明治大正昭和 猟奇女犯罪史

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明治大正昭和 猟奇女犯罪史
監督 石井輝男
脚本 石井輝男
掛札昌裕
野波静雄
製作 石井輝男
出演者 吉田輝雄
石山健二郎
賀川雪絵
由利徹
土方巽
阿部定
音楽 八木正生
撮影 わし尾元也
編集 神田忠男
製作会社 東映京都
配給 東映
公開 日本の旗 1969年8月27日
上映時間 92分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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明治大正昭和 猟奇女犯罪史』(めいじたいしょうしょうわ りょうきおんなはんざいし)は、1969年公開の日本映画。主演・吉田輝雄、監督・石井輝男R-18(旧成人映画)指定[1]

概要[編集]

実在の猟奇事件を題材にしたオムニバス映画[2][3]解剖医の村瀬(吉田輝雄)を狂言回しとして、「東洋閣事件」[注 1]阿部定事件」「象徴切り事件」「小平事件」「高橋お伝」が描かれている[1][4]。また、当時63歳の阿部定本人が出演し[1]、オムニバスの合間に吉田輝雄から(村瀬役としてではなく、素の吉田である)インタビューを受けている[4][5]

なお、タイトルは「明治・大正・昭和」とされているが、テーマとなった事件はいずれも明治時代(高橋お伝)昭和時代(東洋閣事件、阿部定事件、小平事件)の事件であり、大正時代の事件は扱われていない。ちなみに、明治百年記念式典が行われた直後の製作である。カラー映画だが、小平事件篇のみモノクロで撮られている。

スタッフ[編集]

キャスト[編集]

東洋閣事件[編集]

阿部定事件[編集]

象徴切り事件[編集]

小平事件[編集]

高橋お伝[編集]


製作[編集]

本作は大手映画会社で最も積極的に実録犯罪映画に手を出したといわれる東映の[6][7]東映京都撮影所に於ける源流といわれる[6][7]岡田茂東映企画本部長が[8]、「70年安保を控えて映画も時代に即応した強度の暴力が受けるはず」と打ち出した"刺激暴力路線" "ゲバルト路線"『やくざ刑罰史 私刑!』に続き[2][8]、"実話路線"として打ち出したのが本作[2][9][10]。石井輝男も「"ひっぱがし"を6本も作ったので、もう飽きた」と話した[11]。1969年7月に「阿部定事件」「小平事件」「日本閣事件」「高橋お伝」など、ショッキングな事件をそのままオムニバスで映画化すると発表し、製作意図は「猟奇と真実を通して、人間の本性を追及する」とした[9]

企画[編集]

本作の公開は1969年8月であるが、その一年以上前の1968年6月の『映画ジャーナル』で、岡田が本作の原型と見られるような企画の話をしている。「1969年の正月映画として準備している"刺激性路線"『妖婦百人』。登場人物は題名どおり高橋お伝妲己のお百夜嵐お絹その他、有名な妖婦、毒婦を総登場させてドラマを構成する。誰が明治時代の妖婦で、誰が徳川時代の毒婦であっても一切お構いなし。そういうことにこだわらず型破りに作ってみせる。今までは"逃げ"の週間といわれていた番組も、これからは、この種の見せ場のはっきりとした企画の作品で逆に"儲け"の週間番組に切り替えてみせる」などと述べている[12]。1969年の正月映画なら同じ石井監督の『残酷・異常・虐待物語 元禄女系図』と見られるが、コンセプトは本作『明治大正昭和 猟奇女犯罪史』に近い。妖婦や毒婦は古くから映画作品のテーマにもよく使われ、岡田は同時期に宮園純子の初主演『妖艶毒婦伝』シリーズを企画している[13]。また牧口雄二1976年1977年に、それぞれ『戦後猟奇犯罪史』『毒婦お伝と首斬り浅』という本作と似たような映画を作らせている[14]

阿部定[編集]

阿部定は当時、吉原に近い台東区竜泉でおにぎり屋「若竹」を開店し「阿部定の店」という触れ込みでほどほどに繁盛していたといわれる[5]。石井は「無理やり探した」と話しており[10]、打ち合わせのために東映京都撮影所で阿部を見た関係者たちは「もう61、2歳だろうに、とてもそうは見えなかった。美人の評判の高かった人だけに、さすがにその色香はまだ残っているようだった」と感心した[15]

話題作りのため1969年7月、京都に阿部を呼んで製作会見を開いた[2][9][10]。物凄い数の報道陣が集まり[9][10]フラッシュが一斉に焚かれて阿部の顔が真っ青になり[2]、「私、悪いことしたんでしょうか?」と石井に言った[2][10]。この会見で阿部は「監督の申し出にこれまで誤り伝えられてきたので、今度は東映さんの良識を信ずる」[9]週刊誌の取材には「いまさら、真相を知ってもらおうなどという気持ちで出るわけではありません。ただ東映さんからの熱意にほだされただけ。私も、もう年をとりましたよ」[15]「やっと世間から忘れられるようになったいま、ふたたび過去のことを洗いざらいさらけだすようなことはしたくなかったのですけど、私の本心を理解していただくため、これが最後の機会だと思って出演しました」などと話した[16]。石井は「興味本位には描かないつもり。阿部さんを世間では異常者とみているようだが、ぼくは純愛の持ち主として解釈している。あくまでも彼女の気持ちを大切にして扱いたい」と話した[15]ヤクザ映画やこれまでの"刺激路線"が一段とエスカレートするのではと評され、良識論争を引き起こした[1][9]。石井は1999年のインタビューで「阿部定の映像は残したかったからね。歴史的な人物ですよ」と話している[10]。阿部は浅草吾妻橋で事件を追想する一シーンのみ出演した[5][10]。撮影当日も果たして阿部が本当に来るのか分からない状況だったという[2]。キャメラにも弱いため、阿部に「橋の上に立ってていてくれ」と指示し[2][10]、阿部に気付かれないよう向かい側の橋から望遠レンズで撮影した[2]。映画公開後も天尾完次プロデューサーが阿部とコンタクトを取っていたが[2]、途中からコンタクトが取れなくなったという[2]。 聞き手の吉田は、役どころである医師としての演技は特にせずに、素の雰囲気で阿部定に接している。

キャスティング[編集]

阿部定を演じるのは石井作品の常連女優・賀川ゆき絵[17]。賀川は東映のセッティングで料亭で阿部と会った[5][17]。ものすごい小さい人で、阿部から「こんな背の高い方がやって下さるんだ」と言われ「すいません」と謝ったという[17]。阿部は賀川に「気づいたら死んでしまっていたけれど、けっして後悔はしていないの」と不変の心情を吐露したといい[5]、小柄な老女の濡れた瞳がまるで童女のように澄み切っていたため、思わず抱擁したくなったという[5]。「綺麗で素敵な方、すごく純粋だからああいうことをするんだなと思った」「お会いしてドロドロした阿部定を演じるのはやめようと決めた」などと話している[17]

徳川いれずみ師 責め地獄』の主役に抜擢されながら撮影中に失踪した由美てる子が、石井監督に詫びを入れ、高橋お伝役に再起用された[2]。 

評価[編集]

後のワイドショー再現フィルムに多大な影響を与えたという評価がある他[3]、石井監督の前作『やくざ刑罰史 私刑!』と本作『明治大正昭和 猟奇女犯罪史』は、1970年代東映実録路線をいち早く開拓したとの評価もある[18][19]。『明治大正昭和 猟奇女犯罪史』はヒットし[20]、掛札昌裕は「ずっとそれをシリーズでやることになったんですよ、『説教強盗』ってサブタイトルまでついていたんですけど、何か石井さんが違う方向に行きたいというのがあったんでしょうね」と述べており[20]、"実話路線"は続く予定だったと見られる。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ホテル日本閣殺人事件をモデルとし、事件関係者は仮名となっている。事件当時50代だった主犯者を26歳の女優が演じ、中年の雑役夫だった共犯者が若い不動産業者として設定されるなど、実際の事件とは設定も経緯も大きく変更されている。

出典[編集]

  1. ^ a b c d 明治大正昭和 猟奇女犯罪史”. 日本映画製作者連盟. 2018年10月17日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 石井輝男福間健二『石井輝男映画魂』ワイズ出版、1992年、203 - 205、341頁頁。ISBN 4-948735-08-6 
  3. ^ a b 新文芸坐石井輝男 映画チラシ
  4. ^ a b 018:本物の阿部定さんが出演している映画 | 高木マニア堂 - 東スポWeb
  5. ^ a b c d e f 保科龍朗 (2006-06-10 be週末e1). “(愛の旅人)阿部定事件 阿部定と石田吉蔵 東京・尾久、浅草”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). オリジナルの2011年11月4日時点におけるアーカイブ。. https://megalodon.jp/2011-1104-1727-47/www.asahi.com/travel/traveler/TKY200606100158.html 2018年10月17日閲覧。 
  6. ^ a b 『鮮烈!アナーキー日本映画史 1959-1979』洋泉社〈映画秘宝EX〉、2012年、216-217頁。ISBN 4-86248-918-4 
  7. ^ a b 「東映不良性感度映画の世界 東映実録犯罪映画の系譜 文・モルモット吉田」『映画秘宝2011年平成23年)8月号 60頁、洋泉社 
  8. ^ a b 「70年安保も商売ダネ 東映が"刺激暴力路線"」『週刊朝日1969年昭和44年)6月20日号 123頁、朝日新聞社 
  9. ^ a b c d e f 「一段とエスカレートする?実話路線」『サンデー毎日1969年昭和44年)8月10日号 39頁、毎日新聞社 
  10. ^ a b c d e f g h 杉作J太郎植地毅「石井輝男インタビュー 聞き手・杉作J太郎」『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』徳間書店、1999年、237頁。ISBN 4-19-861016-9 
  11. ^ 「ミスも格落ちしたね」『サンデー毎日1969年昭和44年)6月15日号 40頁、毎日新聞社 
  12. ^ 文化通信社 編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、329頁。ISBN 978-4-636-88519-4 
  13. ^ 佐藤重臣「エロが国家を保護しはじめたのか ハレンチ化を一手に背負う東映映画に流れるものは?」『キネマ旬報1969年昭和44年)7月上旬号 44頁、キネマ旬報社 
  14. ^ 「牧口雄二インタビュー(前編)」『映画秘宝2014年平成26年)7月号 72-75頁、洋泉社 
  15. ^ a b c 「〔NEWS of NEWS〕 純愛"お定さん"が登場」『週刊読売1969年昭和44年)8月1日号 32頁、読売新聞社 
  16. ^ 「石井輝男起用の阿部お定」『週刊文春1969年昭和44年)8月4日号 20頁、文藝春秋 
  17. ^ a b c d 「さらば! 我らが天才監督 石井輝男の世界 GOGO『恐怖奇形人間』 賀川ゆき絵インタビュー」『映画秘宝2005年平成17年)11月号 36頁、洋泉社 
  18. ^ 映画魂 1992, p. 340.
  19. ^ 「さらば! 我らが天才監督 石井輝男の世界 東映異常性愛路線とは」『映画秘宝2005年平成17年)11月号 38頁、洋泉社 
  20. ^ a b 桂千穂「掛札昌裕インタビュー」『にっぽん脚本家クロニクル』青人社、1996年、738頁。ISBN 4-88296-801-0 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]