東久邇宮
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東久邇宮(ひがしくにのみや)は、明治時代後期に久邇宮朝彦親王の第9子である稔彦王が創立した宮家。
後継には恵まれたが、1947年(昭和22年)GHQの指令により10月14日皇籍離脱。よって一代限りの宮家となった。その末裔は、現在の皇位継承問題などと絡んで旧皇族の中では露出度が高い。
[編集] 宮家構成員一覧
東久邇宮稔彦王と妃聡子は4人の子をもうけた。
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- 盛厚王
- 長男の盛厚王は、昭和天皇の第1皇女である照宮成子内親王と結婚。2人の間には、信彦王・文子女王、皇籍離脱後に基博(前名:秀彦、壬生家養子)・眞彦・優子の5人の子供が生まれた。1961年(昭和36年)に東久邇成子が死去すると、その後盛厚は寺尾佳子と再婚し、厚彦(寺尾家養子)・盛彦の2男をもうけた。1969年(昭和44年)に肺癌のため死去した。
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- 信彦王
- 1945年(昭和20年)に生まれ、2歳の時に皇籍離脱。子の征彦は昭和天皇にとって初の曾孫となった。
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- 師正王
- 6歳のときに起きた関東大震災で薨去した。
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- 彰常王
- 1940年(昭和15年)に臣籍降下し、粟田彰常侯爵を名乗った。同家は日本で最後に創設された侯爵家となった。
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- 俊彦王
- 1947年(昭和22年)の皇籍離脱と共に、在サンパウロ総領事の多羅間鉄輔未亡人キヌの養子となり多羅間俊彦を名乗る。ブラジルに移民し、その子息は祖父にちなんでアルフレッド稔彦と名付けられた。
[編集] その血筋をめぐって
稔彦王は明治天皇皇女の聰子内親王を、盛厚王も昭和天皇皇女の成子内親王を妃に迎え、また昭和天皇の皇后である香淳皇后は、稔彦王の兄邦彦王の娘で近い親戚でもあり、天皇家とは最も血の繋がりが濃い宮家でもある。そのため、仮に旧宮家の皇籍復帰があるとすれば、東久邇家の復帰が最も有力とされる。東久邇家は旧宮家のなかでも竹田宮家に次ぐ男系の系統であり、信彦の2人の子息(征彦・眞彦)などが復帰の対象となるのではないかと言われている。
[編集] 関連項目
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