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天本英世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
天本あまもと 英世ひでよ
天本(あまもと) 英世(ひでよ)
ヒッチコック・マガジン』1961年5月増刊号(宝石社)
本名 天本 英世
別名義 天本あまもと 英世えいせい
生年月日 (1926-01-02) 1926年1月2日
没年月日 (2003-03-23) 2003年3月23日(77歳没)
出生地 日本の旗 日本・福岡県若松市(当時)
死没地 同上
身長 180cm
職業 俳優
ジャンル
活動期間 1954年 - 2003年
配偶者 なし
主な作品

テレビドラマ


備考
  • 体重は65kg
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天本 英世あまもと ひでよ[1]1926年〈大正15年〉1月2日[出典 1] - 2003年〈平成15年〉3月23日[1][3])は、日本の俳優。「あまもと えいせい」の通称もある[出典 2]。福岡県若松市(当時)出身。本籍は佐賀県鳥栖市[6]。身長は180cm、体重は65kgであった。

来歴

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福岡県若松市で住友石炭鉱業で働く父を持ち、裕福な家庭に生まれた[7]。1943年(昭和18年)に旧制若松中学校を卒業し、翌1944年に旧制第七高等学校に進学した。1945年に19歳で学徒出陣で兵役に召集され、5月に久留米の野砲隊(大砲係)に入隊、その後通信兵として宮崎県に送られた[7]。しかし、営内では上官に対抗し、その度に鉄拳制裁を受けた。この経験が自身の反骨志向を育む。

1948年に東京大学法学部政治学科に入学する。大学では国際政治学を専攻し、当初は外交官を目指していたが、当時の政府の政治姿勢に失望し、文学や演劇に没頭するようになった。また、11歳年上の女性との失恋のショックも相まって[7]その後、東京大学を中退して劇団俳優座に所属する[2][1]。その後は俳優座スタジオ劇団同人会[8]劇団四季などに所属[9]。1954年に28歳でオペラ『オテロ』において初舞台を踏む。同年に松竹と契約し[9]、『女の園』と『二十四の瞳』で映画に初出演する[2][1]。当時は180センチメートルで細身の美男子だったため、しばらくは二枚目俳優として売り出された[7]。『女の園』は、木下恵介監督から哲学者みたいな顔つきを気に入られたことで、哲学の講師役での出演が決まった[7]。『二十四の瞳』では高峰秀子の夫役に抜擢されたが、セリフ覚えが上手くいかず本人の中では大失敗に終わったという[7]。また当初、天本の役は明石潮が演じる予定だった。

1958年に東宝と専属契約を結ぶ[9]。以後、アクション映画特撮映画などで個性的な脇役として活躍し[1]、また人間離れした悪役殺し屋などを数多く演じた[7]。特に岡本喜八が監督を手掛けた作品にはその大半に出演し[2][1]、中でも1967年の映画『殺人狂時代』の精神科医・溝呂木博士役が好評を得た[7]。実年齢より上の老け役も多く、監督の本多猪四郎は天本は若いころから雰囲気が変わらない旨を述懐している[4]

私生活では20代からファルーカ(スペイン音楽の一種)とフラメンコを端緒としてスペイン語を独学で身につけ[7]スペインに深く傾倒していく(趣味のスペインについて詳しくは後述)。

1970年代からはテレビドラマに活躍の比重を移し、主に不気味な存在感を放つ悪役として活躍する。1972年に毎日放送仮面ライダー』で死神博士を演じ、悪役ながら人気を博した[2][1]

1991年(平成3年)からフジテレビたけし・逸見の平成教育委員会』に「東大出身」の解答者としてレギュラー出演し、一般的な知名度を一気に高めた。

2003年3月23日に急性肺炎により故郷の福岡県北九州市若松区にて逝去、77歳没。カトリック教会の信徒であったため、地元にあるカトリック教会で葬儀が行われた。その後行われた天本の追悼公演には、佐々木剛辰巳琢郎黒部進らが参加した[7]。2005年10月25日に遺灰がスペイン・アンダルシア州グアダルキビール川源流に散骨された[10]

人物・エピソード

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20代の頃にカントパスカルニーチェなどの哲学書を読み漁り、“自分は何のために生きているのか”を考えるようになった[7]。また、“明日のことは考えず、今日を必死に生きる”という哲学は、大好きなスペインから学んだ[7]

自由主義者・無政府主義者で[1]、現代の日本に生きる人々に対して急進主義的視点から苦言を呈していた。「国家というものが大嫌い」と述べ、スペインへの移住を熱望し、2000年に発表した著書『日本人への遺書(メメント)』(徳間書店)においても「こんな呆け国家で死にたくない」と記していた。

天皇制昭和天皇戦争責任を不問にしようとする勢力(菊タブーを守ろうとする風潮、自民党政権、文部省)を批判して「テレビの収録で言及すると、その部分は全てカットされる。こういう事をしている限り日本人はいつまでたっても自立できない」と述べている[11]。また学徒出陣の経験は言葉に言い表せないほどのショックを受け、戦後になっても、戦争を賛美するような内容の映画には、依頼を受けても絶対に出演しないという姿勢を貫いた[注釈 1]。長身に対するねたみのために将校にいじめられ、軍が嫌いになり、その延長として左翼的になったという。

渋谷区の一戸建てで約30年間一人暮らしをしていたが、家にこだわりがなく修繕をしなかったため、徐々に雨漏りがひどくなり住めなくなった[7]。このため60代後半から世田谷公園で寝泊まりし、昼間は近くのジョナサン三軒茶屋店で過ごすようになった。このため、天本に仕事を依頼する時は仕事関係者が同店に電話をかけて取り次いでもらっていた[7][注釈 2]

天本とは年齢の離れた親友であったという二瓶正也は、東宝の美術や衣装の人間らが天本の自宅や衣服の修繕を行っていたと証言している[12]

普段着にスカルキャップ・ブーツ・マントを愛用し、その姿のままで出演したドラマも多い。岡本喜八とは風貌が似ており、ロケ先で子供たちから「死神博士が2人いる!」とよく言われ、岡本は機嫌が悪かったという。

趣味は野球観戦[13]

9代目松本幸四郎(初演当時は6代目市川染五郎、現在の2代目松本白鸚)が主演を務める舞台『ラ・マンチャの男』は、当初は天本が主演を務める予定であったが、東宝の判断で人気のある6代目市川染五郎に変更された[12]

日本テレビ星雲仮面マシンマン』出演時に読売新聞のインタビュー[要文献特定詳細情報]に答えたコメントの中で、ロケに同行する過保護な子役の母親たちを批判し、「もっと子供は普段から自由に遊ばせるべきだ」と主張していて、子供好きな面をのぞかせている。また「女はめんどくさい」、「今は毎朝、“死”について考えています」などと語っていた。『星雲仮面マシンマン』については雑誌『季刊 宇宙船』のインタビュー[要文献特定詳細情報]で「子供番組なのにスタッフが子供を大事にしない」と、当時の撮影現場を批判している。

先述の大学時代に失恋した11歳年上の女性のことを思い続け、生涯独身を貫き、気ままな放浪生活と散歩を楽しんだ[7]。映画監督の金子修介によると、天本は結婚に関して「自分は特別変な人間ではないと思うけど、たまたま結婚する機会や縁がなかった」とも語っていた[7]

スペイン愛好

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天本のスペイン趣味は1967年に出演した映画『殺人狂時代』にも表れている。天本が演じる溝呂木博士と仲代達矢が演じる桔梗信治との決闘シーンは、互いの左手首を縛って右手のナイフだけで戦うという「スペイン式決闘」で行われ、BGMには天本がレコードを持ち込んだファルーカが用いられた。作中では旧制高校仕込みと自称するドイツ語の会話もこなした。

1968年に公開された映画『クレージーメキシコ大作戦』(東宝 / 渡辺プロ)では山賊の頭領役で出演して、現地人はだしの流暢なスペイン語の台詞を披露している。

1979年3月から7ヶ月間にわたりスペインを旅行し[2][注釈 3]、その旅行記を1980年に『スペイン巡礼:スペイン全土を廻る』(話の特集)という著書として発表する。1982年には『スペイン巡礼』の追想記および後日譚となる『スペイン回想:『スペイン巡礼』を補遺する』(話の特集)という著書を発表した。

俳優としての活動と並行して、フラメンコ・ギターの伴奏や舞踊家によるフラメンコ舞踊を付けた編成で原詩と日本語訳との両方でフェデリコ・ガルシーア・ロルカの詩を朗誦する活動を行っていた[注釈 4]。その他にも、旅行社と協力してスペイン方面へのツアーを計画してそれを引率することもあった。

スペインには生涯で20回ほど訪れ、各地を放浪しては流暢なスペイン語で現地の人々と会話して親しくなった[7]。また、スペイン民俗音楽に関しては日本で屈指のレコード・コレクションを持つ存在として知られていた[2]。本人が生前にスペインにて収集したレコードや帽子・杖・皿を含めた工芸品など約5千点余のコレクション[7]は、現在は本人の没後に郷里である北九州市若松区にて設立された「天本英世記念館をつくる会」の有志たちによって保存・管理されている[14]

1984年には日本テレビ『星雲仮面マシンマン』で敵役「プロフェッサーK」を演じる。この役も天本のスペイン趣味が前面に出た役柄で、衣装は天本の自前によるものだった。また「Kがスペインで撮った」という設定で劇中に登場する写真も、天本が実際にスペイン旅行中に撮ったものだった。そのスペインに対する熱情のあまり、予定していたスペイン旅行の日程が撮影と重なったことを理由に、番組を途中で一時降板したほどである[注釈 5]

2001年に公開された映画『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』でも、天本が演じる伊佐山教授の衣装の多くで本人がスペインにて購入した自前のものが使用されている[7]

2002年には『Spanish Red / The world of HIDEYO AMAMOTO 天本英世の世界』(カエルカフェ)という、自身にとって最初で最後となるアルバムを発表する。本人がスペイン人と日本人について思うところを歯に衣着せずに一気に語り、その途中で「ロルカ13のスペイン古謡」[注釈 6]全13曲の中から、『セビージャの古いナナ(子守唄)』[注釈 7]など6曲の無伴奏による歌唱と各曲解説を披露するという内容だった。

自身の著書『日本人への遺言(メメント)』では「私は、スペインで死にたい。20回も訪ねて歩きまわった大好きなスペインで死にたい」と記していたが、それは叶わなかった。先述の通り、本人の生前の意志に基づいて、2005年10月25日に遺族および日本とスペインの友人たちの手によって、スペインのグワダルキビール川源流に遺灰が散骨されている。

死神博士に関するエピソード

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『仮面ライダー』で天本が演じた死神博士仮面ライダーシリーズに登場する悪役の中でも屈指の人気を誇る。天本は、設定から神秘性・怪奇性を強調した大人向けの芝居を行っていたが、怖すぎるとして、演技を子供向けに抑えるよう注文されたという[16]。この役で用いた小道具の指揮棒は、本人がエジプトに旅行した際に購入したもので、「こういう役が多いもので」買い求めておいたものだそうである[16]

晩年の発言の一部から、死神博士の役を嫌っていたかのように誤解されることがあるが、天本が嫌っていたのは、死神博士のことばかりことさらに強調する一部のファンやマスコミであり、死神博士の役そのものを否定したことはない。子供のファンから請われれば喜んで「死神博士」と似顔絵入りでサインしていたことや、仮面ライダー関連の公式なキャストインタビューには真摯に応じて、衣装や演技のことなどを語っていたのがその証だが、成人後も子供向け特撮番組だけに熱中するオタクには「世の中にはもっと大切なものがある」と厳しい態度を取っていた。

NHKまんがで読む古典雨月物語』に上田秋成役で出演した際、「わしも昔死神博士として、ショッカーという妖怪軍団を率いておった」という台詞を述べたこともあり[出典無効]、晩年には新宿駅の地下街で本人とすれ違ったファンが思わず「あ、死神博士だ」と呟いたところ、天本は「左様」と答えて去っていったというエピソードもある。

2005年に公開された『仮面ライダー THE FIRST』では、『仮面ライダー』で使用された死神博士の映像に丸山詠二が新たに声を当て、デジタル出演という形で登場している[1]

『平成教育委員会』に関するエピソード

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フジテレビ『たけし・逸見の平成教育委員会』の生徒役(解答者)としてレギュラーで出演し、放映開始から1993年3月の「卒業」までほぼ皆勤であった[注釈 8]国語に関してはずば抜けた好成績を修めていた反面、理数系の問題ではほとんど正解できず、算数の問題になると時に問題文を読むことを放棄し、解答する気がないような態度を示すほどに苦手としていた。国語が得意ということで文学部出身と間違われることも多く、法学部出身の経歴を意外がられることもあった。先生役の北野武が遂に「天本君は算数の問題があと1問でも正解したら、海外留学を差し上げます!」と断言。リーチがかかっていた「たけし落とし」を完成させ、世界一周留学の旅を獲得した。

国語の授業において、「二文字熟語をつくる」というもので「芸文」と解答したが、はじめ正解とされなかった。そこで「『芸文』ってあるんですよ!」と反論し、逸見政孝に辞書を引かせた結果、掲載があったため正解となったことがある。また、出題者側が「あられもない」という解答を想定していた問題で「しどけない」と解答し、一旦不正解となるが、やはり辞書での確認を求め、同義語であることが確認されて正解となったこともある。ほかにも、読み方を答える設問で「模る=かたどる」「具に=つぶさに」と正解を出した唯一の回答者でもあり、スタジオを沸かせた。

番組のオープニングで、勉強小僧が「今日の生徒〜」と出席生徒をテロップ入りで紹介する際、渡嘉敷勝男が「わたしゃもう少し背がほしい」とテロップで紹介された後に、天本が「半分やるから家をくれ」と紹介されたこともあった。他にはうじきつよしが「軽音楽部の部長」と紹介された後、天本が「謎の帰宅部」と紹介されたこともあった[注釈 9]

平成教育テレビ』でも番組の大部分に出演したが、「先生というのは、『自分は馬鹿です』と言っているようなもの」とつい本音を言ってしまい、北野や逸見、ほかの共演者を慌てさせている。また、一度「卒業」で番組を降板するも、後に卒業生枠ができて1期生も再び番組出演するようになると、天本も番組に登場して笑顔で点呼に応えていた。

しかし、1993年12月に逸見が死没したのをきっかけに心境が一変した。逸見の緊急追悼番組にゲスト出演し、「自分の方が生き残ってしまった」、「人間は年老いた者から順番に死んでいくものなのに、逸見さんはあまりにも早過ぎた」ことや「日本人はいかんですね。国から会社から社会から、全てが狂ってますね。忙しいことがいいことなんて、とんでもない間違いです。芸能人でも毎日多忙なのが良い俳優・タレントだなんて、あまりにも馬鹿げてますよ。自分自身のことをもっと考えなきゃね。会社のためとか国のためとかそんなもの絶対ダメですよ。『平成教育委員会』なんか春に越真一プロデューサー[注釈 10]が32歳で自殺したんですからね。(逸見を入れると)これで2人目ですよ。僕は今後あんなもの(『平成教育委員会』)にケラケラ笑って出たくないです。『仕事が趣味』と言うのは可笑しいです。やっぱり体調が悪ければ、断らなきゃダメなんですよ」等と終始憤慨しながら発言。天本は言葉通り、以降『平成教育委員会』には一切出演しないまま、上記の2003年3月23日にこの世を去った。

天本英世をモデルとしたキャラクター

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『仮面ライダー』の死神博士役を演じたことから、特撮ファンである漫画家や小説家の作品の中に、親愛と敬意を込めて自作品に天本をモデルとしたと思われるキャラクターが登場している例がある。

天本本人も自身がモデルとなったこのキャラクターを知っており、後に『たけし・逸見の平成教育委員会』にレギュラー出演していた際は、毒島と同じデザインの衣装に竹箒を持って登場していた。

また、矢作俊彦はシナリオライター時代にFM番組で何度も天本を起用し、小説家としてもデビュー当時から天本をモデルとするキャラクターを作品に登場させてきた。1997年に発表された『あ・じゃ・ぱん』では「降矢木残轍」こと東大名誉教授「溝呂木省吾」という人物を登場させている。天本の死去の際には一晩泣き明かし、締め切りを3つ落としたと言われる。

旧制第七高等学校野球部を題材とした映画『北辰斜にさすところ』(神山征二郎監督、2007年公開)では、作中の現代(2002年)においてスペイン・アンダルシアに暮らす野球部OB「天本英人」という人物が登場する。

出演

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映画

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テレビドラマ

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劇場アニメ

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ゲーム

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WEBドラマ

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ラジオドラマ

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バラエティ

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CM

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その他

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著書

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  • 『スペイン巡礼 : スペイン全土を廻る』(話の特集、1980年) ISBN 482640039X
  • 『スペイン回想 : 『スペイン巡礼』を補遺する』(話の特集、1982年) ISBN 4826400594
  • 『天本君、吠える! : 元気と勇気が湧いてくる本』(ベストセラーズ、1993年)ISBN 4584008450
  • 『日本人への遺書(メメント)』(徳間書店、2000年) ISBN 4198611246

CD

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  • 『Spanish Red / The world of HIDEYO AMAMOTO 天本英世の世界』(カエルカフェ、2002年)

脚注

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注釈

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  1. ^ これはあくまで「作品のスタンス」であり、岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』では、日本の降伏に反発して鈴木貫太郎首相邸を襲撃する狂信的な軍人(横浜警備隊の佐々木武雄大尉)役を演じている。
  2. ^ 一方では、借家が雨漏りして住めなくなって困っていたところ、空き家になっていたクリーニング店の2階を無料で提供され、そこで寝泊りしていた。無料なので遠慮して、昼間で仕事の無い時は公園などで時間を潰していた。この住居には電話も引いていなかったため、仕事の依頼などは近くのあるファミリーレストランに取り次いでもらっていた。その関係もあって天本はそのファミリーレストランに頻繁に来店し、付近の住民にも親しまれていた、とする説もある[要出典]
  3. ^ スペイン国内を周った後に、半月間にわたって南フランスパリへと旅行したため、実際の旅行期間は7ヶ月半となった。なお、スペイン国内を周る中途においてモロッコポルトガルアンドラ公国へも足を運んでいる。
  4. ^ 1980年後半から1981年にかけての時期には、自身の著書『スペイン巡礼』発表の反響により、テレビ朝日徹子の部屋』やNHK総合ばらえてい テレビファソラシド』などのテレビ番組に出演し、フラメンコ・ギターの伴奏者やフラメンコの舞踊家を付けた編成でロルカの詩の朗誦を披露した。これらの出演に関しては『スペイン回想』における「テレビ出演あれこれ」という章にて詳細が記述されている。
  5. ^ 『星雲仮面マシンマン』の劇中においても、天本のスペイン渡航に話を合わせるような形で、本人が番組を休業する直前となる第17話にて、プロフェッサーKが自身の腹心である鉄人モンスをマシンマンとの戦闘で失ったことによる傷心を癒すために、日本を離れて南スペインの港町へ旅に出るという展開となった。天本は第33話において作中に復帰している。
  6. ^ ロルカがスペイン各地で採集した民謡に、不明部分の歌詞と旋律をロルカ自身が補作した上でピアノの伴奏用に編曲したもので、フィールドワークによりロルカは実際には何百曲という民謡を採集したと言われるものの、現在までにロルカ自身が採譜した形で楽譜として残されているのは13曲のみで、それらが「ロルカのスペイン古謡」や「13のスペイン古謡」などと総称されている[15]。天本は『スペイン回想』においても「「ロルカの13の民謡」とは……」という章でこれら13曲に関しての詳細な解説を行っている。
  7. ^ 日本では一般的に『セビーリャの子守歌』という曲名で表記されることが多いが、本作では“Nana de Sevilla”という原曲名を基に『セビージャの古いナナ(子守唄)』という曲名が用いられている。
  8. ^ 1992年のOA冒頭で、トイレから帰ってくるのに手間取り「遅刻」扱いになっている。
  9. ^ レギュラー時には、天本が最後に紹介されることが多く、いわゆる『オチ』に使われることが多かった。
  10. ^ 『平成教育委員会』の初代プロデューサー。
  11. ^ ノンクレジット。
  12. ^ クレジットには「天本英生」と表記されている。
  13. ^ 『仮面ライダー』の死神博士の映像を流用したもの。声は丸山詠二による吹き替え。
  14. ^ クレジットでは「関西系の男」と表示。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j 仮面ライダー怪人大画報 2016, pp. 176–177, 「仮面ライダー スタッフ・キャスト人名録 2016年版」
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 東宝特撮映画全史 1983, p. 527, 「怪獣・SF映画俳優名鑑」
  3. ^ a b c d e f g 野村宏平、冬門稔弐「1月2日 / 1月3日」『ゴジラ365日』洋泉社映画秘宝COLLECTION〉、2016年11月23日、12頁。ISBN 978-4-8003-1074-3 
  4. ^ a b 「本多猪四郎監督 長編インタビュー(3)」『海底軍艦/妖星ゴラス/宇宙大怪獣ドゴラ』東宝出版事業室〈東宝SF特撮映画シリーズ VOL.4〉、1985年8月1日、201、206頁。ISBN 4-924609-13-7 
  5. ^ a b c d e f g ゴジラ大百科 1993, p. 114, 構成・文 岩田雅幸「決定保存版 怪獣映画の名優名鑑」
  6. ^ 長田渚左『フェロモンな男たち 長田渚左のトークフェスタ』アリアドネ企画、1995年、172頁。ISBN 4384022573 
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 週刊現代2022年7月23日・30日号「脇役稼業」第13回・天本英世「天才、そして怪人」p25-32
  8. ^ 尾崎宏次『新劇の足音』東京創元社、1956年、196頁。 
  9. ^ a b c 『タレント名鑑NO2』芸能春秋社、1964年、7頁。 
  10. ^ 天本英世記念館をつくる会 /「天本英世とスペイン」
  11. ^ インタビュー第7回 昨日も明日もない。あるのは今日だけ。(考える高校生のためのサイト「マンモTV」) - ウェブアーカイブ(web.archive.org、2017年2月3日)
  12. ^ a b 「Pickup Interview 二瓶正也」『円谷プロSFドラマ大図鑑』洋泉社〈洋泉社MOOK 別冊映画秘宝〉、2013年、52-53頁。ISBN 978-4-8003-0209-0 
  13. ^ 竹書房/イオン 編「奇優 天本英世」『超人画報 国産架空ヒーロー40年の歩み』竹書房、1995年11月30日、171頁。ISBN 4-88475-874-9。C0076。 
  14. ^ 天本英世記念館をつくる会 /「記念館をつくる会とは」
  15. ^ スペイン情報誌 acueducto 「ガルシア・ロルカと音楽 その3」下山静香 2017年2月
  16. ^ a b 仮面ライダー大全集 1986, p. 235, 「仮面ライダーSTAFF CASTインタビュー 天本英世」
  17. ^ 東宝特撮映画大全集 2012, p. 39, 「『日本誕生』作品解説/俳優名鑑」
  18. ^ a b c d e 東宝特撮映画全史 1983, pp. 536–537, 「主要特撮作品配役リスト」
  19. ^ 東宝特撮映画大全集 2012, p. 83, 「『宇宙大怪獣ドゴラ』作品解説/俳優名鑑」
  20. ^ 東宝特撮映画大全集 2012, p. 87, 「『三大怪獣 地球最大の決戦』作品解説/俳優名鑑」
  21. ^ 東宝特撮映画大全集 2012, p. 273, 「『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』作品解説/俳優名鑑」
  22. ^ 東宝特撮映画大全集 2012, p. 91, 「『怪談』作品解説/俳優名鑑」

出典(リンク)

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参考文献

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関連項目

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外部リンク

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