勝海舟

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勝 海舟 / 勝 安芳
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政6年1月30日1823年3月12日
死没 明治32年(1899年1月19日
改名 麟太郎(通称・幼名)、義邦、安芳
別名 海舟(号)
戒名 大観院殿海舟日安大居士
墓所 洗足池公園
官位 従五位下安房守外務大丞、兵部大丞、
海軍大輔、従四位参議海軍卿正四位元老院議官伯爵従三位枢密顧問官
正三位従二位正二位
幕府 江戸幕府
異国応接掛附蘭書翻訳御用、
海軍伝習重立取扱、講武所砲術師範役、
天守番頭過人、蕃書調所頭取助、
天守番頭格、
二の丸留守居格軍艦操練所頭取、
軍艦奉行並、海軍伝習掛、海軍奉行並、
陸軍総裁、軍事取扱
主君 徳川家慶家定家茂慶喜
氏族 勝氏
父母 父:勝小吉、母:勝信子
兄弟 海舟順子佐久間象山室)
正妻:民子 
妾:梶玖磨、増田糸、小西かね、清水とよ、森田米子
内田夢、疋田孝子、小鹿、目賀田逸子、四郎、梶梅太郎、八重、岡田七郎、妙子
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勝 海舟(かつ かいしゅう) / 勝 安芳(かつ やすよし、文政6年1月30日1823年3月12日) - 明治32年(1899年1月19日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の武士幕臣)、政治家位階勲等爵位正二位勲一等伯爵山岡鉄舟高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。

概要

幼名および通称麟太郎(りんたろう)。義邦 (よしくに)、明治維新後改名して安芳。これは幕末に武家官位である「安房守」を名乗ったことから勝 安房(かつ あわ)として知られていたため、維新後は「安房」を避けて同音(あん−ほう)の「安芳」に代えたもの。勝本人は「アホゥ」とも読めると言っている。海舟はで、佐久間象山直筆の書、「海舟書屋」からとったものである。海舟という号は元は誰のものであったかは分からないという。

父は旗本小普請組(41石)の勝小吉、母は勝元良(甚三郎)の娘信。幕末剣客男谷信友(精一郎)は血縁上は又従兄で、信友が海舟の伯父に当たる男谷思孝(彦四郎)の婿養子に入ったことから系図上は従兄に当たる[1]家紋は丸に剣花菱

10代の頃から島田虎之助に入門し剣術を学び直心影流剣術免許皆伝となる。16歳で家督を継ぎ、弘化2年(1845年)から永井青崖に蘭学を学んで赤坂田町に私塾「氷解塾」を開く。安政の改革で才能を見出され、長崎海軍伝習所に入所。万延元年(1860年)には咸臨丸で渡米し、帰国後に軍艦奉行並となり神戸海軍操練所を開設。戊辰戦争時には幕府軍の軍事総裁となり、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城無血開城を主張し実現。明治維新後は参議海軍卿枢密顧問官を歴任し、伯爵に叙せられた。

李鴻章を始めとするの政治家を高く評価し、明治6年(1873年)には不和だった福澤諭吉らの明六社へ参加、興亜会亜細亜協会)を支援。また足尾銅山鉱毒事件田中正造とも交友があり、哲学館(現:東洋大学)や専修学校(現:専修大学)の繁栄にも尽力し、専修学校に「律は甲乙の科を増し、以て澆俗を正す。礼は升降の制を崇め、以て頽風を極(と)む」という有名な言葉を贈って激励・鼓舞した。

生涯

生い立ち

文政6年(1823年)、江戸本所亀沢町[注 1]の生まれ。父・小吉の実家である男谷家で誕生した[注 2]

曽祖父・銀一は、越後国三島郡長鳥村[注 3]の貧農の家に生まれた盲人であったが、江戸へ出て高利貸し(盲人に許されていた)で成功し巨万の富を得て、朝廷より盲官の最高位検校を買官し「米山検校」を名乗った。銀一は三男の平蔵に御家人・男谷(おだに)家の株を買い与えた[注 4]。 銀一の孫で男谷平蔵の末子が海舟の父・勝小吉であり、小吉は三男であったため、男谷家から勝家に婿養子に出された。勝家は小普請組という無役で小身の旗本である。勝家は天正3年(1575年)以来の御家人であり、系譜上海舟の高祖父に当たる命雅(のぶまさ)が宝暦2年(1752年)に累進して旗本の列に加わったもので、古参の幕臣であった。

幼少時の文政12年(1829年)、男谷の親類・阿茶の局の紹介で江戸幕府11代将軍徳川家斉の孫・初之丞(家斉の嫡男で後の12代将軍徳川家慶の五男、後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へ召されている。一橋家の家臣として出世する可能性もあったが、慶昌が天保9年(1838年)に早世したためその望みは消えることとなる。同年、父の隠居で家督を相続[2]

生家の男谷家で7歳まで過ごした後は、赤坂へ転居するまでを本所入江町(現在の墨田区緑4-24)で暮らした。

修行時代

剣術は、実父・小吉の実家で従兄の男谷信友の道場、後に信友の高弟・島田虎之助の道場[注 5]で習い、直心影流の免許皆伝となる。師匠の虎之助の勧めによりも学んだ。兵学は窪田清音の門下生である若山勿堂から山鹿流を習得している[3]蘭学は、江戸の蘭学者・箕作阮甫に弟子入りを願い出たが断られたので、赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入りした。弘化3年(1846年)には住居も本所から赤坂田町に移り、更に後の安政6年(1859年)7月に氷川神社の近くに移り住むことになる。

この蘭学修行中に辞書ドゥーフ・ハルマ』を1年かけて2部筆写した有名な話がある。1部は自分のために、1部は売って金を作るためであった。蘭学者・佐久間象山の知遇も得て[注 6]、象山の勧めもあり西洋兵学を修め、田町に私塾(蘭学と兵法学)を開いた。開塾は嘉永3年(1850年)とされているが、それがいつなのかはっきりしない。後に日本統計学の祖となる杉亨二塾頭となるが、こちらも年代が特定出来ず、安政元年(1854年)に入塾した佐藤政養と同じ頃と推定されている[注 7][4]

長崎海軍伝習所

嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されると、幕府老中首座阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより諸大名から町人に至るまで広く募集した。これに海舟も海防意見書を提出、意見書は阿部の目に留まることとなり、目付海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから安政2年(1855年1月18日、異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられて念願の役入りを果たし、海舟は自ら人生の運を掴むことができた。

同月から洋学所創設の下準備、1月23日から4月3日にかけて勘定奉行石河政平と一翁が命じられた大阪湾検分調査の参加を経て7月29日長崎海軍伝習所に入門した。伝習所ではオランダ語がよくできたため教監も兼ね、伝習生とオランダ人教官の連絡役も務めた。この時の伝習生には矢田堀鴻(景蔵)、永持亨次郎らがいる。しかし、海軍知識はほとんど無かったため、本心では分野違いの長崎赴任を嫌がっていたが(8月20日の象山宛の手紙より)、幕府の期待に応えない訳にも行かず、10月20日に船で長崎へ来航、以後3年半に渡り勉強に取り組むことになる。長崎に赴任してから数週間で聴き取りもできるようになったと本人が語っているためか、引継ぎの役割から第一期から三期まで足掛け5年間を長崎で過ごす[5]

海舟の学問成果については賛否両論で、藤井哲博は海舟の成績は悪く安政4年(1857年)3月に一期生が江戸へ戻ったのに海舟が長崎に残った点を挙げて落第したと書いたが、松浦玲は藤井の記述に反論、安政3年(1856年)6月に海舟が伝習所の成果に見切りをつけて江戸へ帰府の伺いを提出し、翌4年1月に江戸に軍艦教授所(後の軍艦操練所)を創設することを幕府が考案、帰府が決まった所、一転して残留に変更したことを詳細に記し、落第留年ではないと主張している[注 8]。しかし、海舟が頻繁に船酔いに苦しんでいたことと、思うように勉強がはかどらなかった(特に数学が苦手)ことは事実であり、海舟が船乗りにとても向かない体質から帰府の話が浮上する理由があった[6]。いずれにせよ、海舟は安政4年の時点ではまだ江戸へ戻れず、更に2年を長崎で過ごすことになる。

この時期に当時の薩摩藩主・島津斉彬の知遇も得ており、安政5年(1858年)3月と5月に海舟は薩摩を訪れて斉彬と出会う。2人は初対面ではなく藩主になる前の斉彬が江戸で海舟と交流していたが、後の海舟の行動に大きな影響を与えることとなる[7]

同年から始まった安政の大獄で推薦者の一翁が左遷されたが、長崎にいる海舟に影響は無く、大獄を主導した大老井伊直弼の政治手法や大獄の一因である南紀派一橋派の政争を批判する余裕を見せている。8月に外国奉行永井尚志水野忠徳遣米使節を建言すると、10月と11月にそれぞれ永井と水野に宛ててアメリカ行きを希望、2人から了解の返事を取り付け、安政6年1月5日朝陽丸に乗って1月15日に帰府、幕府から軍艦操練所教授方頭取に命じられ、新たに造られた軍艦操練所で海軍技術を教えることになる[8]

渡米

1860年渡米時にサンフランシスコにて撮影

万延元年(1860年)、幕府は日米修好通商条約批准書交換のため、遣米使節をアメリカへ派遣する。このアメリカ渡航の計画を起こしたのは岩瀬忠震ら一橋派の幕臣であった。しかし彼らは安政の大獄で引退を余儀なくされたため、正使・新見正興、副使・村垣範正、目付・小栗忠順らが選ばれ、アメリカ海軍のポーハタン号太平洋を横断し渡米した。この時、護衛と言う名目で軍艦を出すことにし、咸臨丸がアメリカ・サンフランシスコに派遣された。品川からの出発は1月13日でアメリカ到着は2月26日新暦3月17日)、閏3月19日5月8日)にサンフランシスコを旅立ち、品川への帰着は5月6日、旅程は37日で全日数は140日であった[9][注 9]

咸臨丸には軍艦奉行木村喜毅(艦の中で最上位)、教授方頭取として海舟、教授方として佐々倉桐太郎鈴藤勇次郎小野友五郎などが乗船し、米海軍から測量船フェニモア・クーパー号艦長だったジョン・ブルック大尉も同乗した。通訳のジョン万次郎、木村の従者福澤諭吉も乗り込んだ。咸臨丸の航海を諭吉は「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自讃しているが、実際には日本人乗組員は船酔いのためにほとんど役に立たず、ブルックらがいなければ渡米できなかったという説がある[注 10]

古来、海舟は咸臨丸艦長として渡米したと言われている(ブルックも同乗時からそう呼んでいる)が、それに反発する諭吉の『福翁自伝』には木村が「艦長」、海舟は「指揮官」と書かれている。しかし、実際にそのような役職はなく、上記のように木村は「軍艦奉行」、海舟は「軍艦操練所教授方頭取」という立場であった。アメリカから日本へ帰国する際は、海舟ら日本人の手だけで帰国することができた[注 11]

アメリカ滞在中は政治・経済・文化など何もかも日本と違う文明に衝撃を受けたが、他の乗組員といざこざを起こしたとされている。サンフランシスコ入港時に木村が実家の家紋を咸臨丸の旗に掲げようとしたのに対し、海舟は徳川将軍家葵の御旗を掲げるべきと主張、議論の末に木村案が通った話、咸臨丸から祝砲を打ち上げようと佐々倉が言うと海舟が拒否したが、佐々倉が見事成功したため面目が潰れたという逸話、パナマ行きを巡り帰国したがった木村と対立したという問題が挙げられる。最初の問題は事実だが、2つ目の話は諭吉の記憶違いで事実ではなく、3つ目も確かな裏付けが取れないため虚構とされる。松浦はこれらの逸話を検討した上で海舟と木村の対立は事実だとして、自分達は一国を代表してアメリカへ来たという意識があった海舟と、そういう意識が無かった木村との間が上手くいかなかったことが原因と書いている[10]。また、明治も半ばを過ぎてから、諭吉が「瘠せ我慢の説」で新政府に仕えた勝を攻撃したことで知られる諭吉と勝の確執も、咸臨丸航海から始まっている。

帰国後の6月24日蕃書調所頭取助に異動、旗本としての格式は天守番頭過人となった。翌年の文久元年(1861年9月5日講武所砲術師範となり天守番之頭格に格上げされたが、海軍から切り離されたためこれを左遷または海軍からの追放と受け取り、直弼暗殺後に政権を担当した安藤信正久世広周の元では海軍強化の提案もロシア軍艦対馬占領事件に関する建策も採用されず不満の日々を送った。また、蕃書調所での勤務態度は不真面目でさぼってばかりで、頭取古賀謹一郎に任せきりだったとされる[11]

海軍興隆へ奔走

文久2年(1862年)、安藤らが失脚した後に松平春嶽一橋慶喜ら一橋派が島津久光(斉彬の異母弟)の台頭で復帰、文久の改革でそれぞれ政事総裁職将軍後見職に就任した。それに伴い海舟も7月5日に軍艦操練所頭取として海軍に復帰し、閏8月17日に軍艦奉行並に就任。これに先立ち一翁も7月4日御側御用取次として復帰、海舟は一翁および春嶽とその顧問横井小楠を提携相手として手を組み、彼らが主張する公議政体論(諸侯の政治参加を呼びかけ、幕府と共同で政治を行う主張)の支持者となりその実現に向け動き出すことになる。

早速軍艦奉行並就任から3日後の閏8月20日幕府海軍の強化策を話し合う会議が開かれ、意見を披露した。海舟がいない間海軍は木村が安房館山藩稲葉正巳の下で改革案を練り上げ、この会議で軍艦総数を370隻以上、乗組員総数6万人を集め全国6ヶ所に軍艦を配置する一大構想をぶち上げたが、海舟は500年かかっても無理だと反対して地方からの人材登用・育成論を語り、木村の案を事実上廃棄へ追い込んだ[注 12]。反対の根拠は諸侯に金だけ出させ、幕府だけ軍事力強化に走る構想が公議政体論と合わず、諸侯と幕府が協力するだけでなく海軍も互いに手を取り合い強化すべきとする小楠の意見を参考にして人材登用論を発表したのだった。

一方、14代将軍徳川家茂の上洛が取り沙汰されると、6月に費用節約の観点から海路上洛を書いた建白書を一翁を通して提出したが却下された。代わりに手付金5000ドルでイギリス船ジンキーを試乗して気に入り、15万ドルで購入したジンキーを順動丸と改名し上洛用に運用することが出来たが、11月5日に一翁が左遷され23日に罷免(朝廷からの攘夷催促に反対し政権返上を口にしたのが慶喜に嫌われたためとされる)、小楠も12月19日に刺客に襲われた事件で京都へ行けなくなり、同志を2人失う痛手を被った海舟は幕府首脳を順動丸で大坂へ移送する役目を負い、12月17日老中格小笠原長行を乗せて品川を出発、24日に大坂へ到着し滞在、長行に兵庫で海軍操練所建造を提案しつつ海岸線調査を行い、年を越した文久3年(1863年1月13日に兵庫を出航、16日に品川へ戻った。この間に坂本龍馬の名前が海舟の12月29日付の日記に出るが、両者のそれ以前の交流は不明である[12]

2月、将軍の海路上洛が陸路上洛に変更され落胆するも、同月13日に江戸を出発した家茂の後を追う形で24日に順動丸で海路上洛、2日後の26日に大坂で投錨して先回りした(家茂一行は3月4日に上洛)。そこで砲台設置を命じられていたため検分に務め、4月23日に京都から大坂へ下った家茂を出迎え、順動丸に乗せて神戸まで航行した。神戸は碇が砂に噛みやすく水深も比較的深く大きな船も入れる天然の良港であるので、神戸港を日本の中枢港湾(欧米との貿易拠点)にすべしとの提案を大阪湾巡回を案内しつつ家茂にしている[注 13]

家茂にこの提案を受け入れさせる一方、海舟は同行していた公家の姉小路公知も抱き込み、27日の幕府の命令で神戸海軍操練所設立許可が下り、年3000両の援助金も約束、操練所とは別に海舟の私塾も作ってよいと達しも出た。操練所はすぐには作れないため私塾の方が先に始動、薩摩や土佐藩の荒くれ者や脱藩者が塾生となり出入りしたが、海舟は官僚らしくない闊達さで彼らを受け容れた[注 14]。後に神戸は東洋最大の港湾へと発展していくが、それを見越していた海舟は付近の住民に土地の買占めを勧めたりもしている。海舟自身も土地を買っていたが、後に幕府に取り上げられてしまっている。

5月9日には朝廷からの命令を通した幕府から製鉄所の設立も命じられ(姉小路公知が朝廷説得に動いたとされる)、海軍強化に大きく前進していった。しかし政局も動乱が相次ぎ、まず3月から上洛していた家茂が朝廷に攘夷実行を迫られ、これに反対して政権返上を主張した春嶽が3月21日に無断で京都を離れてしまった。続いて姉小路が5月20日に何者かに暗殺され(朔平門外の変)、海舟は提携相手を2人も失い、度々幕閣に攘夷を主張しても受け入れられず、戦争のきっかけに考えていた生麦事件も幕府が賠償金をイギリスに支払い事態収拾されたため、政治的に不利になっていった[注 15][13]

政治構想の頓挫と罷免

先に上げたように、海舟は公議政体論の軍事的応用として諸侯との協力を前提にした「一大共有の海局」を掲げ、幕府の海軍ではない「日本の海軍」建設を目指すが、保守派から睨まれていた上、頼りにしていた春嶽も3月21日に政局を放り出して離脱、海舟は孤立していった。6月に兵を率いて海路で江戸から大坂へ到着した小笠原長行が率兵上洛を企て、これが一因で6月13日に朝廷から江戸帰還を許された家茂を海舟は順動丸に乗せて海路江戸へ戻ったが(長行は率兵の責任を取らされ罷免)、家茂は朝廷から攘夷を約束されたため、攘夷が不可能であると知っている海舟にとってはやりづらい状況となっていた。また、春嶽が治めていた越前福井藩では政変が起こり、率兵上洛および諸侯を集めた列藩会議召集を主張する小楠と対立した一派が7月23日に上洛派を追放、8月11日に小楠も福井を去り公議政体論実現は難航した。1週間後に起こった八月十八日の政変を報告された海舟は日記に失望感を書いている。

それでも海舟は9月に老中酒井忠績と同行して順動丸で再び上洛、政局に嫌気が差していた春嶽に上洛を促し、彼を説得して家茂上洛の下準備を整え10月28日に大坂を出発して11月3日に江戸へ到着、12月28日から翌4年(元治元年、1864年1月8日にかけて家茂と共に上洛、1月10日に海軍増強策を上奏したりしている[14]

2月から4月まで幕府の命令で長崎に滞在、オランダ総領事ポルスブルックと交渉して前年の長州藩による外国船砲撃への諸国の報復を抑えるため説得に動いた。しかし、上奏は採用されず長州藩への制裁も下関戦争として発生した上、海舟が公議政体論の具体化として期待していた参預会議も一橋慶喜の策動で3月9日に解体され、海舟は5月14日に軍艦奉行に昇格、神戸海軍操練所も設置されたが政治構想をことごとく潰され、幕府に対して不満を抱いていた。7月11日に象山が暗殺、19日禁門の変が発生、続く第一次長州征討で幕府は勢いづき公議政体論の見通しは無くなり、海舟の立場も危うくなった。

そして11月10日に軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送る。罷免の理由について、海舟は幕府の姑息ぶりを非難する一方で老中の1人阿部正外は褒めていて、その話を聞いた福井藩と薩摩藩が阿部と打ち合わせ、海舟の持論だった諸侯と幕府の提携を勧めた所、拒絶した阿部が幕府に報告、権力強化を進めていた幕府に危険視されたこと、神戸塾で脱藩浪人を抱えていたことなどが理由とされている。神戸塾と海軍操練所も翌慶応元年(1865年)に閉鎖され、海舟はこうした蟄居生活の際に多くの書物を読んだという[注 16]

海舟が西郷隆盛と初めて会ったのはこの時期、元治元年9月11日の大坂においてである。神戸港開港延期を西郷はしきりに心配し、それに対する策を勝が語ったという。西郷は海舟を賞賛する書状を大久保利通宛に送っている[15]。慶応元年には淀川の警備の為に右岸に高浜台場、左岸に楠葉台場を奉行として完成させている。

長州征討と宮島談判

慶応2年(1866年5月28日、長州藩と幕府の緊張関係が頂点に達する直前に軍艦奉行に復帰して大坂へ向かい、老中板倉勝静の命令で出兵を拒否した薩摩藩と会津藩の対立解消、および薩摩藩を出兵させる約束を取り付けることにした。この任務は成功したと後年海舟は語っているが、実際は薩摩藩は拒否したままであり、会津藩と薩摩藩の対立も続いたままだったため完全に失敗していた。

板倉との間が気まずくなった海舟は帰府を考えたが大坂に留まり、7月20日に家茂が死去した後に宗家を継承した徳川慶喜(12月に将軍職も継承)から8月に京都へ召集され、そこで第二次長州征討停戦交渉を任される。海舟は単身宮島大願寺での談判に臨み、9月2日に長州藩の広沢真臣井上馨らと交渉したが、幕府軍の敗色が濃厚だったためここでも交渉は難航、辛うじて征長軍撤退の際は追撃しないという約束を交わしただけに終わった。再交渉の余地を残すことを相手側に仄めかしたが、慶喜が停戦の勅命引き出しに成功したことでそれも無駄になり、憤慨した海舟は御役御免を願い出て江戸に帰ってしまう。辞職は却下され軍艦奉行職はそのままだったが、以後は事務仕事に勤め大政奉還まで目立った働きはなかった[16]

駿府城会談と江戸城無血開城

慶応4年(明治元年、1868年)、戊辰戦争の開始および鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北し官軍の東征が始まると、対応可能な適任者がいなかった幕府は勝を呼び戻した。幕府側についたフランスの思惑も手伝って徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し慶喜が1月14日に罷免、海舟は17日海軍奉行並、続いて23日に徳川家の家職である陸軍総裁に昇進、恭順姿勢を取る慶喜の意向に沿いフランスとの関係を清算、2月25日に陸軍取扱という職に異動され、会計総裁となった一翁らと朝廷の交渉に向かうことになった[注 17]。官軍が駿府城にまで迫ると、早期停戦と江戸城の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まる。

まず3月9日、山岡鉄舟を駿府の西郷隆盛との交渉に向かわせて基本条件を整えた。この会談に赴くに当たっては、江戸市中の撹乱作戦を指揮し奉行所に逮捕されて処刑寸前の薩摩武士・益満休之助を説得して案内役にしている[注 18]。予定されていた江戸城総攻撃の3月15日の直前の13日14日には海舟が西郷と会談、江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉を行う。結果、江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸の住民150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から救われた[17]

海舟は交渉に当たり、幕府側についたフランスに対抗するべく新政府側を援助していたイギリスを利用した。英国公使のパークスを抱き込んで新政府側に圧力をかけさせ、さらに交渉が完全に決裂したときは江戸の民衆を千葉に避難させたうえで新政府軍を誘い込んで火を放ち、武器・兵糧を焼き払ったところにゲリラ的掃討戦を仕掛けて江戸の町もろとも敵軍を殲滅させる焦土作戦の準備をして西郷に決断を迫った。

この作戦はナポレオンモスクワ侵攻を阻んだ1812年ロシア戦役における戦術を参考にしたとされている[注 19]。この作戦を実施するに当たって、江戸火消し衆「を組」の長であった新門辰五郎に大量の火薬とともに市街地への放火を依頼し、江戸市民の避難には江戸および周辺地域の船をその大小にかかわらず調達、避難民のための食料を確保するなど準備を行っている。幕府の軍艦は新政府軍の兵糧と退路を絶つ為、東海道への艦砲射撃の準備をさせ、慶喜の身柄は横浜沖に停泊していたイギリス艦隊によって亡命させる手筈になっていた。ただし、以上の戦略については否定的な意見もあり、松浦はパークスの圧力についてはパークスが14日に長州藩士木梨精一郎と会見していたことを指摘して海舟と西郷の会見に間に合わないと否定、焦土作戦も時間的に余裕がなかったとして否定している[18]

この会談の後、交渉は一旦保留され改めて東征大総督府と海舟らの話し合いが行われたが、江戸から上洛した西郷から条件を受け取った京都は大総督府と西郷が旧幕府に妥協し過ぎと受け取り、閏4月11日に徳川家処分の決定案を持って三条実美が江戸へ下向、24日に到着して29日に田安亀之助(後の徳川家達)の相続が発表された。詳細は旧幕府側の暴発を恐れ当面伏せられたが、5月15日大村益次郎が新政府軍を指揮して不満分子である彰義隊を壊滅(上野戦争)させてからは正式発表できるようになり、24日に徳川家の領土が400万石から駿府藩70万石に決定された。海舟は西郷が出て行った後は参謀海江田信義と交渉、一時は石高半減も認めない強気の姿勢を取ったが、彰義隊壊滅でそれも難しくなり、海江田が罷免されたこともあり、大減封である処分案正式発表を受け入れざるを得なかった[19][注 20]

戊辰戦争は上野戦争後も続くが、海舟は榎本武揚ら旧幕府方が新政府に抵抗することには反対だった。一旦は戦術的勝利を収めても戦略的勝利を得るのは困難であることが予想されたこと、内戦が長引けばイギリスが支援する新政府方とフランスが支援する旧幕府方で国内が2分される恐れがあったことなどがその理由である。米沢藩宮島誠一郎が朝廷宛に奥羽越列藩同盟の建白書を届ける途中に自宅を訪れた時は面倒を見たが、列藩同盟に対する評価は低く人材不足と時勢の乗り遅れ、会津藩への非難を6月3日付の日記に書いている[20]

明治時代

明治期

明治維新後も海舟は旧幕臣の代表格として外務大丞兵部大丞、参議海軍卿元老院議官枢密顧問官を歴任、伯爵に叙された。しかし明治政府への仕官に気が進まず、これらの役職は辞退したり、短期間務めただけで辞職するといった経過を辿り、元老院議官を最後に中央政府へ出仕していない。枢密顧問官も叙爵も政府からの求めに応じただけで度々辞退していた。

出仕前の慶応4年7月19日、江戸から水戸藩で謹慎していた慶喜がまず駿府藩へ船で移動、23日の到着後は宝台院で謹慎した。続いて8月9日、家達ら旧幕臣達が駿府藩へ移封され15日に駿府へ着いたが、前後して海舟は政府との交渉役を任され、10月11日に船で江戸を去り、翌12日に駿府へ着いてからは幹事役として大久保利通と駿府藩の折衝を努めた。明治2年(1869年7月18日に政府から外務大丞に任じられたが8月13日に辞任、11月23日の兵部大丞任命もすぐに辞表を提出し翌明治3年(1870年6月12日に受理された。明治4年(1871年)の廃藩置県を経て翌5年(1872年3月3日に政府の要請で東京へ向かい、赤坂氷川神社の近くで住居を構え生活することになる[21]

明治5年5月10日に海軍大輔に任じられ、明治6年(1873年3月22日には勅使として西四辻公業と共に鹿児島へ下向し、4月に島津久光を東京へ上京させた。同年の明治六年政変で西郷らが下野した後の10月25日に海軍卿に任じられたが、翌7年(1874年)の台湾出兵に反対して引き籠り、欠席したまま明治8年(1875年4月25日に元老院議官へ転属したが、11月28日に辞職して下野した。海軍と直接的に関わった形跡は無いが、咸臨丸時代からの知り合いだった赤松則良と佐々倉桐太郎を兵学寮へ出仕させ、実務を彼らや川村純義に任せて間接的ながら海軍発展を推し進めた[22]

明治21年(1888年)に始まった大日本帝国憲法制定時の枢密院審議では顧問官として出席したが、終始一貫沈黙していた。これは当初ただ外国から翻訳した法を丸写ししただけの憲法を作るのではないかという懸念を抱いていたが、伊藤博文ら作成者にそのような意図が無いことに安心、日本の習慣に応じて修正すべきとする自分の考えと合っていたからだった。翌22年(1889年2月11日に憲法が公布されると、伊藤らを称える意見を提出している[23]

また座談を好み、西郷隆盛や大久保利通をその後の新政府要人たちと比較した自説を開陳しているが、一方で自身はその政治的姿勢を團團珍聞などのマスメディアから厳しく批判された[24]。ただ、政府に対しては不満はあったが、提出した意見書は説教に止まり、藩閥協力を呼びかける程度の物で、政治的安定を願う海舟には体制批判は見られない。また、民権運動には無関心だった[25]

徳川慶喜とは、幕末の混乱期には何度も意見が対立し存在自体を疎まれていたが、その慶喜を明治政府に赦免させることに尽力した。この努力が実り、慶喜は明治2年9月28日に謹慎解除され、明治31年(1898年3月2日明治天皇に拝謁を許され特旨をもって公爵を授爵し、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を新たに興すことが許されている。これに先立つ明治25年(1892年)に海舟は長男小鹿を失い、友人の溝口勝如を通して慶喜に末子を勝家の養嗣子に迎え、小鹿の娘伊代を精と結婚させることを希望し慶喜と和解した[26]

他にも旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を新政府の爵位権限と人脈を最大限に利用して維新直後から30余年にわたって続けた。明治2年に投獄された榎本の母や、同じく罪人となった荒井郁之助(矢田堀の甥、榎本と共に新政府と戦った)の家族への資金援助を始めとする手助け、明治6年5月に商人の大黒屋六兵衛から供出させた資金を元手に中村正直津田仙、永井尚志ら旧幕臣への資金援助をしたり、明治13年(1880年)に徳川一族から積立金を集め保晃会を設立、日光東照宮保存を図ったことや明治19年(1886年)に徳川家墓地管理と旧幕臣援助を定めた酬恩義会を設立したこともその現れである。また駿府藩から政府や諸藩に人材を送ったり、明治2年に精鋭隊中条景昭らを金谷原へ移住させ茶畑開墾を奨励させたり、旧幕臣の前島密を駿府藩公用人に抜擢したりしている[27]

また、江戸城無血開城と維新の立役者であったが征韓論で下野した西郷隆盛のことを気にかけ、明治10年(1877年)に西南戦争が起こると自宅を訪れたアーネスト・サトウに向かい西郷軍への同情論を語っている。戦後逆賊の臣となり討たれてしまった西郷の名誉回復にも奔走し、天皇の裁可を経て上野への銅像建立を支援している。一方、政府から西郷との調停役を依頼された時は断り、戦争に際して静岡の士族が不穏な動きをしたため慰撫に努めたが、その時詐欺に遭い金を騙し取られ、警察に追及される苦い経験もしている[28][注 21]

海舟は日本海軍の生みの親ともいうべき人物であり、連合艦隊司令長官伊東祐亨は海舟の弟子とでもいうべき人物だったが、日清戦争には反対の立場をとった。清国北洋艦隊司令長官・丁汝昌が敗戦後に責任をとって自害した際は海舟は堂々と敵将である丁の追悼文を新聞に寄稿している。海舟は戦勝気運に盛り上がる人々に、安直な欧米の植民地政策追従の愚かさや、中国大陸の大きさと中国という国の有り様を説き、卑下したり争う相手ではなく、むしろ共闘して欧米に対抗すべきだと主張した。三国干渉などで追い詰められる日本の情勢も海舟は事前に周囲に漏らしており予見の範囲だった[29]

晩年の海舟は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごし、政府から依頼され、資金援助を受けて『吹塵録』(江戸時代の経済制度大綱)、『海軍歴史』、『陸軍歴史』、『開国起源』、『氷川清話』などの執筆・口述・編纂に当たる一方、旧幕臣たちによる「徳川氏実録」の編纂計画を向山黄村を使い妨害している[30]

ただしその独特な談話、記述を理解できなかった者からは「氷川の大法螺吹き」となじられることもあった。晩年は子供たちの不幸に悩み続けた上、義理の孫・精の非行にも見舞われ[疑問点]、孤独な生活だったという[31]

明治32年(1899年)1月19日、風呂上がりにトイレに寄った後に倒れ、侍女に生姜湯を持ってくるように頼んだが、間に合わないとして持ってこられたブランデーを飲んですぐに脳溢血により意識不明となり、息を引き取った[32]。海舟の最期の言葉は「コレデオシマイ」だった[注 22]享年75。

墓は海舟の別邸千束軒のあった東京大田区洗足池公園にある。千束軒は後の戦災で焼失し、現在は大田区立大森第六中学校が建っている。

略年譜

右から3人目が勝海舟。他は大関増裕松平太郎稲葉正巳、石川重敬、ヴァン・ヴァルケンバーグ(アメリカ公使)、江連堯則(外国奉行)。

(明治5年12月2日までは旧暦)

  • 天保9年(1838年)7月27日、家督相続し、小普請組に入り、40俵扶持。
  • 安政2年(1855年
    • 1月18日、異国応接掛附蘭書翻訳御用となる。
    • 7月29日、海軍伝習重立取扱となる。
    • 8月7日、小普請組から小十人組に組替。
  • 安政3年(1856年
    • 3月11日、講武所砲術師範役となる。
    • 6月30日、小十人組から大番に替わる。
  • 安政6年(1859年
  • 安政7年(1860年
    • 1月13日、品川から咸臨丸出航。
    • 2月26日、サンフランシスコに入航。
    • 閏3月8日、サンフランシスコを出航。
    • 改元して万延元年5月6日、品川沖に入航。
    • 5月7日、江戸に帰府。
    • 6月24日、天守番頭過人・蕃書調所頭取助となる。石高400石取りとなる。
  • 文久元年(1861年)9月5日、天守番頭格・講武所砲術師範役に異動。
  • 文久2年(1862年
    • 7月4日、二の丸留守居格軍艦操練所頭取に異動。
    • 閏8月17日、軍艦奉行並に異動。役高1,000石。
  • 文久3年(1864年
    • 2月5日、摂海警衛及び神戸操練所運営を委任される。
    • 改元して元治元年5月14日、作事奉行次席軍艦奉行に異動し、役高2,000石。大身となり、武家官位の従五位下安房守に任官。
    • 11月10日、軍艦奉行を罷免され、寄合席となる。
  • 慶応2年(1866年)5月28日、町奉行次席軍艦奉行に復職。
  • 慶応3年(1867年)3月5日、海軍伝習掛を兼帯。
  • 慶応4年(1868年
    • 1月17日、海軍奉行並に異動。役高5,000石。列座は陸軍奉行並の上。
    • 1月23日、陸軍総裁に異動。列座は若年寄の次座。
    • 2月25日、陸軍総裁を免じ、軍事取扱に異動。
    • 3月13日・14日、薩摩藩江戸藩邸にて西郷隆盛と会見。同日、江戸城無血開城。
  • 明治2年(1869年
    • 7月13日、諱を安芳と改める。
    • 7月18日、維新政府の外務大丞に任官。
    • 8月13日、外務大丞を辞す。
    • 11月23日、兵部大丞に任官。
  • 明治3年(1870年)6月12日、兵部大丞を辞す。
  • 明治5年(1872年
    • 5月10日、海軍大輔に任官。
    • 6月15日、従四位に昇叙し、海軍大輔如元。
  • 明治6年(1873年)10月25日、参議に転任し、海軍卿を兼任。
  • 明治7年(1874年)2月18日、正四位に昇叙し、参議・海軍卿如元。
  • 明治8年(1875年
    • 4月25日、元老院議官に異動。
    • 4月27日、元老院議官を辞表を提出。
    • 11月28日、元老院議官を辞す。
  • 明治20年(1887年
  • 明治21年(1888年
    • 4月30日、枢密顧問官に任官。
    • 10月、正三位に昇叙し、枢密顧問官如元。
  • 明治22年(1889年
    • 5月8日、枢密顧問官辞表を提出するが、翌日却下。
    • 12月、勲一等瑞宝章を受ける。
  • 明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員に当選するものの辞退。
  • 明治27年(1894年)6月30日、従二位に昇叙し、枢密顧問官如元。
  • 明治29年(1896年)10月27日、枢密顧問官辞表を提出するが、11月4日、却下。
  • 明治31年(1898年)2月26日、勲一等旭日大綬章を受ける。
  • 明治32年(1899年
    • 1月19日、死去。
    • 1月20日、正二位法名:大観院殿海舟日安大居士。

栄典

人物

逸話

トラウマ
9歳の頃、狂犬に睾丸を噛まれて70日間(50日間とも)生死の境をさまよっている(「夢酔独言」)。この時父の小吉は水垢離(みずごり)をして息子の回復を祈願した。これは後も勝のトラウマとなり、犬と出会うと前後を忘れてガタガタ震え出すほどであったという[36]
福澤諭吉との関係
木村喜毅の従者という肩書きにより自費で咸臨丸に乗ることができた福澤諭吉は、船酔いもせず病気もしなかった。一方、海舟は伝染病の疑いがあったため自室にこもりきり艦長らしさを発揮できなかった。諭吉はそれをただの船酔いだと考えていたようで、海舟を非難する格好の材料としている。
海舟批判書状の『瘠我慢の説』への返事
「自分は古今一世の人物でなく、皆に批評されるほどのものでもないが、先年の我が行為にいろいろ御議論していただき忝ない」として、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候(世に出るも出ないも自分がすること、それを誉める貶すは他人がすること、自分はあずかり知らぬことと考えています)」
咸臨丸の実情
和船出身の水夫が60人。士分にはベッドが与えられていたが水夫は大部屋に雑魚寝。着物も布団もずぶ濡れになり、航海中晴れた日はわずかで乾かす間もなかった。そのため艦内に伝染病が流行し、常時14、5人の病人が出た(今でいう悪性のインフルエンザか)。サンフランシスコ到着後には3人が死亡、現地で埋葬された。ほかにも7人が帰りの出港までに完治せず、現地の病院に置き去りにせざるを得なかった。病身の7人だけを残すのが忍びなかったのか、水夫の兄貴分だった吉松と惣八という2名が自ら看病のため居残りを申し出た。計9人の世話を艦長の海舟は現地の貿易商チャールズ・ウォルコット・ブルックスに託し、充分な金も置いていった。ブルックスは初代駐日公使ハリスの友人で、親日家だった。
受爵の時
受爵の時の話を海舟が亡くなった際に宮島誠一郎がこう話している。
「授爵の時は、伊藤サンから手紙が来た。勝が、御受けせぬであろうが、ドウゾ、君の尽力で、ススメてくれという事で。固より好まない事は知れているが、また固より受けても相当の事と思うから、行った。スルト、運動に出たという事でおばあさんが出てきて、断ったが、是非会って申さなければならぬことだからと言って、待っていたが、ドウしても還って来ぬ。ヤット十二時頃になって、今帰りましたということであった。それから、話すとイツモの調子ではなく、厳然として、その受けられぬ訳を答えた。真に、功もなく、恐れ多いというのだ。なかなかむつかしい。それで、これではイカヌと思って、コッチモ勝流をキメテ、ソウ言った。「勝サン、それはソウダガ、私は伊藤サンの使いだ。これが西郷ナラ、私も使いにはならんし、また自分で来るだろう。何しろ相手が伊藤サンだから、ソウイジメないでもイイではないか、モウこれで二時だが、ドウか受けて受けてくれ」と言ったら、ソレデようやくマトマッタ。」[37]
なお、この明くる日の受爵に本人は行かず代理で済ませたようである。
亡くなった時の様子について
海舟が亡くなる直前の様子について、長年女中を務めていた増田糸子がこう話している。
「あの日は、お湯からお上りなすって、大久保の帰るのは(大久保一翁の子供の帰朝)昨日だか、今日だっけと、仰しゃっただけで、それからハバカリからお出になって、モウ褥の方へいらっしゃらず、ココの所へ倒れていらっしゃいますから、ドウなすったかとビックリしました。死ぬかも知れないよと仰しゃって、ショウガ湯を持って来いと仰しゃいましたが、間に合いませんから、ブランデーをもって参りました。油あせが出るからと仰しゃいますので、お湯はその時モウ落としてしまいましたから、あちらで取って参りましたから、それで一度おふきなすったのです。それで、奥さまに申し上げまして、コチラにお出でになりました時には、モウ何とも仰しゃらず、極く静かにお眠りでした。」[38]
徳富蘇峰との関係
徳富蘇峰は明治20年代に赤坂氷川の海舟の邸内の借家(名義は勝の長女の嫁ぎ先の内田氏)に住み勝の教えを受け、海舟を生涯の師の一人と仰いでいる。蘇峰は「勝先生と相見たのは先生の六十歳以後であり、立てば小兵で別段偉丈夫らしく見えぬが、ただ五尺の短身すべてエネルギーというべきもので、手を触れれば花火を飛ばすごとき心地がした。先生が正面から人を叱りつけたことは見たこともなく、聞いたこともなかったが、その上げたり下げたり、人をひやかすことの辛辣手段に至っては、いかなる傑僧の毒話も及ぶところではない。誰でも先生に面会すれば、一度は度肝を抜かれた。先生は何人に対しても、出会い頭に真拳毒手を無遠慮に下した。それを辛抱して先生の訓えを聴かんとする者には必ず親切、丁寧に、手を取らんばかりに教え導いてくれた。」と書き残している[39]
上記のように海舟の人となりを最大限に讃えている蘇峰だが、晩年の勝の放言には閉口することもあったようで、「惜しむらくはあまりにも多弁」とも書き残している。

語録

  • 勝ちを望めば逆上し措置を誤り、進退を失う。防御に尽くせば退縮の気が生じ乗ぜられる。だから俺はいつも、先ず勝敗の念を度外に置き虚心坦懐事変に対応した。
  • 自分の価値は自分で決めることさ。つらくて貧乏でも自分で自分を殺すことだけはしちゃいけねぇよ。
  • オレは、(幕府)瓦解の際、日本国のことを思って徳川三百年の歴史も振り返らなかった。
  • どうも、大抵の物事は(外部からではなく)内より破れますよ。
  • 行政改革というものは、余程注意してやらないと弱い物いじめになるよ。肝心なのは、改革者自身が己を改革する事だ。
  • やるだけのことはやって、後のことは心の中でそっと心配しておれば良いではないか。どうせなるようにしかならないよ。(日本の行く末等を心配している人たちに)
  • いつ松を植えたか、杉を植えたか、目立たないように百年の大計を立てることが必要さ。
  • 文明、文明、というが、お前ら自分の子供に西欧の学問をやらせて、それでそいつらが、親の言うことを聞くかぇ?ほら、聞かないだろう。親父はがんこで困るなどと言ってるよ。
  • 敵は多ければ多いほど面白い。(勝自身も、生きている間は無論、亡くなってからも批判者が多いことは、十分に理解していた)
  • 我が国と違い、アメリカで高い地位にある者はみなその地位相応に賢うございます。(訪米使節から帰還し、将軍家茂に拝謁した際、幕閣の老中からアメリカと日本の違いは何か、と問われての答弁)
  • ドウダイ、鉱毒はドウダイ。山を掘ることは旧幕時代からやって居たが、手の先でチョイチョイ掘って居れば毒は流れやしまい。海へ小便したって海の水は小便になるまい。今日は文明だそうだ。元が間違っているんだ。(足尾銅山の公害が明白になってもなお採掘を止めない政府に対して)
  • 世の中に無神経ほど強いものはない。
  • 今までは人並みなりと思ひしに五尺に足りぬ四尺(子爵)なりとは[注 23]
  • 世間では(日清戦争を)百戦百勝などと喜んで居れど、支那では何とも感じはしないのだ。そこになると、あの国はなかなかに大きなところがある。支那人は、帝王が代らうが、敵国が来り国を取らうが、殆ど馬耳東風で、はあ帝王が代つたのか、はあ日本が来て、我国を取つたのか、などいつて平気でゐる。風の吹いた程も感ぜぬ。感ぜぬも道理だ。一つの帝室が亡んで、他の帝室が代らうが、誰が来て国を取らうが、一体の社会は、依然として旧態を損して居るのだからノー。国家の一興一亡は、象の身体(からだ)を蚊(か)か虻(あぶ)が刺すくらゐにしか感じないのだ。ともあれ、日本人もあまり戦争に勝つたなどと威張つて居ると、後で大変な目にあふヨ。剣や鉄砲の戦争には勝つても、経済上の戦争に負けると、国は仕方がなくなるヨ。そして、この経済上の戦争にかけては、日本人はとても支那人には及ばないだらうと思ふと、俺は密かに心配するヨ。
  • 日清戦争には、おれは大反対だつたよ。なぜかつて、兄弟喧嘩だもの犬も喰はないじゃないか。たとえ日本が勝つてもドーなる。支那はやはりスフインクスとして外国の奴らが分らぬに限る。支那の実力が分つたら最後、欧米からドシドシ押し掛けて来る。ツマリ欧米人が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。一体支那五億の民衆は日本にとつては最大の顧客サ。

記念碑

ファイル:Statue of Katsu Kaishu 03.jpg
勝海舟の銅像
(墨田区役所うるおい広場)
  • 「勝海舟生誕地碑」:海舟は父小吉の実家である男谷家で生まれた。現在、跡地は両国公園となっており、公園内に碑が立っている。
  • 洗足池のほとりに海舟の晩年の邸宅「千束軒」があったが戦災で焼失し、現在は海舟夫妻のが残っている。となりには海舟が自費で建設した「西郷南洲留魂碑」がある、そのとなりには海舟と西郷隆盛の江戸城無血開城の偉業をたたえた徳富蘇峰の詩碑が建立されている。
  • 「西郷南洲勝海舟会見之地」碑(東京都港区芝):江戸城無血開城を取り決めた勝西郷会談が行われた薩摩藩邸跡地に建っている。
  • 「勝海舟銅像」(東京都墨田区吾妻橋):墨田区区役所前の「うるおい広場」に、2003年7月21日(海の日)、今日の東京の発展の基礎を作った海舟の功績を顕彰するために、有志(勝海舟の銅像を建てる会)一般からの寄付金などで建てられた。
  • 「勝海舟寓居地」(和歌山県和歌山市船大工町):文久3年(1863年)、幕府より紀州の海岸防衛工事の監督として赴任した際に暮らしていた居宅跡を顕彰する石碑。

評価

  • 日本史上稀代の外交手腕と慧眼を備えた政治家・戦略家・実務家と評し心酔するファンがいる一方、理科系の教養に暗く[40][41]、大言壮語する成り上がりとして非常に毛嫌いする人も旧幕時代からいた。
  • 海軍からも嫌われており、文久3年8月16日に軍艦組の頭取以下全員が辞職を楯にストライキを敢行、海舟が説得に当たる騒ぎに発展した[注 24]。また、文久3年12月28日から翌4年1月8日にかけて家茂を順動丸に乗せて、海路で2度目の上洛を敢行した際、途中滞在した下田で乗組員と対立して出発延期を押し切られたり、随行した他の船が下田へ戻ったこと、日記で盛んに家茂を褒め称えながら他人や他の船などは書かないなど海軍指揮官として問題が多々見られる[42]
  • 坂本龍馬の文久3年の姉(乙女)宛ての手紙には「今にては日ノ本第一の人物勝麟太郎という人に弟子になり」とあり、西郷隆盛も大久保利通宛ての手紙で「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」、「英雄肌で、佐久間象山よりもより一層、有能であり、ひどく惚れ申し候」と書いている等、龍馬や西郷のような無私の人物からは高く評価されていたことがわかる。
  • 福澤諭吉の『瘠我慢の説』は諭吉の持論の立国論が根本にあるが、名指しで海舟と榎本武揚を新政府に仕えた「やせ我慢」をせぬものと批判している。『福翁自伝』でも海舟に批判的なことからウマの合う合わないの点も推察される。また蜷川新が書いた『維新前後の政争と小栗上野の死』では諭吉と親交の深い栗本鋤雲がある会合で海舟を「勝、下がれ」と一喝した話を掲載、瘠我慢の説を読んだ鋤雲が明治25年に書いた感想には海舟を「羞恥心を知らない者」と非常に嫌っている[43]
  • 死の3日後、氷川邸に勅使がきて勅語を賜ったが、この勅語が人物評価の参考になるかもしれない。
幕府ノ末造ニ方リ体勢ヲ審ニシテ振武ノ術ヲ講シ皇運ノ中興ニ際シ旧主ヲ輔ケテ解職ノ実ヲ挙ク爾後顕官ニ歴任シテ勲績愈々彰ル今ヤ溘亡ヲ聞ク曷ソ軫悼ニ勝ヘン茲ニ侍臣ヲ遣シ賻賵ヲ齎シテ以テ弔慰セシム

著作等

回想録として、吉本襄による『氷川清話』や巌本善治による『海舟座談』がある。『氷川清話』は吉本襄が新聞や雑誌をまとめ漢語調や文章体であったものを口語体に統一した上で分類編集し書籍化したものであるが、底本とした原談話から吉本が歪曲・改竄している疑いのある個所も多い。江藤淳松浦玲が編集しているものについては吉本が底本とした原談話と比較し歪曲・改竄の疑いがあるものについて指摘し解説がなされている。特に『氷川清話』の『第一章 履歴と体験』この中には長崎海軍伝習時代や咸臨丸での太平洋横断、第二次長州征討の講和談判、江戸城開城など幕末を語る海舟の談話が多く載っているがこれに関しては底本となった原談話が少なく松浦も「校正の腕を振るいにくかった」と書いている[44]

一方、『海舟座談』は巌本善治による海舟筆記録で元は『海舟餘波』として海舟死没直後の明治32年3月に巌本が発行したものを昭和5年(1930年)に巌本自身が日付別に整理し『海舟座談』として文庫化したものである。海舟本人からの巌本による聞き書きで海舟の話し方の細かな特徴まで再現されており、幕末・明治の歴史を動かした人々や、時代の変遷、海舟の人物像などを知ることができる。ただし、時局に差しさわりのある発言は『海舟餘波』に載っていたものが『海舟座談』では削られてしまい一部は正反対の意味に書き換えられてしまっている[45]

こちらも江藤・松浦が編纂しているものについては『海舟餘波』などと比較した上で歪曲・改竄の疑いがあるものについて指摘し解説がなされている。また氷川清話についての勝自身の言葉が巌本善治の『海舟座談』にある。

明治30年(1897年)10月6日の座談
「吉本襄が来て、新聞に出た此方のはなしを集めて、(『氷川清話』を)出版したいと言うた。たいそう困るから、そうさせてもらいたいと言った。勝手にしなさいと言うて置いた。」
この言葉に対し巌本善治が(「序文はお書きにならぬが宜しいです。新聞に出たのはたいてい間違っておりますから」)と言うと、
「ナーニ、目くら千人目あき千人だから、構いやしない。吉本はイイやツだよ。少し頑固だけれどネ。」[46]と返している。

この巌本の言葉から吉本が元にした『氷川清話』の新聞記事そのものからして間違っており、さらにそこに吉本による歪曲・改竄が加わっているのだと考えられる。そのためそれを元にした『氷川清話』に勝の意志や談話が正しく反映されているのだとは言い切れない。同じく『海舟座談』の明治31年(1898年)10月23日の談話では続々氷川清話のことが載っている。

(「吉本襄がまた『続々氷川清話』を作るといってよこしました。私は、断りましたが、皆んなから、書いたものを集めるそうです」という巌本に対し)「そうかエ。もうよせばいいのに。前ので、もうかったということだ。尾崎が来てそう言ったから、確かだろう。少しも此方は関係しないのだが。この間も、二度ほど来たから、断わって返した。」[47]

この言葉から『氷川清話」は著作というよりも海舟のこれまでの談話が載った新聞や雑誌の記事を吉本が海舟の許可を得た上で書籍化したのだろうか。吉本の『たいそう困るから、そうさせてもらいたい』は吉本が金に困っていたということであり、その1年後の『続々氷川清話』についての海舟の言葉「前ので、もうかったということだ」「少しも此方は関係しないのだが」からは『氷川清話』で吉本に多額の印税が入り続編が出ることになったこととその印税は勝の元には入らなかったであろうことがわかる。

膨大な量の全集があり、維新史、幕末史を知る上での貴重な資料となっている。海舟は相当の筆まめであり、かなりの量の文章・手紙等が残っている。また父・小吉も自伝『夢酔独言』(平凡社東洋文庫ほか)を書いている。

著名作(新版)

系譜

系図

勝家
小吉
 
安芳(海舟)
 
小鹿
 
知代
 
 
 
 
 
 
 
四郎
 
 
伊代
 
 
 
 
 
 
 
芳孝
 
芳邦
 
 
 
 
 
 
 
道子
 
 
 
喜子
 
 
 
静子
 
 
 
中子
 
 
 
当子
 

家族・親族

  • 正妻:民子(1821年 - 1905年) - 薪炭商兼質屋・砥目家の娘、元深川芸者との説あり
    • 長女:内田夢(1846年 - ?) - 内田誠故と結婚[48]
    • 次女:疋田孝子(1849年 - ?) - 疋田正善と結婚[48]
    • 長男:小鹿(1852年 - 1892年)
    • 次男:四郎(1854年 - 1866年)[49]
  • 妾:梶玖磨(お久)
    • 三男:梶梅太郎(1864年 - 1925年)
      • 妻:クララ・ホイットニー(1860年 - 1936年) - アメリカ人。商法講習所の教師として明治8年(1875年)に来日した父ウィリアム・コグスウェル・ホイットニーと共に14歳から5年間日本で暮らし、明治13年(1880年)にアメリカへ帰国、明治15年(1882年)に22歳で再来日、明治19年(1886年)に26歳の時に梅太郎の子を身ごもり結婚した。しかし家計は苦しく夫婦共働きとなり、明治女学校で教師として生計を立てていたが、海舟の死から翌年の明治33年(1900年)、40歳で夫を置いて子供達と共に帰国、ペンシルベニア州へ移り亡くなるまで過ごした[50]
      • 孫:梅久(ウォルター、1886年生)[51]
      • 孫:和気(アディライン、1887年生)[51]
      • 孫:喜乃(ウィニフレッド、1889年生)[51]
      • 孫:幸(メーベル、1890年生)[51]
      • 孫:礼(エルザ、1892年生)[51]
      • 孫:勇(ヒルダ、1896年生)[51]
  • 妾:増田糸
  • 妾:小西かね
    • 四男:岡田七郎
  • 妾:清水とよ
    • 五女:妙子
  • 妾:森田米子

嫡男の小鹿は海舟の最晩年に40歳で急逝したため、小鹿の長女・伊代に旧主徳川慶喜の十男・を婿養子に迎えて家督を継がせることにした。海舟はこれを見届けるかのようにしてこの世を去っている。精は実業界に入り、浅野セメント石川島飛行機などの重役を勤めた[注 25]

三女・逸(いつ)は、専修学校(現:専修大学)の創立者である目賀田種太郎に嫁いだ。

愛人と隠し子がいたが、正妻・民子は異腹の9人の子供を分け隔てなく可愛がり、屋敷の人々から「おたみさま」と呼ばれて慕われた。だが民子は遺言で「勝のそばに埋めてくださるな。わたしは小鹿のそばがいい」と言い残したが、遺言の希望は聞き入れられず養子の精の一存で海舟の隣に葬られてしまった[52]

財務省事務次官の勝栄二郎および世界銀行副総裁の勝茂夫の兄弟は曾孫に当たるという伝説が、霞ヶ関などで流布されていたが、栄二郎は雑誌の取材に対して海舟との関係を完全に否定している[53]

出典

  1. ^ 石井、P258、小西、P262、松浦、P30。
  2. ^ 小西、P14、松浦、P32 - P35。
  3. ^ 「武士道教育総論」P155 - P182。
  4. ^ 石井、P4、松浦、P132。
  5. ^ 石井、P5 - P10、小西、P17 - P19、松浦、P61 - P63、P75 - P82、P88 - P94。
  6. ^ 藤井、P45、松浦、P99 - P101、P770 - P771。
  7. ^ 石井、P11 - P13、松浦、P48、P113 - P122。
  8. ^ 石井、P13 - P15、土居、P58 - P69、松浦、P123 - P134。
  9. ^ 石井、P15 - P20、小西、P20 - P21、藤井、P2 - P16、土居、P89 - P137、松浦、P135 - P160。
  10. ^ 藤井、P12 - P13、松浦、P151 - P160。
  11. ^ 石井、P20、松浦、P162 - P173、P782 - P783。
  12. ^ 石井、P21 - P33、土居、P140 - P177、松浦、P174 - P200、P788 - P789。
  13. ^ 石井、P33 - P43、松浦、P200 - P219。
  14. ^ 石井、P43 - P61、P264 - P265、松浦、P219 - P252。
  15. ^ 石井、P62 - P87、松浦、P253 - P271、P
  16. ^ 石井、P99 - P137、松浦、P285 - P309、P315 - P316。
  17. ^ 石井、P137 - P179、半藤、P41 - P55、松浦、P323 - P368。
  18. ^ 石井、P171 - P175、半藤、P49 - P53、松浦、P359 - P361、P365 - P368。
  19. ^ 石井、P179 - P218、半藤、P102 - P115、松浦、P368 - P395。
  20. ^ 石井、P219 - P220、松浦、P397 - P401。
  21. ^ 石井、P220 - P224、P274、松浦、P401 - P430、P434 - P450。
  22. ^ 石井、P224 - P227、土居、P217 - P225、半藤、P154 - P156、P179 - P180、P192 - P201、松浦、P451 - P481。
  23. ^ 清水伸『明治憲法制定史 下』原書房、1973年、P57、石井、P234 - P235、松浦、P623 - P625。
  24. ^ 湯本豪一『図説明治人物事典 政治家・軍人・言論人編』日外アソシエーツ、P144頁。 
  25. ^ 石井、P232 - P236、P254、松浦、P611 - P618、P644 - P646。
  26. ^ 石井、P237、P243、半藤、P292 - P303、松浦、P430、P665、P667。
  27. ^ 石井、P227 - P228、P230、『静岡県史 通史編5』P36 - P37、半藤、P130 - P132、P149 - P150、小林正義『知られざる前島密』郵研社、P94 - P96、松浦、P431 - P434、P439 - P445、P487 - P500、P521、P602 - P608。
  28. ^ 石井、P228 - P230、半藤、P204 - P233、松浦、P501 - P519。
  29. ^ 日鮮支三国合縦連衡論
  30. ^ 小野寺龍太『古賀謹一郎』ミネルヴァ書房ミネルヴァ日本評伝選)、P253 - P261頁。 
  31. ^ 日本の墓:著名人のお墓:勝海舟』株式会社亘徳。中川聖山『お墓の履歴書』講談社、P76 - P77頁。 
  32. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)P83 - P84。
  33. ^ 『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。
  34. ^ 『官報』第1351号「叙任及辞令」1887年12月28日。
  35. ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
  36. ^ 永井義男. “深夜の遠吠えfile102・勝海舟は片キンか”. 2010年11月15日閲覧。
  37. ^ 巌本善治編・勝部真長解説 『海舟座談』 岩波書店[岩波文庫]P251。
  38. ^ 巌本善治編・勝部真長解説 『海舟座談』 岩波書店[岩波文庫]P224 - P225。
  39. ^ 『蘇翁夢物語 わが交遊録』中公文庫
  40. ^ 数学が必須の海軍伝習で、幕臣関係同期生39人中留年者は勝ほか4人であった。藤井、P45。
  41. ^ 土居、P269。
  42. ^ 石井、P58 - P59、松浦、P246 - P250。
  43. ^ 小野寺龍太『栗本鋤雲』ミネルヴァ書房、P219 - P220頁。 
  44. ^ 江藤淳・松浦玲編『氷川清話』講談社「講談社学術文庫」解題、P389。
  45. ^ 江藤淳・松浦玲編『海舟語録』解題、P280。
  46. ^ 巌本善治編・勝部真長解説『海舟座談』岩波書店(岩波文庫)P131。
  47. ^ 巌本善治編・勝部真長解説『海舟座談』岩波書店(岩波文庫)P82 - P83。
  48. ^ a b 松浦、P904。
  49. ^ 石井、P261、P270。
  50. ^ ホイットニー(上巻)、P11 - P25。
  51. ^ a b c d e f ホイットニー(下巻)、P560。
  52. ^ 船戸安之『勝海舟---物語と史跡をたずねて』1953年。 
  53. ^ AERA』、朝日新聞出版、2010年8月23日。 

注釈

  1. ^ 現在の東京都墨田区両国の一部。当時の本所亀沢町と現在の墨田区亀沢とは町域が重なっていない。
  2. ^ 墨田区立両国公園(両国4-25)内に「勝海舟生誕之地」碑が建っている。また、墨田区役所敷地(吾妻橋1-23)内には勝海舟像が建つ。
  3. ^ 現在の新潟県柏崎市の一部。
  4. ^ 男谷家は平蔵が継ぎ旗本となり、次男で小吉の兄彦四郎思孝、その次は思孝の従甥で男谷忠之丞の子信友(下総守、剣聖・精一郎)が継いだ。石井、P2、小西、P46 - P47、P50。
  5. ^ 浅草新堀。現在の台東区元浅草、三筋付近
  6. ^ 後に妹の順子は象山に嫁いでいる。
  7. ^ 富田鉄之助作成の年譜で開塾が海舟の父が死んだ同年9月と一緒に記録されているため、年は特定出来ても月日が分からない。また、杉と佐藤の入門時期は佐藤が安政元年10月28日と記録に書かれているが、杉は諸説ありはっきりしない。松浦、P54、P764 - P765、P767 - P768。
  8. ^ 第一期から三期まで在籍したことを「勝は成績が悪く、三度落第した」とする文献もある。航海術に必要な数学(算数)が苦手だったようである。ただし、これは反勝派の旧幕臣から出たものであり、事実とは言いがたいという反論もある。オランダ教官からは非常に評価されているとのことである。
  9. ^ 妻には「ちょっと品川へ船を見に行ってくる」とだけ言って出かけたらしい。小西、P156。
  10. ^ この時の海舟の船酔いについては、実は海舟が何らかの伝染病に罹っており、自らを隔離するために船室に引き籠もっていたとする説もある。
  11. ^ 帰路もアメリカ人が乗船したとの説もある。
  12. ^ この会議での対応は木村の面目を潰す行為だったが、海舟はなんら気にせずに開陳、11月に再度開かれた会議では無言で通した。以後も木村の対応はぞんざいで、日記では同じ船に乗ったこと、木村と会ったことなどが書かれていない。土居、P172 - P176、松浦、P184、P196、P201、P305 - P306、P788。
  13. ^ 神戸は平安時代末の平清盛以来の国際貿易港であったが、それは朝鮮・中国を相手にしたものである。その神戸を西欧諸国との貿易のために活かそうとした点で海舟の提案は斬新だった。
  14. ^ この塾頭が坂本龍馬だった。
  15. ^ 海舟が主張する攘夷は、外国と戦えば負けることを前提に、戦争よりも寧ろ戦後処理を重視している。戦争に負けて天下に攘夷が不可能なことを知らしめ人心を一新、加えて外国と攘夷論者に怯えて消極的な対応しか出来ない幕臣も追放、武備を充実させて世論を統一させた上で改めて外国との条約締結を論じている。これは既に春嶽や小楠が公議政体論と重ねて言っていることで、彼らと同志である海舟もこの種の大開国論者になっていた。松浦、P187 - P188、P192、P203 - P207。
  16. ^ 逆にそうでない期間には本など読まなかったとも述べている。
  17. ^ 後に軍事総裁として全権を委任され、旧幕府方を代表する役割を担うという説明があるが、松浦はこの説を否定、若年寄に任命された旗本集団(浅野氏祐川勝広運ら)が事実上幕府の全権を担い(後に一翁も若年寄に就任)、海舟は若年寄を辞退し彼らの下に置かれている事実を強調している。一方、不平分子を退散させるため、新選組近藤勇土方歳三らに甲陽鎮撫隊と改称させ甲府城へ向かわせ、古屋佐久左衛門率いる衝鋒隊を別方面に出発させている。石井、P166 - P167、半藤、P28 - P41、松浦、P340 - P341、P808 - P809。
  18. ^ 例えば高橋敏の『清水次郎長と幕末維新』(岩波書店、2003年)などで清水次郎長とその配下に護衛を依頼したとする説を一次資料を提示しない「通説」としてとりあげているが、高橋自身も賛同はしておらず『清水次郎長とその周辺』の増田知哉や藤田五郎、村本喜代作、長谷川昇、戸羽山翰も同様である旨を明記しておく。また海舟と次郎長について交際のあった一次資料はない。同じ3月に街道警護役を伏谷如水から押し付けられた件と混同している向きもある。
  19. ^ 海舟自身は日記・座談で明言していないが、津本陽・檜山良昭ら多くの作家が調査のうえ、海舟が知識としては持っており参考にした可能性が高いと結論づけている。
  20. ^ 海舟の政治構想はなるべく400万石を保った徳川の存続を図り、徳川を含めた諸侯から一律の割合で費用を徴収、政治体制は公議政体論の実現を目指した物だったが、上野戦争を経て新政府が旧幕府に妥協する必要がなくなると海舟の構想も頓挫してしまった。失敗の原因である彰義隊について海舟は暴発を防ごうと説得に当たったが失敗、彼らを扇動したとして寛永寺執当の覚王院義観を激しく非難している。石井、P203 - P205、P213 - P214、P218、松浦、P386 - P395。
  21. ^ 当時、明治天皇の侍従を務めていた山岡鉄舟を介して西郷の赦免、西郷の遺児を江戸に呼ぶことを明治天皇に提案している。その後、西郷の嫡男・寅太郎は明治政府に採用されてポツダム陸軍士官学校留学を命ぜられ、庶長子菊次郎は外務書記生としてアメリカ公使館勤務となった。また、西郷の甥で弟・吉二郎の長男の隆準も寅太郎と同行し留学を希望したので、海舟は徳川家から借金をして寅太郎と隆準の留学の際の餞別金350円を手渡している。
  22. ^ 作家の山田風太郎は、自身の著書『人間臨終図巻』の中で、海舟のこの言葉を「臨終の際の言葉としては最高傑作」と評している
  23. ^ 当初は子爵の内示だったが、左記の感想を述べ辞退、のちに伯爵を授爵したという説と伯爵叙爵の祝いの席に子爵叙爵と勘違いして来た客をからかって詠んだ歌という説がある。だが、宮島誠一郎が語った上記の逸話を踏まえれば「伯爵叙爵の祝いの席に子爵叙爵と勘違いして来た客をからかって詠んだ歌」という説の方が自然とも言える。勝の身長は実際に五尺ちょっとで、当時の人の中にあっては実際人並みであるが、西郷など長身だった者も維新で活躍した中には多く、その自身の身長に掛けている。事実、勝は自分のことをよく「小男」などと表現している
  24. ^ この騒動の結末は書かれていないため不明だが、翌9月に海舟が順動丸に老中酒井忠績を乗せて江戸から大坂へ向かったため、ストライキはうやむやに終わったのではないかと推測されている。土居、P185 - P187、松浦、P234 - P235、P237。
  25. ^ 海舟没後、勝家は男子の後継者を法的に定めておらず、女戸主となり一旦爵位を返上している。[1]なお精の代に3回家宝の売立てを行っている。小田部雄次『家宝の行方』、P115頁。 

参考文献

  • 石井孝『勝海舟』吉川弘文館人物叢書〉、1974年。ISBN 978-464205062-3 
  • 小西四郎編 編『勝海舟のすべて』新人物往来社、1985年。ISBN 978-440401291-3 
  • 勝部真長『勝海舟』 上巻、PHP研究所、1992年。ISBN 978-456953617-0 
  • 勝部真長『勝海舟』 下巻、PHP研究所、1992年。ISBN 978-456953618-7 
  • 江藤淳『海舟余波 わが読史余滴』〈文春文庫〉1984年。 
  • 半藤一利『それからの海舟』筑摩書房、2003年。 /(ちくま文庫 2008年)。
  • 松浦玲『勝海舟』筑摩書房、2010年。
  • 藤井哲博咸臨丸航海長 小野友五郎の生涯 幕末明治のテクノクラート中央公論社中公新書)、1985年。
  • 土居良三『軍艦奉行木村摂津守 近代海軍誕生の陰の立役者』中央公論社(中公新書)、1994年。
  • クララ・ホイットニー 著、一又民子・ほか訳注 訳『クララの明治日記 勝海舟の嫁』 上巻〈中公文庫〉、1996年。ISBN 978-412202600-1 
  • クララ・ホイットニー 著、一又民子・ほか訳注 訳『クララの明治日記 勝海舟の嫁』 下巻〈中公文庫〉、1996年。ISBN 978-412202621-6 
  • 松本健一『幕末の三舟 海舟・鉄舟・泥舟の生きかた』〈講談社選書メチエ〉1996年。 
  • Clark, Edward Warren (1904) (English). Katz Awa: "The Bismarck of Japan," or the Story of a Noble Life". New York: B. F. Buck & Co.. OCLC 236052852. http://www.archive.org/details/katyawabismarck00clargoog 
  • 徳富猪一郎『蘇翁夢物語 わが交友録』〈中公文庫〉1990年。 

勝海舟を主題とした作品

小説

映画

テレビドラマ

歌謡曲

登場作品

映画
大河ドラマ
テレビドラマ

外部リンク


爵位
先代
勝小吉
勝伯爵家
初代:1887年5月9日 - 1899年1月19日
次代
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