宮川泰

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宮川 泰
生誕 (1931-03-18) 1931年3月18日
出身地 日本の旗 日本 北海道留萌市出生
大阪府富田林市育ち
死没 (2006-03-21) 2006年3月21日(75歳没)
学歴 大阪学芸大学(現:大阪教育大学)音楽科中退
ジャンル 作曲・編曲・鍵盤楽器一般
職業 作曲家
キーボーディスト
タレント
活動期間 1950年代 - 2006年
公式サイト http://www.miyagawa-world.jp/

宮川 泰(みやがわ ひろし、1931年3月18日 - 2006年3月21日)は、日本作曲家編曲家ピアニストタレントである。

和製ポップスの開拓者の一人であり、1960年代のスター、ザ・ピーナッツの育ての親として数々のヒット曲を生み出し、他の歌手にも楽曲を提供するなど、日本ポップス界に大きな足跡を残した。

また『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』、『宇宙戦艦ヤマト』、『ズームイン!!朝!』、『午後は○○おもいッきりテレビ』、『ズームイン!!SUPER』などテレビ音楽にも多数の作品を提供。

ジャズの感覚を生かした軽妙ながらインパクトのある「宮川節」と称される音楽は、時間の短いTV番組のオープニングに重用された。

マツケンサンバII」の作曲などで広く知られる作曲家・編曲家の宮川彬良(本名:晶)は長男。

活動

作曲した作品も多いが、ザ・ピーナッツの「恋のフーガ」など、ザ・ピーナッツ関連の楽曲をはじめ、編曲(アレンジ)のみ手がけた作品も洋楽を中心に多数存在する。

日本ポップス界の重鎮的存在ながらも、目立ちたがり屋で笑いが大好きな性格から、自らも積極的にTV番組に出演。ピアノを伴奏しながらも、タレントに負けず劣らずの積極性で笑いをとっていた。

シャボン玉ホリデー』の音楽担当時、ハナ肇からクレージーキャッツに誘われ、本人もその気になったが、渡辺プロダクション社長の渡辺晋と妻の美佐に反対されて挫折したエピソードを持つ。

1969年の『第20回NHK紅白歌合戦』、1972年の『第23回NHK紅白歌合戦』では教え子のザ・ピーナッツとの共演で派手なパフォーマンスの指揮で出演したが、一部の歌手からは「自分達より目立ちすぎ」と嫌な顔をされたこともあった。

藤山一郎の後を継いで1993年第44回から2005年第56回まで、『NHK紅白歌合戦』の大エンディングである「蛍の光」の二代目指揮者を担当した。その際も派手なスタイルは変わらなかった。1994年の『第45回NHK紅白歌合戦』では吉田拓郎のバックバンドにキーボードで参加した。また本人も自覚していたが、歌を唄うのは得意ではなかった。

2006年3月21日虚血性心不全のため東京都世田谷区の自宅にて急逝した。75歳没。誕生日3日後の死去だった。通夜では「ウナ・セラ・ディ東京」が、告別式では『宇宙戦艦ヤマト』の曲が演奏された。

略歴

土木技術者の父親の赴任先である北海道留萌市で出生。

その影響で現在でも留萌市の吹奏楽では「宇宙戦艦ヤマト」など宮川音楽の合奏が盛んに行われている。

出生後、父親の異動に伴い幼いころより北海道紋別市鴻之舞・北海道北見市和歌山県和歌山市大分県日田市など全国を転校してきた。

大阪府立富田林高等学校を卒業。京都市立美術専門学校(現:京都市立芸術大学)を経て大阪学芸大学(現:大阪教育大学)音楽科を中退。

渡辺晋とシックス・ジョーズ」でピアニストアレンジャーとして活躍。その後、独立して作曲家、編曲家となる。

1963年に「恋のバカンス」で第5回日本レコード大賞編曲賞受賞。

1964年に「ウナ・セラ・ディ東京」で第6回日本レコード大賞作曲賞受賞。1969年に「青空のゆくえ」で合歓ポピュラーフェスティバル'69作曲グランプリ受賞。

1971年に「君をのせて」で合歓ポピュラーフェスティバル'71川上賞受賞。

自身が率いる「名匠宮川組」のメンバーらと共に全国で演奏会を行っており、大阪芸術大学音楽学科の教授も務めていた。

代表曲

作曲

編曲

作・編曲

参加作品

テレビ番組

映画

ラジオ

コンピュータゲーム

出演

  • 題名のない音楽会 - 自作の指揮等で出演。
  • 第25回 年忘れにっぽんの歌(1992年12月31日、テレビ東京) - スペシャルゲストの植木等が歌唱するメドレーの編曲と指揮を担当。
  • NHK紅白歌合戦 - フィナーレに「蛍の光」を出演者(出場歌手・司会者・ゲスト審査員・ゲスト・合唱団など)並びに会場の観客で大合唱することが恒例で、この場面のみに指揮者として出演した。第44回(1993年) - 第56回(2005年)まで指揮を務めた。

著書

  • 若いってすばらしい―夢は両手にいっぱい宮川泰の音楽物語(2007年、産経新聞出版)
  • サウンド解剖学(1981年 中央公論社)

『宇宙戦艦ヤマト』のエピソード

  • 宮川は『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサー・西崎義展から「主題歌は『鉄』をイメージする曲を書いてくれ」という依頼を受け、困惑したと語る。また、西崎からの注文は「バラード調で」ということであったが、宮川はこの曲にふさわしいのは雄壮なイントロであると考えていた。テレビシリーズでは第3話までバラード調の歌い出しが使用され、第4話以降は一般的にも認知されている雄壮なイントロが使用された。
  • 「宇宙戦艦ヤマト」は宮川本人による仮歌バージョンが存在し、松本零士がそのテープのひとつを所有している。宮川本人はそのテープをすべて回収したい意向だった。
  • YAMATO2520』製作にあたってのインタビューで主題歌について語っており、1.「さらば地球よ」で始まるAメロは、ヤマトに改装する前の戦艦大和が海底に沈んでいたイメージでキーを低くした。2.「宇宙の彼方イスカンダルへ」のBメロは、乗組員が隊列を組んで行進しながらヤマトへ乗り込むイメージで軍歌調にした。3.サビから終わりにかけては、ヤマトが地上から宇宙へ飛び立つイメージから次第にキーを高くした。と解説している。
  • ヒットしてから後、数々の「ヤマト」シリーズが続々製作され、その度に主題歌を新しくアレンジするのがもっと苦痛だった。最後の「ヤマト」完結編となると何度も書き直しをくらい、満身創痍でなんとか完成したという。
  • 「ヤマト!! 新たなる旅立ち」(『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』主題歌)作曲のため歌詞を渡された宮川はその歌詞に「REMEMBER YAMATO」という部分があるのを見て、「今までヤマトの歌はこういう英語が入ることがなかった。作りづらいのでこの部分は直して欲しい」とプロデューサー・西崎義展に要求。ところがいざ作曲を始めてしまうとその「REMEMBER YAMATO」の部分の旋律が先に、しかも自分としては気に入ったものが出来てしまった。あわてて西崎に連絡を取ると、宮川がそう言うと思って作詞家(阿久悠)にはまだ何も話してなかったという(昭和50年代・『ズームイン!!朝!』内「朝のポエム」にて宮川自身の口よりこの曲の想い出として語られた)。
  • 宮川の葬儀において、出棺の際に50人からなる吹奏楽バンドが盛大にヤマトのテーマを奏で故人を送った。これは生前からの本人の希望であった。知人の葬儀に参列した帰りのタクシーで「俺の時は(俺が死んだら)、『ヤマト』な」と息子(宮川彬良)に託していたと、音楽番組『どれみふぁワンダーランド』などで宮川彬良本人により語られている。

宮川泰を演じた俳優

脚注

  1. ^ ズームイン版。なお、ボニージャックスは平井と若松が編曲したものも歌っている。
  2. ^ “『宇宙戦艦ヤマト 2202 愛の戦士たち』が2018年10月5日(金)よりテレビ東京ほかにて放送開始! 内田彩さんによるダイジェスト映像も公開”. アニメイトタイムズ (アニメイトラボ). (2018年8月3日). https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1533282543&utm_source=twitter&utm_medium=social 2018年8月4日閲覧。 
  3. ^ 長男の宮川彬良は、2017年の『ひよっこ』で音楽を担当した。

関連項目

外部リンク