野間省一
のま しょういち 野間 省一 | |
|---|---|
| 生誕 |
高木省一 1911年4月9日 |
| 死没 | 1984年8月10日(73歳没) |
| 死因 | 心不全 |
| 墓地 | 護国寺[1]。 |
| 出身校 | 東京帝国大学法学部 |
| 職業 | 実業家 |
| 配偶者 | 野間登喜子 |
| 子供 | 野間佐和子(長女) |
| 親 | 高木磯吉 |
| 栄誉 |
ユネスコの第1回国際図書賞(1974年) ローマ教皇庁大聖グレゴリオ勲章騎士団章(1981年) オランダ政府オレンジナソー勲章コマンダー章(1981年) ブラジル賞勲局総合学術協会グランクルス大綬章(1981年) 勲一等瑞宝章(1983年) ユネスコ銀メダル(1984年) 富士川町名誉町民 |
野間 省一(のま しょういち、1911年(明治44年)4月9日 - 1984年(昭和59年)8月10日)は、日本の出版人、実業家。講談社第4代社長。日本書籍出版協会会長。出版文化国際交流会会長。日本雑誌広告協会会長。旧姓:高木。戦後の講談社を牽引した。
第6代社長・野間佐和子は省一の長女、第5代社長・野間惟道は女婿。この2人の長男で、第7代社長(現職)の野間省伸は省一の孫にあたる。
経歴
[編集]1911年、静岡県静岡市に、高木磯吉の三男として生まれる。兄・三吉はのちの講談社取締役。静岡市立城内尋常高等小学校卒業[2]。静岡県立静岡中学校[2][3]、旧制静岡高等学校を経て、東京帝国大学法学部へ進む[2]。在学中に高等文官試験の司法・行政の2科に合格。
1934年、卒業後、南満洲鉄道に入社[2]。入社後1年半でハルビン鉄道局文書係長に抜擢される。1941年5月26日 野間清治・左衛夫妻の長男・恒(講談社第2代社長)の未亡人である登喜子と結婚、野間家に入る[注釈 1]。7月19日、常務取締役。1945年11月17日 第3代社長・野間左衛辞任、第4代社長に就任するが、戦争責任問題で翌年1月26日辞任。尾張真之介が代表取締役に就く。
1949年6月7日、社長に復帰。1954年、経営危機が深刻化。事態打開のため「社長白書」を発表し、体質改善、作業合理化、経費削減などを社員に訴える。
1951年、ラジオ東京監査役(のち東京放送取締役、監査役)[4]、1957年、日本教育テレビ(現・テレビ朝日)取締役(のち監査役に)[5]、1961年、キングレコード会長。
1971年、脳血栓で倒れる。社長代行に服部敏幸が就任。1976年、モスクワ大学より名誉博士号贈呈。1979年、創業70周年事業として「野間アフリカ出版賞」「野間識字賞」「アジア・アフリカへの留学生奨学金制度」を創設。1981年、野間惟道が第5代社長に就任し、名誉会長に。1984年、心不全のため死去[4]。73歳没。墓所は護国寺の野間家墓地。
1938年には富士川町の田中光顕別邸を購入し広大な土地を管理していたが[2]、戦時下、開墾地14,483坪を無償で貸与し、戦後その大部分を開放した[2]。新制中学校建設には敷地6,207坪を寄付している[2]。富士川町名誉町民[2]。
創刊した主な雑誌、シリーズ
[編集]関連書籍
[編集]- 野間省一追悼集刊行委員会 編『追悼野間省一』講談社、1985年8月。
- 野間省一伝編纂室 編『野間省一伝』講談社、1996年7月。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ↑ 省一の兄・高木三吉が第3代社長・野間左衛の姪と結婚していたことから左衛によって登喜子の婿に迎えられた。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 静岡新聞社出版局 編『静岡県歴史人物事典』静岡新聞社、1991年12月。ISBN 978-4783804246。
- 『クロニック 講談社の90年 1909~1999』講談社、2001年(非売品)
- 魚住昭 『出版と権力 講談社と野間家の一一〇年』講談社、2021年2月。ISBN 978-4065129388。
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