関東大震災
関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒(日本時間、以下同様)、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード7.9の大正関東地震による地震災害である。
神奈川県を中心に千葉県・茨城県から静岡県東部までの内陸と沿岸に広い範囲に甚大な被害をもたらし、日本災害史上最大級の被害を与えた。
被害
190万人が被災、10万5千人余が死亡あるいは行方不明になったとされる。建物被害においては全壊が10万9千余棟、全焼が21万2000余棟である。東京の火災被害が中心に報じられているが、被害の中心は震源断層のある神奈川県内で、振動による建物の倒壊のほか、液状化による地盤沈下、崖崩れ、沿岸部では津波による被害が発生した。
住宅被害棟数 | 死者・行方不明者数 | ||||||||||||
地域 | 全潰 | 非焼失 | 半潰 | 非焼失 | 焼失 | 流失・埋没 | 計 | 住宅全潰 | 火災 | 流出埋没 | 工場等の被害 | 合計 | |
神奈川県 | 63577 | 46621 | 54035 | 43047 | 35412 | 497 | 125577 | 5795 | 25201 | 836 | 1006 | 32838 | |
東京府 | 24469 | 11842 | 29525 | 17231 | 176505 | 2 | 205580 | 3546 | 66521 | 6 | 314 | 70387 | |
千葉県 | 13767 | 13444 | 6093 | 6030 | 431 | 71 | 19976 | 1255 | 59 | 0 | 32 | 1346 | |
埼玉県 | 4759 | 4759 | 4086 | 4086 | 0 | 0 | 8845 | 315 | 0 | 0 | 28 | 343 | |
山梨県 | 577 | 577 | 2225 | 2225 | 0 | 0 | 2802 | 20 | 0 | 0 | 2 | 22 | |
静岡県 | 2383 | 2309 | 6370 | 6214 | 5 | 731 | 9259 | 150 | 0 | 171 | 123 | 444 | |
茨城県 | 141 | 141 | 342 | 342 | 0 | 0 | 483 | 5 | 0 | 0 | 0 | 5 | |
長野県 | 13 | 13 | 75 | 75 | 0 | 0 | 88 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
栃木県 | 3 | 3 | 1 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
群馬県 | 24 | 24 | 21 | 21 | 0 | 0 | 45 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
合計 | 109713 | 79733 | 102773 | 79272 | 212353 | 1301 | 372659 | 11086 | 91781 | 1013 | 1505 | 105385 |
- 非焼失の全潰・半潰は焼失及び流出、埋没の被害を受けていない棟数。
- 津波:静岡県熱海市 6m。千葉県相浜 9.3m。洲崎 8m、神奈川県三浦 6m。鎌倉市由比ケ浜で300人余が行方不明。
この震災の記録映像として、記録映画キャメラマン白井茂による『関東大震大火実況』が残されており、東京国立近代美術館フィルムセンターが所蔵している。その一部は同センターの展示室の常設展で見ることができる。
人的被害
2004年ごろまでは、死者・行方不明者は約14万人とされていた。この数字は、震災から2年後にまとめられた「震災予防調査会報告」に基づいた数値である。しかし、近年になり武村雅之らの調べによって、14万人の数字には重複して数えられているデータがかなり多い可能性が指摘され、その説が学界にも定着したため、理科年表では、2006年(平成18年)版から修正され、数字を丸めて「死者・行方不明 10万5千余」としている[1]。
地震の揺れによる建物倒壊などの圧死があるものの、強風を伴った火災による死傷者が多くを占めた。津波の発生による被害は太平洋沿岸の相模湾沿岸部と房総半島沿岸部で発生し、高さ10m以上の津波が記録された。山崩れや崖崩れ、それに伴う土石流による家屋の流失・埋没の被害は神奈川県の山間部から西部下流域にかけて発生した。特に神奈川県根府川村(現、小田原市の一部)の根府川駅ではその時ちょうど通りかかっていた列車が駅舎・ホームもろとも土石流により海中に転落し、100人以上の死者を出し、更にその後に発生した別の土石流で村の大半が埋没、数百名の犠牲者を出した。
関東大震災で落命した著名人
- 閑院宮寛子女王 - 小田原・閑院宮御別邸へ避暑のところ、別邸が倒壊
- 東久邇宮師正王 - 避暑先の藤沢にある別荘が倒壊
- 山階宮王妃佐紀子女王 - 鎌倉の山階宮別邸が倒壊
- 松岡康毅(枢密顧問官・日本大学総長) - 葉山の別邸が倒壊
- 園田孝吉(実業家・男爵)
- 厨川白村(英文学者・評論家) - 鎌倉で津波に巻き込まれ、翌2日に死去
- 辻村伊助(園芸家・登山家) - 小田原の自宅裏のがけ崩れに巻き込まれ、妻子と共に犠牲となる
- 富田木歩(俳人) - 向島の自宅で被災し、避難の途中で退路を断たれ焼死
- 麗々亭柳橋 (5代目)(落語家)
- ウィリアム・ヘーグ(イギリス外交官・草創期のサッカー振興に関与) - 勤務先の横浜の領事館が倒壊
- ジェニー・M・カイパー(フェリス和英女学校校長)
火災
地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なったことから、136件の火災が発生した。大学や研究所で、化学薬品棚の倒壊による発火も見られた。しかし工藤美代子は「火元には、空き家や小学校、女学校、越中島の糧秣廠(兵員用の食料(糧)及び軍馬用のまぐさ(秣)を保管する倉庫で、火薬類は保管していない)等、発火原因が不明な所があり、2日の午後に新しい火災が発生する等不審な点も多い」と主張する[2]。加えて能登半島付近に位置していた台風により、関東地方全域で風が吹いていたことが当時の天気図で確認できる。火災は地震発生時の強風に煽られ、「陸軍本所被服廠跡地惨事」で知られる火災旋風を引き起こしながら広まり、鎮火したのは2日後の9月3日10時頃とされている。
建物
東京市内の建造物の被害としては、凌雲閣(浅草十二階)が大破、建設中だった丸の内の内外ビルディングが崩壊し作業員300余名が圧死した。また、大蔵省、文部省、内務省、外務省、警視庁など官公庁の建物や、帝国劇場、三越日本橋本店など、文化・商業施設の多くが焼失した。神田神保町や東京帝国大学図書館、松廼舎文庫も類焼し、多くの貴重な書籍群が失われた。
震源に近かった横浜市では官公庁やグランドホテル・オリエンタルホテルなどが石造・煉瓦作りの洋館であった事から一瞬にして倒壊し、内部にいた者は逃げる間もなく圧死した。更に火災によって外国領事館の全てが焼失、工場・会社事務所も90%近くが焼失した。千葉県房総地域の被害も激しく、特に北条町では古川銀行・房州銀行が辛うじて残った以外は郡役所・停車場等を含む全ての建物が全壊。測候所と旅館が亀裂の中に陥没するなど壊滅的被害を出した。
なお、地震以後も気象観測を続けた東京の中央気象台では、1日21時頃から異常な高温となり、翌2日未明には最高気温46.4度を観測している[3]。 この頃、気象台には大規模な火災が次第に迫り、ついに気象台の本館にも引火して焼失していた。気象記録としては無効とされ抹消されているものの、火災の激しさを示すエピソードである。
トンネル
震央から約120kmの範囲内にあった国有鉄道の149トンネル(建設中を含む)のうち、93トンネルで補修が必要となった。激しい被害を受けたのは、現在の東海道線(当時、熱海線)小田原-真鶴間で11トンネルのうち7トンネルが大破するなどの被害を生じた。地滑りや斜面崩落により抗口付近の崩落や埋没を生じたが、抗口から離れた場所でも亀裂や横断面の変形を生じている。深刻な被害を生じたのは、根ノ上山トンネル(熱海線:早川-根府川間)も与瀬トンネル(中央線:相模湖-藤野間)、南無谷トンネル(現在の内房線:岩井-富浦間)[4]。
影響
流言飛語と虐殺事件
加藤友三郎内閣総理大臣が8月24日(震災発生8日前)に急逝していたため、地震発生時及びその後は内田康哉が内閣総理大臣臨時代理として職務を代行した。
当時電話は一般家庭に普及しておらず、ラジオ放送の実用化はこの直後、大正末期のことであり(ラジオ#日本初のラジオ放送)、通信、報道手段としては電報と新聞が主なものであった。しかし、東京にあった新聞社は地震発生により活字ケースが倒れて活字が散乱した事で印刷機能が崩壊し、更に大火によって東京日日新聞・報知新聞、都新聞を除く13社は焼失し、最も早く復旧した東京日日新聞が9月5日付夕刊を発行するまで報道機能は麻痺した。通信・交通手段の途絶も加わって関東以外の地域では伝聞情報や新聞記者・ジャーナリストの現地取材による情報収集に頼らざるを得なくなり新聞紙上では「東京(関東)全域が壊滅・水没」、「津波、赤城山麓にまで達する」、「政府首脳の全滅」、「伊豆諸島の大噴火による消滅」、「三浦半島の陥没」などと言った噂やデマとされる情報が取り上げられた[5]。
こうした情報の中には、当時日本植民地であった朝鮮人が「暴徒化[6]した」「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」というものもあった。流言の数々が9月2日から9月6日にかけ、大阪朝日新聞、東京日日新聞、河北新聞で報じられており、大阪朝日新聞においては、9月3日付朝刊で「何の窮民か 凶器を携えて暴行 横浜八王子物騒との情報」の見出しで、「横浜地方ではこの機に乗ずる不逞鮮人に対する警戒頗る厳重を極むとの情報が来た」とし、3日夕刊(4日付)では「各地でも警戒されたし 警保局から各所へ無電」の見出しで「不逞鮮人の一派は随所に蜂起せんとするの模様あり・・・」と、警保局による打電内容を、3日号外では東朝(東京朝日新聞)社員甲府特電で「朝鮮人の暴徒が起つて横濱、神奈川を經て八王子に向つて盛んに火を放ちつつあるのを見た」との記者目撃情報が掲載されている。
こうした情報の信憑性については、早くも2日以降、官憲や軍内部において疑念が生じ始め、2日に届いた一報に関しては、第一師団(東京南部担当)が検証したところ虚報だと判明、3日早朝には流言にすぎないとの告知宣伝文を市内に貼ってまわっている[7]。5日になり、見解の統一を必要とされた官憲内部で、精査の上、戒厳司令部公表との通達において
「 | 不逞鮮人については三々五々群を成して放火を遂行、また未遂の事件もなきにあらずも、既に軍隊の警備が完成に近づきつつあれば、最早決して恐るる所はない。出所不明の無暗の流言蜚語に迷はされて、軽挙妄動をなすが如きは考慮するが肝要であろう | 」 |
と公表[8]。「朝鮮人暴動」の事実を肯定するも流言が含まれる旨の結論が出された。8日には、東京地方裁判所検事正南谷智悌が一部流言内容を否定する見解を公表、併せて「(朝鮮人による)一部不平の徒があって幾多の犯罪を敢行したのは事実である」とし、中には婦人凌辱もあったと談話の中で語った[9]。一部の流言については、1944年(昭和19年)に警視庁での講演において、正力松太郎も、当時の一部情報が「虚報」だったと発言している[10]。
また、震災後は事態の混乱を防止する為、当局により朝鮮人犯罪に対する報道規制が10月20日まで続けられた。10月20日以降は当局による記事差し止めが解除され、朝鮮人による日本橋の大倉倉庫への放火や、四つ木での少女輪姦殺人・ピストルによる銃乱射等、朝鮮人犯罪者が実名で改めて報じられた。[11]
一方、過去数多く繰り返されてきていた朝鮮人の暴動・襲撃はこの際においても事実であり、台風の時期及び、震災の年の11月に予定された摂政宮(昭和天皇)御成婚式を標的にテロを計画していた集団が、予想外の震災を前にしたため前倒しで騒擾を企てたものであって、それに対する自警団の組織化と防衛は正当だったとし、その後、過剰な排撃による社会混乱を恐れた後藤新平ら治安筋が、暴動自体は事実だとしながらも、事態の収束を図ろうと報道統制に入ったもので、また、善良な朝鮮人が巻き添えになった事実はあるが、被害数は誇張された政治プロパガンダにすぎないという分析もある[2]。
警視総監・赤池濃は「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために、「衛戌総督に出兵を要求すると同時に、警保局長に切言して」内務大臣・水野錬太郎に「戒厳令の発布を建言」した。これを受けて内務省警保局(局長・後藤文夫)が各地方長官に向けて以下の内容の警報を打電した。
「 | 東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、朝鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし | 」 |
更に警視庁からも戒厳司令部宛に
「 | 鮮人中不逞の挙について放火その他凶暴なる行為に出(いず)る者ありて、現に淀橋・大塚等に於て検挙したる向きあり。この際これら鮮人に対する取締りを厳にして警戒上違算無きを期せられたし | 」 |
と“朝鮮人による火薬庫放火計画”なるものが伝えられた[12]。
実際、当時の混乱の中、大衆の多くが“暴徒と化した朝鮮人”を恐れ、自警団との衝突も発生した。そのため、朝鮮人や中国人なども含めた死者が出た。朝鮮語では語頭に濁音が来ないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として暴行、殺害した[13]。朝鮮人かどうかを判別するために国歌を歌わせた[14]、警官手帳を持った巡査が憲兵に逮捕され偶然いあわせた幼馴染の海軍士官に助けられたという逸話もある[15]。千田是也は、自身が朝鮮人と間違えられ、危うく殺されかけた経験から芸名をつけている(「鮮(朝鮮人)だ、これは」という自警団の言葉から取られているとも「千駄ヶ谷のコリアン」を自称したためとも言う)。当時早稲田大学在学中であった後の大阪市長中馬馨は、叔母の家に見舞いに行く途中群集に取り囲まれ、下富坂警察署に連行され「死を覚悟」する程の暴行を受けたという[16]。また、福田村事件のように、方言を話す地方出身の日本内地人が殺害されたケースもある。聾唖者(聴覚障害者)も、多くが殺された[17]。
一方で横浜市の鶴見警察署長・大川常吉は、保護下にある朝鮮人等300人の奪取を防ぐために、1000人の群衆に対峙して「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と群衆を追い返した。さらに「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升ビンの水を飲み干したとされる[18]。また、軍も多くの朝鮮人を保護した。当時横須賀鎮守府・野間口兼雄長官の副官だった草鹿龍之介大尉(後の南雲機動部隊参謀長)は「朝鮮人が漁船で大挙押し寄せ、赤旗を振り、井戸に毒薬を入れる」[5]等のデマに惑わされず、海軍陸戦隊の実弾使用申請や、在郷軍人の武器放出要求に対し断固として許可を出さなかった[14]。横須賀鎮守府は戒厳司令部の命により朝鮮人避難所となり、身の危険を感じた朝鮮人が続々と避難している[19]。
殺害された人数は複数の記録、報告書などから研究者の間で議論が分かれており、当時の政府(司法省)の調査では233人、吉野作造の調査では2613人余[20]、最も犠牲者を多く見積もる立場からは6661人(上海の大韓民国臨時政府の機関紙「独立新聞」社長の金承学の調査)[21]と幅が見られる[22]。内務省警保局調査(「大正12年9月1日以後ニ於ケル警戒措置一斑」)では、朝鮮人死亡231人・重軽傷43名、中国人3人、朝鮮人と誤解され殺害された日本人59名、重軽傷43名であった[22]。
また警察は、朝鮮人や中国人などを襲撃した日本人を逮捕している。殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で起訴された日本人は362名に及んだ。しかし、そのほとんどが執行猶予となり、福田村事件では実刑となった者も皇太子(のちの昭和天皇。当時は摂政)結婚で恩赦になった[23]。“自警団”が本格的に取り締まられるようになるのは10月、解散が命じられるようになるのは11月のことである。
政府はこうした混乱の拡大を防ぐため、朝鮮人が起こした事件の報道を一定期間禁止した[24]。10月21日に差し止めが解除されると翌10月22日から震災当時の朝鮮人による事件が報道されるようになった[24]。10月21日の時点では、すでに取り調べが終わり起訴された朝鮮人による事件は十数件に上り、その他に治安警察法違反・窃盗・横領で起訴された朝鮮人が23人いた[24]。
陸軍の中には、社会主義や自由主義の指導者を殺害しようとする動きがあり、大杉栄・伊藤野枝・大杉の6歳の甥橘宗一らが殺された事件(甘粕事件(大杉事件))、労働運動の指導者であった平澤計七など13人が亀戸警察署で軍に銃殺され、平澤は首を切り落とされる事件(亀戸事件)が起きた。
震災不況
既に第一次世界大戦期のブームによる反動で戦後恐慌に陥ってたところへ、震災は更に追い討ちをかけることになった。多くの事業所が壊滅したことから失業者が激増し、更に震災の被害によって決済困難に陥る約束手形(震災手形)が莫大な額に上った。震災直後の7日には緊急勅令によるモラトリアムが出され、29日に至って震災手形割引損失補償令が出されて震災手形による損失を政府が補償する体制が取られた。だが、その過程で戦後恐慌に伴う不良債権までもが同様に補償されてしまい、これらの処理がこじれて昭和金融恐慌を起こすことになる。
耐震建築と不燃化
上述の通り、大震災ではレンガ造の建物が倒壊した。また鉄筋コンクリート造りの建物も大震災の少し前から建てられていたものの、建設中の内外ビルヂングが倒壊したのをはじめ日本工業倶楽部や丸ノ内ビルヂングなども半壊するなど被害が目立った。そんな中、内藤多仲が設計し震災の3ヶ月前には完成していた日本興業銀行本店は無傷で残ったことから、一挙に耐震建築への関心が高まった。既に1919年(大正8年)には市街地建築物法が公布(1920年(大正9年)施行)されていたが、1924年(大正13年)に法改正が行われ日本で初めての耐震基準が規定された。同法は、後の建築基準法の元となった。
一方で震災では火災による犠牲者が多かったことから、燃えやすい木造建築が密集し狭い路地が入り組んでいた街並みを区画整理し、燃え難い建物を要所要所に配置し広い道路や公園で延焼を防ぐ「不燃化」が叫ばれる様になった。内藤と対立していた佐野利器らが主張し、後に後藤新平によって帝都復興計画として具体化する。
遷都論議
震災直後には、参謀本部では周期的に大地震が発生するおそれがある東京からの遷都が検討され、当時、参謀本部員であった今村均は京城近郊の竜山、加古川、八王子を候補地として報告したと述懐している[25][26]。しかし、震災発生から11日後の9月12日には、東京を引き続き首都として復興を行う旨を宣した詔書が発せられ[27]、遷都は立ち消えとなった。
人口動態
震災によって概して被害の大きかった東京市市街地からは人口が流出し、郊外への移住者が相次いだ。前年の1922年(大正11年)から田園都市会社によって田園調布住宅地の分譲が始まり、同じ年には箱根土地による目白文化村の分譲が始まったが、何れも被害が限定的だったことから震災後は人口が増加する。更には常盤台や国立学園都市など郊外での住宅開発が相次ぎ、郊外に居住して都心部の職場へ通うことが一種のステータスとなった。
その一方で大阪市は東京からの移住者も加わって人口が急増し、一時的に大阪市が東京市を抜き国内で最も人口の多い市となった[28]。この状況は昭和7年(1932年)に東京市が近隣町村を編入するまで続いた。
郵便切手
普通切手やはがき、そして印紙も焼失し、一部に至っては原版までも失われた。全国各地の郵便局の在庫が逼迫することが予想されたため、糊や目打なしの震災切手と呼ばれる臨時切手が、民間の印刷会社(精版印刷・大阪、秀英舎・東京)に製造を委託、9種類が発行された。その他にはがき2種類、印紙なども同様にして製造された。
更に、11月に発行を予定していた皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)と良子女王(のちの香淳皇后)との結婚式の記念切手「東宮御婚儀」4種類のほとんどが、逓信省の倉庫で原版もろとも焼失し、切手や記念絵葉書は発行中止(不発行)となった。その後、当時日本領だった南洋庁(パラオ)へ事前に送っていた分が回収され、皇室関係者と逓信省関係者へ贈呈された。結婚式自体は1924年(大正13年)の1月に延期して挙行された。
地震の混乱で発生した事件
9月2日午後11時、下江戸川橋を破壊中の朝鮮人を警備中の騎兵が射殺[29]。9月2日午後11時、南葛飾郡でこん棒などで武装した30人の朝鮮人が砲兵第七連隊第一中隊長代理砲兵中尉高橋克己のオートバイを包囲したが中尉は脱出に成功した[29]。
- 東京地方裁判所管
- 千葉地方裁判所管
- 浦和地方裁判所管
避難
東京市内の約6割の家屋が罹災したため、多くの住民は、近隣の避難所へ移動した。東京市による震災直後の避難地調査[30]によれば、9月5日に避難民12,000人以上を数える集団避難地は160箇所を記録。最も多い場所は社寺の59箇所、次いで学校の42箇所であった。公的な避難場所の造営として内務省震災救護事務局が陸軍のテント借り受け、明治神宮外苑、宮城前広場などに設営が行われた。また、9月4日からは、内務省震災救護事務局と東京府が仮設住宅(バラック)の建設を開始。官民の枠を超えて関西の府県や財閥、宗教団体などが次々と建設を進めたことから、明治神宮や日比谷公園などには、瞬く間に数千人を収容する規模のバラックが出現したほか、各小学校の焼け跡や校庭にも小規模バラックが建設された。震災から約2か月後の11月15日の被災地調査[31]では、市、区の管理するバラックが101箇所、収容世帯数2万1,367世帯、収容者8万6,581人に達している。一方、狭隘な場所に避難民が密集したため治安が悪化。一部ではスラム化の様相を見せた[32]ため、翌年には内務省社会局、警視庁、東京府、東京市が協議し、バラック撤去の計画を開始している。撤去に当たっては、東京市が月島、三ノ輪、深川・猿江に、東京府が和田堀、尾久、王子に小規模住宅群を造成した(東京市社会局年報、東京府社会事業協会一覧(1927年〔昭和2年〕))。また、義捐金を基に設立された財団法人同潤会による住宅建設も進んだ。
軍は橋をかけ、負傷者を救護した。「軍隊が無かったら安寧秩序が保てなかったろう」(佐藤春夫「サーベル礼讃」『改造』大震災号)という評価は町にも、マスコミにも溢れた。警察は消防や治安維持の失敗により威信を失ったが、軍は治安維持のほか技術力・動員力・分け隔てなく被災者を救護する公平性を示して、民主主義意識が芽生え始めた社会においても頼れる印象を与えた[33]。
復興
山本権兵衛首相を総裁とした「帝都復興審議会」を創設する事で大きな復興計画が動いた。江戸時代以来の東京の街の大改革を行い、道路拡張や区画整理などインフラ整備も大きく進んだ。また震災後日本で初めてラジオ放送が始まった。その一方で、第一次世界大戦終結後の不況下にあった日本経済にとっては、震災手形問題や復興資材の輸入超過問題などが生じた結果、経済の閉塞感がいっそう深刻化し、後の昭和恐慌に至る長い景気低迷期に入った。
震災復興事業として作られた代表的な建築物には同潤会アパート、聖橋、復興小学校、復興公園、震災復興橋(隅田川)、九段下ビルなどがある。
横須賀軍港では、ワシントン海軍軍縮条約にしたがって巡洋戦艦から航空母艦に改装されていた天城型巡洋戦艦「天城」が[34]、地震により竜骨を損傷して修理不能と判定された。代艦として、解体予定の加賀型戦艦「加賀」が空母に改装された[35]。「加賀」と「天城」の姉妹艦「赤城」は太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦で活躍した。
震災の約4週間後(9月27日)、帝都復興院が設置され、総裁の後藤新平により帝都復興計画が提案された。それは被災地を全ていったん国が買い取る提案や、自動車時代を見越した100m道路の計画(道路の計画には震災前の事業計画であった低速車と高速車の分離も含まれていた)、ライフラインの共同溝化など、現在から見ても理想的な近代都市計画であったが、当時の経済状況や当時の政党間の対立などにより予算が縮小され、当初の計画は実現できなかった(後藤案では30億円だったが、最終的に5億円強として議会に提出された)。また土地の買い上げに関しては神田駿河台の住民が猛反発した。 これが失策であった事は、東京大空襲時の火災の拡がり方や、戦後の自動車社会になって思い知らされることとなった。例えば道路については首都高速等を建設(防災のために造られた広域避難のための復興公園(隅田公園)の大部分を割り当てたり、かつ広域延焼防止のために造られた道路の中央分離帯(緑地)を潰すなどして建設された)する必要が出てきた。また現在も、一部地域では道路拡張や都市設備施設などの整備が立ち遅れているという結果を生んだ。
9月には台風災害なども多いことから、関東地震のあった9月1日を「防災の日」と1960年(昭和35年)に定め、政府が中心となって全国で防災訓練が行われている。ただし、宮城県沖地震を経験している宮城県、桜島を擁する鹿児島県などのように、独自の防災の日をもうけて、その日に防災訓練をおこなっている地域もある。
また、犠牲者の霊を祀る東京都慰霊堂が建てられている。
諸外国からの救援
地震の報を受けて、多くの国から日本政府に対する救援や義捐金、医療物資の提供の申し出が相次いだ[36]。特に第一次世界大戦時に共に戦ったアメリカの支援は圧倒的で[37]、さらに「なお希望品を遠慮なく申出られたし」との通知があった[38]。義捐金の多くはアメリカとイギリス、中華民国から送られ、他にもインド、オーストリア、カナダ、ドイツ、フランス、ベルギー、ペルー、メキシコなどからも救援物資や義捐金が送られた[39][40]。アメリカやイギリスの軍艦が救援物資や避難民を運んだことも記録に残っている[41][42]。
- 中華民国
清朝の元皇帝で、当時中華民国内で「大清皇帝」となっていた愛新覚羅溥儀は、地震の発生を聞くと深い悲しみに打ち沈んだ[43]。溥儀は日本政府に対する義捐金を送ることを表明し、併せて紫禁城内にある膨大な宝石などを送り、日本側で換金し義捐金に換金するように日本の芳沢謙吉公使に伝えた。なおこれに対し日本政府は、換金せずに評価額(20万ドル相当)と同じ金額を皇室から拠出し、宝石などは皇室財産として保管することを申し出た。その後、1923年11月に日本政府は代表団を溥儀のもとに送り、感謝の意を評した[43]。
溥儀は後に日本の協力のもとで満州国皇帝となるが、この時点において溥儀は「何の政治的な動機を持たず、純粋に同情の気持ちを持って行った」と溥儀の帝師のレジナルド・ジョンストンは自著の中で回想している[44]。
- アメリカ
黄色人種に対する差別的感情は強かったものの、第一次世界大戦において共に戦った日本に対するアメリカの政府、民間双方の支援はその規模、内容ともに最大のものであった。全米で被災者に対する募金活動が行われたほか、当時アメリカの植民地であったフィリピンのアメリカ陸軍基地からも様々な物資が送られた。
ノンフィクション作品
吉村昭によるノンフィクション『関東大震災』(のち文春文庫、ISBN 416716941X)は、初めてまとまった形でこの震災を捉えたものとされ、吉村は1973年(昭和48年)、菊池寛賞を受賞した。
関東大震災に関連したフィクション
- 帝都物語(荒俣宏)…帝都・東京の滅亡を目論む魔人、加藤保憲が大地を巡る龍脈を操作して関東大震災を起こした。
- 大虐殺(1960年、新東宝)
- 復活の地(小川一水、ハヤカワ文庫、全三巻)…SF小説。架空の惑星の大都市を襲った巨大地震とその後の復興を描く。後藤新平と帝都復興院をモデルにした人物・機関が登場する。
- おしん(1983年放映の連続テレビ小説)…大震災によって事業財産を全て失うことになり、夫の故郷である佐賀県に家族共々身を寄せることになる。
- タイムスリップ1923-守のミラクル地震体験-(1994年、日本シネセル)…防災アニメ。小学5年生の主人公が突如、関東大震災当日の東京へタイムスリップしてしまう。
- はいからさんが通る(大和和紀)…物語のクライマックスで関東大震災が起こる。
上記以外に現代もしくは近未来の関東における大震災を描いた作品も多い。それらについては南関東直下地震の関連作品を参照。
出典
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- Ref.C04015098600「軍艦天城(赤城)改造工事材料に関する件」
- Ref.C04016182200「軍艦加賀を航空母艦に改造する件」
- Ref.C08050971600「救護品輸送(其の他)」
- Ref.C08050982100「英」(大正12年 公文備考 巻161変災災害)
- Ref.C08050982700「米国救護作業」
- 草鹿龍之介『一海軍士官の半生記』(光和堂、1973年) ISBN 4-87538-019-4
- 「1923 関東大震災」『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書』中央防災会議、平成18年(2006年)7月
- 関東地震(1923 年 9 月 1 日)による被害要因別死者数の推定 諸井孝文、武村雅之 (PDF) 日本地震工学会論文集 第4巻,第4号,2004
脚注
- ^ 鹿島小堀研究室の研究成果を基に、理科年表が関東大震災の被害数を80年ぶりに改訂
- ^ a b 工藤美代子「関東大震災『朝鮮人虐殺』の真実」産経新聞出版
- ^ 藤原咲平編『関東大震災調査報告(気象篇)』中央気象台刊行
- ^ 山岳トンネルの地震被害とそのメカニズム
- ^ a b 草鹿『一海軍士官の反省記』176頁
- ^ 詳細については関東大震災犠牲同胞慰霊碑を参照
- ^ 『東京震災録』 東京市役所編・刊、1926年、P292、303、305
- ^ 報知新聞1923年9月5日号外
- ^ 報知新聞1923年10月20日
- ^ 石井光次郎『回想八十八年』カルチャー出版刊、1976年発行
- ^ その他にも、被災者から衣服・金品を強奪・殺傷し逃走をはかった朝鮮人・鄭煕瑩容疑者の逮捕等、朝鮮人による犯罪行為が実名で報道。読売新聞1923年10月20日
- ^ 『現代史資料 第6巻-関東大震災と朝鮮人』みすず書房
- ^ 壺井繁治の詩「十五円五十銭」。ただし創作以上のものは未確認。
- ^ a b 草鹿『一海軍士官の反省記』177頁
- ^ 草鹿『一海軍士官の反省記』177-178頁
- ^ 中馬馨『市政に夢を』大阪都市協会(昭和47年(1972年))、p.563
- ^ 1923年10月6日付読売新聞
- ^ 実際は、4合ビンに入れられた井戸水を飲み干して見せ、「朝鮮人が井戸に毒を入れたというのはデマである」と、自警団を追い返したのは、朝鮮人49人を保護した川崎警察署長・太田淸太郎警部である(「神奈川県下の大震火災と警察」神奈川県警察部高等課長西坂勝人著)(毎日新聞湘南版2006年9月9日朝刊)
- ^ 草鹿『一海軍士官の反省記』179頁
- ^ 朝鮮罹災同胞慰問班の一員から聞いたという伝聞(「朝鮮人虐殺事件」吉野作造 『現代史資料(6) 関東大震災と朝鮮人虐殺』P357)
- ^ この調査では「屍体を発見できなかった同胞」数が2889人として、これも「虐殺数」に計算している。
- ^ a b 姜徳相『新版 関東大震災・虐殺の記憶』 青丘文化社
- ^ 福田村事件(香川人権研究所)
- ^ a b c d 『関東一帯を騒がした鮮人暴動の正体はこれ:放火殺人暴行掠奪につぎ橋梁破壊も企てた不逞団 (記事差止め昨日解除)』その1 東京時事新報1923.10.22
- ^ 『今村均回顧録』 今村均、芙蓉書房、1980年
- ^ 『遷都 - 夢から政策課題へ』八幡和郎、中央公論社、1988年
- ^ 関東大震災直後ノ詔書
- ^ 大阪市は1925年に近隣の東成郡・西成郡全域を編入したため、単純に市の面積が東京市より広いということもあった。
- ^ a b 『関東一帯を騒がした鮮人暴動の正体はこれ : 放火殺人暴行掠奪につぎ橋梁破壊も企てた不逞団 (記事差止め昨日解除)』その2 東京時事新報1923.10.22
- ^ 東京大正震災誌、大正14年4月
- ^ 東京市震災状況概要、1923年(大正12年)12月
- ^ 東京大正震災誌、1925年(大正14年)4月
- ^ 鈴木淳 『関東大震災』 筑摩書房、2004年、P224
- ^ 「軍艦加賀を航空母艦に改造する件」pp.5
- ^ 「軍艦加賀を航空母艦に改造する件」pp.1
- ^ 「米国救護作業」pp.15「諸外国の同情」
- ^ 「米国救護作業」pp.27「米国の驚くべき供給品の数量」
- ^ 「米国救護作業」pp.48
- ^ 「米国救護作業」pp.45-46
- ^ 「大正大震災大火災」215-218頁
- ^ 「英」(大正12年 公文備考 巻161変災災害)
- ^ 「米国救護作業」pp.2、23
- ^ a b p254 『新訳紫禁城の黄昏』 レジナルド・フレミング・ジョンストン著 岩倉光輝訳 本の風景社 2007年
- ^ 『紫禁城の黄昏(下)』レジナルド・フレミング・ジョンストン著 中山理訳 祥伝社 2005年
関連項目
- 地震
- 地震の年表
- 関東地震
- 南関東直下地震
- 阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)(1995年(平成7年)発生)
- 東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)(2011年(平成23年)発生)
- 震災内閣
- 乞食谷戸
- 上原敬二
- 姜徳相
- 今村明恒
- 復興局疑獄事件
- 東京大空襲
外部リンク
- 関東大地震写真(国立科学博物館地震資料室)
- 特集:関東大震災を知る(鹿島建設)
- 関東大震災・写真と地図のデータベース
- 東京関東地方大震災惨害実況大正12年(1923年)9月2日~5日の記録シネマ(兵庫県篠山市)
- 武部正「関東大震災」写真資料(京都府立総合資料館)
- 「関東大震災と阪神淡路大震災 - 1923年の日本人による朝鮮人虐殺はなぜ起こったか」(全国在日朝鮮人教育研究協議会大阪(日本の学校に在籍する朝鮮人児童・生徒の教育を考える会))
- 大地震上位10位(アメリカ合衆国地質調査所)