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2019年2月17日 (日) 19:34時点における版

ザ・ピーナッツ
デュオ歌手
基本情報
別名 ピーナッツ
出身地 日本の旗 日本愛知県知多郡常滑町(現・常滑市
ジャンル 和製ポップス
歌謡曲
(最初期には一部民謡も歌唱)
活動期間 1959年2月11日 - 1975年4月5日
レーベル キングレコード
事務所 渡辺プロダクション
メンバー 伊藤エミハーモニー
伊藤ユミメロディー

ザ・ピーナッツ (The Peanuts) は、日本双子の元女性歌手デュオ)、女優である。愛知県知多郡常滑町(現・常滑市)生まれ、同県名古屋市育ち[注 1]。略称「ピーナッツ」。

発売したシングル、LPの累計売上は1000万枚以上に達する。

人物

略歴

生い立ち

愛知県知多郡常滑町(現・常滑市)生まれ。ただしすぐに転居し、子供-学生時代は同県名古屋市で過ごす。

愛知県名古屋市立西陵商業高等学校(現・名古屋市立西陵高等学校)を2年生の時に中途退学後、主に名古屋市内などで「伊藤シスターズ」名義で歌っていたが、1958年に同市内のレストランにて渡辺プロダクション社長渡邊晋にスカウトされ[注 2]上京。同社長宅に下宿しつつ宮川泰に師事し、歌唱レッスンを受ける[注 3]

デビュー

1959年2月11日、「第2回 日劇コーラスパレード」で歌手デビュー、4月、「可愛い花」でレコードデビュー。事務所はデビューより引退まで16年間一貫して渡辺プロダクションに所属、レコード会社は各社の争奪戦となり、ビクターレコード[注 4]と契約寸前まで達したが逆転され1959年4月2日キングレコード契約した。

1959年6月17日から1970年3月31日までフジテレビ系の歌謡番組『ザ・ヒットパレード』のレギュラーに抜擢される。

その後1961年6月4日から1972年10月1日まで日本テレビ系の人気バラエティー番組『シャボン玉ホリデー』でメイン司会を務めた。

夜のヒットスタジオ』には1969年(昭和44年)1月13日に初出演(曲は「ガラスの城」)して以来、約6年間の間に40回に渡り出演。まだ「歌謡バラエティ」の色が強かった夜ヒットにおける常連歌手の一組であり、『シャボン玉ホリデー』での経験から当時の人気コーナー「歌謡ドラマ」にも率先して参加した。引退前最後の出演となった1975年(昭和50年)3月31日放送では番組史上初の「サヨナラ」企画[注 5]が組まれ、ハナ肇坂本スミ子伊東ゆかり中尾ミエ、こまどり姉妹ら歌手・タレント仲間が数多く駆けつけ「情熱の花」や「心の窓にともし灯を」など計4曲を熱唱した。

日本国外でも活躍し、『エド・サリヴァン・ショー』(アメリカ)や『カテリーナ・バレンテ・ショー』(当時の西ドイツ。現・ドイツ)、『ダニー・ケイ・ショー』(アメリカ)[3]にも出演したことがある。

また女優活動も少ないながらも行っており、映画などにも数作出演。中でもモスラでの「小美人」役は現在もなお人気が根強くある。

和製ポップス[注 6]海外公演などによって世界に広めた功績は大きく、特に当時の東西両ドイツやイタリアでは、日本の歌手と言えば即座に「ザ・ピーナッツ」と連想されるほどの活躍振りも高く評価された[4]

引退

1975年2月18日に当時東京都千代田区有楽町三信ビルヂングにあった渡辺プロダクション社屋[注 7]にて記者会見を開き、現役を引退することを表明(1972年頃より引退を検討していた)した。

同年3月31日には番組開始時より数多く出演をした「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ系)にて引退記念特集「さよならピーナッツ」[注 8]が組まれ、続く4月5日にはNHKホールにおいて、高橋圭三司会で「さよなら公演」を興行。[注 9]

この時、渡辺プロの主要タレントがほぼ総出で見届けていた。なお、このさよなら公演は3月から4月に掛けて大阪京都名古屋でも行われていた。同公演を最後に芸能界を引退。[注 10]以後はほぼ公の場には姿を現すことはなかった[注 11]

最終公演

引退後

姉の伊藤エミは1975年6月4日に同じ所属事務所であった元・ザ・タイガース沢田研二結婚し、ハナ肇宅の隣に居を構えていた。その後1男を出産するが、1987年1月離婚した。

ニッポン放送(JOLF)で、1961年(昭和36年)から1965年(昭和40年)にかけて、その名も『ザ・ピーナッツ』というタイトルで、伊藤姉妹がDJを務めていたラジオ番組の音源(放送日のデータは不明)が発見されたのをきっかけに、番組中で歌唱した曲(未発表曲10曲を含む)を集めてコンパクトディスク化したアルバムを、キングレコードが2008年(平成20年)11月26日に発売した[5]

2005年12月23日より2006年1月15日まで東京都千代田区にある丸ビル「渡辺プロダクション創立50周年企画 「抱えきれない夢」 日本のエンターテインメントの50年」が開催され、会場内の「ザ・ピーナッツコーナー」の展示品に、さよなら公演で使用されたマイクが伊藤エミ・ユミの提供により展示されていた。

2012年6月15日、姉:伊藤エミが死去[6]。およそ4年後の2016年5月18日には妹:伊藤ユミが死去した[7]

2016年9月7日、生誕75周年を記念して森高千里華原朋美、メンバーに吉田美和を擁するユニットFUNK THE PEANUTSら全12組が参加した自身初となるトリビュート・アルバムザ・ピーナッツ トリビュート・ソングス」とオリジナル音源を収録したコンピレーション・アルバム「ザ・ピーナッツ オリジナル・ソングス」の2枚が同時リリースされた[8]

名付け親

グループ名は元・日本テレビの敏腕プロデューサー井原高忠がグループ名、2人の芸名ともに名付けた。井原はのちにとんねるずの芸名も名付けている。また、個人の芸名を付けたのは渡邊晋である[9]

伊藤エミとユミの相違点

双子の見分け方

ほくろのある方が姉の伊藤エミ、ない方が妹の伊藤ユミ(最初期は妹のユミもマジックで付けほくろをしてた)。

双子の性格の違い

姉のエミは本人によればおっちょこちょい、妹のユミによれば優しいが短気で周りによるとドジ気味。妹のユミは姉のエミによると冷静で素直。

歌のパート

ハーモニーが姉の伊藤エミ、メロディーが妹の伊藤ユミで歌うのが通常のパターンである。

エピソード

出演

主なテレビ番組

  • 魅惑の宵(初レギュラー番組)
  • ザ・ヒットパレード
  • シャボン玉ホリデー

ラジオ番組

映画

また、2003年の映画『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』でもライブフィルムでワンカット出演している。

音楽

シングル

カヴァー・ポップス作品

  • 可愛い花(デビュー曲)/南京豆売り(1959年4月)
  • キサス・キサス/チャッキリ・チャ・チャ・チャ(1959年6月)
  • 情熱の花[10]/米山さんから(1959年9月)
  • 乙女の祈り/ばってん、ばってん、ばってんてん(1960年2月)
  • 悲しき16才[11]/心の窓にともし灯を(1960年4月)
  • 月影のナポリ[12]/白鳥の恋(1960年7月)
  • パパはママにイカレてる[13]マイ・ホーム・タウン[14](1960年10月)
  • ジングル・ベル/サンタクロースがやってくる(1960年10月)
  • 清しこの夜/別れのワルツ(1960年10月)
  • ルナ・ナポリターナ[15]/バイアの小道(1960年12月)
  • 17歳よさようなら/二人はしあわせ(1961年3月)
  • しあわせがいっぱい/マッダレーナおばあさん(1961年5月)
  • スク・スク[16]/カカオの瞳(1961年8月)
  • ペピト/ヘロー・メリー・ルー(1961年9月)
  • コーヒー・ルンバ[17]/シンデレラ(1962年1月)
  • イエロー・バード/急がば廻れ(1962年1月)
  • 君去りし夜/あなたなんかもういや(1962年4月)
  • 夕焼けのトランペット/ローマの恋[18](1962年5月)
  • モスコーの夜は更けて/初恋のところ(1962年7月)
  • イエスサリー/グッド・ラック・チャーム(1962年8月)
  • さいはての慕情/ジョニー・エンジェル(1962年9月)
  • レモンのキッス/恋のジューク・ボックス[19](1962年12月)
  • 祇園小唄/深川くずし(1963年1月)
  • 夜霧に泣くブルース/トンボラ(1963年3月)
  • 悲しきカンガルー[20]/ノン・ムッシュ(1964年1月)
  • 赤いダイヤ(藤田まこと)/好きになっちゃっちゃった(共演:藤田まこと)(1964年9月)
  • 二人の恋人は?/スーヴェニール・東京(1965年3月)
  • かわいい小鳥/ブルーレディーに紅バラを(1965年8月)
  • 乙女の涙/明日になれば(1965年12月)
  • シュガー・キャンディー/スパニッシュ・フリー(1966年8月)

オリジナル作品

# 発売日 レコード番号 A面

B面

タイトル 作詞 作曲 編曲 備考
1960年代
1 1961年6月 EB-7030 A面 インファントの娘[21] 池すすむ 宮川泰
B面 草原情歌(中国民謡) 竜俊南 青山梓 宮川泰
2 1961年8月 EB-535 A面 今池音頭 高橋掬太郎 飯田三郎 宮川泰
B面 お城音頭(インストゥルメンタル) 飯田三郎 宮川泰
3 1961年8月 EB-570 A面 あれは十五の夏祭り 岩谷時子 宮川泰
B面 スク・スク・ドール 青島幸男 中村八大 宮川泰
4 1962年2月 EB-7072 A面 いつも心に太陽を 横井弘 中田喜直 宮川泰
B面 山小屋の太郎さん 岩谷時子 宮川泰
5 1962年2月 EB-7075 A面 ふりむかないで 岩谷時子 宮川泰
B面 アテネの恋唄 岩谷時子 宮川泰
6 1962年5月 EB-7088 A面 私と私[22] 永六輔 中村八大
B面 幸福のシッポ 永六輔 中村八大
7 1962年10月 EB-7150 A面 手編みの靴下 岩谷時子
竹内伸光
宮川泰
B面 二人の高原
8 1963年1月 EB-807

KO6S-434

A面 若い季節[23] 永六輔 桜井順 宮川泰
B面 わたしの心はうわのそら
9 1963年4月 EB-7196 A面 恋のバカンス 岩谷時子 宮川泰
B面 チャオ
10 1963年5月 SB-914 A面 舞妓はん音頭[24] 岩谷時子 宮川泰
B面 わてら祇園の舞妓はん
11 1963年11月 EB-987 A面 東京たそがれ 岩谷時子 宮川泰
B面 こっちを向いて
12 1964年3月 BS-7003 A面 キャンディー・ムーン 安井かずみ 宮川泰
B面 ドミニク
13 1964年5月 B5-9 A面 ジューン・ブライド 岩谷時子 宮川泰
B面 ほほにかかる涙 ボビー・ソロのカバー
14 1964年9月 BS-7039 A面 青空の笑顔 安井かずみ 宮川泰
B面 ポエトリー 安井かずみ 東海林修
15 1964年9月 BS-7040 A面 ウナ・セラ・ディ東京[25] 岩谷時子 宮川泰 東海林修
B面 知らなかった
16 1964年11月 BS-7053 A面 マイ・ラヴ 安井かずみ 宮川泰
B面 ブーベの恋人 漣健児 Carlo Rusticheli 東海林修
17 1965年3月 BS-7085 A面 かえしておくれ今すぐに[26] 藤田敏雄 いずみたく 宮川泰
B面 ドンナ・ドンナ 安井かずみ 宮川泰
18 1965年7月 BS-7102 A面 あなたの胸に 安井かずみ 宮川泰
B面 私を愛して
19 1966年5月 BS-7141 A面 愛は永遠に 岩谷時子 宮川泰
B面 花のささやき 音羽たかし 宮川泰
20 1966年10月 BS-515 A面 ローマの雨 橋本淳 すぎやまこういち 服部克久
B面 銀色の道 保田茂 宮川泰
21 1967年5月 BS-641 A面 東京ブルー・レイン 有馬三恵子 鈴木淳 宮川泰
B面 しあわせの花を摘もう NHK・TV「夢をあなたに」より
22 1967年8月 BS-692 A面 恋のフーガ なかにし礼 すぎやまこういち 宮川泰
B面 離れないで 橋本淳 筒美京平 宮川泰
23 1968年2月 BS-778 A面 恋のオフェリア なかにし礼 宮川泰
B面 愛のフィナーレ なかにし礼 宮川泰
24 1968年6月 BS-838 A面 恋のロンド 橋本淳 すぎやまこういち 宮川泰
B面 愛への祈り 橋本淳 すぎやまこういち 宮川泰
25 1968年10月 BS-917 A面 ガラスの城 なかにし礼 鈴木邦彦 森岡賢一郎
B面 たった一度の夢 岩谷時子 宮川泰
26 1969年3月 BS-958 A面 悲しきタンゴ なかにし礼 すぎやまこういち 宮川泰
B面 愛しい人にさよならを なかにし礼 すぎやまこういち
27 1969年7月 BS-1028 A面 哀愁のヴァレンティーノ なかにし礼 すぎやまこういち 宮川泰
B面 夕陽に消えた恋 なかにし礼 すぎやまこういち 宮川泰
28 1969年9月 BS-1075 A面 野いちご摘んで 山口あかり 田辺信一 小谷充
B面 ついて行きたい 山口あかり 田辺信一 小谷充
1970年代
29 1970年3月1日 BS-1157 A面 男と女の世界 山上路夫 沢田研二 クニ河内
B面 しあわせの誓い 山上路夫 沢田研二 クニ河内
30 1970年7月 BS-1235 A面 東京の女 山上路夫 沢田研二 宮川泰
B面 愛が終わったとき
31 1970年12月 BS-1300 A面 大阪の女 橋本淳 中村泰士 森岡賢一郎
B面 青白いバラ 山上路夫 沢田研二 宮川泰
32 1971年5月 BS-1380 A面 なんの気なしに 山上路夫 沢田研二 宮川泰
B面 北国の恋
33 1971年10月 BS-1442 A面 サンフランシスコの女 橋本淳 中村泰士 高田弘
B面 ロンリー香港
34 1972年3月 BS-1505 A面 リオの女 橋本淳 中村泰士 高田弘
B面 恋のカーニバル
35 1972年8月 BS-1584 A面 さよならは突然に 山上路夫 鈴木邦彦
B面 夜行列車
36 1973年2月 BS-1636 A面 指輪のあとに 安井かずみ 加瀬邦彦 馬飼野俊一
B面 最終便
37 1973年7月 BS-1734 A面 情熱の砂漠 山上路夫 加瀬邦彦 星勝
B面 あの時、もし
38 1974年1月 BS-1789 A面 気になる噂 山上路夫 加瀬邦彦 星勝
B面 ひとり暮し
39 1974年4月 BS-1827 A面 愛のゆくえ 荒木とよひさ 加瀬邦彦 宮川泰
B面 さよならは微笑んで
40 1974年9月 BS-1868 A面 お別れですあなた 千家和也 すぎやまこういち
B面 季節めぐり
41 1975年3月 BS-1917 A面 浮気なあいつ 山口洋子 宮川泰
B面 よこがお
42 1978年5月 TV-41 A面 モスラの歌[27] 関沢新一
田中友幸
本多猪四郎
古関裕而
B面 インファントの娘 池すすむ 宮川泰

シングル以外

みんなのうた

NHKの『みんなのうた』で歌った楽曲を記述。

CMソング

コマーシャルソングの一部を記述。

など。

放送番組向けソング

民謡

民謡関連の一部の曲目を記述。

など。

クリスマスソング

その他

支えた裏方達

ザ・ピーナッツ担当のマネージャーは基本的に幹部候補生を数名抜擢した。これらの担当者は後年、渡辺プロで、あるいは独立し、それぞれが芸能界で大成している。

主なマネージャー

NHK紅白歌合戦出場歴

  • NHK紅白歌合戦には1959年(第10回)から引退前年の1974年(第25回)まで16回連続で出場。実の兄弟姉妹としては史上初めて出場。また、兄弟・姉妹による16回連続出場という記録も持つ。
年度/放送回 曲目 出演順 対戦相手 備考
1959年(昭和34年)/第10回 情熱の花 07/25 和田弘とマヒナ・スターズ
1960年(昭和35年)/第11回 2 悲しき16才 11/27 和田弘とマヒナ・スターズ(2)
1961年(昭和36年)/第12回 3 スク・スク 19/25 ダーク・ダックス
1962年(昭和37年)/第13回 4 ふりむかないで 05/25 ダーク・ダックス(2)
1963年(昭和38年)/第14回 5 恋のバカンス 22/25 デューク・エイセス
1964年(昭和39年)/第15回 6 ウナ・セラ・ディ東京 24/25 坂本九 トリ前(1)
1965年(昭和40年)/第16回 7 ロック・アンド・ロール・ミュージック 21/25 デューク・エイセス(2)
1966年(昭和41年)/第17回 8 ローマの雨 16/25 ジャッキー吉川とブルーコメッツ
1967年(昭和42年)/第18回 9 恋のフーガ 22/23 アイ・ジョージ トリ前(2)
1968年(昭和43年)/第19回 10 ガラスの城 06/23 西郷輝彦
1969年(昭和44年)/第20回 11 ウナ・セラ・ディ東京(2回目) 20/23 フランク永井
1970年(昭和45年)/第21回 12 東京の女 03/24 野村真樹
1971年(昭和46年)/第22回 13 サンフランシスコの女 18/25 堺正章
1972年(昭和47年)/第23回 14 さよならは突然に 11/23 ビリー・バンバン
1973年(昭和48年)/第24回 15 ウナ・セラ・ディ東京(3回目) 12/22 上條恒彦
1974年(昭和49年)/第25回 16 ブギウギ・ビューグル・ボーイ 20/25 布施明
  • 対戦相手の歌手名の()内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある()はトリ等を務めた回数を表す。
  • 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。
  • 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。

その他

  • ハナ肇とクレージーキャッツザ・ドリフターズとともに最強時代のナベプロを築き上げていた功績が評価されている。
    なお、クレージーとの共演は比較的多かったものの、ドリフとの共演はほとんどない。特に志村けん加入後の後者との共演は茶の間に出回っている出典に残る範囲では1975年(昭和50年)正月新春かくし芸大会と前述の「さよなら公演」(ただしドリフは会場で出迎えをしたのみ)、8時だョ!全員集合でのゲスト出演が数回ある程度である(書籍「芸能ビジネスを創った男 〜渡辺プロとその時代〜」の表紙裏のページに1975年(昭和50年)の新春かくし芸大会の写真が掲載されている)。
  • 上記のような縁もあってか、ハナ肇が1993年に他界する直前にはハナの弟子であるなべおさみと共に看病に当たっていた[28]。ハナは伊藤姉妹が見舞うたびに笑顔で「いつも済まないねえ」「おとっつぁん、それは言わない約束でしょ」と『シャボン玉ホリデー』のコントのセリフを繰り返していたという。
  • 同じ双子の歌手であったこまどり姉妹とはデビューした年も同一であったこともあり、公私共に交流があった。
  • 1966年(昭和41年)発売の園まりのシングル「逢いたくて逢いたくて」は、ザ・ピーナッツが1962年(昭和37年)に発売したシングル「手編みの靴下」が元歌である。
  • 「シャボン玉ホリデー」の番組タイトルを「ピーナッツ・ホリデー」にする事が有力であったが、スポンサー側の意向で立ち消えとなった。この為、テレビ番組に於けるザ・ピーナッツの冠番組は、現役時代には1番組も存在しなかった。

ザ・ピーナッツを演じた女優

参考文献

脚注

注釈

  1. ^ 中日新聞1975年3月30日朝刊の名古屋でのさよなら公演の記事によると小学生時代に名古屋市中区西大須に転居したとある。
  2. ^ 最初は名ドラマーとして知られたジミー竹内が渡邊に紹介したという。
  3. ^ 社長宅には当時、事務所の先輩である浜村淳なども下宿していた。
  4. ^ 当時は独立した会社ではなく日本ビクターの一部門であった。
  5. ^ その後、山口百恵南沙織ピンク・レディー石野真子高田みづえ森昌子などの引退・解散時にも行われ、同番組の名物企画となった。
  6. ^ 現代風に言えば「J-POP」と称される事もある。但し、若干意味合いが異なると定義されている。
  7. ^ 2009年現在は渋谷区内に移転している。
  8. ^ これが同番組での「サヨナラ」企画第1号とされている。ザ・ピーナッツは夜のヒットスタジオには通算40回出演している
  9. ^ この当時は歌手の引退コンサートはまだ一般的ではなかった。また歌手として史上初めてのさよならコンサートとも言われている。
  10. ^ その後同年4月13日の「さようならザ・ピーナッツ」、また同年5月25日に「最後の最後のザ・ピーナッツ」が日本テレビで放送されたが「さよなら公演」等のVTRを主としたものであり、ザ・ピーナッツは直接出演はしていない。
  11. ^ 例外として1975年6月4日の比叡山延暦寺に於ける結婚式では一部メディアで報道されていた(1987年1月の離婚時は不明)。また1987年1月に渡辺晋が死去した際、渡辺の葬儀には例外的に公の場に姿を現している。
  12. ^ 後に日産自動車に吸収合併され現在会社は存在しないが、現在も日産販売店系列の名称に「日産プリンス」という形で名称が残っている。

出典

  1. ^ スポニチ (2012年6月28日). “伊藤エミさん死去 沢田研二と離婚 慰謝料は18億円超も沢田姓で通す”. 2012年6月28日閲覧。
  2. ^ “双子デュオ ザ・ピーナッツの伊藤ユミさん死去 75歳”. ORICON STYLE. (2016年7月11日). http://www.oricon.co.jp/news/2074871/full/ 2016年7月11日閲覧。 
  3. ^ ダニー・ケイ・ショーに出演して・・・☆ピーナッツ・ホリデー☆
  4. ^ ドイツで人気者 ザ・ピーナッツ☆ピーナッツ・ホリデー☆
  5. ^ ザ・ピーナッツ未発表曲10曲がCD化 サンケイスポーツ 2008年9月20日閲覧
  6. ^ “「ザ・ピーナッツ」伊藤エミさんが死去”. スポーツ報知. (2012年6月27日). オリジナルの2012年6月27日時点におけるアーカイブ。. http://archive.is/9Z7oh 2014年5月1日閲覧。 
  7. ^ ザ・ピーナッツの伊藤ユミさん死去、75歳,デイリースポーツ,2016年7月11日
  8. ^ 特設サイト”. ザ・ピーナッツ トリビュート. 2016年7月1日閲覧。
  9. ^ 「ザ・ピーナッツ シングルス〜モスラの歌〜」(40周年記念CD)解説書
  10. ^ 歌詞は2種類存在している、オリジナルはカテリーナ・ヴァレンテ英語版
  11. ^ オリジナルはキャシー・リンデン
  12. ^ 森山加代子との競作、オリジナルはイタリアの歌手ミーナ
  13. ^ 森山加代子との競作。ただし歌詞違いであるので完全な競作ではない。また森山加代子版は題名が「パパはママがお好き」である。オリジナルはカテリーナ・ヴァレンテ
  14. ^ ダニー飯田とパラダイスキングとの競作。ただし歌詞違いであるので完全な競作ではない。またダニー飯田とパラダイスキング版は題名が「恋のホームタウン」である。
  15. ^ 坂本九、西田佐知子、松島トモ子、島田マリとの競作。ただし歌詞違いであるので完全な競作ではない。また坂本九版は題名が「夢のナポリターナ」、松島トモ子版は「夢のナポレターナ」、島田マリ版は「夢のナポリターノ」である。
  16. ^ ダニー飯田とパラダイスキングとの競作。ただし歌詞違いであるので完全な競作ではない。またパラキン版は題名が「パラキンのスクスク」である。
  17. ^ 西田佐知子との競作。ただし歌詞違いであるので完全な競作ではない。
  18. ^ すぎやまこういち初のザ・ピーナッツソング作曲。
  19. ^ 森山加代子、ベニ・シスターズとの競作。
  20. ^ ダニー飯田とパラダイスキングとの競作。
  21. ^ 東宝映画「モスラ」の挿入歌として使用されたが、劇中歌唱版とは曲の構成が異なっている。
  22. ^ 東宝映画「私と私」の主題歌として使用された。
  23. ^ NHKの同名のテレビドラマ、及び東宝の同名の映画の主題歌として使用された。
  24. ^ 東宝映画「若い仲間たち うちら祇園の舞妓はん」の主題歌として使用された。
  25. ^ 1963年にリリースした「東京たそがれ」を再アレンジした楽曲。
  26. ^ 当時未解決だった「吉展ちゃん誘拐殺人事件」の犯人に向けて作られた楽曲。
  27. ^ 東宝映画「モスラ」の主題歌として使用されたが、映画公開当時の1961年にレコードリリースは無かったため、映画公開から実に17年越しのリリースとなった。
  28. ^ 野々山葉子『幸せだったね、ハナちゃん』(1994年9月、扶桑社、ISBN 4-594-01520-4)、なべおさみ『病室のシャボン玉ホリデー ハナ肇最期の29日間』(書籍版:文藝春秋社、2008年。文庫版:イースト・プレス、2014年、ISBN 9784781671222)より。

関連項目

外部リンク