オークランド・レイダーズ
| オークランド・レイダーズ Oakland Raiders |
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| 1960年創設 | |
| 永久欠番 | なし |
| 所属地区 | |
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AFC西地区 |
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| ホームタウン | |
カリフォルニア州オークランド |
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オークランド・コロシアム(1966-1981, 1995-) |
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| チームデザイン | |
黒 |
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銀と黒の盾に、交差させた剣と盗賊 |
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| 獲得タイトル | |
1967 (AFL)、1976、1980、1983 |
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AFC: 1976、1980、1983、2002 |
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AFL西地区: 1967、1968、1969 |
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1977、1980、1984、1991、1993 |
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| 球団組織 | |
| オーナー: マーク・デイビス | |
| GM: レジー・マッケンジー | |
| ヘッドコーチ: デニス・アレン | |
オークランド・レイダーズはカリフォルニア州オークランドに本拠を置くNFLチームである。 1970年、American Football League (AFL) とNFLの合併時に、NFLに加盟した。 尚、1982年から1994年までは本拠地をロサンゼルスに移していた為、チーム名も「ロサンゼルス・レイダーズ」に改称していた。1995年より、再びオークランドが本拠地となり、現在に至る。これまでに第11回、第15回、第18回と3回スーパーボウルで優勝している。
目次 |
[編集] 歴史
1960年1月、オークランドのフランチャイズ獲得後に創立された、AFL設立時のチームの一つである。レイダーズは、エクスパンション・フランチャイズを獲得してAFLのフランチャイズを放棄したミネソタ(NFLのミネソタ・バイキングズとなった)に替わって、新リーグ8番目のフランチャイズとなった[1]。
チーム創立当時のオークランドは、プロフットボールの本拠に適した地とは言えなかった。地元にチームを求める声はなく、オーナーシップ・グループも形成されておらず、プロフットボールの試合を開催できるスタジアムも存在しなかった上に(近隣では、バークレーとサンフランシスコにスタジアムが所在)、サンフランシスコ湾エリアではすでにサンフランシスコ・フォーティナイナーズが人気を集めていた。しかし、ロサンゼルス・チャージャーズ(現サンディエゴ・チャージャーズ)のオーナーであるバロン・ヒルトンが、西海岸にもう一つチームが設立されなければチャージャーズのフランチャイズを放棄すると宣言したため、AFLのオーナー陣は、西海岸第2のチームの本拠地としてオークランドを選択した。このときヒルトンは、アトランタ市からの誘致を拒否している。
フランチャイズを獲得したオークランドの市民代表メンバーは、この新しいチームへの投資意欲を持つ実業家を募る。このチームの経営体として、リミテッド・パートナーシップが設立された。地元の不動産開発業者であるマネジメント・ジェネラル・パートナー、チェット・ソーダを筆頭に、ジェネラル・パートナーとしてハーベイ・ビンズ、ドン・ブレッシング、チャールズ・ハーネイ、エド・マクガー、ロバート・オズボーン、ウェイン・バリーが名を連ね、この他に多数のリミテッド・パートナー(有限責任構成員)が出資した。地方紙によりチーム名募集のコンテストが開催され、オークランド・セニョールズ が選出されたが、これは地元のジョークの種になり、数週間後、オーナー陣はチーム名をコンテスト第3位の "レイダーズ" に変更した。当初のチームカラーは、黒、金、白の3色であった。お馴染みの、ヘルメットを被った海賊(または "簒奪者")のエンブレムは、俳優ランドルフ・スコットの演出によるものと伝えられる。
バークリーのカリフォルニア・メモリアル・スタジアムをホーム・ゲーム時に使用することをカリフォルニア大学に拒否されたため、サンフランシスコのカザー・スタジアムをホームとすることになった。レイダーズの最初のレギュラー・シーズンのホーム・ゲームは、1960年9月11日に開催され、レイダーズはヒューストン・オイラーズ(現テネシー・タイタンズ)に 22対37 で敗れた。最初のシーズンの成績は6勝8敗で、チームは50万ドルの損失を計上した。1961年1月17日にソーダがフランチャイズのパートナーを辞め、エド・マクガー、ウェイン・バリー、ロバート・オズボーンの3名が他のパートナーからレイダーズのオーナーシップを買い上げた。この年、レイダーズはキャンドル・スティック・パークに移り、2勝12敗でシーズンを終了。シーズン全体での観客動員数は、約5万人だった。バリーは、オークランド市内にスタジアムを建設しない限り、レイダーズの本拠地を変えると宣言する。1962年、レイダーズは初めて、オークランド市内のスタジアム、座席数1万8千(のちに2万2千席に拡張)のフランク・ヨウエル・フィールドに移る。ただしこれは、建設中のオークランド・アラメダ・コロシアムが完成するまでの一時的なホームであった。1962年のシーズンは 1勝13敗に終わった。緒戦から13連敗し、最後の1試合で初勝利を挙げた。観客動員数は低迷を続ける。
1962年のシーズン後、バリーは、サンディエゴ・チャージャーズの前アシスタント・コーチであるアル・デービスを、ヘッドコーチ兼ゼネラルマネージャーとして招聘する。当時デービスは33歳、プロ・フットボール史上最年少でこの役職に就いた[2]。デービスは、チームカラーを銀と黒に変更した。これは主として、当時のほとんどの視聴者が見ていた白黒テレビの画面で、良く映える色だったことによる。デービスの指揮の元、チーム成績は10勝4敗に上昇、デービスはAFLの年間最優秀コーチに選出された[2]。1966年、デービスはレイダーズを去り、AFLのコミッショナーに就任する[2]。4年後の1970年、チームはAFLチャンピオンシップに出場。ジョン・ラウチヘッドコーチの元、レイダーズはヒューストンオイラーズを40-7と下してAFLチャンピオンシップを獲得する。この勝利により、第2回スーパーボウルに出場するが、ヴィンス・ロンバルディ率いるグリーンベイ・パッカーズに14-33で敗れた。
1968年11月17日、ハイジ・ゲームと呼ばれることになる有名なゲームに勝利した。当時のアメリカンフットボールの試合は3時間以内にほぼおさまっておりニューヨーク・ジェッツとのこの試合はNBCによって放送されていたが東部標準時、中部標準時では試合開始から3時間が経過した残り時間65秒でジェッツがFGを決めて32-29とリードしたところで放送が終了し当初の予定どおりアルプスの少女ハイジ(Heidi)に切り替わった。NBCは2時間映画のハイジのスポンサー、タイメックスとの契約がありフットボールの試合終了とは関係なく予定通り放送を切り替えたのだが、その後レイダーズのオフェンスがTDをあげ、さらにキックオフでもジェッツのファンブルしたボールをリカバーしだめ押しのTDをあげて43-32でレイダーズが勝利した。試合を中断したことに対して抗議の電話が殺到し翌日、NBCのジュリアン・グッドマン社長は謝罪することとなった。またこの試合以降テレビ局はアメリカンフットボール中継が長引いた際には以後の番組を繰り下げるように変更している[3]。2010年発行のTVガイドでもこの失態は第5位にランクされている[4]。
1970年、AFLとNFLの合併により、レイダーズはNFLのAFC西地区所属となる。この合併は、デービスに苦い思いを残した。彼は、メジャーリーグと同様に、単一のドラフト制度の元で、独立した2リーグでシーズンを戦い、最後にリーグ優勝を決定する、というプロ・フットボールのビジョンを持っていた。彼は、AFLのオーナー達が、NFLのフランチャイズを獲得したいがためにAFL消滅に手を貸したのだ、彼らに裏切られた、と感じていた。デービスは、彼自身のような「フットボール・マン」が、門外漢の気まぐれに左右されることに不満を抱いた。これにより、デービスの目標は、彼自身がオーナーとなることに据えられた。
合併により、AFLコミッショナーという職がなくなったため、デービスは、レイダーズへの復帰をバリーと交渉する。デービスは、チームのオーナーとして、また、フットボール運営の責任を負うパートナーとして、レイダーズにカムバックする。
1969年、ジョン・マッデンが6代目ヘッドコーチに就任した。チームは1970年代に6度の地区優勝を果たしNFL屈指のフランチャイズに成長した。
1972年、バリーがミュンヘンオリンピック観戦に渡航していた数週の間に、デービスの弁護士は、デービスにレイダーズ運営の全権を委ねる内容の、パートナーシップ契約の改正案を作成する。マクガーは、この契約にサインした。ジェネラル・パートナーの投票結果が2対1となったため、パートナーシップ法にもとづいて、この新しい契約は承認された。バリーはこれに気付いて激怒し、すぐに新しい契約内容の取り消しを求めて訴訟を起こした。勝訴したのは、デービスとマクガーであった。結果、バリーはレイダーズの所有権を売却し、チームの所有権のごく一部しか持たないデービスがチームを掌握することになった。この後レイダーズはデービスの意向がそのままチームに反映されて運営されるようになった[2]。チームはデービスの信念である「より遠くより深く」を受け、ギャンブル要素の高いディープ・ロングパスが多用された。
1972年12月23日のプレーオフ、ピッツバーグ・スティーラーズ戦では残り時間1分17秒にダリル・ラモニカをリリーフしたケン・ステイブラーの30ヤードのTDランで7-6とリードしたがその後、テリー・ブラッドショーからジョン・フッカへのパスに対するジャック・テイタムのヒットにより大きく弾かれたボールがフランコ・ハリスにすっぽりおさまりTDを許し敗れた。
1973年から1975年までチームはAFCチャンピオンシップゲームに連続出場したがいずれも敗退、その内2回はピッツバーグ・スティーラーズが相手であった。
1974年、NFLベストの12勝2敗でAFC西地区優勝を果たしたチームはスーパーボウル3連覇を目指すマイアミ・ドルフィンズと対戦しサックされそうになったケン・ステイブラーから3人のディフェンスに囲まれたクラレンス・デービスへのTDパスが成功しチームは勝利したがその後ピッツバーグ・スティーラーズに敗れた。
1976年の開幕戦はスーパーボウル3連覇を目指すスティーラーズとの戦いでは、ディフェンスに多くの怪我人を抱えたレイダーズは苦戦したがオーバータイムの末、フレッド・スタインフォルトの決勝FGで勝利し、レギュラーシーズンも13勝1敗で終えた。プレーオフでもチャンピオンシップゲームでスティーラーズを24-7で破り、翌1977年1月に行われた第11回スーパーボウルに出場、ミネソタ・バイキングスを32-14で破りスーパーボウル初制覇を果たした。MVPにはTDパスこそないものの、得点にからむ重要なパスをキャッチしたフレッド・ビレトニコフが選ばれた[5]。
1977年12月24日のプレーオフ、ボルチモア・コルツ戦でデイブ・キャスパーが背中越しでケン・ステイブラーから受けたパスはゴースト・トゥー・ザ・ポストとして知られるプレーとなった[6][7][8]。
1978年9月10日のサンディエゴ・チャージャーズ戦での試合終了直前、ケン・ステイブラーがファンブルしてエンドゾーン方向に転がったボールをデイブ・キャスパーがリカバーし決勝TDをあげた試合は物議を醸しその後ルール変更が行われるきっかけとなった。
詳細は「ホーリー・ローラー (アメリカンフットボール)」を参照
スーパーボウル優勝1回、10シーズン連続勝ち越しの成績を残しマッデンは1979年にレイダーズを去りフットボール解説者となった。マッデンの後任はレイダーズの元クォーターバックだったトム・フローレスが就任した。彼はヒスパニック初のNFLヘッドコーチであった。
1980年、チームはロサンゼルスへの移転を計画したが、裁判所から禁止命令が出た。デービスはNFLに対して反トラスト訴訟を起こした[2]。この年、第5週、先発QBのダン・パストリーニが足を骨折した時点でチームは2勝3敗であった[9]。しかしその後、かつてNFLドラフト全体1位指名を受けた、控えQBのジム・プランケットらの活躍により11勝5敗でワイルドカードでプレーオフに進出、ヒューストン・オイラーズを27^7、クリーブランド・ブラウンズを14-12、サンディエゴ・チャージャーズ34-27で破りチームは第15回スーパーボウル出場を果たした。フィラデルフィア・イーグルスとのスーパーボウルでは27-10で破り2度目の優勝を果たした。MVPにはスーパーボウル記録となるケニー・キングへの80ヤードのTDパスを含む3本のTDパスを決めたプランケットが選ばれた。またこの試合でLBロッド・マーティンがこれまたスーパーボウル記録となる3インターセプトをロン・ジャウォースキーから奪った。ワイルドカードからスーパーボウルに優勝したのはレイダーズが初であった[10][11]。
1982年6月、連邦地方裁判所でデービスは勝訴[2]、レイダーズは本拠地をカリフォルニア州ロサンゼルスへの移転承認をNFLのオーナー会議に求めた。承認には全体の3/4が必要であったが、賛成22票、反対0票(5人が投票を棄権)で移転は承認されチームはロサンゼルス・メモリアル・コロシアムでホーム・ゲームを戦うことになった。ストライキで短縮された1982年のシーズンを8勝1敗で終えてプレーオフに出場したが2回戦でニューヨーク・ジェッツに敗れた。翌1983年を12勝4敗で終えてスティーラーズ、シアトル・シーホークスをプレーオフで破り第18回スーパーボウルに出場、ワシントン・レッドスキンズを38-9で破り3度目の優勝を果たした。この試合ではスーパーボウル記録となるラン獲得191ヤード、74ヤードのTDランをあげたマーカス・アレンがMVPとなった。また38得点は当時のスーパーボウル記録となった[12]。
その後2シーズンはプレーオフに出場したが、1986年から1989年は8勝8敗以上の成績をあげることができず、1987年-1988年には1961年-1962年以来となる2年連続負け越しを味わった。1987年を5勝10敗で終えるとフローレスはフロント入りし、デンバー・ブロンコスのオフェンスアシスタントコーチだったマイク・シャナハンが後任ヘッドコーチとなった。この年、レイダーズは野球とフットボールを掛け持つアスリートでハイズマン賞受賞者のボー・ジャクソンをドラフトで獲得するが、ジャクソンは前年、タンパベイ・バッカニアーズに1巡目で指名されたときに、フットボールはプレーしないと表明していた[13]。デービスはジャクソンに傾倒し、スターRB、マーカス・アレンとデービスの関係に大きな亀裂が生じた[14]。後にアレンはカンサスシティ・チーフスに移籍することになる。
1989年のシーズン開幕後1勝3敗となったところで、デービスはシャナハンヘッドコーチを解任し、レイダーズのタックルだったアート・シェルを後任に据える。シェルは、近代NFL初のアフリカ系アメリカ人のヘッドコーチとなった[15]。シェルは1990年のシーズンでレイダーズをAFCチャンピオンシップに導いたが、バッファロー・ビルズに51対3と大敗した。
この敗戦後、チームは下降線を辿る。1990年代のプレイオフ出場は2回、AFC西地区5チーム中3位以上の成績を収めたのは3回のみであった。1990年にボー・ジャクソンが引退の原因となる負傷、問題児のQB、トッド・マリノビッチの不祥事、1993年のマーカス・アレンの退団、後にプロフットボール殿堂入りを果たすディフェンシブラインマンのハウィー・ロングが1993年のシーズン後に引退と、レイダーズの一時代は終わりを告げる。
1987年にアル・デービスはロサンゼルス・コロシアムの周辺が治安が悪いため新しいスタジアムの候補地を探していた[16]。1988年にヒューストン・オイラーズとのプレシーズンゲームがオークランドで開催されるとレイダーズはオークランドに戻るのではないかといった噂が流れた[17]。1989年1月からデービスとオークランド市の間で交渉が始められ1991年3月11日にオークランドに移転することが発表された[18]この途中の1990年9月11日にはオークランドのファンが交渉が進まないことに怒り、レイダーズのTシャツやジャージーを燃やす事件も起きた[19]。
1988年、チームはワシントン・レッドスキンズにジム・ラシェイをトレードしジェイ・シュローダーを獲得した。第4週、敵地マイル・ハイ・スタジアムで行われたデンバー・ブロンコスとのマンデーナイトフットボールで先発QBのシュローダーはパス8本中2本しか成功できず、オフェンスの獲得ヤードは39-254と圧倒され、チームは0-24とリードされてハーフタイムを迎えた。多くのテレビ視聴者はソウルオリンピックにチャンネルを切り替えたが後半に入りスティーブ・スミスへの2本のTDパス、キックオフでのレジー・マッケンジーのファンブルフォースでチャンスを獲得するとマーカス・アレンのTDで同点に追いついた。リッチ・カーリスのFGで再び3点リードされたもののこの年それまで30ヤード以上のFG4本全てを失敗していたクリス・バーが残り8秒に44ヤードのFGを成功しオーバータイムに持ち込んだ。新人のティム・ブラウンが74ヤードのパントリターンTDを決めたかに見えたが反則で無効となったものの最後はバーのFGでチームは24点差からの逆転劇を演じた[20]。
1990年チームはAFCチャンピオンシップゲームまで進出したがバッファロー・ビルズに3-51で敗れた。
1991年、ドラフト1巡目でQBトッド・マリノビッチを獲得した[21]。マリノビッチはエースQBシュローダーが負傷欠場したシーズン最終週のカンザスシティ・チーフス戦に先発出場し試合には敗れたものの3TDパスを決めるという活躍を見せた。しかし翌週のプレーオフ、チーフスとの再戦ではTDパスなし、4インターセプトと散々の内容で敗れた。
マリノビッチは1993年シーズン開幕前に3度目のマリファナ陽性反応が出てチームから解雇された[21]。
1995年6月23日、アル・デービスは、レイダーズの本拠地をオークランドに戻す旨の同意書にサインする[2]。この移転は盛大な歓迎を受け、1995シーズン、新ヘッドコーチのマイク・ホワイトの下、チームは8勝2敗と好調なスタートを切ったがエースQBのジェフ・ホステトラーの負傷により、チームはシーズン終了まで6連敗を喫し、プレーオフ進出はならなかった。
ホワイト、ジョー・ビューゲルの下、3シーズン好成績を収められなかった後、1998年にアル・デービスは、過去のチームプレイヤーからヘッドコーチを選任するという彼の慣習を曲げ(これはフランチャイズ史上2度目の例外だった)、フィラデルフィア・イーグルスのオフェンスコーディネーターだったジョン・グルーデンをヘッドコーチに迎える。グルーデンは、サンフランシスコ・49ersのヘッドコーチビル・ウォルシュの元でアシスタントコーチとしてキャリアを開始した人物だった。グルーデンの指揮の下、レイダーズは、それまでのシーズンには欠けていた規律を持ってプレーし始める。
2000年、グルーデン指揮の3度目のシーズン、チームはこの10年間で最高の成績を上げた。ベテランのクォーターバック、リッチ・ギャノンが率いるチームはシーズンで12勝4敗の成績を収め、AFCチャンピオンシップに進出したが、ギャノンは相手のヒットにより負傷退場[22]、この年のスーパーボウルを制覇したボルチモア・レイブンズに3-16と敗れた。なおその試合の3週間後に行われたプロボウルでギャノンはMVPに選ばれた[22]。
レイダーズは、2001年シーズンの開幕前に、歴代レシーブ最高記録を保持するジェリー・ライスを獲得した。シーズン成績は10勝6敗だったが、ディビジョナル・プレーオフで、その年のスーパーボウル覇者ニューイングランド・ペイトリオッツに敗れた。この試合は物議を醸した。激しい雪の中、ペイトリオッツのクォーターバックトム・ブレイディのファンブルをレイダーズのチャールズ・ウッドソンがリカバーしたのだが、レビューの結果、ファンブルではなくパス不成功と判定された[23]。
詳細は「タック・ルール・ゲーム」を参照
2001年シーズン終了直後、レイダーズは、タンパベイ・バッカニアーズとの間で、ジョン・グルーデンを現金800万ドル及びドラフト1巡目指名権2つ、2巡目指名権2つと交換するという異例のトレードを行った[24]。後任には、グルーデンの下でレイダーズのオフェンスコーディネーター兼オフェンシブラインコーチを務めていた、ビル・キャラハンが指名された。この突然の異動劇の数ヶ月前から、マスコミでは、アル・デービスとグルーデンが個人的にもビジネスの面でも袂を分かった、という憶測が流れていた。
2002年シーズンはAFCトップの11勝5敗の成績を収めプレーオフのホームフィールドアドバンテージを確保する。チーム5度目のスーパーボウル出場を成し遂げ、ギャノンはNFLのシーズンMVPに選出された。レイダーズはこの第37回スーパーボウルでデクスター・ジョンソン、ドワイト・スミスにそれぞれ2インターセプトを喫するなど、21-48と敗れるが、その対戦相手は、件のグルーデン率いるタンパベイ・バッカニアーズであった[24][25]。
2003年から2007年の5シーズンでチームはリーグ最低の19勝しかあげられなかった(同期間に次に成績が悪いのはデトロイト・ライオンズの26勝。)。
2003年、キャラハン2年目のシーズンはエースQBのギャノンが第7週に肩の故障で離脱、4勝12敗に終わった(NFL最低記録タイ)。これは、前シーズンにスーパーボウルに出場したチームとしては、史上最悪の記録であった。シーズン中、キャラハンは、2003年11月30日の試合終了後の記者会見で、チームの低迷についてレイダーズの選手達とマスコミとを激しく非難した。同年のレギュラーシーズン後、キャラハンは解雇され、ノーブ・ターナーがヘッドコーチに就任した。
2004年、チームはオフシーズンにウォーレン・サップを獲得した。この年リッチ・ギャノンが先発した3試合は2勝1敗であったが第3週のタンパベイ・バッカニアーズ戦で彼がデリック・ブルックスとヘルメット・ヘルメットで接触し負傷した(ギャノンはこの怪我によりシーズン終了後引退した。)後3勝10敗でチームは5勝11敗と2シーズン連続で負け越した。2005年のトレード解禁と同時に、レイダーズは、ミネソタ・バイキングズからプロボウル出場ワイドレシーバーのランディ・モスを獲得した[26]。
2006年過去にもヘッドコーチを務めたアート・シェルがターナーに代わってヘッドコーチに就任したが1年で解雇され、2007年からレーン・キフィンがヘッドコーチに就任したが2008年シーズンが開幕後1勝3敗の成績となったところで、9月30日に解雇されて[27]、トム・ケーブルオフェンスラインコーチが暫定ヘッドコーチに就任した。ケーブルがヘッドコーチになった後、チームは4勝8敗に終わったものの最後の2試合に連勝し、2009年2月ケーブルは正式にヘッドコーチに就任した[28]。
2009年開幕前、エースQB争いが2007年のNFLドラフト全体1位で獲得したジャマーカス・ラッセルとオフに加入したジェフ・ガルシアの間で行われたが故障がちのガルシアは敗れラッセルが開幕先発QBに指名された[29]。しかし2勝7敗となった後、第11週よりジャマーカス・ラッセルをあきらめ、ブルース・グラドコウスキーを先発に抜擢[30]、グラドコウスキーが第14週の試合で負傷してからはチャーリー・フライが先発QBを務めた[31]。ケーブルヘッドコーチは留任した[32]。
2010年、シーズンオフに2007年のドラフト全体1位で獲得したものの芽が出ないQBジャマーカス・ラッセルを解雇しワシントン・レッドスキンズよりジェイソン・キャンベルを獲得した[33]。このシーズン、チームはダレン・マクファデン、ジャコビー・フォードらの活躍もありAFC西地区の同一地区内対戦は6戦全勝し8勝8敗と8シーズンぶりに負け越しを逃れたがシーズン終了後、チームオーナーのアル・デイビスは、契約満了を理由にヘッドコーチトム・ケーブルとの契約を更新しなかった[34]。2011年1月18日にオフェンスコーディネーターであったヒュー・ジャクソンがヘッドコーチに昇格した[35][36]。
2011年10月8日、アル・デービスオーナーが82歳で亡くなった[37]。オーナーが亡くなった翌日のヒューストン・テキサンズとの試合でチームは25-20で接戦を勝利した[38]。最後のプレーで相手QBマット・ショーブのパスをインターセプトしたマイケル・ハフ[39]はオーナーがボールを取らせてくれた。と涙ながらに語った。第6週のクリーブランド・ブラウンズ戦で、エースQBのジェイソン・キャンベルが鎖骨を骨折した[40]。チームはトレード期限ぎりぎりでシンシナティ・ベンガルズのカーソン・パーマーを2012年のドラフト1巡指名権、2013年のドラフト2巡指名権と引き替えで獲得した[41][42]。シーズン終了後にレジー・マッケンジーがGMに就任、ヒュー・ジャクソンヘッドコーチを解任、デンバー・ブロンコスno ディフェンスコーディネーターであったデニス・アレンがヘッドコーチに就任した[43]。
[編集] 主な選手
[編集] 殿堂入り
- マーカス・アレン (2003) - 1982-1992
- フレッド・ビレトニコフ (1988) - 1965-1978
- ジョージ・ブランダ (1981) - 1967-1975
- ボブ・ブラウン (2004) - 1971-1973
- ウィリー・ブラウン (1984) - 1967-1978
- デーブ・キャスパー (2002) - 1974-1980、1984
- アル・デイビス (1992) - 1963-1965、1966-現在
- エリック・ディカーソン (1999) - 1992
- マイク・ヘインズ (1997) - 1983-1989
- テッド・ヘンドリクス (1990) - 1975-1983
- ジェームス・ロフトン (2003) - 1987-1988
- ハウィー・ロング (2000) - 1981-1993
- ロニー・ロット (2000) - 1991-1992
- ジョン・マッデン (2006) - 1969-1978
- ロン・ミックス (1979) - 1971
- ジム・オットー (1980) - 1960-1974
- ジェリー・ライス (2010) - 2001-2004
- アート・シェル (1989) - 1968-1982
- ジーン・アップショー (1987) - 1967-1981
[編集] 永久欠番
なし(レイダーズは過去の選手の背番号を永久欠番にすることはない)
[編集] 歴代ヘッドコーチ
- エディー・アーデラッツ (1960-61)
- マーティー・フェルドマン (1961-62)
- レッド・コンクライト (1962)
- アル・デイビス (1963-65)
- ジョン・ラウチ (1966-68)
- ジョン・マッデン (1969-78)
- トム・フローレス (1979-87)
- マイク・シャナハン (1988-89)
- アート・シェル (1989-94)
- マイク・ホワイト (1995-96)
- ジョー・ビューゲル (1997)
- ジョン・グルーデン (1998-2001)
- ビル・キャラハン (2002-2003)
- ノーブ・ターナー (2004-2005)
- アート・シェル (2006)
- レーン・キフィン(2007-2008)
- トム・ケーブル (2008-2010)
- ヒュー・ジャクソン (2011)
- デニス・アレン (2012- )
[編集] ギャラリー
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ファルコンズレシーバーをカバーするナムディ・アソムハ
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FGを狙うセバスチャン・ジャニコウスキー
[編集] 応援スタイル
相手チームに対する激しい敵意を持っており、かつてサンフランシスコ・フォーティナイナーズヘッドコーチだったスティーブ・マリウッチは選手たちにオークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアムでの試合には自家用車ではなくチームバスに乗るよう忠告したほど。ホームのエンドゾーン付近を陣取るファンはブラックホールと呼ばれている[44]。
[編集] 脚注
- ^ Team History profootballhof.com
- ^ a b c d e f g “アル・デービス・オーナーの経歴と功績”. NFL JAPAN (2011年10月9日). 2012年1月1日閲覧。
- ^ “No. 10: The Heidi Game”. nfl.com (1999年11月24日). 2011年2月9日閲覧。
- ^ Battaglio, Stephen. "The Blunder Years", TV Guide, November 1, 2010, Pages 20-21
- ^ “第11回スーパーボウル”. NFL JAPAN. 2012年1月1日閲覧。
- ^ “The Ghost To The Post”. スポーツ・イラストレイテッド (1978年1月2日). 2011年2月9日閲覧。
- ^ “Hall of Fame Dinner Segments: Dave Casper”. nfl.com (2007年8月3日). 2011年2月9日閲覧。
- ^ “Ghost to the Post”. raiders.com (2010年12月24日). 2011年2月9日閲覧。
- ^ “NFL史上に残るシンデレラチーム”. NFL JAPAN (2011年3月29日). 2012年1月1日閲覧。
- ^ “第15回スーパーボウル”. NFL JAPAN. 2012年1月1日閲覧。
- ^ Phillips, B.J. (1981年2月9日). “The Wild Cards Run Wild”. タイム 2008年12月21日閲覧。
- ^ “第18回スーパーボウル”. NFL JAPAN. 2012年1月1日閲覧。
- ^ Flatter, Ron. “Bo knows stardom and disappointment”. ESPN 2008年12月21日閲覧。
- ^ “Allen no stranger to big plays”. AP通信. (2003年7月31日) 2008年12月21日閲覧。
- ^ Bell, Jarrett (2007年1月17日). “Coaches chasing Super Bowl — and history”. USAトゥデイ 2008年12月21日閲覧。
- ^ NFLがマンデーナイトフットボールのスケジュールを組む際、レイダーズはアウェイにされていた。
- ^ Dickey, Just Win, Baby. p. 234.
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- ^ 渡辺史敏 (2011年10月21日). “トレード期限間際で交渉成立、最終的に笑うのは?”. NFL JAPAN. 2012年1月1日閲覧。
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- ^ 近藤祐司 (2008年10月10日). ““ブラックホール”に要注意! レイダースを愛する荒くれ集団”. NFL JAPAN. 2011年2月9日閲覧。
[編集] 外部リンク
- オークランド・レイダーズ NFL.JAPAN.COM
- チーム公式サイト (英語)
- チーム公式サイト (日本語)
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