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{{政治家
| 人名 = 德川家達
| 各国語表記 = とくがわ いえさと
| 画像 = Prince Tokugawa Iesato.jpg
| 画像説明 = 1920年代の徳川家達公爵
| 国略称 = {{JPN}}
| 画像サイズ = 200px
| 生年月日 = [[1863年]][[8月24日]]
| 出生地 = {{JPN}} [[武蔵国]][[江戸]][[江戸城]]田安邸<br>(現[[東京都]][[千代田区]][[皇居]])
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1863|8|24|1940|6|5}}
| 死没地 = {{JPN}} [[東京府]][[東京市]][[渋谷区]][[千駄ヶ谷]]<br>(現[[東京都]][[渋谷区]][[千駄ヶ谷]])
| 所属政党 = (無所属→)<br>[[火曜会]]
| 出身校 = [[イートン・カレッジ]]
| 称号・勲章 = [[従一位]]<br/>[[公爵]]<br>[[大勲位菊花大綬章]]<br>他[[#栄典|下記]]参照
| 配偶者 = [[徳川泰子]](旧姓[[近衛家|近衛]])
| 子女 = 長男・[[徳川家正]]
| 親族(政治家) = 弟・[[徳川達孝]](貴族院議員)<br>弟・[[徳川頼倫]](貴族院議員)<br>娘婿・[[鷹司信輔]](貴族院議員)<br>娘婿・[[松平康昌]](貴族院議員)
| 職名 = 第4−8代 [[貴族院議長 (日本)|貴族院議長]]
| 就任日 = [[1903年]][[12月4日]]
| 退任日 = [[1933年]][[6月9日]]
| 国旗 = 日本
| 元首職 = 天皇
| 元首 = [[明治天皇]]<br>[[大正天皇]]<br>[[昭和天皇]]
| 職名2 = [[貴族院 (日本)|貴族院議員]]
| 選挙区2 = 公爵議員(終身)
| 就任日2 = [[1890年]][[11月29日]]
| 退任日2 = [[1940年]][[6月5日]]
| 国旗2 = 日本
| 職名3 = [[駿府藩|駿府藩/静岡藩]]藩主・知藩事
| 就任日3 = [[1868年]][[7月13日]](旧暦[[5月24日 (旧暦)|5月24日]])
| 退任日3 = [[1871年]]
| 国旗3 = 日本
| 元首職3 = 天皇
| 元首3 = [[明治天皇]]
}}
'''德川 家達'''(とくがわ いえさと、[[1863年]][[8月24日]]([[文久]]3年[[7月11日 (旧暦)|7月11日]]) - [[1940年]]([[昭和]]15年)[[6月5日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[位階]]、[[勲等]]、[[爵位]]は[[従一位]][[大勲位]][[公爵]]。もとは[[田安徳川家]]第7代当主で、[[徳川将軍家|徳川宗家]]第16代当主となり、[[静岡藩]]初代藩主となった。[[廃藩置県]]後[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員となり、1903年から1933年までの30年にもわたって第4代から第8代までの[[貴族院議長]]を務めた。また[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン軍縮会議]]全権大使、[[1940年東京オリンピック]]組織委員会委員長、第6代[[日本赤十字社]]社長、[[華族会館]]館長、[[学習院]]評議会議長、[[日米協会]]会長、恩賜財団[[紀元二千六百年記念行事|紀元二千六百年奉祝会]]会長なども歴任。[[大正]]期には[[組閣の大命]]も受けた(拝辞)。[[雅号|号]]は静岳。世間からは「十六代様」と呼ばれた。

== 生涯 ==
=== 静岡藩主になるまで ===
{{基礎情報 武士
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 徳川家達
| 氏名 = 徳川家達
| 画像 = Tokugawa Iesato.jpg
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| 画像説明 =
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| 戒名 = 顕徳院殿祥雲静岳大居士
| 戒名 = 顕徳院殿祥雲静岳大居士
| 墓所 = [[東京都]][[台東区]][[上野]]の[[寛永寺]]
| 墓所 = [[東京都]][[台東区]][[上野]]の[[寛永寺]]
| 官位 = 従四位下少将、従三位中将[[従一位]]
| 官位 = 従四位下少将、従三位中将<!--武士時代にとった官位ではない[[従一位]]-->
| 主君 = [[徳川家茂]]→[[徳川慶喜]]→[[明治天皇]]
| 幕府 = [[江戸幕府]]
| 藩 = [[駿府藩]]藩主、[[駿府藩|静岡藩]]知事
| 藩 = [[駿府藩]]藩主、[[駿府藩|静岡藩]]知事
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| 特記事項 =
| 特記事項 =
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}}
[[江戸城]]田安屋敷において、田安家の[[徳川慶頼]]の三男として誕生した{{sfn|原口大輔|2018|p=1}}。[[幼名]]は亀之助。慶頼は第14代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川家茂]]の[[将軍後見職]]であり、[[江戸幕府|幕府]]の要職にあった。母は高井武子{{Refnest|group="注釈"|生母の武子は[[田安徳川家]]家臣の津田栄七の長女で、高井主水の養女となった。武子の実妹の初子が[[津田梅子]]の母親であるため、家達と梅子は[[従兄妹]]にあたる。}}。家達は家茂および第13代将軍・[[徳川家定]]の[[再従兄弟]]にあたる。
'''德川 家達'''(とくがわ いえさと、[[1863年]][[8月24日]]([[文久]]3年[[7月11日 (旧暦)|7月11日]]) - [[1940年]]([[昭和]]15年)[[6月5日]])は、[[徳川将軍家|徳川宗家]]第16代当主。もとは[[田安徳川家]]第7代当主で、[[静岡藩]]初代藩主。[[幼名]]は'''亀之助'''。[[雅号|号]]は静岳。[[位階]]、[[勲等]]、[[爵位]]は[[従一位]][[大勲位]][[公爵]]。世間からは「十六代様」と呼ばれた。第4代から第8代までの[[貴族院議長]]、[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン軍縮会議]]全権大使、[[1940年東京オリンピック]]組織委員会委員長、第6代[[日本赤十字社]]社長、[[華族会館]]館長、[[学習院]]評議会議長、[[日米協会]]会長、恩賜財団[[紀元二千六百年記念行事|紀元二千六百年奉祝会]]会長などを歴任した。[[大正]]期には[[組閣の大命]]も受けた(拝辞)。


[[元治]]2年([[1865年]])[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]、実兄・[[徳川寿千代|寿千代]]の夭逝により田安家を相続する{{sfn|原口大輔|2018|p=1}}。[[慶応]]2年([[1866年]])に将軍・家茂が後嗣なく死去した際、家茂の近臣および[[大奥]]の[[天璋院]]や[[御年寄]]・[[瀧山]]らは家茂の遺言通り、徳川宗家に血統の近い亀之助の宗家相続を望んだものの、わずか4歳の幼児では国事多難の折りの舵取りが問題という理由で、また[[和宮親子内親王|静寛院宮]]、[[雄藩]][[大名]]らが反対した結果、[[一橋徳川家|一橋家]]の[[徳川慶喜]]が第15代将軍に就任した{{sfn|原口大輔|2018|p=1}}。
== 生涯 ==
=== 幼少期 ===
[[ファイル:Iesato Tokugawa.jpg|thumb|Left|150px|幼少期の家達]]
[[江戸城]]田安屋敷において、田安家の[[徳川慶頼]]の三男として誕生した。慶頼は第14代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川家茂]]の[[将軍後見職]]であり、[[江戸幕府|幕府]]の要職にあった。母は高井武子{{Refnest|group="注釈"|生母の武子は[[田安徳川家]]家臣の津田栄七の長女で、高井主水の養女となった。武子の実妹の初子が[[津田梅子]]の母親であるため、家達と梅子は[[従兄妹]]にあたる。}}。家達は家茂および第13代将軍・[[徳川家定]]の[[再従兄弟]]にあたる。


=== 家督相続と静岡藩主・知藩事 ===
[[元治]]2年([[1865年]])[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]、実兄・[[徳川寿千代|寿千代]]の夭逝により田安家を相続する。[[慶応]]2年([[1866年]])に将軍・家茂が後嗣なく死去した際、家茂の近臣および[[大奥]]の[[天璋院]]や[[御年寄]]・[[瀧山]]らは家茂の遺言通り、徳川宗家に血統の近い亀之助の宗家相続を望んだものの、わずか4歳の幼児では国事多難の折りの舵取りが問題という理由で、また[[和宮親子内親王|静寛院宮]]、[[雄藩]][[大名]]らが反対した結果、[[一橋徳川家|一橋家]]の[[徳川慶喜]]が第15代将軍に就任した。
[[大政奉還]]・[[王政復古 (日本)|王政復古]]・[[江戸開城]]を経て、慶応4年([[1868年]])閏[[4月29日 (旧暦)|4月29日]]、新政府から慶喜に代わって徳川宗家相続を許可され、一族の[[松平斉民]]らが後見役を命ぜられた{{sfn|原口大輔|2018|p=1-2}}{{sfn|樋口雄彦|2012|p=22}}。


[[5月18日 (旧暦)|5月18日]]に亀之助改め家達と名乗ることになった{{sfn|樋口雄彦|2012|p=22}}。[[5月24日 (旧暦)|5月24日]]、[[駿府藩]]主として70万石を与えられる。その領地は当初[[駿河国]]一円と[[遠江国]]・[[陸奥国]]の一部であったが、[[9月4日 (旧暦)|9月4日]]に陸奥国に代えて[[三河国]]の一部に変更された{{sfn|樋口雄彦|2012|p=22}}{{sfn|原口大輔|海野福寿|1982|p=23-24}}。
=== 家督相続 ===
[[大政奉還]]・[[王政復古 (日本)|王政復古]]・[[江戸開城]]を経て、慶応4年([[1868年]])閏[[4月29日 (旧暦)|4月29日]]、新政府から慶喜に代わって徳川宗家相続を許可され、一族の[[松平斉民]]らが後見した。[[5月24日 (旧暦)|5月24日]]、[[駿府藩]]主として70万石を与えられる。[[11月 (旧暦)|11月]]、東京城([[皇居]])において[[明治天皇]]に拝謁。[[11月18日 (旧暦)|11月18日]]、[[従四位|従四位下]][[近衛府|左近衛権少将]]に叙任、同日さらに[[従三位]]左近衛権中将に昇叙転任する。


[[8月9日 (旧暦)|8月9日]]に中老[[大久保一翁]]、大目付[[加藤弘蔵]]など約100人を共にした行列を連れて[[江戸]]を出発し、徳川家所縁の地である[[駿府|駿河府中]](現:[[静岡市]][[葵区]])へ向かった{{sfn|樋口雄彦|2012|p=27-28}}。6歳の家達に随行した御小姓頭取の伊丹鉄弥は以下のように記録している。「亀之助殿の行列を眺める群衆、それが何だか寂しそうに見えた。問屋場はいずれも人足が余計なほど出て居る。賃銭などの文句をいふ者は一人半個もない。これが最後の御奉公とでも云いたい様子であった。途中で行逢ふ諸大名も様々で、一行の長刀{{#tag:ref|虎皮の投鞘のかかった長槍|group=注釈}}を見掛けて例の如く自ら乗物を出て土下座したものもある。此方は乗物{{#tag:ref|将軍か御三家しか許されない溜塗網代|group=注釈}}を止めて戸を引くだけのこと。そうかと思へば赤い髪を被って錦切れを付けた兵隊が、一行と往き違いざまに路傍の木立に居る鳥を打つ筒音の凄まじさ。何も彼も頓着しない亀之助殿であった」。また年寄[[女中]]の初井は、[[駕籠]]の中から五人囃子の人形のようなお河童頭がチョイチョイ出て「あれは何、これは何」と道中の眺めを珍しげに尋ねられ、これに対して、左からも右からもいろいろ腰をかがめてお答え申しあげたと伝えている。
明治2年([[1869年]])[[6月 (旧暦)|6月]]、静岡藩[[知藩事]]に就任し、[[徳川氏|徳川家]]ゆかりの地である[[駿府|駿河府中]](現:[[静岡市]][[葵区]])へ移住することとなる。この時、府中は不忠に通じる、ということで、駿府を[[静岡]]と改名した。


江戸にいた旗本や御家人などの旧幕臣は、武器弾薬や金などを取って脱走した反政府派を除くと大きく分けて3つの道があった。政府に仕えて朝臣に転じる道、家達に従って駿府へ移住して駿府(静岡)藩士になる道、藩に暇乞いして農工商に従事する道である。内訳は朝臣に転じたのが5,000戸ほど、駿府へ移住したのが12,000戸ほど、暇乞いしたのが3,600戸ほどだった(暇乞い組の中は生活の困難や当初の計画通りに行かなくなったことなどで後に藩に帰参した者もある){{sfn|原口清|海野福寿|1982|p=24}}。駿府移住組が最も多いが、70万石の駿府藩でこれほどの規模の家臣団を家禄制のまま召し抱えるのは困難だったので、家禄制は廃止し、今後は役職者には役金、不勤者には扶持米を支給することを藩士たちに申し渡した。大半を占める不勤藩士(不勤だが「勤番組」という名称で組織された)には農工商などの職業に就くことを許可した{{sfn|原口清|海野福寿|1982|p=24-25}}。そのため扶持米の少ない不勤藩士は農工商業への従事、内職などして生計を立てた{{sfn|原口清|海野福寿|1982|p=24-25}}。
[[8月9日 (旧暦)|8月9日]]に[[江戸]]を出発した当時は6歳の家達に随行した御小姓頭取の伊丹鉄弥は以下のように記録している。
{{Quotation|亀之助殿の行列を眺める群衆、それが何だか寂しそうに見えた。問屋場はいずれも人足が余計なほど出て居る。賃銭などの文句をいふ者は一人半個もない。これが最後の御奉公とでも云いたい様子であった。途中で行逢ふ諸大名も様々で、一行の長刀(cf.虎皮の投鞘のかかった長槍)を見掛けて例の如く自ら乗物を出て土下座したものもある。此方は乗物(cf.将軍か御三家しか許されない溜塗網代)を止めて戸を引くだけのこと。そうかと思へば赤い髪を被って錦切れを付けた兵隊が、一行と往き違いざまに路傍の木立に居る鳥を打つ筒音の凄まじさ。何も彼も頓着しない亀之助殿であった。}}
また年寄[[女中]]の初井は、[[駕籠]]の中から五人囃子の人形のようなお河童頭がチョイチョイ出て「あれは何、これは何」と道中の眺めを珍しげに尋ねられ、これに対して、左からも右からもいろいろ腰をかがめてお答え申しあげたと伝えている。


家達が駿府に到着したのは[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]だったが、[[11月 (旧暦)|11月]]には旧江戸城の東京城([[皇居]])に戻り、[[明治天皇]]に拝謁した{{sfn|樋口雄彦|2012|p=29}}。[[函館]][[五稜郭]]に立てこもった[[榎本武揚]]一党の征討を命ぜられたが、駿府へ移住したばかりの家臣たちに函館遠征は困難であったため、後見役の松平斉民が家達の出兵免除の請願書を提出し、田安家の[[徳川慶頼]]と一橋家の[[徳川茂栄]]が連名で家達の代わりに出陣することを願い出て許され、家達の出陣は免除された{{sfn|樋口雄彦|2012|p=30}}。[[11月18日 (旧暦)|11月18日]]、[[従四位|従四位下]][[近衛府|左近衛権少将]]に叙任、同日さらに[[従三位]]左近衛権中将に昇叙転任する{{sfn|樋口雄彦|2012|p=29}}。[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]に再び江戸を発って駿府へ向かった{{sfn|樋口雄彦|2012|p=29-30}}。
明治2年(1869年)[[10月 (旧暦)|10月]]までに、家達に従って旧[[幕臣]]の静岡藩下に移住する者は6572世帯であった<ref>士族授産史 我妻東策</ref>。


1869年(明治2年)4月6日に再び東京に到着し、13日に旧[[榊原氏|榊原家]]邸を静岡藩邸として与えられた。7月14日に東京を発って駿府への帰路につく{{sfn|樋口雄彦|2012|p=30}}。この留守中の6月に駿府は静岡と改称{{sfn|樋口雄彦|2012|p=31}}。また[[版籍奉還]]に伴い、明治2年([[1869年]])[[6月 (旧暦)|6月]]、静岡藩[[知藩事]]に就任し、同時に[[華族]]に列する{{sfn|原口大輔|2018|p=2}}。
明治4年([[1871年]])[[7月 (旧暦)|7月]]、[[廃藩置県]]によって免職となり、[[東京]]へ移住、[[千駄ヶ谷]]に住むことになった。そして[[中村正直]]が開設した私塾・[[同人社]]の生徒となって通学した。


静岡における家達の住居ははじめ元城代屋敷だったが、1869年7月に[[浅間神社]]前の神官[[新宮兵部]]邸(「宮ケ崎御住居」と呼ばれた)に移り、元城代屋敷は藩庁になった{{sfn|樋口雄彦|2012|p=31}}。駿府城内の御用談所には毎月10日間ほど出勤し、何の書類か分からぬまま書類に判を押す公務を執ったという。その公務の日以外は藩校の静岡学問所での学問や、小野派一刀流の[[浅利義明]]、心形刀流の[[中條金之助|中条景昭]]らの指南による剣術の稽古に励んだという{{sfn|樋口雄彦|2012|p=31-32}}。時々遊覧も行い、[[清水湊]]まで出向いて[[三保の松原]]の羽衣の松を鑑賞したり、漁師の網引きを見物したりした{{sfn|樋口雄彦|2012|p=32}}。当時家達に奥詰・家従として仕えた洋画家[[川村清雄]]は家達はとてもおとなしい子供だったと回顧している{{Refnest|group="注釈"|川村清雄の談話部分<ref>{{cite book|和書|author1= 川村清雄 [談] |author2= 河野桐谷 |chapter= 慶喜公と亀之助様 |title= 漫談 江戸は過ぎる |publisher= 萬里閣書房 |ncid= BN08408462 |year= 1929}}</ref><ref>{{cite book|和書|author= 河野桐谷 [編] |title=史話 江戸は過ぎる |publisher= [[新人物往来社]] |year= 1969 |ncid= BN01743582 |edition= 復刊}}</ref>は図録『静岡の美術VII 川村清雄展』にも収録<ref>{{cite book|和書|author1= [[静岡県立美術館]] |author2= 川村清雄 |title = 川村清雄展 : 明治洋画の先駆者として独自の画業を築いた知られざる巨匠の全貌 |publisher = 静岡県立美術館 |year = 1994 |series= 静岡の美術 |number= 7 |ncid= BN1236959|pages= 151-152}}</ref>。}}。夜は男の家臣だけが控える部屋で寝ていたが、泣いたりすることもなく、川村と「お客様ごっこ」をして遊んでいたという{{sfn|樋口雄彦|2012|p=32}}。藩重臣たちの相談の結果、旧来将軍家では許されていなかった肉食も健康のため出すことが決まり、家達は牛肉の団子を入れた吸い物などを食べるようになった{{sfn|樋口雄彦|2012|p=33}}。
=== 明治維新後 ===

{{政治家
1869年7月に政府が全国の藩に対して藩政と知藩事個人の家政を切り離し公私の区別を付けることを命じた職員令を公布したのに伴い、家達の「宮ケ崎御住居」と慶喜の「紺屋町御住居」に勤務していた藩士たちは個人的使用人として家政に専念することになり、それを示すため9月6日に御側用人は[[家令]]、御小姓頭・御用人並・奥詰頭取は家扶、御小姓は一等家従、奥詰は二等家従に改名された{{sfn|樋口雄彦|2012|p=38}}。藩財政と藩主個人の家計も制度上は分離されたが、実際には静岡藩の会計方が両方を一元管理したので、結局2年後の廃藩置県までちゃんとした分離はできていなかった{{sfn|樋口雄彦|2012|p=38}}。
| 人名 = 德川家達

| 各国語表記 = とくがわ いえさと
明治4年([[1871年]])[[7月 (旧暦)|7月]]、[[廃藩置県]]によって知藩事たちは全員免職となり、華族の地位と家禄を保証されて[[東京]]へ移住することとなった。家達も8月28日に8人の共だけを連れて静岡を発ち、東京へ向かった。「宮ケ崎御住居」に勤務していた使用人たちは1872年(明治5年)9月に職階に応じた報奨金を出してリストラし、東京の使用人も一部だけを残して同様の処置を取った。その後「宮ケ崎御住居」は[[人見寧]]に引き渡され、彼はそこで修学所という学校を経営した{{sfn|樋口雄彦|2012|p=47}}。
| 画像 = Portrait_of_Prince_Tokugawa_Iesato_as_President_of_the_House_of_Peers.jpg

| 画像サイズ = 200px
=== 廃藩置県後 ===
| 画像説明 = 徳川家達(1917年)
[[ファイル:Iesato Tokugawa.jpg|thumb|Left|150px|明治初期の10歳の頃の家達{{sfn|樋口雄彦|2012|p=49}}]]
| 国略称 = {{JPN}}
東京到着後、小川町の旧静岡藩邸や牛込戸山の旧尾張藩下屋敷を経て、1872年(明治5年)に赤坂福吉町の元人吉藩邸を3800両で購入し、そこで生活するようになった{{sfn|樋口雄彦|2012|p=47}}。赤坂屋敷の別棟には[[天璋院]](13代将軍徳川家定夫人)、[[本寿院 (徳川家慶側室)|本寿院]](家定実母)、[[実成院 (徳川家茂生母)|実成院]](14代将軍徳川家茂実母)も同居した。東京に移住した後も旧臣たちによる教育が続けられた。また[[河田熙]]、[[乙骨太郎乙]]の家塾や[[中村正直]]の[[同人社]]に通学した{{sfn|樋口雄彦|2012|p=50}}。
| 生年月日 = [[1863年]][[8月24日]]

| 出生地 = {{JPN}} [[江戸]](現[[東京都]])
1877年(明治10年)には千駄ヶ谷に引っ越した。現在のJR[[千駄ヶ谷駅]]の南側一帯に位置し、敷地面積10万坪を超える大敷地だった。家達が英国に留学した後の同年10月にこの敷地内に徳川公爵邸となる洋館が完成している{{sfn|樋口雄彦|2012|p=49}}。その後この敷地と建物は[[1943年]]まで徳川公爵家によって使用され続けたが、同年に東京府が錬成道場として利用するために買収して「葵館」と名付けられ、その後木造建築物は除去、鉄筋コンクリートの洋館2棟は移築された後[[1956年]]に[[東京体育館]]が建設されて現在に至っている<ref>[https://www.tef.or.jp/tmg/history.jsp 歴史・沿革|東京体育館|公益財団法人東京都スポーツ文化事業団]</ref>。
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1863|8|24|1940|6|5}}

| 前職 = 静岡藩[[知藩事]]
=== 英国留学 ===
| 称号・勲章 = [[従一位]]<br>[[大勲位菊花大綬章]]<br>[[記念章#帝都復興記念章|帝都復興記念章]]<br>[[褒章#紺綬褒章|紺綬褒章]]<br>[[勲一等旭日桐花大綬章|旭日桐花大綬章]]<br>[[記念章#大礼記念章(大正)|大礼記念章(大正)]]<br>[[正二位]]<br>[[勲一等旭日大綬章]]<br>[[従二位]]<br>[[瑞宝章|勲四等瑞宝章]]<br>[[記念章#大日本帝国憲法発布記念章|大日本帝国憲法発布記念章]]
[[File:Tokugawa Iesato by Kawamura Kiyoo (Tokugawa Memorial Foundation).jpg|thumb|旧臣の洋画家[[川村清雄]]が描いた若い頃の徳川家達]]
| 配偶者 = [[徳川泰子]]
1877年(明治10年)6月13日に英国留学のために横浜港からフランスの汽船に乗船{{sfn|樋口雄彦|2012|p=52}}。海外渡航経験がある家扶・家従[[河田熙]]、[[竹村謹吾]]、[[大久保三郎]]、[[山本安三郎]]が同行した{{sfn|樋口雄彦|2012|p=52}}。以降5年にわたって英国に滞在することになる{{sfn|原口大輔|2018|p=2}}。8月14日に[[ロンドン]]に到着し、28日には[[スコットランド]]・[[エジンバラ]]へ移住し、そこで個人授業を受けた{{sfn|樋口雄彦|2012|p=54}}。その後[[世襲貴族|英国貴族]]や上流階級の子弟が学ぶ[[パブリックスクール]]の[[イートン・カレッジ]]に入学{{sfn|樋口雄彦|2012|p=52}}。同校では、寄宿舎での学生による模擬議会に大きな感銘を受けたと回顧している。その後[[ケンブリッジ大学]]に進学したとする人名辞典も存在するが、誤りと思われる{{sfn|樋口雄彦|2012|p=54}}。実際は大学ではなく、ロンドン郊外にあったテーラー・ジョーンズの経営する私塾のシドナム・カレッジで学んでいたようである{{sfn|樋口雄彦|2012|p=54}}。英文で日本に手紙を送るなど、英語には熟達していたようである。地方議会を傍聴したり、ロンドンの街歩きなどもしたようである{{sfn|樋口雄彦|2012|p=55}}。また1880年(明治13年)6月22日付けの『[[東京曙新聞]]』によればイギリスの物産品を日本にいる天璋院に贈ったという{{sfn|樋口雄彦|2012|p=55}}。
| 子女 = 長男・[[徳川家正]]

| 親族(政治家) = 弟・[[徳川達孝]](貴族院議員)<br>弟・[[徳川頼倫]](貴族院議員)<br>娘婿・[[鷹司信輔]](貴族院議員)<br>娘婿・[[松平康昌]](貴族院議員)
1878年(明治11年)8月から9月にかけてはフランスとイタリアにも旅行。フランスでは[[パリ万国博覧会 (1878年)|パリ万博]]を見学し、ここで当時仏国博覧会事務局員としてパリ出張中だった旧臣[[平山重信]]、[[成島謙吉]]、[[三田佶]]らと顔を合わせたと見られ、フランス留学中の水戸家の[[徳川昭武]]にもパリの案内をしてもらっている{{sfn|樋口雄彦|2012|p=55}}。また[[大久保利通]]の息子で当時ロンドン公使館書記生を務めていた同世代の[[牧野伸顕]]とも親しくなった{{sfn|樋口雄彦|2012|p=55}}。イタリア留学中の旧臣の川村清雄にも手紙をよく送っている{{sfn|樋口雄彦|2012|p=55}}。川村への手紙の中には寄宿先のエルド夫人の姪が可愛いので好きだという外国人女性への淡い恋心を明らかにしている{{sfn|樋口雄彦|2012|p=56}}。
| 職名 = 第4−8代 [[貴族院議長 (日本)|貴族院議長]]

| 就任日 = [[1903年]][[12月4日]]
=== 英国からの帰国後 ===
| 退任日 = [[1933年]][[6月9日]]
[[file:Tokugawa Iesato.jpg|180px|thumb|徳川家達]]
| 国旗 = 日本
19歳になっていた[[1882年]](明治15年)9月に英国留学を終えてロンドンを発ち、10月に帰国{{sfn|樋口雄彦|2012|p=58}}。帰国間もない11月に[[近衛忠房]]の娘[[近衛泰子]]([[近衛篤麿]]公爵の妹・[[近衛文麿]]公爵の叔母)と結婚。彼女との間に嫡男[[徳川家正|家正]]をはじめとする一男三女を儲ける{{sfn|樋口雄彦|2012|p=58}}。
| 元首職 = 天皇

| 元首 = [[明治天皇]]<br>[[大正天皇]]<br>[[昭和天皇]]
帰国後ただちに[[麝香間祗候]](勅任官待遇の宮中の名誉職)に就任{{sfn|原口大輔|2018|p=2}}。1884年(明治17年)に華族令が公布されて華族が五爵制になり、家達は最上位の[[公爵]]に叙された{{sfn|原口大輔|2018|p=2}}。
| 職名2 = [[貴族院 (日本)|貴族院議員]]

| 就任日2 = [[1890年]][[11月29日]]
[[1887年]](明治20年)10月31日、明治天皇が千駄ヶ谷の徳川公爵邸に行幸した。徳川家にとっては[[後水尾天皇]]が[[二条城]]を行幸して以来261年ぶりの名誉となった。そのイベントは盛大に催され、明治政府と徳川家の和解を象徴するかのようなイベントになった。勝海舟、大久保一翁、山岡鉄舟といった旧臣達や[[内閣総理大臣]][[伊藤博文]]以下の閣僚たちも招待された。旧臣の[[大草高重]]ら十数名の流鏑馬が天覧に供されている。この行幸を喜んだ[[松平春嶽]]は海舟・一翁・鉄舟らの功労のおかげだと謝意を表明した{{sfn|樋口雄彦|2012|p=61}}。明治天皇の行幸があった徳川公爵邸内の建物は「日香苑」と改名され昭和期に至るまで「明治天皇聖蹟」として保存され続けた{{sfn|樋口雄彦|2012|p=61}}。
| 退任日2 = [[1940年]][[6月5日]]

| 国旗2 = 日本
[[1890年]](明治23年)の[[帝国議会]]開設と同時に[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員に就任した{{sfn|原口大輔|2018|p=2}}。
}}

日清戦争後の1895年(明治28年)には千駄ヶ谷の徳川公爵邸で「旧幕並静岡県出身陸海軍将校諸氏凱旋歓迎会」が催された。[[榎本武揚]]が会長を務め、徳川家や旧静岡藩にゆかりのある出征軍人たちを招待したものだった。会場を提供した家達は「天皇陛下の御威徳に由るといえども又豈将士忠勇の致す所にあらさらんや」と挨拶し、陸海軍将兵たちの活躍をたたえた。その後榎本の発声で「天皇皇后両陛下万歳」「陸海軍来賓万歳」「公爵万歳」が三唱された。また陸海軍軍人たちが「ヤツショ」の掛け声で家達、[[徳川篤敬]]侯爵、[[徳川厚]]男爵、[[徳川達孝]]伯爵の順番で胴上げを行った{{sfn|樋口雄彦|2012|p=62}}。

[[1898年]](明治31年)3月1日には[[華族会館]]の館長に就任した{{sfn|原口大輔|2018|p=272}}。

[[File:Iesato and Yoshinobu.JPG|thumb|徳川家達公爵と[[徳川慶喜]]公爵]]
1897年(明治30年)には家達の東京移住後も静岡に残っていた慶喜が東京に移り、1898年(明治31年)3月2日に皇居で明治天皇に拝謁した。慶喜には1902年(明治35年)に家達の徳川宗家と別に公爵位が与えられた([[徳川慶喜家|徳川慶喜公爵家]]){{sfn|樋口雄彦|2012|p=71}}。

=== 貴族院議長 ===
[[1903年]](明治36年)10月の[[近衛篤麿]]公爵の7年の貴族院議長任期満了が近づく中、近衛の病状の悪化により貴族院議長後任問題が浮上した。新聞紙上では[[研究会 (貴族院)|研究会]]所属の[[黒田長成]]侯爵(当時貴族院副議長)と無所属の家達が有力候補として取りざたされていた{{sfn|原口大輔|2018|p=75}}。家達が有力視されていたのは第9回議会以来、全員委員長(全員委員会とは[[イギリス議会]]に倣って導入された制度で議員全員が参加する委員会である。しかし全員委員会の開催はほとんどなくその委員長職は院内の名誉職的な地位だった)の選挙に第10回と第11回議会を除けば(この2回も当選してはいるが、[[谷干城]]子爵に迫られ僅差だった)圧倒的票差で当選し続けていたためである{{sfn|原口大輔|2018|p=72-73}}。

首相の[[桂太郎]]が家達を強く推薦した結果、12月に家達が近衛の後任として第四代貴族院議長に勅任された{{sfn|原口大輔|2018|p=69}}。この就任の経緯について家達は「明治36年12月3日の事と思ひますが、宮中で桂首相に面会致しましたとき『近衛公の後任として議長に推薦したい』というお話であつたから、私は『議長として当時の副議長の黒田侯爵を昇格せられるのが、もつとも適当と思ひます』と黒田侯を推薦して私は固辞しました。ところが桂首相は『今陛下に拝謁を致し、奏上御裁可を得たる故、是非承諾してくれ』とのことで極力私の就任を慫慂せられましたから、私は熟考の結果、かくまで熱心に推薦せられる以上、拒否するわけにもいかぬと思つて、ついにこれを承諾し、同年の十二月議長に任ぜられたのであります」と述べている{{sfn|原口大輔|2018|p=75}}。

家達は[[1903年]](明治36年)12月4日より<ref name=gicho>{{cite book|和書|title=官報|volume= 19031205 |number= 6129 | chapter= 帝国議会 - 貴族院 |page= 149 |date= 1903年12月05日 |url= https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2949438 |accessdate= 2018-07-24 }} [コマ番号15] 明治36年12月4日 貴族院令第11条により貴族院議長に任ず。従二位勲四等公爵 徳川家達</ref>から[[1933年]](昭和8年)[[6月9日]]<ref name=fukugicho>{{cite book|和書|title=官報|volume= 19330610 |number= 1931 | chapter= 帝国議会 - 貴族院 |page= 323 | date= 1933年06月10日 |url= https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2958403 |accessdate= 2018-07-24 }} [コマ番号36] 昭和8年6月9日 貴族院令第11条により貴族院副議長に任ず。貴族院議長公爵 徳川家達</ref>まで、延べ31年の長きにわたって貴族院議長を務めた<ref>{{cite book|和書|title=官報|volume= 19101206 |number= 8238 | chapter= 帝國議会 - 貴族院 |page= 193 | date= 1910年12月6日 |url= https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2951591 |accessdate= 2018-07-24 }} [コマ番号9] 明治43年12月5日 貴族院令第11条により貴族院副議長に任ず。正二位勲一等公爵 徳川家達</ref><ref>{{cite book|和書|title=官報|volume= 19171206 |number= 1604 | chapter= 帝國議会 - 貴族院 |page= 200 | date= 1917年12月06日 |url= https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2953717 |accessdate= 2018-07-24 }} [コマ番号13] 大正6年12月5日 貴族院令第11条により貴族院副議長に任ず。正二位勲一等公爵 徳川家逹</ref><ref>{{cite book|和書|title=官報|volume= 19241206 |number= 3688 | chapter= 帝國議会 - 貴族院 |page= 200 | date= 1924年12月06日 |url= https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955836 |accessdate= 2018-07-24 }} [コマ番号6] 大正13年12月5日 貴族院令第11条により貴族院副議長に任ず。正二位勲一等公爵 徳川家達</ref><ref>{{cite book|和書|title=官報|volume= 19311207 |number= 1482 | chapter= 帝國議会 - 貴族院 |page= 199 | date= 1931年12月07日 |url= https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957950 |accessdate= 2018-07-24 }} [コマ番号6] 昭和6年12月5日 貴族院令第11条により貴族院副議長に任ず。正二位勲一等公爵 徳川家達</ref>。

議長就任直後に家達は「議員諸君ノ多数ノ御意見に従」うと公言し、議場における「院議」を尊重する態度を示した。以降、家達は各派交渉会をはじめとする院内での意思疎通や貴族院とその時々の内閣との間の交渉に尽力していくことになる{{sfn|原口大輔|2018|p=84}}。

日露戦争後の1906年(明治39年)4月22日にも千駄ヶ谷の徳川公爵邸で日清戦争の時のような凱旋軍人の慰労会が催された。家達は祭壇の前で戦没者のための祭文を読み上げて玉串をささげ、遺族や凱旋者に対する式辞を読んだ。その後、家達の発声で「天皇陛下万歳」、慶喜の発声で「陸海軍万歳」、榎本の発声で「徳川家万歳」が三唱された{{sfn|樋口雄彦|2012|p=64}}。

貴族院議長7年の任期切れの後の1910年(明治43年)にも貴族院議長に再任。この7年の間に家達は議長として「私心」のない「公平」な人物と評価されるようになっていた。政治評論家の[[鵜崎熊吉]]は家達について「何の政団にも当たり障りない」家達を「無色透明」と評している{{sfn|原口大輔|2018|p=91}}。

実際、当時の家達は貴族院の院内会派には所属してなかったが、政治的立場としては衆議院の[[立憲政友会]]に近く、政友会の連携によって成立した[[西園寺公望内閣]]や、再び政友会との連携によって成立した[[第1次山本内閣|第一次山本内閣]]に好意的だったが、[[1914年]](大正3年)の[[シーメンス事件]]で山本内閣が窮地に陥り、貴族院内でも[[幸倶楽部派]]を中心に山本内閣追及が強まり、特に勅選議員の貴族院議員[[村田保]]が執拗に山本内閣を攻撃した。それについて家達は「人身攻撃に渡るような議論をなし、遂に罵詈讒謗至らざるなしといふ、痛烈深刻なもの」だったので「議長としてしばしば注意を加へ、あるひは中止しようかと思った程」であったと回顧している{{sfn|原口大輔|2018|p=93}}。会議録でも家達と村田は議事日程や発言順などを巡って激しく論争しており、家達は村田の発言を制しようとしている{{sfn|原口大輔|2018|p=93}}。2月20日に村田が臨時発言を請求すると家達は各派交渉会を開き、そこで従来慣例がないことを理由にそれを却下しつつ、村田の請求は緊急動議で議場の諾否を求めさせることと決した。2月26日に家達は村田の緊急動議の是非を議場に諮り、反対少数だったことから村田の演説を許可したが、演説中に副議長の黒田侯爵に議長席を譲って退席している{{sfn|原口大輔|2018|p=94}}。結局後に村田は議場を混乱させた責任を取って辞表を提出した{{sfn|原口大輔|2018|p=94}}。

=== 幻の「徳川内閣」===
[[File:Iesato Tokugawa 01.jpg|thumb|1913年の徳川家達公爵]]
1914年(大正3年)3月26日に山本内閣が総辞職したのを受けて、27日に元老会議が開かれたが、その場で組閣を勧められた[[松方正義]]は老齢を理由に辞退し、代わりに貴族院議長の家達を推挙した。[[山縣有朋]]は「徳川公は中正の人にして、門閥と云ひ徳望と云ひ、首相とするに申分なし」と述べつつも「行政上の経験」もなく「其の手腕力量の如何を知ら」ない点が不安で、そもそも家達が組閣の大命を拝受するか疑問を呈した。それに対して松方は[[平田東助]]や[[平山成信]]といった貴族院議員たちに状況を聴取したうえで判断すると述べて散会となった{{sfn|原口大輔|2018|p=99}}。元老会議が平田と平山の意見を聴取することとしたのは山本内閣を倒閣に追い込んだ貴族院(特に[[幸倶楽部派]])の意向を重視したためだった。家達が貴族院議長として貴族院の反発を受けない人物であることが貴族院対策として重要だったからである{{sfn|原口大輔|2018|p=100}}。また家達は政友会との関係が良好だったから「徳川内閣」なら衆議院対策も安定すると考えられた{{sfn|原口大輔|2018|p=103}}。

平田は、家達が組閣するなら「貴族院は全体一致にて之を歓迎」するだろうが、家達が大命を拝受するかは不明であり、事前に家達に意向聴取すると恐らく拝辞すると思われるので「出し抜け」に大命降下した方が家達が受け入れる可能性が高いと報告した。そのため元老会議は事前に家達に打診せずにただちに家達を奏推することで決定し、元老たちは参内し大正天皇の後継首相の下問に対してその旨を奉答。大正天皇はこれを認め、家達に参内を命じた{{sfn|原口大輔|2018|p=100}}。

3月29日10時に参内した家達に大正天皇より組閣の大命があった。即答を避けて翌日奉答するとして退下したが{{sfn|樋口雄彦|2012|p=84}}、内大臣[[伏見宮貞愛親王]]に対しては「行政につきて何等の経験もなく、今日の難局に処する所以につきても、亦何等自信なし、万一自ら量らずして、大命を奉じ、徒らに紛糾を重ぬるが如きことありては、却って不忠不臣の責を免かれ」ないので拝辞する意向を示した{{sfn|原口大輔|2018|p=102}}。

元老会議は平山を家達の千駄ヶ谷邸に派遣して説得にあたったが、平山によればこの時も家達は「時局につきて何らの自信もなく、且つ是れまでに平大臣にても務めたる経験あらば兎も角も、曾て何らの経験もなきに、徒らに大命を拝受しては、却って不忠不義の臣」になるため拝辞すると述べたという。家達の決意が固いことを確認した元老会議は「徳川内閣」を断念し、次の候補者選定を開始した{{sfn|原口大輔|2018|p=102}}。結局[[第2次大隈内閣|第二大隈内閣]]が成立するのだが、三週間もの政治的空白が生じる事態となった{{sfn|原口大輔|2018|p=106}}。

しかし組閣に失敗しての大命拝辞ではなかったので、この件が家達の大きな政治的失点になることはなく、この後も貴族院議長に在職し続けた{{sfn|原口大輔|2018|p=106}}。当時の『東京朝日新聞』(大正3年3月30日)も格別の自信があるならともかく、ただ漫然と大命を拝受するのはやめた方がよく、何か問題があれば本人のみならず一門全体にも迷惑がかかることになる、まだまだ春秋に富む身であり、今後も君国に尽くす機会はあるはずなので今回は拝辞が賢明であるという旧臣の貴族院議員某の意見を載せている{{sfn|樋口雄彦|2012|p=85}}。

=== 書記官長柳田国男との確執 ===
[[書記官長#歴代貴族院書記官長|貴族院書記官長]]は議長の補佐として、また議会事務局トップとして重責を担う役職である。1914年(大正3年)から1919年(大正8年)にかけてその職位にあった[[柳田国男]]と家達の間に重大な確執が生じて政治問題化した。貴族院書記官[[河井弥八]]の日記によれば少なくとも1918年(大正7年)5月の段階では両者の間に確執が生じていたようで、この時、同書記官[[宮田光雄]]の転出問題をめぐって家達が人事権を持つ書記官長の柳田と相談しなかったという{{sfn|原口大輔|2018|p=132}}。

同年7月、家達は長男の家正が書記官として勤務している[[北京]]公使館を訪問し、その後中国視察も行うことを考え、河井にその計画の作成を命じ、河井は関係各所を回って準備を整えたが、家達の妻の泰子が病気を患ったため延期となった。柳田は河井に随行を命じるつもりだったが、家達訪中が延期になったので貴族院事務局官制に則り、河井だけ中国への出張を命じた。しかし家達がそれに承諾を与えなかったため、河井の出張も中止となった。柳田は家達が公務ではなく自己都合で書記官の出張を振り回したと思い「議長ノ態度ヲ快シトセス」と不快感をあらわにしている{{sfn|原口大輔|2018|p=132}}。

その後両者の関係はさらに悪化していったと見られ、1919年(大正8年)4月16日に家達は首相の[[原敬]]に対して柳田の更迭の話を相談している{{sfn|原口大輔|2018|p=131}}。勅任高等官である貴族院書記官長の実質的な人事権は貴族院議長ではなく内閣にあったためだが、議長との不仲を理由に書記官を更迭するというのは世間からは恣意的な人事に映るので原は慎重だった{{sfn|原口大輔|2018|p=142}}。この後柳田は議会閉会を利用して九州旅行をしているが、その間の5月10日の衆議院の火災を聞いて大分県より急遽帰京。この時に柳田が旅行ですぐに駆け付けなかったことが家達の心証を悪くしたという説もあるが、河井の日記からはそうしたことは見いだせない{{sfn|原口大輔|2018|p=133}}。

家達に近しい法制官僚[[岡野敬次郎]]が宮内大臣[[波多野敬直]]に柳田を[[図書寮#宮内省図書寮|宮内省図書頭]]に異動させることを依頼するようになり(波多野は難色を示している)、家達と柳田の不和の話を聞いた[[倉富勇三郎]]が柳田に話を聞いたところ、柳田は家達との不仲や岡野が自分を転任させようと画策していることを認め、自分にも辞職の決意はあるが、しばらくは辞表を出さずに家達を困惑させると告げた{{sfn|原口大輔|2018|p=133}}。

一方家達は再度の自身の訪中計画の作成を河井に指示し、この際に河井が柳田と面会し「将来ノ進退」を聴取したが、柳田は家達が「偏狭我儘ニシテ自ラ公明ヲ装フモ窃ニ陰険手段を弄ス」点が我慢ならず、近日中にも辞職し「従来ノ情弊ヲ一掃セム為一切ヲ公表」するつもりだと述べた{{sfn|原口大輔|2018|p=134}}。

家達は河井に自身の訪中の同伴を命じたが、柳田が河井に出張命令を出すことを拒否してきたので、家達は河井を通じて柳田の真意を探るよう指示した。柳田は河井の出張を認めれば書記官が少数になるので業務に支障が出ると答えているが、それは表向きの理由で前述したように柳田は家達が議長付き書記官を私的目的のため働かせることを嫌っていた{{sfn|原口大輔|2018|p=135}}。家達側はこの柳田の執拗な「嫌がらせ」に困惑しきりであった{{sfn|原口大輔|2018|p=142}}。

10月10日中国旅行の暇乞いのため首相の原のもとを訪れた家達は改めて「貴族院書記官長には甚だ困却すとて彼の反抗的行為を物語り相当の配慮を望む」と要求した{{sfn|原口大輔|2018|p=137}}。内閣としても議会運営に支障が出るのは困るため柳田問題に重い腰を上げるしかなくなった{{sfn|原口大輔|2018|p=143}}。

家達は10月14日に中国へ向けて出国し、15日に倉富が再び柳田と会見したが、家達の中国訪問期間中は辞職することなく居座ると答えている{{sfn|原口大輔|2018|p=138}}。

12月になると新聞にも柳田が辞職するという報道が出回るようになり、研究会所属の貴族院議員[[水野直]]子爵が原首相に対して家達と柳田の問題を質問し、原は柳田の辞職で落着する見込みであると答弁している。そして実際に12月21日に柳田は辞職した。代わりに河井が書記官長となった{{sfn|原口大輔|2018|p=140-141}}。河井以降は貴族院書記官長の人事は書記官からの昇格のみとなった。事実上内閣により決定されてきた貴族院書記官長の人事は柳田事件を契機として議長の意向が強く反映されるようになったといわれる{{sfn|原口大輔|2018|p=144}}。

=== ワシントン会議全権 ===
[[File:Kijūrō Shidehara, Tomosaburō Katō and Iesato Tokugawa.jpg|thumb|250px|ワシントン軍縮会議前の全権大使、左から[[幣原喜重郎]]・[[加藤友三郎]]・徳川家達]]
[[File:Kijūrō Shidehara, Tomosaburō Katō and Iesato Tokugawa.jpg|thumb|250px|ワシントン軍縮会議前の全権大使、左から[[幣原喜重郎]]・[[加藤友三郎]]・徳川家達]]
[[File:Prince Iy Esate Tekugawa & Col. R.M. Thompson LOC npcc.05278.jpg|thumb|1921年徳川家達公爵と{{仮リンク|ロバート・ミーンズ・トンプソン|en|Robert Means Thompson}}]]
[[File:Sculpture of Itagaki Taisuke near Nikkobashi Bridge.jpg|250px|thumb|[[日光東照宮]]の[[板垣退助]]像。銅像題字の揮毫は徳川家達による]]
[[File:Tokugawa Iesato 1922.jpg|thumb|1922年の徳川家達公爵]]
1921年(大正10年)10月に原内閣は[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]に海軍大臣[[加藤友三郎]]、駐米大使[[幣原喜重郎]]、そして家達を全権としてワシントンに派遣した。海軍大臣や駐米大使が全権になることに違和感はないが、軍人でも外交官でもない上院議長の家達の派遣は驚きをもって迎えられた{{sfn|原口大輔|2018|p=151}}。家達が選ばれたのはアメリカが[[ヘンリー・カボット・ロッジ]]ら上院議員を全権に選んだことが影響しているといわれる{{sfn|原口大輔|2018|p=154}}。また原内閣の貴族院対策だったとも指摘されている{{sfn|原口大輔|2018|p=168}}。一方[[徳川家広]]は家達が[[日英同盟]]廃止論者だったので同盟を廃止してアメリカを含めた[[四か国条約]]に発展させるためだったのではないかと指摘している{{sfn|原口大輔|2018|p=152}}。


しかし、全権に就任するということは原内閣の軍縮などの外交方針に従い、公的な場においてその立場から政治的発言を行うことを意味し、それによってこれまで「無色」の上院議長で通してきた家達に毀誉褒貶すなわち政治的評価が付着する結果になった{{sfn|原口大輔|2018|p=152}}。それは必ずしも賞賛一辺倒ではなく、原内閣と政治的に対立している人物から多くの批判が寄せられるようになった。貴族院内でも議長批判の声が上がるようになり始めたため、帰国後に河井が対応に奔走することになる{{sfn|原口大輔|2018|p=152}}。
明治10年([[1877年]])、[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]の[[イートン・カレッジ]]に留学。同校では、寄宿舎での学生による模擬議会に大きな感銘を受けたと回顧している。[[オックスフォード大学]]か[[ケンブリッジ大学]]への進学を目指していたが、婚儀を心待ちにしていた天璋院の意向もあって、明治15年([[1882年]])[[10月]]に帰国した。翌[[11月6日]]に[[徳川泰子|近衛泰子]]と結婚、明治17年([[1884年]])に嫡男[[徳川家正|家正]]が誕生する。


10月15日に加藤友三郎とともに横浜から鹿島丸で出航し、11月2日にワシントンに到着した。シカゴで家達は「吾々は世界に於ける軍備縮小の目的を達する為め吾々の最善を努めたい覚悟である。そしそれは独り吾々の本国たる日本の為と云ふ許ではなく又同時に世界の平和を保証するものであると信ずる」と演説した{{sfn|原口大輔|2018|p=163}}。また家達は[[共同通信]]の記者に対して日米両国間に横たわる誤解の原因を払しょくすることに専念するつもりであり、日米がお互いをよく理解し協力すべきと日米関係改善を試みると発言している{{sfn|原口大輔|2018|p=163}}。また別の演説の中では[[マシュー・ペリー|ペリー]]来航の話を絡めて日米外交を開始した徳川将軍家の子孫が今更なる日米友好の発展を期すといった演説も行った{{sfn|原口大輔|2018|p=163}}。外務省や日本全権団はワシントン会議の動向を報じる各国新聞の論調を注視しており、日本全権団も家達を中心に新聞記者を対象にしたレセプションを開催するなど各国報道陣への対応に注意を払った{{sfn|原口大輔|2018|p=163}}。
明治17年(1884年)の[[華族令]]公布によって[[公爵]]を授けられ<ref name="koshaku"/>、明治23年([[1890年]])の[[帝国議会]]開設と同時に[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員になった([[火曜会]]所属)。明治36年([[1903年]])[[12月4日]]<ref name=gicho>{{cite book|和書|title=官報|volume= 19031205 |number= 6129 | chapter= 帝国議会 - 貴族院 |page= 149 |date= 1903年12月05日 |url= https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2949438 |accessdate= 2018-07-24 }} [コマ番号15] 明治36年12月4日 貴族院令第11条により貴族院議長に任ず。従二位勲四等公爵 徳川家達</ref>から昭和8年([[1933年]])[[6月9日]]<ref name=fukugicho>{{cite book|和書|title=官報|volume= 19330610 |number= 1931 | chapter= 帝国議会 - 貴族院 |page= 323 | date= 1933年06月10日 |url= https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2958403 |accessdate= 2018-07-24 }} [コマ番号36] 昭和8年6月9日 貴族院令第11条により貴族院副議長に任ず。貴族院議長公爵 徳川家達</ref>まで、延べ31年の長きにわたって貴族院議長を務めた<ref>{{cite book|和書|title=官報|volume= 19101206 |number= 8238 | chapter= 帝國議会 - 貴族院 |page= 193 | date= 1910年12月6日 |url= https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2951591 |accessdate= 2018-07-24 }} [コマ番号9] 明治43年12月5日 貴族院令第11条により貴族院副議長に任ず。正二位勲一等公爵 徳川家達</ref><ref>{{cite book|和書|title=官報|volume= 19171206 |number= 1604 | chapter= 帝國議会 - 貴族院 |page= 200 | date= 1917年12月06日 |url= https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2953717 |accessdate= 2018-07-24 }} [コマ番号13] 大正6年12月5日 貴族院令第11条により貴族院副議長に任ず。正二位勲一等公爵 徳川家逹</ref><ref>{{cite book|和書|title=官報|volume= 19241206 |number= 3688 | chapter= 帝國議会 - 貴族院 |page= 200 | date= 1924年12月06日 |url= https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955836 |accessdate= 2018-07-24 }} [コマ番号6] 大正13年12月5日 貴族院令第11条により貴族院副議長に任ず。正二位勲一等公爵 徳川家達</ref><ref>{{cite book|和書|title=官報|volume= 19311207 |number= 1482 | chapter= 帝國議会 - 貴族院 |page= 199 | date= 1931年12月07日 |url= https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957950 |accessdate= 2018-07-24 }} [コマ番号6] 昭和6年12月5日 貴族院令第11条により貴族院副議長に任ず。正二位勲一等公爵 徳川家達</ref>。同じく貴族院副議長を長く務めた[[黒田長成]]とともに、「万年議長・万年副議長」と呼ばれた。大正3年([[1914年]])[[3月24日]]、[[シーメンス事件]]によって[[第1次山本内閣]]が総辞職。同月[[3月27日|27日]]には後継首班の正式候補に挙げられたが、「未だ徳川が[[政権]]に表立って関わるのは遠慮すべき」として2日後に辞退。このことに関して当時の[[朝日新聞]]は「高貴でおおらかな家達氏は、政治の濁流にもまれるべきではない」と賛意を表明した。家達は政界でも注目される存在であり、要人の千駄ヶ谷訪問も多かった。


海軍軍縮問題はワシントン会議の成否を分ける重要問題であり、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の主力艦の比率を対米英7割にするか6割にするかという問題だった。アメリカは6割を要求したが、日本とアメリカの交渉は海軍軍縮専門委員会でも妥協点が見いだせず、協議は難航。そうした中の11月28日(現地時間)の記者会見で家達は7割は海軍随員[[加藤寛治]]中将の個人の意見であって「日本海軍問題に関しては日本代表は海軍力比率に関して執るべき最も件名な方策につき目下審議中であるから未だ其の態度を声明する迄には進んでゐない」と述べており、つまり日本全権団として公式に7割を主張しているわけではない旨を記者団の前で発言し、これが12月2日に日本国内で新聞報道された。この発言は日本全権団内で7割を強く主張し続けていた加藤寛治の存在をクローズアップさせると同時に日本全権団内部の不統一を期せずして露呈させた。事は会議全体と国防方針に関わる問題だったため、様々な憶測と混乱を惹起した{{sfn|原口大輔|2018|p=164-165}}。
大正11年([[1922年]])、[[海軍省|海軍大臣]]の[[加藤友三郎]]や[[特命全権大使|駐米大使]]の[[幣原喜重郎]]などとともにワシントン軍縮会議全権を務め、イギリス・[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[大日本帝国|日本]]の[[海軍]]主力艦保有比率を10:10:6にする条約を締結した。この決定は欧米列強の軍事的緊張を是正して国際関係を安定化させることが目的だったが、国内では海軍[[軍令部]]や[[右翼]]から「軟弱外交」との批判を受けた。


報道が拡散されて日本国内が混乱していたのを受けて、12月1日(現地時間)に家達は再び記者会見し「余は加藤中将の陳述に関して余に質問を発した一新聞記者に対し、右陳述は単に海軍専門家等の意見であるといふ意味を伝へる積りであつたのである、余は加藤中将の意見を反駁する意向は無かつたのである、然るに余の言を以て加藤中将の意見の反駁若しくは否認と解する人々があるらしい、然し余は毫も此種の観念又は印象を伝へやうとは欲しなかったのである」と弁明している{{sfn|原口大輔|2018|p=165}}。

しかし日本国内では7割案だったのを米国に屈従して6割案に譲ったとする全権の弱腰を批判する論調が日増しに高まり、それは[[渋沢栄一]]と彼の娘婿で貴族院議員の[[阪谷芳郎]]を通じて家達の耳にも入っていた。阪谷は渋沢に「徳川全権ハ当方新聞紙上至テ不評判ナリ」と報告している{{sfn|原口大輔|2018|p=166}}。

また家達の不在中の貴族院内では[[細川護立]]侯爵や[[佐佐木行忠]]侯爵ら研究会の反幹部派が院内会派・無所属(第2次)を組織したことで、会派の活動が活発化して、いきり立った状態になっていた{{sfn|原口大輔|2018|p=167}}。貴族院書記官長の河井はこの貴族院内の不穏な状況を早期に収める必要性や、これ以上家達がワシントンで声望を落とすことを懸念して家達の早期帰国を提案。他国の全権も一部が帰国しはじめていたこともあって、12月下旬、外務省は家達の早期帰国を決定した{{sfn|原口大輔|2018|p=168}}。原内閣の貴族院対策のために全権になったと言われていた家達は、後続の[[高橋是清内閣]]の貴族院対策のために帰国することになった{{sfn|原口大輔|2018|p=168}}。

家達の早期帰国の件は貴族院本会議でも質問が出ているが、高橋首相は他国の全権の一部が帰国していることに触れて「徳川公爵ハ帰朝シテモ向フニハ差支ヘナイ」と答弁している。この答弁は加藤友三郎や幣原喜重郎と異なり、家達が全権としてワシントンで遂行する任務がなくなったことを証明するものでもあった{{sfn|原口大輔|2018|p=168}}。

他の全権に先駆けて帰国した家達は会議への不満を一身に受けざるを得なくなった。全権としての家達への評価は賛否両論で、6割反対運動をしていた対米同志会は「平和の攪乱者宴会使節徳川家達公は何の面目あつて帰るか」「言語道断の大失態」と非難する声明を出し、[[憲政会]]所属の衆議院議員[[望月小太郎]]は「重大なる時機に不必要なる談論を恣にして我が国防安全七割率とは単に日本海軍専門家の私言に過ぎずと公言し全権間に一場の紛議を捲き起こし」たと批判{{sfn|原口大輔|2018|p=174}}。他方、外交評論家の[[小松緑]]は家達が会議において「円満に事を纏める素地を作」ったことを「成功」としつつ「気の毒にも、その仕事が余り表面に出なかつたので、世人から能く諒解されてゐない」と指摘した{{sfn|原口大輔|2018|p=174}}。

貴族院内の評価も賛否両論であった。まずは議長の労をねぎらう議員が大半だったが、一部の議員から批判が起き、会議の成果が成功とはいえないこと、貴族院議長を全権にすることで貴族院からの会議への批判を封じ込めようという原内閣の計略に乗せられたこと、そもそも家達が会議の議題になっている問題の専門家でなかったことなどについて批判があった。ただ家達を擁護する政友会と研究会、批判する憲政会と幸倶楽部派といった構図は表面上は見られず、目立った批判を浴びせたのは対外硬を唱える少数派であり、残りは少なくとも静観といった感があった{{sfn|原口大輔|2018|p=169-170/174}}。

河井は帰国後の家達が批判を受ける状況をできる限り減らすため、家達に隠忍自重を促す一方、内閣、貴族院、マスコミなどに謝意を表明して懇話会を開くなど融和に尽力した。書記官長としての職務範囲をはるかに超える河井の活動(ゆえに柳田に嫌われたが)は家達の大きな支えとなったと思われる{{sfn|原口大輔|2018|p=178}}。

=== 全国水平社による辞爵運動 ===
[[File:Tokugawa Iesato and Suiheisha members.JPG|thumb|全国水平社の代表者らと会見した徳川家達公爵(中央)]]
大正時代には[[大正デモクラシー]]の高まりの中で労働運動や農民運動と並んで部落差別解放運動も高まりを見せた。大正11年の[[全国水平社]]の結成はその象徴だった。全国水平社は天皇陛下のもと平等であるべき人民が歴代徳川将軍の悪政のせいで皇室と遮断された結果、部落差別が起きるようになったと批判し、大正14年の全国水平社第3回大会は徳川一門に辞爵を求めることを全会一致で決議。3月から4月にかけて九州全国水平社委員長だった[[松本治一郎]]が千駄ヶ谷の徳川公爵邸に訪問したが、家達は病気を理由に会見を拒否。松本は代わりに家令に決議案を手渡して回答を要求したが、回答はなかった。7月9日には松本とその同志2名がピストルや短刀を準備して家達暗殺を企んだとして警察に逮捕された。松本らは家達暗殺のためピストルや短刀を用意していたわけではないと主張し、最上級審の[[大審院]]まで争っていたが、結局大正15年3月に懲役4カ月の実刑判決が下った{{sfn|樋口雄彦|2012|p=116}}。

一方家達は7月25日に全国水平社の代表者と初めて会見し「自分が公爵に列せられたのは天皇陛下の思し召しであり、勝手に辞爵することは大御心に背くことになる」と述べて辞爵を拒否した{{sfn|樋口雄彦|2012|p=116}}。

9月20日未明には徳川公爵邸で火災があり母屋の建物のほとんどが焼失した。当初は漏電が原因と見られていたが、翌年には放火犯として松本の世話になっていた青年が逮捕された。放火犯は懲役15年の実刑判決を受けた{{sfn|樋口雄彦|2012|p=117}}。

=== 清浦内閣に対する立場 ===
1924年(大正13年)1月、[[第2次山本内閣|第二次山本内閣]]の総辞職後、後継首相となった元貴族院議員[[清浦奎吾]]子爵が貴族院の最大会派である研究会を中心とした組閣を行ったことで[[護憲三派]]などから「特権内閣」と批判された。貴族院による政党内閣潰しの動きと見た護憲三派の議員たちはこの最中の1月24日に貴族院議長の家達のもとを訪れ、清浦内閣に対する態度を質問し、その応答が新聞に掲載された。それによれば家達は「政党にも関係のないものが内閣を組織する事は立憲国に於て宜しくない事と思ふ。諸君の御承知の通り十一年程前、第一次山本内閣が倒れた時私に大命が降つた事がありますが私は直ちに之を拝辞しました、貴族院に居って政党にも関係なきものが内閣組織の退任に当るべきものではないとの私の信念の結果に外ならぬのでありました」「この度の政変に関係したものは貴族院の一部で全体ではないから、貴族院全体として誤解されない様に願ひたい」「之は皆私個人として申上げるのでありますから左様御諒承を願ひたい、貴族院の議長としては貴族院全体の決議に依らねば何も申し上げられませぬ」と答えたという{{sfn|原口大輔|2018|p=194}}。

ところがこれが「徳川議長の現閣反対意見」(『[[東京朝日新聞]]』)、「政党に関係無い者が内閣組織は間違」(『[[読売新聞]]』)といったタイトルで記事にされたことで研究会から貴族院議長でありながら内閣弾劾の口吻を漏らしたとの批判が巻き起こった。その後家達は清浦を訪問し記事の内容について訂正を行ったと報道されているが、最大会派である研究会との関係を悪化させたことは今後の貴族院運営に影響を及ぼしかねないことだった{{sfn|原口大輔|2018|p=195-196}}。

=== 貴族院改革案をめぐって ===
その後、批判が高まる清浦内閣は[[第15回衆議院議員総選挙|解散総選挙]]に踏み切り、総選挙後護憲三派による[[加藤高明内閣]]が発足した。加藤内閣は貴族院中心の内閣に対する倒閣運動の結果成立した政権であるため、加藤内閣下では貴族院改革の議論が本格化し始めた。しかし貴族院側は院内での自発的改革を志向する議員が多く加藤内閣への反発を強めていった。1924年10月10日に加藤内閣は内閣部局内に貴族院制度改善調査委員会を設置し、その調査補助委員を貴族院議員から選出しようとしたが、家達は謝絶した{{sfn|原口大輔|2018|p=197}}。新聞報道によると加藤内閣側は改革案を貴族院の権限と貴族院の組織に関する事項に大別し、権限に関する事項は憲法に抵触しない範囲で議会法の改正によって行うとしていたが、河井は「其条項ハ少キカ如シ」と書いており、家達も同じ意見だったと思われる{{sfn|原口大輔|2018|p=198}}。

1925年(大正14年)3月10日に貴族院改革案が貴族院に提出され、貴族院本会議では加藤高明によって法案提出説明が行われ、ついで議員からの質疑があり、その後改革案は特別委員27名に付託されることが決定された。貴族院における特別委員の選定は議長指名に一任されるのが慣例となっていた。しかし研究会と[[交友倶楽部]]は「近時徳川議長が兎もすれば政府の肩を持つ嫌ひあり」として「議長一任」による特別委員会指名は加藤内閣寄りになるとして反対し、院内四派(研究会・[[公正会]]・交友倶楽部・[[茶話会]])が共同で貴族院改革のような重大事案は議場選挙によって特別委員を決定すべしと要求。[[近衛文麿]]公爵が研究会を代表してそれを家達に伝えたが、家達はこれを拒否した。しかし特別委員を倍数の候補者の中から選定することを近衛に返答した。つまり各派の協議により規定人数の倍の特別委員候補名簿を作らせ(今回のケースでは54名)、その中から家達が選ぶということである。家達は佐佐木に「議長は特に不公正なことはやらない。誰が見てもそうだと思う人選をするのだからよいじゃないか」と述べており、これを聞いた佐佐木は家達は各派からの干渉をよほど嫌がっていると感じた。家達はこれまで当然に行われてきた特別委員の議長一任が突然各派から批判が向けられたことに戸惑いを隠すことができない様子だったという(佐佐木にも明らかにしたように家達にはこれまで公正な人選をしてきたという自負心があった){{sfn|原口大輔|2018|p=200-201}}。特別委員の指名権を持つことは家達の貴族院議員たちに対する権力の源であったからそれが揺らぎかねない事態であり河井は日記で「嗚呼」と嘆いている{{sfn|原口大輔|2018|p=202}}。

結局改正案は特別委員会で若干の修正を施した後3月25日に議決され、本会議で委員会報告通りに修正可決となった{{sfn|原口大輔|2018|p=202}}。

これまで貴族院議長として内閣と貴族院の融和を図り、議会政治を裏面から支えてきた家達だったが、貴族院内の院内会派が本格的に「政党化」しはじめる中で対応に苦慮していくことになる{{sfn|原口大輔|2018|p=205}}。

=== 火曜会に入会 ===
1927年(昭和2年)11月研究会に愛想をつかした近衛文麿が[[一条実孝]]公爵や[[四条隆愛]]侯爵、[[広幡忠隆]]侯爵、[[中御門経恭]]侯爵、[[中山輔親]]侯爵らとともに研究会を離脱し、各派に分散していた公侯爵議員を集める会派作りに着手した。佐佐木行忠によると家達はこの近衛の動きを熱心に支援していたという。家達も「僕は公侯爵団体組織の計画に加わつた同志の一人だもの、今さら新団体に入会するのは問題でない。別に秘密に計画したわけではなく、世間の人が気づかなかつたのである。話の始まりは何年も前のことだが、具体的協議に入つたのは今年晩春初夏の候だったと思う。貴族院の現状並みに将来を顧慮した近衛、[[木戸幸一|木戸]]、[[細川護立|細川]]、[[広幡忠隆|広幡]]の諸君や、死んだ[[二条厚基|二条]]公などが熱心に提唱したもので、僕も世襲議員の結束非ならずとして同志の一人に加わり、爾来協同して実現に骨折つた」と述べている{{sfn|原口大輔|2018|p=205-206}}。この計画は、互選がないゆえに「一番自由な立場」である世襲議員の公侯爵議員は「貴族院の自制」が必要だと考える者が多く、そのため公侯爵が結束してその影響力を大きくすることで貴族院を「事実上の権限縮小」「貴族院は衆議院多数の支持する政府を援けて円満にその政策を遂行させてゆく」存在にさせることができるという考えに立脚したものだった{{sfn|原口大輔|2018|p=206-207}}。

11月29日に近衛公爵、細川侯爵、中御門侯爵を幹事として[[火曜会]]が発足した。公侯爵議員だけが入れる貴族院改革を掲げる団体で、当初は院内会派として必要な25名に満たなかったため社交団体として結成されたが、1928年(昭和3年)3月に貴族院交渉団体として認められた。家達も火曜会に入会した{{sfn|原口大輔|2018|p=210}}。しかし火曜会への入会で研究会の家達への不満は高まった{{sfn|原口大輔|2018|p=210}}。

=== 重臣候補に ===
大正の間に元老は[[西園寺公望]]ただ一人となり、昭和になると彼の老齢化で後継首相に関する天皇の御下問範囲を拡張する必要性が論じられるようになった。そして1932年(昭和7年)特定の役職経験者を重臣として後継首相についての御下問を受ける存在となす重臣制度が設けられた。この重臣について当初貴族院議長や衆議院議長を対象に含む案があり、そのため家達が一時重臣候補となった{{sfn|原口大輔|2018|p=246}}。貴族院議長は憲法上の公職によって政界事情に精通していることが根拠に挙げられた{{sfn|原口大輔|2018|p=268-269}}。

しかし衆院議長は特定の政党との距離が近い存在であるため、客観的に政界状況を把握することが求められる重臣になるのは困難だった。貴族院議長は可能であっても、衆院とのバランスから貴族院議長だけを重臣にするというわけにもいかないので、結局両院議長を含める案は流れ、枢密院議長・内閣総理大臣経験者が重臣の範囲となった{{sfn|原口大輔|2018|p=246}}。

=== 貴族院議長退任 ===
1931年(昭和6年)には家達が貴族院議長に再任されたが、この頃には院内から辞職を求める声もだいぶ上がるようになっていた{{sfn|原口大輔|2018|p=247}}。家達は1933年(昭和8年)の段階でも特に辞職の意思はなかったのだが、同年5月8日に右翼団体[[大化会]]の[[中村浩太]]らが徳川公爵邸に訪問し「勧告書」なるものを差し出してきて家達の返事を要求した。内容は不明だが、後の関係者の対応から見ると家達の議長職の進退に影響が及ぶような内容だったらしく、徳川公爵家の方では[[警視庁]]に大化会取り締まりと家達保護を求めた{{sfn|原口大輔|2018|p=248}}。

さらに31日には大化会会長[[岩田富美夫]]が徳川邸を訪問し、岩田は大化会が「勧告書」を出したことを謝罪し、その返還を求める一方、この問題に警視庁が介入するのなら「却テ事端ヲ粉雑セシメ或ハ事実ヲ暴露ヲ促スノ慮アリ」と強気の態度を取った。対応した徳川公爵家の家令[[成田勝郎]]は「十分考慮スヘシ」とだけ答えた{{sfn|原口大輔|2018|p=249}}。更に岩田は電話において『[[東京毎夕新聞]]』に関連記事の準備が整っており、徳川家の方で「支給対策ヲ講セラレンコトヲ望ム」と告げてきた{{sfn|原口大輔|2018|p=249}}。徳川家の方では大化会の脅迫には一切応じないことを決定したが、警視庁としては大化会が「不当ノ範囲」に及んだ場合初めて取り締まりができるので徳川家の意向に十分応じることはできなかった。そのため大化会が「暴露戦術」を取らないうちに家達は速やかに辞職するしかなくなった{{sfn|原口大輔|2018|p=250}}。

6月に入ると新聞紙面でも家達の議長辞職が取りざたされるようになったが、そこでは健康問題が理由とされており、6月2日に開催された徳川公爵家の家政相談役会を経て非公式に[[斎藤実]]首相に辞意が伝えられたという{{sfn|原口大輔|2018|p=250}}。6月9日に家達は議長を辞した。表面上は議長在任30年を契機にした辞職とされていたので大きな騒動にはならなかった{{sfn|原口大輔|2018|p=250}}。

なお死去まで息子に爵位を譲ることはなかったので公爵議員として貴族院議員の地位は死去まで維持している。

=== 貴族院議長以外の活動 ===
大正2年([[1913年]])に[[恩賜財団済生会]]会長、大正4年([[1915年]])に[[明治神宮]]奉賛会会長に就任。大正10年([[1921年]])には[[大日本蹴球協会]](現在の[[日本サッカー協会]])の名誉会長として、その発足に立ち会っている<ref>[http://archive.footballjapan.jp/user/scripts/user/person.php?person_id=2 今村次吉] 日本サッカー人物史参照</ref>。
大正2年([[1913年]])に[[恩賜財団済生会]]会長、大正4年([[1915年]])に[[明治神宮]]奉賛会会長に就任。大正10年([[1921年]])には[[大日本蹴球協会]](現在の[[日本サッカー協会]])の名誉会長として、その発足に立ち会っている<ref>[http://archive.footballjapan.jp/user/scripts/user/person.php?person_id=2 今村次吉] 日本サッカー人物史参照</ref>。


昭和4年([[1929年]])[[11月]]、第6代日本赤十字社社長に就任、終生、務める。昭和8年([[1933年]])年[[8月]]、翌年東京で開催される予定の第15回赤十字・赤新月国際大会への協力を求めるため、欧米へ発った。昭和9年([[1934年]])[[4月5日]]、[[横浜港]]に帰るまで、10か月にも及ぶ長い旅だった。なお、この国際大会は[[アジア]]初の国際会議となった。さらに昭和11年([[1936年]])12月には、1940年東京オリンピック招致成功を受けて、[[東京市]]や[[日本スポーツ協会|大日本体育会]]などを中心として設立された「第十二回オリンピック東京大会組織委員会」の委員長に就任した。

=== 第一次近衛内閣について ===
1937年(昭和12年)、同年に成立した義理の甥[[近衛文麿]]公爵の[[第一次近衛内閣|第一次内閣]]に関連して「私が議長をしてゐる間にもさう思つて来たことであるが、貴族院と衆議院との両院がある以上、どこの立憲国でも同じことであるが、議員には自ら、主領株の議員と、陣笠、などといふのは大変失礼な言葉でよくないが、[[陣笠議員]]とがある。即ち、議員の内にも他を導く議員と、導かれて行く議員と必らずある。此の主領株の議員、衆議員の主領株の議員、貴族員の主領株の議員達は、なるべく互ひに接触しあつて、国事に就いて意思の疎通を図るべきではないか、例へば今度の[[北支事変|北支事件]]に就いても[[挙国一致内閣|挙国一致]]の申合はせをして、近衛内閣を援けるとか、さういふことが議会政治のためによいと思ふ」と近衛を応援している{{sfn|原口大輔|2018|p=84}}。

これは家達の30年にわたる議長としての態度を回顧したものでもある。家達は各派交渉委員(=「主領株」議員)や内閣との会合に頻繁に催すこと、貴集両院議員間の懇親を深めることを重視してきた。そのような行為が時の内閣を支援するためになるという発言である{{sfn|原口大輔|2018|p=84}}。


=== 昭和時代 ===
=== 薨去 ===
[[1938年]](昭和13年)5月には第16回赤十字国際会議出席のために横浜から出港し、カナダ経由でロンドンへ向かったが、カナダ旅行中に発病して急遽帰国した{{sfn|原口大輔|2018|p=273}}。
昭和4年([[1929年]])[[11月]]、第6代日本赤十字社社長に就任、終生、務める。昭和8年([[1933年]])6月9日、貴族院議長を辞したが、その後も貴族院議員は務め続けた。同年[[8月]]、翌年東京で開催される予定の第15回赤十字・赤新月国際大会への協力を求めるため、欧米へ発った。昭和9年([[1934年]])[[4月5日]]、[[横浜港]]に帰るまで、10か月にも及ぶ長い旅だった。なお、この国際大会は[[アジア]]初の国際会議となった。さらに昭和11年([[1936年]])12月には、1940年東京オリンピック招致成功を受けて、[[東京市]]や[[日本スポーツ協会|大日本体育会]]などを中心として設立された「第十二回オリンピック東京大会組織委員会」の委員長に就任した。


昭和15年(1940年)6月5日、76歳で[[薨去]]。従一位に叙せられ、[[大勲位菊花大綬章]]を受章した。
[[1940年]](昭和15年)6月5日、76歳に千駄ヶ谷の徳川公爵邸で[[薨去]]。従一位に叙せられ、[[大勲位菊花大綬章]]を受章した{{sfn|原口大輔|2018|p=273}}。葬儀は11日に行われて寛永寺に埋葬された。葬儀委員は海軍大将[[井出謙治]]。会葬者は内閣総理大臣[[米内光政]]。参列者は3500人を超え、付近一帯では自動車の渋滞が引き起こされる事態が発生している{{sfn|樋口雄彦|2012|p=180}}


==人物==
== 人物 ==
=== 貴族院議長としての姿勢 ===
[[File:Prince Tokugawa Iesato.jpg|thumb|250px|壮年期の家達]]
[[File:Tokugawa Iesato 1927.jpg|thumb|250px|東京大相撲大阪場所を観戦、中央が家達(1927年)]]
[[File:Prince Tokugawa Iesato as President of the House of Peers.jpg|thumb|貴族院議長 公爵 徳川家達(『帝国議会議員通覧』)]]
*家達は貴族院議長として日本の立憲政治史を振り返って[[帝国議会]]は「国運の進展、民福の増進」に貢献し、その中でも[[貴族院 (日本)|貴族院]]は「或は同一案件を慎重に審議するの実を挙げ或は衆議院の決議の偏倚せむとするものを矯正するの効を挙げ或は他院を掣肘して議会先制の弊より免かしめ」てきたと評価した。家達にとってこのような効果が「二院制度の妙味」だった{{sfn|原口大輔|2018|p=220}}。家達が議長をしていた30年間は、[[桂園時代|桂園内閣]]に始まり、[[憲政の常道]]の終焉とほぼ重なる。その間、超然内閣・中間内閣・政党内閣といった様々な形態の内閣が誕生したが、貴族院はそれらとある時には対立し、またある時に協調してきた。議長たる家達はそのような明治立憲制の進展に対応すべく、政治過程への直接の介入を避けつつ、[[伊藤博文]]が『憲法義解』で示したような貴族院が内閣・衆議院の間の「上下調和の機関」となるべく、その間を取り持ち、円滑な議会運営がなされるため必要な協議の場の主催者たろうとし続けた{{sfn|原口大輔|2018|p=269}}。院内においても各会派に「公正」で、議場では議院の自治を重んじ、決定された「院議」に従順な議長であろうとした{{sfn|原口大輔|2018|p=269}}。しかし本格的な政党政治の登場と護憲運動による貴族院批判の高まりによって貴族院が「上下調和の機関」たるに困難な状況が生じ始めた時、家達は新しい時代の貴族院の有り様を問い直すようになり、貴族院は国民の信任に基づいて成立した政党内閣を支援する穏健な第二院に移行させようという模索を始めた。その表れが火曜会への参加だった{{sfn|原口大輔|2018|p=269}}。しかし憲政の常道期に起きたことは頻発する政党の汚職事件と、それに伴う政党政治そのものへの不信の増大だった。満州事変を契機に国民の支持は政党を離れて軍に移っていった。それは家達が上記の模索をしていた矢先のことであって、模索の前提たる政党政治が自壊し始めてしまったのであり、家達が議長を退くのはその直後の事だった{{sfn|原口大輔|2018|p=268}}。
* 家達の[[近習]]を務めた[[洋画家]]の[[川村清雄]]によると、家達は生来おとなしかった。幼少で静岡に移住し、[[静岡浅間神社|浅間神社]]の[[神主]]宅に移り住むことになるなど周囲の環境が激変しても、泣いた所は見たことはなかったという{{Refnest|group="注釈"|川村清雄の談話部分<ref>{{cite book|和書|author1= 川村清雄 [談] |author2= 河野桐谷 |chapter= 慶喜公と亀之助様 |title= 漫談 江戸は過ぎる |publisher= 萬里閣書房 |ncid= BN08408462 |year= 1929}}</ref><ref>{{cite book|和書|author= 河野桐谷 [編] |title=史話 江戸は過ぎる |publisher= [[新人物往来社]] |year= 1969 |ncid= BN01743582 |edition= 復刊}}</ref>は図録『静岡の美術VII 川村清雄展』にも収録<ref>{{cite book|和書|author1= [[静岡県立美術館]] |author2= 川村清雄 |title = 川村清雄展 : 明治洋画の先駆者として独自の画業を築いた知られざる巨匠の全貌 |publisher = 静岡県立美術館 |year = 1994 |series= 静岡の美術 |number= 7 |ncid= BN1236959|pages= 151-152}}</ref>。}}。
*家達は、貴族院は衆議院と違って体面を重んじるべきであるという考えを強くもっており、議場で「ノー」とか「ヒヤヒヤ」といった賛否の大声をあげることを非常に嫌い、拍手も制止したことがあった{{sfn|樋口雄彦|2012|p=83}}。
* また[[勝海舟]]は 「三位様(家達)は、原来人に可愛がられる室で、[[学問]]も相応にあり、至極正直で勉強家だからお上にも始終お目を懸け下さるよ。このごろはあんなに日増しに肥満せられるから、おれは十分に御運動なさいと勧め申したが、その通り昨今は絶えず運動しておられるようだ。流石に征夷大将軍の血脈を受けておられるだけあって、どことなく人と違う所があるよ」と述べている<ref>{{cite book|和書|author = 勝安芳 |others= 海舟全集刊行会 [編] |title = 像及寫眞 ; 海舟印譜 ; 海舟書簡 ; 亡友帖 ; 流芳遺墨 ; 追賛一話 ; 清譚と逸話 ; 飛川歌集 ; 海舟詩稿 ; 隨筆補遺 ; 海舟年譜 | publisher = 改造社 | year = 1929 | series = 海舟全集 |volume = 10 | ncid= BN05361067}}</ref>。
*家達は貴族院議員たちの姓名・経歴・性格まで知悉していたという{{sfn|樋口雄彦|2012|p=83}}。
*政治評論家の鵜崎熊吉が1913年に著したところによれば、家達が貴族院議長として貴族院議員たちに臨む態度は「征夷大将軍の三百諸侯に臨むが如く、飽まで威圧的」だったというが「人物としては格別称するに足らざるも、議長としては確かに忠実の二字を冠するに堪ふ」と評価し、特に議場を整理するという議長の本分に関して「公事に於ては公は又一点の情誼を許されない」とし、その公平性を「理想的議長の態度」と評価している{{sfn|樋口雄彦|2012|p=82-83}}。また衆議院議員の尾崎行雄は、重要な議事がある場合には衆議院の傍聴席に必ず家達の姿があり、勤勉さに感心させられたと述べている{{sfn|樋口雄彦|2012|p=83}}。
*貴族院の副議長は家達が用便で席を空けた時だけ議長席に座るので俗に「小便議長」と呼ばれたが、年を取った後の家達は用便で席を外す頻度が増えたので副議長はいつでも代れるように待機していなければならなくなり、退屈かつ苦痛な仕事であると、1931年に近衛文麿が副議長に就任した際の新聞報道で報じられている{{sfn|樋口雄彦|2012|p=122}}。
=== その他 ===
* [[勝海舟]]は 「三位様(家達)は、原来人に可愛がられる室で、[[学問]]も相応にあり、至極正直で勉強家だからお上にも始終お目を懸け下さるよ。このごろはあんなに日増しに肥満せられるから、おれは十分に御運動なさいと勧め申したが、その通り昨今は絶えず運動しておられるようだ。流石に征夷大将軍の血脈を受けておられるだけあって、どことなく人と違う所があるよ」と述べている<ref>{{cite book|和書|author = 勝安芳 |others= 海舟全集刊行会 [編] |title = 像及寫眞 ; 海舟印譜 ; 海舟書簡 ; 亡友帖 ; 流芳遺墨 ; 追賛一話 ; 清譚と逸話 ; 飛川歌集 ; 海舟詩稿 ; 隨筆補遺 ; 海舟年譜 | publisher = 改造社 | year = 1929 | series = 海舟全集 |volume = 10 | ncid= BN05361067}}</ref>。
* 趣味の[[囲碁]]はアマチュアトップクラスで、大正15年([[1926年]])に[[喜多文子]]五段に二子というわずかなハンディの対局で勝利した棋譜が残されている。プロ棋士の[[福井正明]]は、アマチュアの全国大会があったら優勝しても不思議ではないほどの実力と評している<ref>{{cite book|和書|author= 福井正明|title= 囲碁史探偵が行く|year=2008 |publisher= 日本棋院 |isbn= 978-4-8182-0600-7}}</ref>。
* 趣味の[[囲碁]]はアマチュアトップクラスで、大正15年([[1926年]])に[[喜多文子]]五段に二子というわずかなハンディの対局で勝利した棋譜が残されている。プロ棋士の[[福井正明]]は、アマチュアの全国大会があったら優勝しても不思議ではないほどの実力と評している<ref>{{cite book|和書|author= 福井正明|title= 囲碁史探偵が行く|year=2008 |publisher= 日本棋院 |isbn= 978-4-8182-0600-7}}</ref>。
*「十六代様」と呼ばれたが、家達自身は「明治以後の新しい徳川家の初代」だという意識が強く、将軍家の十六代ではないと公言していた。
*「十六代様」と呼ばれたが、家達自身は「明治以後の新しい徳川家の初代」だという意識が強く、将軍家の十六代ではないと公言していた。
*家達と慶喜の関係は複雑だった。家達はよく「慶喜は徳川家を滅ぼした人、私は徳川家を建てた人」と自負していた{{sfn|樋口雄彦|2012|p=68}}。静岡で暮らしていた頃の慶喜は身分の上でも経済面でもすべて家達の管轄下に置かれていた。東京の家達からの送金で生活し、慶喜の家令や家扶は家達により任命され、慶喜はその辞令を渡すだけだったという{{sfn|樋口雄彦|2012|p=68}}{{sfn|家近良樹|2005|p=87}}。また慶喜は東京の家達に預けた慶喜の娘たちに家達に従順であるよう「厳しく申し渡」したという。慶喜の七女波子が[[松平斉民]]の四男[[松平斉|斉]]からの求婚を嫌がった際には彼女を静岡まで呼びつけて家達の世話になっている身であることを言い聞かせて辛抱するよう命じたという{{sfn|家近良樹|2005|p=86-87}}。慶喜が上座に座っていたとき、家達が「私の席がない」というと慶喜が慌てて席を譲ったという逸話もある{{sfn|樋口雄彦|2012|p=68}}。慶喜が宗家と別に公爵になった後に初めて慶喜は経済的に家達から自立するようになった。株式配当や国債購入の利子収入などをかなり得るようになったためである。慶喜家の家扶による「家扶日記」もそれまで家達のことを「殿様」と呼んでいたのが、慶喜が公爵に列したのを機に「千駄ヶ谷様」「十六代様」「従二位様」などに変わっており、それまでの「御本邸」という表現も「千駄ヶ谷」「千駄ヶ谷御邸」などに変化している。「家扶日記」では1902年(明治35年)9月3日を最後に慶喜家への宗家からの送金は確認できなくなる{{sfn|家近良樹|2005|p=172}}。
* [[相撲]]好きで[[国技館]]の常連として有名であった。[[野村胡堂]]が贔屓の[[力士]]がいないように思えるとたずねたところ、好きな力士はいるが「家来や側近の者たちに、差別的な顔を見せてはならぬ。かりに、心の中で好き嫌いがあったとしても、絶対に色を表してはならない。こういう習慣で育ってきたのです」と答えた<ref>{{cite book|和書|author= 野村胡堂 |title= [[胡堂百話]] |chapter= 40.平次の旅 |year= 1981 |publisher= 中央公論社 |edition= 文庫}}</ref>。大正11年(1922年)、イギリスの[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード王太子]]来日時に自宅に招いた折には、[[両国国技館]]から四本柱を運ばせ、[[横綱]]の[[大錦卯一郎|大錦]]や[[栃木山守也|栃木山]]ら十数名の力士を呼んで相撲を披露している<ref>{{cite book|和書|author= |title= 殿様は「明治」をどう生きたのか|ncid= BB15594103 |series= 歴史新書 |year=2014 |publisher= 洋泉社 |isbn= 978-4-8003-0379-0}}</ref>{{Refnest|徳川邸で行われた相撲の写真記録がある<ref>{{cite book|和書|chapter= 徳川公邸の台覧相撲(其1,其2) |title= 答礼使御来朝記念写真帖 中巻 |others= 大阪毎日新聞社 [編] |publisher= 東京日日新聞 |date= 1922-05 }}</ref><ref>{{cite journal|和書|title= 国立国会図書館所蔵写真帳・写真集の内容細目総覧 : 明治・大正編 |chapter= 第Ⅱ部 事項編 |page= 278 |author= 村上清子 |work= 参考書誌研究 |number= 33 |publisher= 国立国会図書館 |date= 1987-11-20 }}</ref>。}}
[[File:Tokugawa Iesato 1927.jpg|thumb|250px|1927年、東京大相撲大阪場所を観戦する徳川家達公爵(中央)]]
* [[相撲]]好きで[[国技館]]の常連として有名であった。『名流漫画』([[森田太三郎]]著、1912年博文館)によれば「春夏二期の本場所に正面桟敷五六段の処に黒紋付を着たる公の姿を見ぬ事は無い程な角力好きで、時々何か頬張り乍ら見て居られる」という{{sfn|樋口雄彦|2012|p=175}}。[[野村胡堂]]が贔屓の[[力士]]がいないように思えるとたずねたところ、好きな力士はいるが「家来や側近の者たちに、差別的な顔を見せてはならぬ。かりに、心の中で好き嫌いがあったとしても、絶対に色を表してはならない。こういう習慣で育ってきたのです」と答えた<ref>{{cite book|和書|author= 野村胡堂 |title= [[胡堂百話]] |chapter= 40.平次の旅 |year= 1981 |publisher= 中央公論社 |edition= 文庫}}</ref>。息子の家正は子供の頃の回顧で「父は、一さい贔屓力士をつくらぬ主義で、永い間相撲を真に楽しもうとすれば、それに限るので、私は、今でも同感であるが、父とても人間の感情で、あれはいゝ力士だとか、あれはどうも、というようなことはあつたにちがいないから、私が洋食に連れられて行つたのは、その日どれか、会心の勝負があつたというようなことであつたかもしれない」と述べている{{sfn|樋口雄彦|2012|p=175}}。大正11年(1922年)、イギリスの[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード皇太子(後の英国王エドワード8世)]]来日時に自宅に招いた折には、[[両国国技館]]から四本柱を運ばせ、[[横綱]]の[[大錦卯一郎|大錦]]や[[栃木山守也|栃木山]]ら十数名の力士を呼んで相撲を披露している<ref>{{cite book|和書|author= |title= 殿様は「明治」をどう生きたのか|ncid= BB15594103 |series= 歴史新書 |year=2014 |publisher= 洋泉社 |isbn= 978-4-8003-0379-0}}</ref>{{Refnest|徳川邸で行われた相撲の写真記録がある<ref>{{cite book|和書|chapter= 徳川公邸の台覧相撲(其1,其2) |title= 答礼使御来朝記念写真帖 中巻 |others= 大阪毎日新聞社 [編] |publisher= 東京日日新聞 |date= 1922-05 }}</ref><ref>{{cite journal|和書|title= 国立国会図書館所蔵写真帳・写真集の内容細目総覧 : 明治・大正編 |chapter= 第Ⅱ部 事項編 |page= 278 |author= 村上清子 |work= 参考書誌研究 |number= 33 |publisher= 国立国会図書館 |date= 1987-11-20 }}</ref>。}}
* [[ピアノ]]や[[琴]]のような、うるさく音がするものを嫌った。孫の豊子は、「外国でおじじ様と演奏会などに行くでしょ。そうすると、なるべく(舞台から)遠い所へ行こうっておっしゃる。」と回想している。妻の泰子は、家達のいないところで孫に[[琴]]などを教えたという。
* [[ピアノ]]や[[琴]]のような、うるさく音がするものを嫌った。孫の豊子は、「外国でおじじ様と演奏会などに行くでしょ。そうすると、なるべく(舞台から)遠い所へ行こうっておっしゃる。」と回想している。妻の泰子は、家達のいないところで孫に[[琴]]などを教えたという。
* [[同性愛]]の指向があり、華族会館の給仕を鶏姦し<ref>{{cite book|和書| author = 佐野真一 | title = 枢密院議長の日記 | publisher = 講談社 |date = 2007-10 | series = 講談社現代新書 | number = 1911 | ncid= BA83405921}}</ref>、そのことが度重なり、給仕に事を荒立てられ、大正6年([[1917年]])頃、この醜聞の口止め料として1万円(当時は大卒の初任給が50円程)を支払った。このため、家達の実弟の[[徳川頼倫]]は[[牧野伸顕]]に「兄が恥を知らず、今なお公職を執り、引退の考えがないのは困ったものだ」と嘆いたことがあった。[[倉富勇三郎]]が牧野から聞いたところによると、家達の同性愛指向は華族間では知る者も多く、[[伯爵]]・[[松浦厚]]はこれに基づき家達の学習院総裁就任の話を潰したことがあるという<ref name="nagai">{{cite journal|和書|author= 永井和 |title= 柳田國男、官界を去る |work= 立命館文学 |number= 578 |pages= 701-705 |url= http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/578pdf/nagai.pdf |format= pdf |accessdate= 2018-07-24 | date= 2003-02}}</ref>。
* [[同性愛]]の指向があり、華族会館の給仕を鶏姦し<ref>{{cite book|和書| author = 佐野真一 | title = 枢密院議長の日記 | publisher = 講談社 |date = 2007-10 | series = 講談社現代新書 | number = 1911 | ncid= BA83405921}}</ref>、そのことが度重なり、給仕に事を荒立てられ、大正6年([[1917年]])頃、この醜聞の口止め料として1万円(当時は大卒の初任給が50円程)を支払った。このため、家達の実弟の[[徳川頼倫]]は[[牧野伸顕]]に「兄が恥を知らず、今なお公職を執り、引退の考えがないのは困ったものだ」と嘆いたことがあった。[[倉富勇三郎]]が牧野から聞いたところによると、家達の同性愛指向は華族間では知る者も多く、[[伯爵]]・[[松浦厚]]はこれに基づき家達の学習院総裁就任の話を潰したことがあるという<ref name="nagai">{{cite journal|和書|author= 永井和 |title= 柳田國男、官界を去る |work= 立命館文学 |number= 578 |pages= 701-705 |url= http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/578pdf/nagai.pdf |format= pdf |accessdate= 2018-07-24 | date= 2003-02}}</ref>。
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== 栄典 ==
== 栄典 ==
;位階
;位階
* [[1868年]](明治元年)[[11月18日 (旧暦)|11月18日]] - [[従四位|従四位下]][[近衛府|左近衛権少将]]、[[従三位]]左近衛権中将{{sfn|原口大輔|2018|p=272}}
* [[1896年]](明治29年)[[1月31日]] - [[正三位]]{{sfn|原口大輔|2018|p=272}}
* [[1901年]](明治34年)[[12月20日]] - [[従二位]]<ref>{{cite book|和書|title=官報|volume= 19011221 |number= 5542 | chapter= 叙任及辞令 |page= 522 | date= 1901年12月21日| url= https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2948843 |accessdate= 2018-07-24}} [コマ番号2]。従二位勲四等となる。</ref>
* [[1901年]](明治34年)[[12月20日]] - [[従二位]]<ref>{{cite book|和書|title=官報|volume= 19011221 |number= 5542 | chapter= 叙任及辞令 |page= 522 | date= 1901年12月21日| url= https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2948843 |accessdate= 2018-07-24}} [コマ番号2]。従二位勲四等となる。</ref>
* [[1909年]](明治42年)[[12月27日]] - [[正二位]]<ref>{{cite book|和書|title=官報|volume= 19091228 |number= 7955 | chapter= 叙任及辞令 |page= 835 | date= 1909年12月28日 |url= https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2951306 |accessdate= 2018-07-24}}[コマ番号5]。正二位勲一等となる。</ref>
* [[1909年]](明治42年)[[12月27日]] - [[正二位]]<ref>{{cite book|和書|title=官報|volume= 19091228 |number= 7955 | chapter= 叙任及辞令 |page= 835 | date= 1909年12月28日 |url= https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2951306 |accessdate= 2018-07-24}}[コマ番号5]。正二位勲一等となる。</ref>
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=== 出典 ===
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{cite book|和書|author= 保科順子 |title= 花葵 徳川邸おもいで話 |publisher= 毎日新聞社 |ncid= BA37720408 |isbn= 4620312347|year=1998}} - 著者は家達の孫で17代・徳川家正の三女
*{{cite book|和書|author=原口大輔|title= 貴族院議長・徳川家達と明治立憲制 |publisher= 吉田書店 |isbn= 978-4905497684|year=2018|ref=harv}}
*{{cite book|和書|author=樋口雄彦|title= 第十六代徳川家達 その後の徳川家と近代日本 |publisher= 祥伝社 |isbn= 978-4396112967|year=2012|ref=harv}}
* {{cite book|和書|author= 保科順子 |title= 花葵 徳川邸おもいで話 |publisher= 毎日新聞社 |ncid= BA37720408 |isbn= 4620312347|year=1998|ref=harv|}} - 著者は家達の孫で17代・徳川家正の三女
*{{cite book|和書|author1=原口清|author2=海野福寿|title= 静岡県の百年|series=県民100年史22|publisher= 山川出版社 |isbn= 978-4634272200|year=1982|ref=harv}}
*{{cite book|和書|author=家近良樹|title= その後の慶喜 大正まで生きた将軍|series=講談社選書メチエ320|publisher= 講談社 |isbn= 978-4062583206|year=2005|ref=harv}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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* [[川村清雄]] - 御学友の一人。留学先でもしばしば交流しており、清雄宛の手紙が46通残り([[江戸東京博物館]]蔵)、家達の[[肖像|肖像画]]も描いている([[徳川記念財団]]蔵)。また、清雄を[[パトロン]]として支え続け、[[聖徳記念絵画館]]の[[壁画]]制作の際には、真っ先に清雄を指名している。
* [[川村清雄]] - 御学友の一人。留学先でもしばしば交流しており、清雄宛の手紙が46通残り([[江戸東京博物館]]蔵)、家達の[[肖像|肖像画]]も描いている([[徳川記念財団]]蔵)。また、清雄を[[パトロン]]として支え続け、[[聖徳記念絵画館]]の[[壁画]]制作の際には、真っ先に清雄を指名している。


== 外部リンク ==

* {{Kotobank}}
*[https://www.youtube.com/watch?v=Jxt9fZ2fowk yotube動画「カラーで蘇る徳川家達公爵[16代当主]」(英語でスピーチする徳川家達公爵の映像)
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2021年6月27日 (日) 16:21時点における版

德川家達
とくがわ いえさと
1920年代の徳川家達公爵
生年月日 1863年8月24日
出生地 日本の旗 日本 武蔵国江戸江戸城田安邸
(現東京都千代田区皇居)
没年月日 (1940-06-05) 1940年6月5日(76歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京府東京市渋谷区千駄ヶ谷
(現東京都渋谷区千駄ヶ谷)
出身校 イートン・カレッジ
所属政党 (無所属→)
火曜会
称号 従一位
公爵
大勲位菊花大綬章
下記参照
配偶者 徳川泰子(旧姓近衛
子女 長男・徳川家正
親族 弟・徳川達孝(貴族院議員)
弟・徳川頼倫(貴族院議員)
娘婿・鷹司信輔(貴族院議員)
娘婿・松平康昌(貴族院議員)

日本の旗 第4−8代 貴族院議長
在任期間 1903年12月4日 - 1933年6月9日
天皇 明治天皇
大正天皇
昭和天皇

選挙区 公爵議員(終身)
在任期間 1890年11月29日 - 1940年6月5日

日本の旗 駿府藩/静岡藩藩主・知藩事
在任期間 1868年7月13日(旧暦5月24日) - 1871年
天皇 明治天皇
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德川 家達(とくがわ いえさと、1863年8月24日文久3年7月11日) - 1940年昭和15年)6月5日)は、日本政治家位階勲等爵位従一位大勲位公爵。もとは田安徳川家第7代当主で、徳川宗家第16代当主となり、静岡藩初代藩主となった。廃藩置県貴族院議員となり、1903年から1933年までの30年にもわたって第4代から第8代までの貴族院議長を務めた。またワシントン軍縮会議全権大使、1940年東京オリンピック組織委員会委員長、第6代日本赤十字社社長、華族会館館長、学習院評議会議長、日米協会会長、恩賜財団紀元二千六百年奉祝会会長なども歴任。大正期には組閣の大命も受けた(拝辞)。は静岳。世間からは「十六代様」と呼ばれた。

生涯

静岡藩主になるまで

 
徳川家達
時代 江戸時代末期(幕末)- 昭和時代前期
生誕 文久3年7月11日1863年8月24日
死没 昭和15年(1940年6月5日(満76歳没)
改名 田安亀之助、徳川亀之助、家達、静岳
戒名 顕徳院殿祥雲静岳大居士
墓所 東京都台東区上野寛永寺
官位 従四位下少将、従三位中将
主君 徳川家茂徳川慶喜明治天皇
駿府藩藩主、静岡藩知事
氏族 徳川氏田安徳川家徳川宗家
父母 父:徳川慶頼、母:高井武子、
養父:徳川寿千代(長兄)、徳川慶喜
兄弟 寿千代、隆麿、家達
達孝、興丸、頼倫
妻:近衛忠房の娘・泰子
家正(長男)、繁子、綏子(鷹司信輔夫人)、綾子(松平康昌夫人)
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江戸城田安屋敷において、田安家の徳川慶頼の三男として誕生した[1]幼名は亀之助。慶頼は第14代将軍徳川家茂将軍後見職であり、幕府の要職にあった。母は高井武子[注釈 1]。家達は家茂および第13代将軍・徳川家定再従兄弟にあたる。

元治2年(1865年2月5日、実兄・寿千代の夭逝により田安家を相続する[1]慶応2年(1866年)に将軍・家茂が後嗣なく死去した際、家茂の近臣および大奥天璋院御年寄瀧山らは家茂の遺言通り、徳川宗家に血統の近い亀之助の宗家相続を望んだものの、わずか4歳の幼児では国事多難の折りの舵取りが問題という理由で、また静寛院宮雄藩大名らが反対した結果、一橋家徳川慶喜が第15代将軍に就任した[1]

家督相続と静岡藩主・知藩事

大政奉還王政復古江戸開城を経て、慶応4年(1868年)閏4月29日、新政府から慶喜に代わって徳川宗家相続を許可され、一族の松平斉民らが後見役を命ぜられた[2][3]

5月18日に亀之助改め家達と名乗ることになった[3]5月24日駿府藩主として70万石を与えられる。その領地は当初駿河国一円と遠江国陸奥国の一部であったが、9月4日に陸奥国に代えて三河国の一部に変更された[3][4]

8月9日に中老大久保一翁、大目付加藤弘蔵など約100人を共にした行列を連れて江戸を出発し、徳川家所縁の地である駿河府中(現:静岡市葵区)へ向かった[5]。6歳の家達に随行した御小姓頭取の伊丹鉄弥は以下のように記録している。「亀之助殿の行列を眺める群衆、それが何だか寂しそうに見えた。問屋場はいずれも人足が余計なほど出て居る。賃銭などの文句をいふ者は一人半個もない。これが最後の御奉公とでも云いたい様子であった。途中で行逢ふ諸大名も様々で、一行の長刀[注釈 2]を見掛けて例の如く自ら乗物を出て土下座したものもある。此方は乗物[注釈 3]を止めて戸を引くだけのこと。そうかと思へば赤い髪を被って錦切れを付けた兵隊が、一行と往き違いざまに路傍の木立に居る鳥を打つ筒音の凄まじさ。何も彼も頓着しない亀之助殿であった」。また年寄女中の初井は、駕籠の中から五人囃子の人形のようなお河童頭がチョイチョイ出て「あれは何、これは何」と道中の眺めを珍しげに尋ねられ、これに対して、左からも右からもいろいろ腰をかがめてお答え申しあげたと伝えている。

江戸にいた旗本や御家人などの旧幕臣は、武器弾薬や金などを取って脱走した反政府派を除くと大きく分けて3つの道があった。政府に仕えて朝臣に転じる道、家達に従って駿府へ移住して駿府(静岡)藩士になる道、藩に暇乞いして農工商に従事する道である。内訳は朝臣に転じたのが5,000戸ほど、駿府へ移住したのが12,000戸ほど、暇乞いしたのが3,600戸ほどだった(暇乞い組の中は生活の困難や当初の計画通りに行かなくなったことなどで後に藩に帰参した者もある)[6]。駿府移住組が最も多いが、70万石の駿府藩でこれほどの規模の家臣団を家禄制のまま召し抱えるのは困難だったので、家禄制は廃止し、今後は役職者には役金、不勤者には扶持米を支給することを藩士たちに申し渡した。大半を占める不勤藩士(不勤だが「勤番組」という名称で組織された)には農工商などの職業に就くことを許可した[7]。そのため扶持米の少ない不勤藩士は農工商業への従事、内職などして生計を立てた[7]

家達が駿府に到着したのは10月5日だったが、11月には旧江戸城の東京城(皇居)に戻り、明治天皇に拝謁した[8]函館五稜郭に立てこもった榎本武揚一党の征討を命ぜられたが、駿府へ移住したばかりの家臣たちに函館遠征は困難であったため、後見役の松平斉民が家達の出兵免除の請願書を提出し、田安家の徳川慶頼と一橋家の徳川茂栄が連名で家達の代わりに出陣することを願い出て許され、家達の出陣は免除された[9]11月18日従四位下左近衛権少将に叙任、同日さらに従三位左近衛権中将に昇叙転任する[8]12月5日に再び江戸を発って駿府へ向かった[10]

1869年(明治2年)4月6日に再び東京に到着し、13日に旧榊原家邸を静岡藩邸として与えられた。7月14日に東京を発って駿府への帰路につく[9]。この留守中の6月に駿府は静岡と改称[11]。また版籍奉還に伴い、明治2年(1869年6月、静岡藩知藩事に就任し、同時に華族に列する[12]

静岡における家達の住居ははじめ元城代屋敷だったが、1869年7月に浅間神社前の神官新宮兵部邸(「宮ケ崎御住居」と呼ばれた)に移り、元城代屋敷は藩庁になった[11]。駿府城内の御用談所には毎月10日間ほど出勤し、何の書類か分からぬまま書類に判を押す公務を執ったという。その公務の日以外は藩校の静岡学問所での学問や、小野派一刀流の浅利義明、心形刀流の中条景昭らの指南による剣術の稽古に励んだという[13]。時々遊覧も行い、清水湊まで出向いて三保の松原の羽衣の松を鑑賞したり、漁師の網引きを見物したりした[14]。当時家達に奥詰・家従として仕えた洋画家川村清雄は家達はとてもおとなしい子供だったと回顧している[注釈 4]。夜は男の家臣だけが控える部屋で寝ていたが、泣いたりすることもなく、川村と「お客様ごっこ」をして遊んでいたという[14]。藩重臣たちの相談の結果、旧来将軍家では許されていなかった肉食も健康のため出すことが決まり、家達は牛肉の団子を入れた吸い物などを食べるようになった[18]

1869年7月に政府が全国の藩に対して藩政と知藩事個人の家政を切り離し公私の区別を付けることを命じた職員令を公布したのに伴い、家達の「宮ケ崎御住居」と慶喜の「紺屋町御住居」に勤務していた藩士たちは個人的使用人として家政に専念することになり、それを示すため9月6日に御側用人は家令、御小姓頭・御用人並・奥詰頭取は家扶、御小姓は一等家従、奥詰は二等家従に改名された[19]。藩財政と藩主個人の家計も制度上は分離されたが、実際には静岡藩の会計方が両方を一元管理したので、結局2年後の廃藩置県までちゃんとした分離はできていなかった[19]

明治4年(1871年7月廃藩置県によって知藩事たちは全員免職となり、華族の地位と家禄を保証されて東京へ移住することとなった。家達も8月28日に8人の共だけを連れて静岡を発ち、東京へ向かった。「宮ケ崎御住居」に勤務していた使用人たちは1872年(明治5年)9月に職階に応じた報奨金を出してリストラし、東京の使用人も一部だけを残して同様の処置を取った。その後「宮ケ崎御住居」は人見寧に引き渡され、彼はそこで修学所という学校を経営した[20]

廃藩置県後

明治初期の10歳の頃の家達[21]

東京到着後、小川町の旧静岡藩邸や牛込戸山の旧尾張藩下屋敷を経て、1872年(明治5年)に赤坂福吉町の元人吉藩邸を3800両で購入し、そこで生活するようになった[20]。赤坂屋敷の別棟には天璋院(13代将軍徳川家定夫人)、本寿院(家定実母)、実成院(14代将軍徳川家茂実母)も同居した。東京に移住した後も旧臣たちによる教育が続けられた。また河田熙乙骨太郎乙の家塾や中村正直同人社に通学した[22]

1877年(明治10年)には千駄ヶ谷に引っ越した。現在のJR千駄ヶ谷駅の南側一帯に位置し、敷地面積10万坪を超える大敷地だった。家達が英国に留学した後の同年10月にこの敷地内に徳川公爵邸となる洋館が完成している[21]。その後この敷地と建物は1943年まで徳川公爵家によって使用され続けたが、同年に東京府が錬成道場として利用するために買収して「葵館」と名付けられ、その後木造建築物は除去、鉄筋コンクリートの洋館2棟は移築された後1956年東京体育館が建設されて現在に至っている[23]

英国留学

旧臣の洋画家川村清雄が描いた若い頃の徳川家達

1877年(明治10年)6月13日に英国留学のために横浜港からフランスの汽船に乗船[24]。海外渡航経験がある家扶・家従河田熙竹村謹吾大久保三郎山本安三郎が同行した[24]。以降5年にわたって英国に滞在することになる[12]。8月14日にロンドンに到着し、28日にはスコットランドエジンバラへ移住し、そこで個人授業を受けた[25]。その後英国貴族や上流階級の子弟が学ぶパブリックスクールイートン・カレッジに入学[24]。同校では、寄宿舎での学生による模擬議会に大きな感銘を受けたと回顧している。その後ケンブリッジ大学に進学したとする人名辞典も存在するが、誤りと思われる[25]。実際は大学ではなく、ロンドン郊外にあったテーラー・ジョーンズの経営する私塾のシドナム・カレッジで学んでいたようである[25]。英文で日本に手紙を送るなど、英語には熟達していたようである。地方議会を傍聴したり、ロンドンの街歩きなどもしたようである[26]。また1880年(明治13年)6月22日付けの『東京曙新聞』によればイギリスの物産品を日本にいる天璋院に贈ったという[26]

1878年(明治11年)8月から9月にかけてはフランスとイタリアにも旅行。フランスではパリ万博を見学し、ここで当時仏国博覧会事務局員としてパリ出張中だった旧臣平山重信成島謙吉三田佶らと顔を合わせたと見られ、フランス留学中の水戸家の徳川昭武にもパリの案内をしてもらっている[26]。また大久保利通の息子で当時ロンドン公使館書記生を務めていた同世代の牧野伸顕とも親しくなった[26]。イタリア留学中の旧臣の川村清雄にも手紙をよく送っている[26]。川村への手紙の中には寄宿先のエルド夫人の姪が可愛いので好きだという外国人女性への淡い恋心を明らかにしている[27]

英国からの帰国後

徳川家達

19歳になっていた1882年(明治15年)9月に英国留学を終えてロンドンを発ち、10月に帰国[28]。帰国間もない11月に近衛忠房の娘近衛泰子近衛篤麿公爵の妹・近衛文麿公爵の叔母)と結婚。彼女との間に嫡男家正をはじめとする一男三女を儲ける[28]

帰国後ただちに麝香間祗候(勅任官待遇の宮中の名誉職)に就任[12]。1884年(明治17年)に華族令が公布されて華族が五爵制になり、家達は最上位の公爵に叙された[12]

1887年(明治20年)10月31日、明治天皇が千駄ヶ谷の徳川公爵邸に行幸した。徳川家にとっては後水尾天皇二条城を行幸して以来261年ぶりの名誉となった。そのイベントは盛大に催され、明治政府と徳川家の和解を象徴するかのようなイベントになった。勝海舟、大久保一翁、山岡鉄舟といった旧臣達や内閣総理大臣伊藤博文以下の閣僚たちも招待された。旧臣の大草高重ら十数名の流鏑馬が天覧に供されている。この行幸を喜んだ松平春嶽は海舟・一翁・鉄舟らの功労のおかげだと謝意を表明した[29]。明治天皇の行幸があった徳川公爵邸内の建物は「日香苑」と改名され昭和期に至るまで「明治天皇聖蹟」として保存され続けた[29]

1890年(明治23年)の帝国議会開設と同時に貴族院議員に就任した[12]

日清戦争後の1895年(明治28年)には千駄ヶ谷の徳川公爵邸で「旧幕並静岡県出身陸海軍将校諸氏凱旋歓迎会」が催された。榎本武揚が会長を務め、徳川家や旧静岡藩にゆかりのある出征軍人たちを招待したものだった。会場を提供した家達は「天皇陛下の御威徳に由るといえども又豈将士忠勇の致す所にあらさらんや」と挨拶し、陸海軍将兵たちの活躍をたたえた。その後榎本の発声で「天皇皇后両陛下万歳」「陸海軍来賓万歳」「公爵万歳」が三唱された。また陸海軍軍人たちが「ヤツショ」の掛け声で家達、徳川篤敬侯爵、徳川厚男爵、徳川達孝伯爵の順番で胴上げを行った[30]

1898年(明治31年)3月1日には華族会館の館長に就任した[31]

徳川家達公爵と徳川慶喜公爵

1897年(明治30年)には家達の東京移住後も静岡に残っていた慶喜が東京に移り、1898年(明治31年)3月2日に皇居で明治天皇に拝謁した。慶喜には1902年(明治35年)に家達の徳川宗家と別に公爵位が与えられた(徳川慶喜公爵家[32]

貴族院議長

1903年(明治36年)10月の近衛篤麿公爵の7年の貴族院議長任期満了が近づく中、近衛の病状の悪化により貴族院議長後任問題が浮上した。新聞紙上では研究会所属の黒田長成侯爵(当時貴族院副議長)と無所属の家達が有力候補として取りざたされていた[33]。家達が有力視されていたのは第9回議会以来、全員委員長(全員委員会とはイギリス議会に倣って導入された制度で議員全員が参加する委員会である。しかし全員委員会の開催はほとんどなくその委員長職は院内の名誉職的な地位だった)の選挙に第10回と第11回議会を除けば(この2回も当選してはいるが、谷干城子爵に迫られ僅差だった)圧倒的票差で当選し続けていたためである[34]

首相の桂太郎が家達を強く推薦した結果、12月に家達が近衛の後任として第四代貴族院議長に勅任された[35]。この就任の経緯について家達は「明治36年12月3日の事と思ひますが、宮中で桂首相に面会致しましたとき『近衛公の後任として議長に推薦したい』というお話であつたから、私は『議長として当時の副議長の黒田侯爵を昇格せられるのが、もつとも適当と思ひます』と黒田侯を推薦して私は固辞しました。ところが桂首相は『今陛下に拝謁を致し、奏上御裁可を得たる故、是非承諾してくれ』とのことで極力私の就任を慫慂せられましたから、私は熟考の結果、かくまで熱心に推薦せられる以上、拒否するわけにもいかぬと思つて、ついにこれを承諾し、同年の十二月議長に任ぜられたのであります」と述べている[33]

家達は1903年(明治36年)12月4日より[36]から1933年(昭和8年)6月9日[37]まで、延べ31年の長きにわたって貴族院議長を務めた[38][39][40][41]

議長就任直後に家達は「議員諸君ノ多数ノ御意見に従」うと公言し、議場における「院議」を尊重する態度を示した。以降、家達は各派交渉会をはじめとする院内での意思疎通や貴族院とその時々の内閣との間の交渉に尽力していくことになる[42]

日露戦争後の1906年(明治39年)4月22日にも千駄ヶ谷の徳川公爵邸で日清戦争の時のような凱旋軍人の慰労会が催された。家達は祭壇の前で戦没者のための祭文を読み上げて玉串をささげ、遺族や凱旋者に対する式辞を読んだ。その後、家達の発声で「天皇陛下万歳」、慶喜の発声で「陸海軍万歳」、榎本の発声で「徳川家万歳」が三唱された[43]

貴族院議長7年の任期切れの後の1910年(明治43年)にも貴族院議長に再任。この7年の間に家達は議長として「私心」のない「公平」な人物と評価されるようになっていた。政治評論家の鵜崎熊吉は家達について「何の政団にも当たり障りない」家達を「無色透明」と評している[44]

実際、当時の家達は貴族院の院内会派には所属してなかったが、政治的立場としては衆議院の立憲政友会に近く、政友会の連携によって成立した西園寺公望内閣や、再び政友会との連携によって成立した第一次山本内閣に好意的だったが、1914年(大正3年)のシーメンス事件で山本内閣が窮地に陥り、貴族院内でも幸倶楽部派を中心に山本内閣追及が強まり、特に勅選議員の貴族院議員村田保が執拗に山本内閣を攻撃した。それについて家達は「人身攻撃に渡るような議論をなし、遂に罵詈讒謗至らざるなしといふ、痛烈深刻なもの」だったので「議長としてしばしば注意を加へ、あるひは中止しようかと思った程」であったと回顧している[45]。会議録でも家達と村田は議事日程や発言順などを巡って激しく論争しており、家達は村田の発言を制しようとしている[45]。2月20日に村田が臨時発言を請求すると家達は各派交渉会を開き、そこで従来慣例がないことを理由にそれを却下しつつ、村田の請求は緊急動議で議場の諾否を求めさせることと決した。2月26日に家達は村田の緊急動議の是非を議場に諮り、反対少数だったことから村田の演説を許可したが、演説中に副議長の黒田侯爵に議長席を譲って退席している[46]。結局後に村田は議場を混乱させた責任を取って辞表を提出した[46]

幻の「徳川内閣」

1913年の徳川家達公爵

1914年(大正3年)3月26日に山本内閣が総辞職したのを受けて、27日に元老会議が開かれたが、その場で組閣を勧められた松方正義は老齢を理由に辞退し、代わりに貴族院議長の家達を推挙した。山縣有朋は「徳川公は中正の人にして、門閥と云ひ徳望と云ひ、首相とするに申分なし」と述べつつも「行政上の経験」もなく「其の手腕力量の如何を知ら」ない点が不安で、そもそも家達が組閣の大命を拝受するか疑問を呈した。それに対して松方は平田東助平山成信といった貴族院議員たちに状況を聴取したうえで判断すると述べて散会となった[47]。元老会議が平田と平山の意見を聴取することとしたのは山本内閣を倒閣に追い込んだ貴族院(特に幸倶楽部派)の意向を重視したためだった。家達が貴族院議長として貴族院の反発を受けない人物であることが貴族院対策として重要だったからである[48]。また家達は政友会との関係が良好だったから「徳川内閣」なら衆議院対策も安定すると考えられた[49]

平田は、家達が組閣するなら「貴族院は全体一致にて之を歓迎」するだろうが、家達が大命を拝受するかは不明であり、事前に家達に意向聴取すると恐らく拝辞すると思われるので「出し抜け」に大命降下した方が家達が受け入れる可能性が高いと報告した。そのため元老会議は事前に家達に打診せずにただちに家達を奏推することで決定し、元老たちは参内し大正天皇の後継首相の下問に対してその旨を奉答。大正天皇はこれを認め、家達に参内を命じた[48]

3月29日10時に参内した家達に大正天皇より組閣の大命があった。即答を避けて翌日奉答するとして退下したが[50]、内大臣伏見宮貞愛親王に対しては「行政につきて何等の経験もなく、今日の難局に処する所以につきても、亦何等自信なし、万一自ら量らずして、大命を奉じ、徒らに紛糾を重ぬるが如きことありては、却って不忠不臣の責を免かれ」ないので拝辞する意向を示した[51]

元老会議は平山を家達の千駄ヶ谷邸に派遣して説得にあたったが、平山によればこの時も家達は「時局につきて何らの自信もなく、且つ是れまでに平大臣にても務めたる経験あらば兎も角も、曾て何らの経験もなきに、徒らに大命を拝受しては、却って不忠不義の臣」になるため拝辞すると述べたという。家達の決意が固いことを確認した元老会議は「徳川内閣」を断念し、次の候補者選定を開始した[51]。結局第二大隈内閣が成立するのだが、三週間もの政治的空白が生じる事態となった[52]

しかし組閣に失敗しての大命拝辞ではなかったので、この件が家達の大きな政治的失点になることはなく、この後も貴族院議長に在職し続けた[52]。当時の『東京朝日新聞』(大正3年3月30日)も格別の自信があるならともかく、ただ漫然と大命を拝受するのはやめた方がよく、何か問題があれば本人のみならず一門全体にも迷惑がかかることになる、まだまだ春秋に富む身であり、今後も君国に尽くす機会はあるはずなので今回は拝辞が賢明であるという旧臣の貴族院議員某の意見を載せている[53]

書記官長柳田国男との確執

貴族院書記官長は議長の補佐として、また議会事務局トップとして重責を担う役職である。1914年(大正3年)から1919年(大正8年)にかけてその職位にあった柳田国男と家達の間に重大な確執が生じて政治問題化した。貴族院書記官河井弥八の日記によれば少なくとも1918年(大正7年)5月の段階では両者の間に確執が生じていたようで、この時、同書記官宮田光雄の転出問題をめぐって家達が人事権を持つ書記官長の柳田と相談しなかったという[54]

同年7月、家達は長男の家正が書記官として勤務している北京公使館を訪問し、その後中国視察も行うことを考え、河井にその計画の作成を命じ、河井は関係各所を回って準備を整えたが、家達の妻の泰子が病気を患ったため延期となった。柳田は河井に随行を命じるつもりだったが、家達訪中が延期になったので貴族院事務局官制に則り、河井だけ中国への出張を命じた。しかし家達がそれに承諾を与えなかったため、河井の出張も中止となった。柳田は家達が公務ではなく自己都合で書記官の出張を振り回したと思い「議長ノ態度ヲ快シトセス」と不快感をあらわにしている[54]

その後両者の関係はさらに悪化していったと見られ、1919年(大正8年)4月16日に家達は首相の原敬に対して柳田の更迭の話を相談している[55]。勅任高等官である貴族院書記官長の実質的な人事権は貴族院議長ではなく内閣にあったためだが、議長との不仲を理由に書記官を更迭するというのは世間からは恣意的な人事に映るので原は慎重だった[56]。この後柳田は議会閉会を利用して九州旅行をしているが、その間の5月10日の衆議院の火災を聞いて大分県より急遽帰京。この時に柳田が旅行ですぐに駆け付けなかったことが家達の心証を悪くしたという説もあるが、河井の日記からはそうしたことは見いだせない[57]

家達に近しい法制官僚岡野敬次郎が宮内大臣波多野敬直に柳田を宮内省図書頭に異動させることを依頼するようになり(波多野は難色を示している)、家達と柳田の不和の話を聞いた倉富勇三郎が柳田に話を聞いたところ、柳田は家達との不仲や岡野が自分を転任させようと画策していることを認め、自分にも辞職の決意はあるが、しばらくは辞表を出さずに家達を困惑させると告げた[57]

一方家達は再度の自身の訪中計画の作成を河井に指示し、この際に河井が柳田と面会し「将来ノ進退」を聴取したが、柳田は家達が「偏狭我儘ニシテ自ラ公明ヲ装フモ窃ニ陰険手段を弄ス」点が我慢ならず、近日中にも辞職し「従来ノ情弊ヲ一掃セム為一切ヲ公表」するつもりだと述べた[58]

家達は河井に自身の訪中の同伴を命じたが、柳田が河井に出張命令を出すことを拒否してきたので、家達は河井を通じて柳田の真意を探るよう指示した。柳田は河井の出張を認めれば書記官が少数になるので業務に支障が出ると答えているが、それは表向きの理由で前述したように柳田は家達が議長付き書記官を私的目的のため働かせることを嫌っていた[59]。家達側はこの柳田の執拗な「嫌がらせ」に困惑しきりであった[56]

10月10日中国旅行の暇乞いのため首相の原のもとを訪れた家達は改めて「貴族院書記官長には甚だ困却すとて彼の反抗的行為を物語り相当の配慮を望む」と要求した[60]。内閣としても議会運営に支障が出るのは困るため柳田問題に重い腰を上げるしかなくなった[61]

家達は10月14日に中国へ向けて出国し、15日に倉富が再び柳田と会見したが、家達の中国訪問期間中は辞職することなく居座ると答えている[62]

12月になると新聞にも柳田が辞職するという報道が出回るようになり、研究会所属の貴族院議員水野直子爵が原首相に対して家達と柳田の問題を質問し、原は柳田の辞職で落着する見込みであると答弁している。そして実際に12月21日に柳田は辞職した。代わりに河井が書記官長となった[63]。河井以降は貴族院書記官長の人事は書記官からの昇格のみとなった。事実上内閣により決定されてきた貴族院書記官長の人事は柳田事件を契機として議長の意向が強く反映されるようになったといわれる[64]

ワシントン会議全権

ワシントン軍縮会議前の全権大使、左から幣原喜重郎加藤友三郎・徳川家達
1921年徳川家達公爵とロバート・ミーンズ・トンプソン英語版
1922年の徳川家達公爵

1921年(大正10年)10月に原内閣はワシントン会議に海軍大臣加藤友三郎、駐米大使幣原喜重郎、そして家達を全権としてワシントンに派遣した。海軍大臣や駐米大使が全権になることに違和感はないが、軍人でも外交官でもない上院議長の家達の派遣は驚きをもって迎えられた[65]。家達が選ばれたのはアメリカがヘンリー・カボット・ロッジら上院議員を全権に選んだことが影響しているといわれる[66]。また原内閣の貴族院対策だったとも指摘されている[67]。一方徳川家広は家達が日英同盟廃止論者だったので同盟を廃止してアメリカを含めた四か国条約に発展させるためだったのではないかと指摘している[68]

しかし、全権に就任するということは原内閣の軍縮などの外交方針に従い、公的な場においてその立場から政治的発言を行うことを意味し、それによってこれまで「無色」の上院議長で通してきた家達に毀誉褒貶すなわち政治的評価が付着する結果になった[68]。それは必ずしも賞賛一辺倒ではなく、原内閣と政治的に対立している人物から多くの批判が寄せられるようになった。貴族院内でも議長批判の声が上がるようになり始めたため、帰国後に河井が対応に奔走することになる[68]

10月15日に加藤友三郎とともに横浜から鹿島丸で出航し、11月2日にワシントンに到着した。シカゴで家達は「吾々は世界に於ける軍備縮小の目的を達する為め吾々の最善を努めたい覚悟である。そしそれは独り吾々の本国たる日本の為と云ふ許ではなく又同時に世界の平和を保証するものであると信ずる」と演説した[69]。また家達は共同通信の記者に対して日米両国間に横たわる誤解の原因を払しょくすることに専念するつもりであり、日米がお互いをよく理解し協力すべきと日米関係改善を試みると発言している[69]。また別の演説の中ではペリー来航の話を絡めて日米外交を開始した徳川将軍家の子孫が今更なる日米友好の発展を期すといった演説も行った[69]。外務省や日本全権団はワシントン会議の動向を報じる各国新聞の論調を注視しており、日本全権団も家達を中心に新聞記者を対象にしたレセプションを開催するなど各国報道陣への対応に注意を払った[69]

海軍軍縮問題はワシントン会議の成否を分ける重要問題であり、日本海軍の主力艦の比率を対米英7割にするか6割にするかという問題だった。アメリカは6割を要求したが、日本とアメリカの交渉は海軍軍縮専門委員会でも妥協点が見いだせず、協議は難航。そうした中の11月28日(現地時間)の記者会見で家達は7割は海軍随員加藤寛治中将の個人の意見であって「日本海軍問題に関しては日本代表は海軍力比率に関して執るべき最も件名な方策につき目下審議中であるから未だ其の態度を声明する迄には進んでゐない」と述べており、つまり日本全権団として公式に7割を主張しているわけではない旨を記者団の前で発言し、これが12月2日に日本国内で新聞報道された。この発言は日本全権団内で7割を強く主張し続けていた加藤寛治の存在をクローズアップさせると同時に日本全権団内部の不統一を期せずして露呈させた。事は会議全体と国防方針に関わる問題だったため、様々な憶測と混乱を惹起した[70]

報道が拡散されて日本国内が混乱していたのを受けて、12月1日(現地時間)に家達は再び記者会見し「余は加藤中将の陳述に関して余に質問を発した一新聞記者に対し、右陳述は単に海軍専門家等の意見であるといふ意味を伝へる積りであつたのである、余は加藤中将の意見を反駁する意向は無かつたのである、然るに余の言を以て加藤中将の意見の反駁若しくは否認と解する人々があるらしい、然し余は毫も此種の観念又は印象を伝へやうとは欲しなかったのである」と弁明している[71]

しかし日本国内では7割案だったのを米国に屈従して6割案に譲ったとする全権の弱腰を批判する論調が日増しに高まり、それは渋沢栄一と彼の娘婿で貴族院議員の阪谷芳郎を通じて家達の耳にも入っていた。阪谷は渋沢に「徳川全権ハ当方新聞紙上至テ不評判ナリ」と報告している[72]

また家達の不在中の貴族院内では細川護立侯爵や佐佐木行忠侯爵ら研究会の反幹部派が院内会派・無所属(第2次)を組織したことで、会派の活動が活発化して、いきり立った状態になっていた[73]。貴族院書記官長の河井はこの貴族院内の不穏な状況を早期に収める必要性や、これ以上家達がワシントンで声望を落とすことを懸念して家達の早期帰国を提案。他国の全権も一部が帰国しはじめていたこともあって、12月下旬、外務省は家達の早期帰国を決定した[67]。原内閣の貴族院対策のために全権になったと言われていた家達は、後続の高橋是清内閣の貴族院対策のために帰国することになった[67]

家達の早期帰国の件は貴族院本会議でも質問が出ているが、高橋首相は他国の全権の一部が帰国していることに触れて「徳川公爵ハ帰朝シテモ向フニハ差支ヘナイ」と答弁している。この答弁は加藤友三郎や幣原喜重郎と異なり、家達が全権としてワシントンで遂行する任務がなくなったことを証明するものでもあった[67]

他の全権に先駆けて帰国した家達は会議への不満を一身に受けざるを得なくなった。全権としての家達への評価は賛否両論で、6割反対運動をしていた対米同志会は「平和の攪乱者宴会使節徳川家達公は何の面目あつて帰るか」「言語道断の大失態」と非難する声明を出し、憲政会所属の衆議院議員望月小太郎は「重大なる時機に不必要なる談論を恣にして我が国防安全七割率とは単に日本海軍専門家の私言に過ぎずと公言し全権間に一場の紛議を捲き起こし」たと批判[74]。他方、外交評論家の小松緑は家達が会議において「円満に事を纏める素地を作」ったことを「成功」としつつ「気の毒にも、その仕事が余り表面に出なかつたので、世人から能く諒解されてゐない」と指摘した[74]

貴族院内の評価も賛否両論であった。まずは議長の労をねぎらう議員が大半だったが、一部の議員から批判が起き、会議の成果が成功とはいえないこと、貴族院議長を全権にすることで貴族院からの会議への批判を封じ込めようという原内閣の計略に乗せられたこと、そもそも家達が会議の議題になっている問題の専門家でなかったことなどについて批判があった。ただ家達を擁護する政友会と研究会、批判する憲政会と幸倶楽部派といった構図は表面上は見られず、目立った批判を浴びせたのは対外硬を唱える少数派であり、残りは少なくとも静観といった感があった[75]

河井は帰国後の家達が批判を受ける状況をできる限り減らすため、家達に隠忍自重を促す一方、内閣、貴族院、マスコミなどに謝意を表明して懇話会を開くなど融和に尽力した。書記官長としての職務範囲をはるかに超える河井の活動(ゆえに柳田に嫌われたが)は家達の大きな支えとなったと思われる[76]

全国水平社による辞爵運動

全国水平社の代表者らと会見した徳川家達公爵(中央)

大正時代には大正デモクラシーの高まりの中で労働運動や農民運動と並んで部落差別解放運動も高まりを見せた。大正11年の全国水平社の結成はその象徴だった。全国水平社は天皇陛下のもと平等であるべき人民が歴代徳川将軍の悪政のせいで皇室と遮断された結果、部落差別が起きるようになったと批判し、大正14年の全国水平社第3回大会は徳川一門に辞爵を求めることを全会一致で決議。3月から4月にかけて九州全国水平社委員長だった松本治一郎が千駄ヶ谷の徳川公爵邸に訪問したが、家達は病気を理由に会見を拒否。松本は代わりに家令に決議案を手渡して回答を要求したが、回答はなかった。7月9日には松本とその同志2名がピストルや短刀を準備して家達暗殺を企んだとして警察に逮捕された。松本らは家達暗殺のためピストルや短刀を用意していたわけではないと主張し、最上級審の大審院まで争っていたが、結局大正15年3月に懲役4カ月の実刑判決が下った[77]

一方家達は7月25日に全国水平社の代表者と初めて会見し「自分が公爵に列せられたのは天皇陛下の思し召しであり、勝手に辞爵することは大御心に背くことになる」と述べて辞爵を拒否した[77]

9月20日未明には徳川公爵邸で火災があり母屋の建物のほとんどが焼失した。当初は漏電が原因と見られていたが、翌年には放火犯として松本の世話になっていた青年が逮捕された。放火犯は懲役15年の実刑判決を受けた[78]

清浦内閣に対する立場

1924年(大正13年)1月、第二次山本内閣の総辞職後、後継首相となった元貴族院議員清浦奎吾子爵が貴族院の最大会派である研究会を中心とした組閣を行ったことで護憲三派などから「特権内閣」と批判された。貴族院による政党内閣潰しの動きと見た護憲三派の議員たちはこの最中の1月24日に貴族院議長の家達のもとを訪れ、清浦内閣に対する態度を質問し、その応答が新聞に掲載された。それによれば家達は「政党にも関係のないものが内閣を組織する事は立憲国に於て宜しくない事と思ふ。諸君の御承知の通り十一年程前、第一次山本内閣が倒れた時私に大命が降つた事がありますが私は直ちに之を拝辞しました、貴族院に居って政党にも関係なきものが内閣組織の退任に当るべきものではないとの私の信念の結果に外ならぬのでありました」「この度の政変に関係したものは貴族院の一部で全体ではないから、貴族院全体として誤解されない様に願ひたい」「之は皆私個人として申上げるのでありますから左様御諒承を願ひたい、貴族院の議長としては貴族院全体の決議に依らねば何も申し上げられませぬ」と答えたという[79]

ところがこれが「徳川議長の現閣反対意見」(『東京朝日新聞』)、「政党に関係無い者が内閣組織は間違」(『読売新聞』)といったタイトルで記事にされたことで研究会から貴族院議長でありながら内閣弾劾の口吻を漏らしたとの批判が巻き起こった。その後家達は清浦を訪問し記事の内容について訂正を行ったと報道されているが、最大会派である研究会との関係を悪化させたことは今後の貴族院運営に影響を及ぼしかねないことだった[80]

貴族院改革案をめぐって

その後、批判が高まる清浦内閣は解散総選挙に踏み切り、総選挙後護憲三派による加藤高明内閣が発足した。加藤内閣は貴族院中心の内閣に対する倒閣運動の結果成立した政権であるため、加藤内閣下では貴族院改革の議論が本格化し始めた。しかし貴族院側は院内での自発的改革を志向する議員が多く加藤内閣への反発を強めていった。1924年10月10日に加藤内閣は内閣部局内に貴族院制度改善調査委員会を設置し、その調査補助委員を貴族院議員から選出しようとしたが、家達は謝絶した[81]。新聞報道によると加藤内閣側は改革案を貴族院の権限と貴族院の組織に関する事項に大別し、権限に関する事項は憲法に抵触しない範囲で議会法の改正によって行うとしていたが、河井は「其条項ハ少キカ如シ」と書いており、家達も同じ意見だったと思われる[82]

1925年(大正14年)3月10日に貴族院改革案が貴族院に提出され、貴族院本会議では加藤高明によって法案提出説明が行われ、ついで議員からの質疑があり、その後改革案は特別委員27名に付託されることが決定された。貴族院における特別委員の選定は議長指名に一任されるのが慣例となっていた。しかし研究会と交友倶楽部は「近時徳川議長が兎もすれば政府の肩を持つ嫌ひあり」として「議長一任」による特別委員会指名は加藤内閣寄りになるとして反対し、院内四派(研究会・公正会・交友倶楽部・茶話会)が共同で貴族院改革のような重大事案は議場選挙によって特別委員を決定すべしと要求。近衛文麿公爵が研究会を代表してそれを家達に伝えたが、家達はこれを拒否した。しかし特別委員を倍数の候補者の中から選定することを近衛に返答した。つまり各派の協議により規定人数の倍の特別委員候補名簿を作らせ(今回のケースでは54名)、その中から家達が選ぶということである。家達は佐佐木に「議長は特に不公正なことはやらない。誰が見てもそうだと思う人選をするのだからよいじゃないか」と述べており、これを聞いた佐佐木は家達は各派からの干渉をよほど嫌がっていると感じた。家達はこれまで当然に行われてきた特別委員の議長一任が突然各派から批判が向けられたことに戸惑いを隠すことができない様子だったという(佐佐木にも明らかにしたように家達にはこれまで公正な人選をしてきたという自負心があった)[83]。特別委員の指名権を持つことは家達の貴族院議員たちに対する権力の源であったからそれが揺らぎかねない事態であり河井は日記で「嗚呼」と嘆いている[84]

結局改正案は特別委員会で若干の修正を施した後3月25日に議決され、本会議で委員会報告通りに修正可決となった[84]

これまで貴族院議長として内閣と貴族院の融和を図り、議会政治を裏面から支えてきた家達だったが、貴族院内の院内会派が本格的に「政党化」しはじめる中で対応に苦慮していくことになる[85]

火曜会に入会

1927年(昭和2年)11月研究会に愛想をつかした近衛文麿が一条実孝公爵や四条隆愛侯爵、広幡忠隆侯爵、中御門経恭侯爵、中山輔親侯爵らとともに研究会を離脱し、各派に分散していた公侯爵議員を集める会派作りに着手した。佐佐木行忠によると家達はこの近衛の動きを熱心に支援していたという。家達も「僕は公侯爵団体組織の計画に加わつた同志の一人だもの、今さら新団体に入会するのは問題でない。別に秘密に計画したわけではなく、世間の人が気づかなかつたのである。話の始まりは何年も前のことだが、具体的協議に入つたのは今年晩春初夏の候だったと思う。貴族院の現状並みに将来を顧慮した近衛、木戸細川広幡の諸君や、死んだ二条公などが熱心に提唱したもので、僕も世襲議員の結束非ならずとして同志の一人に加わり、爾来協同して実現に骨折つた」と述べている[86]。この計画は、互選がないゆえに「一番自由な立場」である世襲議員の公侯爵議員は「貴族院の自制」が必要だと考える者が多く、そのため公侯爵が結束してその影響力を大きくすることで貴族院を「事実上の権限縮小」「貴族院は衆議院多数の支持する政府を援けて円満にその政策を遂行させてゆく」存在にさせることができるという考えに立脚したものだった[87]

11月29日に近衛公爵、細川侯爵、中御門侯爵を幹事として火曜会が発足した。公侯爵議員だけが入れる貴族院改革を掲げる団体で、当初は院内会派として必要な25名に満たなかったため社交団体として結成されたが、1928年(昭和3年)3月に貴族院交渉団体として認められた。家達も火曜会に入会した[88]。しかし火曜会への入会で研究会の家達への不満は高まった[88]

重臣候補に

大正の間に元老は西園寺公望ただ一人となり、昭和になると彼の老齢化で後継首相に関する天皇の御下問範囲を拡張する必要性が論じられるようになった。そして1932年(昭和7年)特定の役職経験者を重臣として後継首相についての御下問を受ける存在となす重臣制度が設けられた。この重臣について当初貴族院議長や衆議院議長を対象に含む案があり、そのため家達が一時重臣候補となった[89]。貴族院議長は憲法上の公職によって政界事情に精通していることが根拠に挙げられた[90]

しかし衆院議長は特定の政党との距離が近い存在であるため、客観的に政界状況を把握することが求められる重臣になるのは困難だった。貴族院議長は可能であっても、衆院とのバランスから貴族院議長だけを重臣にするというわけにもいかないので、結局両院議長を含める案は流れ、枢密院議長・内閣総理大臣経験者が重臣の範囲となった[89]

貴族院議長退任

1931年(昭和6年)には家達が貴族院議長に再任されたが、この頃には院内から辞職を求める声もだいぶ上がるようになっていた[91]。家達は1933年(昭和8年)の段階でも特に辞職の意思はなかったのだが、同年5月8日に右翼団体大化会中村浩太らが徳川公爵邸に訪問し「勧告書」なるものを差し出してきて家達の返事を要求した。内容は不明だが、後の関係者の対応から見ると家達の議長職の進退に影響が及ぶような内容だったらしく、徳川公爵家の方では警視庁に大化会取り締まりと家達保護を求めた[92]

さらに31日には大化会会長岩田富美夫が徳川邸を訪問し、岩田は大化会が「勧告書」を出したことを謝罪し、その返還を求める一方、この問題に警視庁が介入するのなら「却テ事端ヲ粉雑セシメ或ハ事実ヲ暴露ヲ促スノ慮アリ」と強気の態度を取った。対応した徳川公爵家の家令成田勝郎は「十分考慮スヘシ」とだけ答えた[93]。更に岩田は電話において『東京毎夕新聞』に関連記事の準備が整っており、徳川家の方で「支給対策ヲ講セラレンコトヲ望ム」と告げてきた[93]。徳川家の方では大化会の脅迫には一切応じないことを決定したが、警視庁としては大化会が「不当ノ範囲」に及んだ場合初めて取り締まりができるので徳川家の意向に十分応じることはできなかった。そのため大化会が「暴露戦術」を取らないうちに家達は速やかに辞職するしかなくなった[94]

6月に入ると新聞紙面でも家達の議長辞職が取りざたされるようになったが、そこでは健康問題が理由とされており、6月2日に開催された徳川公爵家の家政相談役会を経て非公式に斎藤実首相に辞意が伝えられたという[94]。6月9日に家達は議長を辞した。表面上は議長在任30年を契機にした辞職とされていたので大きな騒動にはならなかった[94]

なお死去まで息子に爵位を譲ることはなかったので公爵議員として貴族院議員の地位は死去まで維持している。

貴族院議長以外の活動

大正2年(1913年)に恩賜財団済生会会長、大正4年(1915年)に明治神宮奉賛会会長に就任。大正10年(1921年)には大日本蹴球協会(現在の日本サッカー協会)の名誉会長として、その発足に立ち会っている[95]

昭和4年(1929年11月、第6代日本赤十字社社長に就任、終生、務める。昭和8年(1933年)年8月、翌年東京で開催される予定の第15回赤十字・赤新月国際大会への協力を求めるため、欧米へ発った。昭和9年(1934年4月5日横浜港に帰るまで、10か月にも及ぶ長い旅だった。なお、この国際大会はアジア初の国際会議となった。さらに昭和11年(1936年)12月には、1940年東京オリンピック招致成功を受けて、東京市大日本体育会などを中心として設立された「第十二回オリンピック東京大会組織委員会」の委員長に就任した。

第一次近衛内閣について

1937年(昭和12年)、同年に成立した義理の甥近衛文麿公爵の第一次内閣に関連して「私が議長をしてゐる間にもさう思つて来たことであるが、貴族院と衆議院との両院がある以上、どこの立憲国でも同じことであるが、議員には自ら、主領株の議員と、陣笠、などといふのは大変失礼な言葉でよくないが、陣笠議員とがある。即ち、議員の内にも他を導く議員と、導かれて行く議員と必らずある。此の主領株の議員、衆議員の主領株の議員、貴族員の主領株の議員達は、なるべく互ひに接触しあつて、国事に就いて意思の疎通を図るべきではないか、例へば今度の北支事件に就いても挙国一致の申合はせをして、近衛内閣を援けるとか、さういふことが議会政治のためによいと思ふ」と近衛を応援している[42]

これは家達の30年にわたる議長としての態度を回顧したものでもある。家達は各派交渉委員(=「主領株」議員)や内閣との会合に頻繁に催すこと、貴集両院議員間の懇親を深めることを重視してきた。そのような行為が時の内閣を支援するためになるという発言である[42]

薨去

1938年(昭和13年)5月には第16回赤十字国際会議出席のために横浜から出港し、カナダ経由でロンドンへ向かったが、カナダ旅行中に発病して急遽帰国した[96]

1940年(昭和15年)6月5日、76歳に千駄ヶ谷の徳川公爵邸で薨去。従一位に叙せられ、大勲位菊花大綬章を受章した[96]。葬儀は11日に行われて寛永寺に埋葬された。葬儀委員は海軍大将井出謙治。会葬者は内閣総理大臣米内光政。参列者は3500人を超え、付近一帯では自動車の渋滞が引き起こされる事態が発生している[97]

人物

貴族院議長としての姿勢

貴族院議長 公爵 徳川家達(『帝国議会議員通覧』)
  • 家達は貴族院議長として日本の立憲政治史を振り返って帝国議会は「国運の進展、民福の増進」に貢献し、その中でも貴族院は「或は同一案件を慎重に審議するの実を挙げ或は衆議院の決議の偏倚せむとするものを矯正するの効を挙げ或は他院を掣肘して議会先制の弊より免かしめ」てきたと評価した。家達にとってこのような効果が「二院制度の妙味」だった[98]。家達が議長をしていた30年間は、桂園内閣に始まり、憲政の常道の終焉とほぼ重なる。その間、超然内閣・中間内閣・政党内閣といった様々な形態の内閣が誕生したが、貴族院はそれらとある時には対立し、またある時に協調してきた。議長たる家達はそのような明治立憲制の進展に対応すべく、政治過程への直接の介入を避けつつ、伊藤博文が『憲法義解』で示したような貴族院が内閣・衆議院の間の「上下調和の機関」となるべく、その間を取り持ち、円滑な議会運営がなされるため必要な協議の場の主催者たろうとし続けた[99]。院内においても各会派に「公正」で、議場では議院の自治を重んじ、決定された「院議」に従順な議長であろうとした[99]。しかし本格的な政党政治の登場と護憲運動による貴族院批判の高まりによって貴族院が「上下調和の機関」たるに困難な状況が生じ始めた時、家達は新しい時代の貴族院の有り様を問い直すようになり、貴族院は国民の信任に基づいて成立した政党内閣を支援する穏健な第二院に移行させようという模索を始めた。その表れが火曜会への参加だった[99]。しかし憲政の常道期に起きたことは頻発する政党の汚職事件と、それに伴う政党政治そのものへの不信の増大だった。満州事変を契機に国民の支持は政党を離れて軍に移っていった。それは家達が上記の模索をしていた矢先のことであって、模索の前提たる政党政治が自壊し始めてしまったのであり、家達が議長を退くのはその直後の事だった[100]
  • 家達は、貴族院は衆議院と違って体面を重んじるべきであるという考えを強くもっており、議場で「ノー」とか「ヒヤヒヤ」といった賛否の大声をあげることを非常に嫌い、拍手も制止したことがあった[101]
  • 家達は貴族院議員たちの姓名・経歴・性格まで知悉していたという[101]
  • 政治評論家の鵜崎熊吉が1913年に著したところによれば、家達が貴族院議長として貴族院議員たちに臨む態度は「征夷大将軍の三百諸侯に臨むが如く、飽まで威圧的」だったというが「人物としては格別称するに足らざるも、議長としては確かに忠実の二字を冠するに堪ふ」と評価し、特に議場を整理するという議長の本分に関して「公事に於ては公は又一点の情誼を許されない」とし、その公平性を「理想的議長の態度」と評価している[102]。また衆議院議員の尾崎行雄は、重要な議事がある場合には衆議院の傍聴席に必ず家達の姿があり、勤勉さに感心させられたと述べている[101]
  • 貴族院の副議長は家達が用便で席を空けた時だけ議長席に座るので俗に「小便議長」と呼ばれたが、年を取った後の家達は用便で席を外す頻度が増えたので副議長はいつでも代れるように待機していなければならなくなり、退屈かつ苦痛な仕事であると、1931年に近衛文麿が副議長に就任した際の新聞報道で報じられている[103]

その他

  • 勝海舟は 「三位様(家達)は、原来人に可愛がられる室で、学問も相応にあり、至極正直で勉強家だからお上にも始終お目を懸け下さるよ。このごろはあんなに日増しに肥満せられるから、おれは十分に御運動なさいと勧め申したが、その通り昨今は絶えず運動しておられるようだ。流石に征夷大将軍の血脈を受けておられるだけあって、どことなく人と違う所があるよ」と述べている[104]
  • 趣味の囲碁はアマチュアトップクラスで、大正15年(1926年)に喜多文子五段に二子というわずかなハンディの対局で勝利した棋譜が残されている。プロ棋士の福井正明は、アマチュアの全国大会があったら優勝しても不思議ではないほどの実力と評している[105]
  • 「十六代様」と呼ばれたが、家達自身は「明治以後の新しい徳川家の初代」だという意識が強く、将軍家の十六代ではないと公言していた。
  • 家達と慶喜の関係は複雑だった。家達はよく「慶喜は徳川家を滅ぼした人、私は徳川家を建てた人」と自負していた[106]。静岡で暮らしていた頃の慶喜は身分の上でも経済面でもすべて家達の管轄下に置かれていた。東京の家達からの送金で生活し、慶喜の家令や家扶は家達により任命され、慶喜はその辞令を渡すだけだったという[106][107]。また慶喜は東京の家達に預けた慶喜の娘たちに家達に従順であるよう「厳しく申し渡」したという。慶喜の七女波子が松平斉民の四男からの求婚を嫌がった際には彼女を静岡まで呼びつけて家達の世話になっている身であることを言い聞かせて辛抱するよう命じたという[108]。慶喜が上座に座っていたとき、家達が「私の席がない」というと慶喜が慌てて席を譲ったという逸話もある[106]。慶喜が宗家と別に公爵になった後に初めて慶喜は経済的に家達から自立するようになった。株式配当や国債購入の利子収入などをかなり得るようになったためである。慶喜家の家扶による「家扶日記」もそれまで家達のことを「殿様」と呼んでいたのが、慶喜が公爵に列したのを機に「千駄ヶ谷様」「十六代様」「従二位様」などに変わっており、それまでの「御本邸」という表現も「千駄ヶ谷」「千駄ヶ谷御邸」などに変化している。「家扶日記」では1902年(明治35年)9月3日を最後に慶喜家への宗家からの送金は確認できなくなる[109]
1927年、東京大相撲大阪場所を観戦する徳川家達公爵(中央)
  • 相撲好きで国技館の常連として有名であった。『名流漫画』(森田太三郎著、1912年博文館)によれば「春夏二期の本場所に正面桟敷五六段の処に黒紋付を着たる公の姿を見ぬ事は無い程な角力好きで、時々何か頬張り乍ら見て居られる」という[110]野村胡堂が贔屓の力士がいないように思えるとたずねたところ、好きな力士はいるが「家来や側近の者たちに、差別的な顔を見せてはならぬ。かりに、心の中で好き嫌いがあったとしても、絶対に色を表してはならない。こういう習慣で育ってきたのです」と答えた[111]。息子の家正は子供の頃の回顧で「父は、一さい贔屓力士をつくらぬ主義で、永い間相撲を真に楽しもうとすれば、それに限るので、私は、今でも同感であるが、父とても人間の感情で、あれはいゝ力士だとか、あれはどうも、というようなことはあつたにちがいないから、私が洋食に連れられて行つたのは、その日どれか、会心の勝負があつたというようなことであつたかもしれない」と述べている[110]。大正11年(1922年)、イギリスのエドワード皇太子(後の英国王エドワード8世)来日時に自宅に招いた折には、両国国技館から四本柱を運ばせ、横綱大錦栃木山ら十数名の力士を呼んで相撲を披露している[112][115]
  • ピアノのような、うるさく音がするものを嫌った。孫の豊子は、「外国でおじじ様と演奏会などに行くでしょ。そうすると、なるべく(舞台から)遠い所へ行こうっておっしゃる。」と回想している。妻の泰子は、家達のいないところで孫になどを教えたという。
  • 同性愛の指向があり、華族会館の給仕を鶏姦し[116]、そのことが度重なり、給仕に事を荒立てられ、大正6年(1917年)頃、この醜聞の口止め料として1万円(当時は大卒の初任給が50円程)を支払った。このため、家達の実弟の徳川頼倫牧野伸顕に「兄が恥を知らず、今なお公職を執り、引退の考えがないのは困ったものだ」と嘆いたことがあった。倉富勇三郎が牧野から聞いたところによると、家達の同性愛指向は華族間では知る者も多く、伯爵松浦厚はこれに基づき家達の学習院総裁就任の話を潰したことがあるという[117]
  • 貴族院議長時代、当時貴族院書記官長だった柳田國男と仲が悪く、これが原因で柳田は貴族院を辞した。両者の不仲の理由について、潔癖な柳田が家達の女性関係を咎めたためであろうと岡谷公二は推測している[118]。一方、永井和は、家達が自らの同性愛スキャンダルを柳田に暴露されるのではないかと恐れていた可能性を指摘している[117]
  • 初代東京市長最有力候補と目されたが固辞したことがある。
  • 玄孫にあたる徳川家広は家達と徳川家茂が瓜二つな容姿をしていたことを挙げている[119]

栄典

位階
勲章等

子女

偏諱を与えられた人物

著作

  • 徳川家達『近世日本の儒學 : 徳川公繼宗七十年祝賀記念』徳川公繼宗七十年祝賀記念會、岩波書店、1939年。 NCID BN01871389 
  • 田川大吉郎、徳川家達『國際聯盟講座』95号、国際連盟協会、國際聯盟協會〈國際聯盟協會叢書〉、1930年。 NCID BA78085311 

テレビドラマ

脚注

注釈

  1. ^ 生母の武子は田安徳川家家臣の津田栄七の長女で、高井主水の養女となった。武子の実妹の初子が津田梅子の母親であるため、家達と梅子は従兄妹にあたる。
  2. ^ 虎皮の投鞘のかかった長槍
  3. ^ 将軍か御三家しか許されない溜塗網代
  4. ^ 川村清雄の談話部分[15][16]は図録『静岡の美術VII 川村清雄展』にも収録[17]

出典

  1. ^ a b c 原口大輔 2018, p. 1.
  2. ^ 原口大輔 2018, p. 1-2.
  3. ^ a b c 樋口雄彦 2012, p. 22.
  4. ^ 原口大輔 & 海野福寿 1982, p. 23-24.
  5. ^ 樋口雄彦 2012, p. 27-28.
  6. ^ 原口清 & 海野福寿 1982, p. 24.
  7. ^ a b 原口清 & 海野福寿 1982, p. 24-25.
  8. ^ a b 樋口雄彦 2012, p. 29.
  9. ^ a b 樋口雄彦 2012, p. 30.
  10. ^ 樋口雄彦 2012, p. 29-30.
  11. ^ a b 樋口雄彦 2012, p. 31.
  12. ^ a b c d e 原口大輔 2018, p. 2.
  13. ^ 樋口雄彦 2012, p. 31-32.
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  15. ^ 川村清雄 [談]、河野桐谷「慶喜公と亀之助様」『漫談 江戸は過ぎる』萬里閣書房、1929年。 NCID BN08408462 
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参考文献

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  • 樋口雄彦『第十六代徳川家達 その後の徳川家と近代日本』祥伝社、2012年。ISBN 978-4396112967 
  • 保科順子『花葵 徳川邸おもいで話』毎日新聞社、1998年。ISBN 4620312347NCID BA37720408  - 著者は家達の孫で17代・徳川家正の三女
  • 原口清、海野福寿『静岡県の百年』山川出版社〈県民100年史22〉、1982年。ISBN 978-4634272200 
  • 家近良樹『その後の慶喜 大正まで生きた将軍』講談社〈講談社選書メチエ320〉、2005年。ISBN 978-4062583206 

関連項目

外部リンク

日本の爵位
先代
創設
公爵
徳川家(宗家)初代
1884年 - 1940年
次代
徳川家正