久遠郡

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北海道久遠郡の位置(緑:旧大成町 薄黄:合併の結果、他郡から編入された区域=旧瀬棚町+旧北檜山町)

久遠郡(くどうぐん・くどおぐん)は、北海道後志国檜山振興局

人口8,012人、面積638.68km²、人口密度12.5人/km²。(2018年9月30日、住民基本台帳人口)

以下の1町を含む。

郡域[編集]

1879年明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、現在のせたな町南部の大成区にあたる区域(旧:大成町)133.91km2のみであったが、大成町が瀬棚郡北檜山町瀬棚町と合併し、新設のせたな町となるに当たり、郡名は大成町の属した久遠郡を用いることとなったため、郡域がおよそ4.7倍に拡大した[注釈 1]

名称の由来[編集]

諸説ありはっきりしないが、アイヌ語に字を当てたものである。

由来となった言葉については、「仕掛け弓・ある・山崎」を意味する「クウントゥ(ku-un-tu)」や「黒い・岬」を意味する「クンネ・エトゥ(kunne-etu)」が略された「クン・エトゥ(kun-etu)」、「危ない道」を表す「kun-ru」が挙げられている[1]

歴史[編集]

郡発足までの沿革[編集]

室町時代嘉吉年間に太田山神社が創建され、享徳3年には松前藩武田信広公が久遠郡域の大田に上陸。

江戸時代、久遠郡域は和人地となる。松前藩によってクドウ場所・オオタ場所が開かれていた。陸上交通は、隣接する渡島国爾志郡から道道北檜山大成線の前身にあたる道が通じていたが、北の太櫓郡へは太田山が難所となって陸路が途絶えており、安政年間に江差の商人鈴鹿甚右衛門と津軽の商人松前屋庄兵衛らが私費を投じセキナイから太田山を経てラルイシまでの12里(47.1km)の太田山道(国道229号の前身)を開削し通年の陸路での移動を可能とした。

江戸時代後期文化4年には、久遠郡域は天領とされた。文政4年には松前藩の元に戻されたものの、安政2年再び天領となり津軽藩が警固をおこなった。戊辰戦争箱館戦争)終結直後の1869年大宝律令国郡里制を踏襲して久遠郡が置かれた。

郡発足以降の沿革[編集]

北海道一・二級町村制施行時の久遠郡の町村(5.久遠村 6.貝取澗村 桃:現在のせたな町)

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 瀬棚郡自体は今金町が引き続き属している。

出典[編集]

  1. ^ アイヌ語地名リスト キト~コム P41-50P”. アイヌ語地名リスト. 北海道 環境生活部 アイヌ政策推進室 (2007年). 2017年10月19日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]