加藤秀司

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加藤 秀司(加藤 英司)
中日ドラゴンズ コーチ #75
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 静岡県榛原郡川崎町(現:牧之原市
生年月日 (1948-05-24) 1948年5月24日(69歳)
身長
体重
176 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 一塁手
プロ入り 1968年 ドラフト2位
初出場 1969年7月10日
最終出場 1987年10月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

加藤 秀司(かとう ひでじ、1948年5月24日 - )は、静岡県榛原郡川崎町(現:牧之原市)出身の元プロ野球選手内野手)、野球解説者、指導者。日本プロ野球名球会会員。通算犠牲フライで歴代2位の記録数を持つ。(野村克也に次ぐ105個)

来歴・人物[編集]

プロ入り前[編集]

PL学園高校では、2年生の時に控え一塁手として1965年第37回選抜高等学校野球大会に出場するが、準々決勝で高松商小坂敏彦投手に抑えられ敗退[1]。1年上のチームメートに福嶋久晃得津高宏長井繁夫がいた。翌1966年第38回選抜高等学校野球大会にも四番打者、一塁手として連続出場するが、1回戦で、この大会に優勝した中京商に敗れた[1]。高校同期にエースの加藤英治内野手野口善男がいる。
1966年のプロ野球ドラフト会議東映フライヤーズから4位指名を受けるが入団を拒否し、社会人野球松下電器に進む。1967年第38回都市対抗野球大会に出場。1967年のドラフト会議では南海ホークスから10位指名を受けるが再び入団を拒否。1968年第39回都市対抗野球大会では、同僚の福本豊岡田光雄とともに富士製鐵広畑の補強選手として出場し、四番打者として活躍。岡田と神部年男の好投もあって決勝に進出し、河合楽器を降しチームを優勝に導く[2]
1968年のドラフト会議阪急ブレーブスから2位指名を受け入団。この時の1位指名に山田久志、7位指名に福本豊と、後の名球会会員となる3人を獲得することとなった。

現役時代[編集]

プロ入り当時はまだチーム全員による合同自主トレの習慣があった頃だが、初日から阪急の選手達の練習量に圧倒され、「これについて行こうと思ったら体をゆわせて(=関西弁で「故障する、壊す」の意)しまう。あわてても仕方ない。1年じっくりやろう」と思うようになった[3]。また、守備も苦手で、松下電器時代の監督・仁木安が「阪急は加藤にどこを守らせるつもりだ?」と不思議がったという逸話がある[4]。本格的なデビューは福本、山田に比べて出遅れたが、2年目の終盤から少しずつ出場機会が増え始め、シーズン終了後の秋季キャンプで監督の西本幸雄に「来年からはスタメンで使うぞ」と打ち込みを課せられたことから「これからは徐々にやっていかないかんのかな」と意識するようになった[3]
3年目の1971年一塁手のレギュラーに定着。ヒザを深く曲げ、折り畳むように構える独特の打法で勝負強い打撃を買われ、1973年打率.337で首位打者を獲得。1975年は32本塁打、97打点打点王)で、パ・リーグMVPに選出される。この頃は3番加藤秀、4番長池徳士の打順が定番で、長池は「加藤はすごくチャンスに強くて、あいつがみんな走者を返してしまうので、そこで打つなよと言いたくなる時もあったよ」、「他の選手は普通にやってりゃ勝てると思ったけど、加藤だけは『負けたくない』と思わせる奴だった」とライバル意識を見せた一方で、「1番福本、2番大熊(忠義)、3番加藤、前にこれだけ揃っていると4番も楽。加藤のおかげで打点王取らせてもらった年もあった」と振り返っている[3]
一方、加藤は長池について「僕がホームラン25本くらいってときに長池さんは40本以上打っていた。10本差くらいまでならともかく、ここまで差がついちゃうともう勝負はできない。僕は芯に当てる自信はあったので、長池さんがホームランなら僕はヒットで勝負しようと思った。それがある意味ライバル意識だったかもしれない」と語っている[3]。長池同様、加藤も「恵まれた3番だった。福さんが塁に出て盗塁、大熊さんが進めて1アウト三塁って多かったので、重圧もあったけど結構楽しかった。」と優秀な1、2番コンビの存在に敬意を表している。実際、犠牲フライのリーグトップが6回(うち阪急時代に5回記録)もあり、加藤は歴代2位の105本の犠牲フライを記録している(1位は野村克也の113本だが、加藤の通算打席数は野村よりも4,000打席近く少ない)。長池が衰えてからは4番を打つことも多くなったが、「だからと言ってバッティングを変えたことはない」と語っている。
1976年には2年連続の打点王。守備の方でも1977年までダイヤモンドグラブ賞を3年連続で受賞した。1979年登録名加藤 英司に変更。同年は腰痛に苦しみながらPL学園高の後輩・新井宏昌(ホークス)との首位打者争いを制し、打率.364で2度目の首位打者、104打点で2度目の打点王の二冠を獲得。本塁打王も近鉄のチャーリー・マニエルと激しく争ったが、33本で並んでいた時に目の前で今井雄太郎がマニエルにまともに34号を打たれ、「消化試合なのに何やってんだ」とガックリきたという[3]。結局自己最多の35本塁打を記録したものの、37本塁打のマニエルに及ばず、三冠王は逃した。
長く阪急の中心打者として活躍するも、1982年に打率.235の成績に終わると、監督の上田利治による若手切り替え方針に則り、水谷実雄との交換トレードにより広島東洋カープに移籍した。広島では肝炎のため成績を残すことが出来ず、ドラフトで同じ一塁手でPL学園高の後輩でもある法政大小早川毅彦の2位指名もあり、1983年のシーズン終了後、福井保夫森脇浩司との交換で大原徹也と共に近鉄バファローズに移籍。1985年には指名打者として打率.286・26本塁打の成績を残した。
1986年読売ジャイアンツに金銭トレードにて移籍。5月10日の対広島戦で「全球団から本塁打」という記録を達成するものの、中畑清から一塁手の定位置を奪えずに代打での出場が目立ち、2,000本安打まで残り13安打にこぎ着けたものの、同年オフに自由契約となる。
1987年、阪急時代の監督であった西本が立教大学硬式野球部の後輩で当時ホークス監督の杉浦忠に仲介し、ホークスへ移籍。西暦と同数の1987安打で開幕という点も注目されつつ、5月7日の対阪急戦でかつての同僚・山田から本塁打を放ち、2,000本安打を達成。同年限りで現役引退。
プロ入りから長く在籍した阪急、その後の移籍先の近鉄、引退直前の南海という、当時の関西パ・リーグ3球団に現役選手として在籍した数少ない選手である(他には山崎慎太郎加藤伸一など年代は違ううえに阪急・南海は身売りした(とくにホークスはダイエーが親会社となって福岡に移転した)後ではあるが在籍し、山崎、加藤伸とも広島にも在籍した共通点もある。山崎は近鉄・ホークス・阪急の後身のオリックス。加藤伸はホークス・オリックス・近鉄に在籍)。移籍を繰り返した現役後半時代は、関西(阪急)→広島→関西(近鉄)→東京(巨人)→関西(ホークス)と関西を離れてはまた関西に戻ってくる、の連続だったために「渡り鳥生活」と呼ばれた。

引退後[編集]

1988年から1994年まで7年間フジテレビ関西テレビラジオ大阪野球解説者として活躍し、三菱ギャラントーナメントのリポーターも務めたことがある。1995年から1997年まで日本ハムファイターズ一軍打撃コーチを務め、小笠原道大を育てた[5]
2000年から[6]2003年途中までKBS京都テレビ[7]野球解説者。2003年は阪急の後継球団であるオリックス・ブルーウェーブの春季キャンプ臨時打撃コーチを務め、シーズン途中から同球団二軍のサーパス神戸監督へ就任(古巣復帰は1982年以来21年ぶり)し、2005年まで務め、坂口智隆嶋村一輝ら若手を指導した。
2006年よりJ SPORTS2007年よりサンテレビ[8]、2013年よりFOX SPORTSのそれぞれの野球解説者を務める(この頃より、活動名義も本名に戻している)[9]。その傍ら、2008年から[10]2009年まで[11]履正社医療スポーツ専門学校内で組織された社会人チーム・履正社学園硬式野球部のコーチを務めていた。2013年から2015年まで3年間は社会人野球・大阪ガスの臨時打撃コーチを務め、2015年11月13日中日ドラゴンズの一軍チーフ打撃兼野手総合コーチに就任[12]。教え子の嶋村が一軍打撃コーチ、小笠原が二軍監督に就任している。2017年には嶋村と共に二軍打撃コーチに異動した。

人物[編集]

愛称はコメディアン・加藤茶にちなんで「チャ[13]または「カトちゃん[14]。シーズンオフのクイズ番組(『アップダウンクイズ』阪急代表で出場)で全問不正解になった事から大阪球場南海応援団から『アホの坂田のテーマ』(坂田利夫)でよくヤジられていた。(現役最後の年は南海に所属)

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1969 阪急 9 9 8 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1 0 0 2 0 .125 .222 .125 .347
1970 35 74 69 10 23 6 2 4 45 13 2 0 0 1 4 0 0 8 1 .333 .365 .652 .917
1971 122 496 445 80 143 35 2 25 257 92 18 4 2 3 39 0 7 74 2 .321 .383 .578 .960
1972 118 428 362 59 105 25 2 13 173 54 11 4 1 6 55 6 4 43 3 .290 .384 .478 .862
1973 118 494 436 69 147 27 6 20 246 91 16 5 0 10 41 3 7 51 6 .337 .395 .564 .959
1974 120 476 428 65 138 25 2 19 224 75 24 11 2 7 37 1 2 55 7 .322 .373 .523 .897
1975 126 521 456 74 141 22 1 32 261 97 12 10 0 4 57 6 4 58 4 .309 .388 .572 .960
1976 120 497 430 68 129 20 3 28 239 82 8 3 0 9 51 6 7 68 7 .300 .376 .556 .932
1977 120 489 423 64 135 27 4 19 227 73 4 3 0 5 53 9 8 64 4 .319 .401 .537 .937
1978 120 500 427 65 109 16 4 24 205 86 7 3 0 10 55 6 8 80 6 .255 .344 .480 .824
1979 122 520 448 84 163 32 2 35 304 104 14 3 1 7 59 9 5 64 6 .364 .437 .679 1.116
1980 130 561 484 72 154 26 3 28 270 97 5 4 0 10 59 7 8 84 3 .318 .394 .558 .952
1981 127 534 468 63 147 25 2 17 227 79 4 3 0 8 54 3 4 67 5 .314 .384 .485 .869
1982 129 524 456 57 107 21 1 21 193 84 1 3 2 9 55 2 2 83 10 .235 .314 .423 .737
1983 広島 75 279 253 33 66 9 2 10 109 36 6 1 0 1 25 1 0 49 2 .261 .326 .431 .757
1984 近鉄 130 572 499 65 126 16 1 14 186 72 1 2 0 9 60 0 4 91 6 .253 .332 .373 .705
1985 129 523 455 73 130 24 0 26 232 78 2 3 0 3 64 2 1 58 9 .286 .373 .510 .883
1986 巨人 68 119 105 6 23 3 0 3 35 13 0 0 0 1 11 1 2 31 4 .219 .303 .333 .636
1987 南海 110 293 262 24 68 8 0 9 103 42 1 0 0 2 27 2 2 37 8 .260 .331 .393 .724
通算:19年 2028 7909 6914 1031 2055 367 37 347 3537 1268 136 62 8 105 807 64 75 1067 93 .297 .372 .512 .883
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

  • 首位打者:2回 (1973年、1979年)
  • 打点王:3回 (1975年 - 1976年、1979年)
  • 最高出塁率:3回 (1976年 - 1977年、1979年)
  • 最多安打(当時連盟表彰なし):1回 (1979年) ※1994年より表彰

表彰[編集]

記録[編集]

節目の記録
  • 100本塁打:1975年7月31日、対太平洋クラブライオンズ後期3回戦(阪急西宮球場)、8回裏に石井茂雄から3ラン ※史上83人目
  • 150本塁打:1977年5月29日、対近鉄バファローズ前期10回戦(島根県立浜山公園野球場)、5回裏に井本隆からソロ ※史上47人目
  • 1,000本安打:1978年5月23日、対日本ハムファイターズ7回戦(阪急西宮球場)、3回裏に高橋直樹から中前安打 ※史上109人目
  • 1,000試合出場:1978年9月8日、対日本ハムファイターズ後期10回戦(後楽園球場)、7番・一塁手で先発出場 ※史上204人目
  • 200本塁打:1979年5月31日、対日本ハムファイターズ前期8回戦(阪急西宮球場)、8回裏に川原昭二から右越ソロ ※史上29人目
  • 250本塁打:1981年5月31日、対近鉄バファローズ前期10回戦(藤井寺球場)、8回表に橘健治から中越同点2ラン ※史上18人目
  • 1,500本安打:1981年8月29日、対南海ホークス後期6回戦(阪急西宮球場)、5回裏に平沢隆好から投手前内野安打 ※史上42人目
  • 1,000打点:1982年7月6日、対近鉄バファローズ後期1回戦(阪急西宮球場)、1回裏に谷宏明から右中間へ2点適時二塁打
  • 1,500試合出場:1982年9月14日、対ロッテオリオンズ後期6回戦(宮城球場)、5番・一塁手で先発出場 ※史上73人目
  • 300本塁打:1984年6月9日、対南海ホークス10回戦(藤井寺球場)、9回裏に金城基泰から右越逆転サヨナラ満塁本塁打 ※史上16人目
  • 1,000得点:1985年10月17日、対ロッテオリオンズ26回戦(藤井寺球場)、1回裏に柳原隆弘の2ラン本塁打で生還 ※史上7人目
  • 2,000本安打:1987年5月7日、対阪急ブレーブス6回戦(大阪球場)、6回裏に山田久志から右中間へソロ ※史上23人目
  • 2,000試合出場:1987年8月30日、対近鉄バファローズ19回戦(大阪球場)、3番・一塁手で先発出場 ※史上23人目
その他の記録

背番号[編集]

  • 10 (1969年 - 1982年、1986年)
  • 6 (1983年)
  • 5 (1984年 - 1985年)
  • 7 (1987年)
  • 75 (1995年 - 1997年、2016年 - )
  • 85 (2003年 - 2005年)

登録名[編集]

  • 加藤 秀司 (かとう ひでじ、1969年 - 1978年)
  • 加藤 英司 (かとう ひでじ、1979年 - 1987年、1995年 - 1997年、2003年 - 2005年)

関連情報[編集]

出演番組[編集]

関連書籍[編集]

ディスコグラフィ[編集]

  • ああ王者(1976年、東宝レコード) - 山口高志山田久志大熊忠義と合唱。 ※1999年バップから発売のアルバムCD『野球小僧 懐かしの野球ソングコレクション』にも第10トラックに収録。

脚注[編集]

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  1. ^ a b 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  2. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  3. ^ a b c d e 『阪急ブレーブス黄金の歴史 よみがえる勇者の記憶』ベースボール・マガジン社
  4. ^ 『豪打列伝2』Sports Graphic Number編(文春文庫ビジュアル版)
  5. ^ 【中日】加藤氏がチーフ打撃野手総合コーチに就任 スポーツ報知2015年11月13日配信
  6. ^ 『12球団全選手カラー百科名鑑2000』(『ホームラン』2000年3月号増刊)より、「久々の復活!」との記述あり。
  7. ^ 2000年から2003年の『12球団全選手カラー百科名鑑』シリーズに加藤のプロフィールを掲載する際、局名については「京都テレビ」表記で紹介された。
  8. ^ 参考:過去の『サンテレビボックス席』公式サイト内出演者リスト(リンク先は、インターネット・アーカイブの保存キャッシュ)
  9. ^ なお、しばらくはプロ野球名鑑に掲載される解説者リスト・名鑑で、加藤の名が明記されることはなかった(参考:『12球団全選手カラー百科名鑑』2006年・2007年・2008年版、『プロ野球選手カラー名鑑2007』)。2010年頃より、サンテレビ解説者として明記されるようになっている。「加藤英司」と明記される名鑑もある(『別冊宝島 プロ野球選手データ名鑑2013』)。
  10. ^ チーム情報 2008年 登録・変更情報(日本野球連盟公式サイト内)より、5月8日のプロ退団者登録一覧を参照。「加藤英司」の名が明記。
  11. ^ 参考外部リンク(2009年当時の履正社学園硬式野球部ウェブサイト内メンバーリスト):
    • 6月当時のページ(インターネット・アーカイブ2009年6月28日付保存キャッシュ) ※加藤の名が掲載された最後の版(リンク先は「加藤秀司」表記)。
    • 7月当時のページ(インターネット・アーカイブ2009年7月27日付保存キャッシュ) ※加藤の名が削除された最初の版。
  12. ^ 中日加藤秀司コーチ就任会見「この年で…びっくり」 日刊スポーツ2015年11月13日配信
  13. ^ 参考:【5月7日】1987年(昭62) 渡り歩いて5球団…加藤英司、古巣の同期から2000本安打 - スポニチ Sponichi Annex 日めくりプロ野球09年5月(2009年5月配信のウェブ記事)
  14. ^ 『日本プロ野球50年史』(1984年12月、ベースボール・マガジン社発行。ISBN 4583024568)に掲載された、加藤の紹介記事より。

参考資料[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]