阿部定事件

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事件現場となった尾久の待合「まさき」

阿部定事件(あべさだじけん)は、仲居であった阿部定1936年(昭和11年)5月18日東京市荒川区尾久待合で、性交中に愛人の男性を扼殺し、局部を切り取った事件。事件の猟奇性ゆえに、事件発覚後及び阿部定逮捕(同年5月20日)後に号外が出されるなど、当時の庶民の興味を強く惹いた事件である。

犯人[編集]

阿部 定(あべ さだ、1905年(明治38年)5月28日生まれ)。東京市神田区新銀町(現在の東京都千代田区神田多町)出身。

概要[編集]

事件発生[編集]

芸者娼婦などをしながら各地を転々として暮らしていた阿部定は、交際していた大宮五郎の紹介で東京・中野にある鰻料理店「吉田屋」の女中として田中加代という偽名で働き始め、その店の主人・石田吉蔵に惹かれる。吉蔵も次第に阿部定に惹かれ、次第に二人は関係を持つようになり、他人に気づかれないように店を離れたびたび二人で会うようになる。石田と定は駆け落ちし、待合を転々としながら、尾久の待合旅館「満佐喜」に滞在した。愛の行為の間、定はナイフを石田のペニスに置いて、「もう他の女性と決してふざけないこと」と凄んだが石田はこれを笑った。二夜連続のセックスの最中、定は石田の首をしめ始め、石田は続けるように定に言った。性交中に首を絞める行為は快感を増すと石田は定に言ったという(窒息プレイ)。

1936年(昭和11年)5月16日の夕方から定はオルガスムの間、石田の呼吸を止めるために腰紐を使いながらの性交を2時間繰り返した。強く首を絞めたときに石田の顔は歪み、鬱血した。定は石田の首の痛みを和らげようと銀座の資生堂薬局へ行き、何かよい薬はないかと聞いたが、時間が経たないと治らないと言われ、気休めに良く眠れるようにとカルモチンを購入して旅館に戻る。その後、定は石田にカルモチンを何度かに分けて、合計30錠飲ませた。定が居眠りし始めた時に石田は定に話した 「俺が眠る間、俺の首のまわりに腰紐を置いて、もう一度それで絞めてくれ…おまえが俺を絞め殺し始めるんなら、痛いから今度は止めてはいけない」と。しかし定は石田が冗談を言っていたのではと疑問に思ったと後に供述している。

5月18日午前2時、石田が眠っている時、定は二回、腰紐で死ぬまで彼を絞めた。定は後に警察で「まるで重荷が私の肩から持ち上げられたように、石田を殺したあと、私はとても楽になった」と供述している。定は包丁で彼の性器を切断した。雑誌の表紙にペニスと睾丸を包み、逮捕されるまでの3日間、彼女はこれを持ち歩いた。そして彼女は血で、シーツと石田の左太ももに「定、石田の吉二人キリ」と、石田の左腕に「」と刻んだ。石田のステテコとシャツを腰巻の下につけると、定は宿の人間に「(吉蔵は)具合が悪くて寝ているので午後になるまで起こさないで」と言い、午前8時頃に宿を出た。

宿を出た後、定は大宮五郎に会い繰り返し彼に謝罪した。しかし定の殺人をまだ知らない大宮は定がもう一人の恋人を連れて行ったことを謝罪していると勘違い。大宮はさほど気にせず、その夜は定と肉体関係を持った。定の謝罪は、自分と大宮の交際がスキャンダルを引き起こすにちがいないということを知っていたからである。しかし、5月19日に新聞は阿部定事件を報じた。大宮も後に法廷で定との関係を証言することになる。

阿部定パニック[編集]

阿部定パニックを報じる東京朝日新聞(1936年(昭和11年)5月21日版)

この事件はすぐに国民を興奮させた。そして彼女の捜索について引き続いて起こる熱狂は「阿部定パニック」と呼ばれていた。瓜実顔で髪を夜会巻きにした細身の女性を、定と勘違いし通報を受けた銀座や大阪の繁華街は一時騒然としてパニックになった。定が現れたという情報が流れるたびに、町はパニックになり、新聞はそれをさも愉快に書きたてた。この年に起こった失敗した二・二六事件クーデターの引用で、目撃例の犯罪が「試みイチ-ハチ」(「5-18」または「5月18日」)と諷刺的に呼ばれた。国民は美しいこの猟奇殺人者を二・二六事件で暗くなった世相を吹き飛ばす女神のような扱いをして歓迎した。「上野動物園クロヒョウ脱走事件」「二・二六事件」とあわせて「昭和11年の三大事件[1]と呼ばれている。

5月19日、定は買い物をし映画を見た。5月20日に品川の宿(品川館)に大和田直なる偽名を使い宿泊、大阪へ逃亡する予定であった。そこで、彼女はマッサージを受けて、3本のビールを飲んだ。彼女は、大宮五郎、友人、石田に別れの手紙を書いていた。午後4:00、高輪署安藤刑事は偽名で逗留している彼女の部屋に来た。「阿部定を探しているんでしょ?あたしがお探しの阿部定ですよ」と、さらりと言うと逮捕された。刑事達は定の落ち着いた態度に驚いた。

逮捕[編集]

定は逮捕されると「私は彼を非常に愛していたので、彼の全てが欲しかった。私達は正式な夫婦ではなかったので、石田は他の女性から抱きしめられることもできた。私は彼を殺せば他のどんな女性も二度と彼に決して触ることができないと思い、彼を殺した…」なぜ石田の性器を切断したかは「私は彼の頭か体と一緒にいたかった。いつも彼の側にいるためにそれを持っていきたかった」と供述している。

この犯罪の詳細が公表されたときのデマでは、石田のペニスが驚異的なサイズであると切り出した。しかし逮捕の後、定に質問した警官はこれを否定した。「石田のモノはちょうど平均であった。私を性的に喜ばせたいというテクニックと奉仕的な愛撫をする石田が好きだった」と定は答えている。定の逮捕後、石田のペニスと睾丸は東京医科大学の病理学博物館へ送られた。第二次世界大戦後まもなく、一般に公開していたようだ。

裁判の結果、事件は痴情の末と判定され、定は懲役6年の判決を受けて服役、1941年(昭和16年)に「紀元二千六百年」を理由に恩赦を受け出所している。

その後[編集]

  • 釈放後、「吉井昌子」と名前を変え市井で一般人としての生活を送っていたが、終戦直後『昭和好色一代女 お定色ざんげ』という書籍が出版され、著者と出版社を名誉毀損で告訴した。告訴した頃は埼玉県でサラリーマン男性と結婚をしていたが(未入籍のため事実婚)、男性は自分の妻が阿部定だと知ったことが原因で破局している。さらに、その後この事件を基にした劇や映画も製作されている(後述)。
  • この事がきっかけで再び各地で色々な仕事を転々とするようになるも、1971年(昭和46年)に置手紙を残し身内から忽然と姿を消し、以降の消息及び生死は不明となっている(詳細は阿部定の項目を参照)。
  • 瀬戸内寂聴がNHK教育放送ラジオ番組で語ったところによると、事件後、芝居・見世物一座で本人が講釈し、模造の一物を見せる事もしていたらしい(浅香光代も子供時代に阿部定劇を見たと語っている)。
  • なお、1953年(昭和28年)にもこの阿部定事件と同様の事件が東京都文京区で発生している。また1972年(昭和47年)にも同様の事件が東京都杉並区で発生し、4月29日に荻窪にあるアパート2階にて徳島出身の当時予備校生だった旅館の跡取り息子(21歳)を、この旅館の仲居として働く女性(32歳)が別れ話のもつれから包丁で切りつけた。予備校生の陰部は皮一枚を残して殆ど切断された状態となり元通りに縫合する事は困難とされた。これを当時のマスコミは昭和の阿部定事件として騒ぎ立てた。

切断部位の表現[編集]

事件発生後、阿部定が切断した性器をどう表現するか、各新聞社は頭を悩ませた。「ちんぽ」「おちんちん」などでは品位がないし、「男性器」「生殖器」などでは生々しすぎたからである。またこの事件のメインテーマでもあるため、お茶を濁して誤魔化すわけにはいかなかったのである。苦慮の末、「局所」「下腹部」という表現が用いられて報道され、これ以後は性器部分をあらわす言葉として定着した。

作品[編集]

この事件を元にした数々の映画や小説なども製作された。

小説[編集]

映画[編集]

愛のコリーダ[編集]

  • 監督は大島渚。この作品は1976年(昭和51年)に『愛のコリーダ』(L'Empire des sens)のタイトルでカンヌ国際映画祭で上映され、世界各国で公開されるが、日本では大幅な修正が施されて上映された。その後、ノーカット版(正確には一部が修正された)が2000年(平成12年)に公開される。
  • 1976年(昭和51年)の初公開時、この映画の写真と脚本をまとめた単行本の著者と出版社がわいせつ文書販売罪で検挙されるも、裁判は被告人有利となり1982(昭和57)年東京高裁で検察の控訴が棄却され無罪が確定した。

脚注[編集]

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参考文献[編集]

  • 前坂俊之編『阿部定手記』(中公文庫、1998.2 /ISBN 4122030722

関連項目[編集]

  • トマソン - 途中で切断された電柱の痕跡が俗に阿部定と呼ばれる