南スーダン
- 南スーダン共和国
- Republic of South Sudan
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(国旗) (国章) - 国の標語:Justice, Liberty, Prosperity
(英語: 正義、自由、繁栄) - 国歌:South Sudan Oyee!
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公用語 英語 首都 ジュバ 最大の都市 ジュバ 通貨 南スーダン・ポンド(SSP) 時間帯 UTC+3 (DST:不明)UTC (+3) ISO 3166-1 SS / SSD ccTLD .ss 国際電話番号 211 - 面積は帰属未定のカフィア・キンギ地区とアビエイ地区を除き,イレミ・トライアングルを全て含む。人口はこれらの帰属未定地域を全て含む。帰属未定地域を全て含んだ面積は644,329平方キロ。
南スーダン共和国(みなみスーダンきょうわこく)、通称南スーダンは、北アフリカに位置する国家。北にスーダン、東にエチオピア、南東にケニア、ウガンダ、南西にコンゴ民主共和国、西に中央アフリカと国境を接する内陸国である。
2011年7月9日に、スーダン共和国の南部10州が、アフリカ大陸54番目の国家として分離独立した[1]。
概要
2011年7月8日までは、スーダン領でありながら南部スーダン自治政府の統治下にあった。これは、2005年1月9日にケニアのナイバシャで結ばれた第二次スーダン内戦の包括的な暫定和平合意により、スーダン政府から自治を認められたためである。
2011年、分離独立の是非を問う住民投票が実施され、分離独立票が圧倒的多数(98.83%)を占めた。新国名は「南スーダン共和国(英:The Republic of South Sudan)[2]」になった。過去には、「アザニア」「ナイル共和国」「クシュ」などの候補が挙がっていたが、「南スーダン」となる可能性が高かったとされた[3][4]。
2011年7月13日には国連安保理決議1999により国際連合総会に対し国際連合への加盟が勧告され、翌日の総会にて加盟が承認され193番目の加盟国となった[5]。さらに、AU(アフリカ連合)の54番目の加盟国となった。またイギリス連邦に加盟を申請中である[6]。東アフリカ共同体にもケニアとルワンダの協力で加盟予定で[7]、アラブ連盟への加盟も予定されている。
歴史
かつて南部の黒人達はアラブ系やダルフール(バール・エル・ガザル)などの奴隷商人によって奴隷売買されていた。1821年にスーダンの北部はエジプトが、南部は1877年にイギリスが占領した。1898年にイギリスとエジプトによる共同統治(アングロ・エジプト・スーダン)が始まった。南部を支配していたイギリスはその南部のウガンダとの統合を望んだが、1947年のジュバ会議での合意により南北スーダンの統合が決められた。
1955年に南部で反乱が起き、第一次スーダン内戦が起きた。1956年にスーダン共和国として北部と南部が統一して独立したが、北部の政治的・経済的支配に南部の住民は不満を抱いていた。1972年にアディス・アベバ合意により南部に制限付き自治権が与えられ、将来の南部の分離独立を問う住民投票も認められ、南北の内戦は一時終結した。
1974年にシェブロンが油田を発見し、その多くが南部に分布していた。民族イスラム戦線の圧力も受け、1983年にモハメド・アン=ヌメイリ政権は南部の自治権や将来の分離独立の住民投票を取り止め、イスラム法シャリーアを導入してイスラム勢力の取り込みを図り、また石油資源の独占を図り、南部の3つの州をそれぞれ分割した。そのためキリスト教徒も多い南部などで反乱が起こり、南部最大の民族であるディンカ人の出身のジョン・ガラン大佐を中心としたスーダン人民解放軍/運動 (SPLA/M) が北部の政権に対して反乱を起こし、第二次スーダン内戦が起きた。政権が交替しても内戦が続き、1989年にオマル・アル=バシールが政権を握るとイスラム政権に反対する政治勢力を抑圧し、SPLAを始めとする南部の反政府組織に対する戦争を拡大していった。
南部での内戦は激化していったが、2002年にケニアで南北の和平交渉が成立し、2005年1月9日には南北包括和平合意 (CPA) が署名された。南部は行政上の自治を6年間与えられ、そして北部で適用されているイスラム法シャリーアも南部で適用しない事となった。さらに2011年1月にはスーダンの一部として北部と統一するのか分離独立するのかを決める住民投票も南部で行うこととなった。また2010年1月20日、スーダンのバシール大統領は、南部スーダンの大統領サルバ・キール・マヤルディも出席したヤンビオで開催の南北の内戦終結5周年を祝う式典にて、「住民が選択(分離独立を)した場合にはスーダン政府は南部の独立を承認する」と発言した。南部の住民は独立志向が強く、2011年1月の住民投票では予想されたとおり分離独立を選択した。しかし、南部の石油の利権や、同時にディンカ人のンゴック氏族の先住地アビエイの帰属も問われることとなった。 2011年7月9日に、スーダンから分離独立した。新政府を形成するSPLM(スーダン人民解放軍)は元来軍事組織。
住民投票
政治
主な政党はスーダン人民解放運動 (SPLM) で、ジョン・ガランが結成した。2011年現在の大統領はサルバ・キール・マヤルディ。
外交と軍事
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2011年11月3日、青ナイル州クルムクの「スーダン人民解放運動・北」(SPLM・N)[8]の拠点がスーダン政府軍に攻撃された。同州での武力紛争は同年9月から続いており、約2万8700人の難民がエチオピアに脱出した(国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)による)。SPLM・Nは11月2日、北スーダンの南コルドファン州タロディ周辺で、政府軍と激しい戦闘が続いていることを明らかにした。13日には、英国の援助団体オックスファム[9]が上ナイル州からスタッフが撤退した。
政情が不安定なため、国際連合平和維持活動として国際連合南スーダン派遣団が派遣されている。医療や教育、インフラ整備や農業など、その支援分野は多岐に渡る。
スーダンとの国境紛争は激化している。2012年4月、南スーダン軍が、スーダンのコルドファンにあるヘグリグ油田を占拠し、4月12日には、スーダン軍が南スーダンの都市を空爆し、死傷者が発生するなどしている。国際連合安全保障理事会は、全面的な戦争に発展する恐れがあることから、両国に即時停戦を強く求めている[10]。2012年4月16日にはスーダン国民会議は、南スーダンを敵とみなす決議を採択した。2012年4月18日には、スーダンのオマル・アル=バシール大統領が、南スーダンを同国与党のスーダン人民解放運動から解放すると宣言している[11]。
地方行政区分
10州からなり、それらは歴史的に3つの地方に大別される。10の州は86の地区に細分化される。(括弧内は州都)
- バハル・アル・ガザール地方
- 北バハル・アル・ガザール州: (アウェル)
- 西バハル・アル・ガザール州: (ワーウ)
- レイク州: (ルンベク)
- ワラブ州: (クアジョク)
- エクアトリア地方
- 上ナイル地方
独立後のアビエイ地域の帰属問題や、ケニアやエチオピアも領有を主張しているイレミ・トライアングル地域の帰属問題がある。現在スーダン共和国が南ダルフール州の一部として実効支配しているカフィア=キンギ地域は、1960年に西バハル・アル・ガザール州から南ダルフール州に移管されたため、1956年の境界線を南北国境とする南北包括和平合意(CPA)によれば南スーダンに移譲されるべき地域であるが、現在のところ最終的な帰属は未定である。
主要都市
首都となるのはジュバで、他にルンベク(南部スーダン自治政府時代の首都だった)、ワーウ、アウェルなどの都市が人口10万を超える。ジュバが南過ぎることと再開発が難しいことから首都を中央部のレイク州ラムシールに移す予定。
地理
内陸国で、北にスーダンがあり、東はエチオピア、南はケニア・ウガンダ・コンゴ民主共和国、西は中央アフリカと国境を接する。北西はダルフール。スーダンとの国境線は長さ1,937kmに達し、エチオピアとの国境線がそれに次いで883kmである。最高地点は南部のイマトング山地にあるキニエティ山 (標高3187m)である。
首都のジュバを初め、国内には白ナイル川(バハル・アル=ジャバル川と呼ばれる)が流れ、それが形成した大湿地帯のスッドがある。南下するほど雨量が増えていき、熱帯雨林やサバナの地域もあり、世界第二の多様な野生動物の宝庫となっている。水系としては国土を白ナイル川がほぼ南北に貫き、スッドにて西からのガザル川(ダルフール南部からのアラブ川と、南西部から流れてくるジュル川を合わせている)と、東から流れてくるソバト川を合わせる。特にソバト川は雨季の流量が増大するが、スッドは酷暑のまっ平らな低地であり、ここが蒸発皿の役目を果たすため、ここ以北を流れるナイル川は流量が半減する。ここの流量を増やし、北部で利用できる水資源を増やすために、スーダン領時代にスッドをショートカットするジョングレイ運河が計画されたが、蒸発量減による気候の乾燥化の懸念[12]や自然破壊などの理由により工事は中止された。
経済
南部の経済は内戦により荒廃し、特にインフラの整備が進んでいない。 1人当たりのGDPは1200ドルであり、ガーナとほぼ同額で、ケニアよりずっと多いが、その98%は石油によるものであるので、実際の庶民の生活は決して裕福ではない。一部の富裕層が裕福な暮らしを営み、物価をつりあげ、庶民の生活を圧迫している。通貨の最小単位は1SSP(South Sudan Pound)=約30円であった。[1]その後、2011年10月19日に5、10、25、50ピアストルの各補助紙幣が導入されている。 [13] スーダン全体における石油資源の80%が南部スーダンに集中する[14]ため、石油経済に将来性があると言われているが、パイプラインや石油精製技術をスーダンに握られており、独立前は石油(ガソリンなどの製油)供給を停止することで深刻なガソリン不足に陥っている。スーダンと南スーダンとの石油の利益配分交渉の際に、スーダンへの配分を有利に進めるためとも言われている[15]。天然資源としては他に鉄鉱石、銅、雲母、タングステン、亜鉛なども産出する。農産物としては綿花、ピーナッツ、サトウモロコシ、雑穀、アラビアガム、キャッサバ、サトウキビ、マンゴー、パパイア、コムギ、サツマイモなどがある。木材は主要輸出品でアフリカ最大のチークのプランテーションもある。
2011年現在、アメリカと中国などを中心に道路などのインフラや教育面などの援助が行われている。日本は最大部族になるディンカ族以外にも幅広い援助を行っている[15]。
交通
内戦の影響でインフラは殆ど進んでいない。道路も未整備が多い。独立前の状況は、舗装道路は国内で約60km、ナイル川にかかる橋は1本しかない[14]。
スーダン国境からワーウまで248kmの鉄道が延びている。単線で軌間1,067mmの狭軌である。ワーウからジュバへの延伸計画がある。ウガンダとケニアからジュバまでの鉄道計画もある。
空港としてはジュバ空港があり、南スーダンのフィーダー航空(Feeder Airlines)の拠点となっている。ジュバ空港からは近隣国の首都へは定期便がある。他の地方に国内線も幾つかある。しかし空港も滑走路の未整備など、まだ問題が多い。2012年の時点で、ジュバ空港には大型機の離着陸ができないので、建設用の重機は近隣国から(困難な)陸路で運ばれる。
国民
民族・宗教
アニミズムの伝統宗教とキリスト教を信仰するアフリカ在来の諸民族が多数を占める。北部スーダンでイスラームを信仰するアラブ人が多数を占めているのとは対照的である。この信仰の違いは、南スーダンの独立運動が過激化した理由の一つでもある。
民族構成はディンカ人が最も多く、約100万人。他にもシルック人やヌエル人などのナイル系の民族がいる。西部はアザンデ人とジュチャル人、南部からウガンダにアチョリ人やロツフ人がいる。南スーダンは、ナイル系の民族が国家の主流派を占める初の独立国家である。例えば、ウガンダやケニア等も、ナイル系の民族が国民の一部分を占め、かつ国の指導者がナイル系の民族から誕生したことはあったが、国家の主流を占める民族はあくまでバンツー系の民族である。
イスラームを信仰する民族はカリギ人Kaligi(17000人)、インドリ人Indri(1300人)、バンダトグボ人Banda Togbo(2300人)以上、アダマワ・ウバンギ語族、アジャ人Aja(300人)、ドンゴトノ人Dongotono(1100人)以上シャリ・ナイル語族、ンジャルグルグレ人Njalgulugule(2200人)マバ語族など、きわめて少数の民族である。南スーダンは周辺諸国と比較しても例外的にムスリムの人口比率が極めて低い。
言語
イギリス統治時代の影響で英語が公用語であり、教育や北部との取引などで幅広く使われている。ナイル系が多数派であり、母語としてはディンカ語、ヌエル語が主な言語である。共通語として、ピジン言語であるジュバ・アラビア語がジュバ周辺で話されている。
文化
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スポーツ
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著名な出身者
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脚注
- ^ 外務省 各国・地域情勢>アフリカ>南スーダン共和国
- ^ “Transitional Constitution of the Republic of South Sudan, 2011”. Sudan Tribune. 2011年8月3日閲覧。
- ^ 2011年2月7日放送の「きょうの世界」(NHK BS1)での中国中央テレビ (CCTV) の報道より。
- ^ “Let It Remain South Sudan: Citizens”. Gurtong (2011年2月6日). 2011年7月14日閲覧。
- ^ “南スーダンの加盟承認=国連、193カ国に”. 時事通信. (2011年7月14日) 2011年7月15日閲覧。
- ^ “South Sudan Launches Bid to Join Commonwealth”. Talk of Sudan. (2011年7月8日) 2011年7月9日閲覧。
- ^ “South Sudan: Big trading potential for EAC”. IGIHE. (2011年7月8日) 2011年7月9日閲覧。
- ^ 7月に独立した南スーダンの与党・スーダン人民解放運動(SPLM)から分離した組織
- ^ 上ナイル州で6万4千人を対象に清潔な飲料水の供給を行っていた。
- ^ “スーダン全面戦争の恐れ 国連安保理が停戦要求”. テレビ朝日. (2012年4月13日)
- ^ “スーダン大統領が南の「解放」宣言、油田めぐり対立深刻化”. ロイター. (2012年4月19日)
- ^ ミリオーネ全世界事典 第10巻 アフリカI(学習研究社、1980年11月)p279
- ^ Linzmayer, Owen (2012). “South Sudan”. The Banknote Book. San Francisco, CA: www.BanknoteNews.com
- ^ a b 2011年6月20日放送の「時論・公論」(NHK総合テレビジョン)「アフリカ新国家誕生へ ~求められる長期支援」内(リンク先は「解説委員室ブログ」)。
- ^ a b 「独立・南スーダン 問われる国づくり」 2011年7月6日放送NHK総合テレビジョン『クローズアップ現代』より。
参考文献
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関連項目
外部リンク
- 政府
- Government of South Sudan - Official Portal(英語)(南スーダン政府公式サイト)
- 日本政府
- 日本外務省 - 南スーダン (日本語)