鹿島 (練習巡洋艦)

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鹿島
1940年、上海に停泊中の鹿島
1940年、上海に停泊中の鹿島
基本情報
建造所 三菱重工業横浜船渠[1]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 練習巡洋艦[2]
級名 (香取型[3][注釈 1])
建造費 予算 6,600,000円[4]
母港[5]
艦歴
計画 昭和13年[4](1938年)
起工 1938年10月6日[6]
進水 1939年9月25日[6]
竣工 1940年5月31日[6]
除籍 1945年10月5日[7](日本海軍)
その後 戦後復員輸送任務[7]
1946年11月12日から翌年6月15日解体[8]
要目
基準排水量 計画 5,830英トン[9] または 5,890英トン[10]
公表値 5,800英トン[6]
公試排水量 計画 6,300トン[11][9][注釈 2]
実際 6,280トン[8][12][13]
満載排水量 計画 6,720トン[13]
実際 6,697トン[13]
全長 133.50m[11][9]
水線長 130.00m[9]
または 129.77m(公試状態)[12][14]
垂線間長 123.50m[9]
最大幅 16.700m[9] または16.60m[15]
水線幅 15.95m[6][9]
深さ 10.5m[9]
吃水 公試計画 5.750m[11][12][9][14]
公試実際 5.71m[13]
満載実際 5.98m[13]
ボイラー ホ号艦本式重油専焼水管缶 3基[16]
主機 艦本式(高低圧)2段減速タービン2基[16]
艦本式22号10型ディーゼル機関2基[16]
(フルカン・ギア接続)[16]
推進 2軸[6] x 280rpm、直径2.800m[16]
出力 8,000馬力[6][16]
(うちタービン 4,400馬力、ディーゼル 3,600馬力)[11][16]
速力 計画 18.0ノット[6][9][14]
実際 19.0ノット[11]
燃料 計画 重油:600トン[9]
実際 772トン[11]
航続距離 計画 7,000カイリ / 12ノット[9]
実際 9,500カイリ / 12ノット(タービン・ディーゼル併用)[11]
乗員 計画:固有乗員315名、士官候補生275名[9]または375名[17]
竣工時定員505名[18]
兵装 新造時[14][19]
50口径14cm連装砲 2基4門
12.7cm連装高角砲 1基2門
25mm連装機銃2基4挺
53cm六年式連装発射管2基4門
5cm単装式礼砲4基4門
爆雷投下台 4基[3]
1945年[20]
50口径14cm連装砲 2基4門
40口径12.7cm連装高角砲 3基6門
25mm三連装機銃4基12挺
同連装機銃 4基8挺
同単装機銃 18挺
爆雷投射機4基、投下軌道2本
爆雷 100個[21]
搭載艇 計画 12m内火艇2隻、12m内火ランチ3隻、9mカッター2隻、6m通船1隻[19][22]
搭載機 計画 一二試水偵(三座)1機[14]
呉式2号射出機5型 1基[19]
レーダー 1945年 22号電探1基、13号電探1基[20]
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鹿島(かしま)は、日本海軍練習巡洋艦[1]香取型練習巡洋艦の2番艦[2]。艦名は茨城県鹿島神宮に由来する。

概要

日本海軍は士官候補生の遠洋航海に旧式となった装甲巡洋艦磐手出雲等を用いていたが、機関は石炭燃焼であり、さらに昭和に入り艦の老朽化が目立って来た[23]。そこで海軍は、マル3計画の追加分で新たに練習巡洋艦2隻を計画した。これが後の練習巡洋艦香取と鹿島である。

1938年(昭和13年)8月24日三菱横浜造船所で香取型1番艦香取が起工[24]10月6日、香取型2番艦の鹿島が同造船所で起工された[6]1939年(昭和14年)3月31日、練習巡洋艦2隻にそれぞれ香取と鹿島、陽炎型駆逐艦5番艦に早潮測天型敷設艇巨済の艦名が与えられる[1]6月17日、香取は進水し[24]9月25日、鹿島は進水[6]。同日附で、宮里修徳大佐(香取艤装員長)は鹿島艤装員長を兼務することになった[25]。また横浜船渠に鹿島艤装員事務所を設置、事務を開始する[26]。 11月1日、宮里大佐は特務艦(工作艦明石艦長へ転任[27]。長良型軽巡洋艦4番艦由良艦長市岡寿大佐は香取艤装員長・鹿島艤装員長を兼務する(後任の由良艦長は第8潜水隊司令魚住治策大佐)[27]

1940年(昭和15年)3月10日、市岡大佐は香取艤装員長と鹿島艤装員長の兼務を解かれ、鍋島俊策大佐が新たな鹿島艤装員長となった[28]4月20日、香取が竣工した[24][29]。鹿島も同年5月31日に竣工し[6]、同日附で鹿島艤装員事務所を撤去[30]。鍋島大佐も制式に鹿島初代艦長となる[31]

竣工後の2隻は練習艦隊に編入される。6月1日、練習艦隊旗艦は香取に指定された[32]。8月7日、2隻(香取、鹿島)は昭和15年度の遠洋航海(司令官清水光美中将:兵学校68期生、機関学校49期生、主計学校29期生)[33]に出発する[34]江田島舞鶴(陽炎型3隻《親潮天津風》建造中)[35]野辺地町[36]大湊[37]鎮海(第29駆逐隊《追風、疾風》停泊中)[38]大連旅順上海を歴訪する[23]。しかし情勢の変化により9月20日に前期航海のみで中止が決定、これが帝国海軍最後の遠洋航海となった[23]

第四艦隊

1940年(昭和15年)11月1日、鍋島(鹿島艦長)は重雷装艦北上艦長へ転任[39]。後任の鹿島艦長は給油艦尻矢艦長・軽巡大井艦長等を歴任した旅順要港部参謀長武田勇大佐となった[39]。 11月15日、第四艦隊司令長官も片桐英吉中将から高須四郎中将に交代した[40]。 同時に昭和十六年度艦隊改編(昭和15年11月15日附)によって第四艦隊は増強され、麾下に第十八戦隊(鹿島天龍龍田)、第十九戦隊(沖島常磐)、第六水雷戦隊(《夕張》、第29駆逐隊《追風疾風朝凪夕凪[41]、第30駆逐隊《睦月如月弥生望月》)[42]、第七潜水戦隊(潜水母艦《迅鯨》、第26潜水隊、第27潜水隊、第33潜水隊)、第三根拠地隊、第五根拠地隊が所属することになった[43]

1941年(昭和16年)2月上旬、高知沖で行われた大規模演習に参加。2月3日、鹿島は仮想敵(陸奥型戦艦)として戦艦比叡の砲撃目標になるが、比叡は潜水母艦大鯨を鹿島と錯覚して射撃目標にしていた[44]。 2月5日より第四艦隊各艦と共に南洋へ進出、4月13日に一旦内地へ戻る[45]

5月25日、昭和16年度第四艦隊後期訓練のため、鹿島(高須長官座乗、高松宮軍令部部員便乗)は横須賀を出港して内南洋へ出発する[46][45]。5月30日、空母龍驤第四航空戦隊)と駆逐艦帆風と行動を共にする[47]。6月1日にマーシャル諸島エニウェトク環礁に到着、第六艦隊旗艦香取や第六水雷戦隊も入泊した[48]。それ以降、第四艦隊麾下各艦と共に南洋で行動した[45]

7月22日、第四艦隊各部隊指揮官は鹿島に集結し、高須長官の指示により3隻(鹿島、夕張、朝凪[49])を除く各艦は一旦内地に戻り、整備に従事した[50]。 8月11日、高須(四艦隊長官)は第一艦隊司令長官へ転出[51]。後任の四艦隊司令長官は、海軍航空本部部長だった井上成美中将[51]。着任した井上中将は、内南洋の防備が全く整っていないことに驚いたという[52]。これ以降、井上中将は鹿島より南洋方面の指揮をとることになった。

9月1日、鹿島艦長は千田金二大佐[53]に交代(武田は9月25日より伊勢型戦艦1番艦伊勢艦長となる)[54]。 10月10日、9月まで空母飛龍艦長を務めていた矢野志加三大佐は第四艦隊参謀長に任命された[55]。10月中旬から下旬にかけて、第四艦隊各艦は再びトラック泊地に集結した[50]

11月8日より井上長官以下第四艦隊司令部は日本本土に戻り、軍令部・連合艦隊司令部・日本陸軍と対米開戦についての打ち合わせを実施[56]。18日に飛行艇でサイパン停泊中の鹿島に帰艦、20日にトラック泊地へ戻った[56]。 12月1日、第四艦隊司令部は独立し、それに伴い第十八戦隊司令部を新設[57][58]。第十八戦隊司令官は丸茂邦則少将(旗艦天龍)となる[59][60]。同戦隊は軽巡2隻(天龍、龍田)となり、鹿島は単独旗艦となって十八戦隊から除かれた[61][45]。また第四艦隊の戦力も従来に比べ根拠地隊や水上機母艦等を増強しているが、日本海軍全体の兵力不足のため、第四艦隊の希望通りにはいかなかった[62]

太平洋戦争

太平洋戦争開戦時、鹿島は第四艦隊旗艦としてトラック泊地に停泊し、南洋部隊指揮官井上成美第四艦隊司令長官は鹿島に座乗して南洋部隊の全作戦を指揮した[63][64][65]

開戦当時の第四艦隊は、旗艦鹿島(司令長官井上成美中将)以下、第十八戦隊(司令官丸茂邦則少将:天龍龍田)、第十九戦隊(司令官志摩清英少将:沖島常磐津軽、天洋丸)、第六水雷戦隊(司令官梶岡定道少将:軽巡《夕張》、第29駆逐隊追風疾風朝凪夕凪》、第30駆逐隊睦月如月弥生望月》)、第七潜水戦隊等、多数の小艦艇・補助艦艇・根拠地隊を抱えていた[66][67][61]。 さらに第六戦隊(司令官五藤存知少将:第1小隊《青葉加古》、第2小隊《衣笠古鷹》)も南洋部隊(指揮官井上成美第四艦隊長官)に所属して鹿島の指揮下にあり[68]、アメリカ極東艦隊のフィリピン脱出に備えるためグァム島攻略支援隊に編入された[62]第五航空戦隊所属の駆逐艦第二航空戦隊所属の第23駆逐隊(菊月卯月夕月)はグァム島攻略部隊として南洋部隊(旗艦鹿島)の指揮下に入り、12月4日に陸軍輸送船団と共に小笠原諸島母島を出港した[69]

12月10日、第十九戦隊によるタラワ環礁などの攻略は順調に推移していた[70]。だが12月11日、ウェーク島攻略部隊(指揮官梶岡定道第六水雷戦隊司令官)はアメリカ軍守備隊の予期せぬ反撃により、駆逐艦2隻(疾風、如月)を喪失、撃退された[71]。そこでグアム島攻略作戦に従事していた第六戦隊と[72]真珠湾攻撃を成功させて内地帰投中の南雲機動部隊(赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴)より[73]、第八戦隊司令官阿部弘毅少将指揮下の6隻(第二航空戦隊〔司令官山口多聞少将〕《蒼龍飛龍》、第八戦隊《利根筑摩》、第17駆逐隊第1小隊《谷風浦風)を増強[74][75]。6隻は南洋部隊指揮官(井上第四艦隊長官)の指揮下に入った[75]。 これらの増援部隊を加えて、井上長官は12月23日に第二次攻略作戦を実施した[76]。作戦は成功したものの、強行上陸を敢行した哨戒艇2隻(樅型駆逐艦《葵、萩》)を喪失している[77]

1942年(昭和17年)1月以降も鹿島はトラック泊地に停泊、井上中将は鹿島より南洋部隊の作戦を指揮する[78][79]。 1月14日、南雲機動部隊はビスマルク諸島(ラバウル方面)の攻略作戦に協力するため、トラック泊地に進出[80][81][82]第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将は、鹿島より赤城(南雲中将座乗)へ井上第四艦隊長官(井上中将の方が一期下)が挨拶に来るかと思っていたが、鹿島より内火艇が来ることはなかったという[83]。機動部隊と南洋部隊の共同作戦により、ラバウルは1月23日に占領された[81]。 ラバウル攻略後、南洋部隊(井上中将)と南雲機動部隊(南雲中将)の間で、今後の作戦を巡って意見の相違が生じた[84]。南洋部隊はニュージョージア諸島およびソロモン諸島に対する攻略作戦に南雲機動部隊が協力してくれると思っていたが、南雲機動部隊は南方部隊に編入されてしまった[84]

同1月下旬以降、第四艦隊(南洋部隊)および第六艦隊はアメリカ軍機動部隊の出没に悩まされた(マーシャル・ギルバート諸島機動空襲)。2月1日、井上中将は南洋部隊(旗艦鹿島)第三兵力部署を発表[85][86]。また同日附で、第四艦隊に配備予定だった瑞鳳型航空母艦2番艦祥鳳[87]、南洋部隊に編入された(2月9日トラック泊地到着)[88][86][89]。 同日(2月1日)、米空母2隻(エンタープライズヨークタウン)はマーシャル諸島ギルバート諸島に空襲を敢行した[90]。一連の空襲で姉妹艦香取(第六艦隊旗艦)が小破、第六艦隊長官清水光美中将は重傷を負う[91][92]。香取は修理のため、一時内地へ帰投した[92][93]

2月20日、ラバウル方面に米空母レキシントン (USS Lexington, CV-2) を基幹とする機動部隊(指揮官ウィルソン・ブラウン中将)が出現した(ニューギニア沖海戦)。これを迎撃するため、井上長官は指揮下艦船(鹿島、沖島)および第六戦隊、第十八戦隊を率いてトラック泊地を出撃した[94][95][96]。当初の情報によると米空母は3隻であり、加古艦長は「勝算のない出撃はいやなものだ」と回想している[97]。 21日、別行動だった第六水雷戦隊(夕張)と第23駆逐隊も合流[98]。支援部隊(第六戦隊《青葉、加古、衣笠、古鷹》、第十八戦隊《天龍、龍田》、第六水雷戦隊《夕張》、第23駆逐隊《菊月、卯月、夕月》)を編制した[99][100]。22日、パラオへ回航中だった祥鳳と駆逐艦帆風も合同する[101][102]。 だが米機動部隊(レキシントン)が退避したため、各隊は戦果なく23日にトラック泊地に戻った[103][104]。米軍機動部隊にふりまわされた祥鳳も26日にトラックに到着した[105][106]

3月から4月にかけて、鹿島はトラック泊地から動かなかった[107][108]。 4月10日、南洋部隊(第四艦隊)指揮下に第二海上護衛隊(司令官丸山慎一中将、第四根拠地隊司令官兼務)が編制される[109][110]。 4月中旬、ポートモレスビー攻略作戦に備えて第五航空戦隊(司令官原忠一少将:瑞鶴翔鶴)、第五戦隊(司令官高木武雄少将:妙高羽黒)、第27駆逐隊(時雨白露有明夕暮)の南洋部隊編入が発令された。高橋雄次加古艦長(井上が比叡艦長時代、比叡砲術長)は、トラック泊地で行われた作戦会議での井上第四艦隊長官について「語気は強いが、何か空虚な響きを感じた」と回想している[111]

5月上旬、南洋部隊はニューギニア島の要所ポートモレスビー攻略作戦を実施[63]。5月1日17時、鹿島はトラック泊地を出発、4日7時30分にニューブリテン島ラバウルへ進出[112][113]。南洋部隊指揮官の井上第四艦隊長官はラバウルからMO攻略部隊・MO機動部隊・MO攻略部隊支援隊を指揮した[113]。だが米軍機動部隊との戦闘により、5月5日にツラギ島で第23駆逐隊所属の菊月が沈没[114]、5月7日に南洋部隊所属の貴重な空母祥鳳も沈没[115]、5月8日には第五航空戦隊(瑞鶴、翔鶴)を基幹とするMO機動部隊も消耗した[116]。井上長官はモレスビー攻略作戦の延期を決定[113]。5月12日、第十九戦隊旗艦沖島が沈没した[112][117]。13日、鹿島および駆逐艦朝凪はラバウルを出発し、ニューアイルランド島カビエンを経由して16日にトラック泊地へ戻った[112][118]。第六戦隊も16日にトラック泊地に戻った[119][120]。「またも負けたか四艦隊」と揶揄されるなど[121]、各方面からの評価は芳しくなかった。

6月下旬、井上長官は神経痛に悩まされ、トラック泊地の夏島にあった南洋庁支庁官舎に宿泊しそこから毎日鹿島へ通っていたという[122]。この頃、第四艦隊(旗艦鹿島)の指揮下でソロモン諸島に飛行場を建設することになり[123]、南洋部隊麾下の各隊・各艦はガダルカナル島に展開して飛行場の建設を開始した。ガダルカナル飛行場は完成直後に上陸してきたアメリカ軍に奪取・占領され(8月7日-8日)、ヘンダーソン飛行場と命名されている(ガダルカナル島の戦い)。

7月10日、南洋部隊指揮下で行動していた第六水雷戦隊は解隊された[124]。同時に構成兵力(軽巡夕張、第29駆逐隊《夕月、追風、朝凪、夕凪》、第30駆逐隊《睦月、弥生、望月、卯月》)は第二海上護衛隊へ編入され、引き続き南洋部隊(第四艦隊)指揮下で行動する[125]。だが第30駆逐隊は間もなく第八艦隊に編入された[126]。同時期、日本海軍将校に愛された料亭『小松』のトラック支店(トラック・パイン)が開かれる[127]。井上長官が小松女将(山本直枝)に要請し、山本も「井上がいるから」とトラック進出を決断したという[127]

7月14日、ミッドウェー海戦敗北による艦隊の再編成により第八艦隊(司令長官三川軍一中将)が編制される[128][129]。 さらに第八艦隊(重巡鳥海、第十八戦隊《天龍、龍田》、第30駆逐隊、敷設艦津軽等)と第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)により『外南洋部隊』を編制[130][131]。それにともない、外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官は南洋部隊指揮官井上成美中将とトラック泊地で会談[132][129]。第四艦隊(旗艦鹿島)はパプアニューギニアおよびソロモン諸島方面の作戦を外南洋部隊に引渡し[129]、南洋部隊から『内南洋部隊』となった。ガダルカナル島の防備について、井上長官(第四艦隊)は「第八根拠地隊(南東方面の地上部隊)に兵器をやりすぎた」と八艦隊側に伝えるほど、楽観的であった[133]

7月19日、第四艦隊司令部は陸上に移動し、鹿島は内地へと帰投した[134][135]。7月26日、呉に到着[135][136]。8月26日まで修理に従事したあと、9月3日にトラック泊地へ進出[63][137]。 9月7日、千田(鹿島艦長)は海軍大学校教官へ転出[138]。鹿島艦長は高田栄大佐となる[138]、鹿島はトラック泊地で待機を続けた[135][139]。同時期には、ガダルカナル島の戦いを指揮するために連合艦隊(司令長官山本五十六大将:大和)、第二艦隊(司令長官近藤信竹中将:愛宕)、工作艦明石など、日本海軍の主力艦艇が次々にトラック泊地に集結していた。

10月1日、海軍兵学校校長草鹿任一中将は第十一航空艦隊(ラバウル)司令長官に任命され、校長は空席となった[140]。トラック泊地の戦艦大和で山本(連合艦隊長官)、草鹿(十一航艦長官)、近藤信竹(第二艦隊長官/愛宕)、井上(第四艦隊長官/鹿島)の夕食会が開かれこの席上で山本長官は井上中将の海軍兵学校校長転任を知らせる[141]。10月26日、第四艦隊司令長官井上成美中将は草鹿の後任として海軍兵学校校長へ転任[142][143]。井上の後任の四艦隊長官は鮫島具重中将となる[142]。また第四艦隊参謀長も矢野少将から鍋島俊策少将(鹿島初代艦長)[144]に交代した(矢野は11月20日より海軍省教育局長)[145]。 11月下旬、鹿島は海軍陸戦隊クェゼリン環礁ナウル島ヤルート島に派遣した[146]。12月2日にトラック泊地に戻ると、待機を続ける[147]

1943年(昭和18年)1月[148]、2月[149]、3月[150]、トラック泊地で待機を続けた。 4月1日、鮫島(第四艦隊長官)は第八艦隊司令長官へ転出[151]。後任の第四艦隊長官は小林仁中将となった[151]。また川内型軽巡洋艦3番艦那珂長良型軽巡洋艦2番艦五十鈴の2隻で第十四戦隊(司令官伊藤賢三少将)が新編され[151]、内南洋部隊(旗艦鹿島)の指揮下に入った[152]

同時期、鹿島の内地修理帰投が決まった[153]。4月8日、陽炎型駆逐艦7番艦初風に護衛されて内地へ向かい[154]、4月16日に呉に到着[155]。修理に従事した。 5月21日、呉から横須賀へ移動[156]。 5月24日、大型艦3隻(鹿島、冲鷹雲鷹)は駆逐艦2隻(海風)と測量艦筑紫に護衛されて横須賀を出発[157]、29日にトラックに到着した[158][156]。 6月、同地で待機[159]。 7月1日、鹿島艦長は林彙邇大佐に交代した[160]。同時期、鹿島はトラック泊地で待機する[161]。8月下旬、秋月型駆逐艦3番艦涼月に護衛されトラック泊地からクェゼリン環礁に移動[162]、同地で中部太平洋方面の指揮をとることになった[163][164]。 10月21日、鹿島艦長は梶原季義大佐[165]に交代(林は10月28日より高雄型重巡洋艦1番艦高雄艦長)[166]

その頃アメリカ軍は中部太平洋諸島の攻略作戦を検討し、米機動部隊が空襲を実施するようになっていた(ギルバート・マーシャル諸島の戦い)。11月5日、鹿島はクェゼリン環礁を出発し、8日トラック泊地に到着[167]。11月10日附で第四艦隊から除かれた(後任の旗艦は軽巡長良[167]。 11月18日朝、内地回航隊(練習巡洋艦《鹿島》、潜水母艦《長鯨》、特設巡洋艦《護国丸》、秋月型6番艦《若月》)はトラック泊地を出撃[168]、これを駆逐艦山雲(第4駆逐隊所属)が護衛していた[169][170]。11月19日、山雲は鹿島以下船団を追跡していたアメリカの潜水艦スカルピン (USS Sculpin, SS-191)を発見、爆雷と砲撃でスカルピンを撃沈した[171]。 山雲は船団から離れ、トラック泊地に戻った[172]。 11月25日、内地回航隊は呉(若月は横須賀)に帰投[173][174]

太平洋戦争末期

内地帰投後の鹿島は、練習艦として日本本土で行動した。12月3日、梶原大佐は第二水雷戦隊附になって鹿島艦長の職務を解かれ(12月15日より阿賀野型軽巡洋艦2番艦能代艦長)[175]、隼鷹型航空母艦1番艦隼鷹艦長長井満大佐が鹿島艦長と隼鷹艦長を兼務することになった[176]。 12月9日、長井大佐は鹿島・隼鷹艦長兼務を解かれ、鹿島艦長は山澄忠三郎大佐となる[177]

1944年(昭和19年)1月20日、鍋島俊策少将(鹿島初代艦長)は海軍機雷学校校長[178]に就任する(3月25日より海軍対潜学校へ改称)[179]。 2月15日、第六艦隊旗艦だった香取型練習巡洋艦1番艦香取は海上護衛総司令部部隊に編入された[180][181]。トラック泊地から内地への帰投が決まるが、2月17日トラック島空襲で駆逐艦「舞風」と共に沈没した[181][182]

5月15日、鹿島艦長は高馬正義大佐[183]に交代(山澄は6月4日より青葉型重巡洋艦1番艦青葉艦長)[184]。その後、船団護衛や輸送任務などに従事した。

7月中旬、第十一水雷戦隊(司令官高間完少将)は、長良型軽巡洋艦1番艦長良高雄型重巡洋艦摩耶、練習巡洋艦鹿島、駆逐艦5隻(清霜朝雲浦風冬月)という艦艇で沖縄方面への輸送作戦「ろ号作戦」を実施する[185][186]。出撃時の輸送部隊は、高間少将(十一水戦司令官)直率の主隊(長良、摩耶、鹿島)と冬月艦長指揮の警戒隊(冬月、清霜、竹、朝雲、浦風)という編制である[187]。鹿島には兵員約700名、物資約100トンの搭載が見込まれた[188]

北九州門司に集結したろ号輸送部隊(長良、摩耶、鹿島、冬月、清霜、朝雲、浦風、竹)は7月15日に中津湾を出港[189]。17日に沖縄島南東部中城湾へ到着後[190]、先行した第二輸送隊(摩耶、朝雲、浦風)と第三輸送隊(冬月、清霜、竹)に分離[191]。第三輸送隊は南大東島への緊急輸送を行った[185]宮古島に向かった第二輸送隊(摩耶、朝雲、浦風)は内地に帰投せず、そのままリンガ泊地へ向かった[192][193]。 第三輸送部隊は任務を終えて18日夜中城湾帰投[194]。 19日、5隻(長良、鹿島、冬月、清霜、竹)は沖縄を出発[195]。翌日の内地帰投をもって『ろ号輸送部隊』は解散した[196][185][197]

8月13日、鹿島艦長は平岡義方大佐に交代[198]。12月下旬、対潜任務に従事するための改造工事を受けた。

第一〇二戦隊

1944年(昭和19年)4月、日本海軍は特設護衛船団司令部を設置して重要船団を護衛を行っていた[199]。この措置は臨時的な手段だった為に弊害や欠陥も多く、護衛任務に従事する関係者から、固有の司令部と艦艇を持つ専門の護衛戦隊設置を求める声が高まっていた[199]。そこで同年11月、建制の護衛戦隊を編成することになり、11月15日に第101戦隊(司令官渋谷紫郎少将:練習巡洋艦《香椎》、海防艦6隻等)を編成[200][201][202]。海上護衛総司令部部隊に編入された。 12月10日、従来の第一海上護衛隊は第一護衛艦隊に昇格(司令長官岸福治中将、参謀長杉浦矩郎大佐→堀内茂忠大佐)[203]。編成当初は第101戦隊、第五護衛船団司令部、第七護衛船団司令部、第八護衛船団司令部、第九三一海軍航空隊、空母海鷹以下附属艦艇多数という戦力だった[203]

1945年(昭和20年)1月1日第102戦隊(練習巡洋艦《鹿島》、海防艦6隻《屋代、御蔵、2号、33号、34号、35号》)が編成され[202]、同年1月20日には第103戦隊(秋月型駆逐艦《春月》、海防艦《昭南、久米、18号、25号、60号、67号》)も編成された[202]。第102戦隊や第103戦隊、第九〇一海軍航空隊も、それぞれ第一護衛艦隊に編入[203]。並行して第九〇三海軍航空隊(司令官野元為輝少将)は12月15日に編成されて横須賀鎮守府部隊に編入、第九五一海軍航空隊(司令官藤原喜代少将)も同日附で編成されて佐世保鎮守府部隊に編入[204]。海上護衛作戦を支援する。

鹿島は第102戦隊(司令官浜田浄少将)[205]の旗艦に指定された[63]。内地と上海間の船団護衛任務に従事した[63]1月12日、「香椎」以下第101戦隊はインドシナ方面でヒ86船団護衛中にウィリアム・ハルゼー・ジュニア提督が率いる米機動部隊に襲撃され[206][207]、加入船舶は全滅と護衛艦艇3隻(香椎、第23号海防艦、第51号海防艦)も沈没した[208]。ヒ86船団と同時にヒ87船団も大打撃を受けた。香椎以下の沈没は、日本軍の制海権喪失と南方資源ルートの終焉を示唆するものだった[208][207]。 2月12日、海上護衛総隊に編入される。 4月28日、鹿島艦長は平岡大佐から、空母龍鳳艦長高橋長十郎大佐に交代され[209]、鹿島はで終戦を迎えた。 9月27日、鹿島艦長は井浦祥二郎大佐に交代[210]。だが10月2日に横田稔大佐(伊号第二十六潜水艦艦長として活躍)に交代[211]。10月5日に除籍された。戦後、鹿島は横田艦長の指揮下で復員輸送艦として活動したのち1946年(昭和21年)11月12日から翌1947年(昭和22年)6月15日にかけて川南工業香焼島造船所で解体された[8]

艦歴

歴代艦長

※脚注無き限り『艦長たちの軍艦史』180-181頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長
  1. (兼)宮里秀徳 大佐:1939年9月25日(本職:香取艤装員長)[25] - 11月1日[27]
  2. (兼)市岡寿 大佐:1939年11月1日 (本職:香取艤装員長[27]) - 3月10日[28]
  3. 鍋島俊策 大佐:1940年3月10日[28] - 5月31日[31]
艦長
  1. 鍋島俊策 大佐:1940年5月31日[31] - 11月1日[39]
  2. 武田勇 大佐:1940年11月1日[39] - 1941年9月1日[53]
  3. 千田金二 大佐:1941年9月1日[53] - 1942年9月7日[138]
  4. 高田栄 大佐:1942年9月7日[138] - 1943年7月1日[160]
  5. 林彙邇 大佐:1943年7月1日[160] - 10月21日[165]
  6. 梶原季義 大佐:1943年10月21日[165] - 12月3日[176]
  7. (兼)長井満 大佐:1943年12月3日[176](本職:隼鷹艦長) - 12月9日[177]
  8. 山澄忠三郎 大佐:1943年12月9日[177] - 5月15日[183]
  9. 高馬正義 大佐:1944年5月15日[183] - 8月13日[198]
  10. 平岡義方 大佐:1944年8月13日[198] - 1945年4月28日[209]
  11. 高橋長十郎 大佐:1945年4月28日[209] - 9月27日[210]
  12. 井浦祥二郎 大佐:1945年9月27日[210] - 10月2日[211]
  13. 横田稔 大佐/第二復員官/第二復員事務官/復員事務官:1945年10月2日[211] - 1946年11月26日[215]

同型艦

参考文献

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  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
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    • 戦史研究家伊達久『航跡でたどる軽巡二十五隻の栄光と悲惨』
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    • 『昭和18年11月1日~昭和18年12月31日 佐伯防備隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030410200。 
    • 『昭和19年4月1日~昭和19年8月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(5)』。Ref.C08030086800。 
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030127500。 
    • 『昭和19年7月1日~昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030050800。 
    • 『昭和19年7月1日~昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030050900。 
    • 『昭和18年11月15日~昭和19年11月30日 海上護衛総司令部戦時日誌(1)』。Ref.C08030137300。 
    • 『昭和18年11月15日~昭和19年11月30日 海上護衛総司令部戦時日誌(2)』。Ref.C08030137400。 
    • 『昭和18年11月15日~昭和19年11月30日 海上護衛総司令部戦時日誌(3)』。Ref.C08030137500。 
    • 『昭和18年11月15日~昭和19年11月30日 海上護衛総司令部戦時日誌(4)』。Ref.C08030137600。 

脚注

注釈

  1. ^ 公式には類別等級内での艦(艇)型に「香取型」はない(#S20-03-26内令提要/第13類 艦船(1)画像5など)
  2. ^ #軍艦基本計画資料Sheet116では練習艦として6,650トンとしている

出典

  1. ^ a b c #達昭和14年3月(2)p.23『達第四十八號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十三年度ニ於テ建造ニ着手ノ練習巡洋艦二隻、驅逐艦一隻及敷設艇一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十四年三月三十一日 海軍大臣 米内光政|三菱重工業株式會社横濱船渠ニ於テ建造 練習巡洋艦 香取(カトリ) 練習巡洋艦 鹿島(カシマ)|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 驅逐艦 早潮(ハヤシホ)|株式會社石川島造船所ニ於テ建造 敷設艇 巨濟(キョサイ)』
  2. ^ a b #艦艇類別等級表(昭和17年6月30日)p.4『軍艦|練習巡洋艦|香取、鹿島、香椎』
  3. ^ a b #日本海軍艦艇図面集図42-1、「練習巡洋艦 香取型 鹿島 一般艤装図 1/2」舷外側面、上部平面。
  4. ^ a b #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.532-535
  5. ^ 『艦艇、特務艦本籍別一覧表 昭和十五年十二月二十五日調』、#S15-12-25内令提要/巻3 追録/第13類 艦船(1)画像11
  6. ^ a b c d e f g h i j k #艦船要目公表範囲(昭和17年6月30日)p.4『鹿島|練習巡洋艦|長(米)129.65|幅(米)15.95|喫水(米)5.47|排水量(噸)基準5,800|速力(節)18.0|短艇數7|製造所 三菱横濱船渠|起工13-10-6|進水14-9-25|竣工15-5-31|大砲14.0㎝…4、12.7㎝高角2|発射管4|探照燈2|機械 種類 數「タルビン」2「ヂーゼル」2|罐 種類 數 艦本式3|推進器數2|馬力8,000』
  7. ^ a b 伊達久「軽巡洋艦『香取、鹿島、香椎』行動年表」#重巡利根型 軽巡香取型pp.56-57
  8. ^ a b c 運輸省海運総局掃海管船部管船課「日本海軍終戦時残存(内地)艦艇処分状況(1948年3月20日現在)」p.21、#終戦と帝国艦艇(復刻版)巻末資料2。
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m #軍艦基本計画資料Sheet7
  10. ^ #昭和造船史1pp.784-785
  11. ^ a b c d e f g #鹿島引渡目録p.1『二.要目表』
  12. ^ a b c #終戦時の日本海軍艦艇p.13
  13. ^ a b c d e #JapaneseCruisersp.667
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  16. ^ a b c d e f g #海軍造船技術概要pp.1693-1694
  17. ^ #海軍造船技術概要pp.371-372
  18. ^ 昭和15年5月31日付 海軍内令 第358号改正、海軍定員令「第48表ノ3 練習巡洋艦定員表」。この数字は飛行科要員を含み、候補生および特修兵を含まない。
  19. ^ a b c #重巡利根型 軽巡香取型p.48
  20. ^ a b 「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」#世界巡洋艦物語p.355の図、及び同p.356の表。
  21. ^ #重巡利根型 軽巡香取型p.49
  22. ^ #JapaneseCruisersp.671
  23. ^ a b c #撃沈戦記234頁
  24. ^ a b c #艦船要目公表範囲(昭和17年6月30日)p.4『香取|練習巡洋艦|(艦諸元略)|三菱横濱船渠|13-8-24|14-6-17|15-4-20|(兵装略)』
  25. ^ a b 昭和14年9月25日(発令9月25日付)海軍辞令公報(部内限)第382号 p.36」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076300 
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  36. ^ 昭和15年8月14日(水)海軍公報(部内限)第3579号 pp.10-11」 アジア歴史資料センター Ref.C12070389500 『○艦船所在○八月十四日午前十時【野邊地】(旗艦)香取、鹿島』
  37. ^ 昭和15年8月19日(月)海軍公報(部内限)第3583号 pp.25-26」 アジア歴史資料センター Ref.C12070389500 『○艦船所在○八月十九日午前十時【航海中】(旗艦)香取、鹿島(十八日大湊發-鎮海へ)』
  38. ^ 昭和15年8月22日(木)海軍公報(部内限)第3586号 pp.8-9」 アジア歴史資料センター Ref.C12070389600 『○艦船所在○八月二十二日午前十時【鎮海】(旗艦)香取、鹿島/(司令)追風、疾風』
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  88. ^ #祥鳳日誌(3)p.3『作戦準備ヲ完成シ横須賀軍港ニ於テ待機單独訓練中2月1日南洋部隊ニ編入速ニ「トラック」廻航ノ命ニ接シ急速出動準備ヲ完成2月4日横須賀發9日「トラック」着爾後同地ニ警戒碇泊ス』
  89. ^ #叢書38中部太平洋(1)404-405頁『「祥鳳」の横須賀に於けるトラック出動準備』
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  98. ^ #S1702十八戦隊日誌(1)p.9『(オ)二十一日第六水雷戰隊第二十三駆逐隊ト合同支援部隊集結ス』
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  100. ^ #S1702十八戦隊日誌(4)p.4『(二)艦隊編制軍隊区分及任務 第十八戰隊(旗艦天龍、2龍田)/支援部隊 指揮官第六戰隊司令官(第六戰隊第十八戰隊第六水雷戰隊第二十三駆逐隊)前記敵大部隊撃滅』
  101. ^ #祥鳳日誌(3)p.3『○二月十八日 本艦戦斗機補充竝ニ基地訓練ノ爲「トラツク」發「パラオ」ニ向ケ廻航中二月二十日敵機動部隊「ラバウル」東方海面ニ出現スルヤ命ニ依リ急遽反転二月二十二日「トラツク」南東海面ニ到達同日〇五〇〇支援部隊指揮官ノ指揮下ニ入リ作戰ス 同日夕刻的機動部隊ノ敗走後支援部隊指揮官ノ指揮ヲ解カレ再ビ前記任務ヲ以テ「パラオ」ニ廻航中…』
  102. ^ #叢書38中部太平洋(1)431-432頁『「祥鳳」のトラック南方海面への待機』
  103. ^ #S1702十九戦隊日誌(1)p.7『(2)「R」東方海面ニ出現セル敵機動部隊邀撃ノ爲第四艦隊司令長官直率ニテ二十日一五三〇「トラツク」南方海面ニ出撃二十三日〇八〇〇「トラツク」ニ入泊』
  104. ^ #叢書38中部太平洋(1)454-455頁『水上艦艇部隊』
  105. ^ #祥鳳日誌(3)p.3『…二月二十四日「ウエイキ」島附近ニ來龍セル敵機動部隊ニ對處スベク命ニ依リ再度反転「トラツク」南西方海面ニ急行中「トラツク」ニ入泊同地ニリテ訓練ニ従事スベキ旨発令アリ 二月二十六日「トラツク」着爾後同地ニ在リテ警戒碇泊飛行機隊ノ基地訓練ヲ實施シツツアリ』
  106. ^ #叢書38中部太平洋(1)445-446頁『「祥鳳」の行動』
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  125. ^ #S1704第二海上護衛隊日誌(1)pp.51-52『(ロ)自7月10日至7月14日『区分/第2海上護衛隊|艦(隊)名/夕張、第29駆逐隊(夕月、追風、朝凪、夕凪)、第30駆逐隊(睦月、弥生、望月、卯月)、能代丸、長運丸』
  126. ^ #S1704第二海上護衛隊日誌(1)p.53『Ⅱ編制ノ経過概要 7月中旬以降當隊ノ編制右ノ如ク改メラレ稍兵力ノ充実ヲ見ルモ第三十駆逐隊ハ當隊ノ任務ニ従事スルニ至ラズシテ當隊ヨリ除カレ、夕張、第二十九駆逐隊又「ソロモン」「ニューギニヤ」方面作戦ニ従事中ニシテ本月ハ當隊固有ノ護衛任務ニ服スル機会ナク、専ラ能代丸、長運丸ノ2艦ニ依リ當隊任務ヲ遂行セリ』
  127. ^ a b #わが祖父100-101頁
  128. ^ 昭和17年7月14日(発令7月14日付)海軍辞令公報(部内限)第899号 p.50」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086200 
  129. ^ a b c #S1709八艦隊日誌(1)pp.9-10『(1)中央及其ノ他トノ連絡 七月十四日附第八艦隊編成セラレ十六日鳥海ニ将旗ヲ掲揚ス 第四艦隊第八艦隊分擔境界線ヲ零度東経一五〇度ヲ通ズル二八〇度線トシ第四第八艦隊擔任区域方面ニ敵来襲ノ際要スレバ第十一航空艦隊長官ハ第四、第六及第八艦隊ヲ統一指揮ス/第八艦隊長官現地進出迄第四艦隊長官ハ現地所在第八艦隊兵力ヲ指揮シ従來ノ作戰ヲ續行ス/七月十九日鳥海(第九駆逐隊一小隊護衛艦トシテ随伴)ヲ率ヒ「トラツク」ニ向ケ桂島發二十四日同地着第四艦隊司令長官ヨリ任務継承ニ関シ申継ヲ受ク』
  130. ^ #S1709八艦隊日誌(1)p.8『第八艦隊(七月十四日編成)第六戰隊ヲ加ヘ外南洋部隊トナル』
  131. ^ #S1707加古日誌pp.4-5『(二)友軍ノ状況 大東亜戦々局ノ趨勢ハ遂ニ外南洋方面ヲ以テ名実共ニ彼我攻防ノ最前線タラシムルニ至リ當方面部隊ノ任務倍々重大タラントスルノ期ニ際シ本月中旬艦隊編制替並ニ聯合艦隊第二段作戰第二期(後段)兵力部署発令セラレ新ニ第八艦隊及第六戰隊ヲ以テ外南洋部隊ヲ編制シ第四艦隊ノ任務ヲ継承シテSN作戰及「リ」號研究作戰ヲ續行以テ次期作戰ニ備フルト共ニR方面防備ノ強化ヲ図ルコトヽナレリ』
  132. ^ #鉄底海峡109-110頁
  133. ^ #高松宮日記4巻552頁
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  135. ^ a b c #第4艦隊日誌(2)pp.27-29『四.参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一)七月』
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  137. ^ #第4艦隊日誌(2)pp.42-44『四.参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一)九月』
  138. ^ a b c d 昭和17年9月7日(発令9月7日付)海軍辞令公報(部内限)第938号 p.30」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086800 
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  153. ^ #第4艦隊日誌(3)p.32『八(天候略)将旗陸上假廰舎移揚 鹿島修理ノタメ…ニ向ケPT発』
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  172. ^ #S1808護国丸(4)p.10『一九(天候略)〇六〇〇山雲護衛ヲ止メ解列(以下略)』
  173. ^ #S1811佐伯防備隊日誌(2)p.35『十一月十九日一六四三呉防戰司令官(宛略)電令作第三九八號 一.長鯨鹿島護國丸若月二十三日二十四日正午位置N25°0.5'E139°0.5'、N28°28'E136°17'西水道ニ向フ(以下略)』
  174. ^ #S1808護国丸(4)pp.11-12『二五(天候略)〇七五〇若月解列横須賀ニ向フ警戒航行止ム(略)〇八一七豊後水道西水道ニ入ル/一六一一入港用意』
  175. ^ 昭和18年12月17日(発令12月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1283号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094900 
  176. ^ a b c 昭和18年12月3日(発令12月3日付)海軍辞令公報(部内限)第1273号 p.32」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094700 
  177. ^ a b c 昭和18年12月10日(発令12月9日付)海軍辞令公報(部内限)第1277号 p.7」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094800 
  178. ^ 昭和19年1月25日(発令1月25日付)海軍辞令公報(部内限)第1304号 p.8」 アジア歴史資料センター Ref.C13072095400 
  179. ^ #海軍機雷学校改正p.4
  180. ^ #S1811海護総司令部(1)p.52『一五(略)敵攻略部隊「グリン」島ニ上陸開始|香取ヲ當総司令部部隊ニ編入セラル』
  181. ^ a b #軽巡二十五隻340-341頁『香取(かとり)』
  182. ^ #S1811海護総司令部(1)p.53『一七(略)敵機動部隊「トラツク」ニ来襲(B六-八、A八、C一三、D一五)|香取第四驅逐隊(嵐、舞風)及赤城丸等ヲ率ヰ「トラツク」出撃直後同北口附近ニ於テ敵飛行機約二〇〇機ノ來襲ヲ受ケ大火災ヲ生ジ遂ニ沈没』
  183. ^ a b c 昭和19年5月15日(発令5月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1471号 p.8」 アジア歴史資料センター Ref.C13072098200 
  184. ^ 昭和19年6月5日(発令6月4日付)海軍辞令公報(部内限)第1505号 pp.3-4」 アジア歴史資料センター Ref.C13072099500 
  185. ^ a b c #南海の死闘86-87頁『「竹」の初陣』
  186. ^ #S1906十一水戦(2)pp.5-6『(四)麾下艦船部隊竝ニ訓練部隊一時加入艦船ノ行動』
  187. ^ #ろ号作戦pp.29-30『(イ)第一軍隊区分』
  188. ^ #ろ号作戦p.26『(イ)艦艇ノ搭載量標準ニ関シ 艦艇ヲ以テスル作戰輸送時ニ於ケル搭載量ノ決定ハ中々至難ニシテ特ニ陸軍ノ場合圓滑ナル作戰實施ノ一障害ヲナスヲ以テ速ニ現艦艇ノ搭載量標準ヲ規定スルノ要アリ 之ニ関聯シ今回實施セル作戰輸送時當司令部ニテ決定セル各艦ノ搭載標準ハ左表ノ通ニシテ作戰輸送トシテノ各艦ノ畧限度ナリト認ム』-『摩耶|人員(数)一〇〇〇|物件(噸)一七〇/長良|六〇〇|三〇/鹿島|七〇〇|一〇〇/浦風型|二〇〇|四〇/冬月|二五〇|五〇/竹|/|三〇』
  189. ^ #ろ号作戦p.6『十五|中津湾|(天候略)|〇八三〇摩耶入港/〇九〇〇輸送作戰打合セ/一八〇〇中津湾出撃』
  190. ^ #ろ号作戦p.7『十七(天候略)一八〇二長良冬月霜月竹鹿島中城湾着/二三〇〇冬月清霜竹南大東島ニ向ケ中城湾発輸送物件人員陸揚』
  191. ^ #ろ号作戦p.30『(ロ)第二軍隊区分』
  192. ^ #S1907十戦隊日誌(1)p.5『(2)朝雲 月頭ヨリ呉ニ於テ整備補給ニ従事中ノ所四日附属部隊ニ編入十日附第十駆逐隊解隊ニ伴ヒ第四駆逐隊ニ編入十四日浦風ト共ニ同地発即日門司着「ロ」號作戰輸送部隊第二輸送隊トシテ陸軍部隊竝ニ物件搭載ノ上同地発中津沖及中城湾ヲ経テ十八日宮古島着陸軍部隊竝ニ物件ノ揚陸ヲ終了「ロ」號作戰輸送部隊ノ編制ヲ解カレ即日同地発二十日「マニラ」着補給ノ上二十三日同地発二十六日「リンガ」着…』
  193. ^ #S1907十戦隊日誌(1)p.37『一八(天候略)〇七二一朝雲〇九五二浦風宮古着/〇八四五雪風因島船渠出渠/〇九二五朝雲一〇三〇浦風摩耶護衛「マニラ」ニ向ケ宮古発』
  194. ^ #ろ号作戦p.7『十八|中城湾|(天候略)|〇八〇〇冬月清霜竹南大東島着輸送物件人員陸揚終了/一〇三〇中将湾ニ向ケ南大東島発/二〇〇〇中城湾着』
  195. ^ #ろ号作戦p.8『十九(天候略)|〇一〇〇長良鹿島冬月清霜竹中城湾発/〇七〇〇清霜七六二空搭乗員救助作業ノ爲解列』
  196. ^ #ろ号作戦p.8『二〇(天候略)|一六〇六冬月機械故障ノ為列外ニ出ル/一六二七舵故障復旧列ニ入ル/二三〇二長良冬月竹八島着 呂号作戰部隊ノ編成ヲ解ク』
  197. ^ #S1907十戦隊日誌(1)p.8『(2)冬月 十五日附霜月ト共ニ第四十一駆逐隊ニ編入南西諸島方面陸軍部隊輸送ニ従事中ノ所二十一日右任務終了内地着二十二日司令駆逐艦トナリ爾後月末迄内海西部ニ於テ諸訓練ニ従事ス』
  198. ^ a b c 昭和19年8月16日(発令8月13日付)海軍辞令公報(甲)第1565号 p.5」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100600 
  199. ^ a b #叢書46海上護衛戦418頁『健制の護衛戦隊編成』
  200. ^ 昭和19年11月18日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1646号 p.8」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102000 
  201. ^ #S1811海護総司令部(4)p.64『一五(略)香椎 對馬 大東 鵜来 海防艦二十三 二十七 五十一號ヲ以テ第一〇一戰隊編成シ海上護衛総隊司令部々隊ニ編入ス(略)』
  202. ^ a b c #叢書46海上護衛戦421頁
  203. ^ a b c #叢書46海上護衛戦421-423頁『第一護衛艦隊の編成』
  204. ^ #叢書46海上護衛戦423-424頁『九〇三空、九五一空の新編と九〇一空の拡充』
  205. ^ 昭和20年1月9日(発令1月7日付)海軍辞令公報(甲)第1686号 p.27」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102800 
  206. ^ #ニミッツの太平洋海戦史412頁
  207. ^ a b #叢書46海上護衛戦553-554頁『空母機動部隊による海上交通破壊戦』
  208. ^ a b #叢書46海上護衛戦463頁『米軍機動部隊の南シナ海進入とヒ八六船団の大被害』
  209. ^ a b c 昭和20年5月13日(発令4月28日付)海軍辞令公報(甲)第1798号 p.23」 アジア歴史資料センター Ref.C13072104800 
  210. ^ a b c 昭和20年10月9日(発令9月27日付)海軍辞令公報(甲)第1946号 p.15」 アジア歴史資料センター Ref.C13072107900 
  211. ^ a b c 昭和20年10月18日(発令10月2日付)海軍辞令公報(甲)第1955号 p.5」 アジア歴史資料センター Ref.C13072108000 
  212. ^ 昭和14年3月31日付 達第48号」 アジア歴史資料センター Ref.C12070105300 
  213. ^ 昭和20年12月1日付 第二復員省 内令第6号」 アジア歴史資料センター Ref.C12070535400 
  214. ^ 昭和21年11月26日付 復員庁第二復員局 復二第407号」 アジア歴史資料センター Ref.C12070537800 
  215. ^ 昭和21年12月4日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第102号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072160000 

関連項目