チャプスイ
チャプスイ(広東語 雜碎、英語 chop suey)は、アメリカ式中華料理のひとつである。
広東省台山市名物の広東料理、炒雜碎(チャーウチャプスイ)がもとになった料理[1]で、豚肉、鶏肉、タマネギ、シイタケ、モヤシなどを炒め、そこにスープを加えて煮た後に、水溶き片栗粉でとろみをつけたもの。北アメリカ独特の材料として、トマトやハムが入る事もある。
台山市以外では、雜碎というともつのごった煮を指した。『西遊記』には孫悟空がこちらの雜碎を作って食べようと言う記述がある。
主菜としてそのまま食べるほか、白飯や中華麺にかけて食べる。ほぼ八宝菜に似た料理であるが、店や地域によって相当な違いがある。
清朝末期の政治家である李鴻章(1823年 - 1901年)が渡米した際に、出された料理が口に合わず、全ての料理を細かく刻んで、ひとつの鍋に入れてごった煮にして食べていたところから生まれたという説がある。一説には、料理人が自発的に広東風のごった煮を作ってすすめたところ、李が大変うまいと褒めたという。 またある一説には、李鴻章が宴会を開いた折、宴会料理の残りをごった煮にしたところ大変旨かった。これがチャプスイの起源であるともいい、実は起源などは諸説あって定まらない。
なお宴会料理のごった煮を特に李公雜碎(李鴻章雜碎とも)と称し、普通のものとは異なり大変豪華なものとなる。1999年に横浜の中華料理店が復元を行っている。
アメリカ合衆国で初めてチャプスイが印刷物に登場したのは1888年のことで、「鶏のレバー、砂肝、ブタのハチノス、モヤシを香辛料と共に煮込んだ料理」と定義されている[2]。梁啓超はアメリカ合衆国滞在中の1903年に、中国人の経営する料理店にチャプスイがあるが、中国系の住民は食べないと記録している[3]。チャプスイは20世紀前半に人気を博し、ハロルド・ロイドの映画やシンクレア・ルイスの小説、レイモンド・チャンドラーの小説『さらば愛しき女よ』、ルイ・アームストロングの楽曲、ロジャース&ハマースタインのミュージカル、エドワード・ホッパーの絵画作品にも登場しているが、現在では当時ほどの人気はない。アメリカ合衆国とカナダの田舎ではテイクアウトの中華料理の定番メニューのひとつであるが、メニューにない店もある。南アメリカやインドの中華料理店でもよく食べられている。
これとは別に、アメリカン・チャプスイという料理がある。刻んだタマネギやピーマンと牛挽肉を炒め、マカロニとトマトを加えて煮込んだもので、ごった煮料理である以外はチャプスイとの共通点はほとんどない。
日本のチャプスイ [編集]
1931年に出版された料理本『家庭料理千種』に「野菜のチャプスイ」のレシピがある。シイタケとタマネギを刻んでバターで炒め、ジャガイモ、サヤインゲン、セロリを塩茹でして加え、バター、小麦粉、野菜のゆで汁でルーを作ってとろみをつけ、醤油少々と塩、コショウで調味するという、西洋料理とも中華料理ともつかない料理である[4]。
名古屋市や北九州市の給食メニューにはチャプスイが入っている。
神奈川県の給食にもチャプスイがあるが、子供たちの間でことごとく不評であり、チャプスイの日には県内で大量に残飯が出ることで有名である。一説によると、一緒に給食を食べる教師の好みを給食調理員が聞き入れて作ったが、給食に相応しい栄養バランスのよさから、定着メニューとして続いているようである。
大阪府の保育園の給食にもチャプスイがあり、こちらは上記のレシピと異なる。 材料は豚肉、ジャガイモ、人参、玉葱、もやし、ほうれん草、だし汁、薄口醤油が使われている。 作り方は、油で豚肉を炒め、出汁(もしくは味の素の「ほんだし」等を後から加える)を入れ灰汁(アク)を取り、人参・玉葱を入れてしばらく煮て、さらにジャガイモを入れて煮て、ジャガイモが柔らかくなったら、もやし、ほうれん草を入れて煮て、薄口醤油で味を付ける。
参考文献 [編集]
- ^ E.N.Anderson, Jr. and Marja L. Anderson, "Modern China: South" in K.C. Chang, Food in Chinese Culture: Anthropological and Historical Perspectives, Yale, 1977. p. 355
- ^ Current Literature, October 1888, p. 318, as quoted in the Oxford English Dictionary, Second Edition, 1989.
- ^ 梁啓超、1903年。新大陆游记. 北京: Social Sciences Documentary Press (reprint 2007). ISBN 7802304717
- ^ 『家庭料理千種』主婦の友社、東京都、1931年。