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佐々木健介

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佐々木 健介
佐々木 健介の画像
プロフィール
リングネーム 佐々木 健介
パワー・ウォリアー
ケンスキー佐々木
マスクド・ボルケーノ
本名 佐々木 健介
ニックネーム マッスルボルケーノ
身長 180cm
体重 115kg
誕生日 (1966-08-04) 1966年8月4日(57歳)
出身地 福岡県福岡市南区
所属 ダイヤモンド・リング
スポーツ歴 柔道
トレーナー 長州力
マサ斎藤
デビュー 1986年2月
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佐々木 健介(ささき けんすけ、男性、1966年8月4日 - )は、日本プロレスラータレント。本名同じ。福岡県福岡市南区出身。東福岡高校卒業。

2008年7月よりプロレスリング・ノアを主戦場とする。健介オフィス所属で同社取締役を務めるほか、タレント活動も行っている。妻は、全日本女子プロレス出身の元プロレスラーで健介オフィス代表取締役北斗晶(佐々木久子)。

来歴

ジャパンプロレス - 新日本時代

福岡市立花畑中学校時代から柔道を始める[1]東福岡高等学校卒業後、長州力に憧れ1985年6月にジャパンプロレスに入門、1986年2月に笹崎伸司戦でデビュー。長州が新日本プロレスに出戻るとそれに付き従い、1987年6月に移籍。前座戦線で鈴木みのると幾度となく対戦。これが後のライバル関係の発端となった。

1991年秋に、馳浩とのタッグチームで当時新日本プロレスが業務提携を結んでいたWCWへ長期遠征することになっていたが、出発直前の試合で足を骨折(全治6か月と診断)、そのまま長期欠場を余儀なくされ、結局遠征そのものが取りやめとなってしまうというアクシデントに見舞われた。1992年に復帰。11月からは別キャラクター『パワーウォリアー』に変身。ホーク・ウォリアーヘルレイザーズを結成しタッグ戦線で活躍する(詳しくは別項)。

1994年12月からは再び素顔の佐々木健介としての活動がメインとなり、1997年には第30代IWGPタッグ王座を奪取(パートナーは長州力)。また、8月にはG1クライマックス初優勝、第32代IWGPタッグ王座奪取(パートナーは山崎一夫)、さらに橋本真也を倒し第20代IWGPヘビー級王座に就き、史上初の新日本プロレスタイトル3冠制覇を達成した。2000年には1月4日東京ドーム大会で2度目となるIWGPヘビー級王座を天龍源一郎から奪取、また同年のG1クライマックスにも2度目の優勝を果たしたが、これは1995年大会の武藤敬司以来2人目となる、IWGPヘビー級王者としてのG1制覇であった。同年10月には全日本プロレス代表として乗り込んできた川田利明新日本プロレスの代表として対戦するも敗北し、IWGP王座を返上した。翌2001年年1月4日の東京ドーム大会では前年に佐々木自身が返上し空位となっていたIWGPヘビー級王座の新王者決定トーナメントが開催され、決勝戦で川田と対戦して勝利し、前年10月の雪辱を果たすとともに3度目のIWGPヘビー級王座獲得を果たした。

コスチュームは1990年代初期よりスパッツタイプを使用。しかし1997年、長州の引退発表直後のG1クライマックスから黒いショートタイツに黒いリングシューズのみのストロングスタイルに変身する。

迷走期

長州政権下で本隊のエースとして君臨、闘魂三銃士と肩を並べる存在として絶頂にあった佐々木であったが、長州が実権を失いつつあった2000年後半頃より迷走を始める。

中でも2001年は佐々木にとっては悪夢とも言える年となった。3月スコット・ノートンに敗れてIWGPヘビー級王座を失った際、藤田和之「正直スマンかった」と発言。4月の大阪ドーム大会で藤田とタイトルを賭けてシングルが組まれる予定であったが、この発言に激怒した猪木の介入により対戦が取消になる。4月のドーム大会では代わりに橋本真也と対戦するも、健介は橋本の顔面への重爆キック一撃で失神KO。橋本戦敗北後は新日本隊のエースでありながら巡業を欠場して失踪する。後に総合格闘技の修行を行うため渡米していたと判明。現地のMMAの大会で勝利を上げる等の実績を重ねたとして、10月の東京ドーム大会で藤田和之との対戦が組まれたものの6分余りで完敗した。なお、この頃よりリングコスチュームを再びスパッツタイプに戻して現在に至っている。

2002年1月、小川直也とシングル戦で対戦するが両者セコンドの乱入等もあって無効試合に終わる。6月に鈴木健想棚橋弘至ブルー・ウルフと新ユニット「SWING-LOWS」を結成するも、当時の新日2大勢力であった本隊およびTEAM 2000の陰に埋没し、佐々木自身のWJ移籍(後述)もあり暫くの後に雲散霧消した。

WJ時代

2002年11月、鈴木みのる戦を巡る交渉の過程で会社への不信感を理由に新日プロを退団(10月の東京ドーム大会寸前に退団を発表したため、「妨害行為」として藤波辰爾社長や永田裕志ら選手から激しい批判を浴びた)。移籍先は長州力を中心に設立されたプロレス団体WJプロレスであった。長州らによる放漫な団体運営や観客動員数の低迷による給料未払い、有力選手の離脱など困難の中、2003年7月WMG(ワールド・マグマ・ザ・グレーテスト、WJのシングルベルト)初代王者決定戦トーナメントに優勝、9月には『X-1』へ参戦する等奮闘するが、その甲斐も無くWJプロレスは崩壊、12月に退団した。

結婚式では仲人を務めて貰い、一時は二代目長州力を襲名する話[2]が持ち上がるほど良好だった師弟関係は、長州の「会社に貸した金だよな。オレ、返さないから」という借金踏み倒し宣言をきっかけに疎遠となった。 これは、興行に必要な会場代や外国人選手を呼ぶギャラ等の経費として健介から借りた500万円の借金を踏み倒す際に堂々と宣言したものであった。 この当時の佐々木家は息子のミルクを薄めて飲ますような経済状態で、自分や子供の保険などを解約して工面した500万円を借用書無しで貸していた。 一方、長州は娘2人をイギリス留学させておりその際の生活費に月100万ほど掛けていたとされる。 2005年WRESTLE-1トーナメント1回戦にて長州と対戦するも、無気力ファイトを展開され消化不良のまま健介の勝利に終わる。 試合後に健介は「気持ちがわかりあえると思ったけど…」と埋まらない溝を改めて痛感、鬼嫁・北斗晶が「二度とやることはない」と絶縁宣言するに至る。

この頃から健介は、プロレスラーとしてのパフォーマンスを技術として観客に魅せるものへと徐々に変化の兆しを見せ始めていた。折しもこの時期に次男が誕生している。だが、籍を置いたWJという団体の低迷も災いして、造詣の深いプロレスファン以外に佐々木のリング上での変化は知られることも無かった。 団体に恵まれなかったといえばそこまでであるが、その後の活躍への布石を微かに見せながらも、まさにプロレス界のどん底を這い回る状態であった。

健介オフィス設立 - 全日本、NOAH参戦

フリーランス宣言して2004年を迎えたが、しばらく仕事がほとんど無い状態が続いた。糊口を凌ぐためにインディーズ団体への1日2試合出場などもこなしたが、経済的には窮地へと追い込まれてゆく。そんな折、全日本プロレス社長の武藤敬司から参戦オファーを受ける。埼玉県吉川市の自宅に直接かかって来たこの電話に、健介と北斗は二人で涙したと語っている。

その後自宅に健介オフィスを設立。新日本や全日本などのメジャーからDDT(健介そっくりのキャラクターで戦う健心(藤沢一生)とタッグを結成している)のようなインディーまで幅広い団体に出場する。妻の北斗晶をマネージャー兼プロデューサーの「鬼嫁」として、「息子」こと中嶋勝彦を交えた「健介ファミリー」ではカカア天下キャラを押し出すパフォーマンス手法を確立して、観客アピールの幅を大きく広げる。健介自身のファイトスタイルも大型レスラー相手に名勝負を展開できるまでに進化し、かつて新日本時代に散々苦しめられた『しょっぱい』というレッテルを完全に払拭することに成功した。

2004年度にはプロレス大賞MVPを受賞。この年藤田和之からIWGPヘビー級王座を奪取したのが決め手となった。 しかしこの試合では、技(チョークスリーパー)をかけつつ自ら後方に倒れこんだ藤田に対して3カウントを取るという不可解なレフェリングに疑問の声が挙がり、健介自身もリング上にベルトとトロフィーを置いたまま引き上げることで抗議の意思を示している。 この裁定に健介の妻・北斗晶は激怒。子供を抱えたままリングサイドにいた新日本プロレスのフロント陣を蹴りつけ、そのままインタビュールームに乗り込み、涙を流しながら「これが新日本のやり方か!? フリーだからと舐めるな!!」と叫ぶ。健介もトロフィーを廊下に投げつけて破壊し、ファミリーは早々に会場から引き上げた。これらの言動を当時世話になっていた天龍源一郎から「子供に悪影響を与えたらどうするんだ」と諌められた[3]。その後、天山広吉に敗れて王座から陥落。以降新日本には参戦してない。

2005年7月18日、NOAH東京ドームで行われた対小橋建太戦では、常識を超えた逆水平の打ち合いを繰り広げ、この年のプロレス大賞ベストバウトに選ばれた。小橋との試合後、興奮が冷めないことと、小橋が試合後もトレーニングに励むと聞いたことから健介も控え室でチューブトレーニングなどを行った。翌日は試合はなく、ある雑誌の取材を受けていたが、小橋が「健介は今日も試合があると思ってトレーニングをしていた」という発言をしたと聞き、帰ってすぐトレーニングに励んだ。11月5日、NOAH日本武道館大会に参戦して、小橋とタッグで対戦。翌年1月になっても胸の傷は治らなかった程の逆水平チョップの打ち合いを繰り広げた。

2005年12月14日に健介オフィスの株式会社化を発表、2006年2月11日にデビュー20周年の節目に初の自主興行を全日本プロレス、NOAHの協力の下後楽園ホールにて開催し、メインで小橋と組み中嶋勝彦と天龍源一郎とタッグマッチに出場した。7月16日、NOAH日本武道館大会で腎腫瘍摘出手術により欠場することになった小橋の代役として、左眼窩底骨折を隠してリングに上がり、この日に復帰戦を行った高山善廣とのタッグを結成した。これらの経緯もあって小橋と親交を深めることになり、NOAHに参戦するようになる。

2007年8月26日、三冠ヘビー級選手権試合で王者である鈴木みのると対戦。この試合のために新技「キングバスター」「ストラングルホールドZ」を開発した。42分の激闘の末にラリアットで下し、3度目の正直で、三冠王座初戴冠を果たした。王座陥落後は主戦場をNOAHに移した。2008年9月6日、NOAHで森嶋猛からGHCヘビー級王座を奪取し、史上初めて日本国内3大メジャー団体(新日本・全日本・NOAH)のヘビー級シングルタイトルを奪取した。

ダイヤモンド・リング設立

2012年2月11日、興行名を健介オフィス自主興行からダイヤモンドリングに改称、所属もダイヤモンド・リングとなる。

人柄・エピソード

プロレス、プライベート

  • 健介はデビュー当初、全く勝つことができず初勝利まで203連敗という記録を喫していた[4]。対照的に妻の北斗は当時デビューからの連勝記録を保持していた。
  • 全日本では小川良成(現:ノア)[5]、新日本では飯塚高史、が同年齢の同期にあたり、若手時代から互いに呼び捨てで接している。
  • 新日本プロレスが全日本女子プロレスと合同で平壌興行を行った際、当時全日本女子プロレス所属であった北斗晶に一目惚れ(しかし、後に当初健介は豊田真奈美を狙っていた事が発覚した。[6])し、帰国後に結婚を申し込む。北斗もこれを快諾し、異例の早さでの結婚となった。現在は北斗との間に二人の息子をもうけている。なお、パブリックな場では妻を「北斗」と呼んでいるが、プライベートでは「チャコ」と呼んでいる。現在のフィニッシュムーヴであるノーザンライトボムは、もともとは北斗が考案しフィニッシュムーヴとしていたもので、結婚前後から健介もこれをフィニッシュムーヴとして使用するようになった。一方、北斗は現役時代に健介のオリジナルホールドであるストラングルホールドγを使用している。
  • 小橋建太とは、2005年のドームからの付き合い。ファイトスタイルや体つきが似ていることなどでかなり共通点が多い二人だが、小橋が腎臓癌で入院した際、健介は左眼窩底骨折を患い、同じ時期に入退院をしたり、同じ時期に買った携帯がたまたま全く同じ機種だったり、偶然の所でも通じ合うものがあるという。
  • 長男は将来両親と同じプロレスラーになりたいと言っている。
  • 健介は自宅を純和風にしたかったが、北斗は洋風が良いと譲らず、最終的には庭に松の木を一本植えさせてもらうことしかできなかったという。

バラエティ番組での活躍

バラエティ番組では笑顔を見せることが多くプロレスラーとしての活躍の一方、テレビ朝日系『シルシルミシルさんデー』やTBS系『どうぶつ奇想天外』、テレビ東京系の旅行番組などのバラエティ番組にも夫妻や一家で時折出演している。多くは夫人の北斗の鬼嫁キャラを活かして、自らは「カカア天下の尻に敷かれる亭主」という恐妻家の役回りであるが、旅行番組などでは一家で仲睦まじいところを見せている。

テレビ朝日のバラエティ番組『いきなり!黄金伝説。』の人気コーナー「夫婦2人1週間5千円節約バトル」に夫婦で出場し、王者(防衛1回)になった。

また、ココリコ遠藤章造がナビゲーターを担当するBRAVO!では嫁の北斗晶とガチンコでトレーニングする様子が紹介された。

2008年大晦日の『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!山崎VSモリマンスペシャル』には佐々木は偽ダイナマイト四国として、北斗はお助けキャラとして夫婦揃って出演し、佐々木は相手役の武藤敬司と実戦さながらの白熱した戦いを見せた。

名言

「ポカやった、ポカやりすぎた…」
1995年10月、UWFインターナショナルとの全面対抗戦での垣原戦後のインタビューにて。
「正直スマンカッタ」
2001年3月、IWGPタイトルマッチを約束しながら、直前の試合でスコット・ノートンにタイトルを奪われ、約束を果たせなかったことに対する藤田和之への謝罪。
「納得いかない、ヴァー」
2002年1月、セコンドの乱入により無効試合となった小川直也戦後の発言。一部のスポーツ紙が「ヴァー」と表記したため話題に。

獲得タイトル

全日本プロレス
新日本プロレス
プロレスリング・ノア
みちのくプロレス
WJプロレス
  • WMG(ワールド・マグマ・ザ・グレーテスト)シングル王座
海外

主な得意技

新日本時代は師匠であった長州力の流れを汲む、典型的なパワーファイターとしてのスタイルを前面に出していたが、フリーランスになってからはプロレスの幅を広げ、コーナーからのダイビング技など多彩な技を柔軟に使いこなす傾向にある。

逆水平チョップ
健介のパワーファイトの基本となる技。相手の胸板を赤く腫れ上がらせ、炸裂音で観客をどよめかせることもしばしば。若手時代から因縁深い鈴木みのるからは、小橋建太とともに「俺が今まで受けたチョップの中で“痛いチョップランキング”ベスト3のうちの2人」と、最大級の賛辞を受けている。
ラリアット
健介のラリアットは、太い腕を横一直線に相手の胸元および喉元へ叩きつけるため、体重の軽い選手は、その場で一回転しまう程の威力を誇る。雄叫びを上げながら勢い良くロープに飛び、加速をつけて繰り出す。
かまいたち
相手がラリアットなど、走り込みながら技を仕掛けてきた際に、相手の腕方向目掛けて放つ袈裟切り式のラリアット。対ラリアット迎撃法としての使用機会が多く、従来のラリアットを得意とする選手同士によるラリアットのクロスカウンターから一歩進化した「ラリアットの打ち合い」としてもよく使用している。
トランプ
2006年4月、チャンピオン・カーニバル連覇のために開発した技。アメフト式で相手に向かって走ってぶつかりながらのかち上げ式エルボースマッシュ(別名:アッパーラリアット)。名前の由来はこの技が「切り札」だから。初公開の相手は吉江豊で吉江の巨体を吹き飛ばすほどの威力だったが、"brother"YASSHI戦、GHCタイトルを奪取した森嶋猛戦とわずか3度しか使用していない。
ドロップキック
前座時代の得意技の一つで、弾丸のように相手の体に突き刺さる。
パワースラム
ロープに振って返ってきた相手の体を抱え上げ、勢いそのままに叩きつける技。馳健〜パワーウォリアー時代に多用した技であり、若手の頃のフィニッシュムーブ。現在は中盤での繋ぎ技、状況を変えるカウンター技としても使用している。
ノーザンライト・ボム(北斗ボム)
相手を脳天からマットに突き刺す、健介が使用するものの中でも特に破壊力、危険度の高い大技。フィニッシュムーブとしての説得力は絶大で、大一番で使用されることも多い。元々は妻・北斗晶の技であり、彼女から伝授された。北斗および他の選手が使う際はボディスラムの体勢から入るが、健介の場合は垂直落下式ブレーンバスターの体勢から入る。最初は北斗と同様の入り方をしていたが、「体にパワースラムのくせがついているし、こっちの方が体重を乗せ易い」との理由で現在のスタイルに変更(従来の入り方のものもたまに使う)した。
技のアレンジは北斗にも知らせておらず、初披露した際にテレビ中継のゲスト解説をしていた北斗は「これがノーザンライトボムですか?」と質問された際に「違う」と言っている(マスコミや北斗に対しノーザンライトボムのアレンジであることを話したのは試合後である)。
当時一発のインパクトに欠けていることを自覚して思い悩んでいたときに、誕生日プレゼントと称して伝授したと北斗は語っている。
ボルケーノ・イラプション
バックから相手の左腕をチキンウィングでロックしつつ左手で首元を押さえ、右腕で股下から抱え上げ、抱えた相手をサイドに流すような形で仰向けに叩きつける、ノーザンライト・ボムを相手の背後から仕掛けるようにアレンジして開発された技。2004年1月にハワイHCWヘビー級王座を奪取した際に初披露された。日本での初披露は同年3月天山広吉の持つIWGPに挑戦した時に使われた。技名の由来は、技を開発する際にキラウエア火山をヒントにしたという所から。直訳すると「火山噴火」。浅間山が噴火した2004年9月に当面の間封印すると発表。その後この技はほとんど使われなくなっている。
逆一本背負い
通常の一本背負いとは逆の腕を捕り、豪快に投げつける技。受身を取るのが難しく、ひとつ間違えば肩の脱臼や脳天からの落下を招く。ロープに振るとみせかけてフェイントで繰り出したり、キチンシンクからの連携で繰り出すことがある。新日時代にヘラクレス・ヘルナンデス(ジュラシック・パワーズにおけるスコット・ノートンのパートナー)を、それまで劣勢だったにもかかわらず、この技一発によってピンフォールを奪ったことがある。
トルネードボム
相手の片足を取り、頭上へ担ぎ上げてのからの豪快なパワーボム。後藤達俊を失神させたこともあって、一時期封印していた。
高速パイルドライバー
持ち上げてからマットに脳天を落とすまでの動作が速いパイルドライバー。
フェイスクラッシャー
対角線のロープに振る→健介が走りこむ→相手がロープにぶつかる→反動で前に出てきたときに頭をつかんで繰り出す。大体の試合で必ず1回は出す技。馳浩とのタッグ時はダブルフェイスクラッシャー(左右から挟んでのフェイスクラッシャー)になる。リングマットに叩き付けるバージョンと、反対側のコーナーパッドに叩き付けるバージョンの2種類有り。
STK
健介式のSTOで「スペース・トルネード・ケンスケ」の略。小川直也のそれとは違い、掌を相手の顎にあてがっての大外刈である。海外総合格闘技修行からの帰国後によく使用していた。
雪崩式フランケンシュタイナー
大一番でしか出さない技。
タイガー・スープレックス
フリーになってから使うようになった技。あまり出すことは無い。クラッチは三沢光晴式。
ドラゴン・スープレックス
こちらもフリーになってから使うようになる。タイガー・スープレックスより使用頻度がやや高い。
ストラングルホールド
健介の代名詞的なオリジナル技で、海外武者修行中にハート道場で習得。最近はほとんどγしか出さない。ノーザンライトボムとは逆に、こちらは健介から北斗に伝えられている。
  • α - 片腕を押さえつけつつ、相手の頭を上下で両足で挟み込んで絞め上げる技。
  • β - αを相手がうつ伏せの状態で繰り出す。
  • γ - 自分の両足を使った羽根折り固め。
  • Ζ - 相手の体勢を逆さにしたγ。自分の足で相手の口を塞ぎ、スリーパーの効果も増やしている。
サソリ固め
師匠長州の直伝と云われる、健介の得意技。長州と縁を切ってからは使用していない。
監獄固め
もうひとりの師匠、マサ斎藤からの流れを受け継ぐ技。相手の下半身に圧し掛かり両足を極めるものだが、健介の場合は両腕も抱え込んで締め上げるフルネルソン式や、さらに上からチョップを打ち下ろし追撃することもある。
逆エビ固め
第26代IWGPヘビー級王者時代、原点回帰としてフィニッシュに多用していた。2000年G1クライマックス決勝の中西学戦では、この技でギブアップを奪い優勝している。
ビクトル落とし腕ひしぎ十字固め(巻き込み式腕ひしぎ逆十字固め)
巴投げの体勢から落として腕ひしぎ十字固めに行くサンボの技。昔から好んで使っている。
鬼嫁殺し
中嶋勝彦との連携技。
  1. 中嶋を振り回して遠心力で威力を増大させたキック。練習台になった北斗が「あたしを殺す気か!」と言ったことから技名が決定した。
  2. 健介が相手をトルネードボムで持ち上げた体勢の時に中嶋がR15を見舞いそのままたたき付ける技。
  3. ジャーマン・スープレックスの体勢で相手をつかんだ中嶋ごと健介がジャーマン・スープレックスで投げ飛ばす豪快な技。新崎人生アレクサンダー大塚組の合体技「眉山」と同型。
ダブルインパクト
パワー・ウォリアーが担ぎ上げた相手に、トップロープからホーク・ウォリアーがフライングラリアットを打ち込む。相手はラリアットと高い位置からの落下、2つの衝撃を味わう。ロード・ウォリアーズの代名詞といえる合体技であり、その血を引くヘルレイザーズ結成以降使用する。
ジャベ・デ・ピラミデ
ウルティモ・ドラゴン闘龍門校長より伝授された技。その詳細はまだ謎である。
ストラングル・ホールド・クラッチ
同じくドラゴンに伝授された技。ストラングル・ホールドγの体勢から相手を丸め込む技。
キングバスター
対鈴木みのる戦(三冠ヘビー級選手権)用に開発された技。ハーフネルソンで捕獲し、自らの左腕で相手の左手首を背部でクラッチ、そのままの姿勢で後ろに投げる。投げっ放しで脳天をマットに突き刺す技。三冠戦では決まらなかったが、その後近藤修司相手に初公開。鈴木は「キングバスター? (尾崎魔弓の)テキーラ・サンライズじゃねぇか[7]。後ろに投げているんだから(サイドバスター気味ではなくて)スープレックスだろ」というコメントをした。

佐々木健介の別キャラクター

健介は素顔でのファイトのほか、さまざまなキャラクターでリングに上がっている。その代表が『パワー・ウォリアー』である。

1992年、アメリカ遠征中だった健介は、ロード・ウォリアーズホーク・ウォリアーからの呼びかけでタッグチームを結成、『パワー・ウォリアー』と名乗った。同年11月9日、ミネアポリスでの小興行がデビュー戦で、日本には11月23日の新日本プロレスの両国国技館大会で初上陸(相手は長州力&馳浩組)。程なくスコット・ノートン&トニー・ホーム組を破りIWGPタッグ王座を奪取。1993年8月に奪取されるまで40連勝という、プロレス界の最高連勝記録を打ち立てた。このホークとのタッグはファン公募により『ヘルレイザーズ』と命名され、1990年代の新日を代表する名タッグチームとなった。

パワー・ウォリアー単独としては、1997年と2000年にグレート・ムタと対戦。ムタの十八番である毒霧を吹いたこともある。

フリーとなった後はレスラーとしての幅が広がり、ハワイ遠征時は将軍キャラ『KENSUKE』、闘龍門ジャパン / DRAGON GATE限定で、フロリダ・ブラザーズの一員の「博多生まれのアメリカ人」『ケンスキー佐々木』、みちのくプロレス限定の覆面レスラーマスクド・ボルケーノ』など普段のファイトスタイルとは全く違った一面をリング上で発揮するようにもなっている。

2007年9月1日、エルドラド近藤修司&"brother"YASSHIと対戦するために、封印していたパワー・ウォリアーを復活。ロード・ウォリアー・アニマルと共に「ヘル・ウォリアーズ」として戦った。また"brother"YASSHIもウォリアーのメイクで登場し、ウォリアー対決が実現した。

入場テーマ曲

  • TAKE THE DREAM ∞ + THE WORLD
WJ退団後(2004年以降)から現在までの入場曲。「TAKE THE DREAM ∞」 の冒頭部分から「THE WORLD」に移行する。
2001年10月8日東京ドーム大会から使用。
  • TAKE THE DREAM ∞
2000年1月4日の東京ドーム大会から翌年4月9日大阪ドーム大会まで使用。英語のボーカル入り。
  • テイク・ザ・ドリーム 〜閃光〜 (演奏:BLUE STEALER
1990年代後半に使用。ボーカル入りのバージョンも存在し、主に試合に勝った際に流れていた。
ヘルレイザーズ結成時に使用。
1990年代前半に使用。現在は弟子の中嶋勝彦が使用中。

テレビ

バラエティ

ドラマ

CM

脚注

  1. ^ 一年後輩には同じ柔道部に貴闘力がいた。
  2. ^ 佐々木健介『光を掴め! 佐々木健介自叙伝』メディアワークス、1999年、p129.
  3. ^ この件を切っ掛けに天龍は健介ファミリー入りした
  4. ^ いつみても波瀾万丈放送分より
  5. ^ 佐々木健介オフィシャルブログ 2011年6月19日観覧
  6. ^ アメトーーク!女子プロレス芸人の回でケンドーコバヤシとユウキロックが発言。
  7. ^ 実際にはムシキング・テリーのミストクラッシュと同型。

出典

1. 佐々木健介『光を掴め! 佐々木健介自叙伝』メディアワークス、1999年

関連項目

外部リンク