野村克則

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野村 克則
東北楽天ゴールデンイーグルス コーチ #73
Giants nomura 92.jpg
読売ジャイアンツコーチ時代
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都目黒区大阪府豊中市生まれ)
生年月日 (1973-07-23) 1973年7月23日(45歳)
身長
体重
178 cm
84 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手一塁手
プロ入り 1995年 ドラフト3位
初出場 1997年4月16日
最終出場 2006年10月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 東北楽天ゴールデンイーグルス (2007 - 2009)
  • 読売ジャイアンツ (2010 - 2013)
  • 東京ヤクルトスワローズ (2014 - 2018)
  • 東北楽天ゴールデンイーグルス (2019 - )

野村 克則(のむら かつのり、1973年7月23日 - )は、日本の元プロ野球選手捕手)、プロ野球コーチ東京都目黒区出身(出生地は大阪府)。

現在は東北楽天ゴールデンイーグルスの二軍バッテリー兼守備作戦コーチ。

現役時代の登録名は「カツノリ」(2004年のみ本名「野村克則」だった)。父は野球解説者・評論家の野村克也、母はタレント野村沙知代、異父兄は団野村ケニー野村。他に異母兄が1人いる。息子は星槎国際高等学校湘南学習センターの野球部に所属している野村忠克[1]

経歴[編集]

生い立ち[編集]

1973年7月23日、当時南海ホークスの選手兼任監督だった野村克也と、その愛人だった女性・芳枝(野村沙知代)との間に大阪府豊中市で生まれた[注 1]。当初、克也は克則を認知せず、芳枝は非嫡出子となる克則を自身の父親と養子縁組させることを画策したという[2]。後に克則は認知されたが、1978年には前妻との離婚が成立した父・克也が芳枝と再婚したことで、この時点で正式な家族関係が成立した。また、芳枝とその前夫であるユダヤ系アメリカ人との間には二人の男の子、団野村ケニー野村がいたため、異父兄弟となった。

プロ入り前[編集]

東京都の堀越高等学校では桑原秀範の指導を受け、一塁手、主将として活躍。1991年春季東京大会で準決勝に進出、修徳高との対戦で本塁打を放つが乱打戦の末に敗退。同年夏の甲子園西東京予選も準決勝に進むが、世田谷学園に延長11回惜敗。

卒業後は明治大学へ進学。東京六大学野球リーグでは在学中4回優勝。1993年秋季リーグでは首位打者山下圭と同率)、打点王の二冠を獲得、ベストナイン(一塁手)にも選出された。1994年から柳沢裕一の後継として捕手に転向。学生生活最後の1995年秋季リーグでは、2年下のエース川上憲伸らとバッテリーを組み優勝。同年の明治神宮野球大会でも決勝に進み、井口資仁らのいた青学大を接戦で降し優勝を飾る。リーグ通算76試合出場、256打数72安打、打率.281・3本塁打・33打点の成績だった。大学時代の背番号は父・克也の現役時代と同じ19で、東京六大学野球初の女子選手だったジョディ・ハーラーが唯一登板した試合に捕手を務めた。後に一年間だけ同僚となる中村豊は大学の同期生。

1995年のドラフト会議において、父・克也が監督を務めるヤクルトスワローズから3巡目で指名され、捕手として入団。克也との混同を避けることから登録名を「カツノリ」とした[注 2]。克則がプロ入りする直前、克也に対して「プロに入りたい」と言ったがスカウトは誰一人として来ておらず、克也から「(プロに入ったら)苦労するぞ、お前。ちゃんとした会社に務めて安定した所へ行け。無理だお前じゃ」と諭したが、克則は「いや、オレはプロに憧れて野球を始めたのだから、例え(プロで)失敗しても悔いはない」と言い返した[3]。さらに「親父だってテスト入団だったじゃないか。人生上り坂下り坂、そして『まさか』だ。やってみないと判らない」と言い、これに克也は「おいおい、オレがここまで来たのは『まさか』かよ」と思ったという[3]。「母親に似たのか口だけは達者で、そこまで言うならとヤクルトスワローズへお願いして指名してもらった」と著書に記している[3]背番号は33。それは長嶋茂雄に倣ったためだという。

ヤクルト時代[編集]

1996年フレッシュオールスターゲームに出場するが、一軍では古田敦也が正捕手に定着していたほか、控え捕手に野口寿浩もいたこともあり一軍昇格は無かった。1997年1998年には2年間で主に途中出場で計51試合に出場するが、多くは自軍の大勝・大敗の場面での起用で、若松勉が監督に就任した1999年には一軍出場及び一軍昇格なしに終わった。

阪神時代[編集]

2000年には金銭トレードで阪神タイガースへ移籍。当時の監督は父である克也であったが、当時球団本部長を担当していた野崎勝義によると、ヤクルトスワローズから克則を呼んだのは父・克也ではなく、阪神球団だった[4]。阪神移籍後は父である克也のもと控え捕手として一軍に定着し、出場機会を増やし、2001年にはサヨナラ適時打を2回放った。2年間で主に途中出場で計95試合に出場し、両年とも最下位に低迷したチームの中でヤクルト時代と比べ先発起用も増やしたが大学の先輩でもある星野仙一が監督に就任した2002年には僅か11試合の出場、2003年にはウエスタン・リーグにおいて規定打席には達していないものの打率.321の成績を残したが、一軍出場及び一軍昇格なしに終わった。

巨人時代[編集]

2004年の開幕前、金銭トレードで新監督として就任した堀内恒夫が率いる読売ジャイアンツへ移籍。その際には背番号は松井秀喜の移籍で空番となっていた55を勧められたが本人は「荷が重い」として63となった。なお読売ジャイアンツでは本名で登録を原則としているため「野村克則」として登録。しかし、一軍出場は僅か3試合に留まり、同年オフに僅か1年で戦力外通告を受けた。その際にジャイアンツ側からブルペン捕手、または二軍バッテリーコーチ就任を打診されたが、現役続行を希望し、12球団合同トライアウトを受けた。トライアウトでは2打席連続本塁打を放つなどの活躍が田尾安志の目に留まり、この年に誕生した新球団・東北楽天ゴールデンイーグルスが獲得を発表。この時の経緯はTBSテレビの「プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達」で紹介された。

楽天時代[編集]

楽天球団としても初年度となった2005年には、登録名をヤクルト・阪神時代と同じ「カツノリ」に戻して臨んだ。同年4月17日の対北海道日本ハムファイターズ戦ではプロ初のクリーンナップとなる5番・指名打者として先発出場したが、最終的には6試合の出場にとどまった。同年オフに田尾が監督を解任され、後任として父・克也が就任、三たび同じユニフォームを着用することとなった。

2006年は正捕手・藤井彰人に次ぐ2番手捕手として先発出場の機会を増やし、オールスターゲームにもノミネートされるが、ファン投票最終結果で4位となり出場は果たせなかった。当初は2007年も現役続行を希望していたが、同年9月28日に二度目の戦力外通告を受けた。これを機に現役引退を表明し、同年10月1日の対千葉ロッテマリーンズ戦(フルキャストスタジアム宮城)で引退試合が行われた。この試合に捕手として先発出場し、打撃面では安打を記録したが、守備面では6個の盗塁(平下晃司西岡剛サブロー青野毅:各1、根元俊一:2)を全て許してしまうなど散々な内容の引退試合となった。試合後、同じく現役引退を表明した飯田哲也と共にセレモニーが実施され、チームメイトから胴上げをされた。

引退後[編集]

現役引退後もコーチとして球団に留まり、2006年10月9日には新設された二軍育成コーチ(バッテリー担当)に就任することが発表された。背番号は73で、同時に登録名も本名である「野村克則」へ変更した。2007年には二軍育成コーチのまま、セ・パ交流戦においてスコアラーで一軍戦のベンチ入りを果たした。

2008年には一軍バッテリーコーチへ昇格し、試合中はヘッドコーチを務めていた橋上秀樹と共に作戦面に携わる。2009年シーズン終了後、父・克也の退任に合わせる形で楽天を退団、翌年から読売ジャイアンツの二軍バッテリーコーチに就任した。2013年10月3日、球団より来季の契約を結ばないことを通告され[5]、同年10月23日に東京ヤクルトスワローズの二軍バッテリーコーチ就任が決まった。[6]2015年からは一軍バッテリーコーチを務めている。2019年より東北楽天ゴールデンイーグルスの二軍バッテリー兼守備作戦コーチ。

エピソード[編集]

  • 幼少期、父・克也は選手兼任監督として45歳まで現役で、それ以外でも講演・野球解説・取材などで不在の場合が多かった。このため、野球以外で父親らしいことをしてもらった記憶はないという。
  • ヤクルト時代は石井一久を同い年ながら兄のように慕っており(もっと実際の話をすると克則のほうが誕生日の差で年上)、お揃いのスパイクを使用していた。
  • 2006年10月1日の引退試合で許した1試合6盗塁は、一人の捕手が1試合で許した盗塁数のワースト記録(当時)である。
  • 2007年8月23日の対千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム)で、先発した岩隈久志が4回裏に味方の失策から3失点を喫し、この回をもって降板した。岩隈は、降板後にベンチ裏のロッカールームに入ったまま7回途中まで戻らなかったため克則が注意したところ、岩隈が激高し乱闘寸前の小競り合いになった。他のコーチ陣が割って入ったことで事態は収拾し、岩隈は試合中に克則へ謝罪した。岩隈は理由を「娘の熱が原因で自宅に連絡を入れていたため」と自らのブログに記している。なお、2人は同じ堀越高等学校の先輩・後輩(克則が8年先輩)で、普段は仲が良い。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1997 ヤクルト 26 33 31 1 8 1 0 1 12 1 0 0 0 0 2 0 0 10 3 .258 .303 .387 .690
1998 25 24 23 0 4 0 0 0 4 1 0 0 0 0 1 0 0 7 0 .174 .208 .174 .382
2000 阪神 43 55 49 6 13 1 1 2 22 3 0 0 0 1 5 0 0 11 2 .265 .327 .449 .776
2001 52 102 95 3 20 3 0 1 26 6 0 0 1 0 4 0 2 28 2 .211 .257 .274 .531
2002 11 16 16 0 3 2 0 0 5 0 0 0 0 0 0 0 0 5 0 .188 .188 .313 .501
2004 巨人 3 5 3 0 1 0 0 0 1 1 0 0 0 1 1 0 0 0 0 .333 .400 .333 .733
2005 楽天 6 10 10 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .100 .100 .100 .200
2006 56 141 129 8 16 4 1 0 22 5 1 0 1 1 7 1 3 26 6 .124 .186 .171 .357
NPB:8年 222 386 356 18 66 11 2 4 93 17 1 0 2 3 20 1 5 90 13 .185 .237 .261 .498

記録[編集]

背番号[編集]

  • 33 (1996年 - 1999年)
  • 50 (2000年 - 2003年)
  • 63 (2004年)
  • 52 (2005年 - 2006年)
  • 73 (2007年 - 2009年、2019年 - )
  • 92 (2010年 - 2013年)
  • 78 (2014年 - 2018年)

登録名[編集]

  • カツノリ (1996年 - 2003年、2005年 - 2006年)
  • 野村 克則 (のむら かつのり、2004年、2007年 - )

登場曲[編集]

関連情報[編集]

著書[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 野村沙知代に対する公職選挙法違反(虚偽事実公表)の疑いでの告発を受けた東京地方検察局は1999年、実子・野村克則の誕生日から逆算して、1972年当時には野村克也と事実婚の関係にあったとの推定を報告している
  2. ^ 入団発表会見で着用したユニフォームでは、背ネームが「K.NOMURA」となっていたが、キャンプからは「KATSUNORI」に改められていた。

出典[編集]

  1. ^ 【野球】ノムさん孫・忠克 高校野球激戦区・神奈川で奮闘中 - デイリースポーツ。2018年10月31日発信、同年11月1日閲覧。
  2. ^ 伊東信義「妹 野村沙知代」ラインブックス、1999年
  3. ^ a b c 野村克也著、『無形の力 私の履歴書』2006年、日本経済新聞出版社、P222
  4. ^ 野崎勝義「ダメ虎を変えた!ぬるま湯組織に挑んだ、反骨の11年」朝日新聞出版、2011年、P61
  5. ^ 岸川、野村両コーチが退団スポーツニッポン2013年10月3日配信
  6. ^ 2014年のコーチングスタッフについて[リンク切れ]
  7. ^ 月刊タイガース、2000年5月号、P45

関連項目[編集]

外部リンク[編集]