東映ポルノ

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東映ポルノとは、日本の大手映画会社である東映1960年代後半から製作を開始したエロティックな映画の総称。"日活ロマンポルノ"ほど、日本の映画史に於いて定着した名称といえないが、この名称で説明している。"東映ポルノ"という言葉は多くの文献で使われている[1][2][3][4][5]。1999年に杉作J太郎と植地毅がこれらのエロ映画と、エロ要素を含んだバイオレンス&アクション映画を"東映ピンキー・バイオレンス"と名付け『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』という書を出した。これ以降、この"東映ピンキー・バイオレンス"という言葉でこれらを紹介することもある[6][7]。『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』の中でも"東映ポルノ"という言葉が何度も使われている[8]。製作の始まりは1967年頃、終了は東映を含めた大手映画会社が一本立て興行に移行した1970年代の終わりと見られる。"ポルノ"という言葉は、この"東映ポルノ"から生まれた言葉である[9][10][11]。その他、"東映ポルノ"は多くの先駆的業績を生んでいる。

概要

"東映ポルノ"の仕掛け人は、東映任侠映画と同様[12][13][14]当時の東映取締役兼京都撮影所所長・岡田茂プロデューサー(のち、同社社長)である[15][16][17][18][19]。エロティック路線の映画は、キワモノとして大手の映画会社も現実には早くから作っていたが[20]1960年代初めから倒産した新東宝とその関連プロなどがより刺激性の高い作品を次々と製作・配給した[21][22]。これら"エロ映画"といっていたジャンルの呼称は、一定のファンを集めて市場が形成されると"ピンク映画"という名前で定着していった[20][23]。"任侠路線"に続く鉱脈を探していた岡田はこれに目を付け[24]1966年「男の世界の覗き見」が任侠映画なら、今度は「女の世界を覗き見る」という発想から"エロ映画"の製作を決め[25][26][27]企画課長・翁長孝雄を呼び『大奥物語』や『尼寺(秘)物語』といった「マル秘シリーズ」を自らの発案で仕掛けていく[17][28][29][30][31]。岡田はこれ以前にも東映東京撮影所(以下、東撮)所長時代の1963年佐久間良子主演で『五番町夕霧楼』や[32][33][34]1964年小川真由美緑魔子主演で『二匹の牝犬』(渡邊祐介監督)を[35]東映京都撮影所(以下、京撮)に戻った同年に中島貞夫に『くノ一忍法[36][37]1966年には"文芸エロ路線"と称し『四畳半物語 娼婦しの』(成澤昌茂監督)[38]といったエロティシズム要素を含んだ映画を撮らせており、既にその萌芽が見られていた[35][39][40]川本三郎は『二匹の牝犬』を東映ポルノの先鞭を付けた映画と評価している[41]。この時期の東映は任侠映画以外は全く当たらなかったが[42]『大奥(秘)物語|大奥物語』が大ヒットしたことで岡田はメジャー会社初の「エロ映画」量産に舵を切った[29]。"東映ポルノ"は、後述する石井輝男監督の『徳川女系図』(1968年)から、とする文献が多いが、『大奥物語』の脚本・掛札昌裕が「岡田さんの意向でエロスの要素を強調した。これがいわゆる東映のエロ路線のハシリ」と話しているため、『大奥物語』(1967年)から説明する[43]

主な作品、シリーズなど

大奥(秘)物語

岡田が企画、キャスティングからタイトル付けまで全て担当した『大奥物語』は[36][44]今日続く大奥もの(大奥に関する作品の一覧)や「女性時代劇」の実質的元祖となった作品[45][46][47]

本作は1967年度の日本映画配給収入でベストテン10位の大ヒットを記録[48]、東映としても久しぶりの時代劇の大ヒットとなった[49]。1978年の『柳生一族の陰謀』公開の際、東映は〈『丹下左膳 飛燕居合斬り』(1966年、萬屋錦之介主演・五社英雄監督)以来12年ぶりの本格時代劇〉と宣伝したが、実際はこの間、この『大奥物語』を始め、多くのポルノ時代劇を製作している[50]。これを受け、岡田は『物語』のシリーズ化を指示するが、翁長孝雄プロデューサーは、これら添え物が成人指定映画になっては、メインの任侠映画の観客が見に来なくなると危惧した[26]。当時の東映のメインは任侠映画だった。続く『続大奥物語』、『尼寺物語』では、翁長が「エロ」要素を極力抑えたためとも不入りに終わる[26]。企画部長・渡邊達人は、「一般映画に戻した方がいいんじゃないでしょうか」と岡田に進言するが、岡田は「中途半端なことしてたからアカンのや」とメジャー映画会社として初めて成人指定映画参入を図る[3][26]。東映が成人映画に参入したことで、大映松竹日活も追随した[51][52]

石井輝男エログロ映画

当時ピンク映画が、表立って宣伝もしないのに隆盛を極め、ソロバンをはじいてみると松竹の年間配給よりも総体で上回ることが分かり[16]今度は懐刀の天尾完次プロデューサー[53][54]を呼び「ピンク映画だけに儲けさせることはないぞ。こっちにはお得意の時代劇の衣装がある。あれを行かそう、大手の東映が豪華なエロ時代劇を作ろう。天尾、おまえやれ」「おれが石井輝男に撮らせる。おまえは、ピンク女優をかき集めてこい。裸でいくんじゃ」と指示を出した[28][55][56][57]。これが実質的な「東映ポルノ」のスタートとなる[26][55][58]。当時は大蔵映画国映などの独立プロがこうしたエロ映画を製作していて大手五社が手を染めることは大きな抵抗感があったが、岡田は易々と一線を越えていく[16][24][59]。岡田の指揮するエロ路線のうち、色の濃くないグロのつかない方を翁長孝雄プロデューサーが、グロの強い方を天尾完次プロデューサーが担当した[30][60][61]。岡田が指示した好色路線としてのスタートは山田風太郎原作の映画化で、エロ忍者映画『忍びの卍』(鈴木則文監督、1968年)だったのだが[50]これも東映の女優が脱がなかった為に興行的に失敗した[55][62]。東映専属の女優はなかなか脱いでくれなかった。この反省から好色路線をエスカレートさせ石井に作らせたのが1968年の豪華絢爛たる色欲大絵巻『徳川女系図』であった[55][63][64]。本作はメジャー映画会社として初の成人指定映画で、本作の企画もタイトルも岡田の考案によるもので[16]この作品からノースターでピンク女優を大量投入、実質的な「エロ映画路線」は本作からであった[24][55][65]。岡田はこれらを当初「刺激性路線」とネーミングしていた[66][67]。石井は当時『網走番外地』という高倉健主演の超人気シリーズを手掛けていたが、もう飽き飽きしていて「何か別の事をやりたい」と岡田の要請に応えた[68][69][70]。石井の"異常性愛路線"は、撮影所を冒涜したと助監督らが声明文を発する事態となってマスコミからのバッシングに遭い大きな論争を巻き起こした[55][58][71]。岡田はこれに反論し「体制打破ということだ。昔、存在したようなファンは、今はテレビにかじりついている。だから、昔のファンに受けたような旧体制の映画を作っていたのでは、現代の映画観客をつなぎ止めることはでけんわ」と一蹴した[72][73]。『徳川女系図』は1968年のゴールデンウィークのメイン映画として封切られたことでピンク映画界を震撼させた[74]。しかし結果的に話題にもなり奇跡の大ヒットを記録[62]、3000万円の製作費でたちまち一億円以上稼いだといわれる[75]。『徳川女系図』ははタイトルに付いていないが「マルシリーズ」第四弾だったという見方もあり[29][76]本来、岡田が目指した「大奥もの」の完成形はここにあったが、この路線は映画史の裏街道を歩む[29]。石井は岡田の意図を大胆に表現[27][77][78]ヌードセックスだけでなく、拷問処刑等、グロテスクな描写を取り入れ、その後も「異常性愛路線」[79][80]としてエログロをエスカレートさせていく[24][77][81][82]。同年9月28日公開の『徳川女刑罰史』は、冒頭から首が飛ぶ!胴を斬る!衝撃の三段斬り!が展開される東映初の「SM映画」で、東の団鬼六、西の辻村隆といわれたSM界の巨匠が緊縛指導に付いて、地獄絵図そのままに、サディズムの極限を追求して徳川女刑罰十四種が繰り広げられる、その見世物性たるや今どきのSMビデオにも劣らない[83]。清純派として売り出したはずの橘ますみが"空中海老吊り"にされ、水をかけられ悲鳴を上げ撮影が中断する凄惨な現場だったといわれる[80][83]映画評論家佐藤忠男が『キネマ旬報』に本作を「日本映画の最低線への警告」と題して「エロ・グロと人格的侮辱のイメージを羅列していける神経にほとんど嘔吐感が込み上げる」「ピンク映画専門のプロダクションが作る映画でもここまで愚劣でない」などと酷評した[84]。「大高宏雄は商業主義的な製作の姿勢は、企業映画だから会社内外で容認できるとして、そこからさらに逸脱した超=商業主義とでも言いたい製作の恐るべき発展形がそこにあった」と評している[85]。『徳川女刑罰史』は、B級スターのみの出演にも関わらず、1968年の年間配給収入ベストテンにランクされ[16][26][86]同じ東映で鶴田浩二高倉健藤純子ら出演の任侠映画『人生劇場 飛車角と吉良常』(内田吐夢監督)を上回るコストパフォーマンスの高さだった[83]。1969年の『徳川いれずみ師 責め地獄』では、由美てる子が逆さ片足吊りで一日中吊るされるなどの異常な撮影で失踪した(代役が片山由美子[83][87]。同年の『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』は興行で惨敗し「異常性愛路線」も惨めな終了を迎えた[83]。しかし1980年代に入り、アメリカから「カルト映画」の概念が入って来て復活、リアルタイムを知らない新しい映画ファンの間で口コミで評判が広がり、以後20年に渡って名画座の定番作品となった[83][88]。『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』は日本映画をカルトな視点から観るその先駆けといわれる[83]

温泉芸者シリーズとポルノ

1968年、岡田の企画で始めた"温泉芸者シリーズ"[89][90]東映の"温泉もの"[91]"芸者もの"[91]の、第一作のタイトル『温泉ふんどし芸者』は映倫からクレームが来てボツ企画に[89]。結局『温泉あんま芸者』(1968年6月28日公開)から6本作られた[89][92]。東映の"温泉芸者シリーズ"は、1963年『温泉芸者』(叶順子主演・富本壮吉監督)から始まる大映の"温泉シリーズ"を真似たものといわれる[93]。外注のピンク女優を大量起用した『徳川女系図』がピンク業界から反撥を受けたため[3]岡田プロデュースのシリーズ第3作1968年『温泉あんま芸者』(石井輝男監督)からは自前のヌード女優を育成してエロ路線を充実させた[3]。映画の舞台となった温泉は観光地として売り出せるため、ロケ大歓迎のタイアップ作戦で、安上がりの上、スタッフ・キャストは至れり尽くせりだったといわれる[94]。ところが段々興行成績が落ち、肝心の温泉地もロケお断りとなり、苦肉の策で鈴木則文の静岡の実家のコネを使い、伊豆で撮影されたのが第4作『温泉みみず芸者』(1971年7月公開、鈴木則文監督)[94][95][96]。この『温泉みみず芸者』に於いてプロデューサーの天尾完次が海外の雑誌のグラビアから"ポルノグラフィ"という言葉を見つけて、"ポルノ"という言葉を日本で初めて使った[10][26][97]。本作で主演デビュー作となった当時16歳の池玲子を成人の履歴書に100%捏造し、池を売り出すため、あれこれ思案し「日本初のポルノ女優」というキャッチコピーを付けた[6][9][55]。今日SEX映像の代名詞として日本で定着する、"ポルノ"という言葉は、このとき東映が作った造語[96][98]。"ポルノグラフィ"という言葉は、文学絵画写真等の官能表現の一分野として存在はしていたが、知る人のみが知る異端の業界用語で一般には知られてなかった[97][10]。勿論、"ポルノグラフィ"を"ポルノ"と略したのもこの時が最初である[10]。池は"ポルノ"という言葉を聞いて「全然いやらしくないし、すっごく可愛い感じがする」と喜んでいたという[10]。この『温泉みみず芸者』で池とともにデビューしたのが、やはり天尾と鈴木がスカウトした杉本美樹で、岡田社長から「二人を自前のポルノ女優として育てろ」と指示があった[99]。"ポルノ"という言葉はスポーツ新聞から、夕刊紙週刊誌などに拡散され[10]川上宗薫梶山季之といった作家の官能小説には"ポルノ小説"という言葉が付けられた[10]日活も東映のアイデアを拝借して"日活ロマンポルノ"という言葉を作り[98]、東映の『温泉みみず芸者』公開から4か月後の1971年11月20日に『団地妻 昼下りの情事』『色暦大奥秘話』を"日活ロマンポルノ"第一弾として封切り「ポルノ映画」という名称が一気に普及、"ポルノ"という言葉が日本に広く認知され定着していった[10][11]。この"日活ロマンポルノ"最初の二作品はそれぞれ「団地妻シリーズ」「色暦大奥シリーズ」として量産されるが、日活の大奥物は東映の大奥物(大奥に関する作品の一覧)のパクリである[100]。東映も1972年のゴールデンウィーク映画『徳川セックス禁止令 色情大名』から岡田の強い意向で看板に「東映ポルノ路線」と書かせた[101]。『温泉みみず芸者』は、岡田が天尾と鈴木をタコのよく獲れる海岸に行かせ、タイトルも最初は『温泉タコ壺芸者』であったが、「考えたけど、タコ壺は弱い。みみずにしろ」と岡田が言ってきて、鈴木が「もうタコ壺を使って撮影してますよ」と反論したが「中身はいいからタイトルだけはみみずで行け」と『温泉みみず芸者』にタイトルを変更した[102]。また映画の「クライマックスは“セックス対決”で行こう」「その方が作品が締まる。温泉芸者で“勝負したら締まる”」という岡田理論を指示し[102]東映ポルノの“セックス対決”という伝統はここからスタートした[94]。東映の"温泉芸者シリーズ"は、その後1973年『温泉おさな妻』(鷹森立一監督)、1975年『東京ふんどし芸者』(野田幸男監督)が製作されるもパワーダウンしシリーズ終了[94]。日活ロマンポルノの"温泉芸者モノ"も次第になくなり、ジャンルとして絶滅している[94]

セックスドキュメント

1969年にルポライター竹中労が岡田に持ち込んできた“時代の風俗ドキュメント”という企画を元に中島貞夫が、当時の日本の性風俗とアングラ文化をやらせなしのドキュメンタリーで撮影、「セックスドキュメントシリーズ」として『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』など計4本撮った[31][103][104]。岡田に呼びだされた中島は「企画は"助平物語"だ」と言われ、最初から全国のセックスゾーンに目を付けてこれをドキュメントでとらえることを意図していた[105]。第1作目は岡田が『セックス猟奇地帯』というタイトルを出し、中島が“にっぽん69”を書き足し『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』というタイトルになったという[31]。「セックスドキュメント」シリーズは、中島以外の監督でも製作された[106]。中島はシリーズ大ヒットの功績により、暴力の「ドキュメント」"テロ"をコンセプトに[31][106]幕末以降に日本で起きた代表的な暗殺事件を実録で再現した『日本暗殺秘録』を製作した[106][107]。実録犯罪映画は古くから作られてきたが、東映の実録犯罪映画は"東映ポルノ路線"を源流とする[106]。東映は大手映画会社で最も積極的に実録犯罪映画に手を出した[108]。1969年『明治大正昭和 猟奇女犯罪史』は、阿部定事件初の映像化で阿部定本人も映画に出演し歴史的映像を残した[106][108]。1968年、小松川事件を映画化した大島渚監督『絞死刑』で脚本を共作した深尾道典が実録犯罪に拘り、東映で新橋第一ホテル歯科女医殺人事件を『女医の愛欲日記』(1973年)として脚本監督、立教大学助教授教え子殺人事件の映画化『女子大生失踪事件 熟れた匂い』(1974年、荒井美三雄監督)、滋賀銀行9億円横領事件の映画化『史上最大のヒモ 濡れた砂丘』(1974年、依田智臣監督)の脚本を手掛けた[108]1975年の『実録三億円事件 時効成立』は、岡田社長の号令で製作された三億円事件映画[109][110][111]。1976年『戦後猟奇犯罪史』も大久保事件西口彰事件を最初に映像化した作品である[106]

スケバン映画

日本の於ける"不良グループ"ものの先駆は、やはり岡田が梅宮辰夫を売り出すため、マーロン・ブランドの主演映画『乱暴者』などをヒントに作らせた1968年から始まる『不良番長』シリーズ[112][113][114]といわれるが[115]、この女性版を作ったのは東映が最初ではなく、日活が1969年に作った『女番長 仁義破り』(長谷川照子主演・江崎実生監督)[115]。これを皮切りに日活は1970年『野良猫ロック』をシリーズ化して突如女番長ブームが起きた[116][117][118][119]。この『野良猫ロック』シリーズは第1作のみホリプロが製作した関係で主演が和田アキ子で、2作目から5作目が梶芽衣子だった。梶はこの後、東映に移籍するが『野良猫ロック』シリーズには東映で当てた『女囚さそりシリーズ』の萌芽が見られる[118]。東映も『野良猫ロック』シリーズと同時期に東撮大信田礼子主演『ずべ公番長』シリーズを[113][120][121]京撮大原麗子夏純子市地洋子主演で『三匹の牝蜂』を製作[122]。東映の女番長映画は、岡田が「石井輝男のエログロ映画が終わり、ヤクザ映画以外にもう1本ラインがないと興行が弱い、若者のラインを何とか確立したい」と号令をかけシリーズ化させた[123]。東映の番長映画は、男版も女版も岡田の企画。『ずべ公番長』シリーズは、大信田らずべ公たちが毎回ビキニミニスカホットパンツなど、流行のハレンチファッションに身を包み"元祖コスプレ"とも評される[116][124]。その後女番長シリーズは池玲子杉本美樹山内えみこらが主演して多数製作されるが[122][125]、1970年10月27日公開の『女番長ブルース(すけばん) 牝蜂の逆襲』で初めて"女番長"をすけばん(スケバン)と読ませた[126][127]。"すけばん(スケバン)"という言葉が映像作品で用いられたのはこれが最初[127]。これ以前の他社の『女番長〇〇』という映画は、"女番長"と書いて"おんなばんちょう"と読んでいた。元は岡田が命名した『牝蜂の逆襲』というタイトルで製作を進めていたが、当時の取材中に耳にした"スケバン"という言葉の鮮度は捨てがたいと監督の鈴木則文が"女番長"と書いて"すけばん(スケバン)"と読ませることを発案し『女番長(すけばん)ブルース 牝蜂の逆襲』というタイトルに変更した[126][127]。東映のスケバン映画は他社のスケバン映画と比べポルノ性が高かった[50]。毛並みのいい映画会社・東宝も東映の女番長シリーズを研究し1972年『混血児リカ』(製作:近代映画協会、監督:中平康、脚本:新藤兼人、原作:凡天太郎)という珍品スケバン映画を撮った[128]。女番長シリーズ7作目『女番長 玉突き遊び』(1974年公開)で、同作に主演する新人ポルノスター発掘に、東映と日本テレビの共催で、ポルノ女優テレビオーディションが開催され、三回に渡る審査を経て1973年7月7日、最終審査が日本テレビの『土曜イレブン』生放送で全国放送された[129][130]。内容が内容だけに応募者も少なかったが、井原高忠阿久悠大竹省二、天尾完次、鈴木則文、多々良圭、荒木一郎ら審査員と司会者が、ブラジャーを取るのを強要したり、セクハラ質問を浴びせたり、現在ではまず有り得ない放送だったといわれる[129][130]。合格者は佐分利聖子叶優子だった[129]篠原とおる原作・杉本美樹主演の1974年『0課の女 赤い手錠』は (野田幸男監督)長い年月を掛けて再評価された[128]。1971年に大映が消滅し日活もロマンポルノに移行するため、東映のみで"スケバン映画"の製作は続いたが、製作ペースが鈍ったのは、やはり岡田社長がブルース・リー映画を観て、カンフー映画ブームの到来を予測し、千葉真一山下タダシ志穂美悦子らを使って和製カラテ映画の製作を始めたことだった[131][132][133][134]。これによりそれまでスケバン映画が独占してきた実録映画のB面番組枠を和製カラテ映画が奪ってしまった[133]。カラテ映画がその後も『地上最強のカラテ』などのカラテドキュメンタリー路線まで、思いのほか長く続き"スケバン映画"は遂に浮上できなかった[133]。出番を失った山内えみこらスケバン女優の多くはテレビ部門に送り込まれた[135]。1977年『地獄の天使 紅い爆音』で1970年代の"スケバン映画"は終了したとされる[116]。同作は売り出し中の歌手・内藤やす子の宣伝媒体に利用されたが、劇場公開と同時に内藤が大麻所持で逮捕され映画生命を絶たれた[136]。その後"スケバン映画"は、1975年に連載が始まった和田慎二の漫画『スケバン刑事』を実写化したスケバン刑事#実写化作品1980年代後半に東映でテレビドラマ化、映画化され大ブームを起こした[113]

恐怖女子高校シリーズ

女番長シリーズの三本目『女番長ゲリラ』(1972年8月12日公開)の直後、女番長シリーズの池玲子や杉本美樹主演で別線シリーズ「恐怖女子高校シリーズ」がスタートし計4本作られた[6][90][137]。本シリーズは女子高を舞台とした"学園系"女番長映画で、セーラー服仁義を切り、ヤクザ映画並ばりのスケバングループ抗争劇を展開する[129]。決闘スタイルが全裸に胴着剣道スタイルや、トップレス制服フェンシング対決とか、ある種、後に東映が映像化して大当たりを取った『スケバン刑事』に直結する破天荒さを持ち、"女番長ワールド"の極北との評価もある[138]。本シリーズには『ハレンチ学園』の影響が見られる[138]。フランスの映画配給会社「江戸映画」(Edo Eiga) が東映から8本の映画を買い付け、この内、本シリーズの2作目『恐怖女子高校 暴行リンチ教室』が、巻頭タイトルロールのみ1973年の石井輝男監督『やさぐれ姐御伝 総括リンチ』を引っ付けて、どぎついセックスシーンを付け加え、字幕フランス語で政治的内容に変更し、『カマレの娘たち (The Girls of Kamare)』第二題名『夏のパンティ』(Une petite culotte pour l'été)[注 1]というタイトルで1974年12月から1975年3月までパリカルチエ・ラタンの映画館・ステュディオ・ガランド (Studio Galande) で上映され大ヒットしたという[139][140]

東映(秘)ポルノ大会

1971年大映の崩壊で作品不足に悩む映画館に日活ロマンポルノが流れていくのを食い止めるために、岡田は同年12月から「東映ポルノ大会」と銘打ち、東京第一プロ向井プロなどの独立プロの作品を買い取って配給を行う[141]。これを封切り二本立てでは保たないローカル館の番組補充に投入した[141]。「東映ポルノ大会」は1973年、「ナウポルノ」と改称された[141]

女囚さそりシリーズ

梶芽衣子の代表作として知られる「女囚さそりシリーズ」は[142]篠原とおる原作の映画化であるが、元は梶主演の女版"網走番外地"として企画されたもので[143][144]"ポルノ路線"の一作であった[145]。第1作のみ梶もヌードになる他[145]、女囚の集団入浴シーンなど裸がふんだんに登場する[146]。梶はクールなイメージで"復讐する女"を強烈に演じて、それまでの日本映画に存在しなかったヒロイン像を確立した[145]。梶芽衣子版「さそり」は70年代最高のアウトロー・ヒロインとして屹立し、今なお不変の輝きを誇ると評される[147]。70年代に入ると女優の主な活躍の場は完全にテレビになり、映画で独自のパーソナリティを開花させた若手女優は、梶と桃井かおり秋吉久美子などごく数人に限られた[148]。また組合活動家だった監督の伊藤俊也の反体制的な演出も高い評価を受けた[146]。伊藤は「石井輝男野田幸男深作欣二も、東映の全てを否定して映画を撮った」「"NO"という意思が、国家をも打ち抜くといった観念を劇構造に織り込もうと考えた」などと話している[144]。当時東映は労働組合に対する締め付けが強く、伊藤はハチマキをして組合運動をしながら映画を撮った。シリーズ全体に流れる体制への反抗と復讐というテーマが当時の時代背景にマッチした。第1作『女囚701号/さそり』、第2作『女囚さそり 第41雑居房』の大ヒットは『仁義なき戦い』に先立つものであり、東映に女性アクションの新しい軸を作った[149]。伊藤はシリーズ化にあたり、全ての話を連続させたいと考えていたため、3作で全てをやりきり、会社からは好条件で続投を依頼されたが降板した。降板理由は世間で噂された梶との不仲説ではないという[144]。元々梶は当時結婚を考えていた人がいて1作目で引退するつもりだった[150]。ところが予想以上の大ヒットで岡田社長や俊藤浩滋らの説得を受ける形で、なし崩し的に出演を続けたと話している[150][151]。梶の歌う主題歌怨み節』も大ヒットしたが、当時は映画の主題歌はまだ定着していなかったという[144]。「女囚さそりシリーズ」は、第4作で梶主演、監督が長谷部安春に代わり、第5作で主演は多岐川裕美に交代し監督が小平裕、第6作では主演が夏樹陽子になり興行的に失敗し1970年代のシリーズは終了した[152]。第5作で裸になることに過敏になっていた多岐川が「違う演出方法もあるんじゃないですか?」と監督に意見してごね、浅香光代が怒り、根岸季衣も「脱がない」と言い出し、裸のために呼んだゴールデンハーフの高村ルナも「じゃあ私も脱がない」と紛糾[153]。結局多岐川の主張が通りソフトな演出になり、それを聞いた第6作の夏樹陽子も「脱がない」と言い出したという[153]。しかし第5作では当時大人気だった范文雀が予想外に脱いでくれて驚いたと監督の小平は話している[153]。女囚を扱った映画としては、同じ東映が1965年に女版"網走番外地"のような『おんな番外地 鎖の牝犬』(緑魔子主演)を、大映が1968年から1969年にかけて"秘録もの"として、安田道代主演で、江戸時代の女牢を舞台にした『秘録おんな牢』(1968年)などを製作している[154][155]。世界的には1971年、ロジャー・コーマン製作、ジャック・ヒル監督、パム・グリア出演の『残酷女刑務所』が、女囚映画にセックス要素を注入し大ヒット[156][157]、以降続々と女囚映画が作られた[156]。特にダイアン・ソーン主演のエクスプロイテーション映画イルザシリーズ」は、世界的に大ヒットした[157][158]

東映洋画

1960年代後半からピンク洋画(洋ピン)の人気が出て、こちらも中小の配給会社で利益を挙げていた事に目を付けた岡田は、エロ路線の拡大を狙い1972年5月、東映に洋画部(東映洋画)を新設し洋画配給業へ進出した[159][160][161]。松竹の奥山融も追随し松竹に同様の洋ピン配給会社・グローバルフィルムを立ち上げ[162]日活も洋ピンを配給した[163]。1950年代から「わいせつ表現」を巡って法廷闘争が行われてきたヨーロッパでは、1967年にデンマークでポルノが解禁されたのを皮切りに、西欧諸国でも1960年代後半続々とポルノが解禁され、解禁国では多くのヌード映画が製作され世界に向けて売り出された[11]。洋ピンが日本に押し寄せてきた切っ掛けは、大映第一フィルムが1968年に公開した西ドイツ性医学映画女体の神秘』の興行的成功によるもので[163][164]『女体の神秘』の直接的な性描写に影響を受けたポルノ映画が世界各国に氾濫した[165]。1971年には同じ西ドイツの『女子学生レポート』が公開され、性教育映画が大ブームとなった[166]。東映洋画も既存の日本ヘラルド[167]らと共に、西ドイツ、アメリカスウェーデンフランスなどからポルノ映画を輸入し、東映パラス系で興行を打った[72][163][168]。また最初のハードコア映画といわれる『ディープ・スロート[169]を輸入、編集して公開してハードコアポルノが日本でブームになった[169][170]。東映洋画は、外国のポルノ女優、サンドラ・ジュリアンクリスチーナ・リンドバーグ[171]シャロン・ケリーらを日本に呼んで東映でポルノ映画を撮った[6][67][172]。東映洋画は1972年の『ドラゴンへの道』を池玲子を“人身御供”にして獲得に成功し大きく伸び[173][174][175]洋ピン以外にもカンフー映画やアラン・ドロン映画などを手掛けられるようになった[176]。1970年代後半からは、劇場版『宇宙戦艦ヤマト』や『風の谷のナウシカ』などのジブリアニメ、『人間の証明』などの角川映画を配給した[176]。先の『ディープ・スロート』(1975年8月日本公開)を輸入した際に編集を向井寛に頼み[177][178]これを機に向井は東映から後述する500万円ポルノを大量に発注しユニバースプロを設立、これが後に獅子プロダクションへと移行し片岡修二滝田洋二郎らを育てた[179]。1977年、東映セントラルフィルムが設立されると向井はセントラル・アーツ黒澤満とともにプロデューサーとして活躍し[177]渡辺護山本晋也稲尾実梅沢薫中村幻児若松孝二監督作品などをプロデュース[179]。不遇だったピンク映画出身監督に一般映画制作のチャンスを与える先例となった[179]。岡田は東映洋画は世界の製作配給業者と本格的なコネが出来たと評価した[160]

東映ニューポルノ

「東映ポルノ路線」は1968年の『徳川女系図』以来、5年半で120本を超す作品が作られ「ヤクザ路線」と並ぶ看板路線の地位を占めたが1973年頃から営業成績が急落。特に1974年2月に公開した多岐川裕美の主演デビュー作として知られる『聖獣学園』は「想像できない不入り」で、「ストリップ映画は所詮キワモノだよ!」と岡田社長が宣言し[134][180]、この年6月に公開されたシャロン・ケリー梅宮辰夫のセックス戦が展開される『色情トルコ日記』をもって撤退を表明した[1][179][181][182]。しかし地方では当時東映でも3本立てがあり[183]仁義なき戦いシリーズ」などのヒット作のロングラン態勢確立のため3週目以降の併映に加えたり、春休みや夏休みに展開した「東映まんがまつり」や「特撮大会」を早く切り上げて大人向け番組を欲しがる下番線(地方館)のために[184][185]、1973年春から「300万(製作費)映画」の独立プロの「ピンク映画」を模倣した「500万(製作費)映画」が作られた[185][186][184]。「500万ポルノ」という名称は1975年の文献にも見られる[187]。「アニメなんか見たくねえ」という筋金入りの東映の観客は多かった[188]。先の「東映ポルノ大会」が東京第一プロ向井プロ、JAAなどの独立プロの作品を買い取って配給し[141]1973年「ナウポルノ」と改称されたが[141]他社からの買い取りではなく、この年京撮本体で製作された成人映画を「東映ニューポルノ」と呼ぶ[141][186][189]。どうせなら自分のところで作った方がいいとの岡田社長の判断である[184][188]。「東映ニューポルノ」は2015年現在データベースにも記載のない本田達男監督の『情欲のぞき窓』が嚆矢とされ[注 2][141][184]50分、あるいは60分前後の中篇が1974年まで20数本製作されたとされる[141][185][186]。元々「500万ポルノ」は、テレビ映画が製作されていない間に、空いたスタッフを導入して、下番線用の安い映画を作ろうとして出発、あくまでテレビ一話分として発想され、そのため上映時間は50分、撮影日数は実働7日間などと限定されていた[187]。2013年7月に東京ラピュタ阿佐ヶ谷で史上初となる「東映ニューポルノ」特集上映が組まれたが、その際立教大学助教授教え子殺人事件を扱った『女子大生失踪事件 熟れた匂い』(1974年、荒井美三雄監督)などが上映中止となったとされる。1974年の暮れから公開されたフランス映画『エマニエル夫人』が大ヒットし、同作の配給元は、当時まだ弱小の日本ヘラルド映画で、上映館は狭い劇場が多く、満員で入場をお断りされるお客が続出し「エロにあぶれた男たちは必ずエロに戻ってくる!」と、東映は1975年正月の『下刈り半次郎・観音を探せ』(原田隆司監督)から「ポルノ路線」を再開させた[180][190][191]。1975年、京撮で製作された『玉割り人ゆき』は、監督の牧口雄二が製作費は500万だったと話している[192]。この後1970年代後半、角川映画と組んで「大作1本立て」を始めるまでは散発的に主に二番館向けとして「東映ポルノ」は製作が続いた[183]。東映本体は1979年の『天使の欲望』(監督:関本郁夫)をもってポルノから一応再撤退したものの、1980年代半ばまで関連会社の「東映セントラル」を通して、主として獅子プロ作品などのピンク映画及び洋ピンを買取り配給していた[193]

トルコ渡り鳥

先の「東映ニューポルノ」は、京撮のポルノ増強路線であったが、東撮でも対抗しなければならないと指名されたのが『不良番長』を1972年12月に終了した野田幸男監督[184]。野田が打ち出した企画が、本物の風俗経験者を主演にしたセミドキュメント『トルコ渡り鳥』だった[184]。東映は雑誌に大々的に主演女優募集(経験者に限る)」との広告を打ち、過激な企画をアピールしたが、出演希望者は集まらず、企画は軌道修正され、急遽新人女優を起用しての製作に変更になった[184]。この『トルコ渡り鳥』に向けて東映は3人の新人ポルノ女優をデビューさせた。中村泰士のもとで歌を学んでいた荒木ミミと『仮面ライダー』などに出ていた岡田奈津子と、もう一人が山川レイカであった[184]。1973年3月、当時16歳の山川レイカを主演に、荒木ミミ、岡田奈津子出演の『昇天トルコ風呂』(監督:野田幸男)の撮影が始まった。東映は山川を"史上最年少のポルノ女優"というキャッチフレーズで売り出しマスコミでも話題となった[184][194]。ところが東映が調子に乗って映画の宣伝を兼ね、TBSの大人向け深夜番組に出演させ、前景気を煽ろうと山川を脱がせ反響を呼んだが、この番組を見た視聴者から「18歳未満入場お断りの成人指定映画に、年齢もいかぬ16歳の少女を出演させていいものだろうか」との投書が新聞記事になった。当時日活ロマンポルノが警視庁に摘発されたこともあって(日活ロマンポルノ事件)、この記事にびっくりした東映が八分通り完成していた映画の製作を中止した。映画の内容もヤクザの情婦になった山川がトルコ風呂で荒稼ぎ、殿山泰司小松方正といった、その道のベテランを相手に泡踊り、二輪車、大車輪といったフルコースを披露する、現在では製作されることはまずない内容だった。1975年に山川が18歳になり公開しても問題にならないという見解で公開を決定、映画は未完成だったため、ストーリーの辻褄を合わせるため編集でごまかし『青春トルコ日記 処女すべり』と改題して公開した[194]。公開年月日は1975年4月19日となっているため、同年4月5日に公開された『大脱獄』(高倉健主演・石井輝男監督)と『ウルフガイ 燃えろ狼男』(千葉真一主演・山口和彦監督)併映の地方下番線[注 3]用と思われる[194]。他に公開年月日は1975年5月14日で『札幌・横浜・名古屋・雄琴・博多 トルコ渡り鳥』(芹明香主演・関本郁夫監督)、『玉割り人ゆき』(潤ますみ主演・牧口雄二監督)との併映だったという説もある[130]。山川レイカは本作撮影以降、映画界から足を洗い、ファッションモデルの道を歩み始め資生堂PR誌花椿』にも登場したばかりだったが、寝耳に水の本作の公開でマスコミが殺到した[130]。山川は逃げるようにフランス留学し、その後の消息は不明といわれる[130]

「東映ポルノ」は岡田茂が提唱した「不良性感度」の一路線であったが[6][18][195][196][197]、1970年代後半、劇場版『宇宙戦艦ヤマト』の配給を手掛けて大ヒットさせ[198] [199]角川映画とも手を組み、外部作品の配給に本腰を入れ始め「不良性感度」は作品から失われていった[136][199][200]。しかし「不良性感度」の遺伝子伝統1980年代東映セントラル[201]1990年代には東映Vシネマに受け継がれた[12][201][202]

影響

1968年、石井輝男監督のエログロ映画『徳川女系図』の大ヒットにより、大手映画会社の性モラル防波堤が一気に決壊、日本映画をエロで埋め尽くした[11][28][120][203]。テレビの攻勢で観客減に悩んでいた邦画大手各社は東映に追随せざる事態に追い込まれ、次々とエロ路線に傾斜していく[3][11][204]大映日活松竹もヌード映画の製作を開始し、日本映画界は「ハレンチ・ブーム」に沸いた[11]。東映の"エロ映画"には、独立プロ系成人映画から多くの女優が出演し、ピンク女優の五社進出の先駆けとなり[205]以後、独立プロのキャストや手法を取り込む東映のやり方に各社が追随した[205]。また各社とも大部屋でくすぶっていた新人女優を「脱げば売り出してやる」と甘言で篭絡、要員確保してヌード映画の量産体制を敷いた[204]安田道代水木正子渥美マリ南美川洋子八代順子が大映の[204][206]荒井千津子松岡きっこ藤田憲子が松竹のヌード要員であった[204]。日活は吉永小百合浅丘ルリ子ら本格派女優への配慮からエログロ路線進出を躊躇したが東映ポルノに追随せるを得ず[1]、1968年7月公開の『女浮世風呂』(井田深監督)でピンク女優を大挙出演させエロ映画に舵を切る[1][204]。ここで生贄にされたのが大部屋でくすぶっていた太田雅子、のちの梶芽衣子だった[204]。残る東宝ははっきりエログロへ移行することはなかったが、これは同社が傘下にATGを抱え、実質的にエロ路線の代わりになっていたからである[204]。これら影響は映画界のみならず音楽界・歌謡ポップスにまで及ぼした[203]。ポスターに裸を載せて当ったこともあって、三朝れい子ら続々とレコードジャケットでヌードを披露する歌手が登場。それまでフレンチ歌謡を歌って燻っていた奥村チヨが、愛欲路線『恋の奴隷』(1969年)の宣伝でセミヌードを公開したり、1970年代に入ると渥美マリらによる露骨なエロ歌謡が量産され、エロ化の流れは『23時ショー』などの深夜番組にも及ぼし、更に山本リンダ夏木マリらによる“セクシーアクション歌謡”やピンク・レディーなど、その後の音楽界にも影響を及ぼした[203]。"東映のピンキー&バイオレンス"のスピードアップは、映画界全体を揺るがす衝撃と集客力だった。性の自由化の風潮のなかで、エロスが映画の救世主となっていく[183]。岡田の先見の明は特筆される[28]。岡田は続く『徳川女刑罰史』を「異常性愛路線」としてシリーズ化[16]、『徳川女刑罰史』は1968年の年間配収ベストテンにランクされ[16][86]これを受け、岡田は"エロ映画"を"任侠映画"と並べて興行の重要週間に配置していく[16]。当時の映画は二本立てが一般的であったので、こうした"エロ映画"が"任侠映画"と二本立てになることで、ストイシズムを謳う"任侠映画"の魅力が際立つという一面もあった[17]。1960年代末の日本映画は瀕死状態となり、暴力とエログロに特化した映画作りに邁進する東映だけがかろうじて映画製作で黒字を出した[207]。1968年秋に岡田が製作から営業までを一貫して統括する営業本部を新編成しその長となると"エロ路線"が本格化した[17][41]。岡田は"不良性感度濃厚な東映映画"と明快に東映カラーを打ち出して適確に観客を掴まえていく[208]。"岡田チルドレン"[26]鈴木則文中島貞夫内藤誠関本郁夫[209]牧口雄二らも流れに加わり、多くのエロ映画が量産された[18][71][183][210]。石井や鈴木、中島の作品が雑多なのは岡田のせいである[3][211]。これら作品のタイトルバックの多くに岡田の名前を出し、東映全体でこの路線に力を入れていることをアピールした[55]。また岡田自ら凄まじい「映画タイトル」を編み出し観客を呼び込んだ[55][85]。"東映ポルノ"は大半が岡田命名によるこのタイトルが醍醐味の一つである[7]。『エロ将軍と二十一人の女妾』『徳川セックス禁止令・色情大名』『現代ポルノ伝 先天性淫婦』『残酷・異常・虐待物語 元禄女系図』『ポルノの帝王』『ポルノの女王 にっぽんSEX旅行』『温泉ポン引き女中』『色情トルコ日記』『未亡人ごろしの帝王』など[3][55][97][212]。『エロ将軍と二十一人の女妾』も最初はエロは付いていなかった[43][99]。岡田が付けた"エロ"という言葉は倖田來未が2004年頃から人気が出て、"エロカッコいい"とか日常的に使われるようになったが、当時は口に出す言葉でなかった[43]。『徳川セックス禁止令・色情大名』はポルノ大作と銘打たれ、1972年のゴールデンウィークに全国200館以上の映画館で封切られた[213]。1960年代末の日本映画は瀕死の状態で、暴力とエログロに特化した映画作りに邁進する東映だけがかろうじて映画製作で黒字を出していた[207]不動産やレジャー産業で損失を補っていた東宝や松竹に対して、大映と日活は製作本位に偏重していて落ち込みが酷く1970年4月全面提携してダイニチ映配を設立した[207]。大映が渥美マリや八並映子川崎あかねらで『十代の妊娠』などエロ映画を量産し、15歳の関根恵子を『おさな妻』でヌードにして人気を上げ[214]松坂慶子が『夜の診察室』(監督:帯盛迪彦)でスターになりかかったところで倒産した[207]。日活も『ハレンチ学園』や夏純子主演の『女子学園シリーズ』などのエロ要素を含む映画を製作した後、1971年11月「日活ロマンポルノ」をスタートさせ成人映画路線に転じた[207]。東映、日活のなりふりかまわぬポルノ路線により、ピンク映画に大きな打撃を与え、弱小"エロダクション"は淘汰された[215]

東映の"好色路線"、"エロ路線"に参加した人物としてプロデューサーで天尾完次[216]、監督で石井輝男鈴木則文中島貞夫関本郁夫皆川隆之志村正浩牧口雄二[71][217]、脚本家で掛札昌裕[71][217][216]、女優では池玲子杉本美樹ハニー・レーヌ片山由美子橘ますみ山内えみこ叶優子潤ますみら、男優では、山城新伍川谷拓三吉田輝男小池朝雄若杉英二名和宏成瀬正孝らが多くの作品に出演している[218][219][220]

評価

1960年代から1970年代は、松竹ヌーヴェルヴァーグATGが全盛で、メッセージ色が強い映画が花盛りの時代に、メッセージの全く無い映画を陣頭指揮で量産した岡田茂の戦いは並大抵ことではなかった、と東映ファンの杉作J太郎は評価している[69]

主要プロデューサー

主要監督

主要脚本家

主要男優

主要女優

注釈

  1. ^ 1974年フランスで公開された大島渚監督の『夏の妹』を捩ったもの[139]
  2. ^ 同作は女屋実和子主演で1973年3月クランクインしたがお蔵入りしたといわれる。このため実質的には、深尾道典監督のデビュー作『女医の愛欲日記』(1973年5月12日公開)が第一弾。本作の主演・白石奈緒美は元東宝の女優で当時37歳。しかも人妻で、熟女ヌードの先駆者としてマスコミに大いに取り上げられた[184]
  3. ^ 直営館では滅多に封切られることのない、主に地方の映画館で、二本立てでメインの映画がロングランになった際に、交替して併映される映画や、三本立ての映画の一本のこと。不振番組はすぐに切り替えられた[180]。上映期間も前もって決定されているわけでないため、人目につく機会も少なく、東映の上映記録にも記載のない物もある[186][187]

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