日本美術
日本美術(にほんびじゅつ)は、工芸( 漆工、金工、陶芸、七宝、染織工芸等)、彫刻、絵画、書道から漫画やアニメなど幅広い分野と種類によって構成される。日本美術は、日本に人間が住み始めた紀元前10000年頃から現在まで長い歴史をもっている。
概要
[編集]日本の芸術文化は、歴史的に見ると新文化あるいは外国の考えが突然流入してくる時期があり、その後に海外との接触がほとんどない時期が続くということを繰り返している。年月を経て日本人は外国文化の要素を吸収し、真似、そして同化して日本独特の美的嗜好を完成させる能力を身につけた。日本における最初の複雑な美術は仏教と密接に関連付けられたもの(仏教美術)で、7、8世紀頃に生まれた。9世紀になり、日本が次第に中国と距離を置き、自国の表現方法を生み出し始めると、今度は非宗教的な美術に重点が置かれた。10世紀から12世紀までの国風文化と院政期文化の時代には、日本人好みの文化「和様」が洗練されていった。寝殿造の和様建築には浄土教の影響を受けた浄土式庭園が造成された。禅宗が盛んになる13世紀中期以降は枯山水が流行し、15世紀後期まで、仏教美術と非宗教美術の双方ともが繁栄した。応仁の乱(1467年-1477年)後100年以上にわたり、日本では政治的、社会的、そして経済的に分裂した戦国時代に突入した。
徳川幕府が治める江戸時代に入ると、組織的宗教は人々の生活にはほとんど影響を及ぼすことはなくなり、残った美術は非宗教的なものばかりであった。日本庭園は、17世紀初期より大名の広大な邸宅に回遊式庭園が造られるようになった。
絵画は日本では良質な芸術表現として好まれ、専業画家だけでなく文化人も同じように制作を行い作品を残している。現代に至るまでは日本人はペンよりも筆をよく用い、古くから筆になじんでいたため、絵画の美しさや価値に敏感だった。
江戸時代に民衆が経済力を持ち通俗画が人気となるにつれ、浮世絵と呼ばれる木版画が主要な芸術手段となり、浮世絵の技術は日刊新聞から教科書にいたるまで用途にぴたりとあった色彩豊かな作品を生み出した。この時期の日本人は彫刻を芸術的な表現として好まなくなっていた。というのは、日本の彫刻の大部分は宗教と密接につながっており、伝統的な仏教が次第に力を持たなくなり、通俗的文化などそれ以外の分野に展開していかなかった彫刻は衰退していった。
日本の陶芸は優れており、日本文化においても長い歴史がある。輸出用磁器は様々な時代において大きな産業であった。漆器も世界有数の芸術工芸品の一つで、蒔絵で豪華に装飾された作品はヨーロッパや中国に輸出され、19世紀まで重要な輸出品であった。螺鈿と呼ばれる象嵌技術は奈良時代に中国より伝わり、中国では廃れたのちも日本で発展し、独自の芸術となった。陶磁器のことをchinaと呼ぶように漆器はjapanと呼ばれるようになり、戦前まで日本を代表する芸術の一つとなった。日本建築においては、天然素材と建物の外部と内部の空間の調和へのこだわりという日本人の嗜好がよく現れている。
明治に入り西洋の文化が導入され、今までの大和絵や唐絵、墨絵といった従来の絵画に、西洋画が加わった。それに伴い従来の日本独自の絵画表現が、西洋画に対抗して日本画 [1]と名付けられた。 日本画は従来あった絵画様式を継承しながらも、新しい絵画の領域が誕生したが、世界美術の中の日本画の位置づけはまだ確立していない。今までの大和絵や浮世絵と同列に認識されている。
日本美術の歴史
[編集]縄文美術
[編集]最初の日本列島の住人である縄文人(紀元前14500年頃~紀元前1000年頃)は、狩りや漁撈を生活の中心に据えた狩猟民であったが、のちに集団農業を行い、日本各地に大小の集落を形成した。「縄文」という名称は彼らの土器に刻まれた縄の模様にちなんでつけられたものである。縄文人は竪穴建物に住み、食べ物を料理したり貯蔵するための土器、土偶やヒスイや瑪瑙による装飾品(勾玉など)を作っていた。
弥生美術
[編集]次にやって来た移民集団は弥生人である。彼らは紀元前350年頃、日本列島に到着し、水田稲作の文化と金属器の生産技術をもたらし、銅矛、銅鐸、銅鏡を作り輪積みで形作られ野焼き焼成された弥生土器を使用した。
古墳美術
[編集]日本の先史時代の第3段階である古墳時代 (西暦250年頃~646年前後)には、国内の発展や外的要因による弥生文化の変革が起きる。この時代は、墳墓の文化と、これらに付随し作られた銅鏡や埴輪と呼ばれる素焼き土器などの工芸品が最も注目に値する。古墳時代を通じて、古墳は丘の頂上や尾根に建てられた小さな墓から平地に建てられたはるかに大きな墳墓へと進化した。日本最大の古墳である大仙陵古墳は鍵穴のような形をしており、この形状は古墳に見られる独特な特徴である。
飛鳥美術、奈良美術
[編集]飛鳥時代と奈良時代は、それぞれ政権の本拠地が現在の飛鳥村に542 年から645年まであり、784年までは現在の奈良市にあったことからこのように名付けられ、この時代に初めて大陸アジア文化が日本に流入した。
仏教が伝来し、中国と日本の文化的接触が始まった。日本人は、中国文化を自国文化に有益に取り入れられる側面をよく理解した。それは、思想や音声を文字に変換する方法、歴史学、効率的な官僚制度などの複雑な政治理論、そして芸術にとって最も重要な新しい建築技術、より高度な青銅鋳造法、そして新しい絵画技術と道具や支持体である。
しかし7世紀から8世紀にかけて、日本とアジア大陸との接触の主な焦点は仏教の発展だった。仏教が日本に正式に伝来した552年から都が奈良から遷都された784年までの詳細な年度、さまざまな視点からそれらの期間に当てはめる適切な名称については専門家の間でも統一見解はない。最も一般的な名称は、推古時代 (592~628年)、飛鳥時代(593~710年)、および天平時代 (729~749年) である。
日本の最古の仏像彫刻は6世紀から7世紀のものである。[2]これらの仏像の特徴である、流れるような衣服の模様と写実的な表現は、西暦1世紀から3世紀のガンダーラのギリシャ仏教美術に源流を持ち[3]、そこに中国の芸術的特徴が重ね合わさっている。中国の北魏仏教美術が朝鮮半島に浸透した後、様々な移民集団によって仏教を象徴するものが日本にもたらされた。[4]特に広隆寺の弥勒菩薩像や中宮寺の菩薩半跏像に代表される弥勒菩薩半跏思惟像は高度に発達した古代ギリシャの芸術様式が日本に伝わり取り入れられたものである。[5] 多くの歴史家は、朝鮮を単純に仏教伝来の中継地点として説明している[6]が、朝鮮半島の三国時代、特に百済は、538年または552年の仏教公伝によって積極的な役割を果たした。[7]これらは紀元後数世紀にわたるシルクロード芸術の伝播の終着点であることを示している。他に日本の風神図[8] 、仁王像 [9] 、寺社の古典的花柄模様装飾などの発展を例として挙げることができる。[10]
現存する世界最古の木造建築物である法隆寺は、奈良の南西に位置する仏教建築物である。7世紀初頭に聖徳太子の私寺として建てられ、数多くの建造物によって構成され、世界遺産の構成資産に指定されているものだけでも48棟ある。[11]最も重要な拝殿である金堂と五重塔は、屋根の付いた廻廊に囲まれた境内の中央に建っている。金堂は中国の拝殿の様式で、柱梁構造の2階建てで、その上の屋根は陶瓦の入母屋と呼ばれる切妻屋根と寄棟造の組合せられた構造になっている。
金堂内部の大きな長方形の台座には、この時代の最も重要な彫刻がいくつかある。中央の像は釈迦三尊像(623年)で、両脇に2体の菩薩を配した銅像であり、亡くなった聖徳太子に敬意を表して仏師鞍作止利(7世紀初頭に活躍)によって作られた。基壇の四隅に650年頃に木彫の四天王立像が安置されている。法隆寺には、金堂を模した玉虫厨子も納められている。装飾に玉虫の羽を使用していることからこの名がある。内部は漆を混ぜた絵の具で描かれた神将像や菩薩立像などの仏画が描かれている。
8世紀の寺院建築は奈良の東大寺を中心に行われた。全国に広がる国分寺の中心をなす東大寺は、日本の仏教史の初期数世紀に建てられた最も壮大な寺院である。本堂である大仏殿に祀られている高さ14.7メートルの仏像(752年完成)は、東大寺が天皇が支援する仏教とその日本全国への普及の中心地であることを示す、仏陀の真髄を表す盧舎那仏である。幾度の焼失により創建当時の像の断片はわずかに残るのみで、現在の堂内と中央の仏像は江戸時代に再建されたものである。
なだらかな丘の中腹にある大仏殿の周囲には、数多くの仏堂が集まっている。乾漆で作られた不空羂索観音像を本尊として安置する法華堂、塑像による壮大な四天王のがある戒壇院、そして正倉院がある。正倉院は美術史的な保管場所として非常に重要です。その中には、政権の公文書や多くの世俗的な文書だけでなく、天皇の献納品や752年の東大寺大仏開眼供養で使用された器具が保管されており、美術史的にも非常に重要な宝庫となっている。
彫金は金属を彫り、打ち、削り彫刻や工芸を行う芸術技法で、日本では奈良時代に始まったと考えられている。[12][13]
平安美術
[編集]794年、都は平安京に遷され (現京都)、1868年まで日本の首都となった。平安時代は、794年から源平の乱ののち鎌倉幕府が成立する1185年までの期間を指す。この時代はさらに平安前期と平安後期(藤原時代)に分けられ、重要な年は894年で、この年に遣唐使が廃止された。
前期平安美術: 奈良の仏教の富と権力が増大する一方、僧侶の空海(弘法大師、774年-835年)は中国に渡り、大乗仏教の一形態である密教を学び、806年に日本に帰国、その後真言宗を開いた。真言信仰の中核となる精神的宇宙を表現した図が曼荼羅で、寺院の設計に影響を与えた。日本の仏教建築は、もともとインドの建築形式である仏塔を中国風の塔の中に取り入れていった。
新しい宗派のために建てられた寺は、朝廷や都の在家から遠く離れた山中に建てられた。山奥という不規則な地形のため日本の建築家は寺院建設の問題を再考せざるを得なくなり、より従来の日本固有の意匠要素を選択、追加していくことになった。陶瓦の屋根は檜皮葺の屋根に置き換えられ、土床の代わりに木の板が使用され、僧坊である本坊が金堂の前に追加された。
初期の平安真言寺院の精神を最もよく反映しているのは、現在の奈良市から南東に位置する檜林の奥深くに位置する室生寺(9世紀初頭)である。室生寺の別棟弥勒堂に安置されている釈迦如来坐像(これも9世紀初頭)は、さざ波が広がるように大小の波が交互に広がる翻波式で彫刻された厚い布のひだで覆われた重々しい体と、厳粛で内向的な表情を持ち、平安初期の彫刻の典型である。
藤原美術:藤原時代には、阿弥陀仏への信仰によって安易な救いを求める浄土信仰が流行した。藤原時代とは、当時最も権力を持っていた藤原家が天皇の摂政として統治し、事実上の独裁者となったことにちなんで名付けられた。同じく京都の貴族は権勢を誇り、貴族社会は優雅な美の追求と発展を行うことができた。貴族社会は安寧で優雅で、浄土が示す世界に近いものであると感じられた。彼ら貴族は、世俗的なものと宗教的なものを融合させ、貴族の邸宅から転化した寺院に仏像を安置し、浄土を想起させるよう大きく池をアプローチした新しい形式の仏殿である阿弥陀堂、及び浄土式庭園を築いた。
京都の南東、宇治市にある平等院鳳凰堂(1053年完成)は、阿弥陀堂の代表的建築である。大きな人工池の端に建てられた長方形の主棟と、その両側にL字型の両翼廊と尾廊がある。内部には、高い基壇の上に金色の阿弥陀如来坐像(1053年頃)が安置されている。像は定朝の作で、これまでにない丸みを帯びた優美な造形と表情、また複数の木片によって分割し組み上げる新しい技法(寄木造)が用いられている。堂内の扉及び壁に描かれた壁扉画には九品来迎図がある。九品来迎図は阿弥陀如来が多くの菩薩衆とともに西方極楽浄土から降りてきて、死者の魂を蓮の花に乗せて極楽浄土に連れて行くさまを描いたものである。これは大和絵の初期の例であり、京都周辺の風景が描き込まれている。
絵巻:平安時代の最後の世紀に、絵巻と言われる横長の絵付き物語巻物が登場した。平安末期の作の源氏物語絵巻は、現存する最古の大和絵巻物であり、日本絵画の最高傑作の一つである。
絵巻の内容となる源氏物語は、1000年頃一条天皇の皇后に女官として仕えた紫式部によって書かれた小説で、源氏の生涯と愛、そして源氏の死後の平安宮廷の世界を扱っている。12世紀の絵巻物の作者は、各場面の情景を視覚的に伝える絵画と文章を交互に配置し、舞台をわかりやすく伝えるよう屋根と天井を取り去った室内描写形式を生み出した。19世紀後半には、巻物から製本された形になりより生き生きとした連続した物語の挿絵となった絵入源氏物語が人気を博した。宮廷の陰謀を扱った絵巻物である『伴大納言絵詞』(12世紀後半)では、素早い筆遣いと鮮やかな色彩で描かれた活発な動きの人物、経過する時間と場面を一つの画面に収めた画法が特筆に値する。
絵巻はまた、男絵と女絵の絵画様式の最も初期かつ最大の例でもある。2つの様式には多くの細かい違いがあり、それぞれの性別の嗜好に訴えるものだ。両者の違いで最も簡単に気づくのは、主題の違いである。源氏物語絵巻に代表される女絵は、通常宮廷生活、特に女官を題材にし、ロマンチックなテーマを扱う。男絵は歴史上の出来事、特に戦いが記録されることが多かった。平治物語絵巻の「三条殿焼討」に描かれた三条御所攻囲戦(1160年)はこの様式の有名な例である。
鎌倉美術
[編集]1180年、最も強力な2つの武家である平氏と源氏の間で争乱が勃発した。5年後源氏が勝利し、海辺の村鎌倉に事実上の政権を確立し、1333年まで政権を維持した。権力が貴族から武士階級に移行したため、芸術は新しい顧客を満足させる必要が生じた。戦争の技術に専念する人々、読み書きのできない庶民に対し仏教を広めることに専念する僧侶、そして朝廷の権力の衰退を残念に思う保守派、貴族、僧侶の一部である。つまり写実主義、大衆化の傾向、古典の復興が鎌倉時代の芸術の特徴である。鎌倉時代、政権は移っても京都と奈良は依然として芸術作品の制作と高度な文化の中心地であり続けた。
彫刻: 慶派の彫刻家、特に運慶は、より写実的な新しい様式の彫刻を生み出した。奈良の東大寺南大門にある二体の金剛力士像(1203年)は、運慶のダイナミックで写実的な様式をよく表している。高さ約8.5メートルのこの像は、複数の木から彫られており、わずか2か月で仕上げられた。これは、名匠の指導の下で職人が作業する工房による分業制が発達していたことを示している。大乗仏教の伝説的なインドの賢人、無著と世親を表した運慶の多色木彫(1208年 奈良 興福寺)は、この時代で最も完成度の高い作品の1つであり、写実的でありながら非常に個性的な運慶の作品として信憑性のある像となっている。この時代を代表する作品の一つに、運慶の後継者である快慶が作らせた浄土寺(小野市)の阿弥陀三尊立像(1195年完成)がある。
書画、絵巻物:
新羅の高僧の伝記伝承を元に描かれた[14]『華厳宗祖師絵伝』は、鎌倉絵画の大衆化の傾向を示す好例である。奈良時代の最も重要な宗派の一つである華厳宗は、浄土宗の台頭により苦境に立たされていた。治承・寿永の乱(1180~1185年)の後、高山寺の明恵上人は宗派の再興と、争乱で未亡人となった女性たちの避難所の提供に努めた。武士の妻たちは、仮名文字以上のものを学ぶことを許されておらず、ほとんどの女性は漢文を読むことができなかった。
華厳宗祖師絵伝は、かな文字による「せりふ」が登場人物の横に書かれ、このように絵と文章が組み合わせた表現は現代の漫画に通じる技法である。華厳宗を創始した二人の韓国僧侶の生涯を描いたこの絵巻の筋書きは、テンポが速く物語性に満ちている。
より伝統的な文脈を持つ作品としては紫式部日記絵巻がある。彼女の小説の絵巻物はその後も制作され続けたが、リアリズムへの新たな関心に敏感でありながらも富と権力の時代を懐かしむ貴族たちは、紫式部の時代の華やかさを再現するために日記を復活させ、絵入りにした。紫式部の宮仕えの日々が描かれている。
室町時代の芸術
[編集]室町時代(1338年~1573年)は足利時代とも呼ばれ、日本文化に大きな変化が起こった。足利氏が幕府を掌握し、京都北小路室町に花の御所を造営し、政権の本拠地を京都に戻した。政権が京都に戻ると鎌倉時代の大衆化の傾向は終わり、文化表現はより貴族的でエリート主義的な性格を帯びるようになった。6世紀に中国で発展した禅宗は、奈良時代~平安時代に一度日本に伝来していたが、道元、栄西らにより再び日本に伝わり、はじめて定着した。
絵画: 禅寺が組織した世俗的な事業や中国への貿易使節団のおかげで、多くの中国絵画や美術品が日本に輸入され、禅寺や幕府で働く日本の芸術家に深い影響を与えた。
遣唐使廃止後も僧侶は中国と交流を認められていたため中国の書画、陶磁器といった美術品が持ち込まれ、また規制が徐々に緩み日宋貿易が盛んになったため、多くの中国の書画や美術品が日本に輸入され、それらは禅寺や上級武士、日本の芸術家に深い影響を与えた。 これらの輸入は絵画の主題を変えただけでなく、色の使用法も変えていった。流行は大和絵の明るい色彩から中国風の単色の水墨画の画調に移っていった。中国の絵画は通常、白黒または単色のグラデーションしかないためである。
初期の室町美術の代表は、絵師の可翁(14世紀初頭に活動)による、伝説の人物寒山を描いた墨画である。水墨画は、素早い筆遣いと細部描写を最小限に留めて描かれる。僧侶で絵師の如拙(1400年頃活動)による「瓢鮎図」(15世紀初頭、京都妙心寺退蔵院)は、室町美術の転換点を示す作品である。もともとは低い衝立用に描かれたこの作品は、同時代の31人の禅僧による画賛が添えられ掛け軸として再表装されており、讃は禅の公案に対して漢詩で答えている。前景には、小川の岸辺で小さな瓢箪を持ち、大きくて滑るような鯰を眺めている男性が描かれている。中景には霧が立ち込め、背景の山々ははるか遠くに見える。1413年頃に制作されたこの絵画の様式は、絵画の平面内に深い空間を描き出すという中国的な表現に手前に人物を大きく入れたもので、それまでにない表現となっている。
室町時代で最も優れた画家は、禅僧で画僧の周文と雪舟である。相国寺で如拙に画を学んだ周文は、竹斎読書図(1447年)で空間に深く沈み込んだ写実的な風景画を描いた。雪舟は、当時のほとんどの画家と異なり、中国に渡り、中国絵画の源流を学び、また大陸の広大な自然に触れた。四季を通じて連続する風景を描いた「四季山水図巻(山水長巻)」(1486年頃)は 、雪舟の最高傑作として名高い。
安土桃山時代の美術
[編集]安土桃山時代(1573年~ 1603年)は、織田信長、豊臣秀吉といった有力大名が、約100年続いた戦国時代に終止符を打ち、日本に平和と政治的安定をもたらそうとした。元は小領主であった信長は、1568年に事実上の政権を掌握するほどの権力を獲得し、5年後には最後の将軍足利義昭を追放し、室町幕府は終焉を迎えた。信長の死後、秀吉が中央政権を掌握したが、豊臣家による権力の継承は、1603年に徳川幕府を開いた家康によって阻止された。
絵画:桃山時代の最も重要な絵画の流派は狩野派であり、この時代最大の革新は狩野永徳に始まる、部屋を囲む襖に伝説的な風景を描く様式であった。大徳寺の塔頭である聚光院の庭に面した主室の装飾は、現存する永徳の特徴を最もよく表した作品である。巨大な梅の木と一対の松が、対角の角にある一対の襖に描かれており、枝は左右に伸びて襖だけでなく隣接する面につながっている。同じく京都にある永徳の「唐獅子図屛風」は、武士が好んだ大胆で明るい色彩の絵画様式を示している。
永徳と同時代の長谷川等伯は、大画面の金碧障壁画や屏風図などに永徳とは異なるより装飾的な様式を生み出した。京都の智積院に所蔵されている『楓図』では、木の幹を中央に置き、枝を構図の端近くまで伸ばし、永徳よりも平面的で構造的ではないが、視覚に訴える華やかな絵画を創り上げた。六曲一双の『松林図屏風』は、霧に包まれた木立を墨絵で見事に表現した傑作である。
江戸時代の美術
[編集]徳川幕府は、1603 年に長期安定政権を目指し国内の完全な統制権を獲得し、おおむね成功を収めた。幕府は1867年まで存続し250年以上政権を維持したが、西洋諸国からの開国圧力に対処できずに開国を余儀なくされ、ほどなく政権を手放すこととなった[15]。江戸時代の特色の一つは、幕府の鎖国政策、市民への抑圧、それに反抗する芸術家というものがある。鎖国に加え、衣服、結婚相手、従うべき活動など、生活のあらゆる側面に影響を及ぼす厳格な行動規範を課していた。
しかし、江戸時代初期には幕府の政策の影響はまだ完全には浸透しておらず、京都の桂離宮や琳派の先駆者である俵屋宗達の屏風絵など、日本の建築と絵画における最も優れた表現のいくつかが生み出された。
木版:木版印刷は、11世紀から19世紀にかけて一般的な印刷方法だった。もともと、8世紀の日本で仏典を翻訳するために木版が印刷に利用されていた。木版は、版木に文字や絵を彫り、それを紙に押し付ける凸版印刷である。8世紀には、木版は文章を複製するための便利な印刷技術であると考えられていたが、さらなる革新により多色刷りが行えるようになり、錦絵として知られるようになった。錦絵は、18世紀の裕福な俳諧人たちの間でよく交換されていた大小暦と呼ばれる絵暦の制作に使われた。趣向を凝らし技術を競ったため多色刷りの技術が飛躍的に高まった。明暦の大火(1657年)以降町人の経済力が高まり、風俗画の発展に繋がった。風俗画は木版画と結びつき、浮世絵と呼ばれ江戸期を通じて発展していく。これらの浮世絵は、遊郭の情景、歌舞伎、美人画、役者絵など庶民から見た多様な風俗を描いている。
建築:桂離宮の敷地は源氏物語に登場する桂殿の跡地と目され、源氏物語の叙景を取り入れ[16]建てられた。古典建築から発展し江戸初期以降に広がりを見せる書院造の建物が並び、回遊式庭園と呼ばれる庭園全体を巡る形式を持つ美しいこの庭園は日本庭園の傑作と言われている。江戸時代に多くの有力大名が領国に回遊式庭園を造り、美しさを競った。
屏風絵:俵屋宗達は、金箔の背景に鮮やかな色彩の人物や自然、古典文学を題材とし、装飾性の高い優れた作品を生み出した。彼の最高傑作の一つは「松島図屏風」(フリーア美術館、ワシントンD.C.)である。1世紀後、光琳は宗達の様式を継承・発展させ、独自の華麗な作品を残した。最高傑作は「紅白梅図屛風」である。宗達の時代から離れ、師弟関係や直接伝承によらず光琳へ、また酒井抱一へと継承されていくこの芸術潮流を琳派と呼ぶ[17]。
彫刻:修験僧の円空が円空仏と呼ばれる12万体の木彫りの仏像を残した。荒削りな部分やノミの痕、木目を残し木の存在感とともに微笑する仏像が特徴となっている。
浮世絵と南画(文人画):海外で最もよく知られている日本の芸術は浮世絵や木版画で、歌舞伎の世界や遊郭など庶民文化を題材にしている。浮世絵は17世紀後半に始まり、1765年に鈴木春信が錦絵と呼ばれる最初の多色刷りの版画を制作した。鳥居清長や喜多川歌麿など、次の世代の版画家たちは、優雅で、時には洞察力に富んだ遊女の描写を生み出した。
19世紀には葛飾北斎と歌川広重が突出した存在で、広重は叙情的でいくぶん感傷的な風景画を得意とした。広重が風景を眺める際に用いた特徴的な角度や形、また平面と強い直線の輪郭を強調した清長や歌麿の作品は、後年エドガー・ドガやフィンセント・ファン・ゴッホといった西洋の芸術家に大きな影響を与えた。大英博物館に所蔵されている作品を通じて、これらの作品は後にエズラ・パウンド、リチャード・オールディントン、H.D.などの初期モダニズムの詩人たちが用いたイメージや美的アプローチに強い影響を与えることになる。[18]
浮世絵と同時代の絵画の潮流として南画、あるいは文人画があり、中国の知識人階級(文人)が描いた絵を基にした様式である。浮世絵師が徳川幕府の規制の外の生活を描いたのと同様に、文人画家は中国文化に目を向けた。南画の代表的作家として、池大雅、与謝蕪村、田能村竹田、山本梅逸が挙げられる。
陶芸:陶器の様式は古来より幾度もの改良が加えられ発展してきた。江戸時代には、野々村仁清、尾形乾山に代表される色絵陶器を中心とした優雅な京焼が一世を風靡した。また1590年代の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の過程で捕らえられたか移住を説得された大規模な朝鮮人陶工の流入により、江戸時代の初め頃に大きな発展があった。朝鮮人陶工は有田(佐賀県)に定住し、より正確な高温制御を可能にする、大窯と呼ばれる大型登り窯をもたらした。1620年頃までに彼らは磁器の原料となる陶石を発見し、日本で初めて磁器を作り始めた。初期の磁器(初期伊万里)は焼き方の技法として朝鮮独特の工法が用いられ、また染付の技法や意匠は中国由来のものがあった。
1650年代後半、中国の内紛にまつわる政策の影響で、中国から景徳鎮を輸入出来なくなったオランダ東インド会社は有田焼を大量に注文し、日本の磁器産業は大きく拡大した。当時、日本での貿易はオランダのみ取引を許可されていた。日本の磁器輸出の第1期は1740年代頃まで続き、日本の磁器の大部分は輸出用に作られ、主にヨーロッパ向けであったが、イスラム世界にも輸出された。日本の陶磁器は世界でも最高級品と言える。
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色絵飛鳳文輪花鉢(初期色絵)東京国立博物館
漆器:経済や文化の発展とともに、漆器の芸術性も向上した。本阿弥光悦や尾形光琳は琳派の図案を漆器に取り入れた。江戸中期からは薬入れ用の印籠や硯箱などに蒔絵や螺鈿細工を施した華やかな装飾が施されるようになり、武家や町人階級の裕福な商人の間で人気を博し、幕末には実用品から美術コレクションへと変化した。[19][20]漆器の輸出は安土桃山時代以降も続いた。この時代の漆器の蒐集家としてはマリー・アントワネットやマリア・テレジアが知られている。[21]
蒔絵は漆を使い金粉・銀粉で描画する技法で、平安時代に技術が渡来して以降、特に日本で発展を遂げてきた。江戸時代により複雑で高度な技法が完成し成熟期を迎えた。
明治時代~第二次世界大戦前までの日本美術
[編集]1868年に王政復古により天皇が政権を取り戻し、開国を行うと日本は再び、これまでにない非日本的な文化に晒されることとなった。西洋の文化的価値観の導入により、芸術だけでなく、日本の文化のほぼすべての側面において、日本の伝統的な価値観と、さまざまな海外の制度や価値観を複製して同化しようとする試みとの間で二分化が起こった。この分裂は20世紀後半まで強く続いたが、その頃にはすでに多くの統合が起こり、国際的な文化的土壌が形成され、現代の日本の芸術はこれまで以上に革新的な様式へと変容を遂げることになる。
明治期の美術の特徴は、絵画・彫刻分野での欧米文化の受容と、陶芸・織物など工芸分野の輸出産業としての発展、それに伴う高度化、精緻な細密工芸技術の発展がある。後者は産業の衰退に並行して技術も衰退し、高度な工芸技術の最盛期が明治時代となり現代では再現不能となってしまった技術もある。
明治政府は美術品輸出市場に積極的な関心を示し、1873年のウィーン万国博覧会を皮切りに、次々と世界博覧会で日本美術を宣伝した。[22][23]政府は博覧会に多額の資金を提供するだけでなく、日本文化を世界に紹介する取り組みにも積極的に関わった。美術品の輸出を促進し商業化するために半官半民の会社である起立工商会社を設立し[24]、品質基準を維持するために博覧会事務局を設立した。[23]。1876年にアメリカ独立100周年を記念して開催されたフィラデルフィア万国博覧会では、日本政府は西郷従道を最高責任者として日本家屋のパビリオンを建て、伝統工芸品、特に陶磁器、絹織物などの展示により、同博覧会の金牌賞を獲得した。それまで後進国とみなされていた日本への国際的評価を非常に高めた。皇室も美術工芸品に積極的な関心を示し、下賜品のための「お買上」だけでなく美術作品保護のためにもお買上が行われた。[25]1890年には、優れた芸術家を表彰する帝室技芸員制度が創設され、1890年から1944年までに79名が任命された。これらの中には、画家で漆芸家の柴田是真、陶芸家の宮川(真葛)香山、画家の橋本雅邦、彫刻家の高村光雲、七宝作家の並河靖之などがいた。
西洋からの輸入品が人気を博すにつれ、日本国内では日本美術の需要が減少した。[26]ヨーロッパやアメリカでは、日本美術が新たに入手可能になったことで日本文化への関心がより高まり、ジャポニスムと呼ばれる流行となった。[27]皇室の支援、政府の後援、新しい観客への宣伝、そして西洋の技術が相まって、日本の芸術革新の時代が始まった。装飾芸術において、日本の芸術家たちは技術的な洗練度の新たなレベルに到達した。[28]
現在、村田理如は1万点を超える明治美術作品を所有しており、最も熱心な蒐集家の一人である。当時から明治美術の優れた作品の多くは海外の蒐集家に買われ、日本国内にはごくわずかしか残っていなかったが、彼が海外から多くの作品を買い戻し、清水三年坂美術館を開設したことで、21世紀に入ってから日本でも明治美術の研究と再評価が急速に進んだ。[29]ナセル・ハリリもまた世界で最も熱心な明治美術蒐集家の一人で、彼のコレクションは多くの分野の明治美術を網羅している。日本の皇室も明治美術の優れた作品を所有しており、そのいくつかは国に寄贈され、現在は皇居三の丸尚蔵館に収蔵されている。
建築と庭園
[編集]小川治兵衛によって多くの芸術的な新しい日本庭園が造られた。無鄰菴が代表的で、それまで池を海に、岩を島に見立てるような庭園から、あたかも里山の一部を切り出したような景観にダイナミックな水流をあしらった庭園へと、日本庭園の潮流そのものを変えるインパクトを与えた。
20世紀初頭までに、ヨーロッパの建築技術と様式が広く導入され、現在も残る東京駅や国会議事堂などの著名な洋風建物が生まれた。日本建築は木材を主としていたが、東京駅はレンガ造りであり、国会議事堂は鉄筋コンクリートに外装は花崗岩の石積みで、どちらも多くの国内資材を使って作られた。他に帝冠様式と呼ばれる鉄筋コンクリートの棟に瓦屋根を乗せた様式、西洋館から派生して既存技術と折衷していった和洋折衷建築、既存の建築技術を持った大工棟梁が洋風建築を真似て建てた擬洋風建築など、西洋建築の影響を受けた建築様式は都市部を中心に既存技術と融合しながら広がっていった。
絵画
[編集]日本人が西洋の芸術形式に対してとった第一の反応は、心のこもった受容であり、1876年に工部美術学校が開校し、フォンタネージらイタリア人教師を雇って西洋の手法を教えた。二番目の反応は、岡倉天心とアメリカ人アーネスト・フェノロサが先頭に立って、西洋美術の受容と同時に日本美術の世界への波及を見据え、彼らは日本の芸術家に対し、伝統的なテーマと技法を保持しながらも、より現代の嗜好に合った作品を作るよう奨励した。この戦略は、第一次世界大戦に至るまでの数年間、カルカッタ、ロンドン、ボストンにまで日本美術の影響を広げることにつながった。[30]ヨーロッパと東アジアに由来するこれら2つの芸術理論の極から、洋画の対として日本画というカテゴリーが生まれ、これらは現在も使われている。
七宝
[編集]明治時代、日本の七宝焼きは技術的に頂点に達し、それまでのものより進んだものを生み出した。[31]オランダの技術を研究し、またドイツ人学者との共同研究により革新的な釉薬を開発、そこに絵画的要素を加え1890年から1910年は日本の七宝焼きの「黄金時代」と呼ばれた。[32]七宝焼は、伝統的な絵画に似た、あるいはそれを模倣したデザインを持つ、より絵画的な媒体として芸術的評価を高めた。[33] 花、鳥、昆虫を題材にした日本独自のデザインの七宝焼きが人気を博した。特に、並河靖之と濤川惣助の作品は万国博覧会に出品され、多くの賞を受賞した。 [34] [35] [36] [37] 2人のナミカワとともに、尾張七宝を牽引する安藤七宝製作所も高品質の七宝を数多く生産した。デザインと色彩における新たな成果により、日本の七宝は比肩するものがないと言われた。[38]
第二次世界大戦後、合成樹脂技術の高まりとともに七宝の需要は減り、それとともに技術も衰退していく。明治期の七宝は、現在では再現不能な表現となってる。
漆器
[編集]明治時代、漆器の分野も漆工たちが新しい意匠を生み出し、これまでにない質感や仕上げを試みるにつれ、漆への関心が再び高まった。[39] 蒔絵は、この時代の上級漆器の最も一般的な技法である。[40]柴田是真は、幕末から明治時代にかけて作品で高い評価を得た漆工である。江戸時代に作られた芝山漆器や杣田細工による漆器は、螺鈿や金、銀、象牙、色とりどりの金属やガラスを象嵌した華麗な様式は人気を博し、この時代に最盛期を迎えた。[41]日本の工房で作られた漆は、世界のどこで生産されるものよりも技術的に優れていると認識されていた。[42]
金属工芸
[編集]明治時代の初めには、それまで輸出されよく知られていた漆器や磁器とは異なり、日本の金属工芸品は国外ではほとんど知られていなかった。[43]金属細工は、例えば梵鐘や香炉に青銅が使われるなど仏教の実践と結びついていたため、仏教が国教から転落すると、そういった金属細工師が活躍する機会は少なくなった。[43]しかし、国際博覧会で日本の金属工芸品が新たな海外の観客の前に姿を現し、高い評価を得た。[43]刀剣の鍔や鎧装飾など武士の武器の歴史により、日本の金属細工師は幅広い色の金属仕上げを施す技術を持っていた。銅、銀、金をさまざまな割合で組み合わせて仕上げることで、赤銅や四分一などの特殊な合金が作られた。この多様な合金と仕上げにより、芸術家はフルカラー装飾のように仕上げることができた。[44]
これらの高い技術は、徒弟制度と口伝、個々の経験によって育てられた面が大きく、以後大きく発展していかなかったこともあり、製造方法が不明となり失われていった技術も少なくない。
象牙彫刻
[編集]明治時代になると和服が洋装化され着物を着る人が減ったため、象牙や木で根付やキセルを作る職人は需要がなくなった。そこで、室内装飾用の象牙彫刻という新たな分野が拓かれ、輸出用に精巧な作品が制作されたり、皇室に買上げられたりした。特に石川光明や旭玉山の作品は海外のみならず国内でも高い評価を得た。[45]
なお根付は江戸中期以降に発展し芸術性が高まり、明治以降の洋装化の浸透に伴い日本の国内需要低下に反して海外で評価が高かったため質の高い作品の多くは海外に流出することとなった。
陶磁器
[編集]明治時代の技術革新により、陶磁器は国際的に最も成功した日本の装飾芸術の一つとなった。[46]西洋で高く評価された陶器は薩摩焼で、「SATSUMA」の名で通っていた。薩摩焼はもともと薩摩地方の陶器に付けられた名前で、金箔と七宝で精巧に装飾されていた。西洋では明らかに日本的と見られていたこの焼き物は、実際には輸入顔料と西洋の影響を大きく受けており、小規模な薩摩の窯元ではさばききれず京都など諸地方で輸出を念頭に作られていた。[47]京都、大阪、東京等多くの都市の工房は、欧米の需要を満たすために「日本風」陶器の生産を競い合い、多くの場合、短期納品と低コストを優先し、高品質に重点を置かず生産した。そのため「Satsuma ware (薩摩焼)」という用語は生産地ではなく、純粋に輸出用に作られた低品質の陶器を指す呼称となっていった。[48]にもかかわらず、藪明山(英語)や宮川香山(真葛香山)などの芸術家は、最高の芸術的水準を維持しながら、輸出にも成功した。[49] 1876年から1913年にかけて、香山は万国博覧会や内国勧業博覧会など51の博覧会で賞を受賞した。[50]
織物
[編集]1902年版のブリタニカ百科事典は、「日本の装飾の天才が織物ほど魅力的な成果を挙げた応用芸術の分野は他になく、近年これほど目覚ましい進歩を遂げた分野もない」と記している。[51]京都では非常に大きくて色鮮やかな綴織が制作されていた。もともとグラデーション表現などに秀でた高い技術があった上に最新の染色技術が加わり、キアロスクーロや空気遠近法などのさまざまな西洋絵画技法を取り入れ、独自の芸術形式として発展を遂げた。[51]
脚注
[編集]- ^ 日本画は明治以降の日本独特の絵画領域 日本画家
- ^ 朝鮮の500年–1000年、 ハイルブロン美術史年表 メトロポリタン美術館 metmuseum.org Archived 2006-12-14 at the Wayback Machine.
- ^ 「言うまでもなく、ガンダーラやインドの仏教美術を通じてギリシャ美術が日本の仏教美術に影響を与えたことは、例えば、もともと典型的なギリシャ様式であった仏像の波打つ衣裳の比較などから、すでに部分的に知られていた」(田辺勝美『アレクサンドロス大王と東西文明の交流展』図録 p19)
- ^ 初期日本仏教彫刻に対する朝鮮の影響 buddhapia.com Archived 2011-01-11 at the Wayback Machine. 「朝鮮の仏教美術は中国の発展に直接基づいているので、最終的には日本に対する朝鮮の影響の研究は、中国が朝鮮に与えた影響の理解に根ざしていなければならないという明白な点を強調しなければならない。」 「北魏の領土は高句麗の領土に隣接していたため、北魏の朝廷で流行していた仏教の思想と美術が高句麗に直接流れたのは当然である。」 「また、百済も上記のように中国南部から直接影響を受けたが、高句麗から南の百済と新羅にかなりの影響を受けていたことも指摘する必要がある。」 「私は、公式の使節、僧侶、学生、およびそれ以外の朝鮮からの渡来人を含むさまざまな集団が、朝鮮から聖像や仏教を象徴するものを日本にもたらした源泉であると主張してきた。」
- ^ 「アルカイックスマイル」 ブリタニカ百科事典オンライン(英語版),2009, ウェブサイト: EB-Smile.
- ^ 朝鮮の500年~1000年 ハイルブロン美術史年表 メトロポリタン美術館 metmuseum.org Archived 2006-12-14 at the Wayback Machine.「この期間を通じて、朝鮮は日本への技術や思想の伝達において重要な役割を果たし続けた」
- ^ 韓国:宗教史 ジェームズ・ハントリー・グレイソン著
- ^ 「日本の風神像は、西洋の風神像とは別の伝統に属するものではなく、同じ起源を共有している。...これらの極東の風神像の特徴の1つは、この神が両手で持っている風袋であり、その起源はボレアース/オアドが身に着けているショールまたはマントにまで遡ることができる」(田辺勝美『アレクサンドロス大王と東西文明の交流展』図録、21ページ)
- ^ 「執金剛神の起源を説明する必要がある。この神は釈迦牟尼仏の守護神であり導き手である。その像はヘラクレス像をモデルにしている。…ガンダーラの執金剛神像は中央アジアと中国で変容し、その後日本に伝わり、そこで仁王像のレスラーのような像に様式的な影響を与えた。」(田辺勝美「『アレクサンドロス大王と東西文明の交流展』図録 23ページ)
- ^ 東京国立博物館の常設展示「日本の古代美術」では、西洋から東洋への花唐草文様の伝来が紹介されている
- ^ https://www.pref.nara.jp/secure/253850/WHJ03-1.pdf 奈良県 第3号
- ^ “Choukin (彫金)”. JAANUS(日本建築美術用語辞典). 2024年10月9日閲覧。
- ^ Frédéric, Louis; Roth, Käthe (2002). Japan Encyclopedia. ハーバード大学出版局. p. 120. ISBN 978-0-674-01753-5
- ^ 華厳宗祖師絵伝 - 博物館ディクショナリー- 京都国立博物館
- ^ 明治維新
- ^ https://kyoto-gosho.kunaicho.go.jp/katsura-rikyu 宮内庁-桂離宮について
- ^ 琳派という呼称自体は19世紀末以降の後代に付けられた呼び名である https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/20/2.html 琳派が「琳派」になるまで - 「本の万華鏡」第20回「本でたどる琳派の周辺」
- ^ アロースミス、ルパート・リチャード モダニズムと美術館:アジア、アフリカ、太平洋美術とロンドンの前衛芸術. オックスフォード大学出版局、2011年、全訳。 ISBN 978-0-19-959369-9
- また、アロースミス、ルパート・リチャード「モダニズムのトランスカルチュラル・ルーツ:イマジスト詩、日本の視覚文化、そして西洋の美術館システム」, Modernism/modernity 第18巻第1号、2011年1月、27-42ページ も参照。 ISSN 1071-6068
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- ^ Earle 1999, pp. 117–119.
- ^ 受賞経歴 宮川香山 眞葛ミュージアム
- ^ a b "Japan" in Encyclopædia Britannica (1902), Volume 29, pages 724–725.
参考文献
[編集]- WebMuseum Paris - Famous Artworks exhibition
- 議会図書館資料 Japan
- "The Diffusion of Classical Art in Antiquity" by John Boardman (Princeton University Press, 1994) ISBN 0-691-03680-2
- "Alexander the Great: East-West Cultural contacts from Greece to Japan" (NHK と 東京国立博物館, 2003)
- "De l'Indus à l'Oxus, Archéologie de l'Asie Centrale", Osmund Bopearachchi, Christine Sachs, ISBN 2-9516679-2-2
- "The Crossroads of Asia, Transformation in image and symbols", 1992, ISBN 0-9518399-1-8
- 日本美術全集(講談社)
- 原色現代日本の美術
- Earle, Joe (1999). 帝国日本の華麗なる明治美術 ハリリコレクションより(英語版). St. Petersburg, Fla.: Broughton International Inc. ISBN 1-874780-13-7. OCLC 42476594
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- Japanese Art Introduction. - Sanaz Mohadesiによる英文記事
- 東京国立博物館: Photographs from Japan Collection. Comprehensive collection from all periods.(リンク切れ)
- http://columbia.thefreedictionary.com/Japanese%20art
- 世界美術史における浮世絵
- 『新美術』12 - 日本の意匠をまとめた1901年の月刊誌の合本。