悪路王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
悪路王面形彫刻(複製)図像。城里町高久の鹿島神社の拝殿にて

悪路王(あくろおう)は平安時代初期の蝦夷の首長。文献によっては盗賊の首領や、とされることもある。

しばしばアテルイと同一視されるが、ほかにも異称は多く存在し、それらのどこまでが同じ人物でどこまでが別人なのかは、史料によって異なる。また、伝承が残るのは主に岩手県宮城県だが、奥羽山脈を越えた秋田県や北関東の栃木県、さらに蝦夷とは何の関係もない滋賀県にもゆかりの地とされる旧跡が存在する。

どの伝説においても、坂上田村麻呂ないし彼をモデルとした伝承上の人物によって討たれるところは共通している。

賊としての記録[編集]

吾妻鏡[編集]

悪路王に関する最古の記録は『吾妻鏡文治5年(1189年)9月28日の条にある[1][2]

奥州合戦にて藤原泰衡を破った源頼朝は、鎌倉への帰途に着く際に捕虜の多くを解放し、残すところ30名弱を引き連れていった。途中でとある山に立ち寄った頼朝は、当地のいわれを捕虜に尋ねてみた。

捕虜いわく「田谷の窟といいます。ここは田村麿や利仁らの将軍が帝の命を受けて蝦夷討伐に赴いたとき、賊の主である悪路王や赤頭らが砦を構えていた岩屋です」

— 『吾妻鏡』より大意

「田谷」はタコクであり、達谷窟(たっこくのいわや)を指す[3]。「田村麿」は田村麻呂の別表記だが、その100年ほど後の人物である藤原利仁が同輩のように語られており、伝承に混乱が見られる[1][2]

悪路王の仲間と思われる「赤頭」について、喜田貞吉はこの『吾妻鏡』以外に確かな出典をほとんど知らないと述べている[4]伊能嘉矩は、アカカシラ→アカシラ→アカラと略せばアクロに通じるので、元は1人の名前を2通りの表記で示したものが、いつしか別々の人物と解釈されるようになったのだろうとしている[5]。また別の伝承によると赤頭は悪路王と別人であり、伊達郡半田村にて死亡したという[6][7]半田の赤頭太郎節を参照)。

諏方大明神画詞[編集]

諏方大明神画詞』9 - 11段には異聞が記されている。

桓武天皇の御世、東夷の安倍高丸が暴れていたので、坂の上の田村丸に討伐令が下された。東山道経由で出陣した田村丸は、神助がなければ勝利はおぼつかないと思い、諏訪明神に祈った。信濃国諏訪郡伊那郡の境である大田切に差し掛かった際、梶の葉紋の藍摺りの水干をまとい、鷹羽の矢を背負って、葦毛の馬に乗った武者が現れ「地元の者です。お仕えしようと参じました」と言った。ただ者ではないと思った田村丸は、この武者を先陣に据えて陸奥国へと進んでいった。

国境を越えた田村丸は、宅谷岩屋の高丸城を偵察した。城の背後は岩壁で前面は海、左右は鉄石で固めてあるという堅牢ぶりで、そのうえ高丸は城内深く閉じこもって姿を見せず、攻略の手立てが見つからなかった。相談を受けた信濃の武者は、考えるところがあってひとり出陣した。武者は騎乗したまま海に進み出ると、まったく同じ姿の5騎に分身した。さらに20名ほどの黄衣の者がどこからか現れ、それぞれ的を掲げながら海上のあちこちに散った。この不思議に両軍の兵士たちが騒然となる中、武者たちはその的を射落としていく流鏑馬の射礼を始めた。人も馬も波の上に立ったまま沈む様子もない。高丸は警戒して見ようともしなかったが、城内の者たちに勧められたのでまずは城門まで出てきた。的が風にあおられる音を聞いて矢が尽きたのだろうと判断した高丸が顔を出したところ、武者は手元に残しておいた鏑矢を素早く放ち、雁又の矢じりが両目に突き立った高丸はまっさかさまに海へ落ちた。黄衣の者たちが駆け寄ってその首を取り、武者がそれを鉾の先に刺して掲げて見せると、官軍は一斉に勝どきを挙げた。高丸の兵たちは恐怖のあまり声を上げ、諸手をついて降参した。すると城も崩れ去ってしまった。田村丸は神威に感涙し、配下ともども合掌して祈りを捧げた。分身5騎は十三所王子神であり、黄衣の雅楽もまた同じ眷属だったのである。

— 『諏方大明神画詞』より大意

「宅谷」はタッコクであり、達谷窟を指す[3]。また田村麻呂は「田村丸」、悪路王は「安倍高丸」という名前で登場している[8]。同じ『諏方大明神画詞』でも安藤氏の乱について触れた箇所には安倍氏悪事の高丸という表現があり、「悪事」は「悪路」に通じるので、悪路王と高丸は同一人物の異称であると考えられる[5]

なお同箇所では、高丸の子孫が蝦夷管領となった安藤太で、そのまた子孫が安藤季久安藤季長としているが、伊能嘉矩は安倍氏の遠祖を悪路王伝説にこじつけたものと見なしている[5]

信濃鎮守諏訪大明神秋山祭事[編集]

神道集』巻4「信濃鎮守諏訪大明神秋山祭事」にも異聞が記されている[9] [10]

桓武天皇の頃、奥州では悪事の高丸という名前のが人々を苦しめていた。そこで帝より高丸討伐を命じられた田村将軍は、清水寺千手観音に願掛けをした。

すると七日目の夜半に「鞍馬寺の毘沙門天は我が眷族であるから頼れ。奥州へ向かう時は山道寄りに下れ。そうすれば兵を付き従わせよう」というお告げを頂いた。 すぐに鞍馬寺に参拝すると、将軍は毘沙門天より三尺五寸の堅貪(けんどん)という剣を授かった。奥州へ山道を進軍していると信濃国諏訪大社で二人の武将を得た。 高丸と対峙した将軍が堅貪を鞘から抜くと、剣は自ら高丸に向かって斬りつけた。二人の兵の助力も得ていたこともあり高丸討伐を成したという。

— 『神道集』巻4「信濃鎮守諏訪大明神秋山祭事」』より大意

日本王代一覧・元亨釈書[編集]

日本王代一覧』巻之2では、悪路王と高丸が別人のように記されている。また、アテルイはこの翌年の項に「大墓公」という称号で触れられているので、やはり別人である。

桓武天皇20年(801年)。陸奥国の高丸という賊が達谷窟から兵を起こし、駿河国清見関まで攻め上った。坂上田村麻呂は節刀を賜り、討伐に出た。高丸は退いて陸奥に引きこもった。追撃に向かった田村麻呂は神楽岡にて高丸を射殺し、また悪路王という賊も退治した。 — 『日本王代一覧』より大意

元亨釈書』巻第9・感進4之1は、『日本王代一覧』の記述を注釈として引用しつつ、仏教説話に仕立て上げている。

報恩法師の弟子の延鎮清水寺で暮らしており、坂上田村麻呂とは親友同士だった。田村麻呂に陸奥の逆賊・高丸の討伐令が下された際、法力の加護を求められた延鎮はこれを快諾した。そのころ高丸は駿河国まで攻め上り清見関に迫っていたが、官軍出陣の報を聞いて引き返し、陸奥の守りを固めた。

賊軍との戦闘中、官軍の矢は尽きてしまった。すると不思議なことに小さな僧と小さな男子がちらちらと現れ、戦場に散らばった矢を拾い集めて田村麻呂に差し出した。田村麻呂は奇怪に思いつつもその矢で高丸を射抜き、神楽岡にてその首を取った。

— 『元亨釈書』より大意

高丸終焉の地である「神楽岡」の詳細は判然とせず、『奥羽観跡聞老志』巻之10でも達谷の近くと推測するに留まる。達谷窟毘沙門堂と同様に田村麻呂による建立と伝えられる箟峯寺の所在地は宮城県遠田郡涌谷町箟岳字神楽岡であるが[11]、伊能嘉矩は「未だ必ずしも一地に拘泥すべからず」と述べている[12]。また定村忠士は、『諏方大明神画詞』における騎馬武者の流鏑馬や『鈴鹿の物語』における鈴鹿御前の星の舞(田村麻呂伝説の節を参照)に着目し、「神楽岡」とは文字通り「神楽の舞台」であって実在の場所ではなく、箟岳字神楽岡は先行する伝説にならって後から付けられた地名だろうと説いている[13]

大日本史』巻之122の坂上田村麻呂の項では、『元亨釈書』と『吾妻鏡』の記述が引用されている。

『日本百将伝一夕話』[注 1]巻之3の坂上田村麻呂の項は、『元亨釈書』に語られる霊験を下敷きにしつつ、娯楽のため大幅に戦闘描写を増やしている。本書でも高丸と悪路王は別人とされている。田村麻呂は謎の童子に拾ってもらった矢で高丸を射抜いて官軍を勝利へと導くが、怒った悪路王は決死の突撃を行ってなおも抵抗し、死闘の末に田村麻呂に斬られた。

義経記[編集]

義経記』巻第2「義経鬼一法眼が所へ御出の事」では高丸と赤頭が別人とされている。

代々の帝が宝としてきた、16巻に及ぶ秘蔵の書がある。

日本の武士では、坂上田村丸がこれを読み伝えて悪事の高丸を討ち取り、藤原利仁はこれを読んで赤頭の四郎将軍を討ち取った。

— 『義経記』より大意

奥羽観跡聞老志[編集]

『奥羽観跡聞老志』は東北各地の旧跡を紹介しており、悪路王にまつわるものも含まれている。

巻之4には刈田郡斎川村にある古将堂[注 2]の由来が記されている。

破鐙坂の東に堂があり、その中には戦装束をまとい烏帽子をかぶった女性像が2体置かれている。右の像は弓矢、左の像は刀を持っている。祭られているのは田村麻呂と鈴鹿神女であると伝えられている。また、遊王山高福寺という寺院がある。

かつてこの地には妖怪がいて人を襲っていた。延暦14年(795年)東征に訪れた坂上田村麻呂はこれを退治しようとしたが、草むらに隠れたり洞窟に潜んだりして捕らえられない。田村麻呂が鈴鹿神に祈ると、飛来した神が妖怪を滅ぼし、その首を塚に埋めた。こうしてこの地は平和になり、鈴鹿神を祭る祠が建てられた。そのため「古将堂」や「将軍堂」と呼ばれるのである。

一説によれば、かつて悪路王や赤頭など凶悪の徒が、黄土や丹砂で身を飾り怪物のふりをして人を襲っていたのであり、すべて盗賊の仕業ということである。悪路王が好きなように荒らしまわったので「遊王山」と呼ぶのだとか。

【著者・佐久間義和による注】田村麻呂の凶賊退治は典籍が定かでない。それに鈴鹿神すなわちイザナギと田村麻呂を一緒に祭るのはありえないし、堂内の像は両方とも女性である[注 3]。この話は信じるに足りない。

— 『奥羽観跡聞老志』より大意

巻之10は磐井郡の旧跡を収録する。前述の達谷窟のほかにも、史書には見られない伝承が取り上げられている。

掛手松
断崖の上にある松。かつて悪路王がこの木の枝に手をかけ、源義家の様子をうかがったという。
【著者・佐久間義和による注】田村麻呂と義家を間違えている。
掛鬘石
達谷窟より北に10 (1.1km) ほど行くと渓流に出る。そこには高さ3 (9m) の岩がある。青いコケで覆われた表面は、切り立っていて登れそうにない。岩の上には古い樹が生えているのが見える。かつて悪路王が、さらってきた女の髪をこの樹に引っ掛けたという。
待姫瀑布
掛鬘石より北に3町 (330m) ほど行くと小さな滝に出る。
かつて悪路王一党は、貴族や金持ちの家に夜間忍び入っては娘をさらっていたという。その中には葉室家中納言の姫もおり、両親は悲しみのあまり命も危うくなるほどだった。捜索に出た家来たちは東国で手がかりをつかみ、姫と密かに連絡を取って脱出の計画を練った。姫から「春山に遊びに行きましょう」と誘われた賊は、策とも知らずに他の女たちも連れて、桜咲く野原で宴会を始めた。姫から酒を勧められた賊は酔いつぶれ、膝枕で眠り込んでしまった。その隙に姫は近くの滝の下に控えていた家来と合流し、都に逃げ戻った。目覚めた賊は後を追ったが、結局追いつけなかったということだ。
白桜原
待姫瀑布より東南に4町 (440m) ほど行くと、かつて悪路王がさらってきた姫君と宴を催した野原に出る。その昔は数百株の山桜が爛漫に咲く絶景が見られたが、今はもう無い。
— 『奥羽観跡聞老志』より大意

人首丸伝説[編集]

岩手県奥州市江刺区米里は、かつては江刺郡米里村であり、さらにその前は人首村(ひとかべむら)と呼ばれていた。この地名は悪路王の甥に由来するとされる。

地元の伝説によれば、坂上田村麻呂の征討によって悪路王は磐井で、その弟の大武丸は栗原にて敗死したが、大武丸の息子・人首丸(ひとこうべまる)は江刺まで落ち延び、大森山の岩屋を拠点としてなおも抵抗を続けた。その人首丸も田原阿波守兼光の兵によってついに討たれ、その地に葬られたという[15]

那須の伝説[編集]

栃木県矢板市豊田は、かつて那須郡野崎村であり、さらにその前は稗田村と呼ばれていた。この地域の東部、箒川の南岸にある小高い丘には「将軍塚」と名がついている。塚と言っても古墳ではなく自然丘陵である。伝説によれば、坂上田村麻呂が茶臼山を根城とする凶賊「高丸」の討伐に赴いた際、この丘の上に陣を敷いたという[16]

また『那須記』に収録された向田村南瀧の瀧寺千手観音[注 4]の由来においても高丸が登場する。討伐に向かおうとする田村麻呂が清水寺の延鎮に法力の加護を頼むくだりは『元亨釈書』に似るが、高丸は当初近江国で略奪を働いていたことになっている。田村麻呂に追われた高丸は駿河国清水関に逃げ、次いで那須の茶臼嶽に立てこもる。攻めあぐねた田村麻呂は、延鎮の教えに従って千手観音を遥拝することで形勢を逆転する。高丸はさらに陸奥国まで撤退するが、神楽岡にて討ち取られたという[17]

松尾の長者屋敷[編集]

岩手県八幡平市松尾の長者屋敷は、縄文時代から平安時代にかけての複合遺跡である[18]

伝説によれば、この地に居を構えていたのは大武丸配下の「登喜盛」[18]、あるいは高丸悪路の子「登鬼盛」であり[19]、坂上田村麻呂に討たれたという。このとき田村麻呂が血染めの太刀を洗い清めたのが、「岩手の名水20選」のひとつ「太刀清水」と伝わる[18][19]

衣川の霧山[編集]

岩手県奥州市衣川区には、高丸の拠点とされる洞窟がある。

衣川南股柳沢向に「霧山」があり、その山中の洞窟の奥行きは8000メートルもの長さに及んでいた[20]。霧山に住む高丸はこの洞窟を通じて達谷窟の悪路王と密に連絡を取り、官軍を苦しめたという[20]。もっとも、霧山と達谷窟がつながっているというのはあくまで伝説であり、そのような地下道が実在しないことは達谷窟が火災に見舞われた際に明らかとなっている[21]

『平泉志』ではこの霧山の別名を「善城」としているが[22]、『衣川の古蹟』では霧山から南西に30町 (3.3km) の場所にある別の山が「善城」であり、霧山が高丸悪路王の巣窟だったように善城は「大武麿」の巣窟だったとしている[23]

半田の赤頭太郎[編集]

福島県伊達郡桑折町には、赤頭(あかず)の太郎という大男の伝承が残っており[24]、古い記録にはその背景がうかがえる物がある。

『信達二郡村史』附録 甲集之下「伊達郡富沢村古事記録」によると、791年延暦10年)に高丸の郎党である「赤頭太郎」が半田山の麓にて射殺され、祟りを恐れた人々により「赤頭太郎明神」として祀られたという[24]

桑折町北半田熊野に所在する益子神社は、大竹丸の弟である「赤頭太郎」が明神として祀られたのを始まりとしている[25]

鬼としての記録[編集]

近江国蒲生野の伝説[編集]

日本書紀』巻第27には、天智天皇8年(669年)、余自信鬼室集斯ら滅亡した百済からの亡命者約700人が近江国蒲生郡に遷されたとある。そうした経緯から蒲生郡の日野には鬼室集斯の墓があり[注 5]、そこから東に行った山中には「鬼室王女、朱鳥三年戊子三月十七日」と刻まれた碑があった[26]。ところが後代になると、これらが人名であることが忘れ去られ、碑の「鬼」や「王」を文字通りに受け取った結果、悪路王の伝説と結び付けられるようになった[27]

同じく日野の蒲生野にはコボチ塚がある[注 6]。これは雄略天皇に暗殺された市辺押磐皇子が従者の佐伯部仲子もろとも埋められたものを、後になって塚をこぼち(壊し)、2人を分葬し直したところから付いた名である[28]。この由来もまた忘れ去られ、鬼が塚を壊して屍を喰らい、そこに棲みついたという伝承となった[27]

太平記』諸本のうち、天正本のみに見える記述で、コボチ塚と「悪事高丸」の結び付きが既成事実化していることが確認できる。

佐々木道誉佐々木秀綱が敵の接近を聞きつけ、舟岡山に登って敵の軍勢を見てみると、雲霞のような大軍が3か所に陣を張っているようだったので、自分たちも父子3人に分かれることにした。

一方面の部隊は五郎左衛門尉高秀を大将に200騎ほどを割り当て、蒲生野・小椋の一族を案内役とし、悪事高丸の壊塚(こぼちづか)を背後にして陣を張った。

— 『天正本 太平記』巻第29「八重山蒲生野合戦の事」より大意

田村麻呂伝説[編集]

悪路王は田村麻呂伝説に鬼神として登場し、坂上田村麻呂藤原利仁が混交して創作された英雄や、鈴鹿山の鬼女・鈴鹿御前と戦う。

室町時代御伽草子『鈴鹿の物語[29]』『鈴鹿の草子[29]』『田村の草子[30]』は、細部の違いはあるもののほぼ同じ筋書きである。『立烏帽子[31]』の内容は若干異なる。

『鈴鹿の物語』『鈴鹿の草子』『田村の草子』
利佑将軍の息子・利仁は、妻をさらった悪路王を倒すため、陸奥国谷三山の城に乗り込み、毘沙門天から授かった剣で鬼の首を刎ねる。しかしその後、老境に差し掛かった利仁は、野心に駆られて中国へ攻め入ろうとし、討ち死にする。
利仁が遺した息子・利宗は、功績を挙げて田村郷を領地として与えられるとともに、父を継いで将軍に任じられる。利宗は鈴鹿御前の討伐令を受けるが、絶世の美女だった御前と恋に落ち夫婦となる。
帝はこの件を不問とし、次に近江国蒲生の原に砦を構える「悪事の高丸」の討伐を命じる。居城を追われた高丸は海底の岩屋に閉じこもるが、鈴鹿御前が星を呼ぶ舞を踊ると、娘に促されて眼をのぞかせ、利宗に射抜かれる。
しかし最強の鬼である陸奥国の霧山の大嶽丸は、利宗であっても正攻法では勝ち目がない。鈴鹿御前はあえて大嶽丸の元におもむき、鬼を骨抜きにすることで隙を作って、利宗に勝機をもたらす。
『立烏帽子』
坂上田村利成は、鈴鹿山の女怪「立烏帽子」の討伐を命じられる。しかし立烏帽子の館は湖の中の島にあり、渡航する手立てがない。攻めあぐねた利成は、思いつきで立烏帽子と矢文の交換を始める。立烏帽子は、陸奥国の「きりはた山」に住む夫「阿黒王」を疎んじており、かの鬼を討ってくれたなら利成に従うと持ちかけた。
立烏帽子から阿黒王の現れる時間を教わった利成は、8つの頭と多くの眼を持つ五色の鬼を射殺す。

江戸時代に東北地方で語られた奥浄瑠璃『田村三代記』の筋書きは、おおむね『鈴鹿の物語』に沿っている。ただし同じ『田村三代記』という題でも鈴鹿御前が登場せず、代わりに主人公が赴任先の陸奥国で「悪玉」というヒロインに出会う異本もある。むしろ大嶽丸や鈴鹿御前のくだりが後から付け加えられたという説もある[32]

出羽国切畑の伝説[編集]

菅江真澄出羽国雄勝郡にて採取した民話では、悪路王が鬼として伝えられている。菅江が土地の老人に聞いたところによると、松岡の「きりはた山」には「あくる王」という鬼が住んでいた。その妻「たてゑぼし」は鈴鹿山に住んでいたが、夜な夜な通ってきていた。双方とも「田村としひと」に討伐されたという[33]

雄勝郡切畑郷の蓮華平村の名前は、悪路王がいたころ、この地に大きな池があり多数のハスが咲いていたことに由来するという。江戸時代にはすでに池はなくなっており、跡は田地になっていた[34]。同じく切畑郷の畑村には「鬼の窟」があり、悪路王が住んでいたとされる[34]

秋田県に残る話の中には、当初悪路王が根城としていたのは雄勝郡剪旗山(きりはたやま)であり、田村麻呂に追われて達谷窟に遷ったとするものもある[35]

秋田県湯沢市松岡を流れる切畑川の上流には「阿黒岩」と呼ばれる院内石(凝灰岩)の露頭があり、秋田県道278号雄勝湯沢線から望むことができる。ここは「阿黒王」という鬼が坂上田村麻呂に討たれた地と言われ、崖の中腹には「阿黒王神社」の祠が据えられている。また松岡には、このとき田村麻呂が戦勝を祈願して建立したと伝えられる白山神社もある[36]

大船渡の鬼越え[編集]

岩手県大船渡市の伝承では、「赤頭」が個人名ではなく集団名とされている。

猪川町の久名畑には、かつて盛川に面して「鬼越え」という巨岩があった[37]。その昔、この地では悪鬼の部族「赤頭」が坂上田村麻呂に抵抗していた[37]。彼らは半年ほどの戦いの後に敗れて四散し、長である「高丸」も久名畑から日頃市方面に逃れようとした[37]。2丈 (6m) もある巨岩の上に追い詰められた高丸は、最後の力を振り絞って川を跳び越え、そのまま逃げ去ったという[38]

伝説の巨岩そのものは現存しないが、跡地には「鬼越えふれあい広場」という公園が整備されている(位置)。

遺物[編集]

茨城県鹿嶋市鹿島神宮には、悪路王の首像・首桶が収められている。これは、坂上田村麻呂が征伐した悪路王の首級を、藤原満清が寛文4年(1664年)に木造で復元奉献したものである[39]。当社の説明では、悪路王は蝦夷の指導者・阿弖流為を指すとしている。

茨城県城里町高久の鹿島神社には悪路王面形彫刻が伝わる。坂上田村麻呂は下野達谷窟で討った悪路王(阿弖流為)の首級を当社に納めた。ミイラ化した首は次第に傷みがひどくなったので、木製の首をつくったという[40]。達谷窟の所在地が陸奥国ではなく下野国とされているところが他の伝承と異なる。三木日出夫はこれを栃木県矢板市の小字「田谷」と関連付けており[41]、実際に当地には田村麻呂にまつわる伝説が残っている(那須の伝説の節を参照)。

考察[編集]

大嶽丸との関係[編集]

大嶽丸は東北地方を拠点とする鬼であることや、田村麻呂に退治されることが悪路王と共通しており、両者にはなんらかの関係があると思われる[8]

両者はしばしば伝承の中で混交される。『吾妻鏡』で悪路王の砦とされた達谷窟を指して「大竹丸といふ鬼の住所也」とする話が『奥州紀行』に記録されている[42]。この「大竹丸」は「大嶽丸」の同音異表記と考えられる[8]。逆の例を挙げると、『鈴鹿の物語』で大嶽丸は「霧山」に住んでいたが、『平泉志』によれば胆沢郡上衣川村の霧山は別名を善城といい「高丸悪路王等か巣窟」と言われていた[22]。人首丸伝説では、悪路王と「大武丸」が兄弟とされている(人首丸伝説の節を参照)。

伊能嘉矩は、各地の伝承に見える大嶽丸・大竹丸・大武丸・大猛丸の名はみな転訛であり、大高丸→悪事の高丸→悪路王と通じるので、つまりは本来ひとつの対象を指していたと結論している[43]

悪路 = 地名説[編集]

「悪路」とは東北地方のある地域を指す名称であり、その地の有力者を「悪路王」と呼んだのではないかという説がある。

陸奥話記』冒頭に、源頼義胆沢鎮守府から多賀へと帰還する過程で「阿久利川」を渡る場面がある[44][45]

また、『発心集』『承久記』『平家物語』といった鎌倉時代文学作品の中で、「あくろ」が東北地方の地名「津軽」「つぼのいしぶみ」と並んで扱われていることも傍証となっている[46][47]

其後此の国へ帰りて都あたりは事に触れて住みにくしとて、夷があくろ・津軽・壷のいしぶみなどいふ方にのみ住まれけるとかや。 — 『発心集』第7「心戒上人跡を止めざる事」
頼朝卿、度々都ニ上リ、武芸ノ徳ヲ施シ勲功無比シテ、位正二位ニ進ミ、右近衛ノ大将ヲ経タリ。

西ニハ九国・二嶋、東ニハアクロツカル夷ガ島マデ打靡シテ、威勢一天下ニ蒙ラシメ、栄耀四海ノ内ニ施シ玉フ。

— 『慈光寺本 承久記』巻上
いかなるあくろ、つがろ、つぼのいしぶみ、えびすがすみかなるちしまなりとも、かひなきいのちだにもあらばと思給ぞ、せめての事とおぼへていとほしき。 — 『延慶本 平家物語』巻11・30

複数人説[編集]

悪路王にまつわる伝承は、異称にまつわるものも含めれば、あまりにも多岐に渡るため、特定の一個人を指すとは考え難くなる。

伊能嘉矩は、朝廷勢力の進出に激しく抵抗する蝦夷のある一群につけられた呼称が「悪路王」であると考察しており、各地に所在した10人や100人の悪路王の事跡が、中でも最も偉大であった「達谷窟の悪路王」へと帰せられていったとしている[48]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 嘉永6年(1853年)刊行の読本。作者は松亭金水、挿絵は柳川重信
  2. ^ 宮城県白石市斎川の田村神社。
  3. ^ この女性像は田村麻呂とは無関係で、モデルは佐藤継信佐藤忠信兄弟の妻たちである[14]
  4. ^ 栃木県那須烏山市滝の天台宗滝尾山正眼院太平寺。
  5. ^ 滋賀県日野町小野の鬼室神社
  6. ^ 滋賀県東近江市市辺町の古保志塚古墳。

出典[編集]

  1. ^ a b 伊能 1922, p. 1.
  2. ^ a b TIF 1999, p. 44.
  3. ^ a b 伊能 1922, p. 2.
  4. ^ 喜田 1916, p. 138.
  5. ^ a b c 伊能 1922, p. 3.
  6. ^ 相原 1773, p. 505, 巻之2「田村利仁伐東夷」.
  7. ^ 狩野 1909, p. 109.
  8. ^ a b c TIF 1999, p. 42.
  9. ^ 『神道集』貴志正造編訳、平凡社東洋文庫 94〉、1978年、ISBN 978-4-582-80094-4
  10. ^ 『神道集 東洋文庫本』近藤喜博編、角川書店、1959年、全国書誌番号:60000255
  11. ^ 涌谷町 観光マップ 箟峯寺
  12. ^ 伊能 1922, p. 4.
  13. ^ 定村 1992, p. 184.
  14. ^ 白石市観光案内 甲冑堂
  15. ^ 伊能 1922, p. 5.
  16. ^ 那須郡誌 1924, p. 193.
  17. ^ 那須郡誌 1924, p. 247.
  18. ^ a b c 広報はちまんたい No.153 (2012年7月5日)(PDF)
  19. ^ a b 岩手県神社庁 - 長嶺神社
  20. ^ a b 衣川村史 1988, p. 512.
  21. ^ 衣川村史 1988, p. 513.
  22. ^ a b 高平 1888, 巻下、37枚目.
  23. ^ 衣川村史 1988, p. 148.
  24. ^ a b 桑折町史3 1989, p. 455.
  25. ^ 桑折町史3 1989, p. 946.
  26. ^ 藤原 1932, p. 35.
  27. ^ a b 藤原 1932, p. 36.
  28. ^ 藤原 1932, p. 37.
  29. ^ a b 室町時代物語大成』第7巻
  30. ^ 『室町時代物語大成』第9巻
  31. ^ 萩野由之『新編御伽草子』誠之堂書店、1901年。
  32. ^ 小倉博『御国浄瑠璃 四篇』無一文館〈仙台郷土資料 第2〉、1932年、p.171。
  33. ^ 菅江 1785, pp. 78 - 79.
  34. ^ a b 菅江 1814, p. 58.
  35. ^ 狩野 1909, p. 112.
  36. ^ ゆざわジオパーク ジオサイトの紹介14 山田
  37. ^ a b c 大船渡市史4 1980, p. 397.
  38. ^ 大船渡市史4 1980, p. 398.
  39. ^ 定村 1992, p. 52.
  40. ^ 城里町教育委員会 町指定文化財 悪路王面形彫刻
  41. ^ 定村 1992, pp. 62 - 65.
  42. ^ 富田 1776, p. 503.
  43. ^ 伊能 1922, pp. 4 - 7.
  44. ^ 伊能 1922, p. 17.
  45. ^ 藤原 1932, p. 29.
  46. ^ 喜田 1916, p. 137.
  47. ^ 藤原 1932, pp. 31 - 32.
  48. ^ 伊能 1922, p. 19.

参考文献[編集]

  • 南部叢書』1931年
    • 相原友直「平泉雑記」、『南部叢書』第3冊、1773年、 461 - 652頁。
    • 富田伊之「奥州紀行」、『南部叢書』第6冊、1776年、 481 - 516頁。
  • 『秋田叢書』1933年
    • 菅江真澄「雪の出羽路 雄勝郡 一」、『秋田叢書』第3巻、1814年、 41 - 124頁。
    • 菅江真澄「小野のふるさと」、『秋田叢書』別集 第4、1785年、 43 - 81頁。
  • 高平真藤 『平泉志』 鶴揚社、1888年
  • 狩野徳蔵 『秋田県史』上古部、1909年
  • 喜田貞吉「蝦夷の馴服と奥羽の拓殖」、『奥羽沿革史論』、仁友社、1916年6月30日、 27 - 140頁。
  • 伊能嘉矩 『悪路王とは何ものぞ』〈遠野史叢 第二篇〉、1922年
  • 那須郡教育会 『那須郡誌』、1924年
  • 藤原相之助 『奥羽古史考証』 友文堂、1932年
  • 『大船渡市史』第4巻(民俗編)、大船渡市史編纂委員会、1980年1月
  • 『衣川村史』第3巻(資料編2)、衣川村、1988年3月
  • 『桑折町史』第3巻(各論編 民俗・旧町村沿革)、桑折町史出版委員会、1989年3月
  • 定村忠士 『悪路王伝説』 日本エディタースクール出版部、1992年6月ISBN 4-88888-191-X
  • 高平鳴海、糸井賢一、大林憲司、エーアイ・スクウェア 『鬼』 新紀元社〈Truth In Fantasy 47〉、1999年8月21日ISBN 4-88317-338-0

関連項目[編集]