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『第30回NHK紅白歌合戦』は、1979年12月31日にNHKホールで行われた、通算30回目のNHK紅白歌合戦。21時から23時45分にNHKで生放送された。
概要
- 両軍司会は水前寺清子・山川静夫(6年連続)が担当。
- 当初、両軍司会は前回に引き続き森光子・山川の起用が濃厚とされていた。山川の白組司会続投は下馬評通りとなったが、紅組司会については黒柳徹子が浮上(黒柳は水前寺に替わって翌年の第31回 - 第34回(1983年)まで4年連続で紅組司会を務めた[1]。なお水前寺や佐良は翌年の第31回では紅組司会の候補にも挙がらなかったという)し、さらに1970年代のこのポストの常連であった水前寺と佐良直美も例年通り候補に挙がり、最終的に山川との対戦は未経験(ただし第24回(1973年)で水前寺と山川は共同司会を担当していた[2])という理由で第24回以来6年ぶりに水前寺が再登板することが決定した[3][4]。その他、山口百恵も紅組司会の候補に挙がっていたとの報道もある[5]。
- 4回目の紅組司会を務めた水前寺は、出場歌手としてよりも紅組司会の方に重点を置く意思でそれに臨んだ。そのため、紅組出場歌手の意思を取りまとめるべく、特に初出場で緊張の極度にいる歌手に対しては激励の言葉をかけ続けたり、各歌手の良い部分を最大限すくい上げようと司会者面談をいつも以上に念入りに行うなど、努力を惜しまなかった。なお、水前寺が歌手として出演する際の代理の曲紹介は今回の初出場歌手が行った。
- 紅白30回を記念して三波春夫、水前寺、菅原洋一、佐良直美、フランク永井、島倉千代子がそれぞれ初出場時の曲を披露した。
- サザンオールスターズが初出場。オープニングでは桑田佳祐らメンバー全員が正装で登場しており、大舞台を意識していたことを窺わされる。
- 研ナオコは世良譲のピアノ伴奏により、「ひとりぽっちで踊らせて」を披露した。しかし緊張のためか、研は唄い出しの個所を間違えて早めに歌ってしまい、世良に教えられて歌い直すハプニングが発生した。
- 西城秀樹の歌唱時に舞台後方のドーム状のセットが回転する演出があり、これが紅白における最初の舞台転換とされる。
- 初出場のジュディ・オングは「魅せられて」を歌唱。特徴的な白い衣装の袖は、本人の話によると、直前の『第21回日本レコード大賞』までは手を広げたのと同じ長さだったが、紅白では初めて長い棒を左右に取り付けて、彼女の腕の長さ以上に伸ばしたという。
- さだまさしの「関白宣言」は曲が長く、困った紅白スタッフは特別出演する美空ひばりに相談。全歌詞を読んだひばりの「これは切れないわね」という意見にスタッフは従い、さだはフルコーラスを熱唱した。ただしそのためにテンポを上げ、1コーラスと2コーラスの間奏はカットし、エンディングのリフレインも行わないという苦肉の策をとった。
- 山口百恵は「しなやかに歌って」の歌唱前に、水前寺から「三浦友和さんとの愛を告白した、いじらしい乙女心も見せてくれました」と紹介される。百恵は第25回(1974年)の初出場から6年連続6回目出場だったが、翌1980年10月に三浦との結婚で引退したため、これが最後の紅白となった(翌年の第31回でもNHK側は百恵に同回への出演打診を行ったが、百恵は「既に引退したので辞退します」と回答)。
- 後に紅白の顔とまで言われようになる小林幸子が「おもいで酒」で初出場。衣装も1990年代 - 2010年代の「豪華衣装」とは違ってシンプルだった。
- 千昌夫は1977年4月に発表した「北国の春」の超ロングセラーにより、第28回(1977年)から3年連続で同曲を披露した。3年連続で同一曲を歌唱するのは千が史上初だった。この際、山川からは「紅白史上稀に見る大記録」「3年連続同じ歌」「何ともしぶとい人です」「東北人の持つ粘り強さ」と紹介された。なおこの記録は第56回(2005年)、夏川りみの「涙そうそう」4年連続歌唱によって更新された。
- また北島三郎も「与作」がこの年に入ってロングヒットしたことから、前回に引き続き2年連続で同曲を披露した。
- 紅組トリおよび大トリは八代亜紀、白組トリは五木ひろし(この年デビュー15周年)が務めた。当初は翌年での引退がこの時点で濃厚と見られていた百恵を2年連続で紅組トリに起用し、対抗の白組トリに西城秀樹を立てるプランもあったという。ところが演歌のヒット勢も一歩も引かず、最終的に紅組は八代が起用され、白組は北島、千昌夫、村田英雄、森進一といった強豪を抑えて五木が選ばれる運びとなった[6][7]。
- 優勝は紅組。優勝決定後、水前寺が紅組歌手に胴上げされる一幕があった。
- 水前寺は今回を最後に紅組司会を担当していない。ただし、1980年代も幾度か紅組司会の候補に挙がることはあった(先述)。
- 後年『思い出の紅白歌合戦』(BS2)で再放送された。
司会者
演奏
審査員
大会委員長
出場歌手
選考を巡って
- 例年出場を辞退していた美空ひばりが、紅白歌合戦30回記念を代表する紅組歌手として、特別出場という形式で第23回(1972年)以来7年ぶりに紅白出演を果たした。ひばりは記者会見で「ファンの皆さん、びっくりさせてごめんなさい」と話した後、「今回も紅白対抗の一歌手としてなら辞退しました。でも特別コーナーを設けて戦前の代表として藤山先生、戦後の代表としてひばりということでゲスト出演要請があったので快く受けさせていただきました。"紅白"は今年で30回の記念。卒業生がお祝いに参加したいと思ったんです。病気療養中の母(喜美枝)が"特別コーナーはお嬢の希望だったのだから、喜んで出なさい"と言ってくれた。」と発言した[8]。
- 藤山一郎もひばり同様、特別出演の形で、1973年(第24回)の紫綬褒章受章による特別出演以来6年ぶりの出演となった。両者共に今回は正式な紅白出場回数には含まれていない。なお、ひばり・藤山の曲紹介は総合司会の中江陽三が行った。
- 初出場の渥美二郎は初出場会見で自身の結婚報告を行った。本番の曲前で山川が「初出場会見で結婚まで発表したのはこの方だけです」と話す一幕があった。
- 前回はゲスト扱いで出場した民謡歌手の金沢明子が折からの民謡ブームの波に乗り正式な出場歌手として初出場。民謡界からの出場者は第7回(1956年)の鈴木正夫以来23年ぶりのことであった。
- 前回まで初出場以来10年連続出場をした由紀さおり、同じく前回まで初出場以来9年連続出場をした和田アキ子は落選。
- 前回自ら出場辞退を申し出たピンク・レディーは、今回は事前に「紅白に出たい」と宣言したが、「ご意見を伺う会」からの批判があり落選となった[9]。
- また、松山千春・南こうせつ・アリスらが出場辞退した[9]。
- 紅白の常連歌手で、第18回(1967年)の初出場から13年連続13回目の出場、そして紅組司会も5回務めた佐良直美も今回が最後の紅白出演となった。
ゲスト出演者
演奏ゲスト
脚注
- ^ なお第35回(1984年)では、黒柳が「もう今年が引き時では」と紅組司会の打診を辞退。黒柳の辞退表明後、番組側は彼女が連続司会を始める前年(今回)の担当者である水前寺の再起用を真っ先に考えたという(最終的には同年紫綬褒章を受章した光子を6年ぶりに選出した)。
- ^ 水前寺が紅組司会、山川が総合司会。
- ^ 合田道人『紅白歌合戦の舞台裏』、133頁。
- ^ 水前寺は前回も紅組司会の候補に挙がっていた。
- ^ 『女性自身』1979年11月29日号、226頁。
- ^ 合田『紅白歌合戦の真実』
- ^ 合田『紅白歌合戦の舞台裏』
- ^ 『紅白歌合戦の舞台裏』
- ^ a b 『読売新聞』1979年11月22日付夕刊、9頁。
参考文献・出典
- NHK『テレビ50年 あの日あの時、そして未来へ』(NHKサービスセンター 2003年2月)
関連項目
外部リンク
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