持統天皇
持統天皇 | |
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持統天皇 | |
時代 | 飛鳥時代 |
先代 | 天武天皇 |
次代 | 文武天皇 |
誕生 | 645年[1] |
崩御 | 703年1月13日 |
陵所 | 檜隈大内陵・野口王墓古墳 |
漢風諡号 | 持統天皇 |
和風諡号 |
大倭根子天之廣野日女尊 高天原廣野姫天皇 |
諱 | 鸕野讚良 |
父親 | 天智天皇 |
母親 | 蘇我遠智娘 |
子女 | 草壁皇子 |
皇居 | 飛鳥浄御原宮・藤原宮 |
女帝 |
持統天皇(じとうてんのう、645年〈大化元年〉 - 703年1月13日〈大宝2年12月22日〉)は、日本の第41代天皇(在位:690年2月14日〈持統天皇4年1月1日〉 - 697年8月22日〈持統天皇11年8月1日〉)。天武天皇の皇后(天智天皇の娘、天武天皇の姪にあたる)、のちに持統天皇となり皇室史上3人目の女性天皇[2]となった。
諱は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)であり、これは娑羅羅馬飼造が養育したからであると考えられる[3]。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の大宝3年(703年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、『日本書紀』巻30の冒頭に記された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)がある(なお『日本書紀』において「高天原」が記述されるのは巻1・冒頭の第4の一書とこの箇所のみである)。確実ではないが伊勢神宮に参拝し「日本」国号を定めた可能性が高い天皇である(後述)[注釈 1]。漢風諡号「持統天皇」は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から持統と名付けられたという[要出典]。
生涯
[編集]壬申の乱の前まで
[編集]父は天智天皇(中大兄皇子)、母は遠智娘(おちのいらつめ)といい、母方の祖父が蘇我倉山田石川麻呂である。父母を同じくする姉に大田皇女がいた。
大化5年(649年)、誣告により祖父の蘇我石川麻呂が中大兄皇子に攻められ自殺した。石川麻呂の娘で中大兄皇子の妻だった造媛(みやつこひめ)は父の死を嘆き、やがて病死した。『日本書紀』の持統天皇即位前紀には、遠智娘は美濃津子娘(みのつこのいらつめ)ともいうとあり、美濃は当時三野とも書いたので、三野の「みの」が「みや」に誤られて造媛と書かれる可能性があった。美濃津子娘と造媛が同一人物なら、鸕野讃良は幼くして母を失ったことになる[4][注釈 2]。
斉明天皇3年(657年)、13歳で叔父の大海人皇子(後の天武天皇)に嫁した。中大兄皇子は彼女だけでなく大田皇女、大江皇女、新田部皇女の娘4人を弟の大海人皇子に与えた。斉明天皇7年(661年)には、夫とともに天皇に随行し、九州まで行った。天智天皇元年(662年)に筑紫国の娜大津で鸕野讃良皇女は草壁皇子を産み[6]、翌年に大田皇女が大津皇子を産んだ。天智天皇6年(667年)以前に大田皇女が亡くなったので、鸕野讃良皇女が大海人皇子の妻の中でもっとも身分が高い人になった。
壬申の乱
[編集]天智天皇10年(671年)、大海人皇子が政争を避けて吉野に隠棲したとき、草壁皇子を連れて従った。『日本書紀』などに明記はないが、大海人皇子の妻のうち、吉野まで従ったのは鸕野讃良皇女だけではなかったかとされる[7][出典無効][注釈 3]。
大海人皇子は翌年に決起して壬申の乱を起こした。皇女は草壁皇子と忍壁皇子を連れて、夫に従い美濃国に向けた脱出の強行軍を行った。疲労のため大海人一行と別れて伊勢国桑名にとどまったが、『日本書紀』には大海人皇子と「ともに謀を定め」たとあり、乱の計画に与ったことが知られる。
壬申の乱のときに土地の豪族・尾張大隅が天皇に私宅を提供したことが『続日本紀』によって知られる。この天皇は天武天皇とされることが多いが、持統天皇にあてる説もある。
天武天皇の皇后
[編集]大海人皇子が乱に勝利して天武天皇2年2月に即位すると、鸕野讃良皇女が皇后に立てられた。
『日本書紀』によれば、天武天皇の在位中、皇后は常に天皇を助け、そばにいて政事について助言した。
679年に天武天皇と皇后、6人の皇子は、吉野の盟約を交わした。6人は草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、志貴皇子で、川島と志貴が天智の子、残る4人は天武の子である。天武は皇子に互いに争わずに協力すると誓わせ、彼らを抱擁した。続いて皇后も皇子らを抱擁した。
皇后は病を得たため、天武天皇は薬師寺の建立を思い立った。
681年、天皇は皇后を伴って大極殿にあり、皇子、諸王、諸臣に対して律令の編纂を始め、当時19歳の草壁皇子を皇太子にすることを知らせた。当時、実務能力がない年少者を皇太子に据えた例はなかった。皇后の強い要望があったと推測される[独自研究?]。
685年頃から、天武天皇は病気がちになり、皇后が代わって統治者としての存在感を高めていった。686年7月に、天皇は「天下の事は大小を問わずことごとく皇后及び皇太子に報告せよ」と勅し、持統天皇・草壁皇子が共同で政務を執るようになった。
大津皇子の謀反
[編集]大津皇子は草壁皇子より1歳年下で、母の身分は草壁皇子と同じであった。立ち居振る舞いと言葉遣いが優れ、天武天皇に愛され、才学あり、詩賦の興りは大津より始まる、と『日本書紀』は大津皇子を描くが、草壁皇子に対しては何の賛辞も記さない。草壁皇子の血統を擁護する政権下で書かれた『日本書紀』の扱いがこうなので、諸学者のうちに2人の能力差を疑う者はいない[9]。2人の母は姉妹であって、大津皇子は早くに母を失ったのに対し、草壁皇子の母は存命で皇后に立って後ろ盾になっていたところが違っていた。草壁皇子が皇太子になった後に、大津皇子も朝政に参画したが、皇太子としての草壁皇子の地位は定まっていた。
しかし、天武天皇の崩御の翌10月2日に、大津皇子は謀反が発覚し、翌3日に自害した。川島皇子の密告という。具体的にどのような計画があったかは史書に記されない。皇位継承を実力で争うことはこの時代までよくあった。そこで、大津皇子に皇位を求める動きか、何か不穏な言動があり、それを察知した持統天皇が即座につぶしたのではないかと解する者がいる。謀反の計画はなく、草壁皇子のライバルに対して持統天皇が先制攻撃をかけたのではないかと考える者も多い[10]。いずれにせよ、速やかな反応に持統天皇の叡慮を見る点は共通している。
持統天皇の称制と即位
[編集]天武天皇は、2年3ヶ月にわたり、皇族・臣下をたびたび列席させる一連の葬礼を経て葬られた。このとき皇太子が官人を率いるという形が見られ、草壁皇子を皇位継承者として印象付ける意図があったともされる[11]。
ところが、689年4月に草壁皇子が病気により薨去したため、皇位継承の計画を変更しなければならなくなった。鸕野讃良は草壁皇子の子(つまり鸕野讃良の孫にあたる)軽皇子(後の文武天皇)に皇位継承を望むが、軽皇子は幼く(当時7歳)当面は皇太子に立てることもはばかられた。こうした理由から鸕野讃良は自ら天皇に即位することにした。
その即位の前年に、前代から編纂事業が続いていた飛鳥浄御原令を制定、施行した。同年の12月8日には、双六を禁止している[12]。
690年の持統天皇の即位の儀式の概略は、天武天皇の葬礼とともに、『日本書紀』にかなり具体的に記されている。ただし以前の儀式が詳しく記されていないので正確なところは不明だが、物部麻呂朝臣が盾、矛を立てた例は前にもあり、神祇官中臣大嶋朝臣が天つ神の寿詞を読み上げることと、公卿が連なり遍く拝みたてまつり、手拍つというのは初見である。また前代にみられた群臣の協議・推戴はなかった。全体に古式を踏襲したものとみなす見解もあるが[13][14]、新しい形式の登場に天皇の権威の上昇を見る学者が多い[15][16]。
即位の後、大赦を行い、天皇は大規模な人事交代を行い、高市皇子を太政大臣に、多治比島を右大臣に任命した。ついに一人の大臣も任命しなかった天武朝の皇親政治は、ここで修正されることになった[17][注釈 4]。
持統天皇の治世
[編集]天武天皇の政策の継承
[編集]持統天皇の治世は、天武天皇の政策を引き継ぎ、長きに渡って喪に服しつつ完成させる位置付けを示し、飛鳥浄御原令の制定と藤原京の造営が大きな二本柱である[19]。
第一回神宮式年遷宮と新しい京の建設は天武天皇の念願であり、既に着手されていたと[20]も、持統天皇が開始したとも言われる。未着手とする説では、その理由が民の労役負担を避けるためだったと説かれるので、後述の伊勢行幸ともども、天武の治世と微妙に異なる志向がある[21]。
また、官人層に武備・武芸を奨励して、天武天皇の政策を忠実に引き継いだ。墓記を提出させたのは、天武天皇の歴史編纂事業を引き継ぐものであった。
民政においては、戸籍を作成した。庚寅の造籍という。687年(持統元年)正月には、都に住む老人・病人・貧民に絁綿を施し、6月に罪人を赦し、7月に天武14年以前の負債の利子を免除し、688年6月にはふたたび罪人の赦免と、全国の調半減を令している[22]。大津皇子に対する処置の峻烈さにより宮廷の動揺を抑え、一方、民衆に対しては宥和政策を以って臨むという政策によって、天武天皇崩御後の難局は、打開されたといえる[23]。
持統天皇は、柿本人麻呂に天皇を賛仰する歌を作らせた[24]。人麻呂は官位こそ低かったものの、持統天皇から個人的庇護を受けたらしく、天皇が崩御するまで「宮廷詩人」として天皇とその力を讃える歌を作り続け、その後は地方官僚に転じた。
天武との違いで特徴的なのは、頻繁な吉野行幸である。夫との思い出の地を訪れるというだけでなく、天武天皇の権威を意識させ、その権威を借りる意図があったのではないかと言われる。他に伊勢国(途中、「賜所過」の記述から、神郡、伊賀国、志摩国が含まれていると見られている)に一度、紀伊国に一度の行幸を記録する。『万葉集』の記述から近江に一度の行幸も推定できる。692年3月3日の伊勢行幸[25]では、農事の妨げになるという中納言・三輪高市麻呂のかん言を押し切った。この行幸には続く藤原京の造営に地方豪族層を協力させる意図が指摘される[26][注釈 5]。
持統天皇は、天武天皇が生前に皇后(持統)の病気平癒を祈願して造営を始めた大和国の薬師寺を完成させ、勅願寺とした。
外交政策
[編集]外交では前代から引き続き新羅と通交し、唐とは公的な関係を持たなかった。日本書紀の持統4年(690年)の項に以下の主旨の記述がある。
- 持統天皇は、筑後国上陽咩郡(上妻郡)の住人大伴部博麻に対して、「百済救援の役でその方は唐の抑留捕虜とされた。その後、土師連富杼、氷連老、筑紫君薩夜麻、弓削連元実児の四人が、唐で日本襲撃計画を聞き、朝廷に奏上したいが帰れないことを憂えた。その時その方は富杼らに『私を奴隷に売り、その金で帰朝し奏上してほしい』と言った。そのため、筑紫君薩夜麻や富杼らは日本へ帰り奏上できたが、その方はひとり30年近くも唐に留まった後にやっと帰ることが出来た。自分は、その方が朝廷を尊び国へ忠誠を示したことを喜ぶ。」と詔して、土地などの褒美を与えた。
新羅に対しては対等の関係を認めず、向こうから朝貢するという関係を強いたが、新羅は唐との対抗関係からその条件をのんで関係を結んだようである。日本からは新羅に学問僧など留学生が派遣された[27]。
文武天皇への譲位
[編集]持統天皇の統治期間の大部分、高市皇子が太政大臣についていた。高市は母の身分が低かったが、壬申の乱での功績が著しく、政務にあたっても信望を集めていたと推察される[28]。公式に皇太子であったか、そうでなくとも有力候補と擬せられていたのではないかと説かれる[29]。
その高市皇子が持統天皇10年7月10日に薨去した。『懐風藻』によれば、このとき持統天皇の後をどうするかが問題になり、皇族・臣下が集まって話し合い、葛野王の発言が決め手になって697年2月に軽皇子が皇太子になった[30]。 この一連の流れを持統天皇による一種のクーデターとみなす説もある[注釈 6]。
持統天皇は8月1日に15歳の軽皇子に譲位した。文武天皇である。日本史上、存命中の天皇が譲位したのは皇極天皇に次ぐ2番目で、持統は初の太上天皇(上皇)になった。
譲位後の持統上皇
[編集]譲位した後も、持統上皇は文武天皇と並び座して政務を執った。文武天皇時代の最大の業績は大宝律令の制定・施行だが、これにも持統天皇の意思が関わっていたと考えられる[32]。しかし、壬申の功臣に代わって藤原不比等ら中国文化に傾倒した若い人材が台頭し、持統期に影が薄かった刑部親王(忍壁皇子)が再登場したことに、変化を見る学者もいる[33]。
持統上皇は大宝元年(701年)にしばらく絶っていた吉野行きを行った。翌年には三河国まで足を伸ばす長旅に出て、壬申の乱で功労があった地方豪族をねぎらった。
崩御
[編集]大宝2年(702年)の12月13日に病を発し[34]、22日に崩御した[34]。宝算58。1年間の殯(もがり)の後、火葬されて天武天皇陵に合葬された。天皇の火葬はこれが最初であった[35]。
人物評価・歴史学上の論点
[編集]『日本書紀』にみる人物像
[編集]『日本書紀』は、持統天皇を「深沈で大度」・「礼を好み節倹」・「母の徳あり」などとする。
女帝持統の役割と野心
[編集]持統天皇は、7世紀から8世紀の日本古代に特徴的な女性天皇(女帝)の一人である。他の女帝についてしばしば政権担当者が別に想定されるのと異なり、持統天皇の治世の政策は持統天皇が推進した政策と理解される。持統天皇が飾り物でない実質的な、有能な統治者であったことは、諸学者の一致するところである。『日本書紀』には天武天皇を補佐して天下を定め、様々に政治について助言したとあり[注釈 7]、『続日本紀』には文武天皇と並んで座って政務をとったとあるので、持統の政治関与は在位期間に限られていない。持統天皇は天武天皇とともに「大君は神にしませば」と歌われており[注釈 8]、天皇権力強化路線の最高到達点とも目される。
政治家としての持統天皇の役割・動機は、天武天皇から我が子の草壁皇子・孫の軽皇子に皇位を伝えることであったとするのが通説である。持統天皇は草壁皇子が天武天皇の後を嗣ぐことを望み、夫に働きかけて草壁を皇太子に就け、夫の死後に草壁のライバルであった大津皇子を排除した。天武天皇の葬礼が終わったあとに草壁皇子を即位させるつもりだったが、その実現前に皇子が死んだために、やむなく自らが即位したと解する[独自研究?]。
近年では、女帝一般が飾り物ではなく、君主として実質的な権力を振るったと考える傾向もあり、鸕野讃良皇女自身が初めから皇位に向けた政治的野心を持っていたとする説が出てきた[37]。天武天皇が自らを漢の高祖になぞらえたらしいことから、持統天皇は自らをその妻で夫の死後政治の実権を握った呂太后になぞらえたのではないかと推測する学者もいる[38]。
持統天皇による謀略説
[編集]持統天皇の積極的性格と有能さを前提として、彼女による様々な謀略が説かれている。
壬申の乱では鸕野讃良皇女が大海人皇子に協力したとするのが通説だが、彼女こそが乱の首謀者であるという説がある[39]。
大津皇子の謀反については、持統天皇の攻撃的意図を見ない人の方が少ない。大津皇子の無実を説くか[40][41]、そうでなくともわずかな言葉をとらえて謀反に仕立て上げられたと考える学者が多い。
関連して『万葉集』の歌にまつわる対大津監視スパイ説がある。万葉学者の吉永登は、石川郎女と寝たことを津守通に占いで看破されて大津皇子が詠んだ歌[42]について、津守は占いではなく密偵によって知ったのではないかという[43]。直木孝次郎がこれを支持して持統の指示によるのではないかと推測している[44]。
血縁
[編集]系図
[編集]持統天皇の系譜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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34 舒明天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
古人大兄皇子 | 38 天智天皇 (中大兄皇子) | 間人皇女(孝徳天皇后) | 40 天武天皇 (大海人皇子) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
倭姫王 (天智天皇后) | 41 持統天皇 (天武天皇后) | 43 元明天皇 (草壁皇子妃) | 39 弘文天皇 (大友皇子) | 志貴皇子 | 高市皇子 | 草壁皇子 | 大津皇子 | 忍壁皇子 | 長皇子 | 舎人親王 | 新田部親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
葛野王 | 49 光仁天皇 | 長屋王 | 44 元正天皇 | 42 文武天皇 | 吉備内親王 (長屋王妃) | 文室浄三 (智努王) | 三原王 | 47 淳仁天皇 | 貞代王 | 塩焼王 | 道祖王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
池辺王 | 50 桓武天皇 | 早良親王 (崇道天皇) | 桑田王 | 45 聖武天皇 | 三諸大原 | 小倉王 | 清原有雄 〔清原氏〕 | 氷上川継 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
淡海三船 〔淡海氏〕 | 礒部王 | 46 孝謙天皇 48 称徳天皇 | 井上内親王 (光仁天皇后) | 文室綿麻呂 〔文室氏〕 | 清原夏野 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
石見王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高階峯緒 〔高階氏〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蘇我堅塩媛 | 29欽明天皇 | 石姫皇女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
33推古天皇 | 30敏達天皇 | 広姫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大俣女王 | 押坂彦人 大兄皇子 | 糠手姫皇女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吉備姫王 | 茅渟王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
35皇極天皇 37斉明天皇 | 34舒明天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蘇我遠智娘 | 38天智天皇 | 蘇我姪娘 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
40天武天皇 | 41持統天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
49代以降 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
草壁皇子 | 43元明天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
44元正天皇 | 藤原宮子 | 42文武天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光明皇后 | 45聖武天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
46孝謙天皇 48称徳天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
子孫
[編集]持統天皇の子は草壁皇子ただ1人のみであったが、その系統は天皇家の嫡流として奈良時代における文化・政治の担い手となった。しかしながら、天武天皇と持統天皇の男系子孫の多くは病弱で短命であった。そのような状況が、奈良時代における、皇位継承に関する様々な紛争の要因となった。そして、玄孫の基王と孝謙・称徳天皇が亡くなった後、天智天皇系の光仁天皇が即位し、天武・持統天皇の血統の天皇は途絶えた。
光仁天皇の皇后には、称徳天皇の姉妹である井上内親王が立てられ、その子の他戸親王(持統天皇の来孫)が立太子された。しかし、他戸親王は謀反の罪に問われて庶人に落とされ、そのまま没した。また、他戸親王の姉・酒人内親王は桓武天皇の妃となり朝原内親王(平城天皇の妃)を産んだが、朝原内親王は子を成さなかった。
その他では、昆孫の峯緒王が承和11年(844年)に高階真人姓を賜り高階氏の祖となった。ただし、峯緒王の曽祖父桑田王(長屋王の子)には生母に二つの説があり、持統天皇の血を引いていない可能性もある。高階氏出身の高階貴子と藤原道隆の子藤原隆家の子孫に、後鳥羽天皇の生母坊門殖子がおり(高階峯緒の孫、高階師尚は養子であるという風説が古くからあるが、あくまで伝承の域を出ない)、現代の皇室にもつながる。また、皇族の身分を剥奪された来孫の氷上川継、曾孫の説のある高円広成・高円広世など、歴史からは姿を消したものの、彼らを通じて持統天皇の血をひく子孫がいる可能性がある。
- 子
- 孫
- 曾孫
- 玄孫
- 来孫
- 昆孫
万葉歌人
[編集]万葉歌人としても『万葉集』巻1雑歌28に藤原宮御宇天皇代(高天原廣野姫天皇 元年丁亥11年譲位軽太子尊号曰太上天皇)天皇御製歌として名を留めている。
- 「春過而 夏來良之 白妙能 衣乾有 天之香來山」
この歌は新古今和歌集巻第三の175番にて、以下のように改められた上で所収され、『小倉百人一首』にも選ばれている
- 「春すきてなつきにけらししろたへのころもほすてふあまのかく山」
- 春すぎて夏來にけらし白たへの ころもほすてふあまの香具山(『小倉百人一首』)
陵・霊廟
[編集]陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県高市郡明日香村大字野口にある檜隈大内陵(桧隈大内陵:ひのくまのおおうちのみささぎ)に治定されている。天武天皇との合葬陵で、宮内庁上の形式は上円下方(八角)。遺跡名は「野口王墓古墳」。
大化2年に出された薄葬令により天皇としては初めて火葬された。この陵は古代の天皇陵としては珍しく、治定に間違いがないとされる。天武天皇とともに合葬され、持統天皇の遺骨は夫の棺に寄り添うように銀の骨つぼに収められていた。しかし、1235年(文暦2年)に盗掘に遭った際に骨つぼだけ奪い去られて遺骨は近くに捨てられたという。
藤原定家の『明月記』に盗掘の顛末が記されている。また、盗掘の際に作成された『阿不幾乃山陵記』に石室の様子が書かれている。『明月記』には「女帝の御骨においては、銀の筥を盗むため、路頭に棄て奉りしと言う。塵灰と言えども探しだし、拾い集めてもとに戻すべきであろう。ひどい話だ。」とあり、崩御の500年後に夫・天武天皇と引き離され打ち捨てられた持統天皇の悲惨さを物語っている。
上記とは別に、奈良県橿原市五条野町にある宮内庁の
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
持統天皇を主題とする作品
[編集]漫画
[編集]- 里中満智子『天上の虹 持統天皇物語』
- 長岡良子『古代幻想ロマンシリーズ・眉月の誓』
- 大和和紀『天の果て地の限り』
- そにしけんじ『ねこねこ日本史 第2巻』
小説
[編集]- 阿夫利千恵『妖の女帝 持統天皇』
- 小石房子『鉄の女帝持統』
- 近藤精一郎『白鳳の女帝―持統天皇私伝』
- 三田誠広『炎の女帝 持統天皇』
- 坂東眞砂子『朱鳥の陵』
- 松本清張『清張通史5 壬申の乱』、講談社〈講談社文庫〉、1988年。初版は1979年に講談社から発行、文庫版で訂正あり。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 伊勢行幸に同行した石上麻呂は「吾妹子乎去来見乃山乎高三香裳日本能不所見国遠見可聞」と、伊勢行幸の行宮で「倭」を「日本」と記している。
- ^ 同一人である可能性を指摘しつつ「同一人か否かは問題がある」とする説もある[5]。
- ^ 北山茂夫は、皇族出身の妻のうちただ一人、と限定する[8]。
- ^ これには新制度が定めた官職を補充するために人材の数が必要になったという事情もあったであろうが、皇位継承のライバルとなる皇族の登用を持統天皇が望まなかったという可能性も指摘される[18]。
- ^ この行幸の筆頭の目的地は神郡(度会郡と多気郡)とされ、確実ではないが伊勢神宮を参拝した可能性が高い。『万葉集』巻1、44番には行幸に従った石上麻呂の歌が収められており、この歌では大和国を「日本」と記している(『万葉集』歌謡における「日本」の初出。690年の紀伊行幸で阿閇皇女(後の元明天皇)が詠んだ35番の歌では「倭」)。『新唐書』日本伝は名前や系譜の誤りはあるが、持統天皇が倭国を改めて日本としたと記している。また日本は小さな国だったとも記し、『旧唐書』日本国伝にも同様の記事がある。
- ^ 本間満はその根拠として軽皇子の立太子に関する記事について、『続日本紀』の文武天皇の即位前紀には記されているものの、肝心の『日本書紀』の持統天皇紀には東宮職員の任命記事こそあるものの立太子と言う重要な出来事には全く触れられておらず、天武天皇の諸皇子の皇位継承を巡る動きの中で、軽皇子の立太子が行い得なかったとする[31]。
- ^ 『後漢書』明徳馬皇后紀にほぼ同文があると指摘されている[36]。
- ^ 西郷信友は、壬申の乱の後に詠んだとの注釈によって天武天皇を指して詠まれたと一般に解される大伴御行の2首を、持統天皇による藤原京造営にあてる。そうすると、「大君は神にしませば」とは持統天皇の代に固有のものになる。
- ^ 桑田王の母は石川夫人という説もある為、この説に則った場合、桑田王の子孫に持統天皇の血は入っていないことになる。
出典
[編集]- ^ 直木 1985, p. 1.
- ^ 瀧浪貞子『女性天皇』集英社〈集英社新書〉、2004年、89頁。
- ^ 告井幸男「名代について」『史窓』第071巻、京都女子大学史学会、2014年、1-21頁、hdl:11173/1496、ISSN 0386-8931、NAID 120005407781。
- ^ 直木 1985, pp. 51–53.
- ^ 新編古典文学全集『日本書紀』第5巻178頁注2
- ^ 『日本書紀』持統紀即位前紀「天命開別天皇元年生草壁皇子於大津宮」
- ^ 直木 1985, pp. 122–123.
- ^ 北山 1959, p. 132.
- ^ 直木 1985, pp. 160–161.
- ^ 北山 1959, p. 153.
- ^ 北山 1959, pp. 155, 159–160.
- ^ 『日本書紀』巻第三十
- ^ 北山 1959, p. 165.
- ^ 直木 1985, p. 206.
- ^ 上田 1996, pp. 153–155.
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参考文献
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- 北山茂夫「持統天皇論」『日本古代政治史の研究』、岩波書店、1959年。
- 小島憲之・校注 『懐風藻・文華秀麗集・本朝文粋』 岩波書店〈日本古典文学大系69〉、1964年。
- 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校訂・訳 『日本書紀 3』 小学館〈新編日本古典文学全集 4〉、1998年、ISBN 978-4-09-658004-2。
- 直木孝次郎『持統天皇』(新装版)吉川弘文館〈人物叢書〉、1985年。ISBN 4-642-05009-4。
- 吉永登「大津皇子とその政治的背景」『万葉 文学と歴史の間』、創元社、1967年。
- 上田正昭『古代日本の女帝』講談社〈講談社学術文庫〉、1996年。初版は『女帝』 講談社〈講談社現代新書〉として1971年に発行、1973年に『日本の女帝』と改名。
- 渡辺晃宏『平城京と木簡の世紀』講談社〈日本の歴史04〉、2001年。ISBN 4-06-268904-9。
- 倉本一宏『壬申の乱』吉川弘文館、2007年。ISBN 978-4-642-06312-8。
- 遠山美都男『古代の皇位継承 天武系皇統は実在したか』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2007年。
- 熊谷公男『大王から天皇へ』講談社〈日本の歴史03〉、2008年。ISBN 4-06-268903-0。
- 本間満『日本古代皇太子制度の研究』雄山閣、2014年。ISBN 978-4-639-02294-7。