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== 来歴・人物 ==
== 来歴・人物 ==
[[鹿児島県]][[出水市|出水町]]出身。[[1942年]][[熊本大学|旧制熊本高等工業学校]]採鉱冶金科を卒業。[[ジャパンエナジー|日本鉱業]]に就職するが、1年後に召集される。[[1951年]]に出水町議に当選。[[1963年]]鹿児島県議当選を経て、[[1974年]]、[[第10回参議院議員通常選挙]]に[[鹿児島県選挙区]]から出馬し初当選。連続当選5回。自民党内では[[田中角栄]]派→[[二階堂進]]グループを経て、二階堂グループ解散後は[[竹下登]]→[[小渕恵三]]→[[橋本龍太郎]]派に所属。[[1989年]]6月、[[宇野内閣]]の[[北海道開発庁長官]]兼[[沖縄開発庁長官]]として初入閣。しかし宇野内閣が超短命政権となったため、わずか2ヶ月しか長官を務められなかった。自民党参議院議員会長を務めた後、一時[[参議院議長]]候補に擬せられたが、党内事情で就任は流れた。こうした一連の不運さに同情が集まり、通常参院議員の入閣は一回のみで離任したら再入閣はないというのが通例であるなか、温情派の[[小渕恵三]]の配慮により[[1998年]]7月、[[小渕内閣]]で再び北海道開発庁長官兼沖縄開発庁長官に就任(10月からは[[国土庁長官]]も兼任)。翌年の1月まで務めた。[[1999年]]、[[勲一等旭日大綬章]]受章
[[鹿児島県]][[出水市|出水町]]出身。[[1942年]][[熊本大学|旧制熊本高等工業学校]]採鉱冶金科を卒業。[[ジャパンエナジー|日本鉱業]]に就職するが、1年後に召集される。[[1951年]]に出水町議に当選。[[1963年]]鹿児島県議当選を経て、[[1974年]]、[[第10回参議院議員通常選挙]]に[[鹿児島県選挙区]]から出馬し初当選。連続当選5回。自民党内では[[田中角栄]]派→[[二階堂進]]グループを経て、二階堂グループ解散後は[[竹下登]]→[[小渕恵三]]→[[橋本龍太郎]]派に所属。


[[1989年]]6月、[[宇野内閣]]の[[北海道開発庁長官]]兼[[沖縄開発庁長官]]として初入閣。しかし宇野内閣が超短命政権となったため、わずか2ヶ月しか長官を務められなかった。自民党参議院議員会長を務めた後、一時[[参議院議長]]候補に擬せられたが、党内事情で就任は流れた。こうした一連の不運さに同情が集まり、通常参院議員の入閣は一回のみで離任したら再入閣はないというのが通例であるなか、温情派の[[小渕恵三]]の配慮により[[1998年]]7月、[[小渕内閣]]で再び北海道開発庁長官兼沖縄開発庁長官に就任(10月からは[[国土庁長官]]も兼任)。翌年の1月まで務めた。[[1999年]]、[[勲一等旭日大綬章]]受章。
2003年10月24日、[[心不全]]のため鹿児島県[[出水市]]の病院で死去。の選挙に不出馬を表明していたが、在職中の逝去となった。

議員在職中の2003年10月24日、[[心不全]]のため鹿児島県[[出水市]]の病院で死去。同年[[第43回衆議院議員総選挙]]不出馬を表明していた。


== 創政会設立と井上 ==
== 創政会設立と井上 ==
[[創政会]]設立にあたって、井上にも声がかかり、最初の会合に参加した。しかし井上は、「二階堂さんに借りがあるので」として次回からの参加を見送った。だが井上は創政会に関する情報を一切他言しなかったため、創政会のメンバーから大変に感謝された。このことが後に2回目の入閣へとつながったとする見方もある。
[[創政会]]設立にあたって、井上にも声がかかった。最初の会合に参加した、「二階堂さんに借りがあるので」として次回からの参加を見送った。創政会に関する情報を一切他言しなかったため、創政会のメンバーから大変に感謝された。このことが後に2回目の入閣へとつながったとする見方もある{{誰2|date=2012年7月}}


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2012年7月12日 (木) 00:50時点における版

井上 吉夫(いのうえ きちお、1923年3月1日 - 2003年10月24日)は、日本の政治家。元自由民主党参議院議員

来歴・人物

鹿児島県出水町出身。1942年旧制熊本高等工業学校採鉱冶金科を卒業。日本鉱業に就職するが、1年後に召集される。1951年に出水町議に当選。1963年鹿児島県議当選を経て、1974年第10回参議院議員通常選挙鹿児島県選挙区から出馬し初当選。連続当選5回。自民党内では田中角栄派→二階堂進グループを経て、二階堂グループ解散後は竹下登小渕恵三橋本龍太郎派に所属。

1989年6月、宇野内閣北海道開発庁長官沖縄開発庁長官として初入閣。しかし宇野内閣が超短命政権となったため、わずか2ヶ月しか長官を務められなかった。自民党参議院議員会長を務めた後、一時参議院議長候補に擬せられたが、党内事情で就任は流れた。こうした一連の不運さに同情が集まり、通常参院議員の入閣は一回のみで離任したら再入閣はないというのが通例であるなか、温情派の小渕恵三の配慮により1998年7月、小渕内閣で再び北海道開発庁長官兼沖縄開発庁長官に就任(10月からは国土庁長官も兼任)。翌年の1月まで務めた。1999年勲一等旭日大綬章受章。

議員在職中の2003年10月24日、心不全のため鹿児島県出水市の病院で死去。同年の第43回衆議院議員総選挙には不出馬を表明していた。

創政会設立と井上

創政会設立にあたって、井上にも声がかかった。最初の会合に参加した後、「二階堂さんに借りがあるので」として次回からの参加を見送った。創政会に関する情報を一切他言しなかったため、創政会のメンバーから大変に感謝された。このことが後に2回目の入閣へとつながったとする見方もある[誰によって?]

公職
先代
柳澤伯夫
日本の旗 国土庁長官
第32代:1998年 - 1999年
次代
関谷勝嗣
先代
坂元親男
鈴木宗男
日本の旗 北海道開発庁長官
第52代:1989年
第67代:1998年 - 1999年
次代
阿部文男
川崎二郎
先代
坂元親男
鈴木宗男
日本の旗 沖縄開発庁長官
第21代:1989年
第36代:1998年 - 1999年
次代
阿部文男
野中広務
議会
先代
遠藤要
日本の旗 参議院予算委員長
1993年 - 1994年
次代
坂野重信
先代
青井政美
日本の旗 参議院農林水産委員長
1980年 - 1981年
次代
坂元親男
先代
伊集院忠雄
鹿児島県議会副議長
1973年 - 1974年
次代
小里貞利
党職
先代
坂野重信
自由民主党参議院議員会長
第21代 : 1997年 - 1998年
次代
井上裕