古谷惣吉連続殺人事件

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古谷惣吉連続殺人事件(ふるたにそうきちれんぞくさつじんじけん、もしくは、ふるやそうきちれんぞくさつじんじけん)は、古谷惣吉が1965年11月9日から12月12日までの1か月ほどの間に、さしたる理由のないまま8人の老人を手当たり次第に殺害した事件である。「警察庁広域重要指定事件105号」に指定されており、警察庁広域重要指定事件としては初の殺人事件であった。

概要[編集]

犯人の古谷惣吉は1914年長崎県上県郡(現在の対馬市)の比較的裕福な魚行商も営む兼業農家の長男として生まれる。彼は3歳の頃に幼くして母と死別、その後父は新天地を求めて朝鮮へと渡った事で一家離散。幼かった古谷は親戚に預けられ、その後も親戚中をたらい回しにされた。幼少時より粗野で盗癖があり、学校で友達のものを盗む、下級生をいじめる、喧嘩は日常茶飯事という札付きの問題児で周囲から嫌われる鼻摘み者として育ったという。

その後、10歳の時に帰国した父が再婚。父の元へと戻ったが、再婚相手の継母との仲は非常に険悪で何度も冷たい仕打ちを受けるという苦境に置かれる。とうとう継母からの虐待に堪えられなくなった古谷は、家には寄り付かず盗みをして生計を立て、寺の軒下などで野宿をする盗みと暴力に塗れた荒れた生活を送った。小学校を卒業後、古谷は一家揃って広島へと移住するが、そこの中学校で教師を殴った事により退学処分にされる。これらの不遇で悲惨な少年時代を過ごした事が、後に数多の凶悪事件を引き起こす粗野で自己中心的かつ猟奇的な人格を形成する事となった。

16歳の時に窃盗逮捕され、岩国少年院収監される。この頃から1947年までに7件の窃盗、詐欺恐喝事件を起こし、50歳にして29年間の獄中生活を経験していた。検察は、その無差別かつ短絡的犯行から、古谷を「昭和刑事犯罪史上まことに極悪非道無類」と問責した。

古谷は、1964年11月、熊本刑務所を仮出所し、更生施設に入るものの金銭を奪って逃走。翌1965年11月9日から12月12日までの1ヶ月間に、福岡で1人、兵庫で3人、大阪滋賀で1人、京都で2人と、廃品回収業、建設作業員などの独居老人を刺し、絞め、殴るなどの方法で殺害。わずかな金銭を強奪した。

11月9日の兵庫県神戸市で廃品回収業者、11月22日福岡県糟屋郡で塾講師が殺害された際の遺留品から、警察庁は同一犯による連続殺人事件として12月9日に『広域重要105号事件』に指定した。12月11日に京都府京都市伏見区で2人の廃品回収業者が殺されているのを発見されると、遺留品の指紋が古谷と合致。12月12日警察は古谷を全国指名手配した。18時間後、兵庫県西宮市をパトロール中の警察官がバラック小屋で男性2人の遺体を発見、その際に小屋の陰に隠れていた古谷も発見される。一度は凶器の鉈を投げ付け警官たちの警告に耳を貸さず逃亡を図るが、当時51歳だった古谷は体力的にも逃げ切れるはずもなく、追いかけてきた複数の警官に取り押さえられ逮捕された。

逮捕当初は容疑を否認しており、以前の罪を擦り付けた共犯者の若者の時のように架空の共犯者をでっち上げ自分の無罪を主張していたが、検察にそんな誤魔化しが通じる筈もなく死刑を求刑される。犯行動機は単純で、宿泊や食事を乞い、断られたことによりカッとなって殺したというもの。大阪府高槻市でも建設作業員殺害をはじめ、遂に8人の殺害を認めた。

警察は、1964年-1965年の老人殺害事件も古谷の犯行と断定した。証拠不十分で不起訴となったものの、これらを含めると計12人もの殺人を行っていたことになる。さらに1951年にも、少年と組んで福岡連続強盗殺人事件で2人を殺害し、2年に渡って逃亡。逮捕された時には既に共犯の犯行当時19歳の少年が死刑執行されていたため、少年に罪を押し付けて懲役10年(求刑無期懲役)の判決を受け服役。一連の殺人はその出所直後に為された(そのため、これ以降、死刑は共犯者全員の裁判が終了もしくは死亡してから執行されるのが慣例になった)。このため、死刑囚となった人物は、死刑は重すぎたという意見が多い。

裁判[編集]

1971年4月、神戸地方裁判所で死刑判決。1978年11月、上告棄却1982年12月2日、収監されていた大阪拘置所で同房の死刑囚(当時39歳)を人間関係のもつれから殺害に及ぼうとして未遂に終わった。ただし、この事件では刑事訴追を受けていない。これは被害者たる死刑囚にとって、もし古谷が殺人未遂で刑事裁判を受ければ、判決確定まで死刑執行が遅くなり、むしろ自分の死刑執行が早くなることを恐れ被害届を出さなかった為であった。関係者の話では、晩年は仏のように穏やかな日と野獣のように暴れる日が交互にやってきたという。身寄りも友人のおらず手紙を出す相手は、自分の取り調べを担当した兵庫県警の定年退職した元刑事だけであった。その元刑事宛てに送った手紙には短歌らしきものがあった。

厚恩を背負いてのぼる老いの坂、重きにたえず涙こぼるる

処刑[編集]

1985年5月31日、死刑が執行された。享年71。これは当時、少なくとも戦後最高齢での死刑執行であり、2006年12月25日に77歳(秋山兄弟事件の死刑囚)と75歳の死刑囚が執行されるまでの最高齢記録であった。

参考文献[編集]

関連項目[編集]