剣道

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剣道
けんどう
剣道の試合中の鍔迫り合い
剣道の試合中の鍔迫り合い
発生国 日本の旗 日本
発生年 明治大正
源流 剣術
公式サイト 全日本剣道連盟
国際剣道連盟 (FIK)
日本剣道協会
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剣道(けんどう)は、剣術竹刀稽古(撃剣)を競技化した武道

歴史

江戸時代

幕末に外国人カメラマンF・ベアトが撮影

剣道の直接の起源は防具竹刀を使用する打ち込み稽古である。江戸時代中期の正徳年間(1711年 - 1715年)に直心影流長沼国郷が面・小手を製作し、竹刀による打ち込み稽古法を確立した。宝暦年間(1751年 - 1763年)に中西派一刀流中西子武が鉄面・具足式に改良した。防具の発達にともない袋竹刀より強固な割竹刀が作られるようになった。

江戸時代後期から末期には、竹刀打ち中心の道場が興隆し、流派を超えて試合が行われた。幕末の江戸三大道場といわれる鏡新明智流士学館北辰一刀流玄武館神道無念流練兵館や、幕府の設立した講武所が有名である。北辰一刀流の創始者千葉周作は剣術の技を六十八手に分類し、講武所頭取並の男谷信友は竹刀の全長を38と定めた。防具を装着して竹刀で打ち合う稽古は「撃剣」ともいわれた。

この時代の試合は審判規則や競技大会はなく、個人や道場によるものであった。また、10本勝負が通例とされていた。

明治・大正時代

撃剣興行

榊原撃剣会絵図。魁斎芳年

明治維新によって武士の身分が廃止され、帯刀も禁止されたことにより、剣術家は失業した。これらの困窮した剣術家を救済するため、直心影流榊原鍵吉明治6年(1873年)、撃剣興行という剣術見世物を催した。

撃剣興行は物珍しさから満員御礼となり、これに刺激された2代目斎藤弥九郎(斎藤新太郎)や、千葉東一郎、千葉之胤、島村勇雄、渡辺楽之助など他の剣術家も争って撃剣興行を催した。その数は東京府内で37か所に上り、名古屋久留米大阪など全国各地に広まった。

しかしこの人気は庶民の一時的な好奇心にすぎず、やがて人気は下火になっていった。

撃剣興行によって剣術の命脈は保たれたが、客寄せのための派手な動作や異様な掛声などが後の剣道に悪影響を及ぼしたため、功罪があったといわれている。

警視庁剣術

明治21年(1888年)頃の警視庁武術世話掛

明治10年(1877年)、最大の士族反乱西南戦争に従軍した警視庁抜刀隊が活躍し、剣術の価値が見直された。大警視川路利良は『撃剣再興論』を著し、警察で剣術を奨励する意向を明らかにした。

明治12年(1879年)、巡査教習所に道場が設けられ、上田馬之助梶川義正逸見宗助が撃剣世話掛(剣術の指導者)として最初に採用された。その後も真貝忠篤下江秀太郎得能関四郎三橋鑑一郎坂部大作柴田衛守などが採用された。

撃剣興行や地方の剣術家も続々と就職し、明治16年(1883年)には、一道場の師範として通用する警察官の数が二百数十名に達した。

警視庁は警視流木太刀形撃剣級位を定め、向ヶ丘弥生社で全国的規模の撃剣大会を開くなどして、明治前期の剣術のメッカとなった。地方の警察もこれに倣って剣術を奨励し、一般社会の剣術の復興を促した。

大日本武徳会

大日本武徳会本部正門(京都武徳殿

明治28年(1895年)、平安遷都1100年記念や日清戦争の勝利によって日本武術奨励の気運が高まり、大日本武徳会が結成された。総裁小松宮彰仁親王皇族陸軍大将)、会長に渡辺千秋京都府知事)、副会長に壬生基修平安神宮宮司)が就任した。

同年に第1回の武徳祭大演武会(現在の全日本剣道演武大会)が開かれ、優秀な剣客に精錬証が授与された。

大日本武徳会は、流派を超越した統合組織として毎年の大演武会の開催、各府県支部の設立、武徳殿の造営、武術教員養成所(後の武道専門学校)の設立、段位称号(範士教士錬士)の授与、試合審判規則の制定など、現在まで続く剣道の制度を確立し、太平洋戦争敗戦まで剣道の総本山の役割を果たした。

学校剣道

大正9年(1920年)、学校で稽古をしている様子

学校教育に剣道を採用する議論はすでに明治16年(1883年)から行われていたが、「実習の際に多少の危険がある」、「ややもすれば粗暴の気風を養う」、「道具を要し、かつ清潔に保つことが容易ではない」、「各人に監督を要し、一斉に授けがたい」、「武技と体操は似て非なるものである」などの理由で否決されていた。

剣道家の衆議院議員星野仙蔵小沢愛次郎らの請願運動により、明治40年(1907年)衆議院で可決され、明治44年(1911年)に剣道が中等学校正科の体操の一部として実施されるようになった。

剣道教員の養成機関となったのが、武道専門学校(武専)と東京高等師範学校(高師)である。武専教授内藤高治と高師教授高野佐三郎は当時の剣道界に大きな影響力を持ち、「西の内藤、東の高野」といわれた。

従来の個人教授法では多人数の生徒を教えることはできないため、高野佐三郎は集団に一斉に教えるための団体教授法(号令に合わせて集団で動く練習方法)を考案した。また、大日本武徳会は全国から25名の剣道家を選抜し、中等学校での剣道教育のための大日本帝国剣道形(現在の日本剣道形)を制定した。

剣道という名称について

「剣道」という語は江戸時代明治時代にも使用例はある[1]が、多くは「剣術」、「撃剣」とよばれていた。「剣道」の名称が法規上正式に使用されたのは明治44年(1911年)に剣道が中等学校正科の一部として採用されたときで、明治末から大正にかけて「剣道」という名称が定着した。

昭和前期

天覧試合

昭和4年(1929年)、9年(1934年)、15年(1940年)、皇居において盛大に天覧試合が開催され、戦前の剣道界最大の催事となった。

従来の剣道大会は個人ごとの演武試合のみであったが、昭和天覧試合は総当たり戦及びトーナメント戦で優勝者を決めた。この大会はチャンピオンシップとしての剣道の始まりとなった。

戦時中の剣道

第二次世界大戦開戦により、日本は戦時体制に入った。太平洋戦争中の昭和17年(1942年)、政府は大日本武徳会を厚生省文部省陸軍省海軍省内務省の共管とする外郭団体に改組し、国民の士気高揚と戦技訓練のための機関とした。

戦時中の剣道は、戦場での白兵戦を想定して行われ、競技としての剣道とは一線を画したものとなった[2]打突を「斬突」という表現で呼称し、攻撃的な先の技を重視して、軽い打ちや片手技は認めないものとされた。試合は一本勝負が奨励された。

剣道禁止と撓競技の誕生

撓競技
警棒

昭和20年(1945年)、日本が敗戦し、連合国軍(GHQ)に占領された。連合国軍は、大日本武徳会が国家と結びついて戦争遂行に加担したとして、武道を禁止した。

昭和21年(1946年)、大日本武徳会は解散し、関係者1300余名が公職追放された。剣道の組織的活動は禁止され、明治維新についで二度目の危機を迎えた。

昭和25年(1950年)、全日本剣道競技連盟が結成されたが、剣道という名称が問題視され、全日本撓競技連盟と改称した。武道的性格を払拭した「撓競技」というスポーツが生み出され、フェンシングのようにシャツズボン運動靴、軽量の防具を装用して、袋撓で打ち合いポイントを競った。審判員も洋服を着てを持つようになった。

また、同じころ警察では「警棒術」(警棒操法)と称する竹刀の短い剣道のような練習が考案された。

撓競技は順調に発展し、昭和27年(1952年)に中学校以上の学校体育に採用され、さらに同年国民体育大会にオープン競技として参加した。

剣道の復興

柔道が比較的早く解禁されたのに対し、剣道は警戒され、昭和27年(1952年)に連合国軍の占領が解かれるまで許されなかった。同年、全日本剣道連盟(全剣連)が発足し、剣道の復興が始まった。昭和29年(1954年)、全剣連と撓競技連盟が合併し、撓競技は廃止された。ただし一部のルールは剣道に引き継がれた。

戦後の剣道は体育スポーツとして民主的に行うとの方針が示された。

昭和後期・平成

警察剣道

明治時代からの歴史的経緯により、現在も各都道府県警察で剣道は柔道と並び警察官必須の術科(武道)とされている。各警察署には道場が設けられ、署員が稽古に使用しているほか、道場を開放して少年剣道教室を開いている。

警察官の中でも特に選抜された術科特別訓練員(特練員)は主に機動隊に所属し、豊富な稽古量を保っている。全日本剣道選手権大会世界剣道選手権大会日本代表の大多数は特練員の警察官で占められている。

学校剣道

昭和28年(1958年)の中学学習指導要領で、剣道、柔道、相撲が正科体育とされ、今日に至っている。平成24年(2012年)4月から中学校の第1、第2学年の体育で男女共に武道が必修になった(中学校武道必修化)。

授業のほかに部活動があり、日本全国の中学校高等学校大学等で剣道が稽古されている。強豪校といわれる学校もあり、剣道部の活動が盛んである。これらの学校で剣道を指導する教員は、警察官に次ぐ勢力となっている。

女性剣道

女性の剣道は、戦後の男女共学や女性の社会進出にともない1960年代から70年代に始まったもので、男性の剣道に比べ歴史は浅い。

当初の女性剣道人口は極めて少なかったが、現在では女性有段者は全有段者の4分の1を占め、平成9年(1997年)には全日本女子剣道選手権大会皇后盃が下賜された。

国際化

戦前には、日本人が移民したアメリカブラジルや、日本が統治した朝鮮台湾等で剣道が稽古されていたが、国際的なものではなかった。

昭和45年(1970年)、剣道の国際競技団体として国際剣道連盟が発足し、同年に第1回世界剣道選手権大会が開催された。以来3年に1度開催されている。第1回の参加国は17国であったが、近年は40国前後まで増えている。ただし多くの国では剣道具や指導者が行き渡っておらず、世界剣道選手権大会も国により実力の格差が大きい。

剣道の国際化にともない、剣道をオリンピック種目にしようという意見が発生した。これに対し全日本剣道連盟は、剣道がオリンピック種目になれば勝利至上主義や商業主義に陥り、剣道の持つ武道的特性が失われるとして、現在まで反対の立場をとっている。また、剣道は有効打突の判定基準が曖昧で、国際競技の場では特に審判が難しい問題もある。

近年問題となっているのが、韓国コムド関係者による剣道の起源剽窃問題である。「剣道の起源は日本ではなく韓国である」との根拠のない主張がインターネット等で繰り返され、看過できなくなった全日本剣道連盟は公式ウェブサイトにおいて、剣道の起源は日本であるとの声明を発表している[3][4]

2001年に韓国で結成された世界剣道連盟は、役員にテコンドー関係者が多く、剣道(コムド)をテコンドーにならいオリンピック種目にすることを目指している[5][6]。このような状況から、近年の日本では剣道のオリンピック参入の是非とコムド問題が合わせて論じられることもある。国際剣道連盟が国際オリンピック委員会(IOC)傘下のGAISF(現スポーツアコード)に加盟したのは、世界剣道連盟がGAISFに加盟する手続きを取ったため、国際剣道連盟が本当の剣道の国際競技団体であることを公式に認めてもらうために加盟したともいわれている。

年表

統括組織

現在、日本には2団体、世界には1団体ある。

  • 日本
全日本剣道連盟
日本最大の剣道団体。日本の剣道界のほぼ全体を統括している。日本武道協議会日本体育協会日本オリンピック委員会(JOC)、国際剣道連盟(FIK)に加盟している。
日本剣道協会
神道無念流系剣道団体。「真の剣道復活」を唱えて設立された。竹刀による打突だけではなく、体当たり足払い、組討ち等も認めている。
  • 世界
国際剣道連盟(International Kendo Federation, FIK)
全日本剣道連盟の国際競技団体として1970年(昭和45年)に設立。以来、3年ごとに世界剣道選手権大会を開催している。2003年7月時点で44ヶ国の剣道団体が加盟している。国際オリンピック委員会(IOC)公認団体スポーツアコード(旧称GAISF)に加盟。IOC承認国際競技団体になることを目指している。

剣道の理念

全日本剣道連盟は、昭和50年(1975年)3月20日に『剣道の理念』、『剣道修錬の心構え』を制定した。

  • 剣道の理念

「剣道は剣の理法の修錬による人間形成の道である」

  • 剣道修錬の心構え

「剣道を正しく真剣に学び
心身を錬磨して旺盛なる気力を養い
剣道の特性を通じて礼節をとうとび
信義を重んじ誠を尽して
常に自己の修養に努め
以って国家社会を愛して
広く人類の平和繁栄に
寄与せんとするものである」

服装・用具

剣道着の上から、垂・胴・面・小手の防具(剣道具)を装着する。面を着用する際には、頭に手拭い(面手拭い、面タオル)を巻き付ける。垂には通常、名前や所属する道場名などの記されたゼッケン(垂ネーム)を付ける。基本的に裸足であるが、怪我等の理由で足袋サポーターを着用する者もいる。足袋・サポーターは試合のときも許可を得れば使用可能であることが一般的である。また、試合時には識別用として背中(胴紐の交差部)に紅白それぞれの目印(たすき)を付ける(全長70cm、幅5cm)。近年では垂に目印をつける大会もある。

稽古内容

稽古とは「古(いにしえ)を稽(かんが)える」ことである。剣道の稽古は竹刀の稽古との稽古に大別される。

稽古を行う施設を「道場」という。近年では体育館で行う場合もある。

冬季・夏季に行う稽古を寒稽古暑中稽古という。

竹刀稽古

竹刀と防具を使用した稽古

竹刀防具を使用する稽古。

形稽古

大日本帝国剣道形。打太刀高野佐三郎仕太刀中山博道

木刀模擬刀、刃引で行なう形の稽古

道場によっては直心影流法定一刀流各派神道無念流など古流の形も稽古している。警視庁警視流木太刀形筑波大学東京高師五行之形小西酒造修武館奥之形など、明治時代に制定された比較的現代剣道に近い古流形も存在する。また、全日本剣道連盟は、剣道人が日本刀の操法を学ぶための全日本剣道連盟居合を普及している。

形稽古は軽視されがちであるが、形稽古と竹刀稽古は「車の両輪」と喩えられている。

試合形式

以下は全日本剣道連盟の場合である。

試合は常に1対1で戦う。これは団体戦の場合も同じである。選手は試合場に入り二歩進んでお互いにをし、三歩進んで蹲踞したあと審判員の「始め」の声がかかってから立ち上がり、勝敗が決するか規定の試合時間が経つまでお互いに技を出し合う。原則として三本勝負であるが、一本勝負も認められている。

試合場

張りのに境界を含め19mないし11mの正方形または長方形試合場を作り、試合をする。境界は普通、白のラインテープを貼って分ける。また、試合開始時の立ち位置は試合場中心付近に白のラインテープで示される。

試合時間

試合時間は小学生2中学生3分、高校生以上4分、延長戦の場合には3分が基準である。しかし、運営上の理由などからこれ以外の試合時間を採用することも認められており、公式大会の決勝戦では、2007年(平成19年)から試合時間が10分に変更された。

全ての技は、竹刀防具の決められた箇所を打突するものである。

技一覧表
技の詳細 技名 特記事項
小手を打つ技 小手打ち、引き小手打ち、出小手
面を打つ技 面打ち、引き面打ち、小手面打ち
面の当てを突く技 突き 中学生は原則禁止。高校生以上でも、この技を禁止とする大会もある。
胴の当てを突く技 胸突き 以前は相手が上段の構えを取っている時のみ一本になった。後、相手が二刀流の場合のみ認められていた。現在は認められていない。
胴の右側を打つ技 胴打ち、引き胴打ち、抜き胴
胴の左側を打つ技 逆胴打ち

これに、技を出す直前までの流れから「相(あい)〜」「抜き〜」「返し〜」「払い〜」「すり上げ〜」「引き〜」などの接頭辞が付く場合もある。

有効打突

有効打突(一本)とは、

充実した気勢、適正な姿勢をもって、竹刀の打突部(弦の反対側の物打ちを中心とした部)で打突部位を刃筋正しく打突し、残心あるもの

である。審判員はこれに該当しているかどうかを判断してを挙げる。

反則

反則を一試合中に2回犯した場合は、相手に一本を与える。

  • 相手に足を掛けまたは払う。
  • 相手を不当に場外に出す。
  • 試合中に場外に出る。
  • 自己の竹刀を落とす。
  • 不当な中止要請をする。
  • 相手に手をかけまたは抱え込む。
  • 相手の竹刀を握るまたは自分の竹刀の刃部を握る。
  • 相手の竹刀を抱える。
  • 相手の肩に故意に竹刀をかける。
  • 倒れたとき、相手の攻撃に対応することなく、うつ伏せなどになる。
  • 故意に時間の空費をする。
  • 不当な鍔(つば)迫り合いおよび打突をする。

審判員

3名の審判員(1名の主審、2名の副審からなる)が紅白を持ち、旗を挙げることで有効打突の意思表示とする。2名以上が有効打突の表示をした場合、もしくは1名の審判員が有効打突を表示し2名が判定の棄権を表示した場合、一本となる。また、主審は次のいずれかの場合、「止め」の宣告と同時に紅白両方の旗を平行に挙げ、試合を中断させることができる。

  • 反則の事実
  • 負傷や事故
  • 危険防止
  • 竹刀操作不能の状態
  • 異議の申し立て
  • 合議
  • 試合者から中断の要請があった場合(この場合、主審は要請の理由を質し、不当な要請の場合は審判の合議の上、反則となることもある)

なお、試合中断は副審から申し出ることもできる。その際に副審が「止め」の宣告後、直ちに主審が「止め」の宣告をして試合を中断する。

鍔(つば)迫り合いがこうちゃく(膠着)した場合、主審は 「分かれ」の宣告と同時に両旗を前方に出し、両者を分け、その場で「始め」の宣告と同時に両旗を下ろし、試合を継続する。「分かれ」の場合の試合時間は中断しない。

勝敗

勝敗は、試合時間のうちに三本勝負の場合二本、一本勝負の場合一本先取した選手を勝ちとする。また三本勝負において一方が一本を取り、そのままで試合時間が終了した場合にはその選手を勝ちとする。試合時間内に勝敗が決しない場合には、延長戦を行い先に一本取った選手を勝ちとする。延長の代わりに判定あるいは抽選によって勝敗を決する場合、または引き分けとする場合もある。判定および抽選の場合には勝者に一本が与えられる。団体戦における代表戦も原則一本勝負である。

二刀流

成年者は原則として二刀流は禁止されていないが、使用者の数は少ない。昭和初期に学生の間で試合に勝つためだけに、団体戦において二刀流の選手を防御一辺倒の引き分け要員とする手段が横行したため、一部の学生大会では二刀を禁止するようになった。太平洋戦争後、剣道が全日本剣道連盟の下に復活した際も、学生剣道界では戦前に倣って二刀を禁止したために、二刀を学ぶ者が非常に少なくなってしまった。

ただし、伝統が断絶するのを危惧する声もあり、1992年(平成3年)に大学剣道(公式試合・昇段審査)では解禁された。しかし、高体連中体連の公式試合・昇段審査においては未だに禁止されており、また小学生・中学生は申し合わせ事項で片手技は有効としないとされているため、高校生以下では事実上禁止されている状況である。

二刀流の竹刀は大刀小刀を用いる。それぞれ長さと重さが決められており、男性の場合、大刀は37以下(一刀の場合は3尺9寸以下)、小刀は2尺以下となっている。長らく二刀流が否定されていたため、また上記の通り竹刀も短く、かつては二刀流の相手に対しては胸突きも認められていたというハンデキャップがあるため、指導者・使用者とも少ないのが現状である。

異種試合

異種試合とは、異なる武道との試合のことである。高野佐三郎1920年大正9年)に著した『日本剣道教範』には銃剣鎖鎌との戦い方が解説されている。昭和天覧試合では銃剣術との試合が行われた。

現在は全日本剣道演武大会など特別な大会で、なぎなたとの試合がエキシビション的に行われる程度である。

主な大会

段級位制・称号

剣道の段級位称号の制度は複雑に変遷した。そのため同じ段級位・称号であっても時代によって実態が異なる。

警視庁

明治18年(1885年)頃に警視庁撃剣級位を制定したのが最初である。一級から七級まで設けたが、一級は空位で、二級が事実上の最高位であった。三級は上・下に、四級から六級は上・中・下に分かれていた。

のちに大日本武徳会の段級位が剣道界を統括するようになっても、警視庁では昭和26年(1951年)までこの級位を発行し続けた。

大日本武徳会

明治28年(1895年)、大日本武徳会が創立され、警視庁に倣って一級から七級の級位を設けた。さらに毎年の武徳祭大演武会において優秀な人物に精錬証を授与し、事実上の称号とした。

明治35年(1902年)、範士教士の称号を制定し、精錬証はその下位となった。

大正6年(1917年)、講道館柔道との兼ね合いから、剣道に段位制を採用した。級位の上に段位を置いたため、警視庁関係者から反発があった。段位は十段まで設けたが、実際は五段までしか発行せず、五段の上は教士、範士とした。

昭和9年(1934年)、精錬証を廃止して錬士を制定した。

昭和12年(1937年)からは六段以上の段位も発行するようになった。

昭和17年(1942年)、戦時下の国策で大日本武徳会は政府外郭団体に改組され、段位を廃止して一等から五等までの等位を設定した。教士を達士に改称し、一等の上を錬士、達士、範士とした。

全日本撓競技連盟

昭和25年(1950年)に設立された全日本撓競技連盟は、段位制を採用した。

全日本剣道連盟

昭和27年(1952年)、全日本剣道連盟が発足。昭和28年(1953年)、初段から五段までの段位と錬士・教士・範士の称号を採用し、五段の上を錬士、教士、範士とした。

昭和32年(1957年)、最高段位を十段とし、段位・称号を二本立てとした(段位と称号を組み合わせる)。なお、十段を授与された人物は小川金之助持田盛二中野宗助斎村五郎大麻勇次の5名のみである。

平成12年(2000年)4月1日に現行の制度に改正し、九段・十段を廃止した(ただし既に取得されたものは有効である)。また、以前は五段から教士の受審資格が、七段から範士の受審資格があったため、「教士六段」や「範士七段」などが存在したが、現行の制度では取得できない。範士が剣道界の最高峰であることを改めて確立するため、教士八段の上を範士とした。

現行の段級位・称号

六級から一級までの級位[7]と、初段から八段までの段位、および錬士教士範士の称号がある。剣道の技術的力量(竹刀剣道と日本剣道形演武実技)および学科の審査会を経て授与される。個人ごとに全剣連番号というシリアル番号が付され、記録が管理されている。全剣連はそのデータをもとに、2008年現在、全国の有段者は148万名、そのうち活動中の有段者は29万名であると発表している。

審査会の主催団体(規模)は段級位によって異なる。級位は市町村単位の支部剣道連盟が主催して審査する。ほとんどが段位の受審資格がない小学生が取得している。二級以上の受審には、年齢制限及び各種条件がある。中学生以上対象の昇級審査会に受審し、合格するとその時点で一級が授与される。

  • 一級と二級は小学6年生以上が受審資格を有する[8]
  • 初段の受審は満13歳以上である必要があり[9]、さらに支部によっては「中学生は一級受有後6ヶ月以上経過」「一級受有後3か月以上経過」など追加の条件が設けられている。

段位は、初段から五段までは都道府県の剣道連盟が主催して審査する。多くの場合、初段から三段までは、その都道府県をいくつかの地区に分け、その都道府県の下部組織である各支部で合同して審査する形が多い(四段・五段は一か所で審査)。また、三段審査や四段審査に関しては、高等学校剣道専門部や大学連盟で、一般の審査会から独立して行われることがある[10]。六段以上は全日本剣道連盟が一括に主催して行う。六段以上(高段者)になると、合格者名が大手剣道専門雑誌の『剣道日本』や『剣道時代』に掲載される。年間の審査会開催回数は段位ごとに異なるが、六段が8回程度(うち1回は外国人対象)、七段が6回程度、八段が4回程度である。東京京都など主要都市で開かれる。

段位が高くなるほど合格率は低くなる。初段は約80 - 90%、二段は約60 - 70%、三段は約40 - 50%、四段は約30 - 45%、五段は約20 - 30%、六段は約10%[11]、七段は約8 - 10%、最高位の八段はわずか1%という狭き門となる[12]1997年NHKドキュメント番組において、当時の司法試験(合格率約3%)より合格率の低い「日本最難関の試験」として紹介された[13]

  • 初段は、剣道の基本を修習し、技倆良なる者
  • 二段は、剣道の基本を修得し、技倆良好なる者
  • 三段は、剣道の基本を修錬し、技倆優なる者
  • 四段は、剣道の基本と応用を修熟し、技倆優良なる者
  • 五段は、剣道の基本と応用に錬熟し、技倆秀なる者
  • 六段は、剣道の精義に錬達し、技倆優秀なる者
  • 七段は、剣道の精義に熟達し、技倆秀逸なる者
  • 八段は、剣道の奥義に通暁、成熟し、技倆円熟なる者
段位 受審条件 年齢制限
初段 一級受有者 満13歳以上
二段 初段受有後1年以上修業
三段 二段受有後2年以上修業
四段 三段受有後3年以上修業
五段 四段受有後4年以上修業
六段 五段受有後5年以上修業
七段 六段受有後6年以上修業
八段 七段受有後10年以上修業 46歳以上

但し、加盟団体会長が特別な事由をもって認めた場合、前段位を有していない者でも、二段〜五段の段位を受審することができる[14]

段位 受審条件 年齢制限
二段 満30歳以上
三段 満35歳以上
四段 満40歳以上
五段 満45歳以上

称号は指導力や識見、人格などを備えた、剣道人としての完成度を示すものであるため、六段以上の高段者のみ受審資格があり、いずれも加盟団体会長推薦が必要である。称号を取得した後は、例えば「錬士六段」、「教士七段」というように、段位の上に称号を冠する。

  • 錬士は、剣理に錬達し、識見優良なる者
  • 教士は、剣理に熟達し、識見優秀なる者
  • 範士は、剣理に通暁、成熟し、識見卓越、かつ、人格徳操高潔なる者
称号 受審資格 受審条件
錬士 五段受有者 五段受有後、10年以上を経過し、かつ年齢60歳以上の者で、加盟団体の選考を経て、特に加盟団体会長より推薦された者。
六段受有者 六段受有後1年を経過し、加盟団体の選考を経て、加盟団体会長より推薦された者。
教士 錬士七段受有者 七段受有後2年を経過し、加盟団体の選考を経て、加盟団体会長より推薦された者。
範士 教士八段受有者 八段受有後8年以上経過し、加盟団体の選考を経て、加盟団体会長より推薦された者、および全剣連会長が適格と認めた者。

剣道称号・段位審査規則」 平成20年6月11日一部改正、平成21年4月1日より施行

日本剣道協会

年限を定めず、実力があれば10代の少年であっても十段位を授与するとしている。

脚注

  1. ^ 寛文7年(1667年)の安倍立伝書に「剣術は日用の術なので剣道という号にする」という記述、弘化5年(1848年)の大石神影流門人渡部直八の『諸国剣道芳名録』、明治時代の一刀正伝無刀流開祖山岡鉄舟の書物に「剣道」という表現がある。
  2. ^ 大塚忠義『日本剣道の歴史』、牧秀彦『図説 剣技・剣術二』
  3. ^ 剣道に関する全剣連の見解
  4. ^ All Japan Kendo Federation’s Perspective of Kendo
  5. ^ 月刊剣道日本』2002年4月号88頁、スキージャーナル。
  6. ^ 月刊剣道日本』2003年11月号46-47頁、スキージャーナル。
  7. ^ 公式では認められてはいないが、地域によっては十級まで存在する。
  8. ^ 地区や支部によって異なる。支部によっては一級の受審資格を二級合格後、一定の日数が経過してからと規定されている場合もある。また、過去においては一級受審条件として、中学生以上とのことになっていた。
  9. ^ 2011年度より改定。それまでは、中学2年生以上とされていた。
  10. ^ 一般会場よりも合格率が高くなる傾向がある。
  11. ^ 六段は剣道家の中では一番の「鬼門」と称され、五段まで順調に一発合格を重ねてきた者、また試合で優秀な成績を収めてきた者でも、10回以上受けても合格できない場合が多々ある。現在の段位制度での最年少六段合格者は29歳であるが、その年齢で合格できる者はわずかである。一般の受験者からは、「40歳になる前に合格できれば相当な存在」とも言われている。
  12. ^ 2006年11月の審査では合格率0.7%という過去最低を叩き出した。
  13. ^ NHK『心で闘う120秒 〜剣道・日本最難関試験に挑む〜』
  14. ^ 松延市次『剣道段級審査 申し込みから免状まで』(成美堂出版、1997年)188頁。

参考文献

  • 山田次朗吉『日本剣道史』、一橋剣友会
  • 堀正平『大日本剣道史』、体育とスポーツ出版社
  • 庄子宗光『剣道百年』、時事通信社
  • 中村民雄『史料近代剣道史』、島津書房
  • 中村民雄『剣道事典 技術と文化の歴史』、島津書房
  • 戸部新十郎『明治剣客伝 日本剣豪譚』、光文社
  • 日本武道学会剣道専門分科会編『剣道を知る事典』、東京堂出版
  • 大塚忠義『日本剣道の歴史』、窓社
  • 酒井利信『日本剣道の歴史 英訳付き』、スキージャーナル
  • 松延市次『剣道段級審査 申し込みから免状まで』、成美堂出版

関連項目

外部リンク

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