古谷惣吉連続殺人事件

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古谷惣吉連続殺人事件(ふるたにそうきちれんぞくさつじんじけん、もしくは、ふるやそうきちれんぞくさつじんじけん)は、古谷惣吉が1965年(昭和40年)10月30日から12月12日までの1か月ほどの間にさしたる理由のないまま8人の老人を手当たり次第に殺害した連続強盗殺人事件である[1]

大阪府京都府滋賀県兵庫県福岡県など西日本各地で繰り返された一連の犯行は強盗殺人7件・強盗未遂2件などにおよび「警察庁広域重要指定105号事件」に指定された[1]。警察庁広域重要指定事件としては初の殺人事件であった。

古谷 惣吉
個人情報
生誕 1914年????
日本の旗 日本長崎県上県郡上県町(現:対馬市[1]
死没 (1985-05-31) 1985年5月31日(71歳没)
日本の旗 日本大阪府大阪市都島区友渕町大阪拘置所[1]
死因 絞首刑
有罪判決 強盗殺人罪殺人罪強盗強姦罪・強盗罪など
判決 死刑神戸地方裁判所
殺人詳細
犠牲者数 8人
犯行期間 1965年11月9日1965年12月12日
日本の旗 日本
逮捕日 1965年12月12日

概要[編集]

一連の事件の加害者・古谷 惣吉1914年長崎県上県郡上県町(現・対馬市[1]の比較的裕福な魚行商も営む兼業農家の長男として生まれる。彼は3歳の頃に幼くして母と死別、その後父は新天地を求めて朝鮮へと渡った事で一家離散。幼かった古谷は親戚に預けられ、その後も親戚中をたらい回しにされた。幼少時より粗野で盗癖があり、学校で友達のものを盗む、下級生をいじめる、喧嘩は日常茶飯事という札付きの問題児で周囲から嫌われる鼻摘み者として育ったという。

その後、10歳の時に帰国した父が再婚。父の元へと戻ったが、再婚相手の継母との仲は非常に険悪で何度も冷たい仕打ちを受けるという苦境に置かれる。とうとう継母からの虐待に堪えられなくなった古谷は、家には寄り付かず盗みをして生計を立て、寺の軒下などで野宿をする盗みと暴力に塗れた荒れた生活を送った。小学校を卒業後、古谷は一家揃って広島へと移住するが、そこの中学校で教師を殴った事により退学処分にされる。これらの不遇で悲惨な少年時代を過ごした事が、後に数多の凶悪事件を引き起こす粗野で自己中心的かつ猟奇的な人格を形成する事となった。

16歳の時に窃盗逮捕され、岩国少年院収監される。この頃から1947年までに7件の窃盗、詐欺恐喝事件を起こし、50歳にして29年間の獄中生活を経験していた。検察は、その無差別かつ短絡的犯行から、古谷を「昭和刑事犯罪史上まことに極悪非道無類」と問責した。

古谷は、1964年11月、熊本刑務所を仮出所し、更生施設に入るものの金銭を奪って逃走。翌1965年10月30日に兵庫県神戸市垂水区で廃品回収業者男性(当時58歳)を絞殺して現金500円・腕時計・ズボンなどを奪った強盗殺人事件を皮切りに、兵庫県西宮市内で現行犯逮捕された同年12月12日までに大阪府京都府滋賀県兵庫県福岡県など西日本各地で一軒家に住む50歳代から60歳代の7人を殺害するなど強盗殺人7件、強盗未遂2件など犯行を重ねた[1]福岡で1人、兵庫で3人、大阪滋賀で1人、京都で2人と、廃品回収業、建設作業員などの独居老人を刺し、絞め、殴るなどの方法で殺害。わずかな金銭を強奪した。

11月22日福岡県糟屋郡で塾講師が殺害された際の遺留品から、警察庁は同一犯による連続殺人事件として12月9日に『広域重要105号事件』に指定した。12月11日に京都府京都市伏見区で2人の廃品回収業者が殺されているのを発見されると、遺留品の指紋が古谷と合致。12月12日警察は古谷を全国指名手配した。18時間後、兵庫県西宮市をパトロール中の警察官がバラック小屋で男性2人の遺体を発見、その際に小屋の陰に隠れていた古谷も発見される。一度は凶器の鉈を投げ付け警官たちの警告に耳を貸さず逃亡を図るが、当時51歳だった古谷は体力的にも逃げ切れるはずもなく、追いかけてきた複数の警官に取り押さえられ逮捕された。

逮捕当初は容疑を否認しており、以前の罪を擦り付けた共犯者の若者の時のように架空の共犯者をでっち上げ自分の無罪を主張していたが、検察にそんな誤魔化しが通じる筈もなく死刑を求刑される。犯行動機は単純で、宿泊や食事を乞い、断られたことによりカッとなって殺したというもの。大阪府高槻市でも建設作業員殺害をはじめ、遂に8人の殺害を認めた。

警察は、1964年-1965年の老人殺害事件も古谷の犯行と断定した。証拠不十分で不起訴となったものの、これらを含めると計12人もの殺人を行っていたことになる。さらに1951年にも、少年と組んで福岡連続強盗殺人事件で2人を殺害し、2年に渡って逃亡。逮捕された時には既に共犯の犯行当時19歳の少年が死刑執行されていたため、少年に罪を押し付けて懲役10年(求刑無期懲役)の判決を受け服役。一連の殺人はその出所直後に為された(そのため、これ以降、死刑は共犯者全員の裁判が終了もしくは死亡してから執行されるのが慣例になった)。このため、死刑囚となった人物は、死刑は重すぎたという意見が多い。

裁判[編集]

1971年(昭和46年)4月、神戸地方裁判所は検察側(神戸地方検察庁)の求刑通り被告人・古谷に死刑判決を言い渡した[1]。古谷は死刑判決を不服として大阪高等裁判所控訴したが、大阪高裁は1974年(昭和49年)12月13日に[2]第一審・死刑判決を支持して古谷の控訴を棄却する判決を言い渡した[1]

古谷は最高裁判所上告したが1978年(昭和53年)11月28日に最高裁第三小法廷高辻正己裁判長)で死刑判決支持・被告人側上告棄却の判決が言い渡され[2]、1979年(昭和54年)1月に正式に死刑が確定した[1]1982年12月2日、収監されていた大阪拘置所で同房の死刑囚(当時39歳)を人間関係のもつれから殺害に及ぼうとして未遂に終わった。ただし、この事件では刑事訴追を受けていない。これは被害者たる死刑囚にとって、もし古谷が殺人未遂で刑事裁判を受ければ、判決確定まで死刑執行が遅くなり、むしろ自分の死刑執行が早くなることを恐れ被害届を出さなかった為であった。関係者は死刑執行直後、『朝日新聞』の取材に対し「古谷は晩年、『仏のように穏やかな日』と『野獣のように暴れる日』が交互にやってきた」と証言した[3]。身寄りも友人もおらず、手紙を出す相手は自分の取り調べを担当した兵庫県警の定年退職した元刑事だけであった。その元刑事宛てに送った手紙には短歌らしきものがあった[3]

  • 厚恩を背負いてのぼる老いの坂、重きにたえず涙こぼるる

死刑執行[編集]

死刑確定から6年後の1985年(昭和60年)5月31日、死刑囚・古谷は法務大臣嶋崎均の死刑執行命令により収監先・大阪拘置所で死刑を執行された(71歳没)[1][3]。これは当時、少なくとも戦後最高齢での死刑執行であり、2006年12月25日に77歳(秋山兄弟事件の死刑囚)と75歳の死刑囚が執行されるまで最高齢記録であった。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j 『中日新聞』1985年6月1日朝刊第12版第一社会面23面「独居老人ら8人殺し 古谷の死刑執行」
  2. ^ a b 最高裁第三小法廷判決(1978-11-18)
  3. ^ a b c 『朝日新聞』1985年6月1日朝刊第一社会面23頁「強盗殺人犯、古谷の死刑を執行 大阪拘置所」

参考文献[編集]

刑事裁判の判決文[編集]

  • 最高裁判所第三小法廷判決 1978年(昭和53年)11月28日 裁判所ウェブサイト掲載判例、『最高裁判所裁判集刑事編』(集刑)第213号759頁、昭和50年(あ)第189号、『強盗殺人、強盗、強盗未遂』「死刑事件(連続強盗殺人事件)」。

関連書籍[編集]

関連項目[編集]