コンテンツにスキップ

フランク・ザッパ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フランク・ザッパ
エーケベリ・ホールでのオスロ公演にて(1977年)
基本情報
原語名 Frank Zappa
出生名 Frank Vincent Zappa
生誕 1940年12月21日
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
メリーランド州ボルチモア
死没
学歴 シャフィー・ジュニア・カレッジ(一学期のみ)
ジャンル
職業
担当楽器
活動期間 1955年 - 1993年
レーベル
共同作業者
公式サイト フランク・ザッパ公式サイト

フランク・ヴィンセント・ザッパ英語: Frank Vincent Zappa1940年12月21日 - 1993年12月4日)は、アメリカ合衆国シンガーソングライターマルチプレイヤー作曲家編曲家バンドマスターである。イタリア系アメリカ人。また生涯を通じて、アメリカ政府、共和党、キリスト教右派(キリスト教原理主義者)、検閲、音楽産業などを批判して、アメリカの問題点をきびしく指摘し続けた。支持政党は民主党。大統領選挙出馬が実現した場合は、民主党、もしくは独立系無所属での立候補の可能性もあった。青年期までカトリック信者だったが、後に無宗教となった。

1960年代の半ばから52歳で病没する90年代前半まで、前衛的なロックを演奏し、ツアーもこなしながら多数のアルバムを発表し、ロック・ミュージックとポピュラー音楽が表現可能な領域を拡大した。すなわち、前衛ロック、現代音楽ジャズ・ロッククロスオーバー、構築的な電子音楽、などのジャンルのポピュラー音楽的翻案に先鞭をつけ、なおかつR&Bドゥーワップブルースサイケデリック・ロック[注釈 1]ハード・ロックプログレッシヴ・ロックブルース・ロックフリー・ジャズレゲエディスコなどの音楽を取り入れた多様性を確保した作風を示した。その功績は広く認知され、1988年にはグラミー賞のベスト・インストゥルメンタル・パフォーマンス部門を受賞した。

ローウェル・ジョージ[注釈 2]ジョージ・デュークテリー・ボジオエイドリアン・ブリューウォーレン・ククルロ[注釈 3]スティーヴ・ヴァイマイク・ケネリーなど、後年著名となったミュージシャンを数多く輩出した。多くの作品を発表した上に、自作曲の再演やリアレンジも積極的に行った。その活動の活発さゆえ未発表テイクやライヴ音源が膨大に残されており、没後30年近く経った現在も、遺族によって年に複数の「新作」が発表されるほどである。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第45位、2011年の改訂版では第22位。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第71位。

来歴

[編集]

生い立ち

[編集]

1940年12月21日、フランク・ヴィンセント・ザッパ[注釈 4][9][10]は、メリーランド州ボルチモアで、フランシス・ヴィンセント・ザッパ(Francics Vincent Zappa、1905年 - 1973年)とローズ・マリー・ザッパ(Rose Marie Zappa、1912年 - 2004年)の第一子として誕生した[注釈 5][11]

フランシスは科学者で数学者でもあり、ザッパが生まれた時にはメリーランド州エッジウッドにあったアメリカ陸軍の兵器工場[注釈 6]に気象学者として勤務し[注釈 7][12]、一家はエッジウッドの陸軍官舎に住んでいた[13][14][注釈 8]1951年12月に一家はザッパの喘息療養のためカリフォルニア州サンフランシスコから100マイル南のモンタレーに転居した[15][16]。フランシスの仕事の都合で、一家はその後、ポモナエルカホンサンディエゴを転々とし、ザッパは15歳の時までに合計6つの学校に通った。

1956年、フランシスはモハーヴェ砂漠の西端に位置するアンテロープ・バレーエドワーズ空軍基地の近くにある連邦政府化学戦研究施設に勤務することになり[17]、一家はサンディエゴからランカスターに転居し、ザッパはアンテロープ・バレー・ハイ・スクールに転入した。フランシスは1956年から1959年まで最高機密情報を取り扱う適格性を問われるセキュリティ・クリアランスを受けた[18]。一家はこの空軍基地の近くに暮らしたため、事故に備えて家庭には防毒マスクが常備されていた。

ザッパは12歳でドラムスを始め[19]、17歳でギターに転向した。彼はドゥーワップの熱心なファンで、15歳から17歳まではR&Bばかり演奏しており[19]、本人曰く「クラレンス・"ゲイトマウス"・ブラウンジョニー・"ギター"・ワトソン[注釈 9]ギター・スリムなどに影響を受けた[20]」。バンド活動を始めたのも高校生の時で、サンディエゴのミッション・ベイ・ハイ・スクールに通っていた時にザ・ランブラーズ(The Ramblers)というR&Bバンドに加入してドラムスを担当し[19]、ランカスターのアンテロープ・バレー・ハイ・スクールではR&Bバンドのザ・ブラック‐アウツ(The Black-Outs[注釈 10])を結成してドラムスを担当した[注釈 11][21]。またアンテロープ・バレー・ハイ・スクールでは、同級生のドン・グレン・ヴリート[注釈 12]とザ・スパニエルズやジ・オーチッズなどのドゥーワップ・グループやR&Bミュージシャンのレコード鑑賞を通じて親交を深め、ザッパがギター、ヴリートがボーカルを担当してレコーディングをするようになった。

一方、彼は14歳の頃にエドガー・ヴァレーズの作品集[22]を購入して[注釈 13]夢中になり[23][注釈 14]、続いてイゴール・ストラヴィンスキーアントン・ウェーベルンの作品も熱心に聴くようになった[24]。アンテロープ・バレー・ハイ・スクールの最上級学年の時には、許可を受けてアンテロープ・バレー・ジュニア・カレッジで和声の講義を聴いた[25]

初期の活動

[編集]

1958年6月、アンテロープ・バレー・ハイ・スクールを卒業したザッパは、アンテロープ・ジュニア・カレッジ、続いてアルタ・ローマシャフィー・ジュニア・カレッジに入学したが、それぞれ一学期在籍しただけで退学した。そして幾つかの会社勤めをしながら地元サン・バーナーディーノのクラブに出演し、キャリアを積んだ。1959年、家族がランカスターからロサンゼルス近郊のクラレモントに転居したのと同時に、彼は単身ロサンゼルスに移った[注釈 15][26]。そして、アンテロープ・バレー・ハイ・スクールの英語教師だったドン・セルヴェリス[27][28]が1959年に脚本を書きマーセデス・マッケンブリッジが主演した西部劇映画"Run Home Slow"[29](1965年)の映画音楽を担当し[注釈 16][30][27]、19歳にして現代音楽作曲家としてのキャリアをスタートさせた。また1962年に公開された映画"The World's Greatest Sinner"の音楽も担当した[注釈 17]

1961年、レコーディング・エンジニアのポール・バフ[注釈 18]に出会い、バフがカリフォルニア州クカモンガ〈現ランチョクカモンガ)に設立したパル・レコーディング・スタジオ(以下、パル・スタジオと呼称する)でレコーディングの基本を学んだ。1962年にポモナで出会ったボーカリストのレイ・コリンズをパル・スタジオに誘って共同でレコーディングを行ない、1963年にNed and Nelda[31]の名義でシングル'Hey Nelda'[32]Baby Ray and The Ferns[33]の名義でシングル'How's Your Bird?'[34]を発表した。また彼等は'Memories of El Monte'という楽曲を共作。ザッパはこの曲を当時西海岸で人気があったディスク・ジョッキーアート・ラボーに聴かせると、ラボーはこの曲を気に入って、ドゥーワップ・グループのザ・ペンギンズが録音することを提案した。ザ・ペンギンズはザッパをプロデューサーに迎えて、パル・スタジオでこの曲を録音して、1963年にラボーのレコード会社であるオリジナル・サウンド(Original Sound)からシングルとして発表した[35][36]。また彼等の別の共作である'Everytime I See You'はドゥーワップ・デュオのザ・ハートブレイカーズ[37]のシングルとして1963年4月に発表された[注釈 19][38][39]

バフはオリジナル・サウンドと契約を結んだのでハリウッドのスタジオで作業する時間が増え、パル・スタジオはザッパが引き継いだ形になっていった。彼は最初の結婚生活が破綻した後にはスタジオに引っ越して、そこで生活しながらレコーディング作業に没頭した。そして1964年7月に"Run Home Slow"の音楽担当の報酬を受け取ったので、その大半を資金源にしてバフからパル・スタジオを買い取って、8月1日にスタジオZとして再出発させ[40][注釈 20]、引き続いて様々なレコーディング活動を行なった[41][42]。その一つである"I Was a Teen-age Malt Shop"は1962年にコリンズと発表したシングル'Hey Nelda'の名義に因んだNedとNeldaという父娘を題材にしたロックン・ロールのオペラだった。彼は同年12月に、この作品をCBSの番組プロデューサー[注釈 21]に聴かせて番組で取り上げてもらおうとしたが、彼の企ては失敗して作品はお蔵入りになった[43]。高校の同級生のヴリートらとスタジオZで録音した主題歌は、ザッパの『ミステリー・ディスク』(1998年)に収録されている。

ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション

[編集]

1964年から1969年まで

[編集]

1964年、ザッパは、レイ・コリンズ(ボーカル)がリーダーを務めジミー・カール・ブラック英語版(ドラムス)、ロイ・エストラーダ(ベース・ギター)が在籍していたザ・ソウル・ジャイアンツというバンドに、ギタリストとして加入した[44]。ザ・ソウル・ジャイアンツはソウル・ミュージックのカヴァー・バンドであったが、ザッパの提案によってオリジナル曲を演奏し始めた[44]1965年、彼等はMGMレコードの子会社であるヴァーヴ・レコードと契約を結び、名前をザ・マザーズ・オブ・インヴェンション[注釈 22](本稿ではMOI[注釈 23]と略称する)に変えて、翌1966年にデビュー・アルバム『フリーク・アウト!』をリリースした。ザッパ作の全14曲から構成された本作は、当時としては異例の2枚組であり、ロック史上初のコンセプト・アルバムの一つであった。

MOIは新しいメンバーを加えて1969年まで活動を継続し、アルバムを7作発表した。MOIの作品のほぼ全てはザッパの単独名義だったが、ザ・ソウル・ジャイアンツ時代からのトラディショナルな素地を持ったコリンズ、ブラック、エストラーダに、バンク・ガードナー英語版(木管楽器)やアート・トリップ(パーカッション)のようなオーケストラ出身者、ドン・プレストン英語版(キーボード)のようなセッションマン、イアン・アンダーウッド(キーボード、サクソフォーン)のようなジャズやクラシックの素養豊かな音楽修士、と様々なバック・グラウンドを持った新メンバーを迎えたMOIは、各メンバーの個性と才能が存分に発揮された多彩な音楽性を呈していた。MOIの音楽は、ブルースやR&B、ジャズドゥー・ワップ[注釈 24]などの所謂ルーツ・ミュージックに現代音楽の要素を加えた、今日で言うクロスオーバー[注釈 25]の先駆的なものだった。『フリーク・アウト』でのオーケストラとの共演や『アンクル・ミート』(1969年)での室内楽的なアプローチやテープ編集によるスタジオ音源とライヴ音源とのミックスなど、ザッパが取り入れた技法の斬新さも特筆すべきものがあった。彼はMOIのコンサートで「ルイ・ルイ[注釈 26]などのトラディショナルなナンバーも取り上げる一方、『クルージング・ウィズ・ルーベン&ザ・ジェッツ』(1968年)では架空のドゥー・ワップ・バンドのアルバムという設定で現代音楽の斬新なコード進行とアレンジを施した新しいドゥー・ワップを披露し、幾つかの収録曲にはストラヴィンスキーの作品の一部までも取り込んだ[45]

さらに彼はMOIの活動と並行して『ランピー・グレイヴィ』(1968年)と『ホット・ラッツ』(1969年)の2作のソロ・アルバムを発表し、既に群を抜いた多作振りを示していた。これらのソロ・アルバムではMOIのアルバムとは別種の方向性を打ち出し、具体音楽とジャズ・ロックにポピュラー音楽的解釈をいち早く導入した。アメリカではMOIのアルバムもソロ・アルバムもヒットしなかったが、イギリスでは『ホット・ラッツ』がヒットチャートで上位を占め、メロディー・メーカー英語版誌の1969年度の「Album Of The Year」に輝いた。

当初MOIはMGMレコードの子会社のヴァーヴ・レコードに所属していたが、充分なプロモーションを受けられず不遇だった[注釈 27]。そこでザッパは1968年に「ビザール・レコード英語版」と「ストレイト・レコード」という二つのインディーズ・レーベルを設立して[注釈 28]、前者からはMOIや自分の作品、後者からはキャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドアリス・クーパー[注釈 29]ティム・バックリィThe GTOs英語版らの作品を発表した。キャプテン・ビーフハートこと旧友ドン・ヴァン・ヴリート[注釈 30]が率いるキャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドのアルバム『トラウト・マスク・レプリカ』(1969年)は、ザッパのプロデュース作品の代表の一つに挙げられてきた。

1969年8月18日、モントリオールでMOIのコンサートを行なった後、同年10月にザッパはMOIの解散を発表した。翌1970年に、MOIの未発表の音源を編集した『バーント・ウィーニー・サンドウィッチ』と『いたち野郎』が発表された。『バーント・ウィーニー・サンドウィッチ』には、シュガーケイン・ハリス英語版(バイオリン)が参加している[46]

再結成までの移行期

[編集]

ザッパはMOIの解散を発表した10月、ベルギーで24日から28日まで開かれたアムージ―音楽祭(Festival d'Amougies)の進行役を務めた[注釈 31][47]。そして11月から1970年4月まで、元MOIのトリップとアンダーウッド、ハリス、イギリス人のエインズレー・ダンバー[注釈 32][48](ドラムス)など4人ないし5人のミュージシャンを様々に組み合わせて、フランク・ザッパ・アンド・フレンズ、フランク・ザッパ・アンド・ホット・ラッツ、チュンガ[注釈 33]などのバンド名で、カリフォルニア州で数回ライブ活動を行なった[49][50]

1970年5月、コリンズ、アンダーウッド、モーターヘッド・シャーウッド(バリトン・サクソフォーン)、ビリー・ムンディ(ドラムス)らMOIの元メンバー、ダンバー、ジェフ・シモンズ[注釈 34](ベース・ギター、ボーカル)を集めてMOIを一時的に再結成した[注釈 35]。彼等は5月15日にカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のポーリー・パビリオンズービン・メータが指揮するロサンゼルス・フィルハーモニックと共演した[49]ほか、ニューヨークのフィルモア・イーストやシカゴで数回コンサート活動を行なった[50][51]

1970年から1971年まで

[編集]

ソロ・アルバム『チャンガの復讐』で幕を開けた70年代のザッパの音楽は、ロック、ジャズ・ロック、ブラック・ミュージック、ジャズ・フュージョン、パンク/ニュー・ウェイヴ、ファンク、レゲエと、幾度も変遷を繰り返した。1970年6月、彼はアンダーウッド、ダンバー[注釈 36][52]、シモンズ、タートルズのヴォーカリストであったハワード・カイランとマーク・ボルマンのデュオ[注釈 37][53]ジョージ・デューク[注釈 38][54]キーボード)らと新しいMOIを結成して、60年代に比べると、ややポップな歌ものに傾斜したアプローチを見せた。20分を超える大曲「ビリー・ザ・マウンテン」を収録した『ジャスト・アナザー・バンド・フロム L.A.[注釈 39](1972年)は、ミュージカル的な掛け合いをサウンドの一部として聴かせており、当時の布陣による一つの音楽的成果と言える。1971年には映画『200モーテルズ英語版[注釈 40]とアルバム『200モーテルズ(サウンドトラック)英語版』を発表した。

1971年12月4日、モントルーカジノモントルー・カジノ」での公演中に、観客の一人が会場の天井に向けてフレア・ガンを発射したので火災が起こり、MOIはその機材すべてを失った。ショーが始まって1時間過ぎた頃に、「フレア・ガンを持ったいかれた野郎」[注釈 41]が天井に向かって銃を発射したので発火。天井は竹で出来ていたので火はあっという間に広がり、十数時間以上燃え続けて、カジノは全焼した[55]モントルー・ジャズ・フェスティバルの創設者であるクロード・ノブスが観客を必死に誘導したので幸い負傷者は出なかった[注釈 42]。翌週の12月10日、ロンドンのレインボウ・シアターで開かれた次の公演中、ザッパはステージに乱入した一人の観客にオーケストラ・ピットに突き落とされ、10フィートもの高さからコンクリートの床に落下して重傷を負った[56]。事件発生直後は生命すら危ぶまれたほどで、一命はとりとめたものの全身に及ぶ複雑骨折を負い、翌1972年の9月まで静養生活を送らざるを得なくなった。この傷害事件の結果、彼はツアーに出ることもままならなくなり、MOIは解散状態に陥った[57][注釈 43]

負傷静養期間

[編集]

静養期間中に、ザッパはビッグ・バンド・スタイルによるジャズ・ロックのスタジオ録音に没頭する。その成果は、1972年に立て続けに発表されたビッグ・バンド形式のソロ・アルバム『ワカ/ジャワカ』(同年2月)とMOI名義のアルバム『グランド・ワズー』(同年11月)として結実した。

同年9月、彼はアンダーウッド、当時アンダーウッドの夫人だったルース・アンダーウッド英語版[58]パーカッション)、ブルース・ファウラー英語版[59]トロンボーン)、元デレク・アンド・ザ・ドミノスジム・ゴードン[注釈 44](ドラムス)、『ワカ/ジャワカ』の制作に参加したミュージシャン、新たなセッション・ミュージシャンなどからなる総勢20名のザ・グランド・ワズー・オーケストラを編成してライブ活動を再開し、アメリカとヨーロッパで7回のコンサートを開いた。さらに彼は、ザ・グランド・ワズー・オーケストラからゴードンを含む9名を選び出して総勢10名のザ・プチ・ワズーを編成して、10月から12月にかけてアメリカとカナダでコンサートを開いた[注釈 45][60]

ザッパは傷害事件による骨折で高音域の発声が圧迫され、特徴的なロー・トーン・ヴォイスになってしまった[61][62]。静養期間を経て、彼は本人が「(引用者註・自分のヴォーカリスト・演奏者としての力量をさして)この程度のスペックでは自分のオーディションにさえ合格できない」[61]と述べた程の厳格なオーディションを行って非常に高い演奏技術を持ったミュージシャンを集めるようになり、期せずして「ザッパ・スクール」が形成されることとなった[要出典]。総じて、この事件はまさに「怪我の功名」とも言うべき結果を導いた。

1973年から1976年まで

[編集]

1973年2月、ザッパはアンダーウッド夫妻、デューク、ジャン=リュック・ポンティ[注釈 46][63](ヴァイオリン)、ラルフ・ハンフリー[注釈 47][64][65](ドラムス)、ファウラーと彼の弟のトム・ファウラー英語版[59]ベース)らと新しいMOIを結成して7か月間に及ぶ国内、カナダ、オーストラリア、ヨーロッパのツアーを行なった。そして9月にジャズ・ロック路線とブラックミュージックへの傾倒をミックスした『オーヴァーナイト・センセーション』を発表。その後も勢いは衰えを見せず、精力的なライブ活動の合間を縫って、ジャズ・ロック期の代表作として記憶する人も多い『アポストロフィ (')[注釈 48](1974年)、高度な演奏テクニックに裏打ちされた「インカ・ローズ」などを収録した『ワン・サイズ・フィッツ・オール』(1975年)などのアルバムを続々と発表した。このMOIは上記のメンバーに加え、チェスター・トンプソン[注釈 49][66](ドラムス)、ナポレオン・マーフィ・ブロック英語版[67](ボーカル、テナー・サクソフォーン、フルート)、デニー・ウォーリー英語版[68](ギター)などの錚々たる実力派ミュージシャンの新メンバーにも支えられた。

1975年4月と5月、MOIはトンプソンに代わってテリー・ボジオ[注釈 50][69]を迎え、キャプテン・ビーフハートと共同名義の国内ツアーを行なった[注釈 51]。同年10月に発表されたザッパ/ビーフハート/マザーズ名義のライブ・アルバム『ボンゴ・フューリー[注釈 52]を最後に、ザッパは新作アルバムの名義にMOIの名前を使わなくなり[注釈 53]、全てをフランク・ザッパ名義にした。

1975年9月、ザッパはボジオ、エストラーダ、ブロック、アンドレ・ルイス英語版[70][70](キーボード、ボーカル)と5人編成のMOIを結成。彼等は時にはゲスト・ミュージシャンを迎えながら、1976年3月までコンサート活動を行なった。この5人の活動を最後に、彼はライブ活動でもMOIの名前を使わなくなり、コンサートも全てフランク・ザッパ名義にした。

ソロ

[編集]

1976年10月、ザッパはボジオとの共同作業を軸にブロック、エストラーダを含む多数のメンバーを断片的に関与させて制作した『ズート・アリュアーズ』をフランク・ザッパ名義で発表した。同月、彼は正式名称をザッパ(以下、Zappa[注釈 54])とするバンド[71][注釈 55]を編成して、初のフランク・ザッパ名義のツアーを開始した。メンバーはボジオ(ドラムス、ボーカル)、元ロキシー・ミュージックエディ・ジョブソン(ヴァイオリン、キーボード)、パトリック・オハーン英語版[72](ベース・ギター)、レイ・ホワイト英語版[73](ボーカル、ギター)、ビアンカ・ソーントン英語版[74](キーボード、ボーカル)で、MOI最後のツアーに引き続いて参加したボジオ以外は新顔だった[注釈 56][注釈 57]。彼等は10月と11月に国内ツアー[注釈 58]、翌1977年1月と2月にはヨーロッパ・ツアーを行なった。また1976年12月にはブレッカー・ブラザーズ[注釈 59]をはじめとするホーン・プレイヤーと元MOIのルース・アンダーウッド(パーカッション)らを迎えて、26日から29日までニューヨークのパラディアム・シアターでコンサートを開いた。その音源は1978年に『ザッパ・イン・ニューヨーク』として発表された[注釈 60]

1977年半ばにレーベル「ザッパ・レコード」を設立。ボジオ、オハーン、エイドリアン・ブリュー[75](ギター、ボーカル)、トミー・マーズ英語版[76](キーボード、ボーカル)、ピーター・ウルフ英語版[注釈 61][77](キーボード)、エド・マン[78](パーカッション)と、9月から11月まで国内ツアー、ロサンゼルスでの大晦日のコンサート、翌1978年1月から2月までヨーロッパ・ツアーを行なった。そして3月にザッパ・レコードの第1弾アルバムとして、主にヨーロッパ・ツアーで録音された音源にスタジオでオーバー・ダビングを施したものを中心に収録した『シーク・ヤブーティ[注釈 62]を発表した。続いて8月下旬から10月まで、マーズ、ウルフ、マン、アイク・ウィルス英語版[79](ギター、ボーカル)、アーサー・バロウ英語版[80](ベース・ギター)、ヴィニー・カリウタ[81](ドラムス)、元MOIのデニー・ウォーリー(ギター)らの新編成で国内とヨーロッパをツアー。翌1979年にはさらにウォーレン・ククルロ英語版[82](ギター)を迎えて2月から4月までヨーロッパをツアーした。そしてこれらのメンバーを中心に近未来的ロック・オペラジョーのガレージ』を制作して同年9月にAct I、11月にAct II & IIIを発表した。当時勃興していたパンクニュー・ウェイヴに近い音楽性を示した『シーク・ヤブーティ』と、ザッパ本人が「バイオニック・ファンク」と呼んだファンキーな側面を打ち出しつつレゲエ的短調や変拍子・ポリリズムをふんだんに多用した『ジョーのガレージ』の2作は、彼の80年代以降の音楽性を予期させるものであり、今日では代表作の中に含まれることも多い。だがバンドを巡るいざこざが再び起こり、新作は再び2年後の1981年の『ティンゼル・タウン・リベリオン』まで待たねばならなかった。

1980年、3月から7月までホワイト、ウィリス、バロウ、マーズ、デビッド・ロッグマン[83][84](ドラムス)と国内、カナダ、ヨーロッパをツアー。10月から12月まではロッグマンに代えてカリウタ、さらにスティーヴ・ヴァイ[85](ギター)、ボブ・ハリス[86](キーボード、トランペット、ボーカル)を迎えて国内とカナダをツアーした。1981年にはレーベル「Barking Pumpkin Records」を設立して、5月に第一弾のアルバム『ティンゼル・タウン・リベリオン』を発表。このアルバムには採譜係だったヴァイが成人したのを機にライヴ・デビューを果たした前年10月から12月までのツアーからの音源も収録されており、彼の実質的なデビュー作としても知られる。これ以降、ザッパは毎年のツアー録音を中心とした膨大な量の音源を再編集して作品化する手法にさらに磨きをかけ、年平均2〜3作という旺盛な新作発表を継続していった。

同年、ライヴ演奏のギターソロのみを集めた、ほぼ全編インプロヴィゼーションである『黙ってギターを弾いてくれ』が生み出された。このアルバムは様々な音源を題材としたが、実質的にはザッパとカリウタが生み出す超絶的なポリリズムの作品であると言えよう。ヴァイは本作のギター・ソロを正確に採譜するという仕事を任され、エフェクターやノイズまでを採譜した難業を成し遂げて、最終的に「The Frank Zappa Guitar Book」[87]の出版をもたらした。

1981年9月、ホワイト、ヴァイ、マーズ、マン、スコット・チュニス英語版[88](ベース・ギター)、チャド・ワッカーマン[89](ドラムス)、ロバート・マーティン英語版[90](キーボード、テナー・サクソフォーン、ボーカル)と、12月まで国内とカナダ、翌1982年5月から7月までヨーロッパをツアーした。この顔ぶれを中心に制作された『たどり着くのが遅すぎて溺れる魔女を救えなかった船』が5月、『ザ・マン・フロム・ユートピア』が翌1983年3月に発表された。以後、チュニスとワッカーマンのリズム・セクションはザッパの活動の終点近くまで彼のバンドを支えていった。

1983年1月、マン、ワッカーマン、デヴィッド・オッカー[91](クラリネット)を連れてケント・ナガノが指揮するロンドン交響楽団と自作をレコ―ディングした[92]。11日にロンドンのバービカン・センターにあるバービカン・ホールでコンサートが開かれ[注釈 63][93]、翌12日から彼にとって初のフル・オーケストラによる自作録音が本格的なデジタル・レコーディング技術によって始まった。この技術の導入で録音後の編集作業は大いに簡便になり、同年6月に『London Symphony Orchestra Vol. I』、4年後の1987年9月に『London Symphony Orchestra Vol. II』が発表された。

1984年7月から9月上旬まで、ウィリス、ホワイト、チュニス、ワッカーマン、マーティン、アラン・ザヴオッド英語版[94](キーボード)、元MOIのナポレオン・マーフィー・ブロック(テナー・サクソフォーン、ボーカル)と国内とカナダをツアー。ブロックは一か月で離脱したが、残りのメンバーは引き続いて一か月間のヨーロッパ・ツアーを行なったのち、10月から12月まで再び国内とカナダをツアーした。その模様の一部は1986年に『ダズ・ヒューモア・ビロング・イン・ミュージック?』として発表された。ザッパは「ライヴでやれることはすべてやりつくした」ことを理由に、それまでほぼ毎年行ってきた全米を中心としたツアーからの引退を表明した。

1984年発表の『ザ・パーフェクト・ストレンジャー』は、ピエール・ブーレーズの指揮によるアンサンブル・アンテルコンタンポランの演奏[注釈 64]で、彼と現代音楽の接点の中でも最大のものと言える。本作は「初めてシンクラヴィアによる演奏が収録されたアルバム」で半数以上もの収録曲がシンクラヴィアによるという意義が大きい。同年には賛否両論を招いた実験作『Thing-Fish』と『Francesco Zappa』も発表された。前者は大幅にアレンジされた既発曲も含まれた3枚組の大作ロック・オペラで、『ジョーのガレージ』以上に台詞に力点が置かれ、非英語圏の聴き手には難解な作品となった。後者は18世紀の作曲家フランチェスコ・ザッパの作品をシンクラヴィアで演奏したもので、シンクラヴィアのための習作をユーモアに包む形で発表した作品という解釈が一部でなされた。

1985年9月、検閲委員会(PMRC)が開催を推進してアメリカ合衆国上院に於いて開かれた意見公聴会に反対側の参考人として招かれ、委員の前で導入前の検閲制度を批判した[注釈 65][95]PMRCは、後に第45代アメリカ合衆国副大統領となる民主党上院議員のアル・ゴアの夫人であるティッパー・ゴア[注釈 66]が、11歳になる長女に自分が買い与えたプリンスの主演映画『プリンス/パープル・レイン』のサウンドトラック・アルバムに収録された「ダーリン・ニッキ」がマスターベーションを勧める内容を持っていることを知り、それを長女が聴いていることにショックを受けて設立を呼び掛けた委員会[96]である。彼等は「性表現や暴力・ドラッグを美化したような描写の強い」と認定したレコードやCDのジャケットに、ステッカーで「親への勧告 - 露骨な内容」を意味する「Parental Advisory: Explicit Lyrics」と表示して親や保護者の注意を喚起するように、アメリカ国内のレコード会社に要請した。ザッパは、グレイトフル・デッドのファンであるティッパーを「文化テロリスト」と非難した。彼は同年、公聴会でのやり取りの音声記録をサンプリングした「ポルノ・ウォーズ」を作曲し、これを収録したアルバム『ミーツ・ザ・マザーズ・オブ・プリヴェンション』を緊急発表して、この問題をより幅広く世間に問うた。このアルバムのジャケットは「Parental Advisory: Explicit Lyrics」のステッカーのパロディーである。

1984年以降、ザッパのアルバムは、ツアーの録音素材をオーヴァーダブなしに編集したものとシンクラヴィア演奏とのハイブリッドという形態をとることが多くなっていった。そのハイライトが、ギター・ソロの「St.Ethienne」を除く収録曲全てがシンクラヴィアによるアルバム『ジャズ・フロム・ヘル』(1986年)である。本作は革新的な内容から、1988年の第30回グラミー賞ベスト・インストゥルメンタル・パフォーマンス部門を受賞した[97]。彼は「笑ったよ、グラミー賞なんてインチキだと思ってるから」「功労賞みたいなもんだな」と、いかにも彼らしいコメントを残している

1985年から旧作のデジタル・リマスタリングに着手して「The Old Masters」シリーズを発表。1988年からは、未発表ライヴ音源を編集した「You Can't Do That On Stage Anymore」シリーズを初めとして旧作の発掘や音源の編集を開始した。

ザッパは民主党支持者でアメリカ合衆国大統領選挙への立候補を検討するが最終的に実現せず、選挙活動の代替案として1988年に大規模なワールド・ツアーを企画した。このツアーでは前回1984年のツアーに参加したウィリス、チュニス、ワッカーマン、マーティンに、マン、マイク・ケネリー英語版[98](ギター、キーボード、ボーカル)、ポール・カーマン[99](アルト・サクソフォーン)、カート・マクゲットリック[100](バリトン・サクソフォーン)、アルバート・ウィング[101](テナー・サクソフォーン)、元MOIのファウラー兄弟を加えた総勢11名が動員された。全くの無名だったケネリーはこのバンドのオーディションでザッパに「あなたの曲はすべてギターとキーボードで弾ける」とアピールして採用され、ヴァイの後継となるStunt Guitaristとしてツアー全日程に同行した。ザッパのツアーではコンサートごとに演奏される曲が異なり新曲や未発表曲も多く演奏されることが典型的で、本ツアーでもレパートリーは100曲以上に及んだ[102][注釈 67]。彼は一曲につき複数のアレンジを用意して、演奏中に自分の指示で即座に変奏することをメンバーに要求した。その為、リハーサルに4ヶ月半をかけ[注釈 68]、その間の賃金を支払った[102]。ツアーは6ヶ月間で企画され、2月と3月はアメリカ東部、4月から6月上旬までヨーロッパで行なわれた。さらに10週間のアメリカ・ツアーを経て、日本にまで行く予定だった[要出典]が、リハーサルの時から始まったチュニスと他のメンバーの衝突が悪化する一方だった[注釈 69][103]ので、ザッパ[注釈 70]はツアーを6月で打ち切って残りのコンサートを全てキャンセルした[注釈 71][103]。リハーサル期間を含めた賃金などの支払いに見込んでいた収入のあてがなくなり、ツアーの収支は大赤字だったという[103]。結果的に彼の生涯最後のものになった本ツアーの模様は『ブロードウェイ・ザ・ハード・ウェイ』(1988年)、『ザ・ベスト・バンド』(1991年)、『メイク・ア・ジャズ・ノイズ』(1991年)など5組のライヴ・アルバムに収録された。この間に彼が大々的に行った選挙登録キャンペーン[104]は、のちに多くのアーティストに模倣・導入された。

参考文献[105]に基づいて、1976年10月から1988年6月までのZappaのメンバーの変遷を以下に示す。

晩年

[編集]

1990年、ザッパは前立腺癌と診断された。癌は10年ほど前から進行しており、発見された時点で既に手遅れの状態だった。彼は共和党のロナルド・レーガンに強く反対して1980年代末から1990年代初頭にかけて大統領選挙への出馬を検討して会見まで行った[注釈 72]が、治療に専念する為に断念した。

1991年、1988年のツアーを収録したアルバム群の最後を飾る『メイク・ア・ジャズ・ノイズ』を発表。1992年には「You Can't Do That On Stage Anymore」シリーズ最終作である『Vol.6』とMOIの1971年のライヴ・ドキュメンタリー・アルバム『プレイグラウンド・サイコティクス[注釈 73]、1993年にはMOIが1968年にロイヤル・フェスティバル・ホールBBC交響楽団の団員と共演した時の模様を収録した『アヘッド・オブ・ゼア・タイム』を発表した。

1992年の、最晩年の活動であるアンサンブル・モデルンとの共演は殊に重要である。彼はロンドン交響楽団やブーレーズとの共演にも決して満足しなかったが、自分の音楽に情熱的に取り組むアンサンブル・モデルンの姿勢にいたく感銘を受け、病状と予後を十分に認識しながら、この共演に全精力を傾けた。1992年9月のライブ録音は『イエロー・シャーク』として結実するが、同時に彼の遺作になった[注釈 74]

1993年12月4日、フランク・ザッパは前立腺癌のため52歳で死去した。

音楽

[編集]

ザッパの音楽のルーツは、20世紀の現代音楽ブラック・ミュージックである。彼は14歳の頃にエドガー・ヴァレーズ(1883年-1965年)の作品集を初めて購入して夢中になり、イゴール・ストラヴィンスキー(1882年-1971年)やアントン・ウェーベルン(1883年-1945年)の作品も熱心に聴いていたが、同時に膨大な量のR&Bのレコードをも聴き漁っていた[61]。キャリアの初めにはドラムスを選んだが、ソウル・ミュージックのカバー・バンドだったザ・ソウル・ジャイアンツにギタリストとして加入した。しかし活動を続けていくうちにそうしたジャンルを越え、多彩な要素を盛り込んだ音楽を創造していった。

楽曲面においては変拍子・連符・ポリリズムなどを駆使し執拗に変化する複雑なリズム、転調・移調の多用と独特のハーモニー、多彩なヴォーカルと分厚いコーラス、長尺のギター・ソロに代表される豊かな即興、大胆な他作品の引用などが特徴であるが、それらをあくまでポピュラー・ミュージックの埒内で構成する姿勢が彼の持ち味である。1970年6月に結成した新しいMOI以降、フロー&エディをはじめ複数のボーカリストを起用し、ジャズ・ロック期以降には複数のリズム・ギタリストやキーボーディスト、時にブラス・セクションを加えた大所帯のアンサンブルが目立つようになる。ツアーの前には綿密なリハーサルを繰り返して複数パターンのアレンジを練り直し、自分が出す指示によってどのパターンも瞬時に演奏できるようメンバーにその要諦を徹底的に叩き込んだといわれる。彼の音楽性は時代によって異なるが、過去の作品を埋もれさせることはなく、1988年の生涯最後のツアーでも1960年代のMOIの作品を演奏した。

ザッパは正規の音楽教育を受けたことはなく[24]大学の音楽の講義に潜り込んでいた[注釈 75][106]程度だったので、独学でかなりの研鑽を積んだとみられる。ブーレーズ本人の指揮による「ル・マルトー・サン・メートル」のレコード[107]をスコアを見ながら聴いて演奏の不正確さに気付き、後にそれを本人に指摘した[108]というエピソードからも、彼が相当な読譜力を持っていたことが分かる。ただしセリー十二音音楽)やトーン・クラスターといった現代音楽の代表的な手法を使うことは殆んどなく、自分の作曲法に関してことさらに理論的な裏付けを示すようなことも行わなかった。現代音楽でもミニマル・ミュージックに対しては明確な嫌悪感を示している。こうした事実も考慮すると彼の作曲法は多分に手癖なども含めた経験主義的なものであったとみられる、

没後約30年間、現代音楽界において彼の音楽が論じられることは殆んどなかったが、彼の作品は屢々クラシック音楽の演奏家達に取り上げられてきた。マイケル・キーラン・ハーヴェイ[109]や先述のアンサンブル・モデルン、アンサンブル・アンブロシアス[110]ハルモニア・アンサンブル[111]オムニバス・ウィンド・アンサンブル[112]等は彼の作品のみを収録したアルバムを発表し、ノルウェー放送管弦楽団はかつてブーレーズの指揮した"The Perfect Strangers"を演奏した。他にも、メリディアン・アーツ・アンサンブル等のように、彼の作品を演奏する楽団は少なからず存在する。

人物と思想/歌詞

[編集]
  • 政治批判 :共和党と、集票基盤であるキリスト教原理主義に強く反対し、作品やライブで選挙人登録を訴えた。特にリチャード・ニクソンロナルド・レーガンらの政治家、モラル・マジョリティー、ジェリー・ファルウェル[113]、パット・ロバートソン、少女買春のスキャンダルが明るみに出たTV宣教師のジミー・スワッガートらの宗教関係者、PMRCによる検閲などを強く批判した[114]
  • 社会風刺 各時代の流行や、若年層のセックスやドラッグ問題、市井の人間の行状などを揶揄した。
  • 現代風俗 実在の地名や人名、国名や人種名などの固有名詞が頻出した。
  • 性風俗 ゲイやSMといった題材をしばしば批判的に取り上げた。
  • 大統領選挙への出馬を真剣に検討したことがある。共和党のロナルド・レーガンに強く反対していたザッパは、1980年代末から1990年代初頭にかけて大統領選挙への出馬を検討し、出馬の会見までおこなったが、ガンのため、実現しなかった。

言葉遊びによる造語や異国語の混入、スラングメタファーの多用された独特の言い回しも多かった。実在のミュージシャンを茶化して言及したり、ツアーによっては時事的な話題を盛り込んで歌詞を改作することもままあった。

  • 政治宗教・社会構成などに対して思想と主義を持っており、それらの事柄に関して独自の意見を述べることでも有名であった。彼は、軽い税金、または所得税廃止といった自由を重視した信条の持ち主であった一方、現存の教育制度と組織化された宗教または宗教団体を痛烈に批判した。共和党のニクソンやレーガンに激しい嫌悪感を示すなど、とことん反権力の人物でもあった。ザッパの政治的な活動で最も知られるのは、言論の自由を守ることの重要さを大々的に訴え、検閲に反対する姿勢を貫いたことであろう。
  • 生前、「宇宙には普遍的なものが2つある。水素と愚かさである」という言葉を残していた[115]
  • エキセントリックな側面が誇張して語られがちであるが、音楽への取り組みはきわめて真摯であり、古い作品をCD化する際にアナログマスターをそのままデジタル・マスタリングするミュージシャンが大半であった中、彼は過去の作品全てを自らリミックスリマスタリング、時にはオーヴァーダブや編集も施している。さらには亡くなる直前の1993年に一部のアルバムのリマスタリングを行い、暫定的な決定版とした。この1993年盤は本人が数あるマスターから最終的なOKを選んだ「承認マスター」と呼ばれ、1995年以降の再発CDではこのマスターが使用されている

家族

[編集]

1960年、ザッパは当時通っていたシャフィー・ジュニア・カレッジで、ケイ・シャーマン(Kay Sherman)に出会い、一緒に退学して同棲し始め、やがて結婚した[116]。しかし結婚生活は破綻して二人は1963年に離婚し、ザッパは家を出てパル・レコーディング・スタジオに寝泊まりするようになった[30]

1967年9月21日、MOI初のヨーロッパ・ツアーに発つ数日前、ザッパはアデレード・ゲイル・スロートマンAdelaide Gail Sloatman)と再婚した[注釈 76][117][118][119]。二人はムーン・ザッパ英語版ドゥイージル・ザッパ英語版アーメット・ザッパ英語版ディーヴァ・シン・マフィン・ピジーン・ザッパ英語版の二男二女を儲け、1993年にザッパが病没するまで連れ添った。子供達はいずれもアーティスト・俳優・ミュージシャン・作家など多彩な活動を行っており、ザッパのバンドとの共演経験もある。長男のドゥイージルは、80年代にロック・ギタリストとして登場し、21世紀には父のレパートリーを再演するプロジェクト「ザッパ・プレイズ・ザッパ」を主宰している。次男アーメットのフルネームはAhmet Emuukha Rodan Zappa[注釈 77]で、Rodan(ロダーン)は怪獣ラドンの海外名である[120][注釈 78]

ザッパの没後、ゲイルはザッパ・ファミリー・トラストを設立して家の地下室に残された膨大な量の未発表音源のマスター・テープを管理し、未発表テイクやライヴ音源を新譜として頻繁に発表してきた。彼女は2015年に70歳で病没したが、子供達が彼女の遺志を引き継いで、彼の逝去後30年近くたった2024年現在も、遺作を次々に発表している。

聖飢魔IIのジェイル大橋こと大橋隆志によると、彼が1987年に結成したキャッツ・イン・ブーツがアメリカでメジャー・デビューできたのはドゥイージルとザッパのサポートが大きかった。2人のアメリカ人メンバーがドゥイージルとの繋がりがあった事から、キャッツ・イン・ブーツのデモ音源がザッパの手に渡り、更に彼のビジネスマネージャーで後にバンドのマネージャーになる人物の手に渡って、最終的にEMIと契約に漕ぎ着ける事に成功した[121]

アルバム『レザー』

[編集]

アルバム『レザー』は、1977年にレコーディングが終了して、同年中に4枚組のアルバムとして発表される予定であった[122]。ところがディスクリート・レコードの作品の配給元であるワーナー・ブラザーズの一方的なクレーム・要求に憤りを感じたザッパが、発表前に収録曲を全てラジオで放送するという強硬策に打って出た。『レザー』収録予定曲を契約上の都合でバラバラのアルバムとして発表した『スタジオ・タン』(1978年)、『スリープ・ダート』(1979年)、『オーケストラル・フェイヴァリッツ』(1979年)や、収録予定曲の含まれた『ザッパ・イン・ニューヨーク』(1978年)、『シーク・ヤブーティ』(1979年)、『ジョーのガレージ』(1979年)などは発売されたものの、『レザー』自体は、ザッパ亡き後、遺族によって1996年にCD化されるまでは長らくお蔵入りとなっていた。

90年代のCD化にあたってインストゥルメンタルにヴォーカルがオーヴァーダブされるなど、当該三作の大胆なアレンジが行われたのは、『レザー』発売のための布石であったと思われる。なお、『レザー』収録曲の中で既発の曲はすべてヴァージョン違いである。

日本公演

[編集]

1976年2月上旬、ザッパはテリー・ボジオ(ドラムス)、ナポレオン・マーフィー・ブロック[67](テナー・サクソフォーン、ボーカル)、ロイ・エストラーダ(ベース・ギター、ボーカル)、アンドレ・ルイス英語版[70][70](キーボード、ボーカル)の4人を率いて、MOI初の、そして唯一の日本公演を行なった[123]

  • 1976年2月1日 東京 浅草国際劇場 (浅草最大のロックショウ)
  • 1976年2月3日 大阪 厚生年金会館
  • 1976年2月4日 京都 京大西部講堂
  • 1976年2月5日 東京 日本青年館

5人編成は1966年以後のMOIとしては最小規模で[注釈 79]、彼等は1975年9月から1976年3月まで、時にはゲスト・ミュージシャンを迎えながらコンサート活動を行なった。1976年2月の日本公演は、1976年1月から3月まで行なわれたハワイ、日本、オーストラリア、ニュージーランド、ヨーロッパを巡るワールド・ツアーに組み込まれていた[123]

2月3日の大阪公演で録音された'Black Napkins'が『ズート・アリュアーズ』に、'Hands with a Hammer'と’Zoot Allures'がYou Can't Do That On Stage Anymore, Vol.3に収録された[注釈 80]

このワールド・ツアーはMOIの名前が使われた最後のもので[123]、以後のツアーではザッパが率いるバンドの正式名称はZappaになった[124]。彼はZappaを率いて再来日することなく、1993年に病没した。

日本での受け取られ方

[編集]
  • 著名なファンや研究者には大山甲日、ヤギヤスオ(八木康夫)、オダギリジョーなどがいる。
  • アナログ時代には日本での認知度が低かった事もあり、名作の誉れ高い『ホット・ラッツ』を初めとして国内盤が発売されなかった作品も多い。1976年2月に日本公演が行なわれて、「ファン同士のネットワークが形成され」、「それまでの奇人変人といった評価から、彼の正統的な音楽性が評価されはじめ」[125]たことで、国内盤の発売が増えたという。アナログ時代の国内レーベル日本グラモフォンビクターワーナー・パイオニアCBSソニー東芝EMI各社である。CD化以降はMSI, ビデオアーツにより国内盤が発売された。
  • 当初、国内盤のアルバム名や楽曲の多くに原題とは全く無関係な邦題がつけられた。正方形や三角形がジャケットに描かれたアルバム"Ship Arriving Too Late To Save A Drowning Witch"には『フランク・ザッパの○△□』、"No Not Now"という楽曲には『いまは納豆はいらない』というように、単に原題の語感やジャケットのデザインにこじつけただけのものだった。これらはCBSソニーのディレクターで当時ザッパを担当していた黒田日出良(渚十吾)が考案したとされる[126]。さらに、これらの国内盤にはヤギヤスオの解説文が寄せられ、『フランク・ザッパの○△□』には「回を重ねるごとにエスカレートする超豪華解説書『マンコ・カパックの友』」が付された[126]
  • 1999年ライコディスクより日本だけの企画として、ザッパのベスト盤シリーズ"Meets Frank Zappa"が発売された。ザッパを敬愛するPANTA頭脳警察)と山本精一・ATR・HILAH(ボアダムス)、下山淳ルースターズ)、EL-MALO谷中敦東京スカパラダイスオーケストラ)、SUGIZOLUNA SEA)が選曲し、八木康夫が監修した。

ディスコグラフィ

[編集]

Beat the Bootsシリーズ (Official Bootleg)

[編集]
  • Beat the Boots! (1991年)
    • As an Am (雑派大魔神ボストンで立腹)
    • The Ark (雑派大魔神ニューヨークで憤激)
    • Freaks & Mother*#@%! (雑派大魔神フィルモアで逆襲)
    • Unmitigated Audacity (雑派大魔神ノートルダムで激怒)
    • Any Way the Wind Blows (雑派大魔神パリで逆鱗)
    • 'Tis the Season to Be Jelly (雑派大魔神スウェーデンで逆上)
    • Saarbrücken 1978 (雑派大魔神ザールブルュッケンで激昂)
    • Piquantique (雑派大魔神ストックホルムで激憤+シドニーで憤慨)
  • Beat the Boots! II (1992年)
    • Disconnected Synapses
    • Tengo Na Minchia Tanta
    • Electric Aunt Jemima
    • At the Circus
    • Swiss Cheese / Fire!
    • Our Man in Nirvana
    • Conceptual Continuity
  • Beat the Boots III (2009年)

Meets Frank Zappaシリーズ

[編集]

※日本だけの企画である。

  • Panta From Brain Police Meets Frank Zappa (Panta From 頭脳警察 meets フランク・ザッパ) (1999年)[133]
  • El-Malo Meets Frank Zappa (エル・マロ meets フランク・ザッパ) (1999年)[134]
  • Seiichi Yamamoto, Atr, Hilah From Boredoms Meets Frank Zappa (山本精一,ATR,HILAH from ボアダムス meets フランク・ザッパ) (1999年)[135]
  • Jun Shimoyama Ex-The Roosters Meets Frank Zappa (下山淳 ex-ザ・ルースターズ meets フランク・ザッパ) (1999年)[136]
  • Atsushi Yanaka From Tokyo SKA Paradise Orchestra Meets Frank Zappa (東京スカパラダイスオーケストラ 谷中敦 meets フランク・ザッパ) (1999年)[137]
  • Sugizo Meets Frank Zappa (Sugizo meets フランク・ザッパ) (1999年)[138]

パル・レコーディング・スタジオ関係

[編集]

Ned and Nelda

[編集]
  • Hey Nelda / Surf Along (1963年)[32]

Baby Ray and The Ferns

[編集]
  • How's Your Bird / The World's Greatest Sinner (1963年)[34]

編集アルバム

[編集]

フィルモグラフィ

[編集]

書籍

[編集]
  • The Frank Zappa Songbook Vol. 1(1973年)[158]
  • The Frank Zappa Guitar Book(1982年)[87]
  • Them Or Us – The Book(1982年)[159]
  • The Real Frank Zappa Book(1989年)[160]
  • Frank Zappa – Hot Rats(2001年)[161]
  • Frank Zappa – Apostrophe (‘)(2008年)[162]
  • Frank Zappa – Over-Nite Sensation(2011年)[163]
  • Frank Zappa And The Mothers Of Invention – One Size Fits All(2011年)[164]

参加作品

[編集]

プロデュース

[編集]

客演・共演

[編集]


主な日本語の参考書籍 (含翻訳)

[編集]

以下の書籍のうち、ザッパ本人が著作に関与したものは『フランク・ザッパ自伝』の原著のみである。

出版年月日 書名 著者 出版社 ISBN
1994年5月 ユリイカ - 特集=フランク・ザッパ越境するロック 山本直樹、清水俊彦、秋田昌美、大里俊晴、岸野雄一 青土社 ISSN 1342-5641
1998年12月 大ザッパ論―20世紀鬼才音楽家の全体像 大山甲日 工作舎 ISBN 978-4875023043
2001年12月 大ザッパ論〈2〉鬼才音楽家の足跡1967‐1974 大山甲日 工作舎 ISBN 978-4875023616
2004年2月7日 フランク・ザッパ自伝 フランク・ザッパ (著), ピーター・オチオグロッソ (著), 茂木健 (翻訳) 河出書房新社 ISBN 978-4309267197
2015年12月21日 フランク・ザッパを聴く ―アルバム・ガイド大全― 大山甲日 ヤマハミュージックメディア ISBN 978-4636919363
2020年12月1日 フランク・ザッパ攻略ガイド: やれるもんならやってみな 和久井光司 河出書房新社 ISBN 978-4309291147
2022年4月1日 フランク・ザッパ バリー・マイルズ(著),須川宗純(翻訳) Pヴァイン ISBN 978-4910511122

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 本人は生涯を通してアンチ・ドラッグの姿勢を貫いた
  2. ^ リトル・フィート。
  3. ^ デュラン・デュラン。
  4. ^ 初期のアルバムには「フランシス・ヴィンセント・ザッパ」と記されていたが、これはザッパ本人の思い違いが生んだ誤りである。『フランク・ザッパ自伝 (The Real Frank Zappa Book)』によると、彼は20歳代半ばまで、自分の名前は父親と同じフランシス・ヴィンセントだと思い込み、フランシスという名前をどうしても好きになれずに愛称だと思っていたフランクをやむなく使っていたつもりだった。そして1967年9月下旬の初のヨーロッパ・ツアーの為にパスポートを取得しなければならなくなったので母親から出生証明書を送ってもらった時、自分の名前がフランク・ヴィンセントであることを初めて知った。彼はそのことを喜び、初期のアルバムにフランシスの名を使ってしまったことを悔やんで、それらのアルバムの再発版には正しい名前を記載した。しかし、アルバム・ジャケットにそう書かれていたから、という理由で彼の名はフランシスであると主張する者は現在でも多い。
  5. ^ 彼の祖先にはシチリア島イタリアギリシャアラブフランスアイルランド、そしてドイツと様々な土地の出身者がいた。母方の祖母はシチリア系人とフランス人の血統で祖父はナポリ出身のイタリア人。父方はギリシャ人とアラブの血統で、父親のフランシスはシチリア島のパルティニーコで生まれ、子供の時に移民船に乗ってアメリカに来た。両親は家で子供達が理解できないようにイタリア語で会話していたという。子供はフランク・ヴィンセント、チャールズ・ロバート(Charles Robert Zappa、1943年 - 2018年)、カール・ルイス(Carl Lewis Zappa、1948年 - 2020年)、パトリス・ジョアン(Patrice JoAnne Zappa、1951年 -)の3男1女。
  6. ^ エッジウッドにはアメリカ陸軍の化学兵器の保存施設があった。
  7. ^ ザッパは自伝で、陸軍は第二次世界大戦中に毒ガス兵器を開発しており、兵器を実戦で使う時に風向きなどの天候状態を考慮に入れる必要があったので、気象学者を雇ったのだろうと推測している。
  8. ^ フランシスは研究室からビーカーやフラスコ、さらには水銀が入ったペトリ皿まで持って帰って子供たちに与え、ザッパは寝室の床一面にそれらを並べて遊んでいた。官舎から1マイルと離れていない所にマスタードガスのタンクがあったので、官舎の住民には家に家族全員分のガスマスクを常備する義務があった。
  9. ^ ザッパはワトソンが1955年に発表したアール・キングの'Those Lonely, Lonely Nights'のカバーで披露したギター・ソロに大きな影響を受け、この曲を1969年と1975年のコンサートで取り上げた。ワトソンは『ワン・サイズ・フィッツ・オール』(1975年)、『ゼム・オア・アス』(1984年)、『Thing-Fish』(1984年)、『ミーツ・ザ・マザーズ・オブ・プリヴェンション』(1986年)に客演した。
  10. ^ ザッパの自伝での綴りに準拠。
  11. ^ ザ・ブラック‐アウツのメンバーは、ザッパ、Johnny Franklin、Carter Franklin、Wayne Lyles、Salazar兄弟、Terry Wimberly。彼等は黒人やメキシコ人を含んだ多彩な顔触れであった。
  12. ^ 後のキャプテン・ビーフハートことドン・ヴァン・ヴリートである。
  13. ^ サンディエゴ近郊のエルカホンに住んでいた時に、有名なレコード販売店のサム・グッディについての雑誌記事に「サム・グッデイは『イオ二ザシオン』というドラムスだけのひどいアルバムすら売っている」とあるのを読んで。そのアルバムに興味を抱いた。後日、R&Bのレコードも取り扱っているHi-Fiの販売店に行った時に、奇怪な容貌の男性の白黒写真をジャケットにしたアルバムを見つけて手に取ると、まさに『イオ二ザシオン』という題の曲が収録されていた。価格は$5.95で、手持ちの現金は$3.75だったが、このレコードを欲しいけれど$3.75しか持っていないと店員に言うと、「Hi-Fiの試聴用に店頭に置いているけれど、このレコードを使うと誰もHi-Fiを買わないから$3.75で売ってあげる」と言われて購入できた。
  14. ^ ザッパは15歳の誕生日に母親にねだって、プレゼントの資金の5ドルを使ってヴァレーズの自宅に長距離電話をかけた。彼は、こんな人相("looked like a mad scientist")の人物はニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジに住んでいるに違いないと考えて、ニューヨーク市に電話してエドガー・ヴァレーズという人物の電話番号が存在するか尋ねると、電話番号はおろか住所まで教えてもらえたという。早速その番号にかけてみると、電話に出た夫人に、ヴァレーズは万国博覧会の為の作品(『ポエム・エレクトロニク』)の制作の為にブリュッセルにいるので数週間後にかけなおすように、と言われた。そこで、数週間後に再び電話して、ヴァレーズと会話を交わした。彼はモハーヴェ砂漠ランカスターに住んでいたので、ヴァレーズが'Déserts'という新曲に取り組んでいることを知って、大いに感激したという。
  15. ^ 彼がロサンゼルスに転居したので、ザ・ブラック‐アウツの活動は終わりを迎えた。
  16. ^ 'Theme From Run Home Slow'が未発表音源集ロスト・エピソード(1996年)とミステリー・ディスク(1998年)に収録された。両者には幾つかの違いがある。
  17. ^ "The World's Greatest Sinner"は"Run Home Slow"よりも前に公開されたが、ザッパは"The Real Frank Zappa Book"で、"Run Home Slow"の音楽担当が自分の初の映画音楽の仕事だったと記している。
  18. ^ ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションのアルバム『クルージング・ウィズ・ルーベン&ザ・ジェッツ』(1968年)に収録された'Deseri'をメンバーのレイ・コリンズと共作した。
  19. ^ 録音はハリウッドで行なわれて、ザッパとコリンズは参加していない。
  20. ^ その初日のパーティーで録音された音源をコラージュにしたものが'Opening Night at "Studio Z" (Collage)'として、ミステリー・ディスク(1999年)に収録された。
  21. ^ 日曜日のテレビ番組の一つで様々な実験を取り上げて放送していたCBS Repertoire Workshopの番組プロデューサーだった。
  22. ^ 日本のグループ・サウンズのバンドであったザ・タイガースが、ザッパ以外のメンバーはパーティーでマリファナを吸っていたと証言している。
  23. ^ 60年代末から70年代に入ると、マザーズ、ザッパ・アンド・マザーズ、ザッパ/マザーズ、フランク・ザッパ・アンド・ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションなど様々な名前が用いられるようになった。本ページでは、本来の名前であるザ・マザーズ・オブ・インヴェンションに統一して、その略語であるMOIを用いる。因みに自伝The Real Frank Zappa Book. (Touchstone. ISBN 0-671-70572-5)ではthe M.O.I.という略語が使われている。
  24. ^ ドゥーワップ・アルバム『クルージング・ウィズ・ルーベン&ザ・ジェッツ』まで制作している
  25. ^ フュージョンミクスチャー・ミュージック(日本独自の用語)など。
  26. ^ リチャード・ベリーが作詞作曲したロックンロールの楽曲。キングスメンのバージョン(1963年)が大ヒットした。1960年代に生まれたガレージロックの代表作の一つ。
  27. ^ 同じ会社に所属していたヴェルヴェット・アンダーグラウンドも似た境遇にあった。
  28. ^ これらの会社は、1973年に「ディスクリート・レコード」にとって代わられた。「ディスクリート・レコード」は、ザッパ、マザーズ、ティム・バックリィテッド・ニュージェント&アンボイ・デュークスらの作品を発表した。さらにザッパは、1977年に「ザッパ・レコード」、1981年に「バーキング・パンプキン・レコード」を設立した。
  29. ^ リード・ボーカリストの名前であると同時にバンド名でもあった。ストレイト・レコードから2作のアルバムを発表した後、1970年代にワーナー・ブラザーズから「スクールズ・アウト」「アリスは大統領」などのヒット曲を発表した。
  30. ^ 二人はカリフォルニア州ランカスターアンテロープ・バレー・ハイ・スクールの同級生。キャプテン・ビーフハートとは、ザッパが1964年にヴァン・ヴリートと共同で制作していた低予算のSF映画Captain Beefheart vs. The Grunt Peopleの登場人物名である。
  31. ^ ピンク・フロイドザ・ナイスイエスソフト・マシーンキャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドなどが出演。ザッパがピンク・フロイドと共演する映像が残っている。
  32. ^ ジョン・メイオールズ・ブルースブレイカーズ。ザッパはアムージ―音楽祭の進行役を務めた時に、エインズレー・ダンバー・リタリエイションのメンバーとして出演したダンバーの演奏ぶりに感銘を受けた。そして、現地で彼とジャム・セッションを行ない、数か月後に、活動拠点をイギリスからアメリカ西海岸に移すことを強く勧めた。
  33. ^ ホット・ラッツやチュンガといった単語は、この時期に発表されたザッパのソロ・アルバム『ホット・ラッツ』(1969年)、『チュンガの復讐』(1970年)の題に由来していると考えられる。
  34. ^ 1969年にザッパのストレイト・レコードから、映画"Naked Angels"のサウンド・トラック・アルバムと、ソロ・アルバムLucille Has Messed My Mind Upを発表。ザッパは後者のプロデューサーを務め、La Marr Bruisterの変名で'Lucille Has Messed My Mind Up'を提供し'Wonderful Wino'をシモンズと共作。シモンズは翌1970年に再結成されたMOIのメンバーになった。ザッパは後にアルバム『ジョーのガレージ』(1979年)で'Lucille Has Messed My Mind Up'を、『ズート・アリュアーズ』(1976年)で'Wonderful Wino'で取り上げた。
  35. ^ 当時ロサンゼルス・フィルハーモニックの常任指揮者だったズービン・メータが、ザッパに「MOIとの」共演を希望した。
  36. ^ チャンガの復讐』を最初に『アポストロフィ』まで断続的に参加
  37. ^ フロー&エディ英語版として知られた。『チャンガの復讐』に参加。
  38. ^ 200モーテルズ』、『ワカ/ジャワカ』から『ボンゴ・フューリー』まで在籍
  39. ^ 1971年8月7日にUCLAのポーリー・パビリオンで行なわれたコンサートのライブ・アルバム。
  40. ^ リンゴ・スターがザッパを演じた。
  41. ^ イギリスのロックグループであるディープ・パープルの「スモーク・オン・ザ・ウォーター」より。原詩は"Some stupid with a flare gun"。
  42. ^ ディープ・パープルはカジノで新作をレコーディングする為に当時モントルーに滞在して、この火災に遭遇した。宿泊先のグランドホテルからレマン湖の対岸に浮かぶ煙を見て、後に代表作になる「スモーク・オン・ザ・ウォーター」を制作して新作に加えた。
  43. ^ 彼は解散宣言を出さなかったが、事件後数か月経って、ボルマンとカイランはダンバーとベーシストのジム・ポンズと共にツアーに出た。さらに2人はフロー・アンド・エディとしてレコード会社と契約を結んだ。
  44. ^ 1972年11月8日、ザッパはニューヨークのエレクトリック・レディ・スタジオで、ゴードン、ゴードンの友人で当時ウエスト・ブルース・アンド・レイングのアメリカ・ツアーに参加していたジャック・ブルース、ザ・プチ・ワズーのメンバーだったトニー・デュラン(ギター)とジャム・セッションを行なった。この時の音源の一つが、1974年に発表されたザッパのソロ・アルバム『アポストロフィ (')』のタイトル曲となった。また、この時の別の音源に含まれたゴードンの演奏に後日ザッパがダビングを行なったものが'Down In De Dew'となって、ザッパの遺族が発表したLäther(1996年)に収録された。
  45. ^ 21世紀になってザッパの遺族によって、ザ・グランド・ワズー・オーケストラのツアーのライブ音源がWazoo(2007年)、ザ・プチ・ワズーのツアーのライブ音源がImaginary Diseases(2006年)、Little Dots(2016年)に収録されて発表された。
  46. ^ オーヴァーナイト・センセイション』『アポストロフィ』に参加。
  47. ^ オーヴァーナイト・センセイション』と『ロキシー&エルスウェア』に参加
  48. ^ 全米ヒットチャートを10位にまで駆けのぼり、シングル曲もヒットした。
  49. ^ ロキシー&エルスウェア』から『ボンゴ・フューリー』まで参加。
  50. ^ 超絶技巧の演奏者として知られている
  51. ^ 1974年、ヴァン・ヴリート(キャプテン・ビーフハート)が率いていたキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドは解散状態に陥り、彼は自宅に籠ってしまった。しかし、彼が以前にレコード会社と結んだ契約はまだ有効であったので、そのしがらみに絡まれた彼はザッパに助けを求めた。ザッパは1975年4月、『ワン・サイズ・フィッツ・オール』の制作にヴァン・ヴリートをブラッドショット・ローリン・レッドの変名で客演させ、続いて4月と5月、国内ツアーにキャプテン・ビーフハートとして参加させた。
  52. ^ 5月20日と21日のテキサス州オースティンでのコンサートで録音された音源を収録したライブ・アルバムである。
  53. ^ 1975年以前にザッパ名義で発表されたアルバムは『ランピー・グレイヴィ』(1967年)、『ホット・ラッツ』(1969年)、『チャンガの復讐』(1970年)、『ワカ/ジャワカ』(1972年)、『アポストロフィ (')』(1974年)。
  54. ^ 本ページではザッパ本人との混同を避けるために、アルファベット表記にする。当然、英文では両方ともZappaと記される。
  55. ^ 1978年にザッパはMOIに代わるバンド名がZappaであると明言し、「いい名前だ。二音節で(The Mothers of Inventionに比べると)呼ぶのは簡単だし、印刷しても見栄えがする。たまたま自分の名字でもある。」と発言した。巷ではザッパ・バンドと呼ばれることが多い。
  56. ^ ジョブソンは、ロキシー・ミュージックが1975年11月のアメリカ・ツアーでMOIと一緒になった時にザッパと出会った。そしてザッパの音楽への興味を示したところ、セッションに招待され、さらにMOIの12月7日のオンタリオ州ハミルトン公演と8日のモントリオール公演に招かれて客演した。ロキシー・ミュージックはツアー終了後に解散し、ジョブソンはZappaに参加した。
  57. ^ ジョブソンとオハーンは『ズート・アリュアーズ』のジャケットに映っているが、制作には参加していない。
  58. ^ ソーントンは11月半ばに離脱した。彼女が在籍中の10月29日に行なわれたフィラデルフィア公演の音源が、ザッパ没後の2009年に彼の遺族によってPhilly '76として発表され、彼女はライナーノーツに寄稿した。
  59. ^ ファンキーなブラス・サウンドのクロスオーバー・ミュージシャンである
  60. ^ 発表は1977年半ばに予定されていたが、収録曲の一部についてディスクリート・レコードの配給元のワーナー・ブラザーズとの間に問題が起ったので、1978年3月まで延期された。詳細は下記”アルバム『レザー』”を参照のこと。
  61. ^ オーストリア出身の音楽家で、J・ガイルズ・バンドのヴォーカリストとは同名異人である
  62. ^ 「シェイク・ユア・ブーテイー」をもじった可能性がある。題名とジャケットにユーモアがあふれている
  63. ^ 当時の労働組合の規定により、オーケストラのリハーサルはコンサートの為だけに限られていたので、ザッパ達はレコ―ディングのリハーサルを行なう為に本コンサートを開催した。このホールはロンドン交響楽団の本拠地だった。
  64. ^ アルバム中では、Barking Pumpkin Digital Gratification Consortによる演奏と表記されている。
  65. ^ 同公聴会には、カントリー・ミュージシャンのジョン・デンバーと、ヘヴィメタルバンド、トゥイステッド・シスターのヴォーカリストであるディー・スナイダーも招かれ、意見を述べた
  66. ^ 後に離婚。
  67. ^ 当時の多くのミュージシャンのツアーでは20曲前後のセットリストが一つ用意され、開始前のリハーサルは3週間程度だった。
  68. ^ 一日8時間、週5日、ホーン・セクションを交えて2か月半を費やした。レパートリーの全曲を演奏すると延べ11時間半に及んだ。
  69. ^ ザッパはチュニスを気に入って彼に指揮を任せてリハーサルを欠席することが多かった。チュニスは横柄な態度を取って年長者ばかりだったメンバーの反感を買っていた。リハーサルの開始当初はトミー・マーズ(キーボード)もメンバーだったが、チュニスを嫌ってツアーの前に脱退した。
  70. ^ 彼は上記のようにリハーサルを欠席することが多く、ツアーではMOI時代からの習慣に従って、メンバーをインに押し込めて自分だけホテルを利用していたので、メンバーから直訴されるまで彼等とチュニスの衝突に全く気づかなかった。
  71. ^ ヨーロッパ・ツアーが終わった段階で、ザッパがこのままチュニスとツアーを続けるかとメンバーに問うと、ケネリー以外が否と回答した。彼等は自分達が反対すれば彼はツアーを続ける為にチュニスに代わるベーシストを雇うと期待していた。しかし彼はあくまでチュニスを気に入っており、自分の意に反して他のベーシストをツアーに参加させることは自分のバンドが他人に支配されていることを意味すると捉えて、メンバーの要求を拒否して、ツアーを打ち切った。
  72. ^ ザッパより以前に大統領選挙に実際に出馬したのは、ディジー・ガレスピーとアリス・クーパーである。ザッパは出馬できなかった
  73. ^ 1971年6月6日にニューヨーク・フィルモア・イーストにて開催されたMOIのコンサートのアンコールにジョン・レノン夫妻がゲスト出演した時のライブ音源から、'Well' (Ward)、'Say Please' (Lennon, Ono, Zappa)、 'Aaawk' (Lennon, Ono, Zappa)、'Scumbag' (Lennon, Ono, Kaylan, Zappa)、'A Small Eternity with Yoko Ono' (Lennon, Ono)の5曲が収録された。
  74. ^ 主にリハーサル・テイクを収録した『Everything Is Healing Nicely』が彼の死後の1999年に発表された。
  75. ^ 1960年の春、19歳の時に一学期だけ在籍したシャフィー・ジュニア・カレッジで、和声の講義を聴講した。この時に、音楽部長のJoyce Shannonが持っていた難解な音楽理論の専門書を読破した。また、正式の聴講ではなかったが、ポモナ・カレッジでの作曲の講義に出席していたことがある。
  76. ^ 1966年にザッパと出会ったとき、ゲイルはカリフォルニア州ウェスト・ハリウッドウィスキー・ア・ゴーゴーで秘書として働いていた。またキム・フォーリーと"Bunny and Bear"としてスポークン・ワード・シングル'Americas Sweetheart'を録音した。ザッパと結婚した時には、妊娠9ヶ月だった。
  77. ^ Ahmetはアーメット・アーティガン、Emuukhaはアルバム『ランピー・グレイヴィ』(1968年)に参加したAbnuceals Emuukha Electric Symphony Orchestraに由来。
  78. ^ 東宝映画『空の大怪獣ラドン』(1957年)の海外版の題名は"Rodan! The Flying Monster"である。
  79. ^ ザッパは1969年8月にMOIを解散した後、同年11月から1970年4月までの間、Frank Zappa & Hot RatsFrank Zappa & Friendsなどの名義で元MOIのミュージシャンらと数回ステージに立っており、その中には5人編成や4人編成で演奏した場合があった。
  80. ^ ’Zoot Allures’のギター・ソロは1982年5月30日のコンサートで録音されたものである。
  81. ^ ザッパとグレース・スリックの共作。ザッパがプロデュースして、MOIのアート・トリップドン・プレストンイアン・アンダーウッド、そして後にアンダーウッドと結婚してルース・アンダーウッドとしてMOIのメンバーになるルース・コマノフが録音に参加。CDボックスJefferson Airplane Loves You(1992年)に収録。ザッパはスリックに自作映画Captain Beefheart vs. The Grunt Peopleに出演してもらいたがっていたという。
  82. ^ ザッパのストレイト・レコードから発表。
  83. ^ ザッパのビザール・レコードから発表。MOIのトリップが制作に参加。
  84. ^ ザッパのストレイト・レコードから発表。ザッパはプロデューサーを務めたほか、La Marr Bruisterの変名で'Lucille Has Messed My Mind Up'を提供し'Wonderful Wino'をシモンズと共作。のちに彼は'Lucille Has Messed My Mind Up'を『ジョーのガレージ』(1979年)で、'Wonderful Wino'を『ズート・アリュアーズ』(1976年)で取り上げた。
  85. ^ ジェフ・ベックロッド・スチュワートライ・クーダーニッキー・ホプキンス、MOIのアンダーウッド、プレストン、ブラック、エストラーダが参加。ザッパのストレイト・レコードから発表された。
  86. ^ バンド名はMOIのアルバム『クルージング・ウィズ・ルーベン&ザ・ジェッツ』(1968年)に因んだ。
  87. ^ ザッパのザッパ・レコードから発表。ザッパはシャンカーと数曲を共作。アイク・ウィリスが参加した。
  88. ^ 『フリーク・アウト』をプロデュースしたトム・ウィルソンがプロデュース。ザッパは自作'All Night Long'を含む2曲の制作に参加。
  89. ^ 第52回「ロボットはイヤ」の冒頭で、ザッパがマイク・ネスミスの格好をしてものまねをして、反対にネスミスがザッパのものまねをしている。ネスミスは「彼に出てくれないかと頼むと、『君の役をやらせてもらえるのなら出るよ』と言われたので、それなら自分は彼の役を演じると返事して、彼に自分の毛糸の帽子を渡して、自分は彼の格好をした。」と述べている。
  90. ^ 「ダディーズ・ソング」のシーンに登場して、デイビー・ジョーンズと言葉を交わした。
  91. ^ 2枚組アルバムのD面に, 1971年6月6日にニューヨーク・フィルモア・イーストにて開催されたMOIのコンサートのアンコールにレノン夫妻がゲスト出演した時の音源をレノン側が単独で編集したものが収録された、ウォルター・ワードの「ウェル」以外の収録曲の曲名と作者名は全てレノン側の決定による。ザッパ作の'King Kong'の演奏は、ザッパの許諾なしでレノン/オノ作「ジャムラグ」とされ、彼に印税は支払われなかった。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d Semley, John (2012年8月9日). “Where to dive into Frank Zappa’s weird, unwieldy discography”. The A.V. Club. G/O Media. 2023年5月30日閲覧。
  2. ^ Parker, Lyndsey (2022年10月1日). “Moon Zappa's complicated relationship with 'Valley Girl,' 40 years later: 'I just was trying to make my dad laugh'”. Yahoo Entertainment. Yahoo. 2023年5月30日閲覧。
  3. ^ Semley, John (2020年11月26日). “How Weird Was Frank Zappa?”. The New Republic. 2024年5月2日閲覧。
  4. ^ Comedy Rock Music Overview - オールミュージック. 2024年5月2日閲覧。
  5. ^ Lowe, Kelly Fisher (2007). The Words and Music of Frank Zappa. Bison Books. p. 118. ISBN 9780803260054 
  6. ^ a b Ruhlmann, William. Frank Zappa Biography, Songs, & Albums - オールミュージック. 2020年12月8日閲覧。
  7. ^ Maume, Chris (2015年10月12日). “Gail Zappa: Frank Zappa's wife, muse and manager who ferociously protected his musical legacy”. The Independent. Independent News & Media. 2024年5月2日閲覧。
  8. ^ Rivadavia, Eduardo (2015年4月21日). “Revisiting Frank Zappa's Experimental, Genre-Defying 'Uncle Meat'”. Ultimate Classic Rock. Townsquare Media. 2023年5月30日閲覧。
  9. ^ ザッパ, フランク、オチオグロッソ, ピーター『フランク・ザッパ自伝』河出書房新社、2004年、320頁。ISBN 4-309-26719-X 
  10. ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), p. 245.
  11. ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), p. 15.
  12. ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), p. 19.
  13. ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), p. 16.
  14. ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), p. 21.
  15. ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), p. 23.
  16. ^ Miles (2004), pp. 15–16.
  17. ^ フランク・ザッパ バイオグラフィ 2022年2月26日閲覧
  18. ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), p. 199.
  19. ^ a b c Zappa & Occhiogrosso (1990), p. 29.
  20. ^ Milkowski, Bill. “1983-02 Frank Zappa: Guitar Player”. ZB Zappa Books. 2020年12月8日閲覧。
  21. ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), p. 45.
  22. ^ Discogs”. 2023年1月20日閲覧。
  23. ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), pp. 30–34.
  24. ^ a b Zappa & Occhiogrosso (1990), p. 34.
  25. ^ Miles (1993), p. 16.
  26. ^ Barnes (2011), p. 12.
  27. ^ a b Zappa & Occhiogrosso (1990), p. 35.
  28. ^ imdb.com”. 2023年1月12日閲覧。
  29. ^ imdb.com”. 2023年1月12日閲覧。
  30. ^ a b Zappa & Occhiogrosso (1990), p. 43.
  31. ^ discogs.com”. 2023年4月10日閲覧。
  32. ^ a b Discogs”. 2023年4月10日閲覧。
  33. ^ Discogs”. 2023年4月10日閲覧。
  34. ^ a b Discogs”. 2023年4月10日閲覧。
  35. ^ Miles (2004), pp. 71.
  36. ^ Discogs”. 2023年4月1日閲覧。
  37. ^ Discogs”. 2023年4月15日閲覧。
  38. ^ Miles (2004), p. 73.
  39. ^ Discogs”. 2023年4月15日閲覧。
  40. ^ Miles (2004), pp. 79–81.
  41. ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), pp. 41–44.
  42. ^ Miles (2004), pp. 80–91.
  43. ^ Miles (2004), pp. 81–82.
  44. ^ a b Zappa & Occhiogrosso (1990), p. 65.
  45. ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), pp. 88–89.
  46. ^ 「フランク・ザッパを聴く」 大山甲日著。p.47
  47. ^ Miles (2004), pp. 196–197.
  48. ^ Miles (2004), p. 197.
  49. ^ a b Zappa & Occhiogrosso (1990), p. 109.
  50. ^ a b Ulrich (2018), p. xxx.
  51. ^ Miles (2004), pp. 197–199.
  52. ^ Ulrich (2018), p. 413.
  53. ^ Ulrich (2018), pp. 260–261.
  54. ^ Ulrich (2018), pp. 656–657.
  55. ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), pp. 112–113.
  56. ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), pp. 113–115.
  57. ^ Miles (2004), pp. 229–230.
  58. ^ Ulrich (2018), pp. 374–375.
  59. ^ a b Ulrich (2018), pp. 440–441.
  60. ^ Ulrich (2018), pp. xxxii–xxxiii.
  61. ^ a b c 『フランク・ザッパ自伝 (The Real Frank Zappa Book)』より。
  62. ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), p. 115.
  63. ^ Ulrich (2018), pp. 434–435.
  64. ^ Discogs”. 2023年1月21日閲覧。
  65. ^ Ulrich (2018), pp. 20–21.
  66. ^ Ulrich (2018), pp. 450–451.
  67. ^ a b Ulrich (2018), p. 525.
  68. ^ Ulrich (2018), p. 198.
  69. ^ Ulrich (2018), pp. 28–29.
  70. ^ a b c d Ulrich (2018), p. 177.
  71. ^ Ulrich (2018), pp. ix--x.
  72. ^ Ulrich (2018), p. 272.
  73. ^ Ulrich (2018), p. 666.
  74. ^ Ulrich (2018), p. 405.
  75. ^ Ulrich (2018), pp. 456–457.
  76. ^ Ulrich (2018), pp. 202–203.
  77. ^ Ulrich (2018), p. 243.
  78. ^ Ulrich (2018), pp. 332–333.
  79. ^ Ulrich (2018), pp. 504–505.
  80. ^ Ulrich (2018), pp. 338–339.
  81. ^ Ulrich (2018), pp. 60–61.
  82. ^ Ulrich (2018), p. 474.
  83. ^ Discogs”. 2023年1月21日閲覧。
  84. ^ Ulrich (2018), pp. 638–639.
  85. ^ Ulrich (2018), p. 498.
  86. ^ Ulrich (2018), p. 516.
  87. ^ a b zappa.com”. 2023年3月12日閲覧。
  88. ^ Ulrich (2018), pp. 530–531.
  89. ^ Ulrich (2018), pp. 190–191.
  90. ^ Ulrich (2018), pp. 52–53.
  91. ^ Discogs”. 2024年6月8日閲覧。
  92. ^ Ulrich (2018), pp. 279–295.
  93. ^ Ulrich (2018), pp. 279–280.
  94. ^ Ulrich (2018), p. 127.
  95. ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), pp. 261–291.
  96. ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), p. 261.
  97. ^ Miles (2004), p. 344.
  98. ^ Ulrich (2018), pp. 34–35.
  99. ^ Idyllwild Arts Foundation”. 2023年1月21日閲覧。
  100. ^ Discogs”. 2023年1月21日閲覧。
  101. ^ Discogs”. 2023年1月21日閲覧。
  102. ^ a b Miles (2004), pp. 346–347.
  103. ^ a b c Miles (2004), pp. 346–350.
  104. ^ Miles (2004), p. 348.
  105. ^ Ulrich (2018), pp. xxxvi–xl.
  106. ^ Miles (2004), pp. 57–58.
  107. ^ Discogs”. 2023年2月1日閲覧。
  108. ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), p. 195.
  109. ^ Discogs”. 2023年3月17日閲覧。
  110. ^ Discogs”. 2023年3月17日閲覧。
  111. ^ Discogs”. 2023年3月17日閲覧。
  112. ^ Discogs”. 2023年3月17日閲覧。
  113. ^ 「フランク・ザッパを聴く」大山甲日。p.388
  114. ^ https://www.criticsatlarge.ca/2013/03/american-composer-frank-zappas.html
  115. ^ マーフィーの法則
  116. ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), pp. 39–40.
  117. ^ Zappa & Occhiogrosso (1990), p. 81.
  118. ^ Discogs”. 2024年6月8日閲覧。
  119. ^ Discogs”. 2024年6月8日閲覧。
  120. ^ Miles (2004), pp. 240–241.
  121. ^ ロッキンf 2015(サウンド・デザイナー) 80p
  122. ^ Ulrich (2018), p. 265.
  123. ^ a b c Ulrich (2018), pp. xxxv–xxxvi.
  124. ^ Ulrich (2018), pp. ix–v.
  125. ^ 『シーク・ヤブーティ』95年版ライナーノーツ(岸野雄一述)より
  126. ^ a b 植村和紀『洋楽日本盤のレコード・デザイン』(グラフィック社 2015年 ISBN 9784766127430 P84)
  127. ^ zappa.com”. 2023年9月23日閲覧。
  128. ^ zappa.com”. 2023年9月23日閲覧。
  129. ^ zappa.com”. 2009年9月23日閲覧。
  130. ^ zappa.com”. 2023年9月23日閲覧。
  131. ^ zappa.com”. 2023年9月23日閲覧。
  132. ^ zappa.com”. 2023年9月23日閲覧。
  133. ^ Discogs”. 2023年4月15日閲覧。
  134. ^ Discogs”. 2023年4月15日閲覧。
  135. ^ Discogs”. 2023年4月15日閲覧。
  136. ^ Discogs”. 2023年4月15日閲覧。
  137. ^ Discogs”. 2023年4月15日閲覧。
  138. ^ Discogs”. 2023年4月15日閲覧。
  139. ^ imdb.com”. 2023年3月12日閲覧。
  140. ^ zappa.com”. 2023年3月13日閲覧。
  141. ^ imdb.com”. 2023年3月12日閲覧。
  142. ^ zappa.com”. 2023年3月13日閲覧。
  143. ^ imdb.com”. 2023年3月12日閲覧。
  144. ^ imdb.com”. 2023年3月12日閲覧。
  145. ^ zappa.com”. 2023年3月13日閲覧。
  146. ^ imdb.com”. 2023年3月12日閲覧。
  147. ^ zappa.com”. 2023年3月13日閲覧。
  148. ^ imdb.com”. 2023年3月12日閲覧。
  149. ^ zappa.com”. 2023年3月13日閲覧。
  150. ^ imdb.com”. 2023年3月12日閲覧。
  151. ^ zappa.com”. 2023年3月13日閲覧。
  152. ^ imdb.com”. 2023年3月12日閲覧。
  153. ^ zappa.com”. 2023年3月13日閲覧。
  154. ^ zappa.com”. 2023年3月13日閲覧。
  155. ^ zappa.com”. 2023年3月13日閲覧。
  156. ^ imdb.com”. 2023年3月12日閲覧。
  157. ^ imdb.com”. 2023年3月12日閲覧。
  158. ^ zappa.com”. 2023年3月12日閲覧。
  159. ^ zappa.com”. 2023年3月12日閲覧。
  160. ^ zappa.com”. 2023年3月13日閲覧。
  161. ^ zappa.com”. 2023年3月13日閲覧。
  162. ^ zappa.com”. 2023年3月13日閲覧。
  163. ^ zappa.com”. 2023年3月13日閲覧。
  164. ^ zappa.com”. 2023年3月12日閲覧。
  165. ^ Miles (2004), pp. 167–168.
  166. ^ Miles (2004), pp. 123–124.
  167. ^ Miles (2004), pp. 158–159.

引用文献

[編集]
  • Zappa, Frank; Occhiogrosso, Peter (1990). The Real Frank Zappa Book. New York: Touchstone. ISBN 0-671-70572-5 
  • Miles, Barry (1993). Frank Zappa In His Own Words. London: Omnibus Press. ISBN 0-7119-3100-3 
  • Miles, Barry (2004). Zappa. New York: Grove Press. ISBN 0-8021-4215-X 
  • Ulrich, Charles (2018). The Big Note: A Guide To The Recordings Of Frank Zappa. Vancouver: New Star. ISBN 978-1-55420-146-4 
  • Barnes, Mike (2011). Captain Beefheart: The Biography. London: Omnibus Press. ISBN 978-1-78038-076-6 

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]