アビエイ

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アビエイ (Abyei) はアフリカ大陸北東部の内陸部、コルドファンに存在したディンカ族のンゴック氏族の9つの首長国の領域を境界とするアビエイ地域地名である。スーダンから南スーダンが独立する以前は、スーダンの南コルドファン州英語版南部の地名であった。一方で、スーダンは、州の下位行政区画に「地区」を設け、南コルドファン州の下位にはアビエイ地区英語版と呼ばれる行政区画名を設けている。第二次スーダン内戦包括和平協定英語版 (CPA) におけるアビエイ紛争の解決の取り決めでは、1905年コルドファンに存在したディンカ族のンゴック氏族の9つの首長国の領域を境界とする地域をアビエイ地域と定め[1]、その帰属はアビエイ地域の住民の住民投票により決定されるとした。しかし、どこまでをアビエイ地域の住民と定義するかで、南北スーダンの主張に相違があり、現在もまだ住民投票が行われておらず、アビエイ地域がどちらに帰属するか決定されていない。アビエイ地域はスーダンが実効支配している。なおこのアビエイ地域の南西部にアビエイの町英語版がある。

歴史[編集]

遅くとも18世紀以降アビエイ地域にはディンカのンゴック氏族が暮らしてきた。北東には牛飼いのアラブ系遊牧民ミッセリア英語版が住んでいて年周期でアビエイ地域にもやってきた。記録上当時ミッセリアとンゴックは友好的な関係だった。イギリス=エジプト領スーダンが成立すると当初ミッセリアはコルドファン(北部)に組み込まれ、ンゴックはバハル・エル=ガザル(南部)に組み込まれた。しかし1905年にイギリスはンゴックの9つの首長国をコルドファンに組み入れた[2][3]

両民族の関係も第一次スーダン内戦英語版を通して悪化していった。1965年にはミッセリアのババヌーサで72人のンゴックが虐殺される事件も起きた。これらによりンゴックはアニャニャ英語版に参加し、ミッセリアは北部政府に付いた。1972年のアディスアベバ合意英語版ではアビエイ地域が北部に残るか南部に加わるかの住民投票を行う条項があった。この住民投票は実施されず、ンゴックへの攻撃が続き、第二次内戦に至る上ナイル州での蜂起に繋がった。1975年にシェブロンによりこの地域に油田が発見されると南北境界の油田地帯を北部に組入れるためジャーファル・ヌメイリは地域区分の組替えを始めた[3]

多くのンゴックが反乱軍に加わり、ンゴックの部隊は1983年からの第二次スーダン内戦の反政府軍の中核の一つとなった。早くから参加したンゴックはスーダン人民解放軍 (SPLA) で指導的地位に登り、ジョン・ガランとも関係が深くなった。ミッセリアも北部側で参戦し、ムラフリーンと呼ばれる部隊を結成し、南部の村を襲い人やモノを略奪した[4]。戦争終結までにほとんどのンゴックは戦闘でアビエイ地域から追い出され、ミッセリアが領有の正当化を主張した[2]

原油埋蔵量と生産[編集]

アビエイは大量の炭化水素の累積が見込まれる大地溝帯であるムグラド盆地英語版に位置し、1970年代から油田探査が始まった。1990年代に投資が活発化し、アビエイもその対象となった。2003年までにアビエイはスーダンの原油生産の4分の1以上を占めるようになった。以降の報告ではアビエイの埋蔵量は減少している。主要なパイプラインの一つは、中国資本の中国石油天然気集団公司によって運営されている大ナイル石油パイプライン英語版で、ユニティ油田からヘグリグ油田を経てアビエイを通り、さらにヌバ山地英語版を超えて北部スーダン側に入りハルツームを経て紅海のポートスーダンまでを結んでいる。このインフラは1999年の操業以来好景気が続くスーダンの石油輸出の綱となっている[5][6]

和平協定上の取り決め[編集]

  北部スーダン
アビエイは2011年に南部スーダンへの帰属を問う住民投票を行う

アビエイ地域の地位は包括和平協定における最重要課題の一つであった。最初に調印されたマチャコス協定では南部スーダンの領域は1956年のスーダン独立時のものであった。これには交渉で三地域と呼ばれたSPLAの拠点、アビエイ、ヌバ山地、青ナイルが含まれなかった。SPLAはこの地域に帰属を決める住民投票の権利を認めさせるために数年間を費やした。これはこれらの地域が潜在的に2011年南部スーダン独立住民投票で南部に参加することを意味する。北部政府は三地域はマチャコス協定で北部への帰属を望んだと主張した[7]。これには米国の大統領特使ジョン・ダンフォースも住民投票を含む協定に調印するように圧力をかけた。

アビエイ紛争の解決の取り決めはアビエイ地域を大統領直轄の特別行政地域とした。アビエイ地域に居住しているミッセリアを認定するための住民投票委員会に続いて、領域の正確な境界はアビエイ境界委員会 (ABC) によって決定されることになり、その結果2009年の地方選挙の際に投票することになった。全てのンゴックは伝統的な故郷の住民であると考えられるが、取り決めの細目は実施されていない[8]

2004年12月取り決めの追加条項によりABCは北部から5人、SPLAから5人、政府間開発機構から3人、米英から1人ずつの15人から構成された。ナイロビ大学のゴッドフリー・ムリウキ、アディスアベバ大学のカサフン・ベルハヌ、南部スーダンに関する著書のあるダグラス・ジョンソン、南アフリカの法律家シャドラック・グット、元米駐スーダン大使ドナルド・パターソンの5人の中立な専門家が最終報告書を提出した[2]。ABCは同意された手続きに則りアビエイの町より87kmの北緯10度22分30秒の線を境界に定めた[9]

ABCは2005年7月14日に報告書を大統領に提出したが、政権は拒絶した。月末のジョン・ガランの死で他の議題に押し出されたが、SPLAはアビエイの取り決めの履行を求めた[8]。北部側の合意への抵抗は石油とパイプラインに関する利益の保持を図るためである[10]

北部政権の区分によるアビエイ地区

2007年10月SPLAと北部政権との間の緊張が高まり、SPLAは停滞した問題から一時的に統一政府から離脱した[11]。複数の評論家はCPAは大半が外交圧力で調印されたものだと論じる[12]国際危機グループは「アビエイで起ることはスーダンが平和を固めるか戦争に戻るかを決めるだろう」と声明した[13]

2007年12月以降の暴力[編集]

2007年12月及び2008年1月アビエイ地域でのSPLAとミッセリア戦闘員の間の武力衝突で75人が死亡したと報じられた。分析家は和平を脅かすものだと論じた[14]。ミッセリアの指導者は放牧に悪影響があるから境界画定に反対であると声明した。2008年2月の報道はミッセリアが南北間の道路を封鎖して市民を殺害し、土地の利用を認めるよう脅迫していると報じた[15]

より大きな衝突が3月1日に起りおよそ70人が殺害された。双方が相手側から戦闘が始まったと非難し、専門家は再度和平プロセスの崩壊と内戦の再開に繋がると警告した[16][17]

3月末ヘグリグ油田から20kmの地点で衝突が起き、3人のミッセリア戦闘員の死と数百人の市民の避難が報じられた[18][19]

3月31日には北部から200人以上の兵士が派遣されアビエイの町に入り学校に宿営したことで更に緊張が高まった[20]。この部隊は5月中旬にSPLAと2日間衝突し12人の死亡と25,000人の市民の避難が報じられた[21][22]

5月20日の戦闘でSPLAは戦車と重火器で北部政府軍のアビエイ地域の宿営を攻撃し[23]10人が死亡し町の中心部が焼失した[24]

専門家はアビエイ地域での衝突を南北の和平の文脈で論じ、何人かはミッセリアがハルツームに直接操縦されていないと信じているが、別の観点からは地域での資源に関する論争は容易に外部の力で操られると指摘されている[25]

2011年5月21日、北部政府軍はアビエイ地域に戦車隊を投入、SPLAとの交戦の末にこれを奪取した。[26]

2012年3月、南スーダン軍が油田地帯に侵攻を端緒とした南スーダン・スーダン国境紛争が発生した。

脚註[編集]

  1. ^ "Protocol on the resolution of Abyei conflict", Government of the Republic of Sudan and the Sudan People's Liberation Movement/Army, 26 May 2004 (hosted by reliefweb.int)
  2. ^ a b c "Resolving the Boundary Dispute in Sudan's Abyei Region" by Dorina Bekoe, Kelly Campbell and Nicholas Howenstein, United States Institute of Peace, October 2005
  3. ^ a b "Sudan: Breaking the Abyei Deadlock" (PDF, 456 KiB) , International Crisis Group, 12 October 2007, p. 2
  4. ^ "Sudan: Breaking the Abyei Deadlock", pp. 2-3
  5. ^ APS Review Downstream Trends 2007, 'SUDAN: The oil sector', www.entrepreneur.com, 29 October. Retrieved 5 March 2008.
  6. ^ USAID 2001, 'Sudan: Oil and gas concession holders' (map), University of Texas Library.
  7. ^ "Sudan: Breaking the Abyei Deadlock", p. 3
  8. ^ a b "Sudan: Breaking the Abyei Deadlock", p. 4
  9. ^ "The Abyei Protocol Demystified", Sudan Tribune,11 December 2007
  10. ^ "Sudan: Breaking the Abyei Deadlock", p. 9
  11. ^ "SUDAN: Southern leaders in talks to salvage unity government", IRIN, 18 October 2007
  12. ^ "CPA was doomed; none of the signatories had any conviction" by Zachary Ochieng, The East Africa, 20 October 2007
  13. ^ "Sudan: Breaking the Abyei Deadlock", p. 11
  14. ^ IRIN 2008, 'SUDAN: War of words after scores killed in Abyei', IRIN, 3 March. Retrieved on 4 March 2008.
  15. ^ S. Wheeler, 'Armed Sudanese nomads block key north-south route', Reuters Africa, 12 February 2008. Retrieved on 11 March 2008.
  16. ^ 'Arab nomads dead in Sudan clashes', BBC News, 2 March 2008. Retrieved on 4 March 2008.
  17. ^ Alaa Shahine, 'Sudan nomads clash with ex-rebels, dozens killed', Reuters Alertnet, 2 March. Retrieved on 4 March 2008.
  18. ^ 'Fresh fighting breaks out in Sudan north-south region', Sudan Tribune, 22 March. Retrieved on 22 March 2008.
  19. ^ 'SUDAN: Rising tension in Abyei as clashes displace hundreds', IRIN, 24 March 2008. Retrieved on 25 March 2008.
  20. ^ Skye Wheeler, 'Northern troops enter disputed Sudan oil town', Reuters AlertNet, 2 April. Retrieved on 4 April 2008.
  21. ^ 'Many dead in Sudan clashes', Al Jazeera English, 16 May. Retrieved on 17 May 2008.
  22. ^ 'SUDAN: Abyei town deserted after fresh clashes', IRIN, 16 May 2008. Retrieved on 17 May 2008.
  23. ^ 'Fighting in disputed Sudan town', BBC News, 20 May 2008. Retrieved on 20 May 2008.
  24. ^ 'Tensions flare in central Sudan', BBC News, 24 May 2008. Retrieved on 26 May 2008.
  25. ^ Derek Kilner, 'Clashes on Sudan's North-South border threaten peace deal', Voice of America, 10 March. Retrieved on 10 March 2008.
  26. ^ 'North Sudan takes control key town in Abyei',Reuters,21 May 2011.Retrieved on 21 May 2011.

外部リンク[編集]

座標: 北緯9度35分42秒 東経28度26分10秒 / 北緯9.595度 東経28.436度 / 9.595; 28.436