加藤初
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 静岡県富士市 |
生年月日 | 1949年12月20日(74歳) |
身長 体重 |
175 cm 72 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1971年 ドラフト外 |
初出場 | 1972年4月25日 |
最終出場 | 1990年8月7日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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加藤 初(かとう はじめ、1949年12月20日 - )は、静岡県富士市出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者、野球指導者。
経歴
プロ入り前
吉原商業高校から亜細亜大学に進む。入学早々膝を悪くし、実家近くの信頼ある鍼灸医による治療により回復したが、帰京の際に途中下車して亜細亜大学を中退した友人宅に寄り、大学ではシゴキもあったことから一泊の予定が三週間滞在してしまい、復学しづらくなり、入学後3か月あまりで中退した[1]。
社会人野球の大昭和製紙へ入社し、4年目にエースとして第42回都市対抗野球大会へ出場し、秋の日本産業対抗野球大会では優勝候補の熊谷組を1安打完封して優勝に貢献した[1]。この活躍により、巨人、中日、ヤクルト、南海、東映、西鉄らのスカウトも訪れたが、大昭和製紙には前年の都市対抗優勝投手の安田猛がおり、会社側が「同時に投手2人は出せない」とプロ側へ言い張り、1971年のドラフトでは安田だけが指名され、加藤は指名されなかった[1]。どうしてもプロへ行きたかった加藤は、ドラフトの数日後に、辞表を野球部長や社長へ出すも不受理となり、喧嘩別れのようにして退社したところ、西鉄スカウトの浦田直治が加藤を訪ね、ドラフト会議のリストアップ表を見せて、一番上に加藤が書かれていたが、大昭和製紙の意向で指名を断念し二重線で名前を消したことを説明した[1]。後にプレーすることになる巨人からも誘いがあったが、高評価であったことが嬉しかったことと、当時弱小だった西鉄の方が登板機会が多いだろうと考えて西鉄を選んだ[1]。
現役時代
1971年、ドラフト外で西鉄に入団。当時の西鉄は黒い霧事件のために主力投手が数多く退団しており戦力が大きく落ちていた頃で、稲尾和久監督は新人の加藤を東尾修とともに先発ローテーションの柱として起用した。入団初年度の1972年にいきなり17勝を挙げ、オールスターに選出、記者投票の195票中194票を獲得して新人王を獲得。以後、身売りするなど経営に苦しむライオンズで東尾とともに投手の二本柱として活躍。
1976年、関本四十四・玉井信博とのトレードにより伊原春樹と共に巨人に移籍、もともと巨人ファンであった加藤には願ってもない話であった[1]。これは張本勲とともに、同年の巨人の戦力補強の象徴とされている[2][3]。同年4月18日の広島東洋カープ戦(広島市民球場)では史上51人目(62度目)のノーヒットノーランを達成。この年15勝4敗の好成績を挙げ、セ・リーグでは正式タイトルではないものの最高勝率を記録、巨人の前年最下位からの優勝に貢献した。
同年の優勝ハワイ旅行の事前健康診断で、肺門リンパ腫が見つかり、医者から運動を止めるように言われ、球団も背広の仕事を用意したが、本人が現役続行を強く申し出て、対外的には肋膜炎と公表し、10月10日から1977年6月末まで入院したところ、自然治癒した[1]。
1983年5月ころから、日常生活では右手が上がらないものの試合までには治る状態だったが、6月29日に1安打完封試合をした後治らなくなったため、精密検査をしたところ、右肩の血行障害が見つかり、左足の血管を右肩へ移植するバイパス手術を7月8日に行い成功し、9月9日に一軍へ復帰した[1]。
巨人の主力投手として息長く活躍。オールスターゲームにも6度出場。1989年からは巨人で選手兼任コーチを務めた。1990年に大腿の裏側を痛め、二軍の試合で一塁ゴロのベースカバーに入れず、他球団移籍も考えたが、巨人での現役引退を決めた[1]。プロ生活で一年間無事に過ごせたのは、半分もないほど怪我や血行障害に悩まされたが、西鉄・太平洋-巨人で通算19年間プレーした[1]。
引退後
フジテレビ、ニッポン放送の野球解説者として4年間過ごしたが、あまりしゃべりは得意でなかったと後に振り返っている。
1995年からは西武の2軍投手コーチに就任し1998年シーズン途中からは二軍投手コーチに降格となった森繁和の後任として一軍投手コーチを務め2000年にフロント入りし2001年に再び1軍投手コーチを務めた。
西武退団後、2004年にはかつての同僚の大田卓司が監督を務める台湾プロ野球のLa Newベアーズ、2005年には韓国プロ野球のSKワイバーンズでコーチを経験した。2002年・2006年は韓国・LGツインズで投手インストラクターを務めていた。
2007年から再び韓国・SKの一軍投手コーチに就任し同年チームの韓国一に貢献し、11月に開催されたアジアシリーズにもコーチとして来日した。翌2008年は球団史上初の2年連続の公式戦優勝、韓国シリーズ優勝に貢献、2010年も公式戦優勝、韓国シリーズ優勝に貢献した。2011年に退団[4]。
人物
現役時代、どんな時もポーカーフェイスで感情を表に出さないため「鉄仮面」という愛称を付けられたが、根はひょうきんでユーモアある人物である。
巨人時代はマイカー通勤が多いプロ野球界の中で電車通勤をしていた。
当時では珍しいファミコンを趣味にしていた。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1972 | 西鉄 太平洋 |
48 | 31 | 8 | 2 | 0 | 17 | 16 | -- | -- | .515 | 1068 | 246.0 | 220 | 33 | 137 | 2 | 9 | 114 | 3 | 0 | 117 | 108 | 3.95 | 1.45 |
1973 | 43 | 18 | 5 | 0 | 0 | 8 | 11 | -- | -- | .421 | 680 | 159.2 | 145 | 21 | 77 | 2 | 2 | 90 | 1 | 2 | 83 | 74 | 4.16 | 1.39 | |
1974 | 34 | 26 | 7 | 3 | 0 | 12 | 12 | 0 | -- | .500 | 787 | 189.0 | 144 | 18 | 98 | 4 | 7 | 122 | 2 | 0 | 67 | 62 | 2.95 | 1.28 | |
1975 | 28 | 21 | 11 | 1 | 2 | 8 | 11 | 0 | -- | .421 | 682 | 157.0 | 163 | 14 | 62 | 3 | 2 | 109 | 3 | 0 | 86 | 75 | 4.30 | 1.43 | |
1976 | 巨人 | 46 | 14 | 4 | 1 | 0 | 15 | 4 | 8 | -- | .789 | 696 | 168.0 | 141 | 21 | 63 | 2 | 2 | 161 | 8 | 0 | 72 | 69 | 3.70 | 1.21 |
1977 | 13 | 8 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | 3 | -- | .800 | 237 | 55.2 | 40 | 8 | 28 | 1 | 1 | 60 | 2 | 0 | 19 | 18 | 2.89 | 1.22 | |
1978 | 34 | 24 | 4 | 0 | 0 | 8 | 5 | 3 | -- | .615 | 661 | 157.0 | 146 | 17 | 64 | 1 | 8 | 114 | 5 | 1 | 70 | 63 | 3.61 | 1.34 | |
1979 | 36 | 22 | 1 | 0 | 0 | 7 | 10 | 2 | -- | .412 | 596 | 142.0 | 124 | 23 | 57 | 2 | 1 | 98 | 1 | 0 | 68 | 63 | 3.99 | 1.27 | |
1980 | 13 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | -- | .500 | 122 | 27.0 | 29 | 5 | 16 | 0 | 0 | 19 | 0 | 0 | 18 | 11 | 3.67 | 1.67 | |
1981 | 30 | 18 | 6 | 0 | 0 | 12 | 6 | 2 | -- | .667 | 652 | 158.0 | 133 | 20 | 63 | 7 | 3 | 97 | 2 | 1 | 54 | 51 | 2.91 | 1.24 | |
1982 | 24 | 17 | 3 | 0 | 0 | 4 | 7 | 0 | -- | .364 | 502 | 121.2 | 105 | 9 | 41 | 3 | 3 | 97 | 3 | 1 | 52 | 42 | 3.10 | 1.20 | |
1983 | 17 | 9 | 2 | 1 | 1 | 8 | 3 | 0 | -- | .727 | 330 | 81.1 | 70 | 9 | 30 | 0 | 1 | 46 | 1 | 0 | 27 | 24 | 2.66 | 1.23 | |
1984 | 25 | 24 | 3 | 1 | 0 | 10 | 7 | 0 | -- | .588 | 648 | 152.2 | 140 | 19 | 56 | 5 | 2 | 95 | 3 | 1 | 64 | 57 | 3.36 | 1.28 | |
1985 | 30 | 21 | 0 | 0 | 0 | 4 | 8 | 3 | -- | .333 | 515 | 123.1 | 104 | 17 | 52 | 4 | 4 | 89 | 1 | 0 | 53 | 47 | 3.43 | 1.26 | |
1986 | 26 | 23 | 4 | 1 | 1 | 14 | 5 | 0 | -- | .737 | 592 | 143.2 | 123 | 14 | 45 | 5 | 3 | 93 | 2 | 0 | 51 | 44 | 2.76 | 1.17 | |
1987 | 19 | 18 | 0 | 0 | 0 | 7 | 1 | 0 | -- | .875 | 392 | 92.0 | 93 | 11 | 26 | 0 | 3 | 65 | 2 | 2 | 37 | 31 | 3.03 | 1.29 | |
1988 | 14 | 10 | 0 | 0 | 0 | 2 | 4 | 0 | -- | .333 | 225 | 55.1 | 43 | 8 | 24 | 2 | 1 | 16 | 1 | 0 | 24 | 21 | 3.42 | 1.21 | |
1989 | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 38 | 7.0 | 10 | 3 | 6 | 1 | 0 | 7 | 0 | 0 | 11 | 10 | 12.86 | 2.29 | |
1990 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | ---- | 61 | 13.2 | 14 | 1 | 5 | 0 | 0 | 8 | 0 | 0 | 4 | 4 | 2.63 | 1.39 | |
通算:19年 | 490 | 306 | 58 | 10 | 4 | 141 | 113 | 22 | -- | .555 | 9484 | 2250.0 | 1987 | 271 | 950 | 44 | 52 | 1500 | 40 | 8 | 977 | 874 | 3.50 | 1.31 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 西鉄(西鉄ライオンズ)は、1973年に太平洋(太平洋クラブライオンズ)に球団名を変更
表彰
記録
- 初記録
- 初登板:1972年4月25日、対東映フライヤーズ3回戦(後楽園球場)、8回裏に3番手で救援登板・完了、1回1失点
- 初奪三振:同上、8回裏に岡村浩二から
- 初先発:1972年5月5日、対南海ホークス4回戦(大阪球場)、5回3失点で敗戦投手
- 初勝利・初完投勝利:1972年5月17日、対東映フライヤーズ7回戦(平和台球場)、9回2失点
- 初完封勝利:1972年8月27日、対ロッテオリオンズ19回戦(新南陽球場)
- 初セーブ:1976年4月8日、対大洋ホエールズ3回戦(後楽園球場)、8回表に3番手で救援登板・完了、2回無失点
- 節目の記録
- 1000投球回数:1976年4月22日、対ヤクルトスワローズ3回戦(後楽園球場)、8回表3死目に達成
- 1000奪三振:1982年4月21日、対中日ドラゴンズ4回戦(平和台球場)、6回裏に谷沢健一から ※史上64人目
- 1500投球回数:1982年6月19日、対広島東洋カープ14回戦(広島市民球場)、6回裏2死目に達成
- 100勝:1983年 6月18日、対横浜大洋ホエールズ12回戦(後楽園球場)、9回3失点完投勝利 ※史上82人目
- 2000投球回数:1986年7月1日、対ヤクルトスワローズ11回戦(明治神宮野球場)、4回裏1死目に達成
- 1500奪三振:1990年8月7日、対横浜大洋ホエールズ21回戦(東京ドーム)、9回表に遠藤一彦から ※史上33人目
- その他の記録
背番号
- 11 (1972年 - 1975年)
- 21 (1976年 - 1990年)
- 84 (1995年 - 1999年、2001年)
関連情報
著書
- 巨人軍 仲よくするより強くなれ 風雲熱投19年!鉄仮面投手の直言を受けてみろ 廣済堂出版 1991年 ISBN 978-4331005484
出演番組
- BASEBALL SPECIAL〜野球道〜 - かつてフジテレビ解説者として出演していた中継の現行統一タイトル
- プロ野球ニュース
- ニッポン放送ショウアップナイター
脚注
- ^ a b c d e f g h i j 澤宮優『ドラフト外』河出文庫、2013年、ISBN 9784309412603
- ^ 『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。
- ^ 当初は東尾修投手を獲得する予定だったが反対された為。ベースボールマガジン社「プロ野球トレード図鑑」より
- ^ 野球:「脱・日本式野球」SK、日本人コーチを全員解雇-朝鮮日報