宇野勝

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宇野 勝
基本情報
国籍 日本
出身地 千葉県匝瑳市
生年月日 1958年5月30日(51歳)
身長
体重
181cm
75kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 遊撃手
プロ入り 1976年 ドラフト3位
初出場 1977年7月29日
最終出場 1994年7月13日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
コーチ歴
  • 中日ドラゴンズ (2004 - 2008)

宇野 勝(うの まさる、1958年5月30日 - )は、中日ドラゴンズ千葉ロッテマリーンズで活躍した千葉県八日市場市(現・匝瑳市)出身、銚子商業高校卒業のプロ野球選手。愛称は、ウーやん1980年代の中日ファンに最も愛された選手の一人であり、また、中日ファン以外からも人気があった。

目次

[編集] 経歴

千葉県の強豪・銚子商業のショートを守っていた時、中日ドラゴンズのスカウトが甲子園で三遊間の深い位置に転がったゴロをさばいて強肩で打者走者を刺した守備力を評価してドラフトで指名したという話がある。同じ学年の神奈川・東海大相模の原辰徳三塁手から電話で『東海大学で三遊間を組もう』と誘われたが、家が豊かでなかった宇野は、原より先にプロで金を稼がせてもらおうという理由と「あんな人気者と一緒にやるんじゃ、活躍してもちっとも目立たないから面白くない」と思いプロへ進む。中日ドラゴンズの誘いを受けて高校からプロ入りに踏み切ったと言われる。守備位置は、内野手ショートサードセカンド)・外野手レフト)。長距離打者で、1984年本塁打王のタイトルも獲得して、ベストナインにも選出されている(その他に1982年1987年)。ただし、三振の多い打者であった。自身の1シーズン最多本塁打は、41本塁打で、遊撃手のシーズン本塁打としては最高である。また、中日時代に打った334本塁打も球団史上最多記録となっている。

成績もさることながら、あまりにも宇野ヘディング事件の印象が強く、現在まで続く「珍プレー好プレー」の番組誕生となる礎を作ったともいえる点で、ある意味プロ野球のバラエティー化に高く貢献したといえる。なお、このプレーにより宇野は守備がひどく下手な印象をもたれるが、実際には特に下手ということもなかった。

全盛期には、8月に調子を上げてホームランを量産することからファンやマスコミから「ミスターオーガスト」と呼ばれた。全盛期の打順は長距離打者らしく5番が定位置であった。

2007年にペナントレース2位ながらもクライマックス・シリーズで出場権を得た同年の日本シリーズで日本一(及びアジア一)になるまでは、1982年の日本シリーズ1988年の日本シリーズに選手として、2004年の日本シリーズ2006年の日本シリーズにコーチとして4度とも中日側から出場しているがいずれのシリーズも敗退して涙を呑んできた。尚、1988年に出場した日本シリーズでは敢闘選手賞を受賞している。

2009年度より再びメ~テレ東海ラジオ放送のプロ野球解説者として、落合監督就任時からコーチとしてチームに在籍した経験を活かした解説を行っている。また新たに日刊スポーツのプロ野球解説者活動する。

[編集] 略歴

[編集] エピソード

  • 一般的に遊撃手は守備での負担が大きいと言われるが、宇野の場合三塁手や外野手として出場すると逆に打撃不振になることが多かった。
  • 1982年4月24日大洋戦(横浜)ではユニフォームを忘れたため、背番号77を付けていた飯田幸夫コーチから借りて試合に出場した(宇野の背番号は7)。相手チームの野次の中、宇野はその試合でホームランを放つ。後に、宇野は2003年に打撃コーチとして中日復帰した際に、その背番号77を付けている。
  • 1984年5月5日大洋戦(横浜)でライトのエラーで出塁したものの、一塁走者の大島康徳を追い抜いてアウトになるという珍プレーをやらかし、やはり年末の『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』に大きく取り上げられることとなった。但しこれに関しては、打球を追い続けて走り出そうとしなかった大島のミスであったという説もある。それでもこれは宇野の珍プレーとして、特に前述のヘディングと共に、フジテレビ系の番組でみのもんたのナレーションで放送されることが多く、フジ系のゲストに呼ばれる事が多い。
  • 1984年に阪神の掛布雅之と共に本塁打王を獲得している。この年の129試合目、最終戦は阪神戦であったが、両軍投手による掛布、宇野の敬遠合戦の末、両者が本塁打王を獲得した。129試合目の7回裏2死満塁で打席が回ってきた際にも歩かされている。但し捕手が中腰で捕球したため敬遠とはならなかった。
  • ヘディング事件の後、本人は好珍プレーで毎回のごとく紹介されるのを嫌がっている(その一方で『他人の珍プレーは面白い』とも発言している)が、著書『ヘディング男のハチャメチャ人生』では「(ヘディングは)やって良かった。感謝している」と書いている。著書は現在絶版である。
  • ヘディング事件ばかりがクローズアップされがちであるが、成功率の低い盗塁を度々敢行していることも宇野の特異さの象徴となっている。78盗塁に対しなんと96の盗塁死を数えている。
  • 1988年のオールスター後の放映された日本テレビ系の珍プレー番組に出演した際に、自身のヘディング事件の映像を見て「忘れてましたね」とコメントした。
  • 本塁打王獲得の翌年(1985年)に前夫人と離婚したが、その原因は前夫人の浪費によるものだった。給料を球団管理に置くなどしたが、結局離婚の際、それらの借金(約8000万円といわれる)を宇野は全て自分で引き受けたが、前夫人の悪口は一言も口にしなかった。心労もあってかこの1986年の成績は不振だったが、星野監督が就任した翌1987年には30本塁打と見事に復活している。後に中部日本放送(CBC)の女子アナウンサーだった現夫人と再婚している。
  • 1992年、シーズン前の目標を聞かれ、「3割、30本、3盗塁」とテレビカメラの前で宣言したが、その年のオフに千葉ロッテにトレードされた。
  • ロッテ時代、先発投手の吉田篤史が打球を受けてベンチで手当てを受けている間、ショートの守備位置を離れマウンドで投球練習を開始。これを見た日ハムの小川浩一が打席に入り、宇野の投じた球を打ち返した。打球は両手を広げた右翼手・マックス・ベナブルの頭上を越えて行き、場内が笑いに包まれる中(ただし観客席は満員には程遠かった)、苦笑を浮かべた宇野は膝をついていた。
  • 落合博満と打撃の話で何度も徹夜したという。落合は打撃に関して宇野をかなり信頼しており、監督就任時真っ先に打撃コーチとして声をかけている。
  • 2004年の落合監督初優勝の翌日川崎憲次郎の引退試合で、1回終了後、川崎の胴上げを中日、ヤクルトの両チーム選手がしようとしたとき、コーチでは宇野のみが飛び出し、しばらくしてから気づいてベンチへ戻っていった。珍プレーで登場するクラスのネタと思われるが、珍プレーでの映像の放映は確認されていない。
  • 現在ナゴヤドームの試合終了後、ベンチからスタンドへサインボールを投げ入れるサービスをしており、ファンを大事にする一面もうかがえる。また、1度だけだが、井上一樹のグラブを一塁側スタンドに投げるふりも見せた。
  • 中日時代はシーズン30本塁打を何度も記録し、何度もベストナインに選ばれたにもかかわらず、当時のセの遊撃手には他にも人気・実力を兼ね備えた遊撃手が数多くいたため(例として山下大輔高橋慶彦川相昌弘池山隆寛など)、オールスターにはなかなか出場出来なかった。逆にロッテ移籍後には、どん底の成績にもかかわらずファン投票で選ばれたことがある。
  • また、前述の理由によりゴールデングラブ賞は一度も受賞できなかった。しかし「宇野=珍プレー」のイメージが植えつけられているせいか、「宇野のゴールデングラブ賞」が「タブラン」(田淵幸一のランニングホームラン)と同じ意味(滅多にないことの例え)で使われたこともある(最近では、類似した意味として「森野将彦のベストナイン(或いは森野のゴールデングラブ賞)」といわれるケースがあるが、これは守備力云々ではなく、森野の正守備位置が一定しておらず、投票がポジション毎に分かれてしまうため)。
  • 応援歌は「ウルトラセブン」のウルトラ警備隊のテーマであった(ウルトラセブンの主題歌は既に石毛宏典に使われていた)。
  • 日米野球に非常に強く、4試合出場して5本塁打を放っている。さらに1試合2本塁打を2回記録しており、これは日米野球で1試合2本塁打を達成した5名(宇野の他に川上哲治王貞治江藤慎一松井稼頭央)の中では4回を記録している王に次ぐ記録である。

[編集] 現在出演の番組

[編集] 過去に出演の番組

[編集] 著書

  • 『ヘディング男のハチャメチャ人生』(海越出版社,1986年1月)ISBN 4-906203-31-0

[編集]

  • ビクトリー(1984年4月1日発売、メインボーカルは細川たかし
原辰徳岡田彰布高橋慶彦遠藤一彦荒木大輔と共にコーラス参加。

[編集] 年度別成績

  • 表中の太字はリーグ最多数字
年度 チーム 背番号



































1977年 中日 43 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
1978年 26 48 6 10 2 0 3 21 7 1 0 1 0 6 14 1 .208 4
1979年 7 122 359 42 95 14 2 12 149 37 4 8 5 2 29 74 4 .265 25
1980年 121 408 40 100 22 0 12 158 44 3 7 9 0 27 71 10 .245(29) 27
1981年 128 429 62 121 18 3 25 220 70 6 7 12 5 29 85 8 .282(16) 19
1982年 125 446 57 117 15 0 30 222 69 4 8 1 2 32 91 8 .262(29) 26
1983年 129 457 71 123 21 2 27 229 64 9 7 4 3 52 97 9 .269(29) 19
1984年 130 458 74 116 8 0 37 235 87 13 7 7 5 61 117 14 .253(33) 27
1985年 130 486 82 133 17 2 41 277 91 5 6 2 4 58 98 14 .274(28) 25
1986年 83 308 31 65 10 0 10 105 26 7 8 1 2 29 71 7 .211 11
1987年 130 471 72 127 20 0 30 237 80 9 10 0 2 61 75 21 .270(24) 19
1988年 130 465 68 129 28 0 18 211 76 8 12 3 6 54 78 15 .277(15) 20
1989年 119 437 66 133 22 0 25 230 68 2 7 6 5 40 82 15 .304(6) 17
1990年 119 454 66 131 22 0 27 234 78 4 2 1 2 53 105 14 .289(15) 5
1991年 125 428 56 102 18 3 26 204 74 2 3 2 3 45 112 11 .238(28) 13
1992年 110 335 32 80 8 1 11 123 52 1 4 0 1 42 86 5 .239 11
1993年 ロッテ 2 59 166 12 30 3 1 3 44 9 0 0 2 1 16 43 1 .181 2
1994年 49 14 33 3 8 1 0 1 12 4 0 0 1 0 4 7 0 .242 0
通算成績 1802 6188 840 1620 249 14 338 2911 936 78 96 57 43 638 1306 157 .262 270

[編集] タイトル・表彰・記録

  • 本塁打王:1回 (1984年)
  • ベストナイン:3回 (1982年、1984年、1987年)
  • オールスターゲーム選出:3回 (1987年、1989年、1993年)
  • 10試合連続打点 (1984年8月2日~8月14日)
  • 10打席連続四球 (1984年10月3日~10月5日)
  • 23試合連続三振 (1991年6月9日~7月14日)
  • 初出場 1977年7月29日ヤクルト戦(ナゴヤ)
  • 初安打 1978年6月1日ヤクルト戦(静岡) 松岡弘から
  • 初本塁打 1978年9月26日阪神戦(ナゴヤ) 谷村智啓から

[編集] 関連項目

先代:
山本浩二
大島康徳
セ・リーグ本塁打王
1984
掛布雅之
次代:
ランディ・バース