総国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

房総 から転送)

総国捄国、ふさのくに)は、律令制以前における後の令制国である下総国上総国及び安房国を合わせた地域名。

なお、近年では「総国」を後世に採用された佳字として、本来の表記は「捄国」であったとする説が有力である。

目次

[編集] 概要

古語拾遺』によれば、天富命天日鷲命の孫達を従えて、初め阿波国麻植(後の麻植郡)において、穀物を栽培していたが、後に天富命がより豊かな土地を求めて衆を分けて一方を黒潮にのって東に向かわせた。東の陸地に上陸した彼らは新しい土地に穀物や麻を植えたが、特に麻の育ちが良かったために、麻の別称である「」から、「総国」(一説には「総道」)と命名したと言われている。麻の栽培して成功した肥沃な大地が『総の国』で、忌部の一部の居住地には、『阿波』の名をとって『安房』としたのだという。

また、本居宣長などの説によれば、総国は安房国・上総国・下総国のみならず、相模国と武蔵国を含んでいたとする。フサカミのフを省いて「サカミ」、フサシモのモを省き音便でフがムとなり「ムサシ」となった、あるいは、フサとムサの国に分かれた後ムサの国が「ムサカミ」「ムサシモ」に分かれ、ムサカミのムを省いて「サカミ」、ムサシモのモを省き「ムサシ」となったといわれているが、根拠となるような資料は存在しない。

『古語拾遺』説に従えば、「麻=総」という図式が成立することになるが、「総」という字には麻に関係する意味は存在しない。そのため、この伝承に対する疑問は永く残されていた。ところが、1967年藤原宮から発掘された木簡に「己亥(699年)十月上捄国阿波評(安房郡、後の安房国)……」という文字が書かれたものが発見された。発見当初はこれを「上狭国(=上総)」の別字体であると解釈されていた。続いて同じ藤原宮から「天観上〈捄〉国道前」という木簡も発見されたが、こちらの4文字目は判読しにくく、様々な文字を当てはめる説が出された。そのうちに「捄」と読む説も出たものの、「上捄」では意味が通じないとされて保留とされていた。

ところが、その後の研究で「捄」という字の和訓は「総」と同じ“ふさ”であること、天観という上総出身の僧侶がこの時代に実在していた事が明らかとなり、律令制以前の表記は「総」ではなく、捄国・上捄・下捄など「捄」の字が用いられていた可能性が高くなった[1]。この「捄」とはを成して稔る果実の事を指し(『大漢和辞典』説)、麻の実も収穫時には「捄」に該当する[2]ことから、麻の稔る姿より「捄」の字が用いられ、令制国成立時に同じ和訓を持つ佳字である「総」に書き改められたとすれば、『古語拾遺』の記述をそのまま信用できないまでも、麻と総を間接的には結び付けることが可能になるのである。

[編集] 歴史

律令時代以前、この地域には須恵馬来田上海上伊甚武社菊麻阿波印波下海上長狭千葉の各国造が存在したとされている[3] 。また、下海上国造の領域を分離して匝瑳郡香取郡が設置されたとされるが、これも律令制以前のことと考えられる。

律令制において全体が総国とされ若干の経緯を経て、阿波国造の領域と長狭国造の領域を併せて安房国に、印波国造の領域と(匝瑳郡と香取郡を含む)下海上国造の領域を併せて下総国、残りの部分が上総国になったとするのが一般的である。ただし、令制国は天智天皇政権下で成立したとするのが一般的であるが、房総三国は孝徳天皇政権下には成立していたと見るむきもある。

常陸国風土記』の鹿島郡の成立由来の記事(649年とされる)に下総国海上郡の一部を神郡(鹿島郡)に割いたとする記述がある事、前述の藤原宮から発掘された「己亥十月上捄国阿波評……」という文字が見られる木簡の存在や『続日本紀』の文武天皇2年(698年)に下総国において大風の被害が出た記録が登場し、少なくとも大化改新からそう遠くない時期(7世紀中頃)には分割されていたと推定されるが、いつ分割されたか等については根拠となるような資料は存在せず、定説となるまでにはいたっていない。

[編集] 房州と総州(房総)

令制国には後に中国風の別称が付けられたが、かつて総国を構成した令制国のうち、安房国は房州(ぼうしゅう)、上総国と下総国はいずれかを一方、または両国を合わせて総州(そうしゅう)と称した。また房州と総州を合わせて房総(ぼうそう)と呼んだ。

元々一つであったとされる国が二つ以上に別れた令制国の場合、漢字一文字で表すのは困難であり(例として筑州豊州肥州備州丹州越州)、この総州もそれに倣っている。例外的なのがかつて毛野国(毛州、両毛)であったとされる上野国下野国である。この別称は上州と野州であり、また上総下総も前後ではなく上下であり例外であり、これに準ずるとすれば総州は下総国のみを指すことになるが、上州は上野国を指すため上総国を指す呼び方がなくなってしまうことから、総州は上総下総の両国を指すとするのが一般的である。

区別すべき場合は、下総国を北総(ほくそう)、上総国を南総(なんそう)と呼ぶ事もある。しかし現在の結城市古河市は総州であり、総州の最北部に在って言葉の意味からすればまさに北総であるが、一般的にはそこに含めない。また現在の千葉県東部は東総(とうそう)とも呼ぶほか、主な舞台が安房国である『南総里見八犬伝』のように南総には房州である安房国を含むこともあるため、下総国と北総、上総国と南総が単純に対応するわけではない。

積極的に上総下総両国を含むことを示したい場合には両総(りょうそう)と呼び、用法は上野国と下野国の場合の両毛と同様である。『将門記』では上総下総両国を「上下の国」と表現しているが、文脈から上野国と下野国のことではないと判断できるからだと思われる。なお上総下総両国の国境付近を示す言葉として両国という用法もあるが、この用法は他の二つの令制国の場合の用法と同様である。

また、房総のうち半島である部分を房総半島と呼び、現代ではこの部分のみを単に房総ということが多い。さらに総州を含めた半島の太平洋側を外房(そとぼう、がいぼう)、東京湾側を内房(うちぼう、ないぼう)と呼ぶこともある。

[編集] 脚注

  1. ^ 『千葉県の歴史 通史編 古代2』第1編第2章「房総三国の成立」
  2. ^ 繊維を採取するために収穫を行うのが、麻の実が稔る秋である。なお、房総地域とりわけ上総の麻製品が古代において重要視されていたことは、同国の望陀布が宮廷祭祀や遣唐使の貢納品として採用されていた事実から推測可能である。
  3. ^ 長狭国造は『古事記』・千葉国造は『日本後紀』より、他の国造は『旧事本紀』の「国造本紀」より。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

  • 佐々木虔一『古代東国社会と交通』(校倉書房、1995年) ISBN 4751725106
  • 千葉県史料研究財団・編『千葉県の歴史 通史編 古代2』(千葉県、2001年)

先代 :
総の国造一覧
行政区の変遷
 ? - 7世紀後期
次代 :
東海道安房国上総国下総国