河内国

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河内国(かわちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。畿内に位置する。別称は河州(かしゅう)。領域は現在の大阪府東部にあたるが、設置当初は南西部(和泉国の領域)も含んでいた。『延喜式』での格は大国

沿革

7世紀凡河内国造の領域を中心に成立した。

霊亀2年(716年)4月16日に、大鳥郡、和泉郡、日根郡を割いて和泉監を分立させた。養老4年(720年)11月に堅下郡と堅上郡を併せて大県郡にした。天平12年(740年)8月20日に和泉監を合併した。天平宝字元年(757年)5月8日に、和泉国を再び分立させた。

道鏡政権下では由義宮が建設され西京と称し、それに伴って神護景雲3年(769年)河内国が廃止され、かわって特別行政組織河内職が設置された。道鏡失脚により翌年元に戻された。

歴史

通法寺の山門
三好長慶像
織田信長像

河内国は古代の大豪族の物部氏の勢力があり、東大阪市衣摺は、その本拠地のひとつであった。

羽曳野市壺井は、武家の棟梁となる源氏河内源氏)の本拠地となり、東国の武士を家臣にした八幡太郎義家やその父の源頼義、祖父の源頼信の三代の墓が河内源氏の菩提寺だった通法寺跡近くに現在も伝わっている。後に鎌倉幕府を開く源頼朝は、この河内源氏の末裔である。

鎌倉時代末期に、南河内の豪族の楠木正成とその一族が、幕府打倒のため蜂起し、下赤坂城上赤坂城に、そして千早城に立て篭もり、鎌倉幕府軍を翻弄する。建武の親政では、楠木正成が国司守護の両方に任命された。しかし足利尊氏後醍醐天皇と対立し南北朝時代が到来すると、河内は主戦場となることが多くなり、楠木正成の長男正行は尊氏の執事高師直と四條畷(四條縄手)で戦い戦死した。

室町時代になると河内守護は三管領の1つ畠山氏がなり、畠山基国満慶満家持国と続き安定した治世を見せたが、持国の跡目を巡って甥の畠山政長と息子の畠山義就が争い、河内はその争奪の舞台となり疲弊した。政長は正覚寺(大阪市平野区加美正覚寺)で細川政元と義就の息子義豊らに討たれたが(明応の政変)、子の尚順は紀伊にあって捲土重来をはかり、ついに河内・紀伊の守護として返り咲きに成功し、畠山稙長の時についに義就系の畠山義英を討滅し、畠山家を統一した。しかし、その過程で戦場となった河内は焦土と化した。

戦国時代になると、畠山稙長のもとで統一された河内であったが、実権は守護代遊佐長教の手にわたり、守護は傀儡化されていく。また、管領の細川家も内紛が続き、政元が暗殺永正の錯乱)された後に起こった細川高国細川澄元細川澄之らの家督争いにくわえ、勝者となった澄元の子晴元が守護代で内紛で活躍した三好元長を堺に攻めて滅ぼした。そして晴元のもとで幕府は維持されるが、元長の子三好長慶阿波から上洛し、妻を河内守護代で実権を握る遊佐長教から迎えるなど勢力を蓄えながら晴元に従い、晴元の意に従わない木沢長政を高井田(大阪府柏原市高井田)で討つなど活躍した。しかし後に対立し、晴元派で遠縁の三好政長と長慶が河内十七箇所をめぐって榎並城などで戦い、長慶が政長を江口の戦いで殺害して晴元政権を打破し、将軍を傀儡化して幕府の実権を握ると共に、本拠地を摂津の芥川山城から河内の飯盛山城大阪府四條畷市)に移した。

しかし、長慶も42歳の若さで没すると、後を巡って家臣の三好三人衆松永久秀が対立し、河内、大和を戦場にした。争いに終止符を打ったのは織田信長の上洛であった。信長が上洛すると、河内は北半国を三好義継、南半国を畠山昭高(信長の妹婿)が統治するようになる。しかし、義継、昭高は元亀兵乱に前後してまもなく没落し、河内は信長の重臣佐久間信盛が支配する。その信盛も後に信長に疎まれ追放される。

信長が本能寺の変で死ぬと、山崎の戦い明智光秀を討った羽柴秀吉清洲会議の結果、領国としておさえる。

羽柴秀吉が天下人となり、大坂城を築くと、河内の重要拠点であった若江城は廃城となった。

秀吉の死後、関ヶ原の戦いを経て、徳川家康が天下人となり、征夷大将軍となり江戸幕府を開くが、河内は秀吉の息子豊臣秀頼の領国として幕藩体制には入らなかった。家康と秀頼が対決した大坂の陣が勃発すると、河内も戦場となる。この戦いは冬の陣、夏の陣とあるが、冬の陣は大坂城周辺での戦いであったので、河内は主戦場にはならなかったが、夏の陣では様相が一変し、外堀を埋められ裸城となった大坂城では篭城戦はできないと判断した大坂方は、京都から大坂をめざす徳川方を野戦で迎撃した。そのため、京都と大坂の間にある河内の各所で戦いが行われた。主なものに、道明寺の戦い後藤基次vs伊達政宗松平忠輝水野勝成真田信繁北川宣勝薄田兼相vs伊達政宗・松平忠輝・水野勝成)、八尾・若江の戦い木村重成vs井伊直孝長宗我部盛親vs藤堂高虎)などの戦いが展開された。

江戸時代になると、河内は天領および旗本領が点在し、大名としては狭山藩後北条氏丹南藩高木氏のみが存在した。また、淀藩稲葉氏の領地も多く存在した。

国内の施設

河内国内にあった天皇の住居(宮)。

国府

国府は志紀郡[1]にあった。現在の藤井寺市にある国府遺跡と推定されている。ただし、奈良時代の間に一度移動しているらしい(どちらも現在の藤井寺市内)。

ただし、『拾芥抄』では、「国府は大縣(県)郡」とある。

易林本の『節用集』では、「丹北郡に府」と記載されている。

国分寺・国分尼寺

河内国分寺
国分僧寺天平期に建てられ、現在の柏原市国分東条にあったが、南北朝時代のころに廃れた。

尼寺は同じく柏原市国分東条尼寺にあったが、平安時代には荒廃していたらしい。

神社

延喜式内社
延喜式神名帳』には、大社23座13社・小社90座80社の計113座93社が記載されている。大社13社のうち、名神大社は以下に示す9座4社である。
総社一宮以下
  • 総社 志貴県主神社 (藤井寺市) - 惣社のある土地にこの神社が移ってきたという説と国府の近くにあったので惣社になったという説がある。
  • 一宮 枚岡神社 (東大阪市) - 実際に一の宮と呼ばれるようになるのは近世以後。
  • 二宮 恩智神社 - しかし、これは河内国第2位の勢力を持っただけで、神社制度としての二宮となった訳ではなく、二宮と呼ばれるようになるのも近世以後である。

片埜神社枚方市)も「河州一ノ宮」を名乗っているが、実際には交野郷一宮であったものが河内一宮と混同されたものである。三宮以下はなし。

守護所

承久の乱以前の守護の設置は見られない。最初の守護所は不明であるが、その後、丹南、古市、若江、高屋と移った。

安国寺利生塔

  • 安国寺 - 大阪府八尾市龍華にあった。
  • 利生塔 - 教興寺 (大阪府八尾市教興寺)。

地域

明治以降の改廃

  • 北河内郡1896年明治29年)4月1日に茨田郡、交野郡、讃良郡を統合して設けられた
  • 中河内郡…1896年(明治29年)4月1日に河内郡、高安郡、大県郡、若江郡、渋川郡、志紀郡の一部(三木本村)、丹北郡を統合して設けられた郡
  • 南河内郡…1896年(明治29年)4月1日に志紀郡の一部(三木本村以外)、安宿部郡、古市郡、石川郡、錦部郡、丹南郡、八上郡を統合して設けられた郡

江戸時代の藩

現在の行政区分

以下は大阪府による地域区分であり、郡の区分とは差異がある。

上記の自治体に含まれない地域は以下の通り。

この他に、1902年(明治35年)4月1日、旧 北河内郡今津村摂津国(旧 東成郡榎本村)に編入され、現 大阪市鶴見区のうちとなっている。

人物

国司

守護

鎌倉幕府

室町幕府

戦国大名

河内国の合戦

脚注

  1. ^ 『和名類聚抄』大阪府藤井寺市国府・惣社

関連項目