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同人社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中村正直(敬宇)

同人社(どうじんしゃ)は、中村正直(敬宇)が1873年東京府管下第四大区三小区小石川江戸川町に開設した私塾。中村の死後、杉浦重剛らの東京英語学校に併合され、廃校となった。

概要

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1873年明治6年)に開設されてから、慶應義塾尺振八の共立学舎、箕作秋坪三叉学舎(さんさがくしゃ)などと共に英学塾として知られていた[1]。また、同人社女学校を開設するなど女子教育および障害者教育にも力を入れていた。

創設者の中村正直は明治六大教育家に数えられ、中村が開設した同人社は同じく六大教育家に数えられる福澤諭吉の慶應義塾(現:慶應義塾大学)、近藤真琴攻玉塾(現:攻玉社中・高)とともに三大義塾と称された[2][3]。最盛期の1881年(明治14年)頃には生徒数が300名を超えた。学科は英学変則・英学正則・漢学・数学があり、英学教師としてイギリス人のポート、カナダ人カックランなどの外国人を雇い、中村も英語の訳読および作文の添削を行った。授業はかなり厳しく、月毎の小試験と夏期・冬季の大試験および日課表によって進級が決まるというもので[4]、のちのジャーナリスト長谷川如是閑も落第したという[5]

カックランは麹町区平河町の同人社分校で女子教育も行い、1879年(明治12年)5月1日より「同人社女学校」として独立[6][7]したが、1880年(明治13年)8月に廃校となった[8]

同人社の運営は中村の著述の印税頼みで[9]1883年(明治16年)の徴兵令改正によって徴兵猶予の恩典を失ったこともあって学生数が減少し、経営難となった。中村は福澤諭吉と非常に親しかったため、学校経営を福澤に依頼し千賀鶴太郎を塾頭に迎えたが[要出典]、それでも衰運を回復できず、1889年(明治22年)、杉浦重剛河島醇らの東京英語学校関係者に経営をゆだねた[10]。そして中村の死後、東京英語学校に併合されて廃校となった。

主な教員

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主な出身者

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脚注

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  1. ^ 前田 & 瀧 1939
  2. ^ 関口直佑「明治初期における東京の私塾」『早稲田大学社会科学研究科社学研論集』第12号、197頁。 
  3. ^ 『人物叢書 中村敬宇』 1966, p. 125
  4. ^ 『人物叢書 中村敬宇』 1966, pp. 197–198
  5. ^ 『或る心の自叙伝』 1984, pp. 128–129
  6. ^ 『東京の女子教育』 1961, p. 69, Ⅰ 萌芽期(明治3年12年) : 第3期(明治10年-12年)同人社女学校(69)
  7. ^ 東京都公文書館総務局: “都史紀要9 東京の女子教育”. 都史紀要 - 江戸東京の歴史に関する調査研究報告. 2025年11月7日閲覧。
  8. ^ 『鳥居坂教会百年をむかえて』鳥居坂教会、1983年11月20日、12頁。 
  9. ^ 『人物叢書 中村敬宇』 1966, pp. 128
  10. ^ 『人物叢書 中村敬宇』 1966, pp. 205–206

関連書籍

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発行年順。

  • 前田蓮山 編『床次竹二郎伝』・瀧正雄 校閲、床次竹二郎伝記刊行会、1939年。 
  • 高橋昌郎『人物叢書 中村敬宇』吉川弘文館、1966年。 
  • 長谷川如是閑『或る心の自叙伝』講談社〈講談社学術文庫〉、1984年。 
  • 神辺靖光「同人社」『明治時代史大辞典』 2巻、吉川弘文館、2012年。 
  • 東京都公文書館総務局 編「Ⅰ 萌芽期(明治三年-十二年)」(日本語)『東京の女子教育』9号、東京都〈都史紀要 : 江戸東京の歴史に関する調査研究報告〉、1961年。 NCID BN03287214。「第三期(明治十年-十二年)(62)」 
      • 村上女学(62)
      • 恒徳女学校(62)
      • 加藤女学校(64)
      • 立教女学校(65)
      • 女子師範予備学校(67)
      • 同人社女学校(69)
      • 成徳女学校(72)
      • おぎない(73)
      巻末に年表と索引あり。
    • 「東京の女子教育施設創業年表(明治3年–22年)」(216)
    • 「人名索引・校名索引」(巻末)

外部リンク

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