[編集]亀山市指定文化財
[編集]- 有形文化財
- 鈴鹿関跡出土品 904点(考古資料) - 2019年(平成31年)4月1日指定。
関連文化財
[編集]- 鈴鹿駅跡(御厩) - 亀山市指定史跡。2004年(平成16年)12月20日指定。
登場作品
[編集]- 『枕草子』関は
| 「 | 関は 逢坂。須磨の関。鈴鹿の関。くきたの関。白河の関。衣の関。ただこえの関ははばかりの関にたとしへなくこそおぼゆれ。横はしりの関。清見が関。みるめの関。よもよもの関こそ、いかに思ひ返したるならむと、いと知らまほしけれ。それをなこその関と言ふにやあらむ。逢坂などを、さて思ひ返したらむは、わびしかりなむかし。 | 」 |
—『枕草子』関は[13] | ||
- 『千載和歌集』の1首
| 「 | ふるまゝに 跡たえぬれば 鈴鹿山 雪こそ関の とざしなりけれ | 」 |
—『千載和歌集』内大臣[4] | ||
- 『新拾遺和歌集』の1首
| 「 | 振り捨てて 誰かは越えむ 鈴鹿山 関屋は夜半の 月も洩りけり | 」 |
—『新拾遺和歌集』荒木田氏忠[4] | ||
現地情報
[編集]- 関連施設
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- 亀山市歴史博物館(亀山市若山町) - 鈴鹿関跡の出土品を展示。
- 周辺
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- 関宿の町並み
- 東の追分 - 三重県指定史跡。
- 西の追分 - 三重県指定史跡。
- 赤坂頓宮(鈴鹿頓宮)推定地
- 鈴鹿駅家推定地 - 亀山市指定史跡。
- 関宿の町並み
脚注
[編集]原典
出典
- ^ a b c 鈴鹿関跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ a b 日本大百科全書(ニッポニカ).
- ^ 国史大辞典.
- ^ a b c d e f g h i j k l m 三重県の地名 1983.
- ^ a b 森田悌「三関」『国史大辞典』吉川弘文館。
- ^ a b c 鈴鹿関跡リーフレット 2020.
- ^ a b c d e f g h i 鈴鹿関(博物館図録) 2021.
- ^ 田名網宏「三関」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館。
- ^ a b c d e f g h i j 亀山市史 考古編.
- ^ a b 鈴鹿関跡(新所城跡)について(亀山市ホームページ)。
- ^ 「鈴鹿駅」『三重県の地名』平凡社、1983年。
- ^ 令和3年3月26日文部科学省告示第44号。
- ^ 『枕草子』新編日本古典文学全集18、小学館、1997年(ジャパンナレッジ版)、pp.214-215。
参考文献
[編集](記事執筆に使用した文献)
- 地方自治体発行
- 事典類
関連文献
[編集](記事執筆に使用していない関連文献)
- 木下良「三関跡考定試論」『人文地理学論叢』柳原書店〈織田武雄先生退官記念〉、1971年。
- 『鈴鹿関町史』 上巻、関町教育委員会、1977年。
- 『観音沖遺跡発掘調査報告』三重県埋蔵文化財センター〈三重県埋蔵文化財調査報告206〉、2000年。 - リンクは奈良文化財研究所「全国文化財総覧」。
- 『鈴鹿関跡 -第1次発掘調査概報-』亀山市教育委員会〈亀山市埋蔵文化財調査報告29〉、2007年。
- 『鈴鹿関跡 -第2次発掘調査概報-』亀山市教育委員会〈亀山市埋蔵文化財調査報告31〉、2009年。
- 『鈴鹿関跡 -鈴鹿関跡範囲確認調査事業報告書I(平成17年度-平成27年度)-』亀山市〈亀山市埋蔵文化財調査報告33〉、2017年。
- 『鈴鹿関跡 -鈴鹿関跡範囲確認調査事業報告書II(2018年度-2019年度)-』亀山市〈亀山市埋蔵文化財調査報告35〉、2020年。