島村宜伸
前衆議院議員 島村 宜伸 | |
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生年月日 | 1934年3月27日(90歳) |
出身地 | 東京都江戸川区 |
出身校 | 学習院大学 |
学位・資格 | 政治学士 |
前職 |
中曽根康弘防衛庁長官秘書官 会社員 日本抗加齢医療研究機構会長 |
世襲 |
2世 父・島村一郎(衆議院議員) |
当選回数 | 9回 |
所属党派 | 自由民主党 |
ウェブサイト | 島村宜伸公式ウェブサイト |
島村 宜伸(しまむら よしのぶ、1934年3月27日 ‐ )は、日本の政治家。前衆議院議員(通算9期)。志帥会前名誉会長。
衆議院予算委員長、文部大臣(第118代)、2度の農林水産大臣(第26・37代)を歴任。麻生太郎自由民主党総裁の下では総裁特別補佐を務めた。
政界入り前
衆議院議員を務めていた島村一郎の6男として生まれた。父一郎は末の息子であった宜伸の政界入りはおろか大学進学にも反対。宜伸は父に見つからないように隠れて受験勉強をしていた。見かねた母が一郎に息子の様子を話して説得するとあっさり翻意し、大学進学を認めた。
東京都立両国高等学校を経て学習院大学入学後、学習院院長の安倍能成から、「皇太子(明仁親王)には外部から入学した学生と交流を深めて視野を広げて欲しいので積極的にお付き合いをするように」と頼まれ、以後、明仁親王の学友となった。1989年に明仁親王が即位して天皇となったこともあり、現在も皇室を守る政治家の代表格で、唯一、自身の同級生たる天皇から国務大臣に認証された政治家である。学習院大学卒業後は日本石油(現・新日本石油)勤務を経て、中曽根康弘の公設秘書となる。
国会議員としての活動
1976年に父の地盤を継いで衆議院議員に初当選した。当初、父・一郎は「政治は世襲ではない。政界は苦労が多く、報われない」と政界入りに猛反対し、サラリーマンを続けるよう主張していたため、派閥は父(宏池会所属)と反対の立場の政策科学研究所に所属したという経緯がある。
文教政策・教育問題を専門としており、歴史認識問題や歴史教科書問題・慰安婦問題等について積極的に発言している。先述のとおり、自民党内でも保守の論客として知られる。以下は、その主なものである。
- 文部大臣在職中の1995年8月、戦後五十年国会決議等の動きを受け、記者会見において「侵略戦争じゃないかというのは考え方の問題。侵略のやり合いが戦争。これをいつまでもほじくってやっていることが果たして賢明なやり方なのか」「戦争を全く知らない世代が国民の大半を占めているのに、相も変わらず昔を蒸し返して、それをいちいち謝罪していくというやり方は、果たしていかがなものかと思いますね」と発言。朝日新聞、TBSテレビ、日本社会党、日本共産党、アジアの「慰安婦」及びその支援団体から非難を受けた。
- 1997年2月、派閥総会で歴史教科書問題について講演した後の記者団との懇談の席で、「慰安婦は日本が一方的に連行したものではない」「概ね現地の女衒が一役買って、中国の人なり韓国の人なりが女性を集めていた。本人の意思で、望んでそういう道を選んだ人達もいる」「戦後の混乱期、日本では本人の意思をまったく無視し、女衒が悪さをして売春婦にした例があった」との認識を示す。
- 1996年第41回衆議院議員総選挙、初の重複立候補(16区と比例東京ブロック)し新進党新人佐藤直子に小選挙区完勝(この時、自身と同じく都内の小選挙区で自民党公認候補として戦ったガッツ石松とは現在も親交深い)
- 1998年7月24日の自由民主党総裁選挙では麻生太郎と共に梶山静六を支持し、推薦人となり、選対本部長を務める。
- 自民党・音楽文化振興懇談会会長を務めている。2004年には音楽レコードの還流防止措置(いわゆるレコード輸入権制度)の導入を推進し、J-WAVEのラジオ番組「Jam the WORLD」に出演して法案の正当性を説いた。
- 政治家の年金未納問題が注目された際に年金の未納が発覚している。
- 農林水産大臣在任中の2005年8月、衆議院解散(郵政解散)に反対し辞表を提出するが、小泉純一郎首相に受理されず罷免された。閣僚罷免は1986年の藤尾正行文部大臣以来19年ぶり4例目。後任の農水相は小泉の一時兼務の後、8月11日に副大臣だった岩永峯一が任命された。そのため郵政造反組復党問題には復党賛成の立場で、復党を決定した安倍晋三首相を擁護した。島村は亀井静香ら郵政造反組に同情的で、国民新党のパーティーにも出席している。郵政解散の直後、同じように公認を外された小林興起を東京都連で擁護していたのは、島村ただ一人であった。一方で、その政治手法を批判しながらも小泉純一郎元首相に対しては「話せばわかる人。農水相時代に、ああしろこうしろと横槍は一切入れず自由にやらせてくれた。むしろ問題なのは刺客擁立を可能にする小選挙区制だ」との認識を示している。
- 小泉純一郎・竹中平蔵による聖域なき構造改革に対しては、批判の手を緩めなかった。
- 2006年1月 - 第14回アジア・太平洋議員フォーラム(APPF)総会(インドネシア)に日本国会代表団団長として出席。
- 2007年1月 - 第15回アジア・太平洋議員フォーラム(APPF)総会(ロシア)に日本国会代表団団長として出席。
- 2007年3月15日 - 亀井派を継承した伊吹派を退会。亀井の離脱以来、対立していた伊吹会長との派内における主導権争いが原因と見られる。
- 2007年6月 - 不信任動議可決により衆議院懲罰委員会委員長を不信任された横光克彦に代わり、委員長臨時代理として議事を進行した。また、歴史事実委員会のアメリカ合衆国下院121号決議全面撤回を求める意見広告「THE FACTS」に賛同者として名を連ねる。
- 2007年7月13日にアメリカ大使館に手渡された日本文化チャンネル桜主導の慰安婦問題に関する米下院決議案の全面撤回を求める要望書に賛同議員として名を連ねた[2]。
- 2007年8月 - 党衆議院議員総会長に就任。
- 元自由民主党東京都連最高顧問。都市と農山漁村の共生と対流を進める調査会会長。超党派の「皇室の伝統を守る国会議員の会」会長、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」会長を務める。2007年の終戦の日に安倍内閣の全閣僚の不参拝が報じられた際には「首相らしくない」と批判した[3](その後、島村の要請を受けた[4]高市早苗が閣僚としてただ一人、8月15日に靖国神社に参拝した)。
- 2007年の終戦の日、8月15日に超党派の国会議員で靖国神社に集団参拝した後、事務所の入居するビルで火事があった。、1回目は、火災に気づいた住民が消火器で早期に消火したためにボヤ程度に抑えられたが、段ボールの燃えさしから木箱に火を燃え移らせた形跡があった。26日にも続けて火災が発生、二人が火傷を負った。放火事件として捜査が行われているが、現在なお犯人は不明。(実際には島村事務所を狙ったのかは不明である)。
- 2007年9月 - 安倍内閣崩壊後の07年自民党総裁選で麻生太郎の推薦人に名を連ね、麻生支持獲得に奔走。選挙後の9月24日、自民党本部前に集まった麻生の支持者一人一人と握手をし、支援の御礼を述べる。
- 2007年10月 - 靖国神社の秋季例大祭に超党派で参拝。
- 2007年11月13日 - 中川昭一・平沼赳夫らとともに、安倍内閣崩壊後停滞していた保守主義再建のための勉強会を準備。
- 2007年12月4日 - 11月に準備会合を持った勉強会の会長に中川昭一が就き、島村は同会議長に就任し、勉強会を立ち上げる。同月17日、同勉強会の正式名称は「真・保守政策研究会」に決定した。
- 2007年12月12日、「皇室の伝統を守る会」の活動を再開。悠仁親王の将来の天皇・即位を見据えた、バックアップ体制の構築を訴えた。
- 2008年9月 - 福田康夫総裁辞任表明を受けての08年自民党総裁選に際し、中川昭一・甘利明・鳩山邦夫らとともに再び麻生太郎の推薦人に名を連ね活動。
- 2009年8月 - 第45回衆議院議員総選挙で落選。
鈴木宗男との対決
- 1998年6月、第2次橋本内閣改造内閣で農林水産大臣の任にあった時、国有林の無断伐採が発覚した北海道帯広市の製材会社「やまりん」に対し、入札参加資格停止7ヶ月、やまりんのグループ企業2社が落札済みの契約の辞退命令など、所轄の林野庁に対し厳罰に処するよう命じた。やまりん側は、北海道・沖縄開発庁長官だった鈴木宗男に口利きを依頼。鈴木は島村の外遊中を見計らって林野庁に圧力をかけたが失敗する(やまりん事件)。
- やまりん側は林野庁に対し、営林局との随意契約による(やまりん分の)森林伐採枠の取り置きを求めるも拒否される。1998年8月、やまりん会長の山田勇雄は、内閣官房副長官に就任した鈴木宗男と首相官邸の官房副長官室で面会、500万円を提供して口利きを依頼したが、後日、あっせん収賄容疑による鈴木の逮捕、立件へと発展することになる。[5]
テレビ出演
- 「朝まで生テレビ!」(テレビ朝日系)
- 「ビートたけしのTVタックル」(テレビ朝日系)
- 「太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。」(日本テレビ系)
主な所属議員連盟
- 日韓議員連盟(副幹事長)
- 日本会議国会議員懇談会
- 神道政治連盟国会議員懇談会
- みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会(前会長)
- 憲法調査推進議員連盟
略歴
- 1949年4月 : 東京都立両国高等学校入学。(柿沢弘治と同級生)
- 1952年4月 : 学習院大学入学。(政経学部政治学科で当時の皇太子明仁親王と同期)
- 1956年4月 : 日本石油(現・新日本石油)入社。
- 1970年4月 : 衆議院議員中曽根康弘の公設第一秘書となる。
- 1971年3月 : 中曽根康弘の防衛庁長官就任に伴い国務大臣秘書官就任。
- 1976年12月 : 第34回衆議院議員総選挙に立候補し、初当選。
- 1979年10月 : 第35回衆議院議員総選挙に立候補し、落選。
- 1980年6月 : 第36回衆議院議員総選挙に立候補し、返り咲き当選。
- 1994年7月 : 自由民主党国会対策委員長、同筆頭副幹事長に就任。
- 1995年8月 : 文部大臣に就任。(村山改造内閣)
- 1996年1月 : 自由民主党組織広報本部長に就任。
- 1997年9月 : 農林水産大臣に就任。(第2次橋本改造内閣)
- 2000年6月 : 第42回衆議院議員総選挙に立候補し、落選。
- 2003年11月 : 第43回衆議院議員総選挙に立候補し、返り咲き当選。
- 2004年9月 : 第2次小泉改造内閣の農林水産大臣に就任。
- 2005年8月 : 小泉首相の解散方針に反対して農林水産大臣を罷免される。
- 2005年11月 : 第44回衆議院議員総選挙に立候補し、当選。
- 2007年3月 : 志帥会を退会。無派閥に転じる。
- 2007年6月 : 衆議院懲罰委員長に就任する。
- 2007年8月 : 党衆議院議員総会長に就任。
- 2007年9月 : 安倍内閣崩壊に伴う、2007年自由民主党総裁選挙で麻生太郎の推薦人に名を連ねる。
- 2008年9月 : 福田康夫首相辞任に伴う、2008年自由民主党総裁選挙で再び麻生太郎の推薦人に名を連ねる。
- 2009年8月 : 第45回衆議院議員総選挙に立候補し、落選。
- 2010年6月 : 日本プロスポーツ協会第4代会長就任。
- 2011年2月 : 日本相撲協会が大相撲八百長問題の再発防止策を審議するために設置した「大相撲新生委員会」の委員に外部有識者として招聘され、同委員会の委員長に就任。
- 2011年4月24日 :自民党江戸川総支部役員会が開かれ、その席上で次期衆議院選挙には出馬しない意向を表明[6]
- 2012年4月29日: 旭日大綬章受章。
関連書籍
- 『平和 なにを、いかにして守るのか』(21世紀の日本を考える 5時間闘論) 1985年 未來社
関連項目
補注
外部リンク
- 島村宜伸公式ウェブサイト(公式サイト)
- 系図
議会 | ||
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先代 中山正暉 |
衆議院予算委員長 1999年 - 2000年 |
次代 原田昇左右 |
先代 小澤潔 |
衆議院地方行政委員長 1990年 - 1991年 |
次代 森田一 |
先代 小里貞利 |
衆議院運輸委員長 1989年 |
次代 田名部匡省 |
公職 | ||
先代 越智伊平 亀井善之 |
農林水産大臣 第26代:1997年 - 1998年 第37代:2004年 - 2005年 |
次代 中川昭一 小泉純一郎 |
先代 与謝野馨 |
文部大臣 第121代:1995年 - 1996年 |
次代 奥田幹生 |
党職 | ||
先代 小里貞利 |
自由民主党国会対策委員長 第40代:1994年 - 1995年 |
次代 山崎拓 |
その他の役職 | ||
先代 結成 |
日本会議国会議員懇談会会長 初代:1997年 |
次代 麻生太郎 |