綿貫民輔
綿貫 民輔 わたぬき たみすけ | |
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生年月日 | 1927年4月30日(97歳) |
出生地 | 富山県南砺市 |
出身校 | 慶應義塾大学経済学部 |
前職 | トナミ運輸代表取締役社長 |
所属政党 |
(自由民主党→) 国民新党 |
称号 |
経済学士(慶應義塾大学) 名誉博士(ボローニャ大学) 長老・神職浄階(神社本庁) 桐花大綬章 南砺市名誉市民 |
親族 |
父・綿貫佐民 長男・綿貫勝介(トナミ運輸代表取締役社長) |
公式サイト | 綿貫民輔 Official-WEB |
第70代 衆議院議長 | |
在任期間 | 2000年7月4日 - 2003年10月10日 |
第55代 建設大臣 | |
内閣 | 第2次海部内閣 |
在任期間 |
1990年2月28日 - 1990年12月29日 |
内閣 | 第3次中曽根内閣 |
在任期間 | 1986年7月22日 - 1987年11月6日 |
選挙区 |
(旧富山2区→) 富山県第3区 |
当選回数 | 13回 |
在任期間 | 1969年12月29日 - 2009年7月21日 |
初代 国民新党代表 | |
在任期間 | 2005年8月17日 - 2009年8月31日 |
その他の職歴 | |
富山県議会議員 (1959年 - 1967年) |
綿貫 民輔(わたぬき たみすけ、1927年4月30日 - )は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(13期)、衆議院議長(第70代)、国民新党初代代表等を歴任。学位は経済学士(慶應義塾大学)、名誉博士(ボローニャ大学)。神職としての階位は長老(神社本庁)、神職浄階(神社本庁)。勲章は桐花大綬章。
概要
慶應義塾大学経済学部出身。学位は経済学士。平成研究会(小渕派)会長、自由民主党幹事長、衆議院議長(第70代)などを歴任。2003年(平成15年)1月にボローニャ大学より名誉博士号を授与。
代々井波八幡宮(富山県南砺市井波)の宮司を務める名門家の出身で、自身も15代目で、現職の神職である。神職としての階位は浄階。2004年(平成16年)には神道に功績のあった神職に贈られる「長老」の号を神社本庁より受けている。
自民党の重鎮であったが、郵政民営化関連法案を巡る党内抗争の結果、離党し国民新党を結成した。第45回衆議院議員総選挙では、小選挙区から比例単独に鞍替えして立候補したが落選した。慶應義塾評議員。
2010年(平成22年)4月29日、平成22年春の叙勲において桐花大綬章を受章。
2011年(平成23年)4月30日、出生地である富山県南砺市から名誉市民称号を授けられる。
生涯
生い立ち
富山県東砺波郡井波町(現・南砺市)に父・綿貫佐民と母・かずの間に長男として生まれる。父は楠木正成の系譜を引く兵庫県淡路島の南家出身であり、母が井波八幡宮の宮司をつとめる綿貫家の出身である。
旧制砺波中学校(現・富山県立砺波高等学校)を4年修了した後、藤原工業大学に入学、同大学が、慶應に吸収合併された事により慶應に移りさらに学科廃止のため経済学部に転部したため、慶應義塾大学経済学部卒。鐘ヶ淵紡績(のちのカネボウ)入社。
経営者として
1955年(昭和30年)に28歳の若さで家業である砺波運輸(現・トナミ運輸)社長に就任。瀕死と言われた砺波運輸を立て直し、上場企業へ昇格させるなど経営手腕を発揮。
政界へ
1959年(昭和34年)、富山県議会議員選挙に2度目の挑戦で初当選する。1969年(昭和44年)には第32回衆議院議員総選挙に旧富山2区から自民党公認で出馬し、初当選。以後、連続当選13回。
衆議院議員当選後、当初は川島派→椎名派に所属。1973年(昭和48年)には青嵐会の結成メンバーに名を連ねるが、会合には一度も出席せずに脱退した。
椎名派消滅後は田中派→竹下派→小渕派→橋本派に移り、国土庁長官、建設大臣、自民党幹事長など要職を歴任。
自民党職員だった奥島貞雄はその著書の中で、幹事長在任中の綿貫が「どうも近頃景気が少しおかしくなってきてるんではないか。」と述べ、後のバブル崩壊を予言していたとしている。綿貫は景気悪化の根拠に「貨物の動きが鈍ってきている」と会社経営の経験を挙げていたと言う。
竹下派分裂時、竹下登・小渕恵三らとも、羽田孜・小沢一郎らとも良好な関係にあった綿貫は、両派の間で板ばさみとなった。やがて同期当選組が多く参加していた羽田派の方へと傾くが、結局参加を見送り、小渕派へも参加せず無派閥を選択。羽田派が離党後に小渕派に入会している。
1998年(平成10年)7月、小渕の総理就任に伴い、空席となった平成研究会(小渕派)会長に就任し、派内のまとめ役に徹した。
2000年(平成12年)7月、第70代衆議院議長に就任。同年11月20日には、議長として全ての者を沈黙させる号鈴を鳴らす。号鈴を鳴らしたのは1946年(昭和21年)6月21日の樋貝詮三衆議院議長以来54年ぶり。
2002年(平成14年)12月10日、議事進行原稿を一気に2枚めくったために、2000年度(平成12年度)の決算採決という議題がまだ残っているにも関わらず散会宣言を行った。宣言直後に散会の無効を宣言したが、散会宣言は有効とされた。結局、決算採決は12日に行われた。
自民党との決別、国民新党結成
自民党内で郵政族を中心に衆参両議院約200人が参加する「郵政事業懇談会」の会長として、小泉純一郎総理が唱える郵政民営化反対の急先鋒となった。2005年(平成17年)7月、衆院における郵政民営化関連法案の議決に際しては反対票を投じ、その後、第44回衆議院議員総選挙における党執行部の報復的な党公認拒否に対して反発、亀井静香とともに「国民新党」を旗揚げして代表に就任した。首班指名後、記者団の「誰に投票したか?」の問いに「…綿貫民輔。エヘッ!」と答えた。ちなみに、現在は長男が社長を務めるトナミ運輸は郵便事業(旧日本郵政公社)が「ゆうパック」で提携している民間物流事業者の一つである。
国民的知名度は最近になるまで低かったが、政界ではまとめ役として頼りにされてきた。新党結成後も自民党の議員と連絡を取り合っており、選挙後には自民非公認組を糾合した統一会派構想し、造反色が強い棄権組なども参加させようとしたが、選挙後で統一会派に参加した自民党非公認組は野呂田芳成だけであった(また、2006年12月には郵政造反組復党問題で衆議院の造反議員11人が自民党復党している)。国民新党結成に伴い、自民党に離党届を出していたが、10月21日、自民党は届けを受理せず、綿貫を除名した。
小選挙区制の導入後、選挙区での史上最高得票による当選を達成するなど、選挙に強い政治家でもある。2005年(平成17年)9月の第44回衆議院議員総選挙では自身が小選挙区で当選するとともに、富山県第3区内の比例代表得票で国民新党を第二党に導いた。ただし、当該選挙では小選挙区において自民党公認の萩山教嚴に比例復活を許し、史上最高得票の記録も小泉純一郎が更新した。
2006年(平成18年)3月24日、堀江メール問題において、懲罰委員会で質問席に立つ。衆議院議長を経験した重鎮議員が質問席に立ったことが異例なこととして注目された。
2007年(平成19年)7月29日投開票された第21回参議院議員通常選挙に於いて国民新党代表としてCMに出演、中でも亀井静香と共演して川内康範作曲の「お母さん」を熱唱したCMが話題を集めた。富山県選挙区では、告示日間際になって無所属の森田高の支援を決定し、自ら応援演説を行うなど、森田当選の要因となった。なお森田は衆院北信越比例の糸川正晃の民主党入りとのバーターのような形で国民新党に入党した。
2009年(平成21年)8月30日投開票された第45回衆議院議員総選挙では、綿貫と自民党の板挟みとなった側近の自民党参議院議員河合常則が、自民党離党を発表した際、自らの富山3区からの不出馬を発表し、河合の離党を止めた。比例北陸信越ブロックから単独立候補したが落選。翌日党代表を辞任し、最高顧問に就任した。富山1区では民主党候補の村井宗明を支援して当選に貢献する一方で、地元の富山3区では後継候補を出さず、また民主党系候補・相本芳彦の推薦要請にも応じないことで事実上自民党新人候補・橘慶一郎の当選に手を貸した形となった(ただし、相本不支持の背景には、綿貫本人への支持者が多い無所属新人候補の柴田巧への配慮もあったという)。今後は選挙には出ず、国会議員としての活動は終えるという。
政界引退後
2010年(平成22年)5月7日、桐花大綬章の親授式に出席した。綿貫は受章者を代表して「それぞれの分野において一層精進を重ねる決意でございます」とあいさつし、今上天皇は「長年それぞれの務めに精励し、国や社会のために、また、人々のために尽くされてきたことを深く感謝しております」と述べた[1][2]。
2011年(平成23年)4月30日、長年の功績から南砺市では初めてとなる名誉市民称号が与えられた[3]。
2012年(平成24年)4月の亀井静香による国民新党の政権離脱表名と分裂騒動の後、同党公式HPの役員表から結党メンバーであった綿貫最高顧問と亀井久興顧問の名がなくなり、綿貫が同党最高顧問を辞したことがわかった。
略歴
経歴
政歴
- 1959年
- 富山県議会議員に当選。以後2期務める。
- 1967年
- 第31回衆議院議員総選挙(旧富山2区、自民党)落選。
- 1969年
- 第32回衆議院議員総選挙(旧富山2区、自民党)1期目当選。
- 1972年
- 第33回衆議院議員総選挙(旧富山2区、自民党)2期目当選。
- 1976年
- 第34回衆議院議員総選挙(旧富山2区、自民党)3期目当選。
- 1979年
- 第35回衆議院議員総選挙(旧富山2区、自民党)4期目当選。
- 1980年
- 第36回衆議院議員総選挙(旧富山2区、自民党)5期目当選。
- 1983年
- 第37回衆議院議員総選挙(旧富山2区、自民党)6期目当選。
- 1986年
- 第38回衆議院議員総選挙(旧富山2区、自民党)7期目当選。
- 中曽根内閣で国土庁長官兼北海道開発庁長官、沖縄開発庁長官に就任。
- 1990年
- 第39回衆議院議員総選挙(旧富山2区、自民党)8期目当選。
- 海部内閣で建設大臣に就任。
- 1991年
- 自民党幹事長に就任
- 1993年
- 第40回衆議院議員総選挙(旧富山2区、自民党)9期目当選。
- 1996年
- 第41回衆議院議員総選挙(富山3区、自民党)10期目当選。182185票。
- 1998年
- 平成研究会会長に就任。
- 2000年
- 第42回衆議院議員総選挙(富山3区、自民党)11期目当選。150200票。
- 衆議院議長に就任
- 2003年
- 第43回衆議院議員総選挙(富山3区、自民党)12期目当選。159316票。
- 2005年
- 自民党を離党、国民新党を結党(自民党は除名処分)
- 同年 第44回衆議院議員総選挙(富山3区、国民新党)13期目当選。120083票。
- 2009年
- 第45回衆議院議員総選挙(比例代表北陸信越ブロック、国民新党)落選、翌日政界引退を示唆。
その他
- 慶應義塾評議員会(慶應義塾の経営面における最高意思決定機関)の一員である。
- 社団法人日米平和・文化交流協会の理事を務める。
- 財団法人昭和聖徳記念財団の会長を務める。
- 神道政治連盟国会議員懇談会会長を務めた。
- 禁煙推進議員連盟の会長を務める。
- 北京オリンピックを支援する議員の会顧問
- 全国治水砂防協会会長
- 特定非営利活動法人日本防災士機構評議員
- 公益財団法人日本バドミントン協会会長
衆議院議長の肖像画
2004年(平成16年)から、衆議院議長応接室に綿貫の肖像画が飾られているが、絵の作者が作品酷似問題で注目された和田義彦だったため波紋を呼んでいる。
衆議院では衆議院議長経験者の肖像画を院内に掲げるのが慣例となっている。衆議院事務局は「盗作画家」の作品掲示が院の権威に響くことを懸念しているが、憲政史上前例がなく、対応に苦慮している。綿貫事務所は、画家の不祥事と肖像画は直接関係ないとのスタンスを取っている。綿貫本人は、マスコミの取材に対し、「美術界に詳しくないので、コメントしようがない」と語り、困惑している。
著書
- 『21世紀をめざして』(永田書房、1978年)
- 『国土づくり・100年-ジャパンからニッポンへ』(綿貫民輔国土活性化問題研究会、ぎょうせい、1991年、ISBN 4324023093)
- 『至誠天に通ず-建設行政の新時代 建設大臣の305日』(ぎょうせい、1991年、ISBN 4324027048)
- 『土地は、誰のものか。-地価再考』(長谷川徳之輔との共著、集英社、1993年、ISBN 4087830756)
- 『八十一歳は人生これから』(幻冬舎、2009年、ISBN 4344981545)
脚注
- ^ “皇居で大綬章の親授式 春の叙勲、綿貫元議長らに”. 47NEWS(共同通信社). (2010年5月7日) 2010年5月7日閲覧。
- ^ “皇居で大綬章親授式 春の叙勲”. 産経新聞. (2010年5月7日) 2010年5月7日閲覧。
- ^ 南砺市公式ホームページ
関連項目
外部リンク
議会 | ||
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先代 伊藤宗一郎 |
衆議院議長 第70代:2000年 - 2003年 |
次代 河野洋平 |
先代 小沢一郎 |
衆議院議院運営委員長 第42代:1986年 |
次代 越智伊平 |
先代 羽田野忠文 |
衆議院法務委員長 1982年 - 1983年 |
次代 宮崎茂一 |
先代 増岡博之 |
衆議院大蔵委員長 1980年 - 1981年 |
次代 森喜朗 |
公職 | ||
先代 原田昇左右 |
建設大臣 第55代:1990年 |
次代 大塚雄司 |
先代 山崎平八郎 |
国土庁長官 第15代:1986年 - 1987年 |
次代 奥野誠亮 |
先代 古賀雷四郎 |
北海道開発庁長官 第49代:1986年 - 1987年 |
次代 粕谷茂 |
先代 古賀雷四郎 |
沖縄開発庁長官 第18代:1986年 - 1987年 |
次代 粕谷茂 |
党職 | ||
先代 新設 |
国民新党最高顧問 2009年 - |
次代 現職 |
先代 結成 |
国民新党代表 初代 : 2005年 - 2009年 |
次代 亀井静香 |
先代 小渕恵三 |
自由民主党幹事長 第28代 : 1991年 - 1992年 |
次代 梶山静六 |
先代 小渕恵三 |
平成研究会会長 第2代 : 1998年 - 2000年 |
次代 橋本龍太郎 |