北杜夫

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北 杜夫
(きた もりお)
ペンネーム 北 杜夫
誕生 斎藤 宗吉(さいとう そうきち)
(1927-05-01) 1927年5月1日
日本の旗 日本東京府東京市
死没 (2011-10-24) 2011年10月24日(84歳没)
職業 小説家随筆家精神科医
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
教育 博士医学
最終学歴 東北大学医学部
活動期間 1959年 - 2011年
ジャンル 小説随筆
代表作 『どくとるマンボウ航海記』(1960年、随筆)
『夜と霧の隅で』(1960年)
『楡家の人びと』(1964年)
『輝ける碧き空の下で』(1982年 - 1986年)
主な受賞歴 芥川龍之介賞(1960年)
毎日出版文化賞(1964年)
日本文学大賞(1986年)
大佛次郎賞(1998年)
旭日中綬章(2011年)
デビュー作 『幽霊―或る幼年と青春の物語』(1959年)
子供 斎藤由香
親族 斎藤茂吉(父)
斎藤茂太(兄)
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北 杜夫(きた もりお、本名:斎藤 宗吉(さいとう そうきち)、1927年5月1日 - 2011年10月24日)は、日本小説家エッセイスト精神科医医学博士

人物

生い立ち

東京市赤坂区青山南町(現在の東京都港区南青山)に、母・斎藤輝子、父・茂吉の次男として生まれた。生家は母・輝子の実父、斎藤紀一が創設した精神病院、「青山脳病院」であった。

少年時代は昆虫採集に深く熱中する日々を送り、文学には興味を抱かなかった。

青南小学校では4年まで金免状の優等生だったが、病欠で5年から劣等生となり、府立一中の受験を断念した[1]。麻布中学時代の成績は259人中6番であった[2]。麻布では不良グループの1人につきまとわれ、手の指の間に指を挟まれて締めつけられるなどのいじめを受けた[3]。部活動では博物班に入り、当時部長であったフクロウこと橋本碩の指導を受け昆虫採集にのめり込んでいった。特にコガネムシ類を集中的に蒐集し、種類数で日本産の約8割・標本箱100箱分あったとされる。

戦中から戦後の混乱の最中、ファーブルのような昆虫学者になるべく旧制松本高校に入学し、学友たちと刺激しあう日々を送る中で初めてトーマス・マンの作品に出逢う。先輩に辻邦生がおり、終生の付き合いとなる。中でもトニオ・クレーゲル魔の山から強く深い影響を与えられた事がきっかけとなり作家を志すようになる。当時の松高にはマンの翻訳で名高い望月市恵がドイツ語教授として在任しており、マンの研究者としてはもとより、その人柄や教育者として望月のあらゆる面に強く尊敬の念を抱き、卒業後も交流は続いた。この件は著書である青年時代を綴ったエッセイ『どくとるマンボウ青春記』に詳しい。文学以外には卓球部のキャプテンを務め、インターハイに出場した。また、松本高校を志望する理由のひとつであった日本アルプス登山に頻繁に挑むなどして高校時代を過ごす。ただし、川原の石をリュックサックに詰めて毎日10キロを歩かせるといった訓練に恐れをなし、山岳部には参加しなかった[4]

父・茂吉の短歌の素晴らしさに触れた北は、それまでは恐ろしいカミナリ親父、頑固親父としか思っていなかった父親を優れた文学者として尊敬するようになった。しかし、進路を決める際、志望外であった医学部へ進学する事を一方的に厳命され、ささやかな抵抗や交渉を試みるも父の威力を覆すことは敵わず、東北大学医学部へ進学した。当時は精神科医では食べて行けないと思われていたため、父からは外科医になることを望まれていたが、霰粒腫の手術を見て気を失いかけ、外科に進むのを断念した[5]。『トニオ・クレーゲル』の影響で大学時代に小説を書き始め、さまざまな雑誌の懸賞に応募したが片端から落選し、一度だけエログロ雑誌に代作者として採用され1枚30円の稿料を貰ったのが職業作家としての第一歩だった[6]

医師、作家として

大学卒業後は東京に戻り、慶應義塾大学病院インターンとなった。無給であったため、すでに所帯を構えていた兄の自宅に居候せざるを得なかった。精神科医[7]として勤める傍ら、同人雑誌『文藝首都』に参加し、川上宗薫佐藤愛子田畑麦彦なだいなだらの知己を得る。1959年、『文藝首都』に連載した『幽霊』を、田畑の『祭壇』とともに自主出版する。

ナチス・ドイツの「夜と霧作戦」をモチーフにした『夜と霧の隅で』で、1960年に第43回芥川龍之介賞を受賞。また、1958年から翌年にかけて水産庁調査船に船医として乗船しインド洋から欧州にかけて航海(ドイツ訪問が乗船の動機だった)。この体験に基づく旅行記エッセイ『どくとるマンボウ航海記』が同年に刊行されると、アメリカン・ユーモアから影響を受けた、従来の日本文学にない陽性でナンセンスなユーモアにより評判となり、ベストセラーとなる。以降、小説、エッセイとも、特に若い読者から熱狂的に支持される人気作家となった。

大学時代の登山経験から、1965年カラコルム・ディラン峰への遠征隊に医師として参加。この体験をもとに『白きたおやかな峰』が書かれた。

昭和末期から、自宅を領土とするミニ独立国「マンボウ・マブゼ共和国」主席を名乗る。同国は真の共産主義国家であると称し、実在の共産主義国家は偽者として批判した。特に訪問経験のあるソヴィエト連邦には辛口である。もっとも、原則として政治的発言はしない作家であり、マンボウ・マブゼ共和国についてもシャレ以上の意味を持たせる意図はない。(ムツゴロウこと畑正憲と対談した際、北がムツゴロウ動物王国とマンボウ国で日本から分離独立し、同盟を結ぶ提案をしたことがある。この時の北は極端な躁状態だった。)

躁鬱病

壮年期より躁うつ病(双極Ⅰ型障害)を発症した。みずからの病状をエッセーなどでユーモラスに記し、世間の躁うつ病に対するマイナスイメージを和らげるのに一役買うこととなった。1976年には躁状態で「チャップリンのような大喜劇映画を作りたい」と夢想し、映画の製作資金を作るためにに入れ上げて巨額の損失を蒙り、穴埋めのために東京都世田谷区の自宅を抵当に入れて新潮社銀行佐藤愛子から借金し、自己破産と準禁治産宣告に追い込まれた(佐藤愛子からは延べ1000万円を借りている[8]。このころ山口瞳に電話をしてサントリーのCMへの出演を斡旋してもらおうとしたが断られた[9])。当時の負債は1億円以上、1976年11月の税金の滞納額は1000万円以上にのぼった[10]。この経験が戯曲風小説『悪魔のくる家』の執筆のヒントになったとされる。当時、生活費を稼ぐ手段として女性週刊誌で芸能人を相手にたびたび対談をおこなった。

晩年

1996年には日本芸術院会員となった。

2006年、新聞に自伝、『私の履歴書』(日本経済新聞)を連載。2008年にはテレビのトーク番組 『徹子の部屋』(テレビ朝日)に28年ぶりに出演し、長女の斎藤由香も同席した[11]。また、2010年には「週刊文春」連載の「新・家の履歴書」に登場し[12]、在りし日の斎藤家を回想した。

2011年9月、長野県安曇野市の昆虫収集家、平沢伴明がコガネムシの仲間「ビロウドコガネ」の新種を発見し、北杜夫と昆虫採集を通じて交流があることから、これの学名をラテン語で「ユーマラデラ・キタモリオイ Eumaladera kitamorioi」、和名は「マンボウビロウドコガネ」と命名した。北杜夫は献名されたことに対し「とても照れくさいけれど光栄。大好きなコガネムシなのでうれしい」と喜んでいたという[13]

2011年10月24日、腸閉塞のため死去。10月21日にインフルエンザの予防接種を受け、翌日から体調を崩し念のため入院した結果である。84歳没。翌々日、全国紙5社及び地方紙27社の1面コラム欄にはマンボウの文字が踊った[14]。死去後に日本政府より従四位に追叙され、旭日中綬章が追贈された[15]

作風

祖父の斎藤紀一は「大ぼらふき」の傾向がある奇人であったが、純文学作品とされるものにも祖父のようなユニークな「ほら吹き」の人物を登場させることがある。

作品は『夜と霧の隅で』、『楡家の人びと』(奇人変人が多かった齋藤家の歴史を描いた大河小説)など純文学と位置づけられるものから、『奇病連盟』『高みの見物』などのユーモア中間小説、『怪盗ジバコ』『父っちゃんは大変人』『さびしい王様』などファンタジーといえるもの、『船乗りクプクプの冒険』のような児童文学童話など、多様である。他に近年の作として父茂吉の評伝4部作があり、エッセーは『(どくとる)マンボウ』ものなどが小説以上に広く読み継がれている。1970年代に新潮社より全集を刊行。親子で生前に全集を完成させた最初の例となった(死後刊行では幸田露伴・文親娘がいる)。

初期のSFの愛好者・擁護者であり自身もSF的作品を執筆。1968年・1969年には月計画さなかのNASAを訪問・取材。ただし、その取材を元に執筆した著書『月と10セント』は月計画の狂騒的な騒ぎを批判した書であった。

また漫画の愛好家であったことから、小学館漫画賞文藝春秋漫画賞の選考委員をつとめていたこともあった。

自他共に認める熱狂的阪神ファンであり、エッセイには阪神タイガースの成績に一喜一憂しつづける日常を描いたものも多数あり、阪神タイガースを応援する文章だけで一冊を埋め尽くした『マンボウ阪神狂時代』の著書もある。また1985年の阪神タイガース優勝時には、彼の興奮ぶりがテレビ朝日系列にてドキュメンタリー番組として放送された。

昆虫採集

幼少時から始めた昆虫採集東京大空襲でコレクションのほとんどを失ってからほとんど行わなくなったが、コガネムシ類にだけは高齢になっても執着心を持ち続けてきたことを証言している。また、幼少期からの自然史趣味は、高校の同級生で後に著名な植物学者となった西田誠を、その該博な植物学の知識で驚嘆させた。昆虫採集に関しては『どくとるマンボウ昆虫記』が根強い人気を持っている。また、その後の著作でも『南太平洋ひるね旅』『母の影』などでしばしば昆虫採集に言及している。

2008年「どくとるマンボウ昆虫展」が開催された。これは虫好きの北杜夫ファンが、全国の虫屋に呼びかけ『どくとるマンボウ昆虫記』に登場する全昆虫の実物標本を集め開催したものである。内約50種は、実際に北氏が採集した個体が使用された。さらに、『航海記』の記述にある「帽子で捕まえたチョウ」の正体や、『青春記』で「茂吉の傍らで観察した狩猟蜂」が何であったのかを、その時の正にそのものの実物標本を使用し展覧した。この展覧会は宮城県仙台市山形県上山市栃木県日光市山梨県北杜市長野県松本市広島県福山市等全国15都市で開催され、2009年8月、軽井沢高原文庫において天覧となった。

2011年9月17日~19日に松本で行われた第71回日本昆虫学会において「どくとるマンボウ昆虫展」が開催された際、”「虫や」のみなさまへ”と題するメッセージを寄せ、その返礼として大会実行委員会長から感謝状を贈られた。10月1日、公での最後の席となった軽井沢高原文庫でのトークショーにて、新種コガネムシの献名式と感謝状の授与式が行われた。

ペンネームについて

ペンネームは文学活動を開始するにあたり、“親の七光り”と陰口を叩かれることを嫌い、茂吉の息子であることを隠す意図で用い始めた。旧制松本高校時代は斎藤憂行と名乗っていた。杜夫の由来は仙台(杜の都)在住時、心酔するトーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』(杜二夫)にちなんでつけたという。本人の談では、まず北の都に住んだので、「北」とつけ、「杜二夫」ではあまりに日本人離れしているので、「杜夫」にしたということである。その後順次「東」、「南」、「西」と、ペンネームを変更するつもりだったが、「北杜夫」で原稿が売れ始め、ペンネームを変更すると、出版社との契約等で支障があると判明し、そのままになったらしい。

学歴

職歴

受賞歴

著書

  • 幽霊―或る幼年と青春の物語 中央公論社、1960、新潮文庫
  • どくとるマンボウ航海記(船医としての経験をユーモラスに描いた随筆)中央公論社、1960、新潮文庫
  • 夜と霧の隅で 新潮社、1960、新潮文庫、以下略
  • 羽蟻のいる丘 文藝春秋新社、1960、ファラオ企画、1991
  • 遥かな国遠い国 新潮社、1961、文庫
  • あくびノオト 新潮社、1961、文庫
  • どくとるマンボウ昆虫記(少年時代からの昆虫趣味をベースにした随筆)中央公論社、1961、文庫
  • 南太平洋ひるね旅 新潮社、1962、文庫
  • 船乗りクプクプの冒険 集英社、1962、新潮文庫、集英社文庫、2009
  • どくとるマンボウ小辞典 中央公論社、1963、文庫
  • みつばち ぴい(童話)フレーベル館、1964
  • 楡家の人びと(斎藤家の歴史に取材した長編小説)新潮社、1964、文庫
  • 牧神の午後 冬樹社、1965、中公文庫
  • 高みの見物 新潮社、1965、文庫
  • どくとるマンボウ途中下車 中央公論社、1966、文庫
  • 天井裏の子供たち 新潮社、1966、文庫
  • 白きたおやかな峰(筆者が1966年にカラコルム山脈のディラン峰に医師として随行した体験に取材した小説)新潮社(純文学書き下ろし特別作品)1966、文庫
  • マンボウおもちゃ箱 新潮社、1967、文庫
  • 怪盗ジバコ 文藝春秋、1967、文庫
  • 奇病連盟 朝日新聞社、1967、新潮文庫
  • どくとるマンボウ青春記(旧制松本高等学校学生時代の随筆)中央公論社、1968、文庫
  • 黄色い船 新潮社、1968、「黄いろい船」文庫
  • さびしい王様 新潮社、1969、文庫
  • 星のない街路 中央公論社、1969、文庫
  • 少年 中央公論社、1970、文庫
  • 月と10セント マンボウ赤毛布米国旅行記 朝日新聞社、1971、新潮文庫
  • ぼくのおじさん 旺文社、1972(少年ドラマシリーズ原作)、新潮文庫
  • 人間とマンボウ 中央公論社、1972、文庫
  • 酔いどれ船 新潮社、1972、文庫
  • マンボウぼうえんきょう 新潮社、1973、文庫
  • さびしい乞食 新潮社、1974、文庫
  • 岩尾根にて 青娥書房、1975
  • 木精―或る青年期と追想の物語 新潮社、1975、文庫
  • 狂詩初稿 中央公論社、1975
  • マンボウ周遊券 新潮社、1976、文庫
  • どくとるマンボウ追想記 中央公論社、1976、文庫
  • 北杜夫全集 全15巻、新潮社、1976 - 1977
  • さびしい姫君 新潮社、1977、文庫
  • 美女とマンボウ(対談)人類とマンボウ1 講談社、1977
  • 怪人とマンボウ(対談)人類とマンボウ2 同
  • スターとマンボウ 人類とマンボウ3 同
  • マンボウ談話室(対談)講談社、1977
  • マンボウ響躁曲 地中海・南太平洋の旅 講談社、1977
  • むすめよ…―どくとるマンボウのおくりもの(童話)小学館、1977
  • マンボウ夢遊郷 中南米を行く 文藝春秋、1978、文庫
  • 悪魔のくる家 新潮社、1978、文庫
  • マンボウぱじゃま対談 美女かいぼう編 集英社、1978、文庫
  • マンボウぱじゃま対談 男性かいぼう編、同
  • マンボウ博士と怪人マブゼ 新潮社、1978、文庫
  • よわむしなおばけ(絵本)旺文社、1978
  • まっくらけのけ 新潮社、1979、文庫
  • ローノとやしがに―どくとるマンボウのとんちばなし(童話)小学館、1979
  • 寂光 歌集 中央公論社、1981
  • 人工の星 潮出版社、1981、集英社文庫
  • 父っちゃんは大変人 文藝春秋、1981、文庫
  • マンボウ宝島 若者のためのエッセイ集 創隆社、1981
  • マンボウ雑学記 岩波新書、1981
  • 親不孝旅日記 角川書店、1981、文庫
  • 輝ける碧き空の下で(ブラジル移民に取材した長編小説)新潮社、1982 - 1986、文庫
  • マンボウ人間博物館 文藝春秋、1982、新潮文庫
  • マンボウマブゼ共和国建国由来記 集英社、1982、文庫
  • マンボウ交遊録 読売新聞社、1982
  • 北杜夫による北杜夫(試みの自画像) 青銅社、1982
  • マンボウの乗馬読本 集英社 1983、「マンボウ素人乗馬読本」新潮文庫
  • マンボウ万華鏡 物語の中の物語 PHP研究所、1983
  • マンボウ百一夜 新潮社、1984、文庫
  • 地球さいごのオバケ(童話)河出書房新社、1985
  • 優しい女房は殺人鬼 新潮社、1986、文庫
  • マンボウの朝とマブゼの夜 朝日新聞社、1986
  • マンボウVSブッシュマン 新潮社、1987、文庫
  • 大日本帝国スーパーマン 新潮社、1987、文庫
  • 大結婚詐欺師 角川書店、1987、文庫
  • 或る青春の日記 中央公論社、1988、文庫
  • マンボウ酔族館 1-6 実業之日本社、1988 - 1999、新潮文庫
  • 夢一夜・火星人記録 新潮社、1989、文庫
  • 怪盗ジバコの復活 新潮社、1989、文庫
  • 日米ワールド・シリーズ 実業之日本社、1991
  • 青年茂吉(1991)・壮年茂吉(1993)・茂吉彷徨(1996)・茂吉晩年(1998)(4部作)岩波書店、のち岩波現代文庫
  • マンボウ的人生論 若者のためのエッセイ集 創隆社、1991(1981年の『マンボウ宝島 若者のためのエッセイ集』を加筆の上、改題した本)
  • マンボウ氏の暴言とたわごと 新潮社、1991、文庫
  • 神々の消えた土地 新潮社、1992、文庫
  • うすあおい岩かげ(詩集)中央公論社、1993
  • どくとるマンボウ医局記(慶應義塾大学医学部医局時代の随筆) 中央公論社、1993、文庫
  • 母の影 新潮社、1994、文庫
  • 孫ニモ負ケズ 新潮社、1997、文庫
  • 消えさりゆく物語 新潮社、2000、文庫
  • マンボウ哀愁のヨーロッパ再訪記 青春出版社、2000
  • マンボウ愛妻記 講談社、2001(改題:マンボウ恐妻記・新潮文庫)
  • マンボウ遺言状 新潮社、2001、文庫
  • マンボウ夢草紙 実業之日本社、2001(改題:マンボウ夢のまた夢・新潮文庫)
  • マンボウ最後の名推理 青春出版社、2003
  • マンボウ阪神狂時代 新潮社、2004、文庫
  • どくとるマンボウ回想記 日本経済新聞社、2007「私の履歴書」に掲載
  • マンボウ最後の大バクチ 新潮社、2009
  • マンボウ家の思い出旅行 実業之日本社、2010
  • マンボウ家族航海記 実業之日本社、2011
  • 巴里茫々 新潮社、2011
  • マンボウ最後の家族旅行 実業之日本社、2012

共著

  • 若き日と文学と(辻邦生との対談)中央公論社、1970、文庫
  • 狐狸庵VSマンボウ 遠藤周作との対談、講談社 1974、文庫
  • この父にして 斎藤茂太対談 毎日新聞社、1976、講談社文庫
  • 快妻オバサマVS躁児マンボウ(母・輝子との対談)1-2 文藝春秋、1977、文庫
  • 乗物万歳 阿川弘之対談 中央公論社、1977、文庫
  • この母にして 斎藤輝子対談 文藝春秋、1980
  • さびしい文学者の時代 埴谷雄高対談 中央公論社、1982
  • 難解人間vs躁鬱人間 埴谷雄高対談 中央公論社、1990
  • 酔生夢死か、起死回生か。(阿川弘之との共著)新潮社、2002、文庫
  • パパは楽しい躁うつ病 斎藤由香対談 朝日新聞社、2009
  • 若き日の友情 辻邦生・北杜夫往復書簡 新潮社、2010

編著

  • 現代漫画 全27巻 鶴見俊輔佐藤忠男と共編、筑摩書房、1970 - 1971
  • ミッキー英語コミック文庫 全13巻、講談社、1976 - 1977
  • 乗らない・乗る・乗れば(楽しみと冒険7) 新潮社、1979
  • 山(日本の名随筆10) 作品社、1983
  • 斎藤茂吉随筆集 阿川弘之と共編、岩波文庫、1986

テレビ出演

CM

家族

祖父は医師で政治家の斎藤紀一。父は紀一の養子で、歌人で医師の斎藤茂吉。兄はエッセイストで精神科医の斎藤茂太。娘はエッセイストの斎藤由香

関連人物

  • 友人、知人
    • 遠藤周作
      終生の友人。お互いの随筆に登場したり対談も多いが、その中での「狐狸庵先生」と「どくとるマンボウ」の行動はシリアスな作家としての一面はほとんどない。純文学、ユーモアエッセイ、中間小説をまたにかける守備範囲や(ただし、作風にはほとんど共通点は無い)、医者VS医大不合格者、ドイツ文学傾倒者VSフランス文学者出身など、マスコミがライバルとして面白可笑しく煽りたて、当人たちもこれに乗って一種の喧嘩友達を演じた時期がある。「狐狸庵VSマンボウ」と題する対談集2冊を上梓したほか、珈琲のCMでの競演が印象づけられている。マンボウ・マブセ共和国の第一回文華勲章(文化勲章ではない)を受章した。
    • 阿川弘之
      先輩にして友人。やはりお互いの随筆によく登場する。阿川の『南蛮阿房列車』マダガスカル編では鬱病を患っているにもかかわらず同行し、自分でも「北から見た鉄道マニア阿川」を描いた紀行文を残している。
    • 星新一
      SF作家。日本のSFのパイオニアの一人。星が1歳年長だが、共に東北生まれで洋行帰りの有名人を父に(中年以降にできた子供で、20代半ばで死別しているところも同じ)、東京の名家出身の女性を母に持ち、山の手で生まれ育って理系の帝大を卒業後に研究生活を送るなど、共通点が多いこともあり、特に親しかった。酒好きの星の珍妙な行動については北の随筆が詳しい。
    • 宮脇俊三
      鉄道紀行作家。中央公論社の編集者だった頃から二人三脚を組んだ仲で、代表作『どくとるマンボウ航海記』を書かせた担当者でもある。自宅の建築場所を探していた北に宮脇が自宅の隣の空き地を紹介したため隣人となり、家族ぐるみで大変親密なつきあいをしていた。星同様、宮脇も酒好きで、奇妙な行動が多かったが、これも北の随筆が詳しい。星にしても宮脇にしても自らの作品は抑制の効いた文体で書かれているため、北の随筆なくしてはこの二人の実像を知ることは難しいだろう。なお、北、星、宮脇とも(他に友人では阿川も)娘が文筆の道に進んだ。
    • 辻邦生
      北にとって生涯の親友。小説家。高校入学時は先輩だったが、留年を繰り返したため北の後輩として卒業している。北に与えた文学的影響は大きく、トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』を紹介したのは辻であった。
    • 佐藤愛子
      作家。同人誌時代の仲間。
    • なだいなだ
      作家・エッセイスト。彼も医者で慶應義塾大学病院精神神経科勤務中から親交がある。
    • 三島由紀夫
      北の作品を早くから激賞し、盛り立ててきた先輩。北の結婚式にも出席している。しかし政治的な方面に走っていく三島とはいつか距離が出来てしまった。三島の衝撃的な死後、北は彼との思い出を語る文章を書いている。
    • 奥野健男
      旧制中学時代からの悪友。奥野は宮脇とも幼少の頃からの付き合いがあり、無名だった北を宮脇に紹介したのも彼だった。
    • 埴谷雄高
      無名時代の北の才能を発見し評価してきた戦後文壇の長老。埴谷は北に優しく、北も生涯にわたって埴谷の作品と人柄を深く尊敬し、若い頃はよく埴谷の家に遊びにいった。二冊の対談本「さびしい文学者の時代」「難解人間VS躁鬱人間」を出版している。埴谷は酒豪で、「自分は埴谷さんだけには酒でかなわなかった」といっている。北が自宅の独立宣言をした際、「君の家が国家として独立したなら、宗教をつくりなさい。宗教はかならず必要です。マブセ教というのがいいな。マブセ教の教祖が、時よ止まれ、というと、本当に止まってしまう」と提言した。マンボウ・マブセ共和国の文化勲章を、「文華勲章」とすべきだと提言し、その名前に決した。
    • 谷内六郎
      「怪盗ジバコ」「父っちゃんは大変人」の挿画他、北のエッセイ集の表紙を手掛ける。その縁で、北が自宅を「マンボウ・マブゼ共産帝国」なるミニ独立国として日本から独立宣言した際、独自通貨「マブゼ紙幣」の肖像画を描かされる羽目に。

脚注

  1. ^ 北杜夫『どくとるマンボウ追想記』p.96
  2. ^ 北杜夫『どくとるマンボウ追想記』p.135
  3. ^ 北杜夫『どくとるマンボウ追想記』p.153-154
  4. ^ 北杜夫『怪人とマンボウ』p.141(講談社、1977年)
  5. ^ 北杜夫『怪人とマンボウ』p.89(講談社、1977年)
  6. ^ 北杜夫『マンボウ談話室』p.109(講談社、1977年)
  7. ^ 医師を廃業した後、1977年小松左京との対談では「薬がいかに発達したといってもね、場合によると、電気ショックのほうが効く場合があるんですよ」「分裂病とか鬱病はね、薬で治らなくても、電気ショックで治っちゃう場合があるんですよ。ですからまだ捨てられない治療法だと思いますね」と発言している。『怪人とマンボウ』p.90(講談社、1977年)を参照。
  8. ^ 北杜夫『マンボウ酔族館』p.190-194
  9. ^ 北杜夫『マンボウ酔族館』p.220
  10. ^ 北杜夫『美女とマンボウ』p.78-79(講談社、1977年)
  11. ^ 平成20年5月12日放送
  12. ^ 『週刊文春』 2010年8月26日号
  13. ^ 新種コガネムシ:北杜夫さんにちなみ和名「マンボウ」 毎日新聞 2011年9月16日 15時1分
  14. ^ 「どくとるマンボウ」北杜夫さん死去 読売新聞 2011年10月26日閲覧
  15. ^ 日本経済新聞夕刊 2012年11月22日付

関連項目

  • アタオコロイノナ - 「どくとるマンボウ航海記」の冒頭部分で紹介されるマダガスガル島の神話の神。