栃東大裕

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栃東大裕
基礎情報
四股名 栃東 大裕
本名 志賀 太祐
愛称 トッチー
生年月日 (1976-11-09) 1976年11月9日(47歳)
出身 東京都足立区
身長 180cm
体重 155kg
所属部屋 玉ノ井部屋
得意技 押し、右四つ、寄り
成績
現在の番付 引退
最高位大関
生涯戦歴 560勝317敗169休(75場所)
幕内戦歴 483勝296敗166休(63場所)
優勝 幕内最高優勝3回
十両優勝1回
幕下優勝1回
三段目優勝1回
序二段優勝1回
序ノ口優勝1回
殊勲賞3回、敢闘賞2回、技能賞7回
データ
初土俵 1994年11月場所
入幕 1996年11月場所
引退 2007年3月場所(番付上では同年5月場所)
引退後 玉ノ井部屋師匠
趣味 ゴルフ
備考
金星4個(1個、貴乃花2個、武蔵丸1個)
2009年9月3日現在

栃東 大裕(とちあずま だいすけ、1976年(昭和51年)11月9日 - )は、東京都足立区出身(出生地は東京都墨田区)で玉ノ井部屋所属の元大相撲力士。現在は年寄・14代玉ノ井。最高位は東大関、現役時代の体格は身長180cm、体重155kg。得意手は、おっつけハズ押し、叩き、いなし、右四つ、寄り、上手出し投げ。本名は志賀太祐(しが だいすけ)、血液型はA型、星座蠍座趣味は若い頃はラジコン、大関昇進後はゴルフ

来歴

26連勝で各段優勝

13代玉ノ井親方関脇栃東)の次男として、東京都墨田区に生まれる。小学生時代は野球に熱中し、原辰徳選手(巨人)から贈られたサイン入りのグローブが当時の宝物であった。小学校6年生の時に相撲に転向し、明大中野中学校に進学して相撲部に入部した。

父には高校横綱になることを角界入りの条件にされ、明大中野高校3年生の時に見事高校横綱に輝き、高校在学中の1994年(平成6年)11月場所に父が師匠の玉ノ井部屋に入門して本名の志賀の四股名初土俵を踏んだ。序ノ口場所前の稽古で膝を痛め1995年(平成7年)1月場所は前半を休場したが、8日目の4番相撲から出場して残り4番を全勝してこの場所を4勝0敗3休とした。そこから快進撃が始り、同年3月場所は序ノ口7戦全勝優勝、同年5月場所は序二段7戦全勝優勝、同年7月場所は三段目7戦全勝優勝、幕下に昇進した同年9月場所の1番相撲の白星まで26連勝を飾った。

この9月場所は3勝4敗に終わり入門以来初めて負け越したが、同年11月場所は幕下7戦全勝優勝、1996年(平成8年)1月場所では幕下3枚目で5勝2敗、同年3月場所では幕下2枚目で5勝2敗と好成績をおさめ、同年5月場所には初土俵からわずか所要8場所で十両に昇進するとともに、父の四股名でもあった栃東に改名した。十両でも同年5月場所は10勝5敗、同年7月場所は10勝5敗、同年9月場所は初日から10連勝と波にのり12勝3敗で十両優勝を果たし、同年11月場所には早くも新入幕を果たした。序ノ口から十両まで全ての段で優勝をしたのは、史上3人目であった。

入幕後は早くから「大関候補」として期待を集め、新入幕の11月場所では初日から5連勝をするなど10勝5敗の好成績をおさめて敢闘賞を受賞した。翌1997年(平成9年)7月場所にはわずか入幕5場所で新三役に昇進して新小結で技能賞を獲得、同年9月場所は新関脇で10勝の2ケタを上げて連続技能賞を受賞した。いなしてから左右からのおっつけ、前廻しを引いてからの出し投げなど、その取り口はベテラン力士から若手らしく正面からぶつかってこないのでやり辛いと言われるほど技が多彩であった。

大関への挑戦

しかし、ここから栃東の苦闘が始まる。東関脇と番付を上げた1997年11月場所では右足捻挫で負け越し、翌1998年(平成10年)3月場所は右肩剥離骨折のため6日目から途中休場、翌5月場所も公傷休場。この剥離骨折が重症で、関脇復帰まで約1年半を要することになった。2000年(平成12年)7月場所は関脇連続5場所目となり、12勝3敗の準優勝という好成績をおさめて5回目の技能賞を受賞した。待ちに待った大関挑戦場所となった同年9月場所は、右肩関節脱臼のため6日目から途中休場、翌11月場所も公傷休場、度重なる怪我に泣いた。

公傷明けの2001年(平成13年)1月場所は、10勝を上げて翌場所には早くも三役に復帰した。同年3月場所は小結で9勝として3回目の殊勲賞、同年7月場所は関脇で10勝と6回目の技能賞を獲得した。同年9月場所は12勝の準優勝と完全復帰したが、立ち合いからの注文相撲が4番もあったため三賞候補から外れてしまった。しかし、2回目の大関挑戦場所となった同年11月場所では、それまで何回も批判を浴びてきた立ち合い変化を一度も見せることなく初日から7連勝、12勝3敗で連続準優勝、7回目の技能賞(三賞受賞12回目)を獲得するとともに、念願の大関昇進を決めたのであった。怪我の影響もあってなかなか大関昇進を果たせず、入幕から大関昇進までは5年の歳月を要した。

大関昇進後

新大関の2002年(平成14年)1月場所では初日から11連勝、13勝2敗で初の幕内最高優勝を果たし、一躍「横綱候補」へと躍り出た。しかしチャンスを生かせず、その後はもともと体が硬いためもあってか怪我を多発して、それにより大関から2回も関脇へ陥落する屈辱も味わった。しかし2回とも10勝以上の成績をあげて、1場所で大関に返り咲きを果たした。2012年(平成24年)現在で、大関に2度返り咲いた力士は栃東ただ一人である。

若い頃から稽古の鬼であったが、硬い筋肉をつける稽古のしすぎで故障を招いているため、稽古量を抑えたらどうかと指摘を受けた。そのため体を休ませながら稽古をするとともに大相撲に適した柔らかい筋肉に肉体改造をしたことが功を奏し、2006年(平成18年)1月場所では13場所ぶり3度目の幕内最高優勝を果たした。なお、この栃東の優勝を最後に同年3月場所以降、日本出身力士の幕内最高優勝は一人も出ていない(いわゆる「ウィンブルドン現象」と言われる)。

横綱昇進を期待された同年3月場所では、序盤における下位力士への取りこぼしがたたり優勝を逃し横綱昇進が見送られた。ただし、終盤に大関昇進が確実な関脇・白鵬や優勝した横綱・朝青龍を本割の土俵で破っての12勝3敗という内容が評価されて、翌5月場所に横綱昇進の可能性を残した。3月場所中に足を痛めてしまい、5月場所では更に怪我が悪化して左膝半月板損傷により休場に追い込まれた。3代若乃花以来8年ぶりの日本人横綱の誕生を多くの相撲ファンに期待され、また当時全盛を誇っていた朝青龍に唯一まともに渡り合える日本人力士だったため、横綱審議委員会も「13勝なら昇進させても良いし、12勝でも優勝なら検討する価値はある」とかなり甘めの昇進基準を提示していたが、それに応えることはできなかった。

怪我の多発と脳梗塞で引退

2006年(平成18年)7月場所は、綱取りから一転自身7度目の角番となった。それでも初日から7連勝、給金相撲となった8日目は対戦相手の露鵬が前日の取組後にカメラマンに暴行事件を起こしたため3日間の出場停止となり、幸運にも不戦勝により勝ち越して角番を脱した。しかし9日目からは元気がなくなり、8連勝の後7連敗という珍しい記録を残し、さらに11日目の横綱・朝青龍との取組で土俵を強打し負傷してしまった。

翌9月場所は、痛めた膝の影響で初日から3連敗であったが、その後は何とか持ち直し9勝6敗で勝ち越した。次の11月場所では、9日目まで8勝1敗と朝青龍を追う一番手として期待されたが、10日目に出島との取組で古傷の膝を強打、さらに親指を剥離骨折して心配されたが、同年3月場所以来の10勝を記録した。しかし場所後も膝の状態は思わしくなく、12月20日内視鏡を用いた左膝のクリーニング手術(軟骨の除去及び半月板の一部切除)を行った。

2007年(平成19年)1月場所は、手術後2日目には退院して一週間後には稽古も再開したが、膝に違和感が残っており十分な稽古が積めない状態という出場が微妙な状況な中、感覚を取り戻すためと強行出場した。しかしながら膝の踏ん張りが効かず、初日は琴奨菊、2日目は露鵬にあっという間に寄り切られた。更には中日から4連敗するなど体の切れも悪く、13日目に負け越しが決まった。大関の地位での皆勤負け越しは、2003年(平成15年)7月場所以来自身2度目であった。

8度目の角番となった次の3月場所は、場所前「5日目までに2勝できなければ、その時点で引退する」という意向を明らかにしてファンを心配させたが、初日から7連勝し10日目に勝ち越して角番を脱出した。しかし、場所途中から高血圧や頭痛に悩まされ、11日目の朝青龍戦(結果的にこれが栃東の現役最後の一番となる)の取組後、翌12日目には途中休場して急遽入院した。父・玉ノ井親方は会見で「クモ膜下出血の疑いもあって心配だ」とコメントし、容態が気遣われた。

この時点の診断では、過去に起こした脳梗塞の跡が発見されたが、それ以外には脳に異常は見られなかった。そこで、血圧を下げる投薬療法により一旦は回復して退院した。その後栃東本人曰く「辞めるなんて一言も言っていない」と語っていたが、3月場所後の巡業は大事をとって土俵入りだけの参加となった。同年4月26日には脳を含めた内臓などの精密検査を受けるため再入院し、同年5月場所は休場することが濃厚になっていた。そして検査の結果、医者から「このまま相撲を取り続けたら脳梗塞を再発させるどころか、生命にも危険が及ぶ」と宣告され、これ以上現役を続行するのは不可能と診断された。本人は最後まで現役への意欲を見せたものの、やはり病気には勝てず、同年5月7日に引退を正式に発表した。[1]

現役引退後

現役引退後は、年寄・栃東を襲名して玉ノ井部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たった(大関は引退後3年間、現役時の四股名のまま年寄として協会に残留することができるが、1997年(平成9年)5月の制度改正以来、大関として初めてその特権を利用した)。引退相撲断髪式は、2008年(平成20年)2月2日に両国国技館で行われた。

父であり師匠でもある13代玉ノ井親方が2009年(平成21年)9月2日に停年(定年)退職となったため、翌9月3日付で年寄・14代玉ノ井を襲名するとともに玉ノ井部屋を継承した。

2012年1月、日本相撲協会副理事に当選し事業部副部長、広報部副部長、警備本部副部長に就任した。

取り口

多彩な技を持ち、特に頭を下げながら脇を締めて相手を押し上げる左右のおっつけは栃東の代名詞だった。前廻しを引いてからの上手出し投げやタイミングの良いいなし、廻しを切るのも得意。このように技能派力士として素質は非常に高い一方で立ち合いの変化を使用することがあり、それがイメージを悪くさせることもあった。

元横綱朝青龍に10勝15敗、横綱白鵬に5勝8敗(そのうち2敗は不戦敗)、琴欧洲に5勝6敗、安馬(現日馬富士)に5勝1敗と外国人力士にもかなり対抗出来ており、中でも当時全盛期を誇っていた横綱朝青龍にまともに戦える唯一の日本人力士であり、横綱昇進の期待も高かったが、怪我が多いことも影響してチャンスを活かせず実現は出来なかった。

略歴

  • 1976年(昭和51年) - 元関脇・栃東の次男として生まれる
  • 1994年(平成6年)11月場所 - 初土俵、四股名は本名の志賀太祐
  • 1995年(平成7年)3月場所 - 7戦全勝で序ノ口優勝
  • 1995年5月場所 - 7戦全勝で序二段優勝
  • 1995年7月場所 - 7戦全勝で三段目優勝
  • 1995年9月場所 - 幕下昇進、3勝4敗で初土俵以来初の負け越し
  • 1995年11月場所 - 7戦全勝で幕下優勝
  • 1996年5月場所 - 新十両、改め栃東大裕
  • 1996年9月場所 - 西十両3枚目で12勝3敗の十両優勝
  • 1996年11月場所 - 新入幕、10勝5敗の好成績で初の三賞である殊勲賞受賞
  • 1997年(平成9年)7月場所 - 新小結
  • 1997年9月場所 - 新関脇
  • 1998年(平成10年)3月場所 - 右肩剥離骨折のため6日目から途中休場、翌場所も公傷休場
  • 2000年(平成12年)9月場所 - 右肩関節脱臼のため6日目から途中休場、翌場所も公傷休場
  • 2001年(平成13年)11月場所 - 12勝3敗の直近3場所合計34勝で大関昇進を果す
  • 2002年1月場所 - 初の幕内最高優勝(羽黒山以来、史上2人目の序ノ口、序二段、三段目、幕下、十両の全段優勝)、新大関の優勝は清國以来7人目で、若貴兄弟に続く親子幕内最高優勝でもある。
  • 2002年7月場所 - 左上腕骨裂離骨折のため5日目から途中休場、翌場所も公傷休場
  • 2002年11月場所 - 初の角番
  • 2003年(平成15年)1月場所 - 左肩関節脱臼のため6日目から途中休場、翌場所も公傷休場
  • 2003年5月場所 - 2度目の角番
  • 2003年7月場所 - 15日間皆勤するも負け越し(7勝8敗)
  • 2003年9月場所 - 3度目の角番
  • 2003年11月場所 - 2度目の幕内最高優勝(13勝2敗)
  • 2004年(平成16年)3月場所 - 左肩骨折のため3日目から途中休場
  • 2004年5月場所 - 4度目の角番は全休で大関陥落
  • 2004年7月場所 - 関脇、10勝を挙げ大関復帰を果す
  • 2004年9月場所 - 大関復帰、3日目の旭天鵬戦に幕内では初となるつきひざで敗れた際に右膝半月板を損傷し4日目から途中休場
  • 2004年11月場所 - 5度目の角番は左肩骨折のため6日目から途中休場で2度目の大関陥落
  • 2005年(平成17年)1月場所 - 関脇、11勝を挙げ2度目の大関復帰を果す。現行の大関復帰制度で、関脇陥落場所での11勝以上と2度目の大関復帰は共に史上初
  • 2005年11月場所 - 3日目の雅山戦に敗れた際に右わき腹を痛め4日目から途中休場
  • 2006年1月場所 - 6度目の角番は14勝1敗の好成績で13場所ぶり3度目の幕内最高優勝
  • 2006年3月場所 - 綱取り場所に失敗するも12勝を挙げ、次場所へその夢を繋ぐ
  • 2006年5月場所 - 2日目の朝赤龍戦で左膝半月板を損傷し7日目から途中休場
  • 2006年7月場所 - 7度目の角番
  • 2007年1月場所 - 怪我を押しての出場。15日間皆勤するも負け越し(5勝10敗)
  • 2007年3月場所 - 8度目の角番。10日目に角番を脱出するも、12日目からは高血圧により途中休場
  • 2007年5月7日 - 引退を正式発表。年寄栃東を襲名。
  • 2009年9月3日 - 年寄:14代玉ノ井を襲名。玉ノ井部屋師匠を継承。
  • 2012年1月30日 - 日本相撲協会副理事に立候補し、無投票当選。

主な成績

記録

  • 通算成績:560勝317敗169休(75場所) 勝率.639
  • 幕内成績:483勝296敗166休(63場所) 勝率.620
  • 大関在位:30場所(番付上は31場所)
  • 三役在位:22場所(関脇17場所、小結5場所)
  • 幕内在位:63場所(番付上は64場所)
  • 通算(幕内)連続勝ち越し記録:9場所(2001年1月場所~2002年5月場所)
  • 幕内2桁連続勝利記録:6場所(2001年7月場所~2002年5月場所)
  • 連勝記録:26(1995年1月場所8日日~1995年9月場所2日目・序ノ口→幕下時代)
  • 各段優勝
    • 幕内最高優勝:3回(2002年1月場所、2003年11月場所、2006年1月場所)
    • 十両優勝:1回(1996年9月場所)
    • 幕下優勝:1回(1995年11月場所)
    • 三段目優勝:1回(1995年7月場所)
    • 序二段優勝:1回(1995年5月場所)
    • 序ノ口優勝:1回(1995年3月場所)
  • 三賞:12回
    • 殊勲賞:3回(1998年1月場所、1999年9月場所、2001年3月場所)
    • 敢闘賞:2回(1996年11月場所、1997年5月場所)
    • 技能賞:7回(1997年7月場所、1997年9月場所、1998年11月場所、1999年11月場所、2000年7月場所、2001年7月場所、2001年11月場所)
  • 金星:4個(1個、貴乃花2個、武蔵丸1個)

場所別成績

栃東大裕[2]


一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1994年
(平成6年)
x x x x x (前相撲)
1995年
(平成7年)
西序ノ口47枚目
4–0–3 
東序ノ口3枚目
優勝
7–0
東序二段20枚目
優勝
7–0
東三段目32枚目
優勝
7–0
東幕下23枚目
3–4 
西幕下31枚目
優勝
7–0
1996年
(平成8年)
西幕下3枚目
5–2 
東幕下2枚目
5–2 
東十両12枚目
10–5 
東十両6枚目
10–5 
西十両3枚目
優勝
12–3
西前頭15枚目
10–5
1997年
(平成9年)
西前頭10枚目
9–6 
西前頭4枚目
6–9 
東前頭6枚目
11–4
西小結2
9–6
西関脇
10–5
東関脇
7–8 
1998年
(平成10年)
西関脇
11–4
東関脇
2–4–9[3][4] 
西前頭5枚目
休場[5]
0–0–15
西前頭5枚目
8–7
西前頭筆頭
8–7 
東前頭筆頭
10–5
1999年
(平成11年)
西小結
9–6 
東小結
8–7 
東小結
10–5 
東関脇
6–9 
東前頭筆頭
10–5
西関脇
10–5
2000年
(平成12年)
西関脇
8–7 
西関脇2
8–7 
西関脇
9–6 
西関脇
12–3
東関脇
2–4–9[3][6] 
西前頭4枚目
休場[5]
0–0–15
2001年
(平成13年)
西前頭4枚目
10–5 
東小結
9–6
西関脇
9–6 
東関脇
10–5
東関脇
12–3 
東関脇
12–3
2002年
(平成14年)
西大関2
13–2[7] 
東大関
10–5 
西大関
10–5 
東大関2
3–2–10[3][8] 
西大関
休場[5]
0–0–15
東大関3
8–7[9] 
2003年
(平成15年)
東大関2
0–6–9[3][10] 
西大関
休場[5]
0–0–15
西大関2
8–7[9] 
西大関2
7–8 
西大関2
10–5[9] 
西大関
13–2 
2004年
(平成16年)
東大関
9–6 
東大関2
0–3–12[3][11] 
西大関2
休場[9]
0–0–15
西関脇2
10–5[12] 
西大関2
2–2–11[13][3][14] 
西大関2
3–3–9[9][3][15] 
2005年
(平成17年)
西関脇2
11–4[16] 
西大関2
10–5[17] 
西大関
12–3 
東大関
9–6 
西大関
10–5 
東大関
2–2–11[3][18] 
2006年
(平成18年)
東大関2
14–1[9] 
東大関
12–3 
東大関
2–5–8[3][19] 
西大関3
8–7[9] 
西大関3
9–6 
東大関2
10–5 
2007年
(平成19年)
西大関
5–10 
西大関3
8–4–3[9][3][20] 
西大関2
引退
––[21]
x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)


主な力士との幕内対戦成績

力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数
敷島 5 0 魁皇 13(1) 22(1) 琴欧洲 5 6
肥後ノ海 5 2 千代大海 18 16(1) 露鵬 6(1) 2
旭鷲山 16 5(1) 若の里 14 10 普天王 2 1
玉春日 9 2 闘牙 12(1) 1 琴奨菊 3 2
琴龍 6 2 雅山 19 16(1) 時天空 3 2(1)
琴ノ若 14 4 旭天鵬 15 10 安馬 5 1
貴闘力 15 4 和歌乃山 4 1 稀勢の里 5 0
武蔵丸 8 16 隆乃若 3 4
貴ノ浪 14 16(1) 高見盛 7 3
貴乃花 5 16 時津海 4 1
4 9 琴光喜 10 14(1)
土佐ノ海 18 16 玉乃島 17 1
琴錦 7 5 朝青龍 10 15
武双山 18 7 安美錦 4 3
安芸乃島 13 6 北勝力 5 2
小城錦 4 1 岩木山 9 3
旭豊 4 1 朝赤龍 2 1
若乃花 4 8 黒海 10 2
出島 25 9 白鵬 5 8(2)
栃乃洋 21 4 垣添 7 1

(カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。太字は、2012年3月場所終了現在現役の力士)

エピソード

  • 相撲を始めたきっかけは、小学生のころ、野球をやろうか相撲をやろうか迷い、相撲をとったといわれている。野球は玉ノ井部屋の草野球チームのレギュラー。また、元プロ野球監督の土橋正幸星野仙一とは幼い頃から親交があり、星野からは大関昇進時に化粧回しが贈られている。
  • 2000年3月場所5日目、横綱若乃花(現実業家タレント・花田勝)が土俵上で最後に対戦した相手となる。また2人は奇しくも、同じ明大中野高校の先輩後輩という親しい間柄でもあった。この日、栃東に押し出しで敗れた後に現役引退を表明した若乃花は、「栃東は強くなったなあ。」と言っていたという。また勝った栃東も「これで若乃花関は引退するんだな、と思っていました。最後の対戦相手になれて、とても光栄です」と語っている。
  • 序ノ口から幕内までの各段で優勝している。これは横綱羽黒山以来2人目となる快挙である。
  • 第68代元横綱・朝青龍には比較的相性が良く、生涯成績は10勝15敗だった。最後は栃東が万全の状態で無いこともあって5連敗で終わるも、一時期は勝ち越していた。朝青龍自身も「最も苦手な相手は栃東」と語っている。対朝青龍戦10勝は、白鵬(13勝)、魁皇(12勝)に次ぐ3番目の勝ち星。そのうち2番を得意の上手出し投げで朝青龍を破った。
  • しかし朝青龍は度重なるトラブルに責任を取って、2010年(平成22年)1月場所後の2月4日に突如引退を表明。玉ノ井親方はこの事に関し「あれだけの横綱はいない。闘争心と柔軟な体が凄かった。まだまだ出来る事を(1月場所の)優勝で証明したばかりなのに、こんな形で辞めてしまうのはとても悔しいし、寂しい」と無念さをにじませていた。
  • CM出演が多い。CMデビュー作は日立マクセルのDVDメディアのCM。その中で、父親である先代栃東清國を破って優勝を決める一番の映像が流れた。CMのなかでは、「あのときの親父と今の自分、どっちが強いのか…」というセリフを話していた。また、キリンビバレッジのCMにも出演していた。さらに最近では、福山雅治、大関千代大海とともにサントリーダイエット<生>のCMにも出演している。公共広告として地元沿線となる 日暮里・舎人ライナーにも起用されている。
  • 松任谷由実とも親交があり、2003年1月場所では松任谷由実が化粧廻し(デザインは2003年2月5日発売の松任谷由実のシングル『雪月花』をあしらったもの。デザインの詳細)をプレゼントした。
  • 2006年1月23日朝、公式ブログを開設した。普天王と並び、ブログ力士としても有名であるが、2007年3月場所に途中休場してからは病気療養中により更新が一旦途切れていた。4月29日、久々に栃東本人による更新となり「『引退』報道に正直困惑していますが、今後については5月7日に発表します」という記載に留まるも、その5月7日には「ファンの皆さまへ」と題し、記者会見に先立ち引退を発表した。
  • 当時の部屋の女将で、太祐の母親・志賀千夏は、で師匠の玉ノ井親方(志賀駿男)が2009年9月に定年を迎える頃まで、息子の太祐には現役でいて欲しいと切に願っていた。それだけに、引退を決意した息子に対して「もう少し頑張れないの?」と問い質したものの、太祐が「今は相撲より命が大事。もう少し長生きさせて下さいよ!」と反論すると、千夏は涙を流してそれ以上は何も言えなかった、という。
    • ちなみに、栃東は母方の家系に高血圧の遺伝要素があり、それが脳梗塞発症の引き金のひとつになったとみられることを、2007年3月場所中の入院の際に親方が明かしている。
  • 断髪式の土俵上でTUBE前田亘輝が「傷だらけのhero」を熱唱。その前田の隣で聴いていた栃東は、感極まって涙を流し続けていた。
  • 親方としてのメディア“初仕事”は、2007年5月場所7日目(5月20日)のNHKテレビ大相撲中継で中入り後の特別解説者として出演。また「サンデースポーツ」でも、自らの引退について語るとともに、その日注目の取組を丁寧に解説した。
  • 引退した際にはまだ独身だったため、“部屋継承”に際し“女将さん不在”の状態になるのではと心配する声もあり、両親・関係者らの尽力で2009年の初場所後に結婚。不安は解消された。
    • 将来部屋持ちの親方になることを目指している場合は、大抵現役のうちに結婚し、妻は早い段階から“女将さん”になるべく修行するのが一般的であるため、妻が結婚即女将さん(この場合は若女将であるが)となった栃東のケースは非常に珍しい。
  • 趣味はラジコンカー。20歳の頃に、球界きってのラジコン通である山本昌がプロスポーツとホビーを両立させている姿をTVで見て、感銘を受けて本格的に始めたと言う。玉ノ井部屋でサーキットを借り切ってレースを行う事もある。(タミヤニュース2007年1月号で紹介されている)
  • 同じ大関としてライバルだった魁皇(現・浅香山親方)とは幕内で35回対戦し、栃東の13勝22敗(栃東・魁皇共に1つ不戦勝)。2007月5月場所直前、栃東の病気による現役断念に魁皇は「まさか俺より早く引退するとは思わなかった」とショックだったという。それから約4年大関を務めた魁皇だが、2011年(平成23年)7月場所限りで引退した事に関し、玉ノ井親方は「ここ数場所は体力の限界を感じたが、最後に通算最多勝記録(1047勝)を作った事は偉大だ。ここまで長く現役を続けたのも素晴らしい。気持ちの優しい力士だった」とコメントしていた。

改名歴

  • 志賀 大祐(しが だいすけ)1994年11月場所 - 1996年3月場所
  • 栃東 大裕(とちあずま だいすけ)1996年5月場所 - 2007年5月場所

年寄変遷

  • 栃東 大裕(とちあずま だいすけ)2007年5月 - 2009年9月
  • 玉ノ井 太祐(たまのい だいすけ) 2009年9月 -

脚注

  1. ^ 公式ブログでの発表
  2. ^ Rikishi in Juryo and Makunouchi” (English). szumo.hu. 2008年5月22日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j 途中休場
  4. ^ 右肩関節後方亜脱臼に伴う肩関節剥離骨折
  5. ^ a b c d 公傷
  6. ^ 右肩鎖関節脱臼
  7. ^ 千代大海と優勝決定戦
  8. ^ 左上腕骨小結節裂離骨折・左肩甲下筋停止部損傷
  9. ^ a b c d e f g h 角番(全8回)
  10. ^ 左肩関節脱臼
  11. ^ 左肩肩峰骨折
  12. ^ 関脇陥落
  13. ^ 大関特例復帰
  14. ^ 右膝内側側副靱帯及び右膝半月板損傷
  15. ^ 左肩甲骨骨折
  16. ^ 関脇再陥落
  17. ^ 大関特例再復帰
  18. ^ 右前鋸筋挫傷
  19. ^ 左膝半月板損傷・左膝PCL損傷
  20. ^ 高血圧
  21. ^ 5月場所直前に引退を表明

関連項目

外部リンク