黒漆剣

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黒漆剣(くろうるしのつるぎ/くろうるしのけん)は、坂上田村麻呂京都府にある鞍馬寺に奉納したと伝えられる大刀。「黒漆剣〈/(寺伝坂上田村麻呂佩剣)〉」として1911年4月17日に重要文化財に指定されている。

概要[編集]

鞍馬寺の縁起を記した『鞍馬蓋寺漢文縁起』には黒漆剣に関する記述はない。そのため鞍馬寺では「鞍馬寺に坂上田村麻呂が戦勝祈願に訪れ、無事に凱旋した時に奉納した大刀」と口承で伝わるのみである[1]

刃長76.6cm、元幅2.6cm、先幅1.8cmで無銘の大刀。黒漆大刀拵(くろうるしのたちこしらえ) も残されており、奈良時代から平安時代初期の刀剣を知るものとして貴重な例である。

伝承[編集]

坂上田村麻呂伝説において鞍馬寺と坂上田村麻呂の刀剣にまつわる伝承が、南北朝時代の成立とみられる『神道集』巻4「信濃鎮守諏訪大明神秋山祭事」に記されている[2] [3]

桓武天皇の頃、奥州では悪事の高丸という名前のが人々を苦しめていた。そこで帝より高丸討伐を命じられた田村将軍は、清水寺千手観音に願掛けをした。すると七日目の夜半に「鞍馬寺の毘沙門天は我が眷族であるから頼れ。奥州へ向かう時は山道寄りに下れ。そうすれば兵を付き従わせよう」というお告げを頂いた。すぐに鞍馬寺に参拝すると、将軍は毘沙門天より三尺五寸の堅貪(けんどん)という剣を授かった。奥州へ山道を進軍していると信濃国諏訪大社で二人の武将を得た。高丸と対峙した将軍が堅貪を鞘から抜くと、剣は自ら高丸に向かって斬りつけた。二人の兵の助力も得ていたこともあり高丸討伐を成したという — 『神道集』より大意

田村麻呂が黒漆剣を鞍馬寺に奉納したという寺伝とは異なり、神道集では鞍馬寺の毘沙門天より堅貪を授かって高丸を討伐したとあることから、ソハヤノツルギの逸話が『神道集』に取り込まれたものと考えられるため黒漆剣との関連性はない。

俗説[編集]

牧秀彦説[編集]

時代小説作家の牧秀彦は、坂上田村麻呂が征夷副使となった第二次征伐の際に佩用した太刀が黒漆剣であるとしている。最初は標剣(そはやのつるぎ)とも呼ばれ、811年(弘仁2年)に没した田村麻呂の遺愛刀の標剣が皇室の御剣に加えられたのち、坂上宝剣として歴代天皇や親王の側に置かれて、現在は鞍馬寺に所蔵されていると著書で述べている[4]。しかし牧秀彦説は引用された史料が挙げられておらず疑問点も多い。

標剣とは蝦夷征討において天皇から征夷大将軍に賜与される節刀の事を指し[注 1]、将軍職や遣唐使大使などに任命された者が、その委任の印として天皇より下賜される刀で、任務が終われば天皇に返還される。『日本紀略』によると第二次征伐では794年延暦13年)1月1日に大伴弟麻呂が節刀を賜与されているものの、征夷副使である田村麻呂が賜与された事実は無いことから、田村麻呂が第二次征伐で標剣を佩用していたとは考えられない。田村麻呂は第三次征伐で征夷大将軍となった801年(延暦20年)2月14日に節刀を賜与されているが、同年9月27日の蝦夷討伏の報をもって10月28日に帰京して天皇に節刀を返還しているため、田村麻呂が奉納したという鞍馬寺の黒漆剣が節刀であったとも考えられない。また征夷大将軍に還任した804年(延暦23年)では翌年に徳政相論が起こって桓武天皇が蝦夷征討を中止しているため出征はなく、節刀を賜与されることもなかった事から、生涯に渡って標剣を持ち続けていた事実は確認できない。標剣をそはやのつるぎともしているが、標剣とそはやのつるぎを結びつける一次史料が挙げられていないため、標剣をそはやのつるぎとしている点にも疑問が残る。

そはやのつるぎとは、坂上田村麻呂伝説に登場するソハヤノツルギの逸話が仮託されることでも有名な兵庫清水寺騒速の事を指す。伝説ではそはやのつるき[5]、そばやの剱[6]、草早丸[6]、素早の剣[7]、素早丸[7][6]説話や写本よる当て字に表記ゆれが見られるが、いずれの伝説でも鞍馬寺の黒漆剣がそはやのつるぎであるとする記述はみられない。騒速は田村麻呂が悪事の高丸や大嶽丸を退治したという由来とともに清水寺が所有しているため、黒漆剣がそはやのつるぎであったとは考えられない。

坂上宝剣は『公衡公記(昭訓門院御産愚記)』に克明に記録されている[注 2]ことに権威のよりどころがあるとされる[8]。しかし鞍馬寺の黒漆剣の刀身には坂上宝剣を示す金像嵌の銘がないことから、黒漆剣が坂上宝剣とは考えられない。また、牧秀彦は田村麻呂が没した後に皇室の御剣に加えられ、敦実親王の元では雷が鳴ると鞘走り、後醍醐天皇行幸の際にも佩用したとしているが[9]、この逸話は藤原忠実の談話として『富家語』で敦実親王や後醍醐天皇と坂上宝剣の逸話として記されている[10]。黒漆剣に雷が鳴ると鞘走ったという史料はない。

このように牧秀彦説には多数の疑問点がみられることから俗説と考えられ、近年では黒漆剣と標剣、そはやのつるぎ、坂上宝剣の4振りの刀剣はそれぞれ同一ではない、または同一であるか定かではないと説明されるのが一般的となっている[11][12]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 『豊受太神宮禰宜補任次第』に「外宮の祭祀を司る渡会氏の祖、大若子命が北征の際に天皇より標剣を授けられた」という記述があり、標剣は節刀を指していることが読み取れる
  2. ^ 『昭訓門院御産愚記』「乾元二年五月九日と裏書」に「上上上 不得他家是以為誓謹思」と「坂家宝剣守君是以為名」と金像嵌の銘が刻まれている。

出典[編集]

  1. ^ 高橋 1986, pp. 206-207.
  2. ^ 『神道集』貴志正造編訳、平凡社東洋文庫 94〉、1978年、ISBN 978-4-582-80094-4
  3. ^ 『神道集 東洋文庫本』近藤喜博編、角川書店、1959年、全国書誌番号:60000255
  4. ^ 牧秀彦 2005, pp. 105-108.
  5. ^ 室町時代物語大成』「第七 しみ‐すす」横山重、松本隆信編、角川書店、1979年
  6. ^ a b c 阿部 2004, p. 313.
  7. ^ a b 阿部 2004, p. 27.
  8. ^ 荒木 2009, p. 140.
  9. ^ 牧 2005, p. 108.
  10. ^ 荒木 2009, pp. 113-114.
  11. ^ かゆみ歴史編集部 2015, p. 195.
  12. ^ 住麻紀 2015, pp. 22-23.

参考文献[編集]

関連項目[編集]