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横山昭二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
よこやま しょうじ

横山 昭二
生誕 (1927-12-18) 1927年12月18日
日本の旗 日本 東京府深川区
(現:東京都江東区深川
死没 2007年1-8月(満79歳没)
住居 大阪府河内長野市
別名 横弁
出身校 中央大学(中退)
職業 炭坑夫、検察官、弁護士
団体 大阪弁護士会(除名)
著名な実績 麻原彰晃の弁護
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横山 昭二(よこやま しょうじ、1927年12月18日 - 2007年1月以降、同年8月以前)は、日本検察官弁護士。1995年6月に麻原彰晃の弁護人となったことで特異なキャラクターや発言が注目され、横弁(よこべん)の愛称で一躍、時の人となる。1996年大阪弁護士会から除名処分を受け弁護士を廃業した後は、歴史を研究しながら余生を送った。

経歴

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東京府深川区(現:東京都江東区深川)生まれ。炭坑夫を経て、中央大学法学部二部に入学するも後に中退。大学中退後は肉体労働に従事しながら、30歳のときに司法試験に合格。司法修習13期を修了。同期に麻原彰晃の裁判の一審の国選弁護団団長の渡辺脩、麻原の当初の初公判前に横山に対する懲戒請求をした当時の日本弁護士連合会副会長・大阪弁護士会会長の上原洋允、オウム真理教宗教法人解散請求時の東京地検検事正の飛田清弘[1]がいる。1961年検察官任官。検察官を退官した後は弁護士に転じる。三代目山口組若頭山本健一の弁護人のほか、暴力団員の弁護も多数していた[2][3]

弁護した暴力団員の紹介を受けたオウム真理教偽装脱会信者の依頼で[3]、一連のオウム真理教事件において教祖の麻原彰晃の私選弁護人を1995年6月9日から務めた[4]。当時の日弁連会長土屋公献の、横山一人で弁護することに対する批判には「麻原が6月6日に起訴される前に、地元の東京の弁護士が一人も付かないでおって、今さら何を言う」と反論した[2]。弁護料は月150万円[5]。初公判の前日の10月25日に松本知子から麻原の弁護人に選任された弁護士野崎研二が接見した直後に麻原により解任されるが、10月27日に再任される(野崎は「横山を辞めさせることに関しては確信犯だった」と述べ、有田芳生は「上祐史浩は野崎に横山を何とかしたいと相談していた」と述べている[6])(山際永三は「野崎弁護士にオウム弁護を持ちかけたのは自分で、横山解任には役割を果たしてくれた」と述べている[7])。

10月には債務整理放置疑惑の件で、上原洋允から懲戒請求をされ、10月22日には横山を乗せたオウム信者が運転する車が交通事故を起こして(運転していたのは、福岡高等裁判所の書記官・事務官併せて16年勤務した信者[8])、横山が負傷して2週間の予定で入院したり(病院にマスコミが大挙して押しかけ入院した日の夜にすぐ退院、このことで、オウム本部と対立[9])、退院した翌日、書証の同意不同意について、当時のオウムの法務部長だった吉岡毅と対立[10][11]、11月10日、福岡地裁に9名が[12]、同月17日には同地裁小倉支部に6名が[13]、債務整理の預託金の返還請求の訴訟を起こし(後に全て和解が成立)、12月2日に麻原により再び解任された[14]。12月21日には『週刊現代』に掲載された麻原の自白供述調書を流出させた秘密漏洩容疑で東京地方検察庁に自宅マンションが家宅捜索され、事情聴取も受ける[15](麻原は12月22日告訴したが25日に取り下げた[16]。自白供述調書について、検察庁警視庁は公式に存在を否定していた[17]。この件で東京地検は1996年1月12日に大阪弁護士会に横山の懲戒請求をした[18])。

これらの過程で、横山の独特のキャラクターはマスメディアの注目を集め、連日連夜報道機関から追い回された。弁護士廃業後一時期はバラエティ番組への出演も頻繁に行っていた。

1996年6月13日、横山は麻原の自白供述調書を『週刊現代』に掲載させたことや、受任した債務整理放置疑惑のため、大阪弁護士会から除名の懲戒処分を受け、弁護士を廃業した。その後は大阪府河内長野市で、かねてから関心のあった歴史(世界史)を研究しながら余生を送った。また弁護士廃業後も、何度かテレビ番組に出演している。

2006年7月18日肺癌を患い闘病中であるとメディアの取材で明かした[19]。同年春先、別の病気で診察を受けた際に判明、余命宣告も出されて体力的にもたないと本人は延命治療を拒否してホスピスに入ろうともしたが、家族が抗がん剤による治療を勧め、本人も承諾することになった[19]。転移はなく、治療の結果、危機的な状態からは脱し、その後は自らが「敗訴した裁判を担当した検事や裁判官の悪行を、実名で告発する」というテーマで本を執筆中だったという[19]。同年暮れには自宅で闘病を続けていたが食が細くなって臥せっており、取材も一切シャットアウト状態だった[20]

写真週刊誌『FLASH』2007年8月21・28日号(同年8月7日発売)の特集「人権派弁護士100人名鑑」の中で麻原の弁護人として紹介され、「故人」と表記、同年1月から8月までの間に79歳で死去していたとみられる[21][22]

人物

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苦労して弁護士になっただけに人情家であったが、その一方頑固一徹で偏屈なところがあった。

「私は有能な弁護士であるという自信があります」「事務所にある法律関係の本は六法です」と公言[4]

ヘビースモーカーで、いつも両切りのピースをくわえているのがトレードマークであった。甘いもの好きで、阿佐谷の喫茶店でオレンジジュースをおいしそうに飲む姿が数回テレビ放映された。一方、歯磨きが嫌いで、虫歯のためほとんど歯がなかったとされる(弁護士廃業後のテレビ出演では、入れ歯をしていた)。ベレー帽ネクタイなしのシャツに背広の上着、ショルダーバックが定番であり、独特のキャラクターや風貌により、オウム事件後の知名度は急上昇した。

2004年2005年の『年越しロンドンハーツ』に特別出演し、マスコミに揉みくちゃにされる自虐ネタを自ら買って出て演じた。なお2回とも出演はこのシーンのみである。

オウム真理教事件

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1995年5月16日の麻原逮捕の後、6月9日、弁護人不在の麻原と接見し、麻原から選任され私選弁護人となる。なお、安田好弘によると、横山以外にずっと麻原に接見することが可能な弁護士がいたとのことである[23]。当時はオウム真理教の幹部が連日連夜報道番組などに出演して芸能人のような扱いを受けており、横山も同様の扱いを受けた。

横山は、その独特の雰囲気やしゃべり方から「横弁」のあだ名がつくほどの人気を得た。しかし、日を経るごとに、債務整理で依頼者から受け取った金をサラ金業者に支払わなかった疑惑が取り沙汰され、これに関することでもマスコミに追い回されることとなった。 マスコミに対し、当初は「や、や、やめてくださ〜い」と当惑しながらも冷静で丁寧な対応をしていたが、やがてそのあまりのしつこさに怒りをあらわにするようになった。その際の「この〜、大馬鹿者が!」「バカモンっ!」「もう~、やめてえっ!」などの発言は、タモリ志村けん岡村隆史坂崎幸之助加藤茶などに物真似された。

弁護士資格取り消しの経緯

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麻原の私選弁護人就任後、横山には自白供述調書の『週刊現代』への掲載は犯罪であるとか、弁護士費用の着服などの疑惑が連日マスコミに取り沙汰され、被害者300人以上、弁護士法違反や横領で逮捕も近いと連日報道された。一度目の解任から再任されるまでの間に、裁判所の判断により国選弁護人がつけられ、再任後は私選弁護人の横山と国選弁護人がつけられたままの異例の事態に発展する。なお当初より、国選弁護団の氏名は匿名希望とされ、報道各社も団長の渡辺脩、副団長の大崎康博[24]、主任弁護人の安田好弘(逮捕後)、三島浩司(途中から)[25][26][27][28]以外は一切明らかにしていない(三島については2001年に公安調査庁のスパイであることが発覚したがなんら問題にならず、麻原の弁護人を判決まで続けた)。

国選弁護人は初公判の日時をめぐり、裁判所と激しく対立する。そのとき、早く公判を開きたい裁判所側は、国選弁護人と意見の合わない横山に注目し、横山を麻原の主任弁護人にすることを画策するが、国選弁護人らにより阻止された[23]

その後12月2日横山は私選弁護人を再び解任される。さらに受任した9名の債務整理放置、サラ金業者との提携、週刊誌の取材を受け、再解任後、麻原の承諾なしに知り得た事実について公開し、謝礼を受け取った、公判が始まる前に、週刊誌に麻原の自白供述調書を麻原の承諾なしに掲載することを承諾し渡し、謝礼を受け取ったとして、1996年6月13日、大阪弁護士会から除名処分を受けた[29]。1997年12月13日、弁護士法第17条3号により弁護士資格を失った[30]

名誉毀損訴訟

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大阪弁護士会に所属する弁護士山之内幸夫が「横山弁護士は大阪弁護士会2000人のうち2001番目の弁護士だ」「弁護士の範疇に入らんヤツ」「あいつの左手小指が欠損しているのはやくざの女に手を出して、詰めさせられたからだ」などとワイドショーや雑誌で発言し名誉を毀損したとして、山之内を相手に民事訴訟を起こした。1審では敗訴したが、2審で勝訴し、30万円の損害賠償請求が認められた。

写真週刊誌の『FLASH』も横山が大阪弁護士会で2001番目の弁護士だという記事を掲載し、名誉毀損だとの横山の訴えを大阪府警察が受理し、『FLASH』編集者を1日7時間、2日にわたって取り調べをした[31]

他方で、弁護士浜辺陽一郎が「こうしたボケたような弁護士」と記載したことに対して、浜辺と出版社の三省堂を提訴した事件では、一審では勝訴したものの、二審の東京高等裁判所では、「多くの一般国民が共通して抱いていた印象だと認められる」として逆転敗訴した[32]

著書

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  • 『大馬鹿者 私の話を聞きなさい』(ディ・エス・シー、1996年)ISBN 4795240280

脚注

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  1. ^ “【東京地検・東京都】オウム真理教の解散を東京地裁に請求”. 共同通信 (共同通信社). (1995年6月30日) 
  2. ^ a b “麻原教祖押しかけ弁護士の評判”. 週刊朝日 (朝日新聞出版): p.35. (1995年12月16日号). 
  3. ^ a b “激論120分!横山昭二を河上和雄が尋問する”. 週刊現代 (講談社): pp.34-35. (1995年12月16日号). 
  4. ^ a b 元木昌彦 (2006). 週刊誌編集長 週刊現代・フライデー・Web現代編集長が明かす、スキャンダル、事件報道現場の3300日. 展望社. p. 43 
  5. ^ 元木(2006)、p.45
  6. ^ “麻原に翻弄された裁判はいくら強行しても「来年二月」”. 週刊新潮 (新潮社): pp.47-48. (1995年11月9日号). 
  7. ^ 山際永三 (n.d.). “安田さんへの弾圧とオウム問題”. オウム裁判所前対策協議会. 2020年3月4日閲覧。
  8. ^ 横山昭二 (1996). 大馬鹿者 私の話を聞きなさい. ディ・エス・シー. p. 72 
  9. ^ 横山(1996)、p.90
  10. ^ 横山(1996)、p.92
  11. ^ 滝本太郎 (2006年4月20日). “「脱会したが弁護ですか、ほー、ったくまあ、明記せざるを得ないではないか。」”. 『日常生活を愛する人は?』-某弁護士日記. 2006年4月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月27日閲覧。
  12. ^ 読売新聞 (読売新聞社). (1995年11月11日) 
  13. ^ 毎日新聞 (毎日新聞社). (1995年11月17日) 
  14. ^ 佐木隆三 (2001). 裁かれる家族 断たれた絆を法廷でみつめて. 東京書籍. pp. 82-83 
  15. ^ 元木(2006)、p.57
  16. ^ “麻原被告告訴取り下げる 横山弁護士の調書漏えい”. 産経新聞 (産経新聞社). (1995年12月27日) 
  17. ^ “麻原彰晃被告の「自白調書」全文一挙公開”. 週刊現代 (講談社). (1995年1月1日・6日合併号). 
  18. ^ 産経新聞 (産経新聞社). (1996年1月13日) 
  19. ^ a b c “横山元弁護士、肺がん告白…オウム麻原被告初代弁護士が闘病生活”. スポーツ報知 (報知新聞社). (2006年7月19日). オリジナルの2006年7月21日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20060721005513/http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20060719-OHT1T00007.htm 2024年6月27日閲覧。 
  20. ^ “麻原彰晃の元弁護人、横山元弁護士の現在”. アメーバニュース (サイバーエージェント). (2006年12月27日). オリジナルの2006年12月31日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20061231124252/http://news.ameba.jp/2006/12/2456.php 2024年6月27日閲覧。 
  21. ^ “人権派弁護士100人名鑑”. FLASH (光文社). (2007年8月21・28日号). 
  22. ^ “「もう、やめて〜」オウム横山弁護士 あの“狡猾”さは本物”. 東京スポーツ (東京スポーツ新聞社). (2016年12月1日). https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/154034 2024年6月27日閲覧。 
  23. ^ a b 安田好弘 (2008). 死刑弁護人. 講談社+α文庫. p. 339 
  24. ^ “弁護団の「控訴するよ」に松本被告答えず 閉廷後に接見”. 朝日新聞 (朝日新聞社). (2004年2月27日). http://www.asahi.com/special/matsumoto/TKY200402270286.html 2024年6月27日閲覧。 
  25. ^ 救援連絡センター三島に対して見解表明”. 2020年3月7日閲覧。
  26. ^ 小野田襄二、小野田猛史、三島浩司および宮崎学が関与した公安調査庁スパイ事件に対する革共同の態度と闘いのアピール”. 2020年6月19日閲覧。
  27. ^ 「宮崎問題」をめぐる革マル派の動き”. 2020年8月17日閲覧。
  28. ^ 断末魔のスパイの巣窟=残存ブクロ派を打ち砕け”. 2020年8月17日閲覧。
  29. ^ 『自由と正義』47巻8号。
  30. ^ “弁護士名簿登録・登録換・登録取消”. 官報 (大蔵省印刷局): p. 20. (1998年2月18日) 
  31. ^ 元木昌彦 (2009). 週刊誌は死なず. 朝日新聞出版. p. 34 
  32. ^ 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 25. (1997年7月19日)