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森達彦

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森 達彦
生誕 (1954-05-01) 1954年5月1日(70歳)
出身地 日本の旗 日本長崎県長崎市
ジャンル 渋谷系J-POP歌謡曲ニューミュージックシティポップフュージョン映画音楽
職業 シンセサイザー・プログラマープロデューサーレコーディング/ミキシング・エンジニア編曲家
担当楽器 シンセサイザー口笛
活動期間 1978年 -
レーベル hammerlabel

森 達彦(もり たつひこ、1954年5月1日 - )は、日本シンセサイザー・プログラマー、サウンド・デザイナー、マニピュレーターレコーディング/ミキシング・エンジニア音楽プロデューサー編曲家長崎県長崎市出身。

人物・来歴

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16歳の時、遠足の前日たまたま立ち寄ったレコード店で『クリムゾン・キングの宮殿』と『いたち野郎』のレコードを手に取り、15分ほど熟考したのち『クリムゾン・キングの宮殿』を購入。その後メロトロンにのめり込み現在に至る。ブリティッシュ・ロックに傾倒しており、中低域を重視した音作りが特徴である。

1978年株式会社レオミュージックに入社[1]シンセサイザー打ち込みを習得する。1984年ムーンライダーズ・オフィスと共同出資で、プログラマーのマネージメントを主たる業務とする株式会社 hammerを設立。シンセ・サウンドを多用した歌謡曲ニューミュージック全盛の時代で、一時は "日本で最も高級舶来機材を所有するプログラマー集団" と言われた。1987年にはハーフトーンミュージックの機材班と統合し、社名をHAMに変更[1]。hammerの名は1991年から開始した自身のインディーレーベルhammerlabel)に継承される。

その少し前にレコーディングで訪れたイギリスで、ストロベリー・スウィッチブレイドや日本ではのちにCHARAなどを手掛け、友人となるプロデューサー・デヴィッド・モーションに出会い、デンマークのバンド・Gangwayを紹介される。気に入った森は、彼らの住むデンマークに赴き契約を交わし、hammerlabel 初リリースとなる彼らの日本盤CDを発売[2]。特に渋谷の外資系CDショップなどでは、異例の売り上げを記録した。


1980年代から作曲家編曲家鷺巣詩郎山川恵津子武部聡志萩田光雄瀬尾一三十川知司など[3]多数のアレンジャーが手掛ける楽曲にシンセサイザー・プログラマーとして従事し、アイドル歌謡曲シティポップフュージョンアニメゲーム音楽映画音楽など多岐に渡るジャンルの音楽制作に関わった。洋楽のカテゴリーにおいても、ノーランズピエール・ポルトアラベスクドン・グルーシンなどの制作に参加している。携わった楽曲の総数は15年余りで3000曲を超えると言われる。

1990年代に入るとシンセサイザー・プログラマーの仕事の傍ら、所有していた渋谷センター街に位置するプライベートスタジオ[2]において、のちに渋谷系と呼ばれるCrue-L Recordsエスカレーターレコーズのエンジニア部門(ラヴ・タンバリンズカヒミ・カリィBridgeなど)をサポートした。それを皮切りに、レコーディング/ミキシング・エンジニアとしての仕事も増加、プロデューサー業務も行うことになる。(※ 詳細は仕事アーカイブ[出典無効]森達彦 -Tatsuhiko Mori- Works 参照)  また、山岡広司らと共にプロデュース・ユニット『u.l.t.』としての活動も開始した。

レコーディング/ミキシング・エンジニア/プロデューサーとしての主な参加作品

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シンセサイザー・プログラマーとしての主な参加作品

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他多数

エピソード

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  • 森本人は自らの仕事を「シンセサイザー・プログラマー」「サウンド・デザイナー」と呼ぶことが多い。「マニピュレーター」という呼称については、「イギリス人の友人に "良い意味ではない" と教わったので自分では使わない」との旨を『ラグジュアリー歌謡』(藤井陽一監修/DU BOOKS刊)のコラムで明かしている[1]レコードCDなどのクレジットにおいて、前述の呼称の他に「シンセ・オペレーター(Synthesizer Operator)」と表記されることも多い。
  • おニャン子クラブなどのアイドルを中心に、一時期は森と「週に4日は仕事を共にした」[1]という作曲家/編曲家の山川恵津子は、「マ二ピは個性的な人ばかりで、森さんは自分の好みもはっきりしており、曲との相性が合えば素晴らしい音をつくる頼れる職人だ」と語っている[6]
  • 1980年代前半には鷺巣詩郎が編曲した楽曲にも多数参加しているが(関係者によると約1000曲にも及ぶ)、当時はシンセサイザー・プログラマーがクレジット表記されることは稀少であり、当事者の間でも多忙を極めていた(しかも曲名は仮タイトルや数字/記号で呼ばれることが多かった)ため、確認・検証することが非常に困難である。なお、当時すでに大御所作曲家であった筒美京平の作品に森が初めて関わったのは、"鷺巣さんの仕事だった" と筒美の追悼記事におけるインタビューで言及している[3]

脚注

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出典

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  1. ^ a b c d ラグジュアリー歌謡 (((80s)))パーラー気分で楽しむ邦楽音盤ガイド538 単行本(DU BOOKS)– 2013/2/21。
  2. ^ a b Bepop 1/WORLD FAMOUS GUITAR POP (Bepop VOLUME 1) (音楽之友社)– 1998/12/10。
  3. ^ a b 『追悼・筒美京平を讃えるベストソング』【森達彦氏インタビュー】 .WebVANDA (2020/11/22). 2024年9月16日閲覧。
  4. ^ 72年間のTOKYO、鈴木慶一の記憶 (RealSound Collection) 単行本(blueprint)– 2023/12/26。
  5. ^ ニッポンの編曲家 歌謡曲/ニューミュージック時代を支えたアレンジャーたち 単行本 (DU BOOKS)– 2016/3/4。
  6. ^ 編曲の美学 アレンジャー山川恵津子とアイドルソングの時代 単行本(DU BOOKS)– 2024/5/17。

外部リンク

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