大和 (戦艦)

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艦歴
計画 第三次海軍軍備補充計画
起工 1937年11月4日
進水 1940年8月8日
就役 1941年12月16日
その後 1945年4月7日沈没
位置 北緯30度43分17秒 東経128度04分00秒 / 北緯30.72139度 東経128.06667度 / 30.72139; 128.06667
除籍 1945年8月31日
建造所 日本の旗 日本呉海軍工廠
建造費 約137,802,000円
1936年3月 艦政本部試算
性能諸元
排水量 基準 64,000トン
公試 69,000トン
満載 72,809トン
全長 263.0m
水線長 256.0m
全幅 38.9m
公試吃水 10.4m
主機関 ロ号艦本式缶12缶
艦本式タービン4基4軸
153,553馬力
最大速力 27.46ノット[1](公試成績)
航続距離 16ノットで7,200海里(13,334km)
乗員 竣工時:2,500名
最終時:3,332名
兵装
(新造時)
45口径46cm3連装砲塔[2]:3基
60口径15.5cm3連装砲塔[3]:4基
40口径12.7cm連装高角砲:6基
25mm3連装機銃:8基
13mm連装機銃:2基
兵装
(最終時)
45口径46cm3連装砲塔:3基
60口径15.5cm3連装砲塔:2基
40口径12.7cm連装高角砲:12基
25mm3連装機銃:52基
25mm単装機銃:6基
13mm連装機銃:2基
装甲 舷側 410mm
甲板 200mm〜230mm
主砲防盾 650mm
艦橋500mm
搭載機 7機(カタパルト2基)
呉海軍工廠で最終艤装中の大和(1941年9月20日)

大和(やまと)は、日本海軍が建造した史上最大[4]戦艦大和型戦艦の一番艦。

概要

大和・武蔵に共通する特徴については大和型戦艦を参照のこと

太平洋戦争大東亜戦争)開戦直後の1941年(昭和16年)12月16日に就役し[5]1942年(昭和17年)2月12日連合艦隊旗艦となった[6]。この任は司令部設備に改良が施された同型艦「武蔵」がトラック島に進出する1943年(昭和18年)2月まで継続した。1945年(昭和20年)4月7日天一号作戦において米軍機動部隊の猛攻撃を受け、坊ノ岬沖で撃沈された。

当時の日本の最高技術を結集し建造され、戦艦として史上最大の排水量に史上最大の46cm主砲3基9門を備え、防御面でも重要区画(バイタルパート)では対46cm砲防御を施した、桁外れの戦艦であった。建造期間の短縮、作業の高効率化を目指し採用されたブロック工法は大成功を納め、この大和型建造のための技術・効率的な生産管理は、戦後の日本工業の礎となり重要な意味をなす(大和型戦艦を参照)。

艦名「大和」は、旧国名大和国に由来する。日本の中心地として日本の代名詞ともなっている大和を冠されたことに、本艦にかかった期待の度合いが見て取れる[7]。同様の名称として扶桑型戦艦がある。正式な呼称は“軍艦大和”。沈没してから半世紀以上が経過したが、本艦を題材とした映画やアニメが度々作られるなど、日本人に大きな影響を与え続けている[8]。その存在が最高軍事機密であったうえ、戦争が始まってから完成したためにその姿をとらえた写真は非常に少なく、「豊後水道で公試運転する雄姿」がもっとも有名である。

沿革

建造

1934年(昭和9年)、ロンドン海軍軍縮条約の失効後に米英が建造するであろう新型戦艦に対抗することを目的に、軍令部より艦政本部に向けて18インチ砲(46cm砲)を搭載した大型戦艦の建造要求が出された。この要求を満たすべく設計されたのが「A140-F6」、すなわち後の大和型戦艦である。「A140-F6」型は2隻の建造が計画され、それぞれ「第一号艦」「第二号艦」と仮称された[9]

1937年(昭和12年)8月21日米内光政海軍大臣から「官房機密第3301号」として第一号艦製造訓令が出る[10]。完成期日は1942年(昭和17年)6月15日だった。11月4日に、広島県呉市呉海軍工廠の造船ドック〔造船船渠〕で起工された。戦艦長門」や空母「赤城」を建造した乾ドックは大和建造の為に拡張されて[11]、長さが314m、幅45m、深さ11mとなった[12]。イギリスやアメリカに本型を超越する戦艦を作らせぬ為に建造は秘密裏に進められ、設計者達に渡された辞令すらその場で回収されている[13]

46センチ砲弾(大和ミュージアム保管)

機密保持のため造船所を見下ろせる所には板塀が設けられ、ドックには艦の長さがわからないよう半分に屋根、周囲には干した和棕櫚(わじゅろ。干した物は主に「ほうき」に使われる)がかけられた[14]そのためドックの近所の全ての民家から干した和棕櫚の葉が無くなり、大騒ぎになったという逸話が残っている[要出典]。建造に携わる者には厳しい身上調査が行われた上、自分の担当以外の部署についての情報は必要最小限しか知ることができないようになっていた[15]造船所自体が厳しい機密保持のために軍の管制下に置かれた[16]。建造ドックを見下ろす山でも憲兵が警備にあたっていた。しかし海軍関係者の間で巨大戦艦建造の事実そのものは公然の秘密であった[17]海軍兵学校の生徒を乗せた練習機が「大和」の上空を飛び、教官が生徒達に披露したこともあったという[18]。大和型戦艦建造の際の機密保持については、多くの建艦関係者が行き過ぎがあったことを指摘している[19]

そして1940年(昭和15年)8月8日進水。もっとも、進水といっても「武蔵」の様に陸の船台から文字通り進水させるのではなく、「大和」の場合は注水済みの造船ドックから曳船によって引き出す形で行われた。しかも機密保持からその進水式は公表されることもなく、高官100名と進水作業員1000名が見守るだけで、世界一の戦艦の進水式としては寂しいものだった[20]。「天皇陛下進水式御臨席」の予定もあったが[21]、結局は久邇宮朝融王大佐皇族軍人)臨席のもと[22]嶋田繁太郎海軍中将/海軍大臣代理により、それまで仮称「一号艦」と呼ばれていた巨艦は低い声で「大和」と命名される[23]。軍艦の艦名に関しては海軍省の提出した2つの候補から天皇が選定した1つをその艦に命名するのが慣例であるが、もう1つの艦名は不明である(一説によれば「飛騨」との案があったという)。

10月19、20日に航行試験を行い、30日に全力公試27.46ノットを記録[1]、11月25日には山本五十六連合艦隊司令部が「大和」を見学した[24]1941年(昭和16年)12月7日公試が終了する。12月16日就役し、第一戦隊に編入された[25]。「大和」の1/500模型は昭和天皇天覧ののち、海軍艦政本部の金庫に保管された[26]

「大和」には当時の最新技術が多数使用されていた。球状艦首(バルバス・バウ)による速度の増加、煙突などにおける蜂の巣状の装甲などである。その他、観測用の望遠鏡測距儀も非常に巨大なものが採用され、進水時には世界最大最精鋭の艦型であった。電波探信儀レーダー)は就役後に順次装備された。初期のものは性能が安定しなかったが、1944年(昭和19年)以降に量産された仮称二号電波探信儀二型(22号電探)は日本製の電探としては比較的良好な性能を発揮したもの、欧米に比べれば性能不足な代物でしかなかった。

戦歴

ブルネイから出港し、レイテ湾へ向かう艦隊
(右から長門武蔵・大和…1944年10月)
レイテ沖海戦での大和を真上から見たところ。
米機の空襲の中、回避行動を取る大和。
シブヤン海海戦で第一番砲塔に直撃弾を受ける大和(1944年10月26日)
サマール沖で米空母艦隊を砲撃する大和。後方は妙高型重巡洋艦
サマール沖で米機から見た大和。後方に金剛型戦艦

1942年(昭和17年)2月12日、「大和」は連合艦隊旗艦となる。参謀達はそれまで旗艦だった戦艦長門」に比べ格段に向上した「大和」の居住性に喜んでいる[27]。3月30日、距離38100mで46cm主砲射撃訓練を行う[28]5月29日ミッドウェー作戦により山本五十六連合艦隊司令長官が座乗して柱島泊地を出航したが、主隊として後方にいたため直接米軍と砲火を交えることはなかった。6月10日、米軍潜水艦に対して二番副砲と高角砲が発砲した[29]。同6月14日柱島に帰投する。

機動部隊と同行しなかったのは、戦前からの艦隊決戦思想と同じく、空母は前衛部隊、戦艦は主力部隊という思想の元に兵力配備をしたからであり、艦艇の最高速度との直接的な関係はなかった。実際、主力空母のうち最も低速の空母「加賀」の速度差は殆ど0、飛鷹型航空母艦は25ノットで大和型戦艦より劣速である。日本海軍の主戦力が空母と認識されたのはミッドウェー海戦での敗戦を受けてのことであり、この時点では少なくとも編成上は戦艦が主力の扱いであった。

アメリカ海軍側はミッドウェー海戦の報を受け、戦艦「テネシー」、「ミシシッピ」、「アイダホ」、「ニューメキシコ」、護衛空母ロングアイランド」を中心とする第1任務部隊をサンフランシスコより出撃させている。この部隊はハワイ西北1,200浬で戦艦「コロラド」、「メリーランド」と合同し、日本艦隊の西海岸攻撃に備えており、この時点では空母部隊を前衛として戦艦を運用するという思想には両軍とも差がなかった。日本艦隊が空母喪失後もあくまでミッドウェー攻略に固執した場合、アメリカ戦艦6隻は同島防衛に動く可能性もあった。

1942年(昭和17年)8月7日、米軍がガダルカナル島に来襲してガダルカナル島の戦いが始まる。8月17日、「大和」は共にソロモン方面の支援のため柱島を出航する[30]。8月21日、グリメス島付近を航行し[31]、航海中に第二次ソロモン海戦が勃発した。8月28日、チューク諸島トラック泊地に入港した。入泊直前、米潜水艦から魚雷3本を撃ち込まれ、2本は自爆、1本を回避している[32]ヘンダーソン基地艦砲射撃に参加する案も検討されたが取りやめとなった[33]第三次ソロモン海戦では、老艦の金剛型戦艦霧島」が「大和」と同世代の米新鋭戦艦「サウスダコタ」と「ワシントン」に撃沈された。この点で、大和型戦艦の投入をためらった連合艦隊の消極性と米国の積極性を比較する意見もある[34]

1943年(昭和18年)2月11日、連合艦隊旗艦任務を「大和」の運用経験を踏まえて通信、旗艦設備が改良された大和型2番艦「武蔵」に移譲。5月8日トラック出航、柱島へ向かう。呉では対空兵器を増強し、21号電探22号電探などレーダーを装備する[35]。再びトラックに向かったのは8月16日ソロモン諸島では激戦が行われ戦局が悪化していたが、本艦はトラック島の泊地に留まったまま実戦に参加できなかった。居住性の高さや食事などの面で優遇されていたこともあいまって、他艦の乗組員や陸軍将兵から「大和ホテル」と揶揄されている[36]。作戦行動を終えた駆逐艦が「大和」に横付けし、駆逐艦乗組員が「大和」の巨大で整った風呂を利用することも多かったという[37]。10月中旬、マーシャル群島への出撃命令が下る。アメリカ海軍の機動部隊がマーシャルに向かう公算ありとの情報を得たからである。旗艦「武蔵」以下、「大和」、「長門」などの主力部隊は決戦の覚悟でトラックを出撃した。しかし、4日間米機動部隊を待ち伏せしても敵は来ず、10月26日にトラック島に帰港する。

1943年(昭和18年)12月、「大和」は戊一号輸送部隊に参加する。これは「大和」と駆逐艦「秋雲」、「山雲」、「谷風」が横須賀から宇都宮編成陸軍独立混成第一連隊と軍需品を日本からトラック泊地へ輸送する作戦である[38]12月25日、トラック島西方180海里でアメリカ海軍の潜水艦「スケート」より攻撃を受け、3番砲塔右舷に魚雷1本を被雷する。「大和」は被雷後速力を18ノットに増速して離脱、魚雷命中の衝撃を感じた者はおらず、わずかに傾斜したため異常に気づいたという[39]。爆発の衝撃で舷側水線装甲背後の支持肋材下端が内側に押し込まれ、スプリンター縦壁の固定鋲が飛び、機械室と3番砲塔上部火薬庫に漏水が発生する被害を受けた[40]。浸水量は3000-4000トンである[41]。敵弾が水線鋼鈑下端付近に命中すると浸水を起こす可能性は、装甲の実射試験において指摘はされていたが重大な欠陥とは認識されていなかった[42]。トラックで応急修理を受けた後、内地に帰還。この欠陥に対して、水密隔壁を新たに追加し浸水を極限する改修が行なわれた。修理と並行して、両舷副砲を撤去。高角砲6基と機銃を増設し、対空兵装の強化を図った。

1944年(昭和19年)5月4日、宇垣纏中将が「長門」から移り、第一戦隊旗艦となる[43]。6月14日、ビアク島に上陸した米軍を迎撃するため渾作戦に参加するが、米軍がサイパン島に上陸したことにより渾作戦は中止となった[44]。「大和」は「武蔵」と共に北上し、小沢機動部隊と合流した。6月15日マリアナ沖海戦に参加する。「大和」は栗田健男中将指揮する前衛艦隊に所属していた。6月19日、前衛艦隊上空を通過しようとしていた日本側第一次攻撃隊を米軍機と誤認、周囲艦艇とともに射撃して数機を撃墜するという失態も犯している[45]。「大和」は発砲していないという証言もある[46]。同日、日本軍機動部隊は米潜水艦の雷撃により空母「大鳳」「翔鶴」を失う。6月20日、「大和」はアメリカ軍攻撃隊に向けて三式弾27発を放った。「大和」が実戦で主砲を発射したのはこれが最初である[47]。6月24日、日本に戻った[48]。10日ほど在泊したのち、陸軍将兵や物資を搭載してシンガポールへ向い、7月16日、リンガ泊地に到着した[49]。この後3ヶ月間訓練を行い、10月には甲板を黒く塗装した[50]

レイテ沖海戦

1944年(昭和19年)10月22日、「大和」はレイテ沖海戦に参加するため、第二艦隊(通称栗田艦隊)第一戦隊旗艦としてアメリカ軍上陸船団の撃破を目指しブルネイを出撃した[51]。23日早朝に栗田艦隊旗艦・重巡洋艦愛宕」が潜水艦に撃沈されたため、「大和」座乗の第一戦隊司令官宇垣纒中将が一時指揮を執った。夕方に栗田健男中将が移乗し第二艦隊旗艦となったが、2つの司令部が同居したため艦橋は重苦しい空気に包まれた[52]。24日、シブヤン海で空襲を受け、姉妹艦「武蔵」を失う。「大和」にも艦前部に爆弾1発が命中した[53]。25日午前7時、サマール島沖にて米護衛空母艦隊を発見し、他の艦艇と共同して水上射撃による攻撃を行う[54]

この戦闘で「大和」は主砲弾を104発発射した。32,000mの遠距離から放った「大和」の砲撃は第一斉射から目標を挟叉し、アメリカ側から「砲術士官の望みえる最高の弾着」との評価を受けている。ただし、「カリニン・ベイ」は「射程距離は正確だが、方角が悪い」と評している[55]。当時の大和砲術長だった能村(後、大和副長)は、射撃した前部主砲6門のうち徹甲弾は2発のみで、残る4門には三式弾が装填されていたと証言している[56]。都竹卓郎が戦後両軍の各文献と自身の記憶を照らしたところによれば、『戦藻録』の「31キロより砲戦開始、2、3斉射にて1隻撃破、目標を他に変換す」が概ねの事実で[57]、最初の「正規空母」は護衛空母「ホワイトプレインズ」、次の艦は「ファショウ・ベイ」である[58]。至近弾による振動で「ホワイトプレインズ」は黒煙を噴き、「大和」ではこれを「正規空母1隻撃破」と判断して他艦に目標を変更したものらしい[59]。米軍側の記録では、「ホワイトプレインズ」は命中の危険が迫ったために煙幕を展開したとしている[60]。能村は、第一目標に四斉射した後「米軍の煙幕展開のため目標視認が困難となり、別の空母を損傷させようと目標を変更」と回想している[56]

戦闘中、「大和」は米軍駆逐艦が発射した魚雷に船体を左右で挟まれ、魚雷の射程が尽きるまで米軍空母と反対方向に航行することになった[61]。さらに米軍駆逐艦の効果的な煙幕や折からのスコールによって、光学測距による射撃は短時間に留まった。戦闘の後半で、仮称二号電波探信儀二型を使用したレーダー射撃を実施した[62]。この戦闘では、「大和」の右舷高角砲と機銃が沈没する米艦と脱出者に向けて発砲し、森下艦長と能村副長が制止するという場面があった[63]

アメリカ護衛空母ガンビア・ベイ」に大和の主砲弾1発が命中して大火災を起こしたと証言もあるが、重巡「利根」艦長黛治夫大佐は、著書で「戦艦部隊の主砲弾で敵空母が大火災を起こしたような事実はなかった」と強く反論している。米側記録にも該当する大火災発生の事実はなく、「ガンビア・ベイ」は午前8時15分に重巡「羽黒」と「利根」の20.3センチ砲弾を受けたのが最初の被弾とされている[64]。「ガンビア・ベイ」への命中弾という説は大岡昇平も「よた話」として採り上げている[65]

アメリカ側には0725-0730頃、米駆逐艦「ホーエル」「ジョンストン」が戦艦からの主砲・副砲弾を受けた。アメリカ側が両艦を砲撃した戦艦としている金剛は、0725にスコールに入ったために射撃を中止しており、同型艦の榛名もこの時刻には射撃していないことから、0727の主砲射撃で「巡洋艦轟沈」を報じた大和の射撃が命中した可能性もある。また第七戦隊の重巡各艦も「ホーエル」「ジョンストン」を砲撃している。この砲撃でアメリカ駆逐艦が致命傷を負った形跡はないことから、命中弾があったとしても「戦艦の主砲弾で」艦橋上のMk37射撃指揮装置を吹き飛ばされた「ホーエル」ではないかと言われている。「ジョンストン」も、十戦隊の軽巡「矢矧」以下が止めを刺しているため、「大和」が敵艦を直接葬った可能性はない。なおこの海戦で、「大和」が電測射撃で重巡洋艦「鳥海」を味方撃ちしたという説もあるが、「鳥海」及び「筑摩」が損傷した時期には日本戦艦がこの両艦を誤射するような射撃機会を得ていないため、これは誤解である。

アメリカ軍の損害は、アメリカ護衛空母「ガンビア・ベイ」と「ジョンストン」、「ホーエル」、護衛駆逐艦「サミュエル・B・ロバーツ」が沈没というものだった。この直後、関行男海軍大尉が指揮する神風特攻隊敷島隊が護衛空母部隊を急襲、体当たりにより護衛空母「セント・ロー」が沈没、数隻が損害を受けた[66]

サマール島沖砲撃戦の後、栗田長官は近隣にアメリカ機動部隊が存在するとの誤報を受けて、レイテ湾に突入することなく反転を命じた[67]。宇垣の著作には、当時の「大和」艦橋の混乱が描写されている[68]。引き返す途中、ブルネイ付近でアメリカ陸軍航空隊機が攻撃にきた。残弾が少ないため近距離に引き付け対空攻撃をし、数機を撃墜した[69]。往復の航程でアメリカ軍機の爆撃により第一砲塔と前甲板に4発の爆弾が命中したが、戦闘継続に支障は無かった。砲塔を直撃した爆弾は、装甲があまりにも厚かったため、天蓋の塗装を直径1メートルほどに渡って剥がしただけで跳ね返され、空中で炸裂して付近の25ミリ機関砲の操作員に死傷者が出た。第二砲塔長であった奥田特務少佐の手記によると、爆弾が命中した衝撃で第二砲塔員の大半が脳震盪を起こし倒れたと云う。また前甲板の爆弾は鋲座庫付近(錨鎖庫ではないか?)に水面下の破孔を生じ、前部に3000トンの浸水、後部に傾斜復元のため2000トンを注水した[70]

10月28日、ブルネイに到着する[71]。11月8日、多号作戦において連合軍空軍の注意をひきつけるためブルネイを出撃、11日に帰港したが、特に戦闘は起きなかった[72]。11月16日、B-24爆撃機15機の襲撃に対し主砲で応戦、3機を撃墜する[73]。同日夕刻、「大和」は戦艦「長門」、「金剛」、駆逐艦「浦風」、「雪風」、「磯風」などとともに内地に帰還したが、台湾沖で「金剛」と「浦風」が潜水艦に撃沈されることとなる[74]。11月23日、呉に到着。宇垣中将は退艦、森下信衛4代目艦長にかわって有賀幸作大佐が5代目艦長となる(森下は第二艦隊参謀長として引き続き大和に乗艦)[75]

姉妹艦「武蔵」の沈没は、大和型戦艦を不沈艦と信じていた多くの乗組員に衝撃を与え[76]、いずれ「大和」も同じ運命を辿るのではと覚悟する者もいた[77]。宇垣は戦藻録に「嗚呼、我半身を失へり!誠に申訳無き次第とす。さり乍ら其の斃れたるや大和の身代わりとなれるものなり。今日は武蔵の悲運あるも明日は大和の番なり」と記した[78]

特攻前夜

最終時の大和。米側資料で、最新の研究考証に準じているが、一番砲塔脇と、砲塔上の機銃形状が日本側考証と異なる。
3月19日の呉空襲で、敵機の攻撃を回避する大和。

レイテ沖海戦で連合艦隊は事実上壊滅した。大和型戦艦3番艦を空母に改造した「信濃」も呉回航中に米潜水艦の襲撃で沈没、「大和」と「信濃」が合同することはなかった。「大和」以下残存艦艇は燃料不足のため満足な訓練もできず、内地待機を続けている[79]1945年(昭和20年)3月19日、呉軍港が空襲を受けた際、敵機と交戦した。呉から徳山沖に退避したため、目立った被害はなかった。

同年3月28日、「次期作戦」に向け「大和」(艦長:有賀幸作大佐、副長:能村次郎大佐、砲術長:黒田吉郎中佐)を旗艦とする第二艦隊(司令長官:伊藤整一中将、参謀長:森下信衛少将)は佐世保への回航を命じられたが、米軍機の空襲が予期されたので回航を中止し、翌日未明、第二艦隊を徳山沖に回航させた[80]

3月30日に、アメリカ軍機によって呉軍港と広島湾が1,034個の機雷で埋め尽くされ、機雷除去に時間がかかるために呉軍港に帰還するのが困難な状態に陥る。関門海峡は貨物船が沈没して通行不能だった[81]

4月5日、連合艦隊より沖縄海上特攻の命令を受領。「【電令作603号】(発信時刻13時59分) 8日黎明を目途として、急速出撃準備を完成せよ。部隊行動未掃海面の対潜掃蕩を実施させよ。31戦隊の駆逐艦で九州南方海面まで対潜、対空警戒に当たらせよ。海上護衛隊長官は部下航空機で九州南方、南東海面の索敵、対潜警戒を展開せよ。」「【電令作611号】(発信時刻15時)海軍部隊及び六航軍は沖縄周辺の艦船攻撃を行え。陸軍もこれに呼応し攻撃を実施す。7日黎明時豊後水道出撃。8日黎明沖縄西方海面に突入せよ。」

4月6日、「【電令作611号改】(時刻7時51分)沖縄突入を大和と二水戦、矢矧+駆逐艦8隻に改める。出撃時機は第一遊撃部隊指揮官所定を了解。」として、豊後水道出撃の時間は第二艦隊に一任される。第二艦隊は同日夕刻、天一号作戦菊水作戦)により山口県徳山湾沖から沖縄へ向けて出撃する。この作戦は「光輝有ル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ、其ノ栄光ヲ後昆ニ伝ヘ」[82]る為にと、神重徳大佐の発案が唐突に実施されたものであった。草鹿龍之介連合艦隊参謀長は関与していないと著作に記しているが、高田利種少将は草鹿も承知していたと断言した[83]。一般には片道分の燃料で特攻したとされるが、燃料タンクの底にあった油や、南号作戦で必死に持ち帰った重油などをかき集めて3往復の燃料を積んでいたともされている(下記も参照)。

第二艦隊は「大和」以下、第二水雷戦隊(司令官:古村啓蔵少将、旗艦軽巡洋艦矢矧、第四十一駆逐隊(防空駆逐艦の冬月涼月)、第十七駆逐隊(磯風浜風雪風)、第二十一駆逐隊(朝霜初霜)で編成されていた。先導した対潜掃討隊の第三十一戦隊(花月)の3隻は練度未熟とみて、豊後水道で呉に引き返させた。

  • アメリカ軍偵察機F-13『スーパーフォートレス』(B-29の偵察機型) により上空から撮影された出撃直後の「大和」の写真が2006年7月にアメリカにて発見された。当時の「大和」の兵装状態は未だ確定的な証拠のある資料はなく、この写真が大和最終時兵装状態の確定に繋がると期待されている。

天一号作戦(菊水作戦坊ノ岬沖海戦も参照のこと)の概要は、アメリカ軍に上陸された沖縄防衛の支援、つまりその航程で主にアメリカ海軍の邀撃戦闘機を大和攻撃隊随伴に振り向けさせ、日本側特攻機への邀撃を緩和させることである。もし沖縄にたどり着ければ東シナ海北西方向から沖縄島残波岬に突入、自力座礁し大量の砲弾を発射できる砲台として陸上戦を支援し、乗員は陸戦隊として敵陣突入させるというものであった。沖縄の日本陸軍第三十二軍は、連合艦隊の要請に応じて4月7日を予定して攻勢をかけることになっていた[84]。しかし「大和」を座礁させて陸上砲台にするには、(1)座礁時の船位がほぼ水平であること、(2)主砲を発射するためには、機関および水圧系と電路が生きており、射撃管制機能が全滅していないこと、の2点が必要であり、既に実行不可能とされていた。実際、レイテ沖海戦で座礁→陸上砲台の案が検討されたが[要出典]、上記に理由で却下されている。アメリカ軍の制海権・制空権下を突破して沖縄に到達するのは不可能に近く、作戦の意義はまさに一億総特攻の魁(さきがけ)であった。しかも戦争末期には日本軍の暗号はアメリカ軍にほとんど解読されており、出撃は通信諜報からも確認され、豊後水道付近では米軍潜水艦「スレッドフィン」と「ハックルバック」に行動を察知された[85]。4月6日21時20分、「ハックルバック」は浮上して大和を確認。艦長フレッド・ジャニー中佐は特に暗号も組まれずに「ヤマト」と名指しで連絡した。この電報は「大和」と「矢矧」に勤務していた英語堪能な日系2世通信士官に傍受され、翻訳されて全艦に連絡された[86]

当初、第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将は戦艦による迎撃を考えていた[87]。しかし「大和」が西進し続けたため日本海側に退避する公算があること、大和を撃沈することが目的であり、そのために手段は選ぶべきではないと考え、マーク・ミッチャー中将の指揮する機動部隊に航空攻撃を命じたという。しかし実際には、スプルーアンスが戦艦による砲撃戦を挑もうとしていたところをミッチャーが先に攻撃部隊を送り込んでしまった[88]。「武蔵」は潜水艦の雷撃で沈んだという噂があり、ミッチャーは何としても「大和」を航空攻撃のみで撃沈したかったのだという[89]。またミッチャーは、各部隊の報告から「大和」が沖縄へ突入すると確信し[90]、スプルーアンスに知らせないまま攻撃部隊の編成を始めた[91]。なお、スプルーアンスは、アメリカ留学中の伊藤と親交を結んだ仲であった[92]

坊ノ岬沖海戦

敵機の攻撃に曝される大和。幅広い航跡が目を引く。
米軍航空隊の爆撃で炎上する大和(1945年4月7日)
ヘルダイバーの爆撃から逃れようとする大和(左)。右に秋月型駆逐艦が見える。
傾斜した大和を守るべく、防空戦を続ける冬月の長10センチ砲が火を吹いたところ。
相次ぐ被弾での浸水により、速力が低下した大和(右)。

4月7日6時30分ごろ、「Isamit」は対潜哨戒のため零式水上偵察機を発進させた[93]。この機は鹿児島県指宿基地に帰投した[94]。九州近海までは、レイテ沖海戦で「大和」に乗艦していた宇垣中将率いる第五航空艦隊第二〇三航空隊(鹿児島県南部笠、原飛行場)の零式艦上戦闘機が艦隊の護衛を行った[95]。能村はF6Fヘルキャット3機を目撃したのみで、日本軍機はいなかったと回想する[96]。一方、日本軍機の編隊を見たという証言もある[97]。実際に護衛は行われたが、天候不良で第二艦隊を発見できず引き返す隊や、第二艦隊の壊滅により発進中止となる隊があるなど、急遽決定した特攻作戦のため準備不足の中途半端な護衛になってしまった[98]

その数機単位の護衛機も4月7日昼前には帰還し、入れ替わるようにアメリカ軍のマーチン飛行艇などの偵察機が艦隊に張り付くようになる[99]。「スレッドフィン」が零戦の護衛を報告し、ミッチャーが零戦の航続距離を考慮した結果ともいわれる[100]。米軍の記録によれば、8時15分に3機のF6Fヘルキャット索敵隊が「大和」を発見[101]。8時23分、別のヘルキャット索敵隊も「大和」を視認した[101]。このヘルキャット隊は周辺の索敵隊を集め、同時にマーチン飛行艇も監視に加わった[102]。「大和」は主砲を3発撃ったが、米偵察機を追い払うことはできなかった[103]

4月7日12時34分、「大和」は鹿児島県坊ノ岬沖90海里(1海里は1,852m)の地点でアメリカ海軍艦上機を50キロ遠方に認め、射撃を開始した[104]。8分後、空母「ベニントン」第82爆撃機中隊(11機)のうちSB2C ヘルダイバー急降下爆撃機4機が艦尾から急降下する[105]。中型爆弾500kg爆弾8発が投下され、米軍は右舷機銃群、艦橋前方、後部マストへの直撃を主張した[106]。「大和」は後部指揮所、13号電探、後部副砲の破壊を記録している[104]。後年の海底調査ではその形跡は見られないが、実際には内部が破壊され、砲員生存者は数名だった[107]。前部艦橋も攻撃され、死傷者が出た[108]。また、一発が「大和」の主砲に当たり、装甲の厚さから跳ね返され、他所で炸裂したという説もある[誰によって?]。同時に、後部射撃指揮所(後部艦橋)が破壊された[109]。さらに中甲板で火災が発生、防御指揮所の能村は副砲弾庫温度上昇を確認したが、すぐに「油布が燃えた程度」と鎮火の報告が入ったという[110]。建造当初から弱点として問題視された副砲周辺部の命中弾による火災は、沈没時まで消火されずに燃え続けた[111]。実際には攻撃が激しく消火どころではなかったようで、一度小康状態になったものが、その後延焼している。前部中甲板でも火災が発生したとする研究者もいる[112]。清水副砲長は沖縄まで行けるかもしれないと希望を抱いた[113]

米軍は戦闘機、爆撃機、雷撃機が同時攻撃を行った。複数方向から多数の魚雷が発射される上に、戦闘機と爆撃機に悩まされながらの対処だったため、巨大な「大和」が完全に回避する事は困難だった[114]。「ベニントン」隊に続き「ホーネット」第17爆撃機中隊(ロバート・ウォード中佐)が「大和」を攻撃。艦首、前部艦橋、煙突後方への直撃弾を主張し、写真も残っている[115]。12時40分、「ホーネット (CV-12) 」第17雷撃機中隊8機が「大和」を雷撃し、魚雷4本命中を主張した[116]。「軍艦大和戦闘詳報」では12時45分、左舷前部に1本命中である[104]。戦後の米軍対日技術調査団に対し、森下参謀長、能村副長、清水副砲術長は爆弾4発、宮本砲術参謀は爆弾3発の命中と証言[117]。魚雷については、宮本砲術参謀は3本、能村は4本、森下は2本、清水は3本(全員左舷)と証言した[118]。これを受けて、米海軍情報部は艦中央部左舷に魚雷2本命中と推定、米軍攻撃隊は魚雷命中8本、爆弾命中5発と主張し「風評通りに極めてタフなフネだった」と述べている[119]。「大和」では主要防御区画内への浸水で左舷外側機械室が浸水を起こし、第八罐室が運転不能となっていた[120]。左舷に5度傾斜するも、これは右舷への注水で回復した。

13時、第二波攻撃が始まる[121]。米軍攻撃隊94機中、「大和」に59機が向かった[122]。第83戦闘爆撃機中隊・雷撃機中隊が攻撃を開始。雷撃隊搭乗員は、「大和」が主砲を発射したと証言している[123]。射撃指揮所勤務兵も、砲術長が艦長の許可を得ずに発砲したと証言するが[124]、発砲しなかったという反論もある[125]。いずれにせよ米軍機の阻止には至らず、「エセックス」攻撃隊が「大和」の艦尾から急降下し、爆弾命中によりマストを倒した[126]。さらに直撃弾と火災により、「大和」から米軍機を確認することが困難となる[126]。米軍機は攻勢を強めた。「エセックス」雷撃隊(ホワイト少佐)が「大和」の左右から同時雷撃を行い、9本の魚雷命中を主張[127]。「バターン」雷撃隊(ハロルド・マッザ少佐)9機は全発射魚雷命中、もしくは4本命中確実を主張[128]。「バンカーヒル」雷撃隊(チャールス・スワッソン少佐)は13本を発射し、9本命中を主張した[129]。「キャボット」雷撃隊(ジャック・アンダーソン大尉)は、「大和」の右舷に照準を定めたが、進行方向を間違えていたので、実際には左舷を攻撃した[130]。魚雷4本の命中を主張し、これで第一波、第二派攻撃が「大和」に命中させた魚雷は29本となった[130]。これは雷撃隊が同時攻撃をかけたため、戦果を誤認したものと考えられる[130]

防空指揮所にいた塚本高夫艦長伝令、渡辺志郎見張長は、米軍が見た事のない激しい波状攻撃を行ったと証言している[131]。宮本砲術参謀は右舷に魚雷2本命中したとする。「大和」は速力18ノットに落ち、左舷に15度傾いた[132]。左舷側区画は大量に浸水し、右舷への注水でかろうじて傾斜は回復したが、もはや限界に達しようとしていた[133]。左舷高角砲発令所(左舷副砲塔跡)が全滅し、甲板の対空火器が減殺された[134]。13時25分、通信施設が破壊された「大和」は「初霜」に通信代行を発令した[135]

13時30分、「イントレピッド」、「ヨークタウン」、「ラングレー」攻撃隊105機が大和上空に到着した[136]。13時42分、「ホーネット」「イントレピッド」第10戦闘爆撃機中隊4機は、1000ポンド爆弾1発命中・2発至近弾、第10急降下爆撃機中隊14機は、雷撃機隊12機と共同して右舷に魚雷2本、左舷に魚雷3本、爆弾27発命中を主張した[137]。この頃、上空の視界が良くなったという[138]

このように14時17分まで、「大和」はアメリカ軍航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)もしくは367機[139]による波状攻撃を受けた。戦闘機も全機爆弾とロケット弾を装備し、機銃掃射も加わって、「大和」の対空火力を破壊した。

『軍艦大和戦闘詳報』による主な被害状況は以下のとおり。ただし、「大和被害経過資料不足ニテ詳細不明」との注がある。また「大和」を護衛していた第二水雷戦隊が提出した戦闘詳報の被害図や魚雷命中の順番とも一致しない[140]。例えば第二水雷戦隊は右舷に命中した魚雷は4番目に命中と記録している。

  • 12時45分 左舷前部に魚雷1本命中[104]
  • 13時37分 左舷中央部に魚雷3本命中、副舵が取舵のまま故障[121]
  • 13時44分 左舷中部に魚雷2本命中[121]
  • 13時45分 副舵を中央に固定。応急舵で操舵[121]
  • 14時00分 艦中央部に中型爆弾3発命中[141]
  • 14時07分 右舷中央部に魚雷1本命中[141]
  • 14時12分 左舷中部、後部に魚雷各1本命中[141]。機械右舷機のみで12ノット。傾斜左舷へ6度。
  • 14時17分 左舷中部に魚雷1本命中、傾斜急激に増す[141]
  • 14時20分 傾斜左舷へ20度、傾斜復旧見込みなし[142]。総員上甲板(総員退去用意)を発令。

沈没

横転し、大爆発を起こした瞬間。
大爆発して沈没(4月7日14時23分、北緯30度22分東経128度4分)
大和の爆煙

「大和」は多数の爆弾の直撃を受け、艦内では火災が発生。艦上では、爆弾の直撃や米軍戦闘機の機銃掃射、ロケット弾攻撃により、対空兵器が破壊されて死傷者が続出する。水面下では、米軍の高性能爆薬を搭載した魚雷が左舷に多数命中した結果、復元性の喪失と操艦不能を起こした。「いったい何本の魚雷が命中してるかわからなかった」という証言があるほどである[143]。後部注排水制御室の破壊により注排水が困難となって状況は悪化した。また13時30分に副舵が故障し、一時的に舵を切った状態で固定され、直進ないし左旋回のみしか出来なくなった[121]。このことに関して、傾斜を食い止めるために意図的に左旋回ばかりしていたと錯覚する生存者もいる[誰?]。また、「大和」が左舷に傾斜したため、右旋回が出来なくなったとする見方もある[144]。船舶は旋回すると、旋回方向と反対側に傾斜する性質があり、左傾斜した大和が右旋回すると左に大傾斜して転覆しかねなかったという[145]。これらのことにより、米軍は容易に「大和」に魚雷を命中させられるようになったが、15分後に副舵は中央に固定された[121]。左舷にばかり魚雷が命中していることを懸念した森下参謀長が右舷に魚雷をあてることを提案したが、もはやその余裕もなく、実行されずに終わった[146]

また傾斜復旧のために、右舷の外側機械室と3つのボイラー室に注水命令が出されているが[147]、機械室・ボイラー室は、それぞれの床下にあるキングストン弁を人力で開く必要があり、生存者もいないため実際に操作されたかどうかは不明である。しかしながら14時過ぎには艦の傾斜はおおむね復旧されていたのも事実である。船体の傾斜が5度になると主砲、10度で副砲、15度で高角砲が射撃不能となった。

14時、注排水指揮所との連絡が途絶し、舵操舵室が浸水で全滅する[148]。有賀艦長は最後を悟り、艦を北に向けようとしたが、「大和」は既に操艦不能状態だった[149]。「大和」は艦橋に「我レ舵故障」の旗流を揚げた[150]。14時15分、警報ブザーが鳴り、全弾薬庫に温度上昇を示す赤ランプがついたが、もはや対処する人員も時間もなかった[151]。護衛駆逐艦からは航行する「大和」の右舷艦腹が海面上に露出し、左舷甲板が海面に洗われるのが見えた[152]

「大和」への最後のとどめになった攻撃は、空母「ヨークタウン」第9雷撃機中隊TBF アベンジャー6機による右舷後部への魚雷攻撃である[153]。14時10分、トム・ステットソン大尉は、左舷に傾いたため露出した「大和」の艦底を狙うべく、「大和」の右舷から接近した[154]。雷撃機後部搭乗員は、艦底に魚雷を直撃させるために機上で魚雷深度を3mから6mに変更した[155]。4機が魚雷を投下、右舷に魚雷2-4本命中を主張する[156]。やや遅れて攻撃した2機は右舷に1本、左舷後部に1本の命中を主張した[157]。後部への魚雷は、空母「ラングレー」隊の可能性もある[158]

この魚雷の命中は、「大和」の乗員にも印象的に記憶されている。艦橋でも「今の魚雷は見えなかった…」という士官の報告がある。三笠逸男(一番副砲砲員長)は、「4機編隊が攻めてきて魚雷が当たった。艦がガーンと傾きはじめた」と証言している[159]。黒田吉郎砲術長は「右舷前部と左舷中央から大水柱があがり、艦橋最上部まで伝わってきた。右舷に命中したに違いない」と証言した[160]。坂本一郎測的手は「最後の魚雷が致命傷となって、船体がグーンと沈んだ」と述べた[161]

最後の複数の魚雷が右舷に命中してからは20度、30度、50度と急激に傾斜が増した。能村は防御指揮所から第二艦橋へ上がると有賀艦長に総員最上甲板を進言し、森下参謀長も同意見を述べた[162]。伊藤長官は森下と握手すると、全員の挙手に答えながら、第一艦橋下の長官休憩室に去った[163]。有賀は号令機で「総員最上甲板」を告げたが[164]、「大和」は左舷に大傾斜して赤い艦腹があらわになっていた[165]。このため、脱出が間に合わず艦内に閉じ込められて戦死した者が多数いた[166]。有賀は羅針儀をつかんだまま海中に没した[167]。第一艦橋では、茂木史朗航海長と花田中尉が羅針儀に身体を固定し、森下が若手将兵を脱出させていた[168]。昭和天皇の写真(御真影)は主砲発令所にあって第九分隊長が責任を負っていたので、同分隊長服部海軍大尉が御真影を私室に捧持して鍵をかけた[169]

14時20分、「大和」はゆっくりと横転していった。艦橋頂上の射撃指揮所配置の村田元輝大尉や小林健(修正手)は、指揮所を出ると、すぐ目の前が海面だったと証言している[170]。右舷外側のスクリューは最後まで動いていた[171]。14時23分、上空の米軍攻撃隊指揮官達は「大和」の完全な転覆を確認する[172]。「お椀をひっくりかえすように横転した」という目撃談がある[173]。「大和」は直後に大爆発を起こし、艦体は2つに分断されて海底に沈んだ。沈没時刻について「軍艦大和戦闘詳報」と「第17駆逐隊戦時日誌」では14時23分[174]、「初霜」の電文を元にした「第二水雷戦隊戦闘詳報」は14時17分と記録している[175]

所在先任指揮官吉田正義大佐(冬月、第四一駆逐隊)は、沖縄突入より生存者の救助を命じた[176]軽巡洋艦矢矧」から脱出後、17時20分に駆逐艦「初霜」に救助された古村啓蔵少将は一時作戦続行を図って暗号を組んでいたものの、結局は生存者を救助のうえ帰途についた[177]。「大和」では伊藤整一第二艦隊司令長官(戦死後大将)、有賀幸作艦長(同中将)以下2,740名が戦死、生存者269名[178]または276名[179]。第二水雷戦隊戦闘詳報によれば、準士官以上23名・下士官兵246名、第二艦隊司令部4名・下士官兵3名である[180]。護衛していた軽巡洋艦「矢矧」446名(沈没)、駆逐艦「磯風」20名(自沈)、「浜風」100名(轟沈)、「冬月」12名、「涼月」57名(大破)、「雪風」3名、「」17名(自沈)、「朝霜」326名(轟沈)、第二艦隊将兵計3721名が戦死した[181]。「初霜」は負傷者2名だった。

戦艦「大和」の沈没によって連合艦隊は、完全に洋上行動能力を失い、その後艦隊として出撃することはなかった。4月9日、朝日新聞は一面で「沖縄周辺の敵中へ突撃/戦艦始め空水全軍特攻隊」と報道したが、「大和」の名前も詳細も明らかにされることはなかった[182]。4月25日、連合艦隊だけでなく海上護衛総隊及び各鎮守府をも指揮する海軍総隊が設けられ、終戦まで海上護衛及び各特攻作戦の指揮を執る。大和沈没の報は親任式中の鈴木貫太郎首相ら内閣一同に伝えられ、敗戦が現実のものとして認識されたという[183]。同様の感想は、「大和」の沈没を目撃した米軍搭乗員も抱いている[184]

沈没要因

「大和」が爆発した際の火柱キノコ雲は、遙か鹿児島でも確認できたという。だが、視認距離を求める公式 (L1は水平線上の最大視認距離、ho は水面からの眼高。ht は目標の高さ。坊の岬最高点は96.9m 爆煙が雲底到達した高度は1,000m)に当てはめてみると視認距離は152.6kmとなり、計算の結果は213km以上も離れた鹿児島県からは確認できないこととなる。徳之島から見えたという伝承がある[185]

爆発の原因は船体の分断箇所と脱落した主砲塔の損傷の程度より、2番主砲塔の火薬庫が誘爆したためとされる。米軍と森下、清水は後部副砲の火災が三番主砲弾薬庫の誘爆に繋がったと推論した[186]。だが転覆直後に爆発している点、2番主砲付近での火災の報告がない点などをふまえ、大和転覆による爆発とする説のほうが有力である。能村は「主砲弾の自爆」という表現を使っている[187]。戦後の海底調査で、艦尾から70mの艦底(機関部)にも30mほどの大きな損傷穴があることが判明している[188]。これはボイラーが蒸気爆発を起こした可能性が高い[189]

同型艦武蔵」が魚雷20本以上・爆弾20発近くを被弾しながら9時間程耐えたのに比べ、「大和」は2時間近くの戦闘で沈没した。いささか早く沈んだ印象があるが、これは被弾魚雷の内1本(日本側記録では7本目)を除いては全て左舷に集中した、低い雲に視界を遮られて大和側から敵機の視認が困難を極めた[190]、「武蔵」に比べ米軍の攻撃に間断がなく、さらにレイテ沖海戦の時よりも攻撃目標艦も限られていたなど[191]、日本側にとって悪条件が重なっていた。また有賀幸作艦長は1944年(昭和19年)12月に着任、茂木航海長(前任、戦艦榛名)は出撃の半月前の着任である[192]。新任航海長や、小型艦の艦長や司令官として経験を積んだ有賀が巨艦「大和」の操艦に慣れていなかった事が多数の被弾に繋がったという指摘もある[193]1945年(昭和20年)以降の「大和」は燃料不足のため、満足な訓練もできなかった[194]。有賀も海兵同期の古村啓蔵第二水雷戦隊司令官に、燃料不足のため主砲訓練まで制限しなければならない窮状を訴えている[195]。これに対し、大和操艦の名手と多くの乗組員が賞賛する森下信衛[196]「大和のような巨艦では敏速な回避は難しく、多数の航空機を完全回避することは最も苦手」と語っている[197]。航海士の山森も、沖縄特攻時の米軍攻撃の前では、森下の技量でも同じだったとした[198]。その一方で、森下ならば沖縄まで行けたかもしれないと述べる意見もある[199]

アメリカ軍航空隊は「武蔵」一隻を撃沈するのに5時間以上もかかり手間取った点を重視し、大和型戦艦の攻略法を考えていたという[200]。その方法とは、片舷の対空装備をロケット弾や急降下爆撃、機銃掃射でなぎ払った後、その側に魚雷を集中させて横転させようというものだった。だが意図的に左舷を狙ったという米軍記録や証言は、現在のところ発見されていない。

さらに、米軍艦載機が提出した戦果報告と、日本側の戦闘詳報による被弾数には大きな食い違いがある。艦の被害報告を受けていた能村副長(艦橋司令塔・防御指揮所)は魚雷命中12本と回想[201]。中尾(中尉、高射長付。艦橋最上部・防空指揮所)は魚雷14本[202]。戦闘詳報では、魚雷10本・爆弾7発[203]。米軍戦略調査団は、日本側資料を参考に魚雷10本、爆弾5発[203]。米軍飛行隊の戦闘報告では、367機出撃中最低117機(戦闘機ヘルキャット15機、戦闘機コルセア5機、急降下爆撃機ヘルダイバー 37機、雷撃機アベンジャー60機)が「大和」を攻撃し、魚雷30-35本、爆弾38発が命中したと主張[204]。第58任務部隊は魚雷13-14本確実、爆弾5発確実と結論づけている[203]。米軍の戦闘記録を分析した原勝洋は、日本側の戦闘詳報だけでなく、米軍記録との照合による通説の書き換えが必要だと述べた[205]。米軍は6機が墜落、5機が帰還後に破棄、47機が被弾した[206]。海底の「大和」の調査でも、残存している部分だけで戦闘詳報に記載のなかった魚雷命中跡が4箇所確認されている[207]

菊水作戦時、沖縄までの片道分の燃料しか積んでいなかったとされていたが、実際には約4,000(満載6,500)トンの重油を積んでいた[208]。重油タンクの底にある計量不能の重油を各所からかき集めたもの、及び海上護衛総隊割り当て分7,000トンの内4,000トンを第2艦隊向けに割り振ったもので、実際にはその量だと全速力でも3往復はできたという。とはいえ、空襲への回避運動や敵艦隊との水上戦が発生したなら、長時間に及ぶ高速での迂回航行を想定する必要があったし、また戦術的な擬装航路の実行なども合わせて考えるなら、決して余裕のある燃料量ではなかったとも言われている。

うまく沖縄本島に上陸できれば乗組員の給料や物資買い入れ金なども必要とされるため、現金51万805円3銭が用意されていた(2006年の価値に換算して9億3000万円分ほど)。「大和」を含めた各艦の用意金額は不明だが、少なくとも駆逐艦「浜風」に約14万円が用意され、同艦轟沈により亡失したことが記録されている[209]

海上特攻の経緯

4月2日、第二水雷戦隊旗艦・軽巡洋艦「矢矧」での第二艦隊の幕僚会議では次の3案が検討された[210]

  1. 航空作戦、地上作戦の成否如何にかかわらず突入戦を強行、水上部隊最後の海戦を実施する[210]
  2. 好機到来まで、極力日本海朝鮮南部方面に避退する[210]
  3. 揚陸可能の兵器、弾薬、人員を揚陸して陸上防衛兵力とし、残りを浮き砲台とする[210]

この3案に対し古村少将、山本祐二大佐、伊藤中将ら幕僚は3.の案にまとまっていた[211]。伊藤は山本を呉に送り、連合艦隊に意見具申すると述べた。4月3日には、少尉候補生が乗艦して候補生教育が始まっている[212]。しかし突然4月4日神重徳大佐から電話により特攻作戦が内示された。この命令は豊田副武連合艦隊司令長官と及川古志郎軍令部総長の決裁後に軍令部、連合艦隊の幹部に通告されたため反論しようがなく、小沢治三郎軍令部次長も了解を与えている[213]

4月5日、特攻命令を伝達に来た聯合艦隊参謀長草鹿龍之介中将に対し伊藤中将が納得せず、無駄死にとの反論を続けた[214]。自身も作戦に疑問を持っていた草鹿中将が黙り込んでしまうと、たまりかねた三上中佐が口を開いた「要するに、一億総特攻のさきがけになっていただきたい、これが本作戦の眼目であります」その言葉に伊藤中将もついに頷いたという[215]。一方で、草鹿の回想録では4月6日に訪れたことになっている[216]

『戦藻録』(宇垣纏中将日誌)によれば、及川古志郎軍令部総長が「菊水一号作戦」を昭和天皇に上奏したとき、「航空部隊丈の総攻撃なるや」との御下問があり、陛下から『飛行機だけか?海軍にはもう船はないのか?沖縄は救えないのか?』と質問をされ「水上部隊を含めた全海軍兵力で総攻撃を行う」と奉答してしまった為に、第二艦隊の海上特攻も実施されることになったということである[217]。宇垣は及川の対応を批判している[218]。また草鹿の回想録にも「いずれその最後を覚悟しても、悔なき死所を得させ、少しでも意義ある所にと思って熟慮を続けていた」と記されている[219]

特攻作戦であることは乗組員には事前に伝えられなかった。命令受領後の4月5日15時に乗組員が甲板に集められ、「本作戦は特攻作戦である」と初めて伝えられた[220]。しばらくの沈黙のあと彼らは動揺することなく、「よしやってやろう」「武蔵の仇を討とう」と逆に士気を高めたという。ただし、戦局の逼迫により、次の出撃が事実上の特攻作戦になることは誰もが出航前に熟知していた[221]。4月6日午前2時、少尉候補生や傷病兵が退艦[222]。夕刻に君が代斉唱と万歳三唱を行い、それぞれの故郷に帽子を振った[223]

4月30日、昭和天皇は米内光政海軍大臣に「天号作戦ニ於ケル大和以下ノ使用法不適当ナルヤ否ヤ」と尋ねた[224]。海軍は「当時の燃料事情及練度 作戦準備等よりして、突入作戦は過早にして 航空作戦とも吻合せしむる点に於て 計画準備周到を欠き 非常に窮屈なる計画に堕したる嫌あり 作戦指導は適切なりとは称し難かるべし」との結論を出した[225]

現在

戦闘詳報による沈没地点は北緯30度22分 東経128度04分 / 北緯30.367度 東経128.067度 / 30.367; 128.067[226]。だが実際の「大和」は、北緯30度43分 東経128度04分 / 北緯30.717度 東経128.067度 / 30.717; 128.067長崎県男女群島女島南方176km、水深345mの地点に沈没している[227]。艦体は1番主砲基部と2番主砲基部の間を境に、前後2つに分かれていた[228]。右舷を下にした艦首部より2番主砲塔前(0 - 110番フレーム付近、約90m)までの原型をとどめた部分は[188]、北西(方位310度)に向いている[228]。転覆した状態の2番主砲塔基部付近より艦尾までの原型をとどめた後部(175 - 246番フレーム付近、約186m)は[188]、東(方位90度)方向を向いている[228]。あわせると276mとなる。原型をとどめぬ艦中央部は3つの起伏となり艦尾艦首の70m南に転覆した状態で[228]、根元から脱落した艦橋は艦首の下敷きとなり、各々半分泥に埋まった状態で沈んでいる[229]

主砲と副砲塔はすべて転覆時に脱落した。特に3基の主砲は、砲塔の天蓋を下にして海底に塔のように同一線上に直立している[230]。これは主砲の脱落が、転覆直後に起こったことを意味している。主砲の砲身自体は泥に深く埋もれており、観察できていない[231]。また艦首切断部付近で発見された2番主砲塔は、横倒しとなった状態で基部が酷く破損しており[232]、沈没時に2番砲塔の弾薬庫が爆発したことを示す証拠とされている[233]。1番(艦首から70m)と3番主砲塔(艦尾部スクリュー付近)には著しい損壊は認められていない[232]。副砲は砲身が視認されており、損傷もない[234]

4本のスクリューのうち、3本は船体に無傷で付いているが、1本は脱落して、海底に突き刺さっている[235]。沈没時の爆発でスクリュー軸が折れて、脱落したものと思われる。主舵には損傷はなく、正中の位置となっている。艦首部分には左右に貫通している魚雷命中穴があり、その他にも多数の破孔がある。2009年(平成21年)1月になって「大和」の母港であった呉市海事歴史科学館呉商工会議所中国新聞日本放送協会広島放送局等、広島の経済界やマスコミが中心となって寄付を募って引き揚げる計画を立ち上げ、数十億円規模の募金を基に船体の一部の引揚げを目指している。一方で、遺品の引き揚げに立ち会った大和乗組員が複雑な気持ちを抱いたという証言もある[236]

「大和型戦艦」らしき2隻の戦艦が動く映像が発見されたことがあるが、のちにこれは東京湾での降伏調印式へと向かうアイオワ型戦艦の戦艦アイオワと戦艦ミズーリの物だと分かった。アメリカ公文書館IIには、B-24に対して主砲を発射した「大和」の映像が残されているが、遠距離撮影のため不鮮明である[237]1988年(昭和63年)11月、保科善四郎(元海軍中将)は松永市郎(元海軍大尉)を通じてアナポリス海軍兵学校に「大和」の絵画(靖国神社遊就館展示絵の複製)を寄贈[238]。松永がアーレイ・バーク海軍大将とエドワード・L・ビーチ・ジュニア海軍大佐にその事を語ると、二人とも「大和は美しい船だった」と語っている[239]

歴代艦長

(階級はいずれも大佐)

  1. 宮里秀徳1941年(昭和16年)9月5日 - (艤装員長)
  2. 高柳儀八1941年(昭和16年)11月1日 -
  3. 松田千秋1942年(昭和17年)12月17日 -
  4. 大野竹二1943年(昭和18年)9月7日 -
  5. 森下信衛1944年(昭和19年)1月25日 -
  6. 有賀幸作1944年(昭和19年)11月25日 -

最も新しい艦長である有賀が最初に没し(戦死)、先輩艦長は全員が戦後まで存命した。

フィクションの中の大和

同型艦

主要参考文献

通史

  • 児島襄『戦艦大和』(文春文庫、1986年)上巻 ISBN 4-16-714105-1 下巻 ISBN 4-16-714106-X
  • 渡部真一『戦艦大和 びっくりデータ99の謎』(二見文庫、1994年) ISBN 4-576-94117-8
  • 平間洋一 編『戦艦大和』(講談社選書メチエ、2003年) ISBN 4-06-258269-4
  • 吉田俊雄『大和と武蔵 その歴史的意味を問い直す』PHP研究所、2004年8月。ISBN 4-569-63462-1 
  • 原勝洋『戦艦大和のすべて 歴史的資料とオリジナル写真により全貌がよみがえる』インデックス・コミュニケーションズ、2005年。ISBN 4-7573-0289-4 
  • 永沢道雄『戦艦大和と日本人 戦艦大和とは日本人にとって何なのか』光人社、2007年8月。ISBN 978-4-7698-1354-5 
  • 「丸」編集部編『究極の戦艦 大和』光人社、2007年8月。ISBN 978-4-7698-1357-6 

建造記録

図面集

  • 日本造船学会 編『昭和造船史 別冊 日本海軍艦艇図面集』(原書房明治百年史叢書第242巻、1978年) ISBN 4-562-00336-7
  • 岡本好司『スーパーイラストレーション 戦艦大和』(モデルアート社1993年9月号臨時増刊 No.414)
  • ヤヌス・シコルスキー 著 / 原勝洋 訳、監修『戦艦大和図面集』(光人社、1998年) ISBN 4-7698-0845-3
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第1巻 戦艦I』(光人社、1989年) ISBN 4-7698-0451-2

写真集

  • 原勝洋 編『戦艦「大和」 永遠なれ!』(KKベストセラーズ、2005年) ISBN 4-584-17097-5
  • 呉市海軍歴史資料館『呉市海軍歴史科学館図録 日本海軍艦艇写真集別巻 戦艦大和・武蔵』ダイヤモンド社、2005年4月。ISBN 4-478-95054-7 

戦記

  • 吉田満戦艦大和ノ最期』(創元社、1952年)、(講談社文芸文庫、1994年) ISBN 4-06-196287-6
    ノンフィクション戦争文学の古典と位置付けられている。しかし有賀艦長の最期や駆逐艦短艇指揮官の行動など、その内容の真実性については疑問も投げかけられている。
  • 吉田満『戦艦大和』(角川文庫、1968年) ISBN 4-04-128101-6
  • ラッセル・スパー左近允尚敏訳『戦艦大和の運命英国人ジャーナリストのみた日本海軍』新潮社、1987年。 
    著者は米海軍記録や日本側戦闘詳報、尋問調書を参考にしつつ、大和生存者にもインタビューしている。
  • 阿部三郎『特攻大和艦隊 帝国海軍の栄光をかけた十隻の明暗』霞出版社単行本、1994年。 
    • 阿部三郎『特攻大和艦隊 帝国海軍の栄光をかけた十隻の明暗光人社NF文庫、2005年。ISBN 4-7698-2458-0 
  • 生出寿『戦艦「大和」最後の艦長 海上修羅の指揮官』光人社NF文庫、1996年。 
  • 原勝洋『真相・戦艦大和ノ最期 写真と新資料で解明!』KKベストセラーズ、2003年7月。ISBN 4-584-18757-6 
  • 原勝洋『日米全調査 決戦戦艦大和の全貌』アリアドネ企画、2004年。ISBN 4-384-03389-3 
    レイテ沖海戦における大和艦隊の実態、巻末付九四式四十糎砲塔兵器学教科書。
  • 辺見じゅん『決定版 男たちの大和』(角川春樹事務所ハルキ文庫、2004年)上巻 ISBN 4-7584-3124-8 下巻 ISBN 4-7584-3125-6
  • 秋元健治『戦艦大和・武蔵 そのメカニズムと戦闘記録』現代書館、2008年。ISBN 978-4-7684-6976-7 
  • 久山忍『戦艦大和最後の証言』(産経新聞出版、2010)#坪井大和を小中学生向けに再編したもの。

証言集

海底探査記録

図録

その他

  • 宇垣纏著、成瀬恭発行人『戦藻録』原書房、1968年。 
  • 草鹿龍之介『連合艦隊参謀長の回想』光和堂、1979年。 
  • 古村啓蔵回想録刊行会編『海の武将-古村啓蔵回想録』原書房、1982年2月。ISBN 4-562-01216-1 
  • 松永市郎『次席将校 『先任将校』アメリカを行く』光人社、1991年4月。ISBN 4-7698-0556-x{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  • 国見寿彦著、河原崎勇監修『海軍軍医の太平洋戦争 防空駆逐艦秋月』近代文藝社、1992年。ISBN 4-7733-1675-6 
  • 豊田穣『世界史の中の山本五十六 歴史を動かした英雄たちの研究』1992年12月。ISBN 4-7698-0642-6 
  • 立花譲『帝国海軍士官になった日系二世』築地書館、1994年。 
  • 堀元美『造船士官の回想(上)』朝日ソノラマ文庫、1994年8月。ISBN -4-257-17284-3 
  • 堀元美『造船士官の回想(下)』朝日ソノラマ文庫、1994年8月。ISBN -4-257-17285-1 
  • 千早正隆『元連合艦隊参謀の太平洋戦争 千早正隆インタビュー 東京ブックレット17』東京新聞出版局、1995年8月。ISBN 4-8083-0544-5  千早は坊ノ岬沖海戦時の連合艦隊参謀。他、候補生退艦者のインタビュー収録。
  • 駆逐艦雪風手記編集委員会『激動の昭和・世界奇跡の駆逐艦 雪風』駆逐艦雪風手記刊行会、1999年9月。 
  • 淵田美津雄奥宮正武『機動部隊』学研M文庫、2008年。ISBN 978-4-05-901222-1 

ウェブサイト

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08030323300「昭和16年12月1日〜昭和16年12月31日 呉鎮守府戦時日誌(1)」
    • Ref.B06050106300「2.昭和十三年 一九三五年開催ノ海軍軍縮会議一件/帝国ノ建艦計画公表拒否関係」
    • Ref.C08030566400『昭和20年4月6日〜昭和20年4月7日 軍艦大和戦闘詳報』。 
    • Ref.C08030103000『昭和20年2月1日〜昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。 
    • Ref.C08030103100『昭和20年2月1日〜昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。 
    • Ref.C08030103200『昭和20年2月1日〜昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。 
    • Ref.C08030147700『昭和19年11月1日〜昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(8)』。 
    • Ref.C08030147800『昭和19年11月1日〜昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(9)』。 

脚注

  1. ^ a b #大和と日本人85頁
  2. ^ 防諜上の目的から、当時は40cm砲と偽装されていた。
  3. ^ 最上型巡洋艦の主砲を15.5cm砲から20.3cm砲に換装するときに撤去した15.5cm砲を使っている。
  4. ^ 全長に関してはアメリカ海軍のアイオワ級戦艦のほうが長い。
  5. ^ 「昭和16年12月1日〜昭和16年12月31日 呉鎮守府戦時日誌(1)」p.30「一戦隊に大和を加ふ」
  6. ^ #秋元記録157頁
  7. ^ #スパー運命32頁
  8. ^ #大和と日本人9頁
  9. ^ #内藤レクイエム127頁
  10. ^ #内藤レクイエム128-129頁
  11. ^ #造船士官の回想 上197頁
  12. ^ #秋元記録25頁。#大和開発物語196頁では302-42-10mとしている。
  13. ^ #大和開発物語102頁
  14. ^ #栗原証言13頁、#大和開発物語121頁
  15. ^ #大和開発物語122-124頁
  16. ^ #吉田 大和と武蔵131-133頁
  17. ^ #世界史・山本五十六41頁
  18. ^ #世界史・山本五十六42頁
  19. ^ #大和開発物語206-207頁「秘密主義の功罪をさぐる」
  20. ^ #大和開発物語128頁、#原 大和全貌137頁
  21. ^ #栗原証言1頁、#大和開発物語127頁
  22. ^ #大和開発物語128頁
  23. ^ #大和開発物語128-129頁
  24. ^ #戦藻録(九版)21頁
  25. ^ #大和と日本人86頁、#戦藻録(九版)50頁
  26. ^ #内藤レクイエム130頁
  27. ^ #戦藻録(九版)80頁、#大和と日本人87-88頁
  28. ^ #戦藻録(九版)97頁
  29. ^ #原 大和全貌192頁、#戦藻録(九版)149頁
  30. ^ #戦藻録(九版)166頁、#大和と日本人104頁
  31. ^ #戦藻録(九版)169頁
  32. ^ #戦藻録(九版)177-178頁、#大和と日本人105頁
  33. ^ #栗原証言31頁、#吉田 大和と武蔵184-185頁
  34. ^ #栗原証言31-32頁、#機動部隊156頁
  35. ^ #大和開発物語249頁。松井宗明(大和通信長、大和電波探信儀訓令実験委員)談。
  36. ^ #栗原証言25頁
  37. ^ #雪風手記407頁。豊田義雄(大和→雪風)談。
  38. ^ #国見軍医48頁
  39. ^ #造船士官の回想 下177頁
  40. ^ #造船士官の回想 下176-180頁
  41. ^ #造船士官の回想 下180頁
  42. ^ #秋元記録159頁
  43. ^ #戦藻録(九版)321頁
  44. ^ #大和と日本人113頁
  45. ^ #戦藻録(九版)354頁
  46. ^ #栗原証言41頁 川潟光勇(艦橋防空指揮所見張員)
  47. ^ #大和と日本人119頁
  48. ^ #戦藻録(九版)365頁
  49. ^ #大和と日本人121頁
  50. ^ #大和と日本人128頁
  51. ^ #戦藻録(九版)415頁、#大和と日本人130頁
  52. ^ #大和に捧ぐ80頁。石田恒夫(主計長)談
  53. ^ #戦藻録(九版)418頁
  54. ^ #日米全調査80頁、#大和と日本人156-157頁
  55. ^ #日米全調査104頁
  56. ^ a b #能村慟哭152頁
  57. ^ #戦藻録(九版)420-421頁
  58. ^ #秋元記録212頁、 #日米全調査88-89頁
  59. ^ 「大和」艦橋から見たレイテ海戦」
    #日米全調査86頁
  60. ^ #秋元記録214頁、#日米全調査88-89頁
  61. ^ #戦藻録(九版)421頁、#秋元記録220頁、#日米全調査88頁
  62. ^ #秋元記録221頁、#日米全調査100-101頁
  63. ^ #能村慟哭153頁、#辺見/原 発見88頁、#岩佐レイテ136-137頁、#小板橋見張員139頁
  64. ^ #日米全調査203頁
  65. ^ 『レイテ戦記 上巻』P217)
  66. ^ #大和と日本人173-174頁
  67. ^ #日米全調査109頁、#大和と日本人171-172頁
  68. ^ #戦藻録(九版)423-426頁
  69. ^ #辺見/原 発見90頁、岩本正夫(主砲指揮所)談。
  70. ^ #戦藻録(九版)428頁、#大和と日本人180頁
  71. ^ #戦藻録(九版)429頁、#大和と日本人181頁
  72. ^ #大和と日本人191-192頁
  73. ^ #大和と日本人193頁
  74. ^ #大和と日本人195-196頁
  75. ^ #大和と日本人197頁
  76. ^ #栗原証言47頁、#原 大和全貌78頁、#大和に捧ぐ80頁
  77. ^ #坪井大和167頁、#岩佐レイテ 61-62頁、#辺見/原 発見89頁、#阿部特攻56頁
  78. ^ #戦藻録(九版)419頁,434頁、#大和と日本人135-136頁
  79. ^ #大和と日本人198-199頁,204-205頁
  80. ^ #大和と日本人206頁
  81. ^ ラッセル・#スパー運命176頁
  82. ^ 4月6日1545、豊田副武「帝国海軍部隊は陸軍と協力 空海陸の全力を挙げて沖縄島周辺の敵艦船に対する総攻撃を決行せんとす 皇国の興廃は正に此の一戦に結集し光輝ある帝国海軍海上部隊の伝統を発揚すると共に其の栄光を後昆に伝へんとするに外ならず 各隊は其の特攻隊たると否とを問わず愈々殊死奮戦敵艦隊を随所に殲滅し以て皇国無窮の礎を確立すべし」(片仮名を平仮名に)
  83. ^ #草鹿回想355頁、#栗原証言68頁
  84. ^ #戦藻録(九版)486頁
  85. ^ #スパー運命190-192頁
  86. ^ #日系二世35-36頁。大和には中谷邦夫ほか、矢矧には山田重夫、倉本重明少尉。
  87. ^ #スパー運命215-216頁
  88. ^ #原真相157-158頁
  89. ^ #栗原証言81頁
  90. ^ #スパー運命217-218頁
  91. ^ #スパー運命220頁
  92. ^ #栗原証言80頁
  93. ^ #能村慟哭65頁、#坪井大和187頁、#第2水雷戦隊詳報(2)p.26
  94. ^ #阿部特攻61頁、出雲雅成(上飛曹)。
  95. ^ #秋元記録244頁
  96. ^ #能村慟哭67-69頁
  97. ^ #栗原証言82頁。松岡一夫(涼月乗組員)、#辺見/原 発見103頁、竹重忠治(主砲指揮所)
  98. ^ #阿部特攻298-300頁、#戦藻録(九版)488頁
  99. ^ #海の武将152頁
  100. ^ #日系二世38頁
  101. ^ a b #スパー運命225頁
  102. ^ #スパー運命230頁
  103. ^ #能村慟哭68頁
  104. ^ a b c d #大和詳報(沖縄)p.5
  105. ^ #原真相171頁、#秋元記録251頁
  106. ^ #原真相172頁
  107. ^ #原真相180頁、#秋元記録251頁
  108. ^ #栗原証言87頁。藤原英美(第一艦橋三番見張員)
  109. ^ #大和檣頭下55頁
  110. ^ #能村慟哭84頁
  111. ^ #原真相209頁、#秋元記録251頁
  112. ^ #秋元記録252頁
  113. ^ #栗原証言88頁
  114. ^ #大和檣頭下54頁
  115. ^ #スパー運命255頁
  116. ^ #スパー運命258頁、#秋元記録252頁
  117. ^ #原真相179頁、#秋元記録255頁
  118. ^ #原真相181頁、#秋元記録255頁
  119. ^ #原/吉田満228-229頁
  120. ^ #原真相182頁
  121. ^ a b c d e f #大和詳報(沖縄)p.6
  122. ^ #原真相184頁
  123. ^ #原真相171頁
  124. ^ #大和檣頭下59頁
  125. ^ #大和に捧ぐ113頁、石田直義(主砲測距儀)。
  126. ^ a b #秋元記録259頁
  127. ^ #スパー運命276頁、#原真相171頁
  128. ^ #スパー運命278頁、原『真相・大和ノ最期』186頁
  129. ^ #スパー運命280頁
  130. ^ a b c #スパー運命281頁
  131. ^ #原真相185、188頁
  132. ^ #原真相189頁
  133. ^ #秋元記録261頁
  134. ^ #能村慟哭92頁、#秋元記録261頁
  135. ^ #秋元記録264頁、#第2水雷戦隊詳報(2)p.40、#第2水雷戦隊詳報(3)p.45
  136. ^ #原真相194頁、#秋元記録262頁
  137. ^ #原真相197頁、#秋元記録262頁
  138. ^ #能村慟哭94頁
  139. ^ #原真相157-160頁
  140. ^ #第2水雷戦隊詳報(3)p.27
  141. ^ a b c d #大和詳報(沖縄)p.7
  142. ^ #大和詳報(沖縄)p.8
  143. ^ #辺見/原 発見109頁、竹中茂(排水管制所工作隊)
  144. ^ #原/吉田満251頁、渡辺(見張長)談。
  145. ^ #大和 艦長333頁
  146. ^ #辺見/原 発見108頁、家田政六(主砲指揮所)談
  147. ^ #能村慟哭95-96頁、#秋元記録267頁
  148. ^ #能村慟哭97頁
  149. ^ #大和 艦長334頁、#辺見/原 発見112頁
  150. ^ #能村慟哭99頁
  151. ^ #能村慟哭100頁、#辺見/原 発見107頁、梅村清松(三番主砲砲員長)
  152. ^ #雪風手記380頁
  153. ^ #原/吉田満269頁
  154. ^ #原真相198頁、#秋元記録267頁
  155. ^ #スパー運命302頁
  156. ^ #秋元記録268頁
  157. ^ #原真相200、202頁
  158. ^ #秋元記録267頁
  159. ^ #原真相201頁
  160. ^ #原真相203頁
  161. ^ #原真相203-204頁
  162. ^ #能村慟哭105頁、#辺見/原 発見110頁、浅羽満夫(航海科、第一艦橋)
  163. ^ #大和 艦長337頁、#辺見/原 発見138頁・#大和に捧ぐ87頁、石田恒夫(伊藤副官)談。
  164. ^ #阿部特攻45頁、中尾(高射砲付。防空指揮所)談。
  165. ^ #第2水雷戦隊詳報(2)p.42
  166. ^ #能村慟哭110頁、#秋元記録270-271頁
  167. ^ #大和 艦長338頁、#栗原証言94頁
  168. ^ #大和 艦長343-344頁、#辺見/原 発見112頁
  169. ^ #能村慟哭104頁、#大和檣頭下24頁
  170. ^ #大和檣頭下63-64頁
  171. ^ #栗原証言104頁、#辺見/原 発見113頁
    両冊とも、大村茂良(右舷後部応急員)の証言。
  172. ^ #スパー運命307頁
  173. ^ #原真相205頁
  174. ^ #大和詳報(沖縄)p.8、#第17駆逐隊詳報(9)p.11
  175. ^ #第2水雷戦隊詳報(2)p.42、#第2水雷戦隊詳報(3)pp.24.27、#第17駆逐隊詳報(9)p.31
  176. ^ #スパー運命309頁、#第2水雷戦隊詳報(2)p.41
  177. ^ #第2水雷戦隊詳報(2)p.48、#第2水雷戦隊詳報(3)p.24
  178. ^ 戦史叢書』「沖縄方面海軍作戦」による。
  179. ^ 『大和ミュージアム常設展示図録』による。
  180. ^ #第2水雷戦隊詳報(2)p.57
  181. ^ #秋元記録270頁、#第2水雷戦隊詳報(2)pp.57-58
  182. ^ #大和と日本人243頁
  183. ^ #栗原証言127頁
  184. ^ #朝日探査179頁、マルコム・マグルーダー談
  185. ^ #栗原証言98頁
  186. ^ #原真相 207頁
  187. ^ #能村慟哭117頁
  188. ^ a b c #朝日探査157頁
  189. ^ #朝日探査185頁
  190. ^ #栗原証言85頁、#阿部特攻39頁「敵第一波艦上機約二〇〇機を迎撃、雲低く天我に組せず」
  191. ^ #阿部特攻57頁
  192. ^ #阿部特攻40頁、#原/吉田満22頁
  193. ^ #栗原証言96頁
  194. ^ 青山智樹『戦艦大和3000人の仕事』48頁、#阿部特攻40頁
  195. ^ #海の武将148頁
  196. ^ 青山智樹『戦艦大和3000人の仕事』44頁、#辺見/原 発見93頁:塚本高夫(艦長伝令)・石田直義(15m測距儀)等
  197. ^ #栗原証言96頁
  198. ^ #大和 艦長346頁
  199. ^ #阿部特攻65頁・#小板橋下士官164頁、石田恒夫(主計少佐)
  200. ^ #阿部特攻50頁
  201. ^ #能村慟哭100頁
  202. ^ #阿部特攻46頁
  203. ^ a b c #原/吉田満260頁
  204. ^ #秋元記録272頁、#原/吉田満260頁
  205. ^ #原真相201頁
  206. ^ #原真相213頁
  207. ^ #秋元記録290頁
  208. ^ #能村慟哭36-37頁、#第2水雷戦隊詳報(2)p.59
  209. ^ #第17駆逐隊詳報(9)p.78
  210. ^ a b c d #阿部特攻21頁、#第2水雷戦隊詳報(2)p.6
  211. ^ #原/吉田満19頁
  212. ^ #千早インタビュー55頁
  213. ^ #大和と日本人208頁
  214. ^ #大和と日本人213頁
  215. ^ #大和と日本人214頁
  216. ^ #草鹿回想355-356頁
  217. ^ #栗原証言61-62頁
  218. ^ #栗原証言62頁
  219. ^ #草鹿回想355頁、#栗原証言63頁
  220. ^ #坪井大和173-174頁、#辺見/原 発見97頁
  221. ^ #坪井大和168頁
  222. ^ #千早インタビュー59頁
  223. ^ #坪井大和180頁
  224. ^ #原/吉田満367頁
  225. ^ #栗原証言127-128頁
  226. ^ #大和詳報(沖縄)p.13
  227. ^ #朝日探査72頁、#雪風手記381頁
  228. ^ a b c d #朝日探査183頁「戦艦『大和』沈没現況図」
  229. ^ #朝日探査172頁
  230. ^ #朝日探査170、182頁
  231. ^ #朝日探査82、170頁
  232. ^ a b #朝日探査170頁
  233. ^ #朝日探査184頁
  234. ^ NHK特集『海底の大和、巨大戦艦四十年目の鎮魂』にて放送
  235. ^ #朝日探査88、156-157頁
  236. ^ #朝日探査115-116頁
  237. ^ #辺見/原 発見170頁「幻のフィルム」
  238. ^ #次席将校23-24、99頁
  239. ^ #次席将校98頁

関連項目

外部リンク

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