アテルイ

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大墓公 阿弖流為 / 大墓公 阿弖利為(たものきみ あてるい、たものきみ あてりい、延暦21年8月13日ユリウス暦802年9月13日先発グレゴリオ暦802年9月17日[要出典])は、日本奈良時代末期から平安時代初期の古代東北の人物。続日本紀では「阿弖流爲」、日本紀略では「大墓公阿弖利爲」。

8世紀末から9世紀初頭に陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市)で活動した蝦夷(えみし)の族長とされる[1]。史実にはじめて名前がみえるのは、古代日本の律令国家朝廷)による延暦八年の征夷のうち巣伏の戦いにおいて、紀古佐美率いる官軍(朝廷軍)の記録中である。その後延暦二十年の征夷が終結した翌年胆沢城造営中の坂上田村麻呂の下に盤具公母禮とともに降伏し、田村麻呂へ並び従い平安京へ向かい、公卿会議で田村麻呂が陸奥へと返すよう申し出たことに対して公卿達が反対したため河内国□山で母禮とともに斬られた。

なお、本来の名前は前述の通りだが、本項では「アテルイ」として解説する。また必要に応じて「大墓公阿弖流為(大墓公阿弖流爲)」「大墓公阿弖利為(大墓公阿弖利爲)」「阿弖流為(阿弖流爲)」「阿弖利為(阿弖利爲)」「大墓公」と表記する。

名前について[編集]

姓と名[編集]

大墓公阿弖流為または大墓公阿弖利為は、古代日本の律令国家から「水陸万頃にして、蝦虜、生を存す」[原 1]、「賊奴の奥区なり」[原 2]と呼ばれた、現在の衣川以北の北上川流域平野部となる磐井郡江刺郡胆沢郡一帯(岩手県南部)に勢力を持っていたと考えられている胆沢の蝦夷の族長である[2]

蝦夷社会が記録した史料は残っていないが、古代日本の律令国家が編纂した六国史が彼の名前を4度記録している[2][3]。その内訳はいずれも旧字体で、延暦8年の巣伏の戦いの記事の中に「阿弖流爲」[原 3]で1度、延暦21年の降伏の記事の中に「大墓公阿弖利爲」[原 4][原 5][原 6]で2度、「大墓公」[原 7]で1度となる[4][3][5]。このことから本来の名前は「大墓公阿弖流爲」または「大墓公阿弖利爲」であった[3][5]と樋口知志はいう。

については、朝廷から与えられた「」の姓が付されている[原 6][5]。坂上田村麻呂のもとに帰降した直後の記事のため、大墓公の姓は降服後に律令国家から賜与されたものとする見解がある[5]。しかしながら結果として河内国椙山で斬られたことからみても、律令国家が帰服した人物にわざわざ姓を与えたとは考えがたく、国家に従った蝦夷族長が離反した際に姓を剥奪された例もいくつかみられるため、大墓公の姓は朝廷軍と戦う延暦8年より以前に律令国家から賜与されていたものと考えるのが妥当であるとの見解もある[5]。いずれにせよ彼ないし大墓公一族が、かつては律令国家との間にかなり良好な政治的関係を築いていたことを示す[5]

名については、『続日本紀』は「阿弖流爲」、『日本後紀』に基づく『日本紀略』『類聚国史』は「阿弖利爲」と表記しているが、正式な漢字表記が「阿弖流爲」なのか「阿弖利爲」なのかは不明[3][6]。また本人がどのように漢字表現していたのかも不明[7]高橋崇は、正史の表記も疑わしく、政府側が彼の名の音を耳にし適当に漢字表記したからこそ2通りの表記になったのではないかとしている[7]鈴木拓也は、いわゆる夷語の音訳の問題であり、実際の発音は「アテルイ」と「アテリイ」の中間であろうとしている[6]

読み方[編集]

姓は従来「大墓公」を「たものきみ」と読む説が有力であった[6]。一方では「たも」に「大墓」の文字を当てるのは不自然であるとして、「大墓」を文字通り「大きな墓」の意味であると解釈することで、岩手県奥州市胆沢南都田にある角塚古墳の被葬者一族の系譜を引くものであると律令国家に認定されたことから大墓公の姓が与えられたのではないかとの推測から、「大墓公」を和語で「おおつかのきみ」「おおはかのきみ」などと読む見解が注目された[5][6]。しかし「公」の姓は和銅3年4月21日(ユリウス暦710年5月23日)に蝦夷族長らに対して本拠地(本貫地)の地名に「君」のカバネを付した姓を与えて編戸に準ずる扱いを保障し[原 8]天平宝字3年10月8日(ユリウス暦759年11月2日)に諸姓の「君」字が「公」字に改められたことを受けて蝦夷族長らの「君」の姓も「公」の姓に換えられたことに由来するため[原 9]、本来「大墓」の字で表されるものは蝦夷居住地域の地名であることから、「大墓公」の解釈に和語として意味を持つ訓読は避けるべきであるとの見解もある[8][5]

一般的に名は「阿弖流為」を「あてるい」、「阿弖利為」を「あてりい」と読み、従来「阿弖流為=アテルイ」とされている[3]

本貫地[編集]

仮に「大墓公」を「たものきみ」と読む場合は大墓が表す地名の候補として、延暦八年の征夷のうち巣伏の戦いで蝦夷軍が朝廷軍に奇襲作戦を仕掛けた地点でもある、奥州市水沢羽田町田茂山を「大墓」の遺称地として「たも」と読む見解があり、現在は田茂山説を採用する研究者が最も多いと樋口は言う[5]。他にも岩手県奥州市江刺に大萬館・小萬館と呼ばれる館跡があることに関連付けて「大墓公」は「大萬公」の誤記ではないかとする説もある[7]

また氏姓ではなく名前こそ地名に由来する可能性が高いとして、跡呂井が出生の地であったのではないかと関連付けられることもある[7]

しかしながら大墓公、阿弖流為、阿弖利為の解釈はいずれも推測の域を出ず、これらの説について高橋崇、は安易に類似の地名を求め、正史の転写次第での誤記とする考え方は危険であると述べている[7]

生涯[編集]

※日付は和暦による旧暦西暦表記の部分はユリウス暦とする。

巣伏の戦い[編集]

延暦八年の征夷がおこると、朝廷軍は延暦8年3月9日789年4月8日)に多賀城から進軍を始め、延暦8年3月28日(789年4月22日)に「陸道」を進軍する2、3万人ほどの軍勢が衣川に軍営を置いた[原 10][9]征東将軍紀古佐美4月6日5月5日)付の奏状で衣川に軍営を置いたことを長岡京へと報告するが、その後30日余りが経過しても戦況報告がないことを怪しんだ桓武天皇は延暦8年5月12日(789年6月9日)に衣川営に長期間逗留している理由と、蝦夷側の消息を報告せよと勅を発した[原 10][9]

衣川営での逗留を責める桓武天皇からの勅が陸奥へと届けられたと思われる延暦8年5月19日(789年6月16日)頃、古佐美は進軍するよう命じた[10]。5月下旬から末頃、中・後軍より各2000人ずつ選抜された計4000人の軍兵が、衣川営を出発後、北上川本流を渡河して東岸に沿って北進、アテルイの居宅やや手前の地点で蝦夷軍300人程と交戦した[原 3][11][12][13]

賊帥夷阿弖流為之居、有賊徒三百許人、迎逢相戦。……
賊帥ぞくすいえみしの阿弖流為あてるゐをるところいたころほひ賊徒ぞくと三百さむびゃく許人にんばかり有りてむかひて相戦あひたたかふ。 — 『続日本紀』巻第四十,延暦八年六月甲戌(三日)条、[14][15]

蝦夷軍は北へと退却したため、朝廷軍はこれを追いつつ途上の村々を焼き払いながら北上し、前軍との合流地点であったらしい巣伏村を目指した[12][13]。しかし前方から800人ほどの蝦夷軍が現れて朝廷軍を押し戻すと、東の山上に潜んでいた400人ほどの蝦夷軍が朝廷軍の後ろへとまわって退路を絶ち、川と山に挟まれた狭い場所に追い込まれた朝廷軍は蝦夷軍に翻弄されて総崩れとなった[13]

朝廷軍の損害は戦闘による死者25人、矢疵を負った負傷者245人、溺死者1036人、裸で泳ぎ生還した者1257人と、胆沢の蝦夷軍は朝廷に対して驚異的な惨敗を与えた[13]。戦死者は陸奥国磐城郡の別将・丈部善理(死後、外従七位下から外従五位下)、進士・高田道成、陸奥国会津郡の人と思われる会津 壯麻呂・安宿戸吉足・大伴五百継達。『続日本紀』には「賊帥夷阿弖流爲が居(おるところ)に至る比(ころあい)」とのみあり[原 3][11]、胆沢の蝦夷軍はアテルイの居宅やや手前で朝廷軍と交戦しているが、アテルイが蝦夷軍を指揮していたのかまでは不明。高橋崇は蝦夷側の抵抗戦線の中心人物であったといってよいだろうとしている[2]

延暦11年(792年)斯波村(志波村)の夷・胆沢公阿奴志己、王化を申し出るも放還。

延暦11年(792年)7月25日爾散南公阿波蘇王化と入朝を希望、11月宇漢米公隠賀と共に長岡京へ入京、爵第一等を授けられる。

延暦13年(794年)6月13日征夷副将軍坂上田村麻呂、百済王俊哲達が蝦夷を征す。

延暦13年(794年)10月28日征夷大将軍大伴弟麻呂「斬首四百五十七首級、捕虜百五十人、獲馬八十五疋、焼落七十五処」と戦勝報告、鴨・松尾神社へ神階を加階、帝は平安京遷都詔をのべた。

降伏[編集]

延暦20年10月28日801年12月7日)、平安京へと凱旋した征夷大将軍坂上田村麻呂が桓武天皇に節刀を返上して延暦二十年の征夷が終結した[16][17]

延暦21年1月9日(802年2月14日)、延暦二十年の征夷で平定された陸奥国胆沢城に胆沢城を造営するために田村麻呂が胆沢の地へと特派されてきた[原 11][18][17]

延暦21年1月11日(802年2月16日)、駿河甲斐相模武蔵上総下総常陸信濃上野下野の10国に対して国中の浪人4000人を陸奥国胆沢城の柵戸として移住させることが勅によって命じられた[原 12][18][17]。胆沢郡下野郷・上総郷、江刺郡信濃郷・甲斐郷という地名は移民の出身地を示している[19]。胆沢城造営についての史料は僅少で、造営開始の時期や完成した時期などは不明である[18]

延暦21年4月15日(802年5月19日)、陸奥国にいた田村麻呂から、大墓公阿弖利爲と盤具公母禮が種類500余人を率いて降伏した報告が平安京に届けられた[原 4][原 5][注釈 1][20][21]

夏四月庚子 造陸奧國膽澤城使 田村麻呂等言 夷大墓公阿弖利為 盤具公母禮種類五百餘降。 — 日本後紀 延曆廿一年、[22]
〇夏四月庚子十五日 造陸奧国胆沢いさわ城使じょうし 陸奧出羽按察使あぜち従三位坂上大宿禰田村麻呂らが、「えみし大墓公おおものきみ阿弖利為あてりい盤具公いわぐのきみ母礼もれらが五百余人の仲間を率いて降服しました」と言上してきた。 — 日本後紀 延曆廿一年、[23]

アテルイらの根拠地である胆沢はすでに征服されており、北方の蝦夷の首長にはすでに服属していた者もいたため、アテルイらは進退きわまっていたものと思われる[20]

田村麻呂へ並び従い盤具公と共に平安京へと向かった大墓公は、延暦21年7月10日(802年8月11日)に平安京に着いた[原 7][24] [25] [26]

甲子、造陸奧国膽沢城使田村麿来 夷大墓公二人並従 — 日本紀略 延曆廿一年、[27]
甲子十日 造陸奧国胆沢城使坂上田村麻呂が帰京した。夷大墓公阿弖利為と盤具公母礼ら二人を従えていた。 — 日本後紀 延曆廿一年、[28][29]

交戦中捕獲した場合戦勝の証拠として都へ進上する原則を適用したものと考えられている[25]

上記に関連して延暦217月25日(802年8月26日)には平安京で百官が桓武天皇に上表を奉って、蝦夷平定を祝賀している[原 13][30][21]

延暦21年8月13日(802年9月13日)、大墓公阿弖利爲と盤具公母禮の2虜は奥地の賊首であることを理由として斬られた。

丁酉斬大墓公阿弖利為 盤具公母禮等、 此二虜者並奧地之賊首也、斬二虜時、将軍等申云、此度任願返入招其賊類、而公卿執論云野性獸心反覆無定、儻縁朝威、獲此梟帥、縱依申請、放還奧地、所謂養虎遺患也、即捉兩虜、斬於河内國□山 — 日本後紀 延曆廿一年、[31][32]
夷大墓公阿弖(流)為・(磐カ)具公母礼等を斬す。此の二りょは、並びに奥地の賊首ぞくしゅなり。二虜を斬する時、将軍等申して云へらく、「此の度はねがいに任せて返入へんにゅうせしめ、其の賊類を招かむ」とまうす。而るに公卿執論して云へらく、「野性やせい獸心じゅうしんにして、反覆さだめし。たまた朝威ちょういりて此の梟帥きょうすいとらふ。し申請に依りて奥地に放還ほうかんすれば、所謂いわゆる虎を養ひてうれいを遺すならむ」といへり。即ち両虜を捉えて、河内国の……やまに斬す。(『日本紀略』延暦二十一年八月丁酉〔十三日〕条) — 樋口知志、[33]

公卿会議で田村麻呂が「この度は願いに任せて返入せしめ、其の賊類を招かん」と大墓公阿弖利爲と盤具公母禮を故郷に返して彼らに現地を治めさせるのが得策であると主張したが、公卿たちは執論して「野生獣心にして、反復定まりなし。たまたま朝威に縁りてこの梟帥を獲たり。もし申請に依り、奥地に放還すれば、いわゆる虎を養いて患いを残すなり」と田村麻呂の意見が受け容れられることはなかった。そのため大墓公阿弖利爲と盤具公母禮は奥地の賊首として捉えられ、河内国□山で斬られた(アテルイ終焉の地節も参照)[原 6][30][34]

死後[編集]

アテルイの死後、胆沢や周辺地域でアテルイと母禮が殺されたことに報復する弔い合戦などの反乱が発生した形跡は一切ない[35]

弘仁5年12月1日815年1月14日)、嵯峨天皇は「既に皇化に馴れて、深く以て恥となす。宜しく早く告知して、夷俘と号すること莫かるべし。今より以後、官位に随ひて称せ。若し官位無ければ、即ち姓名を称せ」と蝦夷に対して夷俘と蔑称することを禁止する勅を発し、ここに征夷の時代が終焉した[原 14][36]

年表[編集]

和暦 西暦 日付
旧暦
内容 出典
延暦8年 789年 6月3日 朝廷軍が阿弖流爲の居に至ったころに巣伏の戦いがはじまった 続日本紀
延暦21年 802年 4月15日 大墓公阿弖利爲と盤具公母禮が種類500余人を率いて坂上田村麻呂に降伏した 類聚国史
日本紀略
延暦21年 802年 7月10日 大墓公と盤具公が坂上田村麻呂へ並び従い平安京へ入京[26]

[26] [24]

日本紀略
延暦21年 802年 8月13日 大墓公阿弖利爲と盤具公母禮が河内国□山で斬られた[注釈 2] 日本紀略

アテルイに関する議論[編集]

アイヌ説の否定[編集]

古代の蝦夷(えみし)について、近年でも「蝦夷=アイヌ説」に立脚した論著が散見されるものの、現在では学会の共有財産となる標準的な見解が成立している[37]

蝦夷の中には渡嶋北海道)の蝦夷などきわめて僻遠の地の集団も含まれているが、本州内にいた蝦夷については、概ね現代日本人の祖先のうちの一群であったことが明らかである。また奈良時代から平安時代初期には、奥羽両国の蝦夷が関東から九州までのほぼ全国に移住させられたことがあり、彼らはその後各地に血統を伝えたこともうかがい知れる[37]

及川洵は、アテルイを研究し、遺跡を調査研究している者の疑問として、アテルイがアイヌ人の祖先であるとされていることについて、古代蝦夷がアイヌ民族であるかどうか「思いつきやムードではなく、純粋に学問的に考えて頂きたい」と論じている[38]

アテルイ終焉の地[編集]

河内国[編集]

アテルイ終焉の地について『日本紀略』延暦21年8月13日条は「即捉両虜斬於河内國□山」とだけ記録している[原 6][39][30][34]。そのためアテルイが斬られた地は河内国(現在の枚方市交野市寝屋川市守口市門真市四條畷市大東市東大阪市八尾市柏原市松原市藤井寺市羽曳野市富田林市河内長野市大阪狭山市太子町河南町千早赤阪村大阪市の一部 [注釈 3]堺市の一部 [注釈 4] )のどこかであるということ以外は不詳である[34]。河内国□山については「杜山」「植山」「椙山」と文献によって異同があることが知られているが、いずれの漢字表記についても「河内国□山」として「村」や「郷」の名が付かないことから地名としての□山ではなく山そのもの指し、郡の名が付されていないことから国の名だけでそれとわかる著名な山であったものと考えられる[40]

西本昌弘による杜山説のように、山城国男山(現在の京都府八幡市の一部)を含める見解もある。

「□山」の漢字表記の異同[編集]

「□山」については、テキストとして広く利用されてきた新訂増補国史大系『日本紀略』では「山」、旧輯国史大系『日本紀略』および増補六国史『日本後紀』(逸文)では「山」、鴨祐之日本逸史』では「山」とあり、かねてより異漢字表記に異同があることが知られていた[34][40]。「河内国」の後に続く地名は、神英雄が写本を調査した結果、主に以下のように分類された[41][40]

  • 「杴山」
名古屋市蓬左文庫本(江戸時代初期)、国立公文書館林家本(江戸時代中期?)
  • 「植山」
宮内庁書陵部谷森本(谷-一九五・江戸初期)・谷森本(谷-三四〇・江戸中期)、宮内庁書陵部久邇宮文庫本(江戸時代末期)、無窮会神習文庫菊屋幸三郎校本(江戸時代後期?)
  • 「(欠)+山」
宮内庁書陵部松岡本・日本紀類(江戸時代中期)
  • 「椙山」
宮内庁書陵部編年紀略(江戸時代末期)・日本逸史(宝永7年(1710年))、神宮文庫天明四年奉納本(江戸時代中期)・三冊本(江戸時代末?)、無窮会神習文庫大覚寺本(江戸時代後期?)、国立公文書館内務省地理局本(江戸時代後期?)、東洋文庫東洋文庫本(文政7年)
  • 「榲山」
無窮会神習文庫会田家蔵書本(江戸時代後期?)
  • 「木山」
神宮文庫明治写

神は『日本紀略』の写本を調査した結果、新訂増補国史大系が「杜山」としているのは、宮内庁書陵部所蔵久邇宮文庫本の「植」のくずし字を読み誤ったもので、「杜山」と記す写本が存在しないことを明らかにした[42][34][40]。また調査した30本程度ある『日本紀略』の写本のうち、判読不能なものもあるが24本を閲覧調査して、おおむね「植山」と「椙山」に分けるとこができた[注釈 5][42][40]。また「植山」を「椙山」へと訂正した写本が複数あること、「植山」と記された4例の写本はすべて興福寺門跡一条院の伝本に関連した同一系統であることに対して、「椙山」と記された10例の写本は原本を一つの系統に求めることが困難であるため、『日本紀略』の原本に掲載されていた本来の文字は「椙山」であると結論した[42][40]

西本昌弘は、杜山を牡山の誤写とみなし山埼橋南詰(現在の京都府八幡市橋本から大阪府枚方市楠葉中之芝付近)の牡山(男山・京都府八幡市[43])をアテルイの処刑地と推定している[44][40]

今泉隆雄は、神の述べる通り「杜山」は誤りだが、植山説と椙山説のどちらが正しいかはわからないとしている[45]

宇山説・杉山説ともに有力な批判もあり、現在、アテルイが斬られた地は河内国のどこかであること以外は不詳である[34]

河内国植山[編集]

河内国植山という記述からは、「ウエヤマ」という地名が旧河内国内において他には見当たらないため枚方市北部の旧宇山村(1966年宇山町・宇山東町・養父東町・養父西町・養父元町・養父丘1~2丁目・東牧野町・牧野下島町・牧野本町1~2丁目、1968年招提田近3丁目・東山1~2丁目、1971年牧野北町、1973年楠葉面取町となる※他の地区と混ぜ合せ区分けされている[46])と推定されている。旧交野郡宇山村は元和元年(1615年)に上山村から改称したとされる[40]吉田東伍の著書『大日本地名辞書』は植山は宇山と記述している。

宇山……延暦二十一年坂上田村麿蝦夷二酋を河内植山に斬ると云ふは此なるべし……乃斬於河内植山。〇宇山の東一里菅原村大字藤坂に鬼墓あり夷酋の墳歟。……津田……於爾墓オニツカ〇河内志云、王仁墓、在河内國交野郡藤坂村東北墓谷、今稱於爾墓。按ずるに此は百濟博士王仁にや、又蝦夷酋を植山に斬りたれば、是其墓にあらずや。 — 吉田東伍,大日本地名辞書(1900年(初版),1907年(第二版),1913年(第三版),1937年(再版),1969年(増補版),1992年(新装版))、[47]

吉田は『日本紀略』に掲載されているアテルイ処刑地だけでなく埋葬地についても旧菅原村藤坂の鬼墓と記載している[47][40]。 鬼墓は関祖衡並河誠所が企画し、関の死後、並河を中心として編纂された『五畿内志』等を根拠に「伝王仁博士墓」とされている(王仁#遺跡と顕彰運動参照)[48]また発掘調査の結果、宇山の丘は古墳だったことが判明している[要出典]。 『大日本地名辞書』はその後に出版された地名辞書類や専門書などに影響を与え、『大阪府全志』[49]1922年)、『枚方市史』[50]1951年)、『角川日本地名大辞典』27巻[51]1983年)、『日本歴史地名大系』第28巻[52]1986年)などでも河内国植山は宇山であると書かれ続けている。

うやま 宇山<枚方市>……延喜年間坂上田村麻呂が蝦夷の首長2人を斬った土地とする伝説がある(地名辞書・全志4) — 角川書店、角川地名大辞典 27 大阪府Ⅱ(1983)

今井啓一百済王祖廟に近いここ宇山に斬ったのではなかろうかと述べているいる[53]

……大字宇山(関西医科大学の西北)がある。旧くは上山村と称し、元和年間に宇山の文宇に改めたようであるが、旧名の上山は植山であろう。この地にことさら蝦夷の二酋を拉致して斬ったというのは、……心ならずも二酋を百済王祖廟に近いここ宇山に斬ったのではなかろうか —  今井啓一[54]

一方、枚方市は「宇山=植山説が成立するためには、(a)河内国杜山や、(b)河内国椙山よりも、(c)河内国植山の方が正しいことを論証する必要がある[55]」と主張、鈴木拓也は宇山町をアテルイ終焉の地とするには「植山」が正しい漢字表記であること、「植山」と「上山」が結びつくことを証明しなければならないと指摘している[40]

河内国椙山[編集]

河内国椙山という記述からは、スギヤマという地名が旧河内国内において他にはないため枚方市東部の「杉」(旧交野郡杉村)と推定されている[56][34][40]

しかし「河内国□山」は「村」や「郷」の名が付かないことから地名としての□山ではなく山そのもの指し、郡の名が付されていないことから国の名だけでそれとわかる著名な山であったものと考えられるため疑問が残る[40]

河内国杜山[編集]

河内国杜山という記述は枚方市や[57]、牡山すなわち男山[58][43]に比定した説がある[40]西本昌弘は杜山は牡山で延暦4年(758年藤原種継暗殺事件実行犯牡鹿木積麻呂が処刑された「山埼橋(やまざきばし)南の河の頭」であろうと推定している。山埼橋の南は男山である[40]。現在、男山は京都府八幡市の鳩ヶ峰とその周辺地域をさすが、山城国と河内国の境界に位置し「河内国交野雄徳山」と表記する例もある[原 15][40]

「杜山」は「牡山おとこやま」(男山[43])の誤写であろう。牡山烽火とぶひ山城やましろ・河内両国の境界にあったが(『日本後紀』延暦十五(七九六)年九月一日条)、七八五(延暦四)年には藤原種継たねつぐ暗殺事件の実行犯が「山埼橋やまざきばしみなみの河頭かとうで斬られている(『日本紀略』延暦四年九月二十四日条)。山埼橋南詰の牡山は平安初期の刑場だったのであろう。 — 西本昌弘、[59]
牡山烽火。無相當。非常之備。不蹔闕。宜山城河内兩國。相共量定便處彼烽燧 — 日本後記 延暦十五年九月一日条、[60][61]
*牡山おとこやま[62]の*烽火とぶひ[63]相当あいあたる所無し。非常のそなえしばらくもからず。宜しく山城・河内両国、あい共に便処びんしょを量り定め、の*烽燧ほうすい[63]を置くべし — 日本後記 延暦十五年九月一日条、[64]


今泉隆雄は牡鹿木積麻呂らが処刑された山埼橋の南は交通の要衝であり、人の会集するところのため、ここでの死刑執行は律令が規定する東西市でのそれと同じ意味をもったと指摘している[40]

河内国と禁野[編集]

杉村・宇山村がある現在の枚方市周辺は桓武天皇がたびたび遊猟をおこなった交野の地で、桓武天皇の外戚で陸奥鎮守将軍等を務めた百済王氏の本拠地付近となる[34]。旧杉村・旧宇山村がある枚方市には明確にいつからかは不明であるがかつて天皇が所領する「禁野」があり、一般人の鷹狩は禁じられていた。朝廷が自ら禁野を穢すとは考えられないため杉・宇山を比定地とすることに対して批判もある[34][65][66]

馬部隆弘は、宮内庁書陵部「満基公記 合綴 河内国禁野交野供御所定文 道平公記抄出」にて記された禁野の大まかな地理的記述[67]からその範囲を推定して宇山説を否定する見解を示している[65][68]

……禁野内に死人が放置されることがないよう日々の巡回警護を「野守専当」の職分として定めていたり、忌日にあたっている者が供御所に勝手に墓をつくることを禁じる条文がみえる。……  一、御野内にて穢駈鷹駈の外ハ曽不可殺生者也  鷹の餌を獲るための狩り(穢駈)と鷹を使っての狩り(鷹駈)以外の殺生は禁じるというものである。……禁野の中心やや西寄りに位置する宇山でのアテルイ処刑など毛頭考えられない。 — 馬部隆弘、[65][68]

一方では、室町時代の禁野の範囲とアテルイが処刑された平安時代初期・西暦802年の禁野の範囲や禁野の定義、穢れについての概念が合致していたかどうかは定かではなく[69]、また旧宇山村他は京都府と大阪府の国境線上の山地に飛び地があり墓地等ももうけられ[70][71]、中世墓地も出土している[72](この地域は両墓制がみられる[73])。そのためアテルイが斬られた802年の後の大同3年(808年)河内国交野雄徳山(男山)[43][58]での埋葬が禁じられているが、宇山村東山飛地は男山の裾野にあたるとの見解もある。

埋於河内國交野雄徳山。以供御器之土也。 — 類聚國史 大同三年正月廿八日条、[74]
河内国かわちのくに交野かたのの*雄徳山おとこやま[62][43][58]葬埋そうまいするをきんず。供御くごうつわを造るの以てなり。 — 日本後記 大同三年正月廿八日条、[75]

枚方市のアテルイ首塚問題[編集]

通称「首塚」と伝阿弖流為・母禮之塚の碑(牧野公園)

首塚と牧野阪古墳[編集]

大阪府枚方市牧野阪の片埜神社裏にある牧野公園(片埜神社の旧社地)に「伝 阿弖流為 母禮 之塚」碑がある。顕彰碑が整備される以前は「首塚」と称される塚状の高まりであった[76] [77][78]。遺跡地図ではその場所に牧野阪古墳が記され[79] [80]、その隣に西寺の瓦が出土した牧野阪瓦窯跡が記されている。周辺一帯は牧野阪遺跡と呼ばれている。

枚方市史第一巻の「阪の古墳」[81]昭和28年(1953年)の台風13号被害復旧のために宮川徒達が見守る中、重機で破壊された。発掘はされていないので小丘が確実に古墳であったのかどうかは不確定でありその日時や詳しい場所や残存物処理方法も未記載である。

昭和28年秋近畿地方を襲った13號台風の被害復舊工事のため、建設省のもとに本古墳一帯が土砂採取地に當てられた。そこで直に調査にかゝったが、パワーショベルによる機械化採土のため、主体部遺構など充分調査しえないまゝに破壊されてしまった……ほゞ高さ3~4m径15m前後の圓墳で……恐らく粘土や砂礫などの棺外設備を設けず、たゞ木棺をそのまゝ直葬した様な最も簡単な埋葬形式のものと考えたい。遺物としては圓筒埴輪の小片のみであるが、古墳の年代推定に手がかりを興える貴重な資料となった。……そしてこれらの點より本古墳の年代も、5世紀とは下らないと推定される。なお、御援助下さった北野耕平生澤英太郎の兩氏に感謝したい。 — 宮川徒、[82]

馬部隆弘令和元年(2019年)5月「枚方市字阪の一古墳概報[82]」にて報告された古墳の所在地を1954年当時は大阪歯科大学の学生であった宮川徏へ尋ねアテルイの「首塚」のある牧野公園西側敷地ではなく道路を挟んだ東側敷地であるとの回答を得たため「阪の古墳」で引用された「枚方市字阪の一古墳概報」で報告された破壊された古墳の所在地と「伝 阿弖流為 母禮 之塚」碑の場所は異なると発表した[83]。「枚方市字阪の一古墳概報」の古墳は現在「牧野阪古墳」であると記載されている[84]

2017年10月馬部隆弘は枚方市史資料室が所蔵する枚方市広報課旧蔵アルバムの1952年の伝阿弖流為母禮之塚の碑周辺から片埜神社・清岸寺方向を見渡した写真を掲載、「荒れ地で、塚らしいものは見あたらない」と報告した[85]

牧野阪二丁目の伝阿弖流為母禮之塚の碑の土地[86]と2020年宮川徏が「枚方市字阪の一古墳概報」の古墳の場所であると指摘した宇山町の土地[87]が個人から枚方市へ売られたのは登記簿によると1954年3月31日である。

1948年の航空写真では牧野公園は森である[76]が、1956年[77],1961年[78]の航空写真では地面が剥き出しになっている様子が撮影されている。

胴塚と蝦夷首長処刑「伝承」[編集]

伝承や書籍の掲載は複数種類ある。

  1. 1900年『大日本地名辞書』アテルイが斬られた宇山と葬られた藤阪の鬼墓(現・伝王仁墓[47]
  2. 1979年報道の「蝦夷の統領が処刑された場所」である宇山町[注釈 6]の古塚と「アテルイ」埋葬場所と思われはじめた「戦いに負けた大物武将の首塚」と伝えられてきた牧野阪の牧野公園内のマウンド[88]
  3. 1988年地域文化誌まんだ等で掲載されたアテルイの胴体を埋葬した胴塚である宇山東町の宇山一号墳と、首を埋葬した首塚(牧野阪の牧野公園内のマウンド)[89]

処刑地かどうかは発掘では判定できない。藤阪の鬼墓と首塚は未発掘であるが胴塚は発掘の結果平安時代以前の古墳と判明、その上から埋葬した等でなければ1988年地域文化誌まんだが掲載したアテルイ胴体が葬られた胴塚という伝承は史実ではないと判明したことになる。江戸時代の祭祀跡が出土したため、村人が被葬者をアテルイと考えたのではないかと瀬川は推定している[90]が、胴が埋葬された胴塚というまんだの記載と地元の「蝦夷の統領が処刑された場所」という古塚の伝承との関係性は未知である。

1988年、どの地域の伝承かは明記されていないが、瀬川芳則は胴塚のアテルイの胴体が埋葬された伝承は寛文四年(一六六四)「悪路王首像」鹿島神宮奉納をきっかけに誕生したのではないかと推定している。悪路王高丸は伝承民話にてアテルイと同一視される場合がある。

河北新報社で私が案内された首像の台座には、「伝蝦夷王大墓公でんえぞおうたものきみ阿弖流為首像」と刻んだプレートがあった。この首像は奥州住人水谷加兵衛が、寛文四年(一六六四)に「悪路王首像」として鹿島神宮に奉納した首像の複製品であるが、……河北新報社主であり祭主でもあった一力一夫氏…「…母礼ともども斬刑に遭ったのであります。……公の首級が遥か千里を飛んで楽土を潤す北上河畔に帰ったという言い伝えが、やり場のない往時の人々の心情を物語っております。」(社主祭文より)
ドウ塚を阿弖流為の胴塚とする俗説は、どうやら相当新しい時代に生み出されたように思える。さきの河北新報の祭文にもあるように、蝦夷王大墓公阿弖流為に対する無念の気持は、斬首された首級が遥か千里を飛び、懐かしい故郷の北上河畔にもどってきたという伝説を生むにいたるのである。鹿島神宮に首像が奉納された一七世紀には、それはできあがっていた伝説であるかも知れない。あるいはこの首像奉納がきっかけとなって、こうした話が生みだされたのかもしれない。 そしてこの首級帰郷の伝説をよく知る者によって、首の無い遺骸を葬る胴塚の発想がなされ、さらに宇山というかっ好の地にかの俗説を定着させたものであろう。 — 瀬川芳則、[89]

2020年、馬部隆弘は枚方市宇山にて蝦夷が殺害されたという「伝承」を話す人達は確かに何人も存在したがそれらは『大日本地名辞書』の記載が発端となったものにすぎず、伝承とは先祖代々伝わってきたものを指すのでありそれらの証言は伝承ではないと判断、この程度の事は説明する必要がないと考え記載しなかったと述べている。

アテルイが当地近くで殺害されたという言説は、明治33年(1900)に刊行された吉田東伍氏の著書に始まり、昭和47年(1972)に刊行された『枚方市史』などにも引用されている。これらは、『日本紀略』の解釈から提示された仮説・学説で、当然ながら伝承ではない。 一方で、枚方市には蝦夷が殺害されたという「伝承」があると熱心に主張する方々もたしかに何人もいた。しかし、蝦夷が殺害されたという「伝承」は、どう聞いても先祖代々伝わってきた類のものではなく、明らかに上記の学説が発端となったものばかりであった。このようなものは到底伝承として扱えなかった。また、この程度のことを説明する必要もないというのが当時の筆者の判断である。 — 馬部隆弘、[83]

2006年、枚方市で勤務していた馬部隆弘は『大日本地名辞書』(1900年)の「アテルイ宇山で斬られ藤阪で埋葬される」という記載は一般には広がらなかったと述べていた。

……この説の初見は、明治三三年(一九〇〇)に出版の始まる吉田東伍『大日本地名辞書』である。この書の「宇山」の項には「牧野村大字宇山は大字坂の北に接す。延暦二一年坂上田村麻呂、蝦夷二酋河内植山に斬ると云ふは此なるべし。」と記されている。『大阪府全志』や旧『枚方市史』にもこの記述は踏襲されるが、この説が一般に広まることはなかったようで、昭和末期に至るまで管見の限りガイドブックなどの一般書への掲載は確認できない。 — 馬部隆弘、[91][92]

戦前~1960年代前半[編集]

1900年吉田東伍『大日本地名辞書』出版 [93]

1907年『大日本地名辞書』第二版出版[93]

1913年『大日本地名辞書』第三版出版[93]

1922年『大阪府全志』出版[49]

1937年『大日本地名辞書』再版[93]

1951年『枚方市史』出版[50]

1969年増補版『大日本地名辞書』出版[93]

昭和42年(1967年和歌森太郎博士考証の学習漫画日本の歴史3貴族の黄金時代平安時代(集英社)出版、日本紀略では夷大墓公阿弖利為と盤具公母礼達が五百余人の仲間と共に降伏したと書かれているが、漫画では坂上田村麻呂の朝廷軍が山側と河側からアテルイ軍を挟み撃ちにして蝦夷の城をおとし、自害しようとするアテルイを田村麻呂が止めて降伏させる物語として描かれている(続日本紀で書かれた坂上田村麻呂が東北へ派遣される前の巣伏の戦いで川と山に挟まれ追いつめられ大敗したのは朝廷軍側である)。貴族たちは「アテルイほどの男だいちどたすけてもまた勢力をもりかえずぞ」と河内国での処刑を実行、アテルイは「田村麻呂につたえてくれもういちどあいたかったと」とのべ、田村麻呂は「蝦夷に生まれたばかりにかわいそうなアテルイ!」と手をあわせている[94]

1979年頃・メモの女性[編集]

昭和47年(1972年)枚方市史第2巻出版。

……宇山=植山説が成立するためには、(a)河内国杜山や、(b)河内国椙山よりも、(c)河内国植山の方が正しいことを論証する必要がある — 『枚方市史』 2巻、[55]

平成5年(1993年)の枚方市議会にて、教育委員会社会教育部長が20年前(1973年)頃からいわれはじめたという伝承について語り、議事録に残されている。2006年この議事録を引用した[65]馬部隆弘は2020年3月教育委員会社会教育部長は1990年5月25日の日付けのメモを残した田宮久史であると発表した[83]

……まだ、ほんの20年ほど前から一部の方が胴塚とか、首塚とか、宇山地区にはそういう多分古墳だろうと思うんですが。実際胴塚と呼ばれていますところは発掘調査の結果、古墳だったということがわかりましたが、首塚、胴塚というようなことで伝わってきておりました。しかし阿弖流為のと言い出したのは、ほんの20年ほどのことです……盛んに水沢市の方からラブコールが起こったということでございます。確かに水沢市の方からいろいろ申し入れもあったんですけれども、おっしゃるような形でお断りを申し上げたというのが実情です。 — 枚方市教育委員会社会教育部長『平成五年第三回定例会 枚方市議会会議録』A議員の質問及び答弁(四三六~五六抜粋)、[95]

アテルイの首塚は1970年代末から言われ始めたことであり、牧野公園のある牧野地区に古くからそのような伝承があった形跡は全く認められていないとの意見もあるが[40][96]、記録では1970年代前半から言われ始めているようである。

2002年から2012年まで枚方市で勤務していた馬部隆弘は、2006年発表の論文で勤務先で発見した枚方市史編纂室担当者であった田宮久史1990年5月25日付けメモ(現在は枚方市立中央図書館市史編纂室にて保管)にて書かれていたそれよりさらに10年ほど前(1979年頃)の出来事を元にアテルイの首塚伝承の成立過程を説明、「枚方市においては、二〇年間では無理だが、三〇年間語られると「伝承文化」として成立するようである」と批判した[65]

……(1)一〇年ほど前、牧野地区の女性が市史編さん室に時々電話してきた。曰く、夢に時々長い白髪で白いあご髭の人が地中から半身を乗り出して何かを訴える。どんな人で何を言っているのかわからないが、昔この辺で何かありましたか。(2)田宮ほとんど冗談として対応。昔、エゾの酋長が斬られた話がありますから、そんな関係でしょうか。(3)その女性、また後日曰く、きっとその酋長だと思う。恨みをもって未だに成仏できずに苦しんでいるに違いない。きちんとお祠りしてあげなさい。(4)……(2)北上(河北)新報大阪支社の記者は河内で斬られたとすることから本市を訪ね、田宮から女性の存在を知り、片埜神社宮司を取材して、アテルイの墓を発見したとばかりに大きく報道した。(3)…… — 馬部隆弘発見の枚方市史編纂室担当者田宮久史1990年5月25日付けメモ、[65][97][40][96]

1979年・河北新報の報道[編集]

通称「首塚」(大阪府枚方市牧野公園)
通称「首塚」の石(大阪府枚方市牧野公園)

昭和54年(1979年)、河北新報大阪支社は『蝦夷の統領ここに眠る?』という記事で「阿弖流為処刑地と埋葬場所見つかる」「地元の人々が保存」「大阪枚方 古くから首塚の伝承」と報道した。

首塚は式内片埜神社の古くからの氏子が発見し、その後追跡調査した先々代の宮司さんは、宇山町の竹薮内で処刑地と古老たちが伝えていた小さな塚山を見つけたという内容であった。
現在の「枚方市宇山(うやま)町」が有力とされているものの、同編さん室ではなお“確証がない”と懐疑的な立場をとっている。ところが数年前、同神社の氏子……が、元の神社の神域で現在は公園になっている神社のわきにある首塚を発見した。古くから「ヘビ塚」「鬼塚」などと呼ばれ、付近住民の間には“さわるとたたりがある”などの言い伝えが残されていたという。「もしや斬刑にされた蝦夷の統領を葬ったものでは!」との声が付近住民から高まり、市民有志が約5メートル四方、高さ2メートルの土盛り塚に柵(さく)を巡らし保存するようになっていた……この塚の中央には長い間の風雪でかなりすり減った高さ五十センチぐらいの自然石が置いてあり、……岡田宮司によると三年ほど前には二つの石碑があった。同宮司は……(2)神社の所在地は地理的に河内国でも京都に一番近く、地元には古くから”戦いに負けた大物武将の首塚がある”との伝承があった(3)現場は、小高い丘のように土が盛ってあり“たたりがある”などの言い伝えがあったためか、人の手が入った様子は全くない……たまたま最近、同神社から北東に1キロほど離れた同市宇山町の竹やぶでも高さ3メートル、周囲5メートルぐらいの古塚が発見され、朽ちはてた桜の古木とともに、古くから「蝦夷の統領が処刑された場所」と伝えられていることがわかった。 この場所は、同町二九四と二九五[注釈 6]の境にあるが、土地の所有者は昔から「自分の土地ではない」と忌みきらっていたという。こんなことから、見方によっては「処刑地」と「埋葬地」が合致することになり、貴重な遺跡に間違いないと地元では話題を呼んでいる。……梅原猛京都市立芸術大学長の話……ここが二人の蝦夷(えぞ)の首領の処刑の地と結び付くかどうかは、確証がない限りなんとも言えないが、できればもっと地元の古老の証言が欲しい。 — 河北新報、[88]

蝦夷の統領が処刑された場所という伝承がある宇山町の古塚はその地番が同じことから宇山東町295にあった宇山二号墳の可能性がある。ちなみに宇山遺跡の東に隣接する養父丘遺跡の比丘尼塚古墳には蘇我氏・物部氏の争いで大勢の尼僧が斬られて埋葬されたという伝承が伝えられていた[99]。今は石室と思われる花崗岩と須恵器等が残っている[100]

1982年、河北新報担当者はアテルイの墓探索を切望し、地域史雑誌まんだ編集部を訪れている。

実はこの発掘調査のはじまる二ヵ月前、私は仙台市に本社がある河北新報社で、……阿弖流為の首像に案内してもらっていた。……昭和五七年の秋のある日、「まんだ」編集室にこの河北新報社から二人の来客があった。来訪の主旨は、阿弖流為の墓が発見できたかどうかの確認をすることであった。そして明治維新以来、東北地方は日本の政治の中で軽んじられてきたが、こうした東北蔑視の根源は、遠く阿弖流為斬殺の時代にまでさかのぼること。また戊辰戦争に勝ち誇った薩摩や長州「官軍」は、「白河(福島県)以北、一山百文」と東北地方の人と山河を嘲笑したのであったが、これに憤慨した一力健治郎は東北蔑視許せずと河北新報を発刊し、その振興につとめてきたこと。……いつの日にか阿弖流為の墓を発見して欲しいと力説されたのであった。……河北新報社主であり祭主でもあった一力一夫氏は、阿弖流為らの戦いぶりとその処刑について次のように述べている。「楽土は、やがて大和朝廷の覇道が侵すところとなり……日高見国は、卓越した行政機構、軍事組織を持ち、その独立と自尊とを誇り得る国でした。朝廷軍の侵攻に対しても、四度にわたってこれを撃破、敗走させましたが、……坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、……東国の各族長は朝廷の軍に投じ、公(阿弖流為)も、磐具公母礼と共に、民を安んぜんがため十余年に及ぶ矛を収め、和議に応じたのであります。将よく将を知り、田村麻呂は、朝廷に楽土東国の山河、人身の全きを期さんとする公の意を汲み、公と共に京に赴いたのでありましたが……母礼ともども斬刑に遭ったのであります。公の無念さ、東国の人々の怒りは如何ばかりであったか。公の首級が遥か千里を飛んで楽土を潤す北上河畔に帰ったという言い伝えが、やり場のない往時の人々の心情を物語っております。」(社主祭文より) — 瀬川芳則、[101]

1983年『角川日本地名大辞典』27巻出版[51]

1985年今井啓一 『百済王敬福』改1985年版出版[102]

1986年『日本歴史地名大系』第28巻出版[52]

1988年・胴塚と宇山一号墳[編集]

1988年、枚方市文化財研究調査会が数ヵ月かけて宇山遺跡の発掘調査を実施し、河北新報が「蝦夷の統領が処刑された場所」と報道した宇山町の古塚[注釈 6][88]から道路を挟んで東側の宇山東町290外7筆の塚を6世紀後半の宇山一号墳[103]と命名し、アテルイの胴塚の伝承を持つと記した[104][98]

枚方市宇山町の竹籔の一面に、「どうづか」と呼ぶことのある直径約15メートルの小マウンドがあった……そして「どうづか」とか「胴塚」で、延暦21(802)年に斬首された蝦夷王阿弖流為の、首の無い遺骸を葬った塚だという……昭和57年の秋のある日、「まんだ」編集室にこの河北新報社から二人の来客があった。来訪の主旨は、阿弖流為の墓が発見できたかどうかの確認をすることであった……いつの日にか阿弖流為の墓を発見して欲しいと力説されたのであった — 瀬川芳則、[101]
片埜神社の北にある牧野公園の中には、阿弖流為の首塚だと伝承されたマウンドがあります。今回、調査されたマウンドも阿弖流為の胴塚だと言い伝えられていました — 三宅俊隆、"枚方市"宇山一号墳""まんだ35号,1988年1月
……宇山遺跡の所在地に、住宅建設が行われることになった昭和六三年。枚方市文化財研究調査会は、開発予定地の遺跡発掘を、四月末から七月中旬まで実施している。……墳丘を四分割……近世の屋瓦と多数の灯明皿(土師質小皿)があった。これは墳丘の上に小さな祠をおき屋根に瓦を葺いていたこと、そして人びとがまつりごとを行っていたことを示している。江戸時代の人が、ここを阿弖流為の墓だと考えていたらしい……江戸時代の人が、この古墳を壊した時には、横穴式木室も木棺もすでに腐って失われてしまっていたことであろう。人びとは、床面に散乱する人骨や歯を見て、大いに驚きかつ恐怖し、もう一度土を盛り上げたのであろう — 瀬川芳則、[90]
まず最上部に小型の近世の屋瓦と多数の灯明皿……墳丘の盛り土の中を調べると、六世紀後半頃の須恵器と江戸時代のくらわんか碗(古伊万里・古曽部)が混りあっているという。これでこの墳丘状のマウントが、江戸時代に積み上げた土盛りであることが判った。……墳丘状の盛り土を取り除くと、人骨とひと目で判る骨片や鉄製の鏃・ヤリガンナ・鍔(つば)が付いた直刀(ちょくとう)・馬の轡(くつわ)などが多くの須恵器と共に見つかりはじめた。……そしてやはり六世紀後半の古墳があった。……墓拡を掘った方は、組合せ式木棺直葬墓である。……もうひとつの木棺墓は……横穴式木室とよべる構造が、この江戸時代の土盛りの下から現れたわけである。……そのころの当地には三浦蘭阪岡田本房・小野逸子など学者・文人が少なくない。こうした人びとの中から、いつの日にか、阿弖流為の墓などという意見がでたものであるかも知れない。 — 瀬川芳則、"蝦夷王阿弖流為と古墳"改訂増補版 イモと蛸とコメの文化-稲作と民俗の考古-,1991年,225-228頁

1988年当時は地元で胴塚と伝えられていたと語られていたが、2013年になると宇山一号古墳が発見されて以来、地元では古墳が発見される以前よりアテルイの首塚とセットで「胴塚」と呼んでいたという確証のない話が伝えられはじめたと語られるようになった[98][40]

岩手県側の顕彰運動の高まりと舌禍事件[編集]

旧水沢市社会教育課内では「アテルイを顕彰する会」、大阪府吹田市では「関西胆江同郷会」が誕生。

岩手県胆沢・江差地方の人々の阿弖流為礼賛は著しいものがある。二市三町一村のこの地帯では「アテルイの里」を宣言、標榜して観光立地を推進しているし、もっと感心することに、吹田市の高橋敏男氏を会長とする「関西胆江同郷会」が、阿弖流為と母礼の慰霊・顕彰のための碑を建てたことがある……彼らの終焉の地とされる枚方市に建碑を策した高橋会長たちは、学術的根拠を優先する当局からの許可を得られないでいた。そこに田村麻呂建立の名刹京都東山の音羽山清水寺で、森清範貫主の理解ある英断によって、平成六年、岩手県産御影石のの堂々たる碑が境内にでき、……地元には水沢市社会教育課内に事務局を置く「アテルイを顕彰する会」があり、地元の大先輩顕彰は追慕と讃仰の念に満ちている。 — 新野直吉[105]
碑の「建立記念誌」の「アテルイを顕彰する会」藤波隆夫会長の「阿弖流為をおもう」によると、昭和六十年に高橋会長と「熱い思いでアテルイを語りあった」とあり、同六十二年に両会長は枚方市を訪ね、この時「関西胆江会」が発足し「会長に高橋敏男さんが推され」とあるので、こちらの文章がより正確に顕彰運動の萌芽期を示しているものと受け止められる。 — 新野直吉、[106]

1988年2月28日、東北熊襲発言事件が発生する。

1989年、関西岩手県人会・関西アテルイ顕彰会は何度か枚方市へ足を運び供養碑建立を陳情したが枚方市から確証がないと却下される[107]

1990年5月25日付け枚方市史編纂室勤務の田宮氏のメモが2006年公開される。1990年から更に約10年前のある市民との出来事が、アテルイ首塚の由来となったという旨が記載されていた[65]

1990年6月1日「北天鬼神-阿弖流為・田村麻呂伝」出版。第二章4節にて東日流外三郡誌の荒吐王阿弖流為を掲載した流れで、東北地方各地のアラハバキ神の写真を掲載しつつ下記のように紹介している。

……大方の貴族官人は田村麻呂の嘆願を聞き入れる耳を持たなかった。-野生獣心、反覆定まりなし……奥地に放し返せば、いうところの虎を養い、災いを残す- 蝦夷を人間ではなく獣とみているのである。……北上市出身の東海大学教授・相沢史郎氏から、その杜山を調査した貴重なレポートをいただいたので……十年ほど前、牧野公園に不思議な伝承があるということがわかった。この塚は、「へび塚」とか「鬼塚」と呼ばれていた……また、近くには蝦夷の統領が処刑され、埋葬されたという伝承のある古塚もあったことから、このへび塚こそ阿弖流為と母礼の埋葬地であろうとされた、というのである。このレポートで相沢氏は「へび塚」の呼称は、エビ塚、エミシ塚が転化してへび塚となったものが多い、と付記している。……この百済王氏の本拠地で阿弖流為たちを斬ったのはどういう意味があるのか、というのだ。相沢氏はいう。「これは、古代の征服は、荒ぶる神の呪力を鎮めることから始まってまつろわぬ者の征服が行われた。……阿弖流為も母礼も、国家鎮護の神社に祀られたのであろう。だが、祈願されて阿弖流為たちの魂は鎮まったのだろうか。いや、平安京の暗黒の夜の空を、すさまじい叫び声をあげて飛びまわる鬼の首こそ、北のまつろわぬ魂であったのだ。いまもこの魂たちは鎮まっていないのかもしれない。」と。」 — 菊池敬一[108]

へび塚の名称は枚方市出口の光善寺「蛇塚」の、鬼塚の名称は藤阪の「ワニ塚(オニ塚)」のものと思われる[109]

1991年、岩手県人会や縄文アテルイ・モレの会はアテルイの首塚の掲示板の設置を枚方市へ申請、却下される。枚方市への碑の建立は学術的根拠を理由に断られ続け、京都・清水寺にて建立されている。

一方、それ以前より、岩手県人会や縄文アテルイ・モレの会では、平成元年と2年にアテルイの首塚の掲示板の設置を申請されましたが、これも許可されず、結局のところ、田村麻呂が建立したと言われる清水寺に、建都1200年の記念の一環として、平成6年に顕彰碑が設立されたものであります。

……来年度より使用される中学校の社会科教科書5社にもアテルイと坂上田村麻呂が取り上げられ、牧野公園の塚にアテルイが埋葬されているということも言及されている教科書もあるようであります。

 また、去る9月、水沢市羽黒山公園にアテルイ、モレの慰霊碑が建立され、牧野公園の塚から持ち帰られた土がここに納められたようでありますし、この記念日に、牧野議員団の池上議員も、牧野歴史懇話会の顧問として同行されました。 — 堀井勝議員、[110]

宇山二号墳の発掘調査[編集]

1990年11月21日~1991年5月16日・1991年9月9日~10月3日、宇山遺跡第15次調査で宇山東町295-1の6世紀前半の古墳、宇山二号墳が発掘調査される[111]

宇山一号墳……非常に珍しい「横穴式木室」と「組合式木棺直葬(墓)」が並列してみつかり注目を浴びました……今回の調査地……宇山二号墳……棺内に二体が合葬されていたものと思われます。 — 三宅俊隆、"枚方市・宇山遺跡(第一五次調査)"まんだ43号,1991年

『日本の歴史 5 平安建都』にて、出典不明の伝承と共に首塚が「伝アテルイの首塚」として塚の上の石の写真と共に取り上げられた。

72伝アテルイの首塚 坂上田村麻呂の助命もむなしく殺されたアテルイ。付近に胴塚もあり、アテルイの怨霊を慰撫するために作られたと伝えられる。大阪府枚方市。 — 瀧浪貞子[112]

1992年新装版『大日本地名辞書』出版[93]

1994年・清水寺の碑と逆説の日本史[編集]

北天の雄 阿弖流為母禮之碑(音羽山 清水寺)

平成6年(1994年)11月6日、京都市東山区清水寺にて平安遷都1200年を記念して「北天の雄 阿弖流為 母禮之碑」の除幕式と法要が執り行われた。顕彰碑は関西胆江同郷会、アテルイを顕彰する会、関西岩手県人会、京都岩手県人会によって建立された[113]

清水寺の碑は、もとは岩手県人会などが「枚方市にあるアテルイの首塚と称されるものにアテルイの碑を建てたい」と希望したことに対して、枚方市が「歴史的根拠のない場所に顕彰碑を建設すべきでない」と断ったことから、清水寺にアテルイの碑が建てられたという経緯がある[98]

平安建都一二〇〇年(平成六年・一九九四)に古代東北・蝦夷の雄・阿弖流為(アテルイ)・母禮(モレ)り顕彰碑を京都・清水寺境内に建立し……当初(一九八九年)はアテルイ首塚の伝承地、枚方市牧野公園に供養碑を建立しようと、枚方市に陳情し、安倍満穂氏(胆沢町出身・現関西岩手県人会会長)と共に何度か足を運び運動しましたが、確証がないという事で残念ながら却下されました。 — 高橋敏男(北天会・関西アテルイ顕彰会)、[114]

1994年9月9日号・16日号にて、井沢元彦がアテルイについての記事を掲載した

『週間ポスト』……平成6年9月9日号と16日号に「"蝦夷征伐"とアテルイ処刑の不思議」の項目が登場。そこで井沢氏は、【1】「アテルイの処刑は、桓武の決断と考えていい」、【2】怨霊におびえる桓武がアテルイを処刑できたのは「アテルイ(蝦夷)は怨霊化しないという確信があった」からで、「蝦夷たちは"人間以外"であると考えていた」からだと、断じている。 — アテルイを顕彰する会、[115]

1994年11月、朝日日本歴史人物事典にてアテルイの首塚・胴塚掲載

……河内国杜山(比定地未詳)で処刑された。枚方市には怨霊を慰撫するために作られたという阿弖流為の首塚,胴塚がある — 朝日日本歴史人物事典(1994)、[116]

1995年・慰霊祭の開始と供養するお婆さん[編集]

清水寺の碑が建立された翌年となる平成7年(1995年)頃から牧野公園内の首塚と呼ばれる小丘は、アテルイ由来の塚として岩手県県人会などの主催でアテルイの慰霊祭が行われ、片埜神社による祭祀が開始された[96]

平成12年(2000年)の吉川英治文学賞高橋克彦火怨 北の耀星アテルイ』が選ばれると、平成14年(2002年)には当時の水沢市で行われた「阿弖流為没後1200年祭」で秋田県に本拠地を置く劇団わらび座が同作品をミュージカルにして公演した[98]

翌春、わらび座は京都公演をおこなうのに先立ち、清水寺の「北天の雄 阿弖流為 母禮之碑」の前で鎮魂の奉納公演をおこなうと、以後は全国公演に取り組み、大阪公演は主催がアテルイを成功させる会(岩手県・関西岩手県人会・関西アテルイモレの会など)、後援が大阪府・大阪市および大阪府教育委員会大阪市教育委員会などで実施された[98]。関係者が「最後の公演は枚方で」と呼びかけた結果、平成16年(2004年)に枚方公演がおこなわれた[98]

1997年1月、高橋克彦『火怨~北の耀星アテルイ~』河北新報にて連載開始[115]

1997年3月、枚方市副読本「郷土枚方の歴史」出版。

しかし、杜山、椙山、植山のなかで植山が正しいとする論拠はなく、まして、牧野公園内のマウンドを処刑地あるいは首塚とする歴史的根拠はまったくない。 — 福山昭、[117]

奥羽大学助教授氷室利彦がアテルイ首塚を訪ね、新興住宅地住民へ胴塚の場所を聴く様子がレポートされている。

アテルイの首塚……コンビニエンスストアで胴塚の場所を尋ねると「大分前からアパートになっていますわ」と……昔は深い竹藪(やぶ)で薄気味悪い所だったらしい……「アテルイとモレは、岩手県南の北上川流域に位置する胆沢江刺から1000キロ近く離れたここで処刑されたんです」と言うと、父親がえっと驚いた声をあげた。娘は目を丸くし、「この辺りで霊が飛んでると話しているお婆ちゃんがいるんです」と言った。  アテルイの首が、平泉の達谷窟まで飛んだという伝説を付け加えると、「だからあのお婆ちゃん、四隅に柱を建てて、お払いしてるんだ」と彼らは納得した。「わたしらには、気が触れているとしか見えませんがネ」と店主は言った。……霊が飛び交っているというさっきの話を思い出し、背中の汗が涼しく感じた。アテルイの首塚伝説は、今も生きているのである。(奥羽大学助教授・東北矯正歯科学会理事、郡山市) — 氷室利彦、[118]

1998年10月、枚方市伝承文化保存懇話会発足。瀬川芳則会長(関西外国語大学国際言語学部教授)[119]

1999年3月、蝦夷の首長アテルイの説明板設置。宇山一号墳と宇山二号墳近くの宇山東公園にも設置される。

……平安時代前期に属する遺跡の存在については明らかではありませんが、この宇山の地は蝦夷の首長阿弖流為らのロマンを秘めるゆかりの地の一となっています。平成十一年(一九九九)三月 — 枚方市、[120]

1999年10月、高橋克彦『火怨~北の耀星アテルイ~』講談社より出版[115]

2003年、「ひらかた昔ばなし 子ども編」発刊、元小学校教諭による子供向け文学作品が掲載される。

昨日きのうてき今日きょうとも・・・六、田村麻呂たむらまろ阿弖流為あてるい……公園こうえんなかには『阿弖流為あてるい』のつかがあり、……阿弖流為あてるいから、「自分じぶんいのちてても、どんなにかして、蝦夷えみしひとたちをすくい、しあわせにしてやりたい。」……田村麻呂たむらまろは、……「昨日きのうてき今日きょうともだ。」……田村麻呂たむらまろは、天皇てんのう朝廷ちょうていに、「もう二たたかうかんがえはっていません。だから、陸奥むつかえしてあげてください。」と、必死ひっしいのちごいをしました。……田村麻呂たむらまろは、……とどところはかをもうけて、ほうむりました。それが「河内かわちくに交野郷かたのごおり宇山うやま」だったのです。……北上川きたかみがわながれる胆沢いさわのよい風景ふうけいと、よくにた、淀川よどがわながれている景色けしきのよい交野かたのえらんだのではないでしょうか。 — 木村倶子、[121]

2007年・伝阿弖流為母禮之塚の碑建立(枚方市)と教科書掲載[編集]

2005年3月、中学校歴史教科書「中学社会 歴史 未来をみつめて」(教育出版)文部科学省の検定に合格。長屋王と阿弖流為が対比されて書かれている。

都でらす人々地方で戦う人々~長屋王ながやおう阿弖流為あてるい田村麻呂たむらまろ

1.長屋王ながやおうの暮らし 長屋王は、天武天皇てんむてんのうの孫にあたる人物です。……動物には貴重きちょうな米をえさとしてあたえるいっぽう,長屋王自身は暑いときに氷室ひむろ(天然の冷蔵庫れいぞうこ)から運ばせた氷をうかべるなど、現代人げんだいじんもうらやむような生活を楽しんでいました。……全国的に流行した天然痘てんねんとう……都の人々の間ではひそかに,長屋王ののろいではないかとうわさになりました。

2.阿弖流為あてるい抵抗ていこう ……蝦夷えみしは自らの土地と名誉めいよを守るため,阿弖流為らをリーダーに団結だんけつし,……阿弖流為は,前回までの戦いで多くの兵士を失い,また土地の荒廃こうはいによる食糧難しょくりょうなんを前に,ついに約500名とともにこうふく伏しました。……現在げんざい,大阪府枚方市ひらかたしには,「エゾづか」とよばれる石碑せきひがあり,阿弖流為のはかとも伝えられています。また鹿島神宮かしまじんぐう茨城いばらき県)に奉納ほうのうされている,「悪路王あくろおう首像くびぞう」は阿弖流為との言い伝えもあります。 — 中学社会 歴史 未来をみつめて(平成17年3月30日検定済)、[122]

2005年、小学校副読本「わたしたちのまち枚方 小学校3・4年」発刊。アテルイの墓といわれる所について牧野公園内の首塚の写真を掲載している。

アテルイの墓といわれる所……降伏こうふく処刑しょけいされ、その首塚くびつかは、牧野公園内にあるといわれています。 — わたしたちのまち枚方 小学校3・4年、[123]

2006年、子供向け郷土史「楽しく学ぶ枚方の歴史」でアテルイの首塚について書かれる。

牧野阪の牧野公園には、近年、「アテルイの首塚」と呼ばれるようになった塚があります。この塚は、アテルイをきちんと弔ってやりたいという人々の気持ちが生んだものといえるでしょう。 — 福山昭服部敬村田路人、大竹弘之、[124]
通称「首塚」と伝阿弖流為・母禮之塚の碑(牧野公園)
「伝 阿弖流為 母禮 之塚」碑
(大阪府枚方市牧野公園)
伝阿弖流為母禮之塚の碑の裏側の碑文(大阪府枚方市牧野阪・牧野公園内)

枚方市はその後、中司宏枚方市長(当時)が突如として生まれたアテルイの首塚と称されたものに対し記念碑建立実現に向けた支援を行うと方針転換した[96]。このような経緯から平成19年(2007年3月に牧野公園内のアテルイの首塚を削った箇所へ「伝 阿弖流為 母禮 之塚」と記された石碑が建立されることになった[125][126]

2007年3月4日、「伝阿弖流為母禮之塚」の碑の除幕式が行われ、清水寺森貫主が講話を行う[127][128]。例年9月にアテルイ・モレ祭が行われている[129]

延暦二十一年(八〇二年)秋八月十三日、蝦夷の首長アテルイとモレの二人は、征夷大将軍坂上田村麻呂らの助命嘆願もむなしく、「野生獣心反覆無定」として河内國で処刑された。肥沃な蝦夷地日高見國の征服は古くからの朝廷の悲願であったが、延暦八年には五万余の大軍が北上川河畔でアテルイの軍に大敗する有様であった。郷土史の先覚者たちにより両名最後の地と目され、また首塚の伝えをもつ当地に、千二百年の時を隔て多くの賛同者の浄財により塚を建立する。 

記 関西外国語大学教授 瀬川芳則 塚の表記は京都・清水寺貫主 森清範による。

平成十九年三月四日建立 伝 阿弖流為 母禮之塚建立実行委員会
瀬川芳則、[130]

2008年3月、小学生向け副読本「市制60周年記念「発進!!タイムマシンひらかた号」」出版。巻頭の挨拶は松山雅子大阪教育大学教授。アテルイの首塚についてふれ「伝阿弖流為母禮之塚」の碑の写真を掲載する。伝承でも歴史でもない子供向け作品を掲載している。

牧野まきのさか宇山うやま地区にはこんな言い伝えが残っています。……人々は、美しくて豊かな土地のめぐみを受け、平和に暮らしていました。しかし、朝廷ちょうていは、その豊かな田畑や砂金さきんれるこの地方をなんとかおさめたいと考えていました。……こうして族長ぞくちょうのアテルイと副将ふくしょうモレは、田村麻呂たむらまろ降伏こうふくしました……「・・・ただ、最後に一つだけ約束してほしいことがある。わたしにった者の命だけは助けてやってほしい。この身はどうなってもかまわん。たとえ処刑しょけいされようがかまわん。ただ、あの者たち・・・。そして、胆沢いさわで暮らす者たちのこと・・・。田村麻呂たむらまろ、あなただから、わたしは・・・。」……また、心の中では、お互いの命をかけて戦ってきた相手であるアテルイに対し、敵というよりもちがった感情がいてくるのでした。……そして、かれらを処刑しょけいしないよう朝廷ちょうていに願い出ようと約束をし、いっしょに降伏こうふくした五百あまりの人たちをはなちました。……夕陽は……淀川の水面みなもに映し出されて……遠い日高見ひたかみの国(現在の奥州市おうしゅうし付近)を流れる北上川きたかみがわとだぶって見えたにちがいありません。約束を果たせなかった田村麻呂たむらまろには、二人の最後さいごの地としてせめて、ふさわしい場所をかなえることしかできませんでした。この夜、都の多くの人たちが、北東の空へと飛んでいく明るい二つの輝く星を見たといいます。 — 枚方市教育委員会,奥州市教育委員会,岩手県県南広域振興会,延暦八年の会、[131]

2011年3月30日、中学校教科書『新しい社会 歴史』(東京書籍)文部科学省検定合格。伝阿弖流為母礼之塚の石碑の写真が掲載される。2018年の教科書検定を合格した版にても掲載されている。

4.アテルイが処刑されたと伝えられる場所に立つ塚 坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろにゆかりのある京都市きょうとし清水寺きよみずでらにも,アテルイをたたえられるが立てられています。(大阪府おおさかふ枚方市ひらかたし — 新しい社会 歴史(平成23年3月30日検定済)、[132]

「アテルイが処刑されたと伝えられる場所に立つ塚」と掲載されているが、「蝦夷の統領が処刑された場所」という伝承があるのは約400mほど離れた宇山の古塚[注釈 6]であり牧野阪(旧坂村)牧野公園(片埜神社旧境内)の「首塚」と呼ばれる伝阿弖流為母礼之塚の石碑が立つマウンドではない。
その「首塚」にある伝承は「戦いに負けた大物武将の首塚」であり、また、宇山の古塚の地元の伝承では処刑されたのはアテルイではなく蝦夷の統領であり[88]、「首塚」がアテルイゆかりのものといわれだしたのは1970年代初頭であると1993年枚方市議会にて教育委員会社会教育部長が報告している[95]
1988年以降地域文化誌まんだ等で掲載された宇山東町の宇山一号墳(胴塚)に胴体、牧野阪の首塚に首が埋葬されたという伝承がどの地域のものかは明記されていないが、瀬川芳則は鹿島神宮に悪路王首像が奉納された17世紀頃発生した伝承で[133]、発掘調査の際出土した江戸時代の祭祀跡から江戸時代三浦蘭阪等文人が住む村の地元民は日本紀略の河内国植山という記載と併せて古墳の被葬者をアテルイと考えていたと推定している[90]。胴を胴塚(宇山一号墳)へ首を牧野公園内の首塚へ埋葬というまんだの記載と地元宇山の古塚の伝承との関係性は不明である。1979年河北新報が報道した「蝦夷の統領が処刑された場所」という伝承がある古塚はその地番から1988年発掘調査された宇山一号墳ではなく道路を挟んで向かい側の1990~1991年発掘調査された宇山二号墳と思われる。
馬部隆弘は『大日本地名辞書』(1900年)の宇山で斬られたという記述は一般には伝播しなかったと推定した[134][135]ものの、2020年「伝承」は『大日本地名辞書』から派生したと推定[83]、しかしその伝播経路が実証されたわけではなく、埋葬場所を藤阪の鬼墓(伝王仁墓)とした『大日本地名辞書』との矛盾がある。

伝阿弖流為母禮之塚の石碑に対する批判[編集]

瀬川芳則は、阿弖流為・母礼の石碑は史跡ではないと断言しつつ「人々の寄付金によって石碑が建てられ、披露の式典に参加した奥州市の幹部職員が涙しながら修辞を述べたのが印象的である」と記している[98]

馬部隆弘は、枚方市に対し「アテルイの「首塚」の一件は公共機関が動けば嘘も真になる、その典型的な事例といえよう」とし、牧野公園の小丘がアテルイの首塚となった経緯が書かれた1990年5月25日付けの枚方市史編纂室担当者田宮氏のメモランダムを引用し伝承発生を1980年頃とした上で「枚方市においては、二〇年間では無理だが、三〇年間語られると「伝承文化」として成立するようである」と非常に強く批判している[136][137][96]

平成14年(2002年)から枚方市の市史担当部署で非常勤職員として勤めていた馬部は[138]、枚方市教育委員会が平成20年(2008年)に市制60周年記念の一環で発行した『発進!! タイムマシンひらかた号』にアテルイ首塚、伝阿弖流為母禮之塚[139]、七夕伝説、伝王仁墓に関する椿井文書なども登場することについて、枚方市役所では歴史的な内容の記述がある場合は市史料室がチェックする習わしであったことから、馬部の立場上、不適切な記述は全て書き換えるよう要望したが、冊子の編集を担当した指導主事から「史実でなくてもいいから、子供たちが地元の歴史に関心を持つことの方が大事」との編集方針を明言されたことを、著書『椿井文書―日本最大級の偽文書』で明かしている[140]。ただし、伝王仁墓に関する椿井文書であると馬部が推定した『王仁墳廟来朝記』は『発進!! タイムマシンひらかた号』では掲載されておらず、2008年「発進!!タイムマシンひらかた号」が出版される前に枚方市にはアテルイの塚があると歴史学専門書へ書いた[112]のも、教科書へ書いた[122]のも歴史学者である。

後世の評価[編集]

復権運動[編集]

平成14年(2002年)はアテルイ没後1200年にあたり、岩手県を中心にアテルイブームが巻き起こったことで東北地方在住の人たちにアテルイの名前が浸透した[3]。かつては「反逆者」として日本史の悪役であったアテルイの復権運動は、新たな日本史像を再構築するにあたって意義深いものであった[3]

しかしアテルイ復権運動は、かつての中央中心の征夷史観をそのまま裏返したかのように、国家と蝦夷社会との対立関係や、国家の侵略性と蝦夷社会の自律性・主体性にもとづく「正義」とがやや一面的に強調されすぎるきらいがあった[3]。またそうした見方は、アテルイがあたかも東北人の中央に対する自立や抵抗の象徴のように扱われることもしばしばあった[3]

高橋崇は、著書『坂上田村麻呂』において、アテルイの降伏に対し郷土愛的な側面があることについて「史料的裏付けの乏しい解釈には慎重でありたいと願う」と論じている[20]

顕彰碑[編集]

京都市東山区

田村麻呂が創建したと伝えられる京都の清水寺境内には、平安遷都1200年を期し1994年(平成6年)11月に、「北天の雄 阿弖流為母禮之碑」と記された碑が建立されている[141][142]

岩手県奥州市

2005年(平成17年)には、アテルイの忌日に当たる9月17日に併せ、岩手県奥州市水沢羽田町の羽黒山に「阿弖流為 母禮 慰霊碑」と記された石碑が建立されている。この慰霊碑は、アテルイやモレの魂を分霊の形で移し、故郷の土の中で安らかに眠ってもらうことを願い、地元での慰霊、顕彰の場として建立実行委員会によって、一般からの寄付により作られた。尚、慰霊碑には、浄財寄付者の名簿などと共に、2004年(平成16年)秋に枚方の牧野公園内首塚での慰霊祭の際に奥州市水沢の「アテルイを顕彰する会」によって採取された首塚の土が埋葬されている[143]。及川洵は、アイヌ民族によるアテルイ慰霊祭について疑問視している[144]

鉄道[編集]

2001年のアテルイ没後1200年記念事業の一環で、東北本線水沢駅 - 盛岡駅間で運行する朝間の快速列車1本に「アテルイ」という愛称が付けられた。[要出典]

スーパーコンピュータ[編集]

国立天文台水沢VLBI観測所に設置され、2013年4月1日に共同利用開始された天文学専用スーパーコンピュータに水沢地域の英雄である「アテルイ」の名がつけられた[145]。計算能力を活かして果敢に宇宙の謎に挑んでほしい、という願いが込められている。また2018年6月からは前システムの6倍の演算能力をもつ「アテルイII(アテルイ ツー)」が稼働している。

悪路王伝説[編集]

鹿島神宮の白馬祭の由来に関して記された天福元年(1233年)の文書の一節に「初代摂関家将軍となった藤原頼経が関東下向の時に悪来王を退治した」と書かれている[原 16][146]

その後、正安2年(1300年)頃に成立したとされる『吾妻鏡』では「文治5年(1189年)9月28日に源頼朝鎌倉帰還の途中に立ち寄った達谷窟は、坂上田村麻呂と藤原利仁が征夷の時に賊主・悪路王と赤頭が立て籠った岩屋と教えられた」と記されている[原 17][147][148]

これら鎌倉時代以降の文献に登場する悪路王なる人物をアテルイと結びつけようとする説もある[149][150]

高橋崇は、悪路王など坂上田村麻呂伝説全般について「採るに足らぬ俗説」としている。また新井白石が『読史余論』で陸奥の夷高丸が駿河の国清見が関まで攻め上がり、田村丸はこれをうち取り、北に追って陸奥の神楽岡で斬ったと記述していることについても「合理性と実証を重んじた史学者として白石らしからぬ叙述」と批判している[151]

桃崎有一郎は著書『武士の起源を解きあかす: 混血する古代、創発される中世』において、『吾妻鏡』での悪路王は田村麻呂と利仁の2人に討伐されたとあるが、2人は同じ時代の人物ではなく、悪路王についても実在した可能性がほぼないとしている[148]

アテルイを題材とする作品[編集]

小説
舞台
ドラマ
音楽

『天空アテルイ』-あんべ光俊のシングルCDタイトル曲。岩手県水沢市(現奥州市)などで構成するアテルイ没後1200年記念事業実行委員会が全国から短歌による歌詞を募集し、全1000首余りからアテルイ関連の11首を選び、それをあんべが紡いで作曲した。作詞名義は夢あかり。作編曲、歌はあんべ光俊。 2002年11月21日にコロムビアミュージックエンタテインメントから発売された。カップリング曲は『遠き風の声』。

漫画
  • 『XEMBALA シャンバラ』 - 作・津寺里可子 - 1996年-1997年。アテルイと坂上田村麻呂をモチーフにした漫画。
  • 阿弖流為II世』 - 原作・高橋克彦、作画・原哲夫2000年
  • 『Madman call』 - 作・津寺里可子 - 2001年-2004年。上記シャンバラのキャラであるアテルイ達の遺伝子を継ぐ者達の現代での戦い。
アニメ
  • アテルイ』 - 2002年、長編アニメーション。没後1200年を機に製作された。
ゲーム

関連資料[編集]

蝦夷側で記した史料は残っておらず、古代日本の律令国家が編纂した六国史と称される正史のうち『続日本紀』で1箇所、『日本後紀』で3箇所にアテルイの名前が伝えられている [注釈 7][4]

阿弖流爲/大墓公阿弖利爲が記録される資料

脚注[編集]

[脚注の使い方]

原典[編集]

  1. ^ 『続日本紀』延暦八年七月丁巳(十七日)条
  2. ^ 『続日本紀』延暦八年六月庚辰(九日)条
  3. ^ a b c 『続日本紀』延暦八年六月甲戌(三日)条
  4. ^ a b 『類聚国史』延暦二十一年四月庚子(十五日)条
  5. ^ a b 『日本紀略』延暦二十一年夏四月庚子(十五日)条
  6. ^ a b c d 『日本紀略』延暦二十一年八月丁酉(十三日)条
  7. ^ a b 『日本紀略』延暦二十一年秋七月甲子(十日)条
  8. ^ 『続日本紀』和銅四年四月辛丑(二十一日)条
  9. ^ 『続日本紀』天平宝字三年十月辛丑(八日)条
  10. ^ a b 『続日本紀』延暦八年五月癸丑(十二日)条
  11. ^ 『日本紀略』延暦二十一年春正月丙寅(九日)条
  12. ^ 『日本紀略』延暦二十一年春正月戊辰(十一日)条
  13. ^ 『日本紀略』延暦二十一年秋七月己卯(二十五日)条
  14. ^ 『日本後紀』弘仁五年十二月朔(一日)条
  15. ^ 『類聚国史』巻七十九 大同三年正月庚戊(一日)条「禁葬埋於河内國交野雄徳山」
  16. ^ 『鹿島神宮文書』天福元年正月白馬祭
  17. ^ 『吾妻鏡』文治五年九月小廿八日乙酉

注釈[編集]

  1. ^ 「種類」は「一族」を指す
  2. ^ 「河内国□山にて斬る」とのみあることから、律令に照らして「処刑」とは解釈されていない
  3. ^ 大阪市鶴見区のうち旧・北河内郡茨田町生野区のうち旧・中河内郡巽町東住吉区のうち旧・中河内郡矢田村平野区のうち旧・中河内郡加美村瓜破村長吉村
  4. ^ 堺市東区全域、堺市美原区全域、北区のうち旧・南河内郡金岡村北八下村大字河合を除く。河合は現・松原市のうち)
  5. ^ 神英雄の調査による内訳は「椙山」が9例、「植山」が4例、「榲山」が2例など
  6. ^ a b c d 宇山町は誤りで宇山東町295の宇山二号墳の可能性あり
  7. ^ 日本紀略』と『類聚国史』にもアテルイについて記述されている箇所はあるが、いずれも『日本後紀』を原文とした内容である

出典[編集]

  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 42頁。
  2. ^ a b c 高橋 1986, p. 100.
  3. ^ a b c d e f g h i 樋口 2013, pp. i–iv.
  4. ^ a b 高橋 1986, pp. 100–101.
  5. ^ a b c d e f g h i 樋口 2013, pp. 35–37.
  6. ^ a b c d 鈴木 2016, pp. 52–54.
  7. ^ a b c d e 高橋 1986, pp. 101–102.
  8. ^ 樋口 2013, pp. 17–18.
  9. ^ a b 樋口 2013, pp. 212–214.
  10. ^ 樋口 2013, pp. 216–218.
  11. ^ a b 高橋 1986, pp. 216–218.
  12. ^ a b 高橋 1986, pp. 113–114.
  13. ^ a b c d 樋口 2013, pp. 218–220.
  14. ^ 青木和夫(校注); 稲岡耕二(校注); 笹山晴生(校注); 白藤禮幸(校注) 『続日本紀 五』 岩波書店、1998年2月16日、430-431頁。 
  15. ^ 藤原継縄 (1657年). “続日本紀 巻第四十 延暦八年”. 2020年10月25日閲覧。
  16. ^ 高橋 1986, p. 148.
  17. ^ a b c 樋口 2013, pp. 273–275.
  18. ^ a b c 高橋 1986, p. 150.
  19. ^ 鈴木 2016, p. 52.
  20. ^ a b c 高橋 1986, pp. 150–151.
  21. ^ a b 樋口 2013, pp. 275–277.
  22. ^ 『日本後紀第三巻』、1764年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574111/72020年10月24日閲覧 
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参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]