ハンク・グリーンバーグ
1937年 | |
基本情報 | |
---|---|
国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | ニューヨーク州ニューヨーク |
生年月日 | 1911年1月1日 |
没年月日 | 1986年9月4日(75歳没) |
身長 体重 |
6' 3" =約190.5 cm 210 lb =約95.3 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 一塁手・左翼手 |
プロ入り | 1929年 |
初出場 | 1930年9月14日 |
最終出場 | 1947年9月18日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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選出年 | 1956年 |
得票率 | 84.97 % |
選出方法 | BBWAA選出 |
この表について
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ヘンリー・ベンジャミン・グリーンバーグ(Henry Benjamin Greenberg,1911年1月1日 - 1986年9月4日)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク出身の元プロ野球選手 (一塁手・左翼手)。ニックネームは「Hammerin' Hank」。
1947年、ジャッキー・ロビンソンが黒人初のメジャーリーガーとなり、多くの人種差別や嫌がらせを受けたが、グリーンバーグも多くの軋轢を経験した[1]。
骨折や第二次世界大戦による従軍により、シーズン通じてプレイした(100試合以上に出場)のは9シーズンだけであるが、通算331本塁打・1276打点を記録している。そのため、現役離脱がなければ、500本塁打・1800打点以上は記録出来たとされる[2]。
経歴
[編集]少年時代・メジャーリーグ入団まで (1911年 - 1930年)
[編集]ニューヨーク州ニューヨークのグリーンウィッチ・ビレッジにて、ルーマニアからの移民であるユダヤ人の父デービッドと母サラの間に誕生した。
兄弟が多い家庭で育ち、4歳年上の兄・ベン (Ben) 、5歳年下の弟・ジョー (Joe) 、2歳年上の姉・リリアン (Lillian) がいた。兄のベンと弟のジョーはハンクと同じく、野球をしていた[3]。
ブロンクスに移住後、ジェームズ・モンロー高校とニューヨーク大学を経て[4]、1929年9月にフリーエージェント選手としてデトロイト・タイガースと契約を結んだ[5]。
1930年、マイナーリーグのラレー・キャピタルズ (英語:Raleigh Capitals) とハートフォード・セネターズ (英語:Hartford Senators) で計139試合に出場し、打率.303・27二塁打・16三塁打・21本塁打という打撃成績を記録、高い打力を発揮した。守備面では2チームで計138試合のファースト守備に就き、25失策・守備率.981という成績に終わり、拙守だった。当時、グリーンバーグは19歳であった[6]。
デトロイト・タイガース時代 (1930年 - 1946年)
[編集]- 1930年
- 9月14日、地元での対ニューヨーク・ヤンキース戦にてメジャーデビューを果たした。同試合には途中出場して1打席に入ったが、ヒットは放てなかった[7]。同年メジャーで試合に出場したのは、この試合だけであった。
- 1931年 - 1932年
- 1931年はマイナーでプレーし、メジャーでの試合出場はなかった。マイナーではエバンスビル・ハブズ (Evansville Hubs) とビューモント・エクスポーターズ (英語:Beaumont Exporters) で計129試合に出場し、打率.318・41二塁打・10三塁打・15本塁打という打撃成績を残した。なお、ビューモントでは3試合に出場しただけであり、安打は全てエバンスビルで放ったものである。守備では、126試合のファースト守備で25失策・守備率.982という成績を残し、前年からほぼ横這いの数字となった[6]。
- 1932年はフルシーズン、ビューモントでプレーした。この年は154試合に出場し、マイナーでは初めて打率.300未満 (.290) に終わったが、自己記録を大きく更新する39本塁打を放った。守備も改善され、154試合でファーストを守って17失策・守備率.989という数字だった[6]。
- 1933年
- 3年ぶりにメジャー復帰を果たした。この年からファーストのレギュラーに定着し、117試合に出場して打率.301・12本塁打・87打点・6盗塁という好成績をマークした。守備面では15失策を犯し、守備率.988だった。
- この年は153試合に出場し、大きく躍進するシーズンとなった。打率.339 (リーグ6位) ・26本塁打 (同7位) ・139打点 (同3位) という数字を記録し、打撃三部門でリーグベスト10に入る活躍ぶりだった。また、リーグ1位となる63本もの二塁打を放ち、これは1シーズンでの本数としてはメジャー歴代4位となる記録である[8]。グリーンバーグの活躍は、タイガースの25年ぶりのワールド・シリーズ進出に大きく貢献したが、セントルイス・カージナルスに敗れてシリーズ制覇はならなかった。MVP投票では6位にランクインした[9] (同年の受賞者はチームメイトのミッキー・コクレーン) 。
- 同年は9月10日がローシュ・ハシャナ (ユダヤ暦の新年) 、9月18日がヨム・キプル (ユダヤ暦の贖罪の日) であり、グリーンバーグは両日で試合を欠場する旨を発表した。しかし、この発表に対してファンの間からは「ローシュ・ハシャナは毎年やってくるが、タイガースは1909年以来ペナント・レースを制していないのだ」との不平が出た。このファンからの意見についてグリーンバーグは悩み、ラビ (ユダヤ教の指導者) とも相談の上で、ローシュ・ハシャナに行われる試合には出場することを決めた(ヨム・キプルは欠場した)[10]。同試合に「6番・ファースト」で出場したグリーンバーグはソロ・ホームランを2本放ち、チームはこの2点によりボストン・レッドソックスに勝利した[11]。
- 1935年
- この年はオール・スターまでに25本塁打・103打点を記録していたが、カクレーン監督はグリーンバーグをオール・スターのメンバーに加えなかった。これは、反ユダヤ運動に対する懸念があったためであるとされる[12]。このような不遇にも直面したグリーンバーグだったが、最終的には152試合に出場し、打率.328・36本塁打・170打点・4盗塁・OPS1.039という好成績を記録し、本塁打王と打点王のタイトルを獲得した。また、MVPにも選出された。チームは2年連続でワールド・シリーズに進出し、シカゴ・カブスを破って初の世界一に輝いた。同シリーズでは第2戦でホームランを放ったが、同試合で手首を骨折した。
- 多くのタイトル獲得、ワールド・シリーズ制覇があった一方で、オール・スター不選出、手首の骨折など起伏に富んだシーズンを送った。
- 手首の骨折から復活し、初めてオール・スターの一員に選出された(試合出場はなし) 。この年は183打点を記録し、自身2度目となる打点王のタイトルを獲得したほか、打率と本塁打でもリーグベスト10入りした。守備面では154試合のファースト守備で13失策・守備率.992という成績を残した。シーズン180打点以上を達成しているのは1930年のハック・ウィルソン (191打点) と1931年のルー・ゲーリッグ (185打点) だけである[13] (2015年シーズン終了時点) 。打撃三部門の数字は、自身初のMVPに輝いた1935年より上だったが、この年はチャーリー・ゲーリンジャー(チームメイト) 、ジョー・ディマジオに次ぐ3位に終わった[14]。
- 1938年
- この年は58本塁打を放ち、ベーブ・ルースが保持する60本塁打のシーズン記録(当時)にあと一歩のところまで迫った。また、この年は11試合でマルチ本塁打を記録しているが、これはメジャー記録 (1998年にサミー・ソーサも達成) である[15] (2014年シーズン終了時点) 。58本塁打という記録は、1998年にマーク・マグワイアとソーサが破られるまで右打者のシーズン最多本塁打記録だった。MVP投票では、2年連続で3位に終わった[16]。
- なお、この年にグリーンバーグがルースの本塁打記録を超えられなかったのは、反ユダヤの感情を持つ投手が意図的に四球を与え、グリーンバーグに本塁打を打たせなかった(いわゆる敬遠)とする意見もある。事実、この年はリーグ最多の119四球を記録しており、グリーンバーグのキャリアを通じて最も四球率が高かったとするデータもある[10][17]。
- 1939年
- 出場試合数が3年ぶりに150試合を下回り、それに伴って打撃成績も若干低下した。しかし、3年連続でオール・スターに選出され、初めて試合にも出場した。「5番・ファースト」で起用されたグリーンバーグは3打数1安打を記録し、四球を1つ選んだ[18]。守備面では、100試合以上でファーストを守ったシーズンとしては自身初となる1ケタ台の9失策に留め、守備率.993を記録した。
- 1940年
- この年はルディ・ヨークに一塁のポジションを譲り、グリーンバーグはレフトにコンバートされた。4年連続でオール・スターの一員に選出され、試合には途中出場した。また、いずれも自身3度目となる本塁打王と打点王のタイトルを獲得し、1935年以来5年ぶりとなる打撃二冠に輝いた。さらに自身2度目となるMVPにも選出されたが、前回選出された際は一塁手だったため、MLB史上初めて異なるポジションでMVPに選ばれた選手となった[10]。チームはワールド・シリーズまで駒を進めたが、シンシナティ・レッズに敗れ、世界一はならなかった。
- この年は4月半ばから5月上旬にかけて19試合に出場したが、ナチス・ドイツに対する強い反感がグリーンバーグを駆り立て、メジャーリーガーとしては初めて第二次世界大戦に従軍することになった[10]。その後、28歳以上の人物を採用しない国の方針により一時軍を外れたが、真珠湾攻撃が発生したことにより再度従軍した[10]。以後、1945年に終戦するまでアメリカ陸軍航空軍 (US Army Air Forces、現在のアメリカ空軍) の一員として戦争に参加した。
- 終戦後、タイガースに復帰したグリーンバーグは78試合に出場し、打率.311・OPS0.948を記録、従軍前と変わらぬ打棒を発揮した。シーズン最終戦ではグランドスラムを放ち、チームのリーグ優勝に貢献。また守備面でも72試合でレフトを守り、ファーストを守っていた時代も含め、初めて無失策と安定した守備を発揮した。ワールド・シリーズでは2本塁打を放ち、チーム史上2度目のシリーズ制覇の原動力となった。
- 1946年
- この年、ファーストに再コンバートされると本塁打王と打点王のタイトルを獲得し、自身3度目となる打撃二冠(いずれも本塁打と打点)を達成した。しかし、打率は.300に届かなかった。また守備面でも、失策が15まで激増して守備率.989という成績だった。
ピッツバーグ・パイレーツ時代・引退まで(1947年)
[編集]- タイガースは年俸の減額を提示するが、グリーンバーグはこれを受け入れなかったため、交渉が決裂した。これを機にグリーンバーグは引退を考えるようになり、他方でタイガースは1月18日に彼をピッツバーグ・パイレーツにトレードした[5]。パイレーツは、グリーンバーグに引退を思い止まらせるべくナ・リーグ史上初となる10万ドルの年俸を提示し、フォーブス・フィールド (当時のパイレーツの本拠地) のレフトスタンド側にブルペンを建設して、レフトスタンドまでの距離を短縮する改修を行った。このレフトスタンドは「グリーンバーグ・ガーデン (Greenberg Garden) 」と名付けられた[15]。また、当時パイレーツの共同オーナーであった歌手のビング・クロスビーは、コメディアンのグローチョ・マルクスと共にグリーンバーグを歓迎する「Goodbye, Mr. Ball, Goodbye」という曲を製作した。
- 同年パイレーツでは125試合に出場して25本塁打を放ち、リーグ最多の四球を記録したが、一方で打率.249に終わり往年の強打は発揮されなかった。しかし、グリーンバーグの存在は当時メジャー2年目のシーズンを迎えたラルフ・カイナーに多大な影響を与え、カイナーにとっての良き指導者となった[10][15]。カイナーについて、グリーンバーグは以下のようなコメントを残している[10]。
- "Ralph had a natural home run swing. All he needed was somebody to teach him of the value of hard work and self-discipline. Early in the morning on off-days, every chance we got, we worked on hitting."
- 「ラルフは、天性のホームラン・ヒッターだ。彼が必要としていたのは、懸命にプレーすることと自己鍛錬の重要性を説ける誰かである。オフの日は朝早くから、チャンスさえあれば、我々は打撃練習に取り組んだ。」 (和訳)
引退後(1948年 - 1986年)
[編集]1948年、当時クリーブランド・インディアンスのオーナーであったビル・ベークから、チームのファーム・ディレクターとして雇われた。[15]。その後、1950年にはファーム組織のゼネラル・マネージャーに就任し、チームの再建及び1954年のリーグ制覇に大きく貢献した[10]。
その後、シカゴ・ホワイトソックスの共同オーナー及びバイス・プレジデントに就任した[10]。ホワイトソックスのフロント在籍中の1956年、BBWAAの殿堂入り投票にて193票中164票の賛成票を獲得し[4]、得票率約85 %でアメリカ野球殿堂に選出された。9年目の挑戦での選出であった。1959年、ホワイトソックスはリーグ制覇を果たし、インディアンス時代に続いてチームの躍進に貢献した。
1963年、インベストメント・バンカー (Investment banker:証券引受業者) に転身し[10]、野球界から完全に身を引いた。
1970年に勃発したカート・フラッド事件では、ジャッキー・ロビンソンやビル・ベックらと共に選手側の証人として法廷に立ち、カート・フラッドを擁護する立場を取った[19]。
引退後も健康体で過ごしていたグリーンバーグだったが、1980年代に入って癌が進行した[10]。1983年、現役時代の大半を過ごしたタイガースで在籍時の背番号『5』が、かつてのチームメイトだったチャーリー・ゲーリンジャーの『2』とともに永久欠番に指定された。
その3年後の1986年9月4日、カリフォルニア州ビバリーヒルズで逝去。75歳だった[10]。グリーンバーグの墓は、カリフォルニア州ロサンゼルスにあるヒルサイド・メモリアル・パーク (Hillside Memorial Park) に建てられている。
ジョー・ディマジオは、グリーンバーグについて以下のコメントを残し、彼の打棒を高く評価していた[10]。
- "He was one of the truly great hitters, and when I first saw him bat, he made my eyes pop out."
- 「彼は間違いなく、真に偉大な打者の1人だった。私が彼の打撃を初めて見た時、目玉が飛び出すような思いだったよ。」 (和訳)
詳細情報
[編集]年度別打撃成績 (メジャー)
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1930 | DET | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | -- | 0 | 0 | -- | .000 | .000 | .000 | .000 |
1933 | 117 | 499 | 449 | 59 | 135 | 33 | 3 | 12 | 210 | 87 | 6 | 2 | 2 | -- | 46 | -- | 1 | 78 | -- | .301 | .367 | .468 | .835 | |
1934 | 153 | 667 | 593 | 118 | 201 | 63 | 7 | 26 | 356 | 139 | 9 | 5 | 9 | -- | 63 | -- | 2 | 93 | -- | .339 | .404 | .600 | 1.005 | |
1935 | 152 | 710 | 619 | 121 | 203 | 46 | 16 | 36 | 389 | 170 | 4 | 3 | 4 | -- | 87 | -- | 0 | 91 | -- | .328 | .411 | .628 | 1.039 | |
1936 | 12 | 55 | 46 | 10 | 16 | 6 | 2 | 1 | 29 | 16 | 1 | 0 | 0 | -- | 9 | -- | 0 | 6 | -- | .348 | .455 | .630 | 1.085 | |
1937 | 154 | 701 | 594 | 137 | 200 | 49 | 14 | 40 | 397 | 183 | 8 | 3 | 2 | -- | 102 | -- | 3 | 101 | -- | .337 | .436 | .668 | 1.105 | |
1938 | 155 | 681 | 556 | 143 | 175 | 23 | 4 | 58 | 380 | 146 | 7 | 5 | 3 | -- | 119 | -- | 3 | 92 | -- | .315 | .438 | .683 | 1.122 | |
1939 | 138 | 604 | 500 | 112 | 156 | 42 | 7 | 33 | 311 | 112 | 8 | 3 | 11 | -- | 91 | -- | 2 | 95 | 8 | .312 | .420 | .622 | 1.042 | |
1940 | 148 | 670 | 573 | 129 | 195 | 50 | 8 | 41 | 384 | 150 | 6 | 3 | 3 | -- | 93 | -- | 1 | 75 | 15 | .340 | .433 | .670 | 1.103 | |
1941 | 19 | 83 | 67 | 12 | 18 | 5 | 1 | 2 | 31 | 12 | 1 | 0 | 0 | -- | 16 | -- | 0 | 12 | 1 | .269 | .410 | .463 | .872 | |
1945 | 78 | 312 | 270 | 47 | 84 | 20 | 2 | 13 | 147 | 60 | 3 | 1 | 0 | -- | 42 | -- | 0 | 40 | 9 | .311 | .404 | .544 | .948 | |
1946 | 142 | 604 | 523 | 91 | 145 | 29 | 5 | 44 | 316 | 127 | 5 | 1 | 1 | -- | 80 | -- | 0 | 88 | 17 | .277 | .373 | .604 | .977 | |
1947 | PIT | 125 | 510 | 402 | 71 | 100 | 13 | 2 | 25 | 192 | 74 | 0 | -- | 0 | -- | 104 | -- | 4 | 73 | 16 | .249 | .408 | .478 | .885 |
通算:13年 | 1394 | 6097 | 5193 | 1050 | 1628 | 379 | 71 | 331 | 3142 | 1276 | 58 | *26 | 35 | -- | 852 | -- | 16 | 844 | *66 | .313 | .412 | .605 | 1.017 |
- 「--」は公式記録なし。
- 通算成績の「*数字」は、不明年度がある事を示す。
- 太字はリーグ1位。
- 1931 - 1932年、1942 - 1944年は試合出場なし。
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1930 | Raleigh | 122 | - | 452 | - | 142 | 26 | 14 | 19 | 253 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | .314 | - | .560 | - |
Hartford | 17 | - | 56 | - | 12 | 1 | 2 | 2 | 23 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | .214 | - | .411 | - | |
'30計 | 139 | - | 508 | - | 154 | 27 | 16 | 21 | 276 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | .303 | - | .543 | - | |
1931 | Evansville | 126 | - | 487 | - | 155 | 41 | 10 | 15 | 261 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | .318 | - | .536 | - |
Beaumont | 3 | - | 2 | - | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | .000 | - | .000 | - | |
'31計 | 129 | - | 489 | - | 155 | 41 | 10 | 15 | 261 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | .317 | - | .534 | - | |
1932 | 154 | - | 600 | - | 174 | 31 | 11 | 39 | 344 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | .290 | - | .573 | - | |
通算:3年 | 422 | *1597 | 1597 | - | 483 | 99 | 37 | 75 | 881 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | .302 | *.302 | .552 | *.854 |
- 「-」は公式記録なし。
- 通算成績の「*数字」は、参考記録。
タイトル
[編集]表彰
[編集]- シーズンMVP:2回 (1935年、1940年)
- オールスター選出:4回 (1937 - 1940年)
- ワールド・チャンピオン:2回 (1935年、1945年)
- 1シーズンでのマルチ本塁打記録:11試合 (1938年)
※ 以上、いずれもア・リーグで記録。
- アメリカ野球殿堂入り (1956年)
背番号
[編集]- デトロイト・タイガース
- 7 (1933)
- 5 (1934 - 1946) - タイガースの永久欠番
- ピッツバーグ・パイレーツ
- 5 (1947)
※ 1930年は背番号なし。
出典
[編集]- ^ Bruce Markusen (2008年6月30日). “Greenberg's rookie season honored”. MLB.com. 2014年12月8日閲覧。
- ^ Steven R. Bullock (2004). Playing for Their Nation: Baseball and the American Military During World War II. University of Nebraska Press. pp. 127頁. ISBN 978-0-803-21337-1
- ^ Peter S. Horvitz、Joachim Horvitz (2001). The Big Book of Jewish Baseball: An Illustrated Encyclopedia & Anecdotal History. S.p.i. Books. pp. 80頁. ISBN 978-1-561-71973-0
- ^ a b Hank Greenberg Statistics and History - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
- ^ a b c Hank Greenberg Statistics and History - Transactions - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
- ^ a b c d Hank Greenberg Minor League Statistics & History - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
- ^ September 14, 1930 NYY vs DET - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
- ^ Single-Season Leaders & Records for Doubles - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
- ^ 1934 Awards Voting - AL MVP Voting - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m Hank Greenberg Baseball Stats, facts, biography, images and video. - Biography - The Baseball Page.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
- ^ September 10, 1934 BOS vs DET - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
- ^ Nick Acocella. “The first "Hammerin' Hank"”. ESPN Classic (ESPN.go.com). 2014年12月8日閲覧。
- ^ Single-Season Leaders & Records For Runs Batted In - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
- ^ Awards Voting - AL MVP Voting - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
- ^ a b c d The Ballplayers - Hank Greenberg - Biography Archived 2008年1月13日, at the Wayback Machine. - BaseballLibrary.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
- ^ 1938 Awards Voting - AL MVP Voting - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
- ^ Howard Megdal (2010年3月20日). “Religion Aided a Home Run Chase, and May Have Led to Its Failure”. The New York Times. 2014年12月8日閲覧。
- ^ July 11, 1939 All-Star Game Play-By-Play and Box Score - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
- ^ マービン・ミラー (Marvin Miller) 、武田薫訳『FAへの死闘 大リーガーたちの権利獲得闘争記』ベースボール・マガジン社、1993年、100 - 125頁頁。ISBN 978-4-583-03094-4。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- Baseballhalloffame.org – アメリカ野球殿堂(National Baseball Hall of Fame)による紹介
- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)