中内功
| 本来の表記は「中内㓛」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。 |
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なかうち いさお
中内 功 |
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|---|---|
| 生誕 | 1922年8月2日 |
| 死没 | 2005年9月19日(満83歳没) |
| 出身校 | 神戸三中 ↓ 兵庫県立神戸高等商業学校 |
| 職業 | 実業家 |
| 配偶者 | 妹尾萬亀子 |
| 子供 | 長男・中内潤 次男・中内正 長女・中内綾 |
| 受賞 | 勲一等瑞宝章 |
中内 功(なかうち いさお、1922年8月2日 - 2005年9月19日)は実業家。
ダイエーを創業し、会長・社長・グループCEOを務める。
日本チェーンストア協会会長、自身が設立した流通科学大学学園長、理事長を歴任した。
戦後の日本におけるスーパーマーケット(GMS)の黎明期から立ち上げに関わり、
近年の消費者主体型の流通システムの構築を確立させダイエーを中心とした商業施設の普及拡大、
日本の流通革命に大きく貢献した。
※「いさお」の漢字は「功」でなく、正確には「㓛」(工偏に刀)。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 生い立ち
大阪府西成郡伝法町(現・大阪市此花区伝法)に父・秀雄、母・リエの長男として生まれる。父は大阪薬学専門学校(現・大阪大学薬学部)を卒業後、鈴木商店に入社し、退社後大阪で小さな薬屋をはじめた。母は神社の宮司の娘であった。祖父・栄は高知県矢井賀村(現・中土佐町)の士族の家[1] に生まれ大阪医学校(現・大阪大学医学部)に学び卒業後、神戸で眼科医となった。ダイエーの(エイ)とは、祖父の名前の栄からとられたものである。
功は神戸三中(現・兵庫県立長田高等学校)を経て、1941年、兵庫県立神戸高等商業学校(新制神戸商科大学の前身、現・兵庫県立大学)を卒業。ゲーテ『ファウスト』のファウスト博士の嘆きを一部改変し、「神戸高商で努力して学んだ様々な哲学も、芸術も経済学も文学も、まったく役に立たなかった」という意味のドイツ語の文句を卒業アルバムに記す[2]。勉強はできる方ではなく大学受験に失敗。
[編集] 戦争体験と奇跡の生還
1943年、幹部生として扱われる仲間を尻目に戦場の一線へ投げ込まれる。所属した大石正義中佐率いる陸軍部隊はフィリピン・ルソン島で玉砕。 背中に重傷を負いながらも奇跡的に生還。この戦争体験は、後の人生観にも影響を与えた。
「人の幸せとは、まず、物質的な豊かさを満たすことです」
1945年11月、フィリピンから復員。復員を機に、神戸市兵庫区にあった実家(サカエ薬局)に、1948年、元町高架通に新たに開店した「友愛薬局」で、業者を相手に闇商売を行った。旧制神戸経済大学(現神戸大学)に戦後設置された第二学部(夜間)に進学するも、商売に専念する為に中退。6年後の1951年8月には次弟の設立した「サカエ薬品株式会社」が大阪平野町に開店した医薬品の現金問屋「サカエ薬局」(店名は実家の屋号でありかつ祖父の名前から採用した)で勤務[3]。
[編集] ダイエー設立
サカエ薬品を離れ、1957年4月10日に神戸市長田区を本店とする「大栄薬品工業株式会社」を末弟と設立し、製薬事業に参入。ただしすぐに撤退し、同年9月23日に、この会社にて大阪市旭区の京阪本線千林駅前(千林商店街内)に、医薬品や食品を安価で薄利多売する小売店『主婦の店ダイエー薬局』(ダイエー1号店。のちに千林駅前店に改称し1974年まで営業)を開店した。当初は薬局で、後に食料品へと進出していった。
千林での開店の翌年1958年には、早くも、神戸三宮にチェーン化第1号店(店舗としては第2号店)となる三宮店を開店。既成概念を次々と打ち破り、流通業界に革命をおこした。特に価格破壊は定価を維持しようとするメーカーの勢力の圧力にも屈せず、世の人の喝采を浴びた。1956年の経済白書で「もはや戦後ではない」とされたが、戦時中の国家統制がさまざまな規制の形で残り、中内は「戦後はまだ終わっていない」とした。
[編集] 価格破壊
1964年、松下電器産業とテレビの値引き販売をめぐって『ダイエー・松下戦争』が勃発した。松下電器が仕入れ先の締め付けを行い、ダイエーへの商品供給ルートの停止でダイエーに対抗した。 この時の松下幸之助の考えは「儲けるには高く売ることだ。今後、高い水準に小売価格を設定するので、これを守りなさい。安売り店への出荷は停止する」であった。
1970年、メーカーの二重価格の撤廃を求める消費者団体が、強硬姿勢を崩さない松下に対して松下製品の不買運動も決議した。同年に、公正取引委員会が二重価格問題に対して、「メーカー(松下側)に不当表示の疑いあり」という結論を出している。
松下幸之助は、1975年に中内を京都の真々庵に招いて、「もう覇道はやめて、王道を歩むことを考えたらどうか」と諭したが、中内は応じなかった[4]。
その後、約30年後の1994年に最後は松下電器が折れる形で完全和解となった。この対立は「30年戦争」とも呼ばれた。
[編集] グループ拡大に奔走
1972年には百貨店の三越を抜き、小売業売上高トップにまでのしあげた。1980年2月16日に日本で初めて小売業界の売上げ高一兆円を達成した。
また、紳士服のロベルト、ファミリーレストランのフォルクス、ハンバーガーチェーンのウェンディーズ・ドムドムハンバーガー、コンビニエンスストアのローソン、百貨店のプランタン銀座など子会社・別事業を次々と展開していった。また、イチケンやリクルート、忠実屋、ユニードなどを買収(その後1994年に忠実屋・ユニード・ダイナハを合併)、1981年には高島屋の株式を10.7%を取得。グループ内にデパートを欲していた中内は高島屋との提携を求めるが、ダイエーによる乗っ取りを警戒した高島屋側の白紙撤回により失敗する。ミシンの割賦販売で実績のあったリッカーの再建を引き受け、その割賦販売のノウハウを子会社のダイエーファイナンスに導入した。
一兆円達成から3年後の1983年から三期連続で連結赤字をだしてしまい、ヤマハの社長であった河島博を総指揮官とし、業績をV字に回復させる通称「V革」を行う。
[編集] 絶頂期
1988年にはパシフィック・リーグの南海ホークスの株式を南海電気鉄道から買収してプロ野球業界へも参入、福岡ダイエーホークスを誕生させ、更に東京ドームを凌ぐ大きさである福岡ドームの建設に着手するなど、グループを急拡大させた。このとき、中内はホークスについてよく知るためにホークスを扱った漫画「あぶさん」の作者、水島新司とホークスについて対談した。
1988年4月には神戸・学園都市に長年の悲願であった流通科学大学を開学。大学職員は全員当時のダイエーから出向させ、同時に理事長に就任した。
同年9月には自らの故郷・神戸の玄関口である新神戸駅前に、ホテル・劇場・専門店街が一体となった商業施設新神戸オリエンタルシティを誕生させた。
また、1991年には経団連副会長に抜擢。
それまで、製造業や銀行などの、他業種より格下と見られていた流通業から初めて抜擢されるなど、名実共に業界をリードする存在となった。
しかし息子たちに跡を継がせたいことなどで、他社からヘッドハントした人材も含む部下を辞職に追い込み、周囲を自分に近いイエスマンで固めるなど、ワンマン体制の弊害が露呈してしまう一面もあった。
[編集] 凋落
1990年代後半になってバブル景気の崩壊により地価の下落がはじまり、地価上昇を前提として店舗展開をしていたダイエーの経営は傾きはじめた。また、店舗の立地が時代に合わなくなり、業績も低迷。 さらに展開していたアメリカ型ディスカウントストアのハイパーマートが失敗、当時の消費者の意識が「安く」から「品質」に変わったこと、家電量販店などの専門店が手広い展開を始めたことなどから、ダイエーは徐々に時代の流れに遅れをとった。
90年代後半には、ジャスコを経営するイオン、ローソンのライバルであるセブン-イレブンの当時の親会社イトーヨーカ堂などが業界をリードするようになっており、当時の世間からは「ダイエーには何でもある。でも、欲しいものは何もない」と揶揄されるようになった。中内自身も晩年、「消費者が見えんようなった」と嘆くこともあった。
[編集] 阪神淡路大震災
バブル崩壊後の不況の中、1995年1月17日5時46分、阪神・淡路大震災が発生。東京・田園調布の自宅で知った中内は、ただちに物資を被災地に送るよう陣頭指揮。国より速くフェリーやヘリを投入して食料品や生活用品を調達したことで、一部で見られた便乗値上げに対し、物価の安定に貢献した。そのため、大災害が起きた際には暴動が起こる例も世界中には少なくないが、ダイエーが根付く神戸ではそうした騒ぎが起きなかった。この地震により、被災地神戸にあったダイエー7店舗のうち、半数以上の4店舗が全壊、コンビニのローソンなどダイエー系列店約100店もの店舗が被災した。関西発祥のダイエーの金銭的被害は甚大だった。わかっているだけでダイエー社員も、この震災により30名以上亡くなっている。
[編集] スーパーはライフライン
「スーパーはライフラインである」中内のこの哲学により、阪神淡路大震災では、地震発生3日後には自ら被災地神戸に乗り込み、自前のネットワークを駆使して必要な物資の輸送をおこない、営業時間の延長、被災した店舗前での物販販売などを特例的に行政当局に認めさせ、被災地への迅速な物資の供給・販売を実現した。
『 店の明かりをつければ、それだけで被災者たちは力が出る。』
「被災者のために明かりを消すな。客が来る限り店を開け続けろ。流通業はライフラインや。」の号令の元、電力供給が出来ているダイエー、ローソンなどの照明を24時間点灯し被災地を勇気づけた。 この中内の哲学が現在のダイエーにも例外なく引き継がれており、東日本大震災でも、東京のダイエー本社(東京都江東区)が地震発生後すぐに対策本部を設置、東北の被災地に所在するダイエー仙台店は迅速に営業再開することが可能となった。
[編集] 晩年
2001年に「時代が変わった」としてダイエーを退任。しかし遅すぎた決断であり、あらゆる部門で問題が露呈していた。最後の株主総会では厳しい質問が続き、2時間36分の大荒れ総会となった。その中で、勇退の辞として過ちを認め謝罪した後、まだ総会が終わっていないにも関わらず壇上を降りて去ってしまう一幕があり、会場はあっけにとられたが、株主から「議長、中内さんがあんまり寂しすぎる!拍手で送ってあげたい」との声があがり、再登壇した中内に満場の拍手が鳴り止まなかった。 その午後、退任する中内と新経営陣の高木邦夫がそろって記者会見を開いた。その席上、中内は完全に経営から退くことを表明。
その後は、自身が私財を投じて設立した流通科学大学を運営する学校法人中内学園学園長に専念。2000年に流通科学大学では職員が大学籍になり、新神戸オリエンタルシティも、2004年に売却されダイエーの手から離れた。
2004年12月には芦屋と田園調布にあった豪邸や所持する全株式を売却処分、私財からダイエー関連資産を一掃し、名実ともにダイエーと決別した。翌年の2005年8月26日、流通科学大学を訪れた後神戸市内の病院で定期健診中に脳梗塞で倒れ、療養中の9月19日に転院先の神戸市立中央市民病院において死去した。倒れてから亡くなるまで、意識が戻ることはなかったという。享年83。
逝去した際、田園調布の自宅・芦屋の別宅が差押となっていたため、一度も中内の亡骸を自宅へ戻すことができずに大阪市此花区の中内家が眠る正蓮寺にそのまま搬送され、ごく近親者だけでの密葬となった。本葬儀は流通科学大学の学園葬で行われ、林文子会長(当時)ら経営陣は参列したが、ダイエーは、当時の状況(産業再生機構入りし再建中)も踏まえた上で社葬を行わなかった。
しかし、逝去して7日後の9月27日に、中内がオーナーを勤めたダイエーホークスの後身、福岡ソフトバンクホークスと、対戦相手であった東北楽天イーグルスの選手・関係者がヤフードーム(旧:福岡ドーム)でのプレー前にファン・観戦者と共に感謝の意を混め1分間の黙祷を行った。
当日の試合ではホークスが勝利している。なお、中内の死に関して福岡ドームの電光掲示板にはこう表示された。
| ありがとう!! 中内功さん 福岡はあなたを忘れません 安らかにおやすみください |
[編集] 評価
[編集] 功績
事実上、ダイエーグループを経営不振に陥らせたとはいえ、欧米型のスーパーマーケットを中心とする大型商業施設・外食産業を戦後日本で普及させ、消費者主体の流通経営、神戸や福岡など日本各地の都市計画への尽力、災害時のフォロー(阪神淡路大震災・東日本大震災)などで、日本社会に大きく貢献した点は現在でも高く評価されている。
また家業であった小さな薬局店から身を興し、一代でダイエーを創業し、一時はダイエーを連結売上高3兆円超、関連企業を含んで6万人以上の従業員を抱えた、売上日本一の商業集団に育て上げたのも事実である。ユニクロ社長の柳井正を筆頭に、現在でも中内の考えに影響を受け、中内を尊敬する経営者や起業家は多い。
1960年代。中内ダイエーが紆余曲折しながら大規模な流通システムを構築するまでは、「市場流通価格」はメーカーが完全に操作しており、消費者の立場は弱く「価格」は生産者であるメーカーが勝手に決めるのが基本であった。今では当たり前の「良い品を安く買えるお店がいつもそこにある」「良い品を安く売ってくれる店こそが消費者の味方」というような発想さえなかった。 メーカーにしか価格決定権がなく、メーカー以外の小売業や消費者の立場が大変弱かった時代の1960年代から、中内は独自のやり方で良い品、高所得者でないと買えな高級品(テレビなど)や一般主流品を、消費者の為にメーカー製造品と同じレベルの品質で、通常の市場価格よりずば抜けた低価格でプライベートブランドから販売した。
今では当たり前になり種類も豊富になったプライベートブランドは、ダイエーが1961年に日本で初めて製造販売し当時も大人気を博した。
ダイエーの記念すべきPB第1号商品は、同年1961年の7月のコーヒー豆の輸入自由化に合わせてつくった、「ダイエーインスタントコーヒー」であった。
当時、コーヒーは大変なぜいたく品であり、豊かさの象徴であった。そのような商品が庶民の手に届く価格で売られた事で、消費者に大変喜ばれ爆発的にヒットした。 そして、「For the customers」(お客様のために)というダイエーのスローガンと共に、亡くなるまで消費者の権利、庶民への豊かさの提供、小売業の流通革命の存在意義と価値上昇に奔走し続けた。
福岡ダイエーホークス発足に際し、福岡にホームグラウンドを移し、当時は話題性の薄かった九州、福岡市の都市開発にも大きく貢献した。(当初は平和台球場)、西鉄時代からのライオンズファンが多かったこの地に、球団を誘致し、日本で初の開閉型ドーム球場を建設し九州にホークスの人気を定着させた。
チームの低迷期には「同好会は終わった」と書かれた横断幕を送った。福岡Yahoo!JAPANドームには以前のダイエーのスローガンでもあった「For the customers(意味:お客さまのために)」と書かれた中内直筆の色紙が今でも飾ってある。
流通業界出身初の勲一等瑞宝章を受章しており、「流通王」、「カリスマ」とも呼ばれた。
[編集] ホークス株
長年、ホークスのオーナーを勤めた中内だが、ダイエーグループの経営から完全に手を引いた時期に、次男の中内正に、自身が所有していたホークス株を1株1円にて譲渡した。その当時、「非上場株式であることを利用し不当に安く見積もった課税逃れではないか」といった批判などが各メディアで報道された。
[編集] 人物
[編集] 人物像
神戸高等商業高校在学時は目立たない性格で、俳句の同好会に所属していた。戦後、商売を始め出してからは、同級生を捕まえては「ゼニ貸してくれるとこ知らんか」とすごい目つきで聞いてまわったので、友人たちは人間が変わったと驚いた。
新婚旅行先の宿から電話で薬の取引をするなど、家庭よりも仕事を優先した。 反面、かなりの家族思いで、部下に愛娘のことを話した時「忙しいて全然構ってあげへんかったなあ」と涙を流した。
怒ると手がつけられないほどであったが、反面大変人情深い面も持ちあわせ、社長という身分でありながら、大みそかの深夜まで売り場に立ち続けた中内は、部下から早く帰るよう促された時に、売り場の女子店員を指差して「あの子たちは正月の用意もしないで頑張っているのにわしが帰れるもんか。」と断ったり、部下が億単位の損失をした時は叱るどころか、「そうか。お前、ええ勉強したなあ。これから気をつけろ。」とやさしく励まして相手を感激させた。
座右の銘は「ネアカ、のびのび、へこたれず」
この座右の銘は、自身が設立した流通科学大学の校歌の歌詞にも「ネアカでのびのび、へこたれないよ」という歌詞で使用されている。
晩年は謙虚な好人物となり、林文子CEOによるダイエーの新方針を評価したり、堀江貴文を見て「若いもんは元気があってええなあ。」と漏らした。 自動車免許を取得したときはいかにもうれしそうに知人に免許証を見せびらかし、いずれは米大陸のハイウエイを走りたいと言っていた。 ただ、高齢なのでなかなか運転させてもらえず、業を煮やした中内はタクシーを捕まえ「金払うさかい、かわりに運転させろ。」と運転席に乗り込んできたという。だが、ダイエーが産業再生機構入りした時は「無念という一言しかありません。」とのコメントを関係者に送ってきた。
なお、新神戸オリエンタルシティの建物の一角に現在も取り付けられている石板には、彼の直筆で次の言葉が刻まれている。
| よい品を どんどん 安く より豊かな 社會を 一九八八年 中内功 |
[編集] 語録
- 「三つのどれをやっとっても、金は儲かったと思うね。 パチンコ王とか、ソープランド王とか、サラ金王になっていただろう。 しかし、僕はいちばん儲からんスーパーを選んだ。 心がまったく動かなかったと言えばウソになるが、でも、それではあまりにロマンがないやろ。 それと、死んだ戦友に対して、なにか後ろめたさがあってね。」 (大塚英樹『流通王 中内功とは何者だったのか』 講談社 2007年より)
- 「この資源のない国で、世界一豊かな暮らしを提供するためには、もっと使命感に燃えた人が必要だ」
- 「我々はダイエーでしかできないことを、この国が本当に豊かさを実現するために、あえてリスクを冒しても実行していかなくてはならない」
- 「馬鹿と天才とは、この世に存在することはまれである。全てが我々凡人の世界である。その中で半歩前に踏み出すことのできる勇気を持つ事が大切である。」
- 「売り上げだけが日本一というのではあまり意味がない。それは手段であって本当の目的はそれを通して新しいシステムを作ることだ。」
- 「時代の流れから言って、かつてのような需要過剰、売り手市場の時代は二度と来ないと思います。景気は今、デフレ局面にあると言われていますが、これからは供給過剰、買い手市場が常態になる。そのような中で企業が存続していくには、買い手市場を前提とした新しいシステムを構築して、徹底的に消費者の理論に立って経営を推し進めていく以外にはありません。」
- 「もはや手本はない。いまこそ主体的に変革を実行していくときである。企業家精神を大いに発揮し、痛みを伴いながらも、創造的で活力のある新時代を切り開いていく。それが日本経済を再生し、透明度の高い経済社会を作ることになる。」
- 「こいつはなかなか眼力ある。刑期終えて娑婆に出たらうちに来てもらお。」(自宅が盗難に遭い、値の張る名画ばかり盗まれた時の言葉)
- 「消費者以外に頭を下げるのは嫌だ。」
- 「日本は全然豊かじゃないですよ。たしかに家庭用電気製品とかはいっぱい部屋にあるけれど、本当に生活をエンジョイするような時間的、空間的なゆとりがあるだろうか?日本人は何か後ろから追いかけられているような感じで、周囲が気になり自分自身を見失っています。」
- 「売上げはすべてを癒す」
- 「消費者のためなら、どんなことでもするつもりやが、死んだおやじに対しては親不孝な息子だったと思う」
- 「借金と元気だけはあるんやで。」
- 「松下(幸之助)さんを経営者として非常に尊敬している。しかし価格決定権に対する考え方や、お客様の利益についての考え方は、私とは根本的に違っている」
[編集] 家族
長男の中内潤は、現在は流通科学大学・学校法人中内学園の理事長。次男中内正は、福岡ダイエーホークス元オーナーで、後に読売ジャイアンツオーナー顧問を務めた。 弟の中内力は神戸ポートピアホテルの創業者だった。
[編集] 系譜
- 中内氏
∴ 中内栄 ┃ ┃ ┃ 中内秀雄 ┃ ┣━━━┳━━━┳━━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ 中内功 中内力 中内傅 中内守 ┃ ┣━━━━┳━━━┓ ┃ ┃ ┃ 中内潤 中内正 綾
[編集] 主な著書
- 『わが安売り哲学』 日本経済新聞社→千倉書房 2007年9月
- この本は1969年に初版が発売され19刷を重ねベストセラーとなったが、財界のご意見番三鬼陽之助から 「物書きになるのか」と指摘・忠告され自ら絶版にした経緯があった。
復刊を望む声が多数あり、三周忌とダイエー創業50年を機に、流通科学大学(神戸市)が中心になり復刊した。
- 『流通革命は終わらない―私の履歴書』 日本経済新聞出版社、2000年
- 『中内功語録』 小学館文庫、1998年
- 『仕事ほど面白いことはない 中内功200時間語り下ろし』 (全3冊、大塚英樹編著)、講談社、1996年
[編集] 主な評伝評論
- 大下英治『中内功のダイエー王国』 講談社→現代教養文庫(絶版)
- 城山三郎『価格破壊』 光文社→角川文庫 各.ダイエー全盛時の評伝と小説
- 佐野眞一『カリスマ―中内功とダイエーの「戦後」』 日経BP社→増補し新潮文庫上下→完本ちくま文庫上下
- 佐野眞一編 『戦後戦記―中内ダイエーと高度経済成長の時代』 平凡社 2006年 ルポ+評論+対談での中内像
- 緒方知行『二人の流通革命 中内功と鈴木敏文』 日経BP社 1999年
- 大友達也『わがボス 中内功との一万日』 中経出版 2006年
著者はダイエー幹部の中で最も長く側近として仕え、亡くなる直前まで、ただ一人そばにいた部下。 - 大塚英樹『流通王 中内功とは何者だったのか』 講談社 2007年
著者は「カリスマ」中内功に、約20年間密着したジャーナリスト - 中内潤、御厨貴編 『中内功 生涯を流通革命に献げた男』 千倉書房 2009年
※長男・潤や愛弟子、ライバル経営者の伊藤雅俊、岡田卓也、清水信次、西川俊男、川一男が語る中内像。
[編集] 脚注
- ^ 『阿陽旧蹟記』によると、「池田村(大西町ニ城跡有)、当城ハ長曽我部元親ノ家老中内善助籠城之処、天正十三酉年家政公御討入之砌責寄給フ処、城主善助ヲ始軍勢共降参シテ土州へ落行、是ニ依テ与州讃州ノ押トシテ牛田亦右衛門ニ御手勢三百騎ヲ御差添被成後ニ亦右衛門ハ掃部ト改ム」とある。中内氏は近江の中原氏の支流といわれ、中世後期に土佐に入り、長岡郡江村郷に居住した。中内藤左衛門。中内源兵衛尉。中内三安。中内三由。中内左近衛門尉がいる。
- ^ 佐野眞一、『カリスマ 中内功とダイエーの「戦後」』(日経BP社、一九九八年)、九九頁。
- ^ 会社としてのサカエ薬品株式会社はのちに「株式会社サカエ」に商号変更し、ダイエーと同じくスーパーマーケットに発展。2001年11月1日に会社分割にて同名の新設法人株式会社サカエに事業を承継するまで、「サカエ」の店名でスーパーマーケットを展開していた
- ^ [松下幸之助と中内功の信念] 日本総研、2006年07月24日、竹内祐二。
[編集] 関連項目
- ダイエー
- 大阪府出身の人物一覧
- 藤原謙次 カカクコム取締役。元ファンケル会長・元ローソン代表取締役・ダイエー入社後、本部長を経験。
- 大川英二 (ダイエー元副社長 群馬県桐生の大川美術館館長)
- 鈴木達郎 元ダイエー専務取締役 中内の補佐役でもあった重要人物。
- 杉浦忠 福岡ダイエーホークス初代監督
- 田淵幸一 同・二代目監督
- 根本陸夫 同・三代目監督
- 王貞治 同・四代目監督
- 矢野博丈
- 鳥羽董 (元味の素社長)
[編集] 外部リンク
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