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**[[3月1日]] これまで3年間共同出資・並びにユニフォームスポンサー(袖)を結んでいた[[近畿日本鉄道]]が経営・ユニフォーム協賛から完全撤退。袖部分のユニフォーム協賛は[[イー・モバイル]]が就任することが決まった。 |
**[[3月1日]] これまで3年間共同出資・並びにユニフォームスポンサー(袖)を結んでいた[[近畿日本鉄道]]が経営・ユニフォーム協賛から完全撤退。袖部分のユニフォーム協賛は[[イー・モバイル]]が就任することが決まった。 |
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**[[5月21日]] テリー・コリンズが監督辞任を発表。開幕49試合目での途中退任で、[[大石大二郎]]ヘッドコーチが監督代行に就任。 |
**[[5月21日]] テリー・コリンズが監督辞任を発表。開幕49試合目での途中退任で、[[大石大二郎]]ヘッドコーチが監督代行に就任。 |
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**[[6月3日]] 対[[読売ジャイアンツ]]戦に勝利し、阪急時代も含めて通算4500勝達成。([[読売ジャイアンツ]]・[[阪神タイガース]]に次ぐ、日本プロ野球3球団目の達成である。) |
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==チーム成績・記録== |
==チーム成績・記録== |
2008年6月5日 (木) 03:51時点における版
オリックス・バファローズ(Orix Buffaloes)は、日本のプロ野球球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。大阪府を保護地域とし、府内大阪市西区にある大阪ドーム(京セラドーム大阪)を専用球場(本拠地)としている。この他、2005年から2007年までの3年間は球団旧来の兵庫県も保護地域の一つとしていた。
同球団の二軍(ウエスタン・リーグ所属)の球団名はサーパス。本拠地は兵庫県神戸市北区にある北神戸田園スポーツ公園野球場(あじさいスタジアム北神戸)で、同市須磨区に練習場と合宿所が設けられている。
2004年シーズン終了後、当時パシフィック・リーグに加盟していた大阪近鉄バファローズと合併、旧オリックス・ブルーウェーブが存続球団となり、2005年シーズンから現在の球団の形となった。このページで取り上げる球団の歴史や各種チーム記録等は存続球団の阪急→オリックスの分について触れるが、解散球団の大阪近鉄のそれらについては大阪近鉄バファローズの項目を参照。
オリックス・バファローズ | |
---|---|
会社名 | オリックス野球クラブ株式会社 |
創設 | 1936年 |
今シーズン | |
2024年のオリックス・バファローズ | |
所属リーグ | |
パシフィック・リーグ | |
歴代チーム名 | |
阪急軍(1936年 - 1946年) →阪急ベアーズ(1947年) →阪急ブレーブス(1947年 - 1988年) →オリックス・ブレーブス(1989年 - 1990年) →オリックス・ブルーウェーブ(1991年 - 2004年) →オリックス・バファローズ(2005年 - ) | |
本拠地 | |
京セラドーム大阪 | |
収容人員 | 36477人 |
兵庫県(1952年 - 2004年)→大阪府・兵庫県(2005年 - 2007年)→大阪府(2008年 - ) | |
獲得タイトル | |
成績(タイトル以外) | |
プレーオフ出場 | |
5回 - 2勝3敗(太字は勝利した年) 1973、1974、1975、1977、1979 | |
球団組織 | |
オーナー | 宮内義彦 |
運営母体 | オリックス |
球団社長 | 小泉隆司 |
監督 | 大石大二郎(監督代行) |
種類 | 株式会社 |
---|---|
略称 | オリックス・バファローズ、バファローズ |
本社所在地 |
〒530-0023 大阪府大阪市北区堂島1-5-17 堂島グランドビル8階 |
設立 | 1936年(阪急軍として) |
業種 | サービス業 |
法人番号 | 9120001119851 |
事業内容 | プロ野球興行 |
代表者 |
オーナー 宮内義彦 社長 小泉隆司 球団代表 機谷俊夫 |
主要株主 | オリックス |
外部リンク | オリックス・バファローズ |
特記事項:1936年に大阪阪急野球協会として設立、1988年にオリックスに球団譲渡。 |
球団の歴史
西宮時代
阪急軍時代
- 1936年阪神急行電鉄(現・阪急阪神ホールディングス)が大阪阪急野球協会(おおさかはんきゅうやきゅうきょうかい)を設立し球団名阪急職業野球団(はんきゅうしょくぎょうやきゅうだん、阪急軍とも)が発足(阪急の小林一三社長が、阪神電気鉄道の球団大阪タイガースに対抗し結成した。企業名を冠する最初の球団であった)。六大学野球のスター選手である山下実、宮武三郎らを集めて結成し、本拠地を暫定的に宝塚球場とした。なお、阪急はこれ以前に宝塚運動協会というプロ野球チームを所持していた[1]。
- 1937年西宮球場完成に伴い西宮に移転。
- 戦前は優勝に届かなかったが、戦中にあってもチーム体勢を大きく崩すことなく終戦を迎え、1946年のリーグ戦再開には参加。
暗黒時代
- 1947年のニックネーム導入に際し、まず「熊」をイメージした阪急ベアーズ(Bears)と改称するが、オープン戦で負けが続き、bearに「(株式用語で)弱気、売り方」という意味があることも判明、縁起をかつぐ意味もあって4月18日に阪急ブレーブス(Braves)と改める。「ブレーブス」のニックネームは公募で決まったが、これはアメリカメジャーリーグのボストン・ブレーブスに由来している。こちらの意味は“勇者”。
- 1949年オフの2リーグ分立でパ・リーグに加盟。ところがこの時に捕手の日比野武・楠協郎・永利勇吉を全員他球団に奪われ、苦難の道を歩むことになる。
- 1952年、西宮球場にナイター照明設備を完成。当時のユニフォームが黒地に白のペンストライプというデザインだった上にナイトゲームに強かったことから「夜の勇者」という異名をとった。このころより、梶本隆夫、米田哲也といった名投手2人を擁するもののチームは低迷し「灰色カラー(灰色の時代)」と言われた。
- 1963年には球団史上初となる最下位に転落した。
黄金時代
- 1967年、西本幸雄監督の下で長池徳士、ダリル・スペンサー、足立光宏らが活躍、リーグ初優勝。
- 1967年~1969年、1971年、1972年と5度優勝するがV9に突き進む読売ジャイアンツ(ON率いる川上巨人)を倒すことができなかった。
- 1975年
- 2シーズン制で、阪急は前期優勝、後期最下位という成績。プレーオフで近鉄バファローズを3勝1敗で下したものの通年成績は64勝59敗7分、勝率.520で史上最低勝率でのリーグ優勝となった(それまでの最低記録は1973年読売ジャイアンツの66勝60敗4分、勝率.524)。
- 日本シリーズに出場し上田利治監督の下、山口高志、山田久志、加藤英司、ボビー・マルカーノ、バーニー・ウィリアムス、福本豊らの活躍でセ・リーグ優勝チームの広島東洋カープを4勝2分け無敗で下し、初の日本一に輝く。このシリーズでMVPに輝いた山口高志の剛速球はプロ野球史上最も打ちにくい球だったと言われ、現在でも語り草になっている。それ以降、1977年まで3年連続日本一、1978年まで4年連続リーグ優勝を達成。「王者ブレーブス」と呼ばれ球団の黄金期となる。
- 1976年
- 1977年
- 前期は優勝。後期は追い上げわずかに及ばずロッテオリオンズに0.5ゲーム差の2位だったがプレーオフを3勝2敗で制しリーグ3連覇。
- 2年続けての対戦となった読売ジャイアンツとの日本シリーズでは力の差を見せつけ4勝1敗で圧倒した。球団がオリックス・ブルーウェーブとなった後の1996年も含め、「長嶋ジャイアンツ」とは日本シリーズで3度対戦し、いずれも勝利を収めている。
- 1978年
- 2年前同様に前後期連続制覇を達成しているが、これは10年間続いたパ・リーグの2シーズン制ペナントレースの中で、阪急だけが達成した快挙である。
- 日本シリーズでは広岡達朗率いるヤクルトスワローズと対戦したが3勝4敗で敗れシリーズV4は果たせなかった。またこのシリーズ第7戦では、ヤクルトの主砲大杉勝男の放ったレフトポール際に切れたかに見えた飛球を、セリーグ富沢審判がホームランと判定し、上田が1時間19分の猛抗議を行った。
- 1979年
- 1981年、日本では日本ハムファイターズの「ギョロタン」に次いで2番目となる球団マスコットキャラクターの「ブレービー」(背番号:100)が登場。ファンサービスに努めたが、観客動員は伸び悩み、チームの強豪振りとは反対に、球団経営は悪化した。
- 1982年、西宮球場のスコアボードが関西初の電光掲示板となり「アストロビジョン」として親しまれた。
- 1984年、
- 1986年、球団創立50周年を迎え、ファンサービスの強化や戦力の充実により観客動員が伸び、関西パ・リーグ球団で初めて100万人を超える動員(114万5000人・球団発表)を記録した。惜しくも優勝は逃したが、ストッパーとして活躍したアニマル・レスリーが咆哮パフォーマンスで全国的な人気を集めた。
- 1988年10月19日、阪急電鉄がオリエント・リースへの球団譲渡を発表。黄金期を支えた福本、山田もこの年限りで引退した。この時、小林公平は「(阪急電鉄として)プロ野球チームを持つ使命を終えた」とコメントした。球団譲渡した最大の理由は西宮北口駅前・梅田阪急村の再開発を迫られた為と言われている。ちなみに、阪急電鉄はのちに阪神電鉄との経営統合により、再び球団(阪神タイガース)を傘下に持つことになる(この時、経営母体の変更に伴って「新規加盟」扱いとなり、保証金の供託を求められた)。
- 1989年
- チーム名をオリックス・ブレーブスに改称。オリックスブルーとブレーブスゴールデンイエローを基調にしたユニフォームとなる。阪急側からの球団譲渡の条件を満たすため、その後2年間は「ブレーブス」の愛称と西宮球場の使用が継続された。
- 1988年に完成した神戸総合運動公園野球場(グリーンスタジアム神戸)を準本拠地とすることも発表された。完成した1988年は5月の対南海ホークスとの1試合のみだった主催試合がこの年は14試合、1990年も13試合組まれた。当初1989年はダイエー戦は13試合を全て神戸で行う予定だったが、雨天中止のため2試合は西宮で行われた。
- ホークスから移籍の門田博光を加えたブルーサンダー打線がチームを引っ張ったが、優勝した近鉄にゲーム差なしの2位となった。
神戸時代
- 1991年、神戸に本拠地を移し、一般公募により愛称をブルーウェーブ(Blue Wave)に変更。上田利治の監督退任などで「脱阪急化」路線が進んだ(上田の後任監督は神戸出身の土井正三)。
- 1992年、田口壮、イチローが入団。後の黄金時代への礎となった。ただ両者ともに土井正三監督の指導方針との折り合いが著しく悪かったため、実力を発揮するのは数年後になる。ただイチローに関しては野手が高卒後2年間で即結果を残すことは野球界において一般的では無いので一概にそうとは言い切れない部分もある。
- 1994年、仰木彬が監督に就任。有望な若手選手の成長と名将の就任でチームには明るいムードが漂った。イチローが高卒3年目、初の規定打席到達にして日本新記録の年間210安打を樹立、当時のパ・リーグ新記録となる打率.385を記録(その後2000年に自らが更新)。このイチローの活躍は社会現象となり、その功績に対してオフには正力賞が贈られた。イチローフィーバーに後押しされたチームは優勝争いにも加わり(最終順位は2位)観客動員も球団新記録を大幅に更新した。
- 1995年
- 1月17日、阪神・淡路大震災が発生。一時は神戸での試合開催は不可能かとも言われた。しかし球団を挙げて被災地復興の一躍を担いたいという強い思いのもと、神戸でのペナントレース実施に踏み切った。準備不足が懸念されたが「がんばろうKOBE」を合言葉に戦いを挑むチームは目の色が違った。
- 4月19日、野田浩司が一試合奪三振19の日本新記録を達成。
- 6月には月間20勝を超える躍進を見せ、ペナントレースを独走した。7月末に早くもマジック点灯。前年までの覇者西武には直接対決15連勝を記録し、対戦成績では大きく勝ち越した。
- 8月26日、佐藤義則が近鉄バファローズ戦(藤井寺球場)において史上最年長でのノーヒットノーランを記録。
- 「マジック1」とした後の地元神戸での4連戦に全敗し、念願の地元胴上げはならなかったものの、9月19日には球団譲渡後初のリーグ制覇を実現した。日本シリーズではヤクルトスワローズに1勝4敗で敗れる
- 被災地とともに戦うチームの姿は大きな感動を呼び、ファンは熱烈な応援によりチームを支えた。この年の「神戸」と「ブルーウェーブ」の関係は、ホームタウンとプロスポーツチームの理想的な関係として各方面で取り上げられた。
- 1996年は日本ハムに先行を許し、8月前半には5ゲーム差をつけられたが、覇者の貫禄をみせて9月上旬には逆転、9月23日の日本ハム(グリーンスタジアム神戸)との直接対決にイチローのサヨナラ安打で勝利を収めてリーグ2連覇、「神戸での胴上げ」を実現した。日本シリーズでは巨人を4勝1敗で倒し、地元神戸で日本一に輝いた。観客動員数は過去最高の179万4000人を記録。
- 1998年のドラフトで、当時のオリックスはドラフト1位で「ダイエー以外の指名なら大学進学」と話していた新垣渚を当時の福岡ダイエーホークスと競合の末、交渉権を獲得したものの入団を拒否され、担当スカウトだった三輪田勝利が自殺する事件に発展した。
しかし当時のオリックス球団社長だった井箟重慶は、三輪田の自殺を受けての記者会見の席上で「球団に責任があったとは思っていない」と暴言を吐いて大きな問題となり、激しい非難にさらされた。 - 2000年
- 2軍の独立採算を目指し、2軍のチーム名をサーパス神戸とする。
- 4位に終わり、12年ぶりのBクラスとなる。シーズンオフにイチローがアメリカメジャーリーグのシアトル・マリナーズに移籍。これ以降、主力選手の移籍が相次ぎ、チームは急速に弱体化していく。
- 2001年、4位に終わり、仰木が勇退。
- 2002年から石毛宏典が監督に就任する(就任直後のドラフト会議では同監督は「ドラフト会議はフロントの仕事である」という本人の意向により会議を欠席する)が、1年目はチーム打率.235と投高打低に陥り39年ぶり2度目の最下位。
- 2003年
- 石毛を早々と解任し、レオン・リーを監督に据えるが今度は投手陣が壊滅し、福岡ダイエーホークス戦で20失点以上を4度記録するなど、プロ野球史上最多の927失点(自責点818点)、チーム防御率も5.95を記録し2年連続最下位となる。規定投球回数到達者もゼロだった。
- 本拠地・グリーンスタジアム神戸が国内初のネーミングライツ(特定企業に施設の命名権を与えるシステム)を導入。情報通信会社のソフトバンクが命名権を取得し、Yahoo!BBスタジアムに改称される。
- 2004年
合併後
- 2004年
- 12月1日、球団経営の抜本的立て直しを目的として、同じパ・リーグの近鉄と合併することとなり、オリックス・バファローズとなった球団の出資比率はオリックス80%、近鉄20%となる(合併発表から合併調印までの経緯についてはプロ野球再編問題 (2004年)を参照)。同時に近鉄球団職員の多数と選手の約半数を引き継ぎ、残りの半数を東北楽天ゴールデンイーグルスに譲渡している。
- 近鉄との合併に伴い、2007年度までの3年間のみ暫定措置として、従来からのオリックスの本拠地である兵庫県と、近鉄の本拠地だった大阪府のダブルフランチャイズの形が取り入れられた。この為球団事務所と合宿所は、引き続いて神戸市に置くことになった(球団事務所は2006年オフに大阪市に移転した)。
- ホームグラウンドは従前からのYahoo!BBスタジアム(神戸市)に、近鉄の本拠地だった大阪ドーム(大阪市)が加えられた。チームは専用球場(プロ野球協約に定めたメインホーム)を大阪ドームとし、同じく神戸も本拠地に据えながら、両球場共に30試合余りを開催。2005年、Yahoo!BBスタジアムはネーミングライツ契約切れと、Yahoo!BBの親会社であるソフトバンクの福岡ダイエーホークス買収を機に再改称。スカイマークエアラインズ(現スカイマーク)が新たに命名権を取得し、スカイマークスタジアムに改められた。
- 2005年
- 合併によるチーム力の底上げや仰木の復帰により、チームの成績は前年最下位から、シーズン終盤ギリギリまでAクラス争いをしたものの結局4位でシーズンを終え、プレーオフ進出を逃がす。
- 仰木は健康面の問題から1年で退任し、シニアアドバイザー(SA)に就任(12月15日に70歳で逝去)。2006年から中村勝広GMが監督に就任。中村は監督専従となり、GM職は当面空席となる。GMから監督になるというケースは球界史上初めてである。
- 12月19日、プロ野球実行委員会はオリックスの専用球場を2006年度からスカイマークスタジアムに変更する事を承認した。しかし、大阪ドームとのダブルフランチャイズの変更はせず、双方の球場で34試合ずつを主催する。その後オリックス(正式には子会社のオリックス不動産)が大阪ドームの施設を買収する方針を固めた。
- 2006年
- 2007年
- この年より京セラドーム大阪を正式なメイン球場(2007年度は協約上ダブルフランチャイズ扱いだった)とし、大阪48試合、神戸22試合(他東京ドーム遠征2試合)を開催。
- 1月6日 前川勝彦が大阪市内で女性をひき逃げし、さらに無免許(過去にスピード違反で免許取り消しになっていた)であったことが発覚、業務上過失傷害と道路交通法違反の疑いで逮捕された。球団は1月18日前川を懲戒解雇処分とし、前川は5月7日懲役2年執行猶予4年の判決を受ける。
- 1月17日 球団と6度に渡る契約更改で交渉決裂した中村紀洋を解雇。他球団のチーム編成も完了した時期に解雇しており、選手会が野球協約に照らし合わせても問題のある交渉ではないかと厳しく糾弾する事態となった。
- 2月20日、一部のスポーツ新聞で近鉄の球団経営への出資が成績に関係なく今季で終了する方針であることと、それに伴い球団がバファローズに変わる新愛称名の検討に入ったと報じられた。
- レギュラーシーズンに入っても、選手起用などで混迷は続いた。4月下旬から5月半ばにかけて17試合で1勝16敗と大きく負け越すなど、優勝争いはおろかAクラス(=プレーオフ進出)争いにすらただの1度も加わる事無く、他のパ・リーグ全5球団に負け越し、合併からわずか3年で最下位に逆戻りした。
- 他球団とのトレード等により入団した鴨志田貴司、長田昌浩、辻俊哉、ダン・セラフィニ(シーズン途中に退団)はおよそ期待外れの結果に終わった。その一方でトレード等により他球団へ移籍した谷佳知、早川大輔、中村紀洋らは移籍先で活躍し、ファンをはじめ、宮内オーナーも球団の編成方針を厳しく糾弾した。
- 2008年
- この年、西武ライオンズが球団名に「埼玉」を冠し「埼玉西武ライオンズ」としたことから、パ・リーグでは唯一地域名を伴わない球団となった(セ・リーグまで含めても巨人、中日、阪神を含む4球団のみ)。
- 1月29日 一度獲得を表明したはずのジェレミー・パウエルをソフトバンクが獲得したと発表。1ヶ月あまりの混乱の末、3月4日、結局パウエルはソフトバンクに入団することとなった。詳しくはジェレミー・パウエル#二重契約問題参照。
- 3月1日 これまで3年間共同出資・並びにユニフォームスポンサー(袖)を結んでいた近畿日本鉄道が経営・ユニフォーム協賛から完全撤退。袖部分のユニフォーム協賛はイー・モバイルが就任することが決まった。
- 5月21日 テリー・コリンズが監督辞任を発表。開幕49試合目での途中退任で、大石大二郎ヘッドコーチが監督代行に就任。
- 6月3日 対読売ジャイアンツ戦に勝利し、阪急時代も含めて通算4500勝達成。(読売ジャイアンツ・阪神タイガースに次ぐ、日本プロ野球3球団目の達成である。)
チーム成績・記録
- リーグ優勝 12回
- (1967年~1969年、1971年、1972年、1975年~1978年、1984年、1995年~1996年)
- 日本一 4回
- (1975年~1977年、1996年)
- Aクラス 32回
- (1953年、1956年、1958年、1964年、1967年~1969年、1971年~1979年、1981年、1983年~1984年、1986年~1987年、1989年~1999年)
- Bクラス 37回
- (1936~1943年、1946年~1952年、1954年、1955年、1957年、1959年~1963年、1965年、1966年、1970年、1980年、1982年、1985年、1988年、2000年~2007年)
- 最多勝 88勝(1956年)
- 最多敗 92敗(1963年)
- 最多引分 11分(1971年、1979年)
- 最高勝率 .678(1978年)
- 最低勝率 .353(2003年)
- ※リーグ優勝のうち、1975年、1977年はプレーオフ(1975年は近鉄、1977年はロッテを相手にした)で獲得。1976年、1978年は前後期完全制覇により自動優勝が決まった。
その他の記録
- 最小ゲーム差 0.0ゲーム(1989年)
- 最大ゲーム差 40.0ゲーム(1959年)
- 最高得点 758点(1985年)
- 最多本塁打 184本(1980年)
- 最小本塁打 3本(1944年)
- 最高打率 .285(1994年)
- 最低打率 .185(1943年)
- 最高防御率 2.57(1940年)
- 最低防御率 5.95(2003年)
歴代本拠地
- 1936年 - 宝塚球場
- 1937年~1990年 - 阪急西宮球場(阪急西宮スタジアム)
- 1991年~2004年 - グリーンスタジアム神戸(2003年、"Yahoo!BBスタジアム"に改称)
- 2005年~2007年 - 大阪ドーム(2006年7月、"京セラドーム大阪"に改称)、スカイマークスタジアム("Yahoo!BBスタジアム"から改称)
- 2008年~ - 京セラドーム大阪
スポンサー
- オリックス(袖:1989年~、ヘルメット:2000年代の初め)
- イー・モバイル(袖:2008年~)
- 近畿日本鉄道(袖:2005年~2007年)
- アトラス(テレビゲームメーカー)(ヘルメット:2004年~2005年)
- 京セラ(ヘルメット・ユニフォーム:2006年3月~2010年度シーズン終了時まで)
歴代監督
太字は優勝達成監督。
- 1936年~1937年 - 三宅大輔
- 1937年 - 村上実(第1次)
- 1938年~1939年 - 山下実(第1次)
- 1939年 - 村上実(第2次)
- 1940年 - 山下実(第2次)
- 1940年~1942年 - 井野川利春
- 1943年~1947年 - 西村正夫(第1次) ※1
- 1947年~1953年 - 浜崎真二
- 1954年~1956年 - 西村正夫(第2次)
- 1957年~1959年 - 藤本定義
- 1959年~1962年 - 戸倉勝城
- 1963年~1973年 - 西本幸雄
- 1974年~1978年 - 上田利治(第1次)
- 1979年~1980年 - 梶本隆夫
- 1981年~1990年 - 上田利治(第2次) ※2
- 1991年~1993年 - 土井正三 ※3
- 1994年~2001年 - 仰木彬(第1次)
- 2002年~2003年 - 石毛宏典
- 2003年 - レオン・リー
- 2004年 - 伊原春樹
- 2005年 - 仰木彬(第2次) ※4
- 2006年 - 中村勝広
- 2007年~2008年 - テリー・コリンズ ※5
- ※1 ここから阪急ブレーブス
- ※2 ここからオリックス・ブレーブス
- ※3 ここからオリックス・ブルーウェーブ
- ※4 ここからオリックス・バファローズ
- ※5 2008年5月21日まで指揮、残り試合は大石大二郎が代行
永久欠番
- 無し
準永久欠番
- 51:イチロー
歴代の球団歌・応援歌
- 阪急軍
- 阪急の歌
- 阪急ブレーブス
- オリックス・ブレーブス
- オリックス・ブルーウェーブ
- 輝け潮流 - 穏やかなメロディでおよそ応援歌らしくなかったが、ラッキーセブンの際には応援団がトランペット演奏していた。
- ビクトリーマーチ(歌:マリンサイド・ウォーカーズJR.) - 2000年以降、ラッキーセブンの際に場内に流された。
- リトル☆ネプチューン(歌:マリン・ウォーカーズ)- 試合開始前と勝利試合のヒーローインタビュー後に流された。爽やかな曲調は神戸の風土に合っており、ファンに親しまれた。
- オリックス・バファローズ
- SKY(歌:MEGA STOPPER) - 7回裏攻撃前と試合に勝利した後流れる。
- PLAY BALL(歌:MEGA STOPPER) - 試合開始前に流れる(2005年上半期に使用)MEGA STOPPERの作詞作曲したPLAYBALLは2006年シーズンから採用されており、05年シーズンのものとはまったく異なっている。
- BLUE SPIRITS-蒼きフィールドの戦士たち-(歌:OBSOUL) - 2005年3月発表。主に試合開始前に、ネッピーとリプシーのダンスソングとして使われていた。
- ウイニングラン(歌:Queen's Tears Honey) - 2006年下半期より使用
- Bop!!(歌:MEGA STOPPER) 2006年シーズンから使用されたオリックスバファローズ第5の公式応援歌 「暁の大空」から始まる曲は何処となく神戸を意識した曲になっているが、球団が使っている映像などでは道頓堀リバープレスや通天閣でのロケが行われている。
チームの特徴
球団名
- 戦前の阪急軍の球団旗はキャッチャーミットとボールが描かれており、ミットに「OSAKA(大阪)」と「NIPPON(日本)」、ボールに「HANKYU(阪急)」と書かれていた。戦時中は英語禁止令が出たため阪急にも球団旗の変更命令が出されたが、阪急は「『OSAKA』『NIPPON』『HANKYU』はローマ字であって、英語ではない」と拒絶した。この球団旗は愛称がブレーブスになるまで使用された。
- 2008年から西武ライオンズが球団名を「埼玉西武ライオンズ」に変えたため、パ・リーグの球団で唯一、球団名に地域名のつかない球団となった。
ファンと球団
- 阪急時代は、関西地区には常に複数球団が存在したため、当時より人気の低迷に悩まされてきた。特に阪神タイガースとは本拠地が同じ西宮市であり、この事や阪神偏重の在阪スポーツ紙の姿勢も追い討ちをかけるような状況であった。「パ・リーグ加盟当初は南海」、「テレビ中継の開始以降は阪神」といった両雄の陰に隠れ、黄金時代であっても人気が伸び悩んだ。
- 山田久志、ブーマー・ウェルズといった球史に残る選手を輩出しても、人気獲得にはつながらなかった。しかし阪急ファンは今も、チームに抱く熱い愛着や誇りは、関西の他球団のファンのそれよりも数段上と自負してはばからない。
- 阪急創始者の小林一三及び一三の三男で後にオーナーを務めた小林米三は、同じ阪急グループの宝塚歌劇を「娘」、ブレーブスを「息子」と並び称して愛着を示していた。しかし、ともに赤字経営となっていき、球団末期にはグループ内ですら、歌劇の「じゃじゃ馬娘」と併せて「どら息子」と陰で呼ばれるようになっていた。身売り時の阪急社長・小林公平は、文化人肌で、宝塚歌劇には愛着を持っていたが、ブレーブス=野球は嫌っていたとされる。また、公平は創業家・小林家の実子ではなく、三菱グループと親密な三村家からの婿養子である。同じく阪急資本の東宝の東宝チャンピオンまつりなどでも、阪急ナインのスポットニュースが番組に挿入されることはあったが、メインのプログラムの題材には読売ジャイアンツが使われ、冷遇されていた。
- ブルーウェーブ時代は本拠地を神戸に移したことで、地元神戸に根ざした球団運営が期待された。1994年以降、イチローの活躍や、「がんばろうKOBE」に代表される阪神・淡路大震災を契機とした神戸市民の連帯感が追い風となり、一時は近接する阪神タイガースを凌駕するほどの注目度と人気を集めた。しかし球団名に「神戸」の文字を入れないなど、地域密着に消極的な姿勢が見られたことや、チーム強化やファンサービスよりも経費抑制を優先したため、チームの弱体化とともに徐々に人気は低下し、後の球団合併を招いた。
- プロ野球再編問題 (2004年)による球団合併後は資本的には存続球団であるが、ブルーウェーブ・旧・大阪近鉄双方のファンより「合併の結果、ブルーウェーブもバファローズも消滅した」と認識されてしまったため、合併以降は年々観客数が減り続け、2007年シーズン終了時の観客動員は1試合平均4,650人の減少・前年比18.2%減を記録してしまった。
- この様に、上記の球団合併の経緯と親会社が球団の歴史を軽視する経営姿勢が原因でファン離れに歯止めが掛からない傾向にある[2]。この点は、阪急と同時期に南海から身売りした福岡ダイエーホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)と明暗を分ける形になっている。
マスコット
- 1981年から日本ハムファイターズのギョロタンに次いで日本で2番目となる球団マスコット「ブレービー」を採用。西宮球場での試合中、5回裏終了時にスクーターでフィールドを駆けていた。ブレービーは1990年まで使われた。また、1988年にはブレービーの子供として「勇太」が登場したが、同年オフにオリエント・リースに球団が譲渡されたのに伴い、僅か1シーズンのみで消滅した。
- ブルーウェーブとなった1991年からは「ネッピー」(背番号111)が登場。ネッピーは海神ネプチューンの息子で、年齢は13歳という設定。また1999年からは「海賊の娘で、嵐で船が難破して海で遭難していたところをネッピーに助けられた」という設定で、「リプシー」(背番号222)が登場。いずれもデザインは松下進。
- ブレービー・ネッピー共に島野修が1998年まで演じていた。
- その他、ブルーウェーブ時代に「ブルーパイレーツ」という海賊4人組のマスコットがいた。
応援スタイル
- オリックス・バファローズを応援する際は、旧近鉄系の「大阪私設應援團」と旧オリックス系の「天体観測」の2つの私設応援団が先導して行う。ちなみに「天体観測」の名前の由来は「選手がスター(星)になって、遠い存在になっても応援し続ける」というもの。
- 合併以降、ラッパなどの鳴り物の多様化やタオルを使った応援など近鉄のやっていたような激しい応援スタイルに近いものとなっている。また大阪私設応援団が応援の指揮をとることが多いなど、外野スタンドでは旧近鉄ファンの勢力が強くなっている。個人応援歌も近鉄の応援団が加わったのもあり従来のオリックスとは違う、迫力のある激しい応援歌になりつつある。
- 7回の攻撃前に飛ばされるジェット風船は、旧近鉄のチームカラーである赤色のものと、旧時代からのオリックスのチームカラーである青色のものがツートンで使用される。なお、他球団では勝利時にも風船を飛ばすことも定着してきているが、当球団では何故かあまり浸透していない。
営業・ファンサービス
- 神戸移転後、プロ野球初の男性DJ・堀江良信を採用、内野グラウンドの天然芝化、内野スタンドのネット撤去、フィールドシートの設置、2004年からは「Take Me Out to the Ball Game」のヤフーBBスタジアム版を演奏など、メジャーリーグのボールパークの雰囲気に近付けるファンサービスを実施したが、観客動員数向上への目立った効果は出なかった(なおフィールドシートの名称が当初「殿馬シート」であったとする俗説があるが、実際には「ドカベン」とのコラボレーションであった「ドカベンチケット」内のみでの名称であり、球場ではこの名称は使用されなかった)。
- 地元大阪と神戸で開く主催ゲーム(オープン戦・公式戦いずれも)では、地元の企業・団体が1シリーズ(2~3連戦単位)で協賛し、球場のスタンド(大阪は2階席のバックスクリーン、神戸は左中間・右中間のバックスクリーン寄り)に「(協賛スポンサー名)シリーズ」の看板を掲げている。
- 大阪・神戸のホームゲームではその試合でオリックスが勝利をした場合、1塁側ベンチからクラッカー(キャノン砲)が発射され、紙テープで祝福するのが恒例となっている。
- 神戸で試合をする場合、5回と6回のイニングスインターバルにアトラクションとして花火ナイターが開かれる。基本的には毎回300発だが、交流戦やシーズン最終戦(神戸での最終戦)など特別な日には「スーパー花火ナイター」としてそれよりも多めに花火を打ち上げる。
- 2005年度から吉本興業と業務提携を結んだ。3月27日の朝日放送「なにわ人情コメディ 横丁へよ~こちょ!」(NGKで3月9日収録)に仰木監督や選手が劇中に出演し、チームをPRした。また3月28日のホームゲーム開幕戦・ロッテ戦(大阪ドーム)では、国歌斉唱をDonDokoDonの山口智充が担当した。この業務提携は2006年度も「よしもとプロデュース・Bsミックスモダン大作戦」として継続。3月31日の関西テレビ「NGKにバファローズがやってきた! ミックスモダン大作戦~結束~」(NGKで3月9日収録)には中村勝広監督・清原和博・中村紀洋らが出演してチームをPR。4月2日の大阪ドーム開幕戦(北海道日本ハムファイターズ戦)では友近が国歌斉唱、また4月4日の千葉ロッテマリーンズ戦では池乃めだかが国歌斉唱、レイザーラモンHGが始球式を行った。
- 2005年8月、魔法戦隊マジレンジャーとのコラボレーション企画が実施。これは仰木彬監督の采配が「仰木マジック」とマスコミに称されていたことと、マジレンジャーが様々な魔法を使って悪を退治していくという物語のつながりから実現したもので、マジレンジャーの映画化記念イベントを兼ねて企画された。
- 2006年7月からはJ1ガンバ大阪と連携。2006年には宮本恒靖(現ザルツブルク)と清原和博のポスターやグッズを合同で作製したり、オリックスの試合で宮本が始球式、ガンバの試合で吉井理人と北川博敏がキックオフセレモニーに出場した。なお、GS神戸を本拠としていた時代、隣接するユニバー競技場を本拠地としたヴィッセル神戸と提携し、ホームゲームが重複して開催される日は共通チケットを発売した。
- ただ、京セラドームの観客動員がやや伸び悩んでいることや神戸のファンの確保などの観点から、協約上のダブルフランチャイズが終了する2008年以後も兵庫県内(主として神戸)で20試合程度の準本拠地開催を行えるよう、兵庫県をフランチャイズとする阪神タイガースと交渉を進めており、2008年度も2007年度と同じ試合数(大阪48、神戸22、東京2)を確保している。
その他
- 1936年の公式戦スタート時から存続する伝統ある球団でありながら、OB監督にこだわらず積極的に外部の血を受け入れる傾向にある。このため、生え抜き監督は選手経験のない村上実を除くと、山下実・井野川利春・浜崎真二・西村正夫・梶本隆夫の5人しかいない。また井野川と浜崎は入団と監督就任が同時であることからも、OB監督にこだわっていないことがうかがえる。
- 兵庫県競馬組合の特別レースに協賛しており、2004年までは「ブルーウェーブ特別」として行っていたが、チームの合併と名称変更に伴い2005年から「バファローズ特別」にレース名を改めている。
ユニフォームの変遷
- 1936年 現在のホーム用にあたる白地に飾り文字、ビジター用にあたるユニフォームは紺が使われていた。
- 1937年~1940年 チームカラーがオレンジに変更される。また紺地に白のペンシルストライプが登場。
- 1940年~1944年 戦況の悪化により「H」マークを廃止。また、左袖には阪急の社章が入る。
- 1945年~1949年 「H」マークが復活。ビジター用に当たるグレーは「HANKYU」のロゴ。当時はペンキで描いていた。
- 1947年~1952年 ロゴの「H」マークが丸くなり、ホーム用に阪急独特のナール型(丸文字)背番号が登場。ビジター用は同じ書体で丸味のない角型。茶の「Braves」は1950年まで使用。
- 1951年~1954年 ペンシルストライプを復活。また、ロゴが赤茶に変更される。
- 1955年~1959年 アトランタ・ブレーブスを意識したホーム用ユニフォームが登場。同時にチームカラーが赤(阪急電車のカラー)に変更される。1957年から帽子のマークを変更。
- 1960年~1961年 「Braves」の書体が変更され1980年代初頭まで使われる。前立てラインが登場。また帽子のツバを赤に変更。
- 1962年~1971年 縦縞が初登場。この時代はマイナーチェンジが繰り返される。
- 1972年~1983年 衣類の技術的進化によりカラフルな色が出せるようになり、丸首ニット製ベルトレスユニフォームを採用。プルオーバーとなる。ロゴ、胸文字、背番号が赤(縁取り:黒)、アンダーシャツ、ストッキング、が黒、首、袖が赤、黒、白のライン、帽子は黒地にHマーク、ツバが赤。マイナーチェンジを重ねつつ、1983年まで基本スタイルが踏襲され、黒、赤、白=常勝阪急のイメージが定着する。
- 1975年~1979年 袖とパンツのラインが太くなり、首部分に伸縮ゴムが入る。1975年~1977年の3年連続日本一(1975年~1978年は4年連続リーグ優勝)になったゲンのいいユニフォーム。ビジター用はグレーからスカイブルー、スパイクが黒から赤地に白ラインとなる。
- 1977年より 背番号の上に選手のネームが入る。
- 12球団で唯一、長音母音にマクロン(長音記号)がついていた。一般でいう訓令式ローマ字である(その他のチームは全てヘボン式ローマ字)。例えば、加藤英司の場合、「H.KATOH」が一般的だが、阪急では「H.KATO(Oの上にマクロン)」と表記。しかし、福本豊の場合、訓令式だと「HUKUMOTO」であって「FUKUMOTO」と表記しない。実際に福本のユニフォームは「FUKUMOTO」になっていて、「フ」を「FU」と表記するのはヘボン式であるため混同して採用されたらしい。他の例としても1979年、監督に就任した梶本隆夫も「KAJIMOTO」のヘボン式表記であった。これはオリックス・ブレーブス時代の1990年まで続いた。
- 1980年~1983年 アンダーシャツ・ストッキングを赤に変更。同時に、ベルト式になり、ボタン型となる(但し、第3ボタンまでがボタン式であとは飾りボタンのプルオーバー型)。スパイクが白地に赤ラインになる。
- 1984年~1988年 帽子のマークが「H」から「B」に変わり、前面が白になる。同時にホーム用がモデルチェンジ。ボタン無しのVネックプルオーバータイプとなり、「Braves」のロゴが筆記体から変わる。また、1947年以来続いていたナール(丸文字)型の背番号の書体が変更となり、角文字になり、胸番号が丸ゴシック体になる。
- 1989年~1990年 球団がオリックスに売却され、球団名がオリックス・ブレーブスに改称。チームカラーをオリックス・ブルー(青)とブレーブス・ゴールデン・イエロー(黄色)に変更。阪急時代のプルオーバーのVネックが継続される。ビジター用の上着は青になる。背番号、胸番号の書体が高校野球型の書体となる。ビジター用のワッペンは1989年夏から変更。
- 1991年~2000年 本拠地の神戸移転とチーム名変更を機にロゴを「BlueWave」に変更。基本デザインは従来どおりの紺と黄色(チーム名が変更されたため、この黄色も「ブルーウェーブ・ゴールデン・イエロー」と変更された)のユニフォーム。この間、右袖だけのワッペンだけのマイナーチェンジが繰り返される。
- 2001年~2004年 プルオーバーを廃止しボタン式に変更。帽子やアンダーシャツ、ソックスの色がより濃い紺色になり、さらに前ラインが入り、選手名、背番号書体が丸ゴシックになり、斜体がかかる。
- 2005年 近鉄との合併によりオリックス・バファローズとなる。ユニフォームは「BlueWave」を「Buffaloes」に変更しただけでそれ以外は従来どおり。新しいユニフォームを見た旧近鉄選手やファンなどからの批判もあり、急遽大阪ドーム用のユニフォームを作成することに。
- 2006年~ 神戸用ホームユニフォームの帽子・胸ロゴも大阪用と同じ書体のロゴに変更。
主なキャンプ地
キーワード
ホークスとの縁
ノーヒットで勝利
戦前の1939年5月6日、甲子園で行われた南海とのダブルヘッダー第2試合では、南海の宮口美吉・平野正太郎両投手にノーヒットに抑えられながら2-1で勝った。4回裏に1点を先制されたものの6回・7回に犠打・エラー・四球をからめて1点ずつを取り逆転勝ちしたもの。ノーヒットに抑えられながら得点をあげた試合(無安打有得点試合、「ノーヒットありラン」とも言う)は他に1939年の金鯱(8月3日、vsイーグルス・西宮)・1959年の巨人(5月21日、vs阪神・甲子園)・1964年の南海(5月13日、vs近鉄・大阪)があるが、勝ったのはこの時の阪急だけである。
この試合での阪急の攻撃は以下のとおりである。
- 1回表(南海の先発投手は宮口):西村正夫投手ゴロ、山田伝3塁ゴロ、上田藤夫左翼フライ
- 2回表:山下好一2塁フライ、黒田健吾四球、岸本正治3塁ゴロで黒田2塁へ、田中幸男1塁ゴロ
- 3回表:日比野武遊撃フライ、重松通雄遊撃フライ、西村四球、山田1塁ファウルフライ
- 4回表:上田左翼フライ、山下2塁フライ、黒田遊撃フライ
- 5回表:岸本四球、田中投手前バントで岸本2塁へ、日比野捕手ゴロで岸本3塁へ、重松2塁フライ
- 6回表:西村四球、山田投手前バントを投手宮口がエラーして1・2塁、上田投手前バントで西村3塁・山田2塁へ、山下死球で満塁、黒田左翼犠牲フライで西村生還するも、山田3塁へ走り左翼手平井猪三郎-捕手中田道信-三塁手鶴岡一人の送球でアウト
- 7回表:岸本四球(ここで南海の投手が平野に交代)、田中3塁前バントを三塁手鶴岡が1塁に悪送球して岸本生還・田中3塁へ、日比野投手ゴロ、重松左翼ファウルフライ、西村左翼フライ
- 8回表:山田遊撃フライ、上田投手ゴロ、山下3塁ゴロ
- 9回表:黒田四球、岸本中堅フライ、田中遊撃ゴロで岸本2塁封殺、日比野の代打・石井武夫3塁ゴロ
1試合最多得点、最多得点差勝利 最多失点、最多得点差敗北
1940年4月6日に西宮で開かれた南海との「近畿ダービー」で、阪急は32-2の30点差という大量得点で勝利を飾った。しかし2003年、これと同じ組み合わせ(オリックスvsダイエーとして)で2度も大量失点試合をしてしまった。まず7月26日に福岡ドームで7-26、続いて8月1日にヤフーBBスタジアムで1-29と大敗を喫した。後者は2リーグ以後の最多失点試合、並びに最多失点差敗戦試合記録となってしまった。ちなみにこの年はダイエー相手に6月17日に盛岡で11-21、9月14日にヤフーBBスタジアムで11-20で敗れている。同一カードでの20失点4試合はワースト記録。
パ・リーグでの最も遅い試合終了時間
1953年8月30日(西宮球場)での試合は当時パ・リーグの試合規定で23:45までの時限をオーバーしながら延長18回・23:54まで試合を続け、パ・リーグの最も遅い試合終了時刻を記録している。
球団の身売り
偶然にもブレーブス(当時)とホークスの球団身売りも同じ1988年であった。しかも、売却先は同じ大阪府を発祥の地とする企業だった。
まず9月に当時の南海ホークスを南海電気鉄道からダイエー(当時登記上の本社は神戸市にあった)に身売り(正式な身売り日は11月1日)。本拠地も福岡県に移動したが、そのわずか1ヵ月後の10月19日に阪急ブレーブスもオリックス(当時はオリエントリース。こちらは登記上の本社は東京都)に身売りすることを決めた。同日、川崎球場でロッテ対近鉄のダブルヘッダーが行われ、第2試合で引分け、近鉄はパ・リーグ優勝を逸し、既に全日程終了していた西武の優勝決定したという球史に残る大試合が行われた当日とこの身売り発表が重なり、特にマスコミや報道陣を混乱させた。(詳細は「10.19」)。
10月19日17時に行われた身売り発表の会見で、オリエントリースの関係者が入り口の立て札に「阪急電鉄総務部記者会見場」と書かれてあるのを見て、「なんで我が社の社名を書かないんですか!阪急だけの発表じゃない!」と顔をしかめたという。その頃、当時西宮市長であった八木米次は、告示される市長選選挙出馬の会見を行っていたがこの事態に身売りについての会見に切り替えた。「ブレーブスの名前が残り、引き続き西宮球場を使用するので安心した。これからも応援させていただく。」と発言している。
1998年のドラフト
- 1998年のドラフトで、当時のオリックスは一位で新垣渚を当時の福岡ダイエーホークスと重複して指名。抽選で交渉権はオリックスが手にしたが、「ダイエー以外は進学」と話していた新垣は入団を拒否。説得に行くも、新垣家から面会も断られ、そのことを球団に報告したところ、オリックス球団上層部から袋叩きに遭った。現場とフロントの板挟みとなった三輪田は、ケアのしようがないほど心身とも最悪の状況に陥ってしまったといわれた。
- しかし当時のオリックス球団社長だった井箟重慶は、三輪田の自殺を受けての記者会見の席上で「球団に責任があったとは思っていない」と暴言を吐き、激しく批判された。また新垣本人や家族・学校関係者にも痛烈な批判が続出した。
- 新垣は三輪田の死後、オリックスの矢野清球団本部長(元阪急選手)と面会した。三輪田が痛ましい最期を遂げた事に自ら責任を感じ、悩んでいた時期もあったという。
- 大学進学後に新垣が登板した試合では、新垣に対して三輪田の死の責任は新垣にある旨の、きわめて悪意的なヤジが飛んだこともあった。
- 新垣のプロ入り後にも、オリックスのある選手から嫌味を言われ、ダイエーの他の選手とオリックス選手でもめ事が起きた事もある。新垣は後年のインタビューで、「自分が活躍することが最初に評価してくれた三輪田さんへの恩返し」と語った。
- 遺書はなかったが、上記の事情から三輪田の死は自殺であったと断定され、翌1999年には労災認定もうけた。
- 三輪田が死去した時、イチローは人目も憚らず号泣、告別式では三輪田の棺に自身愛用のバットを納め、渡米後も帰国の折には神戸市内の三輪田家の墓参りを欠かさない。
- 山口のスカウト活動は三輪田が担当していたが山口入団前に三輪田が死去。山口は活躍のたび生前のスカウト活動の恩義から「今の自分があるのは三輪田さんのおかげ」の旨度々発言している。
- 三輪田が死去した後も遺族とイチロー、山口、六車らは三輪田存命中と変わらぬ交流を続けた。
敵地でのホームゲーム
1999年6月11日からはダイエーの本拠・福岡ドームでダイエーとの3連戦をオリックスの主催ゲームとして開催した。これは神戸が屋外球場であるため梅雨時の試合消化が難しくなることを懸念してダイエー側の許諾を得て福岡ドームで主催ゲームを開催することになった。しかしベンチのスペース上、主催のオリックスは3塁側、ビジターのダイエーは1塁側と通常のダイエー主催ゲームと同じ配置だった。13日には試合途中で控えの内野手を使い切ってしまったため、外野手のイチローが3塁を守るというハプニングもあった。イチローが公式戦で外野以外のポジションを守ったのはこの時だけである。
オリックスのホームゲームであるにもかかわらず観客の大半がダイエーを応援し、ダイエーが勝った試合では試合終了後に花火が上がりヒーローインタビューが行われるなど、ダイエーのホームゲームと変わらない球場の雰囲気であった。オリックスファンからは、ダイエーの人気が高く多数の観客動員が見込める福岡で主催することにより、地元神戸のファンへのサービスよりも観客収入による営業面を優先させたとの批判も出た。
オープン戦では、1997年にナゴヤドームでの対中日戦をオリックス主催で1試合開催したことがある。
公式戦での敵地でのホームゲームは、これより以前に、仙台宮城球場を本拠地としていた時代のロッテが、対日本ハム戦を後楽園球場で行った例があった。(ジプシー・ロッテで詳述する)また、2008年、横浜がソフトバンクの保護域の福岡県北九州で交流試合のホームゲーム(ソフトバンクビジター扱い)を開催した事例もある。
初の台湾遠征
2002年5月14、15日にダイエーの主催ゲームとして台湾・台北市立天母棒球場で2連戦が開催された。日本のプロ野球が海外で試合を行うのは戦後3回目(1961年5月20日の西鉄vs東映、1962年6月13~14日の阪急vs大毎が当時アメリカ合衆国の占領下にあった沖縄で行われた)であるが、台湾での公式戦は戦後初である。尚、試合は1勝1敗であった。
同一カード最多敗戦
2004年、オリックスは最下位であったが、特にダイエーには4勝23敗と大敗。これはこのカードの最多敗戦記録であり、プロ野球全体でも同一カード最多敗戦タイ記録である。プロ野球では1967年にサンケイが巨人に3勝23敗と負け越して以来37年ぶり4度目で、パ・リーグでも1961年に近鉄が南海に5勝23敗とされて以来43年ぶり2度目である。尚、オリックスは1990年、ダイエーに22勝1分3敗と大きく勝ち越している。
2004年のオールスター戦以降はダイエー戦10戦全敗。これについて当時監督だった伊原春樹は、「後半戦はダイエー戦の前にいつも西武戦が組まれていて、ダイエー戦ではまともな投手がいなかった」と述べている。
合計97歳の先発投手
1950年11月5日、西宮球場で開かれた、毎日オリオンズ戦。当時阪急の監督だった浜崎真二は毎日の湯浅禎夫総監督に「(毎日の)リーグ優勝が決まった後なので、わしが投げるからあなたもどうだろう」と持ちかけて、湯浅も「よし」と快諾。両監督が先発投手になった。
この当時の年齢は浜崎が48歳10ヶ月、湯浅が48歳1ヶ月で2人合せて96歳11ヶ月という最年長先発投手となった。浜崎は3回2/3(4回の2アウトまで登板)したが、21人の打者に対して8本の被安打、5失点(自責点も5点)で敗戦投手。一方の湯浅は4回を投げて勝ち投手にはなれなかったが19人に対して2本の被安打、2失点(自責点も2点)と好投した。
史上最大の成功ドラフト
1968年のドラフト会議は、「巨人と近鉄以外は大成功だった」と言われる、史上空前の大豊作年であったことで知られる。その中でも突出した成功を収めたのが阪急で、この年だけで3人の名球会選手を輩出している。
田淵幸一や星野仙一ら大学野球の有力選手が次々と指名されてゆく中、指名順11番目の阪急は、富士鉄釜石のアンダースロー投手・山田久志を1位指名。山田はプロ入り直後こそ2年越しの7連敗という苦しいスタートとなったが、3年目の1971年から頭角を現し、以降球界を代表するピッチャーの一人として活躍。1976年から1978年にかけては、長嶋茂雄や王貞治さえもなしえなかった3年連続MVPを獲得し、1988年の引退までに通算284勝を記録した。
山田に続く2位には、松下電器の一塁手・加藤秀司を指名。1982年に放出されるまで、クリーンナップの一員として阪急打線を支えた。その後、南海ホークス時代の1987年に阪急戦で山田から本塁打を放って名球会入りを達成し、同年の現役引退まで通算2055安打を残した。
7位で指名した加藤の同僚・福本豊は、入団2年目から打撃が開花し、1番打者として定着。その俊足を生かして、1970年から13年連続で盗塁王のタイトルを獲得、1984年には当時ルー・ブロックが持っていた通算盗塁記録を更新し「世界の盗塁王」とまで称された。また福本が1番に定着したことで、「1番福本が四球で出てすかさず盗塁、2番大熊がバントで送り、3番加藤の犠牲フライで福本が生還」という、いわゆる「ノーヒットで1点を先制する野球」が展開されるようになり、対戦相手に非常な脅威をもたらした。1988年に山田と共に引退するまでの間、2543安打、1065盗塁の記録を残している。
この他には、12位でクラレ岡山の外野手・門田博光も指名している。門田は阪急入りを拒否し翌年のドラフト2位で南海に入団したが、現役後半の1989年、1990年の2年間オリックスに在籍し、1992年の引退までに2566安打を残した。また、同年に東映フライヤーズが1位指名した大橋穣は、1972年に阪本敏三との交換トレードで阪急に入団し、不動の遊撃手として黄金期の一翼を担った。
余談だが、1969年のペナントレースがスタートすると、当時の監督・西本幸雄はロッテオリオンズの1位指名で入団した有藤通世を見て、「こんなええ選手もおったんか!」と驚いたという。
競走馬vs盗塁王
阪急時代の1983年4月、西宮球場で開かれた試合のアトラクションで福本豊、バンプ・ウィルスの2選手と競走馬の脚比べと題された企画が行われた。しかし、競走馬は野球場の人工芝に慣れなかったのか全く脚が伸びず最下位となった(1着はバンプ)。また、簑田浩二選手も出場予定だったが、出場を取りやめた。
東京での主催ゲーム
2004年、現在のフランチャイズが確立してから関西に本拠地を置く球団としては初めて東京都(東京ドーム)で主催公式戦・対北海道日本ハムファイターズを開催した。これは前述の福岡ドームでの件とは違い、これまで同地を本拠としていた日本ハムが札幌ドームに移転したために伴うものと、オリックスが会社設立40周年を迎えたことを記念して、現在のオリックスの本社がある東京で主催ゲームを開催することにしたものである。
2006年は専用球場を一時的に神戸にした関係上、東京ドームでの主催ゲームはなかったが、2004年以降、2006年を除く毎年、「オリックスグループお客様感謝DAY」と銘打ち、オリックスグループの社員、取引先の顧客を無料で招待する試合として、リーグ戦期間中の週末の2試合を利用し、開催している。交流戦での開催はない。
対戦相手は、オリックス・バファローズとなった2005年も2004年に続いて北海道日本ハムファイターズ戦を行った。2007年は対埼玉西武ライオンズ戦2試合が行った。西武が東京ドームでパリーグのチームと試合をするのは日本ハムが北海道に移転する前の2003年以来。2008年は対千葉ロッテマリーンズ戦2試合が行われた。東京ドームでの主催試合の通算成績は、4勝4敗の五分。
まだ、福岡ソフトバンクホークス、東北楽天ゴールデンイーグルスとのカードは開催されていないが、毎年対戦カードが変わっている事から、2009年以降、関東に本拠地を置かないチーム同士のこの対戦カードが東京ドームで見られる可能性は高い。
怒りの横断幕
オリックスは阪急から球団を引き継いだ1989年から11年間Bクラスに落ちたことがなかったが、2000年以降は一転してAクラスに入れない弱小チームになった。2002年から3年間はそれまで阪急時代の1963年の1回だけだった最下位に低迷し、特に2003年はワースト記録も多かった。
2003年9月19日の千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム)では、7回表にレフトスタンドに「宮内オーナー 日本経済再建の前にBW再建し、強いチームを返してください」という横断幕が掲げられた(「日本経済再建」とあるのは宮内が政府の規制改革・民間開放推進会議議長など、政府の経済再建に関わる会議の委員を務めていたため)。90年代には優勝を争えるほどのチームだっただけに、主力選手を次々と放出しながらもその補強を怠り、結果として低迷を招いたチームに対するオリックスファンの抗議だった。9月23日の日本ハムファイターズ戦でも横断幕が掲げられた。
珍記録ホルダー
先述の「ノーヒットで勝利」以外にも、阪急時代には以下のような珍しい記録を作っている。
押し出しで1試合8得点
1944年5月16日、西宮での産業戦の7・8回に記録。その時の打撃は以下のとおり(太字は押し出し四球)。
- 7回表(産業の投手は森井茂):山田伝四球、上田藤夫投手ゴロ失策、野口明3塁内野安打、高橋敏左翼越え2塁打で山田・上田生還、阪田清春中堅前安打で野口生還、打者大平茂の時に阪田2盗、大平3塁ゴロで高橋本塁封殺、打者伊藤健一の時に大平2盗、伊藤1塁ゴロ野選、坂井豊司四球で阪田生還(産業の投手が井上嘉弘に交代)、笠松実四球で大平生還、山田四球で伊藤生還(産業の投手が松尾幸造に交代)、上田四球で坂井生還、野口四球で笠松生還、高橋三振、阪田2塁ゴロで野口2塁封殺
- 8回表:大平四球、伊藤四球、坂井1塁内野安打、笠松四球で大平生還(産業の投手が加藤正二に交代)、山田2塁ゴロ失策で伊藤生還、上田四球で坂井生還、野口三振、三木久一四球で笠松生還、阪田中堅前安打で山田生還、大平投手フライ、伊藤左翼前安打で上田・三木生還、坂井右翼フライ
1イニング5連続ヒットで無得点
1963年8月14日に開かれた近鉄戦で阪急は1回裏、ロベルト・バルボン、岡嶋博治、戸口天従、中田昌宏、早瀬万禧の5者が連続ヒットを放ちながらも、バルボンは盗塁失敗、戸口のヒットで岡嶋が3塁進塁を図るもアウト。更に早瀬のヒットの時に戸口はホームでタッチアウトとなり無得点に終わる。
1イニングノーヒットで5得点
更に1971年7月4日の同じカードで今度は延長10回表にバントと連続敬遠四球で1アウト満塁のチャンスに更に3人の打者が連続四球。さらには死球と犠牲フライでヒットなしの5得点という記録を持っている。
ベースボール・モンキー
2006年ボールのかごを持った猿の「ゴウ(背番号555)」がやってきて、審判にボールを手渡すという、広島、千葉ロッテのベースボール・ドッグに対抗したものである。しかしながら、登場した過去3戦中2戦(対北海道日本ハム戦、対東北楽天戦)はいずれも逆転負けという結果になった(但し、9月20日に千葉マリンで行われた対千葉ロッテ戦では1-0で勝利している)。
契約金ゼロの新人選手
- 2000年~2002年のドラフトで契約金ゼロ(+出来高制)の選手を入団させ話題になる。のちの育成選手のはしりとも言えるものである。しかし一時の話題にはなったものの、故障などもありほとんど戦力になることはなく(高見沢考史が一時一軍に定着しかけたが故障し、復活できなかった)、中島俊哉(現:東北楽天ゴールデンイーグルス所属)ただ一人を残して他全員が2005年までにプロ野球界を去った。のちに球団ゼネラルマネージャーに就任した中村勝広(現同球団SA)はこのことを「プロでやれる見込みのない選手に甘い夢を見させ、本人の人生を狂わせるようなことをしてはならない」とはっきり批判しており、以後は契約金ゼロで入団した選手はいない。
ビッグボーイズ
神戸とオリックスの今
オリックスは1991年~2004年まで神戸を本拠としており、1995年の阪神淡路大地震以後、復興のシンボルとして注目を集めた。2005年に近鉄と合併してからは大阪ドーム(現・京セラドーム大阪)との併用となったため年間30試合程度に試合数が削減されたが、やはり神戸のチームという印象が根強く、観客動員の面でも、神戸での試合が大阪よりも比較的よく入っていたというデータ(神戸新聞ウェブ版(2005年7月掲載)を読まれたい)があった。また、震災10周年にあたり2005年は神戸・東京での主催試合では「がんばろうKOBE」のロゴを入れたワッペンをつけて試合に臨んだこともあった。
2007年に事実上京セラドームに一本化(協約上は2008年度以後)され神戸を含めた兵庫県での主催試合も20試合程度に削減されてしまったが、引き続き神戸での主催試合では2万人前後の客の入りである(神戸新聞ウェブ版(2008年5月掲載))が、試合数が増加された大阪での観客動員が今ひとつとあって動員数は大幅に落ち込んでしまっている。(大阪日刊スポーツウェブ版(2007年10月掲載))
放送
テレビ中継
- 地上波
- 関西地区:NHK、在阪民放準キー3局(朝日放送、関西テレビ、テレビ大阪)、サンテレビ
- 阪急時代は大株主であった関西テレビとの結びつきが強く、土曜・日曜のデーゲームを中心に数多くの試合を放送し、応援番組「ブレーブスレポート」を放送していた。現在はABCと関西テレビで月数試合深夜での放送が行われるのみである。
- サンテレビは主にナイター中継を放送していた。現在でも阪神戦がない日などに年数試合完全生中継が行われる。
- 全国:NHK(一部デーゲーム)
- 衛星放送
- BS:NHK衛星第1(2008年からは対読売ジャイアンツ戦も放送予定)、BS朝日(交流戦の対読売ジャイアンツ戦のみ)
- CS:主にJ SPORTS「J SPORTS STADIUM」。ほか一部の試合をアクティブ!ベースボールとしてスカイ・A sports+、GAORAでも放送する。
ラジオ中継
- ラジオ関西 「ラジオ関西ジャイアンツナイター」(巨人戦中心。オリックス戦は年間数試合のみ)
- ほかABCラジオ「ABCフレッシュアップベースボール」MBSラジオ「MBSタイガースナイター」でも予備カードで放送。
脚注
- ^ 佐藤光房『もうひとつのプロ野球 山本栄一郎の数奇な生涯』 朝日新聞社、1986年、146-149頁
- ^ 宮内義彦球団オーナーは当時、「合併すれば実力もファンも2倍になります」と発言した経緯がある。ファン離れが深刻な現在はオリックスグループの社員を数千人単位で動員したり、「大阪府民デー」では入場料を破格の値段に設定するなどの苦肉の策が行われている。
関連項目
- 神戸アスリートタウン構想
- ブルーサンダー打線
- ミックスモダン打線
- オリックス・バファローズの選手一覧
- 旧:ブルーウェーブ時代の選手一覧
- 旧:大阪近鉄バファローズ時代の選手一覧
- 中嶋聡(北海道日本ハムファイターズ)、高木晃次(千葉ロッテマリーンズ)-元阪急ブレーブス(およびオリックスブレーブス)所属の現役選手の2人
- 京都サンガF.C.
- ガンバ大阪
- 松下進