アラハバキ

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アラハバキは、日本の民間信仰的な神の一柱である。

概要[編集]

起源は不明な点が多く、歴史的経緯や信憑性については諸説ある。

荒脛巾神の祠がある神社は全国に見られるが、その中には客人神(門客神)としてまつられている例が多い。客人神については諸説があり、「客人(まれびと)の神だったのが元の地主神との関係が主客転倒したもの」という説もある。

東日流外三郡誌」では遮光器土偶が荒脛巾神の姿とされるが、『東日流外三郡誌』は偽書であるため実際の姿とは異なる。

『東日流外三郡誌』以前の認識[編集]

「荒脛巾神」という文字から、脛(はぎ)に佩く「脛巾(はばき)」の神と捉えられ、神像に草で編んだ脛巾が取り付けられる信仰がある。多賀城市の荒脛巾神社で祀られる「おきゃくさん」は足の神として、旅人から崇拝され、脚絆等を奉げられていたが[1]、後に「下半身全般」を癒すとされ、男根をかたどった物も奉げられた。神仏分離以降は「脛」の字から長脛彦を祀るともされた。

『東日流外三郡誌』以後の諸説[編集]

武内裕/縄文神説[編集]

縄文時代に信仰されていた神とする説。『東日流外三郡誌』を独自に援用した武内裕が70年代に唱えたのが最初である。

吉野裕子/蛇神説[編集]

吉野裕子の、かつての日本の、蛇を祖霊とする信仰の上に五行説が取り入れられたとする説。

吉野によれば、「ハバキ」の「ハハ」は蛇の古語であり、「ハハキ」とは「蛇木(ははき)」あるいは「竜木(ははき)」であり、直立する樹木は蛇に見立てられ、古来祭りの中枢にあったという。

伊勢神宮には「波波木(ははき)神」が祀られているが、その祀られる場所は内宮の東南、つまり「辰巳」の方角、その祭祀は6、9、12月の18日(土用にあたる)の「巳の刻」に行われるという。「辰」=「竜」、「巳」=「蛇」として、蛇と深い関わりがあるとする[2]。ちなみに、「波波木神」が後に「顕れる」という接頭語が付いて、「顕波波木神」になり、アレが荒に変化してハハキが取れたものが荒神という説。

谷川健一/塞の神説[編集]

宮城県にある多賀城跡の東北に荒脛巾神社がある。多賀城とは、奈良・平安期の朝廷が東北地方に住んでいた蝦夷を制圧するために築いた拠点である。谷川健一によれば、これは朝廷が外敵から多賀城を守るために荒脛巾神を祀ったとしている。朝廷にとっての外敵とは当然蝦夷である。つまりこれは荒脛巾神に「塞の神」としての性格があったためと谷川[3]は述べている。

さらに谷川は、朝廷の伝統的な蝦夷統治の政策は「蝦夷をもって蝦夷を制す」で[4]あり、もともと蝦夷の神だったのを、多賀城を守るための塞の神として祀って逆に蝦夷を撃退しようとしたのだという。また、衛視の佩く脛巾からアラハバキの名をつけた[5]ともいっている。

近江雅和/製鉄民説[編集]

先の、多賀城跡近くにある荒脛巾神社には鋏が奉納され、さらに鋳鉄製の灯篭もあるという。多賀城の北方は砂金や砂鉄の産出地であり、後述する氷川神社をも鉄と関連付ける説がある。

近江雅和は門客人神はアラハバキから変容したものであると主張、その門客人神の像は片目に造形されていることが多いことと、片目は製鉄神の特徴とする説があることを根拠として、近江は「アラ」は鉄の古語であると主張し、山砂鉄による製鉄や、その他の鉱物を採取していた修験道の山伏らが荒脛巾神の信仰を取り入れたのだという。また足を守るための「脛巾」を山伏が神聖視していたと主張、それが、荒脛巾神が「お参りすると足が良くなる」という「足神」様に変容した原因だろうと推測している。

真弓常忠は先述の「塞の神」について、本来は「サヒ(鉄)の神」の意味だったと述べていて、もしその説が正しければ「塞の神」と製鉄の神がここで結びつくことになる[6]

氷川神社との関係[編集]

荒脛巾神が「客人神」として祀られているケースは、埼玉県さいたま市大宮区氷川神社でも見られる。この摂社は「門客人神社」(氷川神社#摂社参照)と呼ばれるが、元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていた。だが、現在の氷川神社の主祭神は出雲系であり、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んできたものである[7]。これらのことを根拠として、荒脛巾神は氷川神社の地主神で先住の神だとする説[8]もある。

一方アラハバキを客人神として祀る神社は武蔵を始め、三河、出雲、伊予にも点在するため、武蔵先住の神と見ることはできない。出雲の佐太神社出雲大社出雲国造と、伊予は小市国造風速国造と、三河は三川蘰連と、氷川神社武蔵国造とそれぞれ関連し、これら諸氏はいずれも製鉄氏族の物部氏と同族であった。陸奥にある丹内山神社は、神体がアラハバキ大神の巨石(胎内石)という巨石とされ、当地の物部氏が関与したと伝わる[9]

この大宮を中心とする氷川神社群(氷川神社、中氷川神社女氷川神社調神社、宗像神社、越谷久伊豆神社まで含めたもの)はオリオン座の形に並んでおり、脇を流れる荒川天の川とすれば、ちょうど天を映した形になっているとみる説もある[誰?]。氷川神社は延喜式に掲載されている古社ではあるが、氷川神社の主祭神がスサノオであるという明確な記述は江戸時代までしか遡れない[要出典]

四天王寺との関係[編集]

聖徳太子が、物部守屋との仏教受容をめぐる戦いを制して、日本初の大寺である大阪市の四天王寺を建てたが、この四天王寺について、アラハバキ及び縄文系との関わりを指摘する者もいる[誰?]

四天王寺の敷地の元来の地名は「荒墓邑」(あらはかむら)である。四天王寺の北側に磐船神社(饒速日命の降臨地)が元々あったとされ、物部氏は饒速日命を始祖とする一族であるから、この四天王寺の地は本来、物部発祥の聖地であったという説もある[要出典]

砥鹿神社[編集]

砥鹿神社奥宮末社に荒羽々気神社がある。名称こそアラハバキだが、祭神は大己貴命荒魂としている[要出典]

脚注[編集]

  1. ^ 民俗語彙データベース 国立歴史民俗博物館(アラハバキでの検索結果)
  2. ^ 吉野裕子 『山の神』 76頁。
  3. ^ 谷川健一 『白鳥伝説』 341頁 集英社
  4. ^ 谷川健一『白鳥伝説』 349頁
  5. ^ 谷川健一 『白鳥伝説』339頁
  6. ^ ただし真弓の説は、「塞(サへ)の神」の語源を「遮る神」とする学界の通説とは相容れないものであり、支持者はいない。
  7. ^ 松前健『日本神話の形成』塙書房,186頁。菱沼勇「武蔵の古社」有峰書店1972年,71-75頁。原島礼二「氷川神社」谷川健一篇『日本の神々 神社と聖地』11関東、白水社
  8. ^ 大林太良『私の一宮巡詣記』青土社,2001年,69頁
  9. ^ 宝賀寿男舞草刀と白山神そして物部部族」、『古樹紀之房間』2014年。

参考文献[編集]

  • 谷川健一『白鳥伝説』
  • 大林太良『私の一宮巡詣記』青土社,2001年。
  • 松前健『日本神話の形成』塙書房。
  • 菱沼勇「武蔵の古社」有峰書店1972年。
  • 原島礼二「氷川神社」(谷川健一篇『日本の神々 神社と聖地』11関東、白水社)。
  • 飯沼勇義「解き明かされる日本最古の歴史津波」p113 鳥影社 2013年。

関連項目[編集]