根本陸夫
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 茨城県那珂郡石神村(現・東海村) |
生年月日 | 1926年11月20日 |
没年月日 | 1999年4月30日(72歳没) |
身長 体重 |
171 cm 64 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手 |
プロ入り | 1952年 |
初出場 | 1952年 |
最終出場 | 1957年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督・コーチ歴 | |
| |
野球殿堂(日本) | |
選出年 | 2001年 |
選出方法 | 競技者表彰 |
この表について
|
根本 陸夫(ねもと りくお、1926年11月20日 - 1999年4月30日)は、茨城県水戸市生まれ、那珂郡東海村出身[1]のプロ野球選手(捕手)・監督・経営者(実業家)、野球解説者。
元西武ライオンズ編成・管理部長、元福岡ダイエーホークス代表取締役専務、代表取締役社長。
ニックネームは「球界の寝業師」。ドラフト会議やトレードで辣腕を振るい、その仕事ぶりは「根本マジック」(後述)と呼ばれた。肩書きこそ違ったが、事実上のゼネラルマネージャーとしてその敏腕ぶりを発揮した。本人は「私はつなぎ監督なので」と話していた通り、監督としては目立った成績を残せず、在任期間も短かったものの、広島・西武・ダイエーの初優勝の土台を築き上げた。
横浜大洋ホエールズ、ヤクルトスワローズの監督を歴任した関根潤三とは日大三中時代からの親友で、選手・コーチ(途中スカウト)を通じて近鉄パールス→近鉄バファロー→近鉄バファローズに在籍した。なお、大正生まれとしては最後のプロ野球監督経験者である(同年の12月25日から年号が昭和に変わったため)。
人物・経歴
茨城県水戸市の資産家に生まれ、石神村に育つ。父親の時之助は水戸市で商売を営んでいたが、根本が生まれてからは祖父の事業を継承するために石神村に転居。石神村の村長となり、隣接する村松村と合併しても村長を二期務め、在任中に日本原子力研究所の誘致を決めた。根本は祖父から「いずれ根本家を支える人物」として目をかけられ正教の幼児洗礼を受けた。さらに祖父は学問好きだったので根本にも勉強家になることを期待し、石神村内の小学校から将来を考え、水戸市内の三の丸小学校に転校させ若い弁護士を家庭教師としてあてがうが、それが根本と野球を結びつけることとなる。この弁護士が大変な野球好きで、二人で城跡でキャッチボールをしたり、中等野球や東京六大学野球の話をよく根本に聞かせた。また、帰宅後根本は当時地方では珍しかったコンクリート二階建ての実家の壁にボールをぶつけて一人でも楽しんだ。このことにより病弱だった根本が頑健な青年となった。
地元の旧制茨城中学校に進学するも、放校処分となり、旧制日本大学第三中学校に移って恩師・藤田省三監督に出会い、関根とともに指導を受けた。終戦後、日本大学予科で野球を再開し、田宮謙次郎とバッテリーを組み、さらに東都大学リーグで首位打者を獲得。この時、一時立教大学にも「入っていた」ことが発覚し出場停止処分が下された。この「入っていた」というのが立教に入学してプレーしたのか、単に野球部のセレクションを受けた程度だったのか真相は不明。この出場停止処分中に母校の日大三中の監督を務めた。その後、法大監督に就任していた藤田に引き取られて法政大学へと進み(この大学間移籍に関しても終戦直後なのでルール上出来たのか、藤田の親心によってリーグが許可したのかは不明)、関根とまたバッテリーを組むこととなった。この時期、硬派学生として暴れまわり、安藤昇と知り合う。
その後日本コロムビアの実業団チーム「川崎コロムビア」を経て、1952年近鉄に入団。 関根潤三を筆頭に、投手を気分良く投げさせる捕手として評判だった[2]。また、抜群の記憶力は投手陣にも首脳陣にも頼りにされ、一軍出場のなかった1955~56年は、プロ野球経験のない芥田武夫監督をサポート、主に根本が投手のローテーションを決めていたという[2]。 1957年に31歳で現役を引退したあとも、スカウト、二軍マネージャーとして球団に残った[2]。また、現役時代に小玉明利が入団テストを受けた際、根本は芥田に「ぜひ採用すべきだ」と進言したがところが芥田は朝日新聞運動部長から前年途中に監督になったばかりで「高校中退させるには・・・」と躊躇した[3]。だが根本は「3年まで待つと他球団に取られる。」として強引に口説いた[3]。スカウトとして徳久利明、土井正博を担当した[2]。スカウトを経て、1962年から1966年まで近鉄コーチ。別当薫監督とともに「18歳の4番打者」・土井正博を育て上げた。土井は「別当さんと根本さん、僕はふたりに育ててもらったんですよ。」、「自分がスカウトして入団してきた選手が迷わないように道をつけてくれました。大学や社会人出身の選手は、ある程度、プロとはどういう世界かわかりますけど、高校から入ってきた選手は右も左もわからないでしょ。そこで迷わないようにしてくれたのが根本さん」と述べている[4]。
広島時代
1965年、1966年と岩本義行監督下で打撃コーチを務めた後、近鉄を退団。この時、近鉄の佐伯勇オーナーから今後について尋ねられ、スカウト時代から友人を通じて顧問格になっていた鉄鋼を扱う会社に転職しようと告げていた。しかし、前述の日大野球部での停止処分中に母校日大三中で監督を務めたが、その教え子の中に後にヤクルト球団参与を務める村上宏がいた。村上の父は閣僚経験者でもある村上勇であり、その勇に見込まれた根本は産経新聞社長の水野成夫と親交を結んだ。さらに水野の友人である東洋工業の松田恒次に紹介された。この松田は根本の恩師・藤田の幼馴染であり、藤田の推薦と先述の各財界人の後押しによって1967年、広島カープの長谷川良平が監督を務める同球団コーチに就任[5]。上田利治は当時の同僚コーチ。1968年、チームは「広島東洋カープ」として運営形態が変更されることになり、根本はその新体制で監督に就任。オーナーの松田恒次から「シーズン全敗でもかまわないからチームの基礎作りを」と要望される。根本はコーチに小森光生を招聘、阪神タイガースから山内一弘を獲得し、選手には猛練習を課した[6]。また食事面でも制限を加える措置をとる等で同年、68勝62敗の3位となりカープ球団創設以来初のAクラスに導く。
翌1969年には最下位に転落するが、1970年、ヘッドコーチとして関根潤三、内野守備コーチとして広岡達朗を招聘。両者はいずれも指導者キャリアのスタートとなるが、同年と翌1971年は勝率5割以上の4位と健闘し、この間衣笠祥雄、山本浩二、水谷実雄、三村敏之らを育成、後の赤ヘル黄金時代の礎を築いた。しかし、1972年、開幕から不振が続いてシーズン途中で休養、そのまま退団した。退団後もチームづくりで広島の球団オーナーの相談に乗っている[7]。その後は大阪の朝日放送(ABC)で野球解説者を務めた。
クラウン・西武時代
1977年のオフ、鉄鋼業を友人と営むかたわら朝日放送で解説者をしていると、安藤昇から電話が入った。「クラウンライターライオンズの仕事を手伝ってくれ」という内容だったが、球団の本筋ではなく安藤からというのに根本は戸惑った。球団から正式に要請がきたら受諾してほしいとクラウンライターの幹部と親しい安藤が根回しをしてきたと根本は理解し1978年、球団社長の坂井保之に招聘されクラウンライター・ライオンズの監督に就任する。ここでも就任直後から選手に猛練習を課し低迷するチームの建て直しを図ろうとした[8]。真弓明信、立花義家がレギュラーに定着した[9]。2年連続最下位のチームを率いたが5位に終わっている。同年シーズン終了後に国土計画の堤義明社長が球団を買収し球団名が西武ライオンズに変更される。根本はそのまま監督として球団に残留、西武ライオンズ時代最初の監督となる。
西武監督時代は管理部長も兼任してフロントの責任職に就任し、球団代表の坂井保之、スカウト部長の浦田直治らと共にチーム作りを急速に進めていった。新生西武ライオンズの1978年のドラフト会議で森繁和を1位に指名。巨人とドラフト外で松沼博久、松沼雅之の松沼兄弟の入団を巡って競争になり獲得に成功。そして阪神タイガースから田淵幸一・古沢憲司を、ロッテから山崎裕之をトレードで獲得。さらにロッテを自由契約となった野村克也も獲得。1979年の春季キャンプはアメリカのフロリダで2か月近くにわたって実施する。上記の戦力補強ぶりから戦前の西武の評価はまずまずだったが、開幕から12連敗を記録し、結局1979年は最下位に終わる。飯田徳治、別当に次いで史上3人目の両リーグ最下位監督となった。
しかし、補強の成果は着実に現れており、翌1980年の後期ペナントレースでは近鉄、ロッテオリオンズ、日本ハムファイターズと優勝争いを演じ話題を起こす。1980年のドラフト会議で石毛宏典、岡村隆則、杉本正、安部理の4名を指名し獲得。ドラフト外で秋山幸二を巨人との争奪戦の末に獲得に成功。そして、当時熊本工業高校の定時制に通学していた伊東勤を所沢高等学校に転校させ、西武の練習生とした。翌年のドラフト会議で西武は伊東を1位指名した他、プロ入りを拒否して社会人野球・熊谷組への入社が内定していた名古屋電気高の工藤公康を6位で指名し、説得の末入団にこぎつけた。
根本は1981年限りで監督を退任して管理部長に専任。そして後任監督として、かつて広島での仲間だった広岡達朗を招聘する。またヘッドコーチとして森祇晶も招聘する。こうして、根本はゼネラルマネージャー専任となり、オーナーの堤に「私は何も現場のことは分からないから全部根本さんに任せてある」と言わしめるほどの実質的なGMであった。
広岡は1982年、1983年と連続日本一に輝く。特に1983年の巨人と日本シリーズは「球界の盟主の座を賭けた決戦」と喧伝され、巨人を4勝3敗で破った。こうして西武ライオンズは全国的に有名となる。しかし、根本は監督の広岡とチームの補強方針を巡って対立をするようになる。そして夕刊紙などに広岡のチーム批判とも取れるコメントが掲載されるようになり、両者の溝が深くなっていった。1984年は3位に終わるが、翌1985年は再びリーグ優勝する。しかし日本シリーズは阪神に2勝4敗で敗れた。シリーズ終了後、広岡は健康面での不安を理由に辞任する。
広岡の監督後任として1984年に退団した森祇晶を招聘する。1985年のドラフト会議では最大の目玉だった清原和博を根本自身がくじを引き当て1位指名に成功[10] 。清原はこの後4番打者として活躍。森は、1986年から1994年までの間でリーグ優勝を逃したのが1989年のみ、6度の日本一に輝くなど西武ライオンズの黄金時代を築いていった。1989年シーズン途中でコーチの土井正博が麻雀賭博で逮捕され、球団代表の坂井が解任される。坂井は翌年ダイエーホークスの球団代表に就任する。
ダイエー時代
1993年、中内功から招聘され西武ライオンズを退団し福岡ダイエーホークスの代表取締役専務兼監督に就任。チームは前身の1978年からずっとBクラスを低迷しており、根本は西武ライオンズに似た方法でチーム再建を進めていった。現場復帰となった1993年は最下位に終わるが、吉永幸一郎の成長や下柳剛、木村恵二らリリーフ陣が台頭した[11]。下柳は根本の事を恩人と述べている[12]。シーズン終了後は秋山幸二・渡辺智男・内山智之と 佐々木誠・村田勝喜・橋本武広の交換トレード「世紀のトレード」を敢行。また同年から実施されたフリー・エージェント制で阪神タイガースから松永浩美を、同じく同年から実施された逆指名制度でのドラフト会議で小久保裕紀、渡辺秀一を獲得。
4位に終わったものの17年ぶりに勝率5割を超えた[13]。1994年限りで監督を退任して専務に専念。後任監督として王貞治を招聘した。ドラフトでは駒澤大学進学が内定していた城島健司を獲得し、西武の主力であった工藤をFAで獲得。西武監督就任が確実視されていた石毛も獲得するなど、ダイエーでも「寝業師」ぶりを存分に発揮した。
12年ぶりの現場返り咲きとなったダイエー監督時代は往年の若親分と呼ばれた熱血ぶりは影をひそめ、風貌も寝業師の異名にそぐわない雰囲気で、マウンドに行く途中に足がもつれてつまづくシーンが、プロ野球珍プレー・好プレー大賞などで放映されるなどしていたが、それでもときたま激しく抗議し退場処分を受けたこともあった。また西武時代は、広岡や森といった管理野球の信奉者を監督に据えていたにもかかわらずダイエーでは2番に山本和範を起用するなど大胆な采配を時として行い、秋山幸二によるとダイエー監督時代はあまり細かいサインは出さなかったという[14]。
ダイエー在任期間、吉武真太郎・小久保裕紀・渡辺秀一・城島健司・藤井将雄・斉藤和巳・佐久本昌広・井口忠仁・松中信彦・柴原洋・倉野信次・永井智浩・篠原貴行・星野順治などをドラフトで獲得し、ダイエー初優勝および現在に至る地元人気の土台を築いた。また、松永浩美・廣田浩章・武田一浩・田村藤夫・長冨浩志・西村龍次・山崎慎太郎など他球団で活躍したベテラン選手を補強している。また、西武時代同様ケビン・ライマー、 ケビン・ミッチェルなどの現役大リーガー選手の獲得に尽力した。
1999年1月に球団社長に就任するが3か月後の4月30日に急性心筋梗塞のため72歳で死去した。その年、ホークスは大阪市から福岡市への本拠地移転11年目にしての初優勝を飾った。同年のシーズン中には根本の遺影がダイエーのベンチに掲げられ、優勝時の胴上げでは選手が代わる代わる遺影を掲げた。根本は日本ハリストス正教会(キリスト教・正教会)信徒であったため、遺骨は同教会本部のある東京・神田ニコライ堂に安置されている。
監督・球団経営者として
- 11シーズン監督を務めたが、2年目以降は全てBクラスであった。しかしチームの基礎を作り上げる手腕への評価が高く、広島、西武、ダイエー全てにおいて、根本が監督を退いたあと数年以内に黄金時代を築いている。監督としてただチームの采配を振るだけでなく、自ら球団経営・チーム編成にも関わり、西武時代からは編成の最高責任者として活躍した。現在でいうGM(ゼネラルマネージャー)の存在で球史にその名を刻んだ。
- 退団した選手の面倒をよくみていた。大半の選手はそれまで野球しかしてこなかった人間であり、引退後は解説者、そして現場に指導者やスカウト・スコアラーとして残れるのは一部の選手でありその他の選手が一般社会への再就職するにはなかなか難しかった。根本は積極的に西武・ダイエーにおいて再就職を世話し、それが無理ならグループ企業に引き取ってもらったこともあった。恩義に感じていた元選手から根本へ、地方の素質のある無名の選手の情報提供もあったという。西武時代は辞めた選手全員に毎年西武球場がフリーパスとなる「家族証」を送った。
- 上記のように人脈が幅広く「根本人脈」は5000人とも、1万人ともいわれた。近藤唯之はシンガポールに講演に行った際、「私は根本の知り合いなんです」という人物が異国のシンガポールにもおり、その人脈の広さにびっくりしたという。
- 西武時代はほとんど人前には姿を現さず、その行動が水面下に潜り把握できないことから“特殊潜航艇”とも呼ばれた[15]。また、人前に出てきてもほとんど抽象的な話しかしなかったので[16]、「根本管理部長の通訳が要る」と言われることもあった。これは根本のかなり慎重な性格なせいでもあり、根本を生前取材していた浜田昭八は、ペンと紙を目の前に出すと本音を言わないので、いつも根本がいないところで思い出しながら取材メモを取ったという。ダイエー時代は西武時代とは違って取材にも積極的に応じたが、話術が抽象的なのは相変わらずだったので[17]、地元マスコミからは「言語大量、意味不明」と揶揄されていた。
- 王監督に対して「世界の王」として一歩引いた眼で見ていた選手達に対し、球団社長就任直後の1999年キャンプイン直前、必勝祈願に訪れた福岡市の筥崎宮で、「お前達、何を構えてるんだ。この人は、今では『世界の王』と言われているが、昔はラーメン屋の倅だったんだ。お前達と何も変わりゃしない。そう思ってやりなさい」と発言、選手の呪縛を解いたという[18]。
- 大道典嘉は「根本さんは一軍に固定してくれた恩人」と著書に記している[19]。
- 伊原春樹は「根本さんは親分肌で人心掌握において有能な方で、指導者のなんたるかを教えていただきました」と著書に記している[20]。まず、「選手を指導しなくてもいいから、しっかり見ておけ」ということ[20]。「選手はいいものを持ってプロに入ってきたのだから、最初はむやみに構うな。特に新人に関しては、じっくり観察することから始める。」これは伊原が後に読んだ様々な書物の中でも同様の指導法が記してあり、「なるほど」と思わされた事の一つだったと著書に記している[20]。
- 八木沢荘六は「送りバントなどをほとんどしなかったですし、例えば打撃の調子が上がらなかった立花義家も辛抱強く中軸で使い続けていました。投手起用もそう。勝利にこだわって何人もつぎ込むことはせず、打たれても簡単には交代させない。根本さんにその意図を聞いたところ、まずはチームとしての地盤を作り、その上で、勝てる監督を後任にしたいのだと。勉強になるなあと感心しました」と語っている[21]。
- 盟友、関根潤三は著書の中で「あいつの真価が発揮されたのは監督を辞めた後のチーム作りだよねぇ。編成のトップとして、西武の黄金時代を築き、福岡ダイエーの土台を作った。大胆な補強と他球団の裏をかくドラフト戦略でそれまで巨人中心の球界の勢力図を塗り替えちゃったんだから[22]。僕はプロで監督をやるとは思いもしなかった。根本もそうだった思う。でも二人とも監督として成功したとは言えないな。チームを優勝に導いた経験がないんだから。僕と根本はある部分似ている。監督には勝つために野球をするタイプと選手を育てるタイプがいるけど僕らは明らかに後者。これは僕らの恩師である藤田さんの影響だろうね。藤田さんは勝つことより育てることを最優先した指導者だった。根本は選手として非常に不器用で一つの技術を身につけるのに人の何倍も時間がかかった。だからだろうね、自分が指導者になっても選手の気持ちがよくわかった。情が深い。育てられなかったら、それは自分の責任だと考えていた。おまけにその選手の引退後の世話までしてたんだから。あいつと話してて、選手の悪口聞いたことなかったね」と記している[23]。
- 根本がクラウンライターの監督だった時平和台での近鉄戦で近鉄から太平洋に移籍した土井正博が佐々木恭介に「おい、恭介、なんで試合に出ないんや。監督(根本)がウチに来ないかと言ってるぞ。」[24]、その後根本は近鉄の監督西本幸雄にトレードを申し込んだ[24]。その後佐々木はすぐにスタメンで使われるようになって、その年首位打者を獲得[24]。根本は死ぬまで佐々木に「恭介、お前俺のおかげやからな」って佐々木に言ったという[24]。
- 落合博満が引退の翌年ダイエーのキャンプに取材に行った時に根本は落合に「落合、現役終わって次は監督、コーチになるなあ。」すると落合は「いやあ、そんな物好きはいませんよ。」と言う落合に根本は「いや、必ずそういう時代がくる。実績残しているし、そういうのを求める人は必ずあらわれるから、そうしたらおまえ、がんばれよ。」と言いコーチに森繁和を使うと面白いと落合にアドバイスした[25]。落合は2004年に中日監督に就任した際に森を投手コーチとして招聘しその後森はバッテリーチーフコーチ、ヘッドコーチを歴任し、2004年の開幕投手に川崎憲次郎を指名した以外は落合は森に投手起用すべて任せた[26]。
交友関係
- 旧制日大三中・法大・近鉄で同窓となった永年の戦友(お互いに「ジュンちゃん」と「ネモやん」と呼び合っていた)であり、温厚なイメージが非常に強い関根潤三のことを『関根は本当は絶対怒らせてはいけない奴、あの末恐ろしさは“インテリヤクザ”だよ』と評していた根本だが、その根本も学生時代は相当ワルだったらしい。特に大学時代の同級生だった安藤昇と渋谷でつるんだり銀座で大暴れした事もあると言われており、根本が球界の寝技師と呼ばれる大胆な行動を取ることが出来たのは安藤との付き合いによる裏社会の人脈・情報網が影響しているとまで言われた。漫画『あぶさん』の中にも血気盛んだった学生時代の根本が描かれている。しかしながら、根本が決定的な悪人になれなかったのは地方資産家で跡取りとして生まれ育ち、恩師・藤田省三の「人の道にそれるな」という教えがブレーキとなった。藤田のことは生涯尊敬していた。
根本マジック
- 西武・ダイエー時代における相次ぐ大型トレード成立や新人選手獲得において球界の内外を驚かせる事が非常に多かった。西武時代はドラフト外制度や西武系のプリンスホテル野球部による囲い込みを最大限に活用、ダイエー時代には逆指名制度を最大限に活用し巨人など他球団との争奪戦を制し、戦力補強を相次いで成功させていた。意表をついた内容の多さから「根本マジック」と呼ばれた。
西武時代
- 田淵幸一と真弓明信の交換を中心とするトレードを阪神との間で実行(阪神・小津正次郎社長との密室トレード)。
- 松沼博久・雅之兄弟に契約金として2人合わせて1億2000万円[27] を提示した巨人に対し、2人合わせて1億5000万円を提示、逆転で兄弟の獲得に成功した。[28] 戦力補強に加えて、選手の争奪戦で巨人に勝ったという大きな意義を持つ一件となった。
- 石毛宏典をはじめとする、社会人野球(主としてプリンスホテル硬式野球部)を駆使した囲い込み。
- 特に1980年のドラフト会議で1位指名された川村一明(阪急指名)と高山郁夫(日本ハム指名)が入団を拒否してプリンスホテルに入社した件は球界に衝撃を与えた。
- 秋山幸二を、大学進学の噂を流させた上でドラフト外で獲得。
- 伊東勤を熊本県立熊本工業高等学校から埼玉県立所沢高等学校に転校させ、かつ球団職員として採用し「囲い込み」。翌年ドラフト1位で指名。
- 熊谷組への就職を発表していた工藤公康をドラフト下位で強行指名。説得の末入団させる。これは長年、当事者である工藤自身含めて、すべて根本が積極的に進めたものとして信じられた話であったが、工藤が当時の西武監督だった広岡達朗から2011年に聞いた話として、根本は工藤指名には反対の立場で、積極的に指名しようとしていたのは広岡だったとのことである[29]。広岡自身も、2009年のライオンズ・クラシックのイベントで、工藤のドラフト指名を進言したのは自分であると述べている。
- 広島の小林誠二をトレードで獲得。西武では1982年のパ・リーグ初制覇に貢献し、その翌年の1983年にも一軍で活躍するが、同年オフに高橋俊春とのトレードで再び広島へ移籍させる[30]。
- 清原和博を1位指名する一方で、大学進学を希望していた桑田真澄がドラフト1位で指名されなければ外れ1位又は2位で指名する計画があった。巨人が桑田を単独1位指名してため阻止された。
- 長嶋一茂獲得の噂を流させ、間隙を突いて鈴木健をドラフト1位で指名。(一茂はヤクルトが指名)
- 渡辺智男・石井丈裕に怪我の噂を流させ、間隙を突いて両者をドラフト上位で指名。
- 中日の主力選手であった田尾安志や平野謙をトレードで獲得。一方で、西武が囲い込みに失敗した小島弘務を中日がドラフト1位で指名するなど、星野仙一とのパイプを築く。
- 台湾球界のエースであった郭泰源を獲得。
- 和歌山県立日高高等学校中津分校の垣内哲也はプロ野球史上初めての分校出身者で、分校まで網羅した根本の情報網が注目された。その後も同校出身の選手が数名西武に入団している。
- 駒澤大学を中退し、住友金属に入社して活動していた小島弘務を1989年にドラフト外入団として獲得する。しかし、この入団方法に疑問が呈された結果、大学中退者でありながら、在学期間が短い関係上高卒扱いで登録されていたため、「高卒の社会人野球選手は3年間プロ入りできない」という野球協約違反で契約無効になってしまい(在学期間が長い大学中退及び大卒の社会人野球選手は2年間)、同時に西武球団は制裁金50万円と以後新人及び移籍扱いで小島を獲得する事が禁止されるペナルティーが科せられた[31]。しかし根本は小島を見捨てず、翌年3月から3ヶ月にわたり自宅で小島の面倒を見て、野球指導を行い、「プロに入るためではなく一軍で活躍するために練習しろ」と数多くのアドバイスを送った[32]。その後、小島は西武の担当スカウト宅や地元・京都で自主トレを行い、その年のドラフトで中日ドラゴンズから指名を受け入団した。
ダイエー時代
- 秋山幸二・佐々木誠を中心とするトレードを西武との間で実行[33]。
- 自分の後継の監督に王貞治を指名、「巨人を家に例えれば、長嶋さんが長男で王さんは二男。通常、二男は家を継げないのでは」と説得して監督就任を承諾させる[34]。
- 西武の主力選手に育った石毛宏典や工藤公康も誘い、FAで入団させる。
- ダイエーと相思相愛にあった城島健司を、他球団には駒澤大学進学のように見せかけてドラフト1位で指名。
- 小久保裕紀・井口忠仁・松中信彦などを、親会社をも動かし、逆指名制度を最大限に駆使してドラフト指名。
- 中日がギリギリまで上位指名(井口獲得が絶望的になった際には1位指名候補にまで浮上した)で獲得を目指した九州共立大学の柴原洋は、「ダイエー以外ならばローソン(当時ローソンはダイエーグループ。現在野球部は廃部)に入る」と西武・プリンスホテルの関係と同様の方法で囲い込みを図り、井口・松中に次ぐ3位で指名を実現する。
- その一方で地元九州のノンプロである九州共立大学や三菱重工長崎などとの親交を深め、将来のドラフトに備えた。根本はダイエーでのドラフト戦略において「実力・評価が同じクラスならなるべく九州の選手を優先的に指名する」と指針を示し、選手編成についても地元密着を考えていた。
- 1999年のダイエー初優勝の際、その年の4月に根本はこの世を去っていたが、優勝した日の翌日中内功オーナーと王貞治監督から直筆の感謝の手紙が妻のもとに送られてきたという。
根本マジックの影響と評価
- 根本の手法は他球団も真似るようになった。球団職員としての囲い込みは1989年のドラフトで中日が大豊泰昭(2位指名)で、阪神が中込伸(1位指名)で実施した。特に星野仙一が監督だった頃の中日(1987年〜1991年)では、進学を表明していた選手の相次ぐ強行指名と翻意の実現や、落合博満の獲得に代表される積極的なトレードなどで西武とともにシーズンオフにおいて多くの話題を提供した。
- 根本マジックに対する巨人のダメージは小さいものではなく、西武には松沼兄弟や秋山や郭泰源などの争奪戦に敗れ、ダイエーには巨人に有利な制度といわれていた逆指名制度で小久保・井口などの選手を奪われるなど、選手獲得において根本がいる球団に煮え湯を飲まされ続けた。成績面でも巨人は1980年代から1990年代の20年間で日本一になったのがわずか3回(1981年、1989年、1994年)と1960年代から1970年代のV9時代や根本が逝去した後の2000年から2012年までの4回と比較しても少ない。一方で巨人もまた渡邉恒雄がオーナーになってからは根本マジックを参考にしており、フリーエージェント制度による他チームの4番(落合博満、広沢克己、清原和博、江藤智)やエース(川口和久、工藤公康)の大量獲得、高橋由伸や上原浩治、阿部慎之助、内海哲也らを規定以上の多額の契約金で抱きかかえるなどしている。
- 根本の選手獲得策はプロ野球の制度にも影響を及ぼし、1991年いっぱいで支配下選手枠を70名に設定の上で練習生としての契約を禁止、同年秋のドラフト会議以降はドラフト外の選手獲得ができないようになった。
- 2007年3月に発覚した西武球団によるアマチュア選手への金銭供与問題においては、根本がチーム作りに注力した1978年より金銭供与が続いていたことが明らかになった。そのため金銭供与問題は根本のチーム強化策による負の遺産として扱われることもある。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1952 | 近鉄 | 46 | 92 | 85 | 9 | 16 | 3 | 0 | 2 | 25 | 8 | 1 | 0 | 1 | -- | 5 | -- | 1 | 13 | 1 | .188 | .242 | .294 | .536 |
1953 | 110 | 284 | 257 | 12 | 53 | 4 | 1 | 0 | 59 | 15 | 3 | 2 | 12 | -- | 14 | -- | 1 | 37 | 4 | .206 | .250 | .230 | .480 | |
1954 | 10 | 13 | 11 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | -- | 0 | 2 | 0 | .000 | .154 | .000 | .154 | |
1957 | 20 | 17 | 17 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | .059 | .059 | .059 | .118 | |
通算:4年 | 186 | 406 | 370 | 21 | 70 | 7 | 1 | 2 | 85 | 23 | 4 | 2 | 13 | 0 | 21 | 0 | 2 | 56 | 5 | .189 | .237 | .230 | .467 |
年度別監督成績
年度 | チーム | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1968年 | 昭和43年 | 広島 | 3位 | 134 | 68 | 62 | 4 | .523 | 112 | .224 | 2.91 | 42歳 | |
1969年 | 昭和44年 | 6位 | 130 | 56 | 70 | 4 | .444 | 121 | .221 | 3.24 | 43歳 | ||
1970年 | 昭和45年 | 4位 | 130 | 62 | 60 | 8 | .508 | 108 | .226 | 3.00 | 44歳 | ||
1971年 | 昭和46年 | 4位 | 130 | 63 | 61 | 6 | .508 | 89 | .233 | 3.11 | 45歳 | ||
1972年 | 昭和47年 | 6位 | 47 | 16 | 29 | 2 | .356 | 117 | .250 | 3.57 | 46歳 | ||
1978年 | 昭和53年 | クラウン 西武 |
5位 | 130 | 51 | 67 | 12 | .432 | 109 | .268 | 3.75 | 52歳 | |
1979年 | 昭和54年 | 6位 | 130 | 45 | 73 | 12 | .381 | 140 | .259 | 4.60 | 53歳 | ||
1980年 | 昭和55年 | 4位 | 130 | 62 | 64 | 4 | .496 | 219 | .267 | 4.43 | 54歳 | ||
1981年 | 昭和56年 | 4位 | 130 | 61 | 61 | 8 | .500 | 143 | .267 | 3.62 | 55歳 | ||
1993年 | 平成5年 | ダイエー | 6位 | 130 | 45 | 80 | 5 | .360 | 75 | .246 | 4.22 | 67歳 | |
1994年 | 平成6年 | 4位 | 130 | 69 | 60 | 1 | .534 | 132 | .275 | 4.10 | 68歳 | ||
通算:11年 | 1351 | 598 | 687 | 66 | .465 | Aクラス1回、Bクラス10回 |
- ※1968年から1996年までは130試合制
- ※1972年は、開幕から6月15日まで
表彰
- 野球殿堂入り (競技者表彰:2001年)
背番号
- 8 (1952年 - 1957年)
- 40 (1962年)
- 60 (1963年 - 1966年)
- 68 (1967年 - 1972年、1978年)
- 81 (1979年 - 1981年、1993年)
- 84 (1994年)
関連情報
出演番組
- ABCフレッシュアップベースボール - ABCラジオのプロ野球中継の現行タイトル。
- 侍プロ野球 - ABCテレビ(1975年3月30日までABCテレビが属していたTBS系列におけるプロ野球中継の現行統一タイトル)
- ゴールデンナイター - ABCテレビ
書籍
脚注
- ^ 浜田昭八・田坂貢二『球界地図を変えた男・根本陸夫』日本経済新聞社、2001年、15p
- ^ a b c d 【根本陸夫伝】高校を中退させて「18歳の4番打者」を作った男
- ^ a b ベースボールマガジン、2012年7月号、P66
- ^ 【根本陸夫伝】高校を中退させて「18歳の4番打者」を作った男、根本は「18歳の4番打者」として土井を売り込んだ
- ^ 浜田・田坂(2001)p48
- ^ 浜田・田坂(2001)p52
- ^ 広島、西武そしてホークスを 根本陸夫のチームづくりとは
- ^ 坂井保之『波瀾興亡の球譜 失われたライオンズ史を求めて』ベースボールマガジン社、1995年、p219
- ^ 九州ライオンズ激闘史―1950ー1978 (B・B MOOK 1123)、ベースボール・マガジン社、2014年、P109
- ^ “【11月20日】1985年(昭60) ドラフト会場騒然!「読売 桑田真澄」”. スポーツニッポン (2007年11月20日). 2013年8月31日閲覧。
- ^ ホークス75年史―南海、ダイエー、ソフトバンクー継承される栄光の歴史、ベースボールマガジン社、2013年、P86
- ^ “親父”根本さんの思い出…本当にいろんなことを学ばせてもらった スポーツニッポン、2014年9月29日閲覧
- ^ HAWKS the 70th―ホークス栄光の軌跡、ベースボール・マガジン社、2008年、P124
- ^ 秋山幸二著、卒業、西日本新聞社、2003年,P145
- ^ “【11月16日】1993年(平5)“特殊潜航艇”根本、久々の大型トレードで秋山ゲット”. スポーツニッポン (2007年11月16日). 2013年9月6日閲覧。
- ^ 文化放送ライオンズナイターのレポーターを長年にわたって務めた中川充四郎は、根本を「番組で何度インタビューしても全く具体的な話をしない人だった」と評している。
- ^ ダイエー監督時代にズームイン!!朝!にビデオ出演した際には、戦力補強に対してxとyの未知数を持ち出して延々と自身の持論を展開したため、司会の福留功男が「(話が)あまりにも哲学的すぎる」と嘆き、地元キャスターの古賀ゆきひとも「私も(根本監督が)何が言いたいのか全然分からないんです」と困惑していた。
- ^ テレビ番組『ZONE』(TBSテレビ)1999年10月28日放送分。
- ^ 大道典嘉著、仕事人 バット短く、息長く、中央公論新社、2011年、P34
- ^ a b c 伊原春樹著、二流選手から一流指導者へ―三塁コーチの視点-誰も書かなかった「勝利の方程式」、ベースボール・マガジン社、2011年、P93-P95
- ^ 埼玉西武ライオンズ黄金投手陣の軌跡、2013年、ベースボール・マガジン社、P90
- ^ 関根潤三著、いいかげんがちょうどいい―85歳、野球で知った人生で大切なこと、ベースボール・マガジン社、2012年、P74-75
- ^ いいかげんがちょうどいい―85歳、野球で知った人生で大切なこと、P82-83
- ^ a b c d 近鉄バファローズ球団史1950-2004、ベースボール・マガジン社、2012年、P51
- ^ 森繁和著、参謀―落合監督を支えた右腕の「見守る力」、講談社、2012年、P46-47
- ^ [プロ野球]森繁和×二宮清純<前編>「今だから話せるオレ竜の真実」 - 2012年4月26日
- ^ 当時としてはドラフト1位に匹敵する破格の金額。
- ^ 松沼兄弟獲得にあたりどちらかが継ぐ予定だった実家の建設会社を西武関連会社の西武建設に買収したことも大きい。
- ^ 週刊文春2012年5月3、10日号「今だから話せる」において工藤自身が文春のインタビューに答えたものである
- ^ 事実上のレンタル移籍だった可能性がある。
- ^ B.B.MOOK156 スポーツ伝説シリーズ18「プロ野球ドラフト読本2000」51P、ドラフトミニ事件史、ベースボール・マガジン社、2001年、ISBN 978-4583611174
- ^ 『中日ドラゴンズ ドラフト1位のその後』(別冊宝島編集部、2014年)94頁
- ^ 両球団のオーナー(中内功・堤義明)もこの件を知らず、特に中内はその日の昼食時、ダイエー本社の社員食堂で流れていたNHKニュースのトップでこの発表を知り仰天した。
- ^ 日刊スポーツ 1999年10月29日付復刻記事